箱根山中

 一人の男が山中をさまよっていた。途中で転んだのか、体のあちこちに擦り傷、引っ掻き傷が付いている。そして、右手には拳銃。
「はあ…はあ…」
 息が荒い。何かに追われているのか、時折後ろを振り返り、追手の有無を確認する。しばらくして、背後から迫る者がいないことを確認した彼は、糸が切れたように一本の大木の影に座り込んだ。
「はあ…はあ…くそ…残ったのは、俺一人か…?」
 苛だたしげに呟く。この忌々しい町に潜入した時、彼は6人の仲間を連れていた。だが、追っ手との戦いで仲間は次々に倒され、残るはついに彼一人。相手は恐ろしいほどの手練れ揃いだった。
「まあ、ここまで来れば後少しで市外…どうにか逃げ切れるな」
 市街の外には支援チームが待っている。そこまで戻れば、とりあえず生き延びられる。だが、立ち上がり、慎重に歩き出した彼が待機ポイントで見たものは、支援チームの連中ではなく、そこにいるはずの無い一人の男だった。
「よう、遅かったじゃないか」
 男は言った。後ろで髪をくくり、無精ひげの手入れもしていないその男は、見た目にはそれほど恐ろしい容姿ではない。だが、男が発する無形の威圧感は、確実に彼を縛っていた。
「…ここにいた連中はどうした?」
 彼はかろうじて言葉を紡ぎ出した。
「さあね」
 男はあっさり答えた。しかし、誤魔化す必要はなかった。風に乗ってかすかに漂う血と硝煙の臭いが全てを物語っていた。
「…」
 彼は男の風体を見た。自動小銃や短機関銃などの武器は持っていない。ホルスターに納められた拳銃だけの姿だ。
(勝てる)
 相手が武器を手にしていないことから、彼は勝負に出た。右手に持ったままの拳銃を一挙動で構え、引き金を引く――
 はずだった。
 その瞬間、男の右手に魔法のように現れたブローニング・ハイパワーが立て続けに銃弾を叩き出し、彼の眉間と心臓を貫いた。男が銃をホルスターに戻すと同時に、彼の体は死の舞踏を踊るように回転しながら、自らの身体から吹き出した血だまりに崩れ落ちた。その顔には、勝利を確信した者だけが浮かべる笑いが張り付いたままだった。
「こちらアルファ・リーダー。ポイント1−5でウィーゼルを4体キル。そちらは?」
『ベータ・リーダー。ポイント3−8でウィーゼル5体をキル』
「よし、片付いたな。撤収する」
『了解』
 男――加持は通信を切ると、自分が敗れたことすら知らずに死んだ男を見下ろして言った。
「…悪く思うなよ。怨むなら、お前をここに派遣した『ゼーレ』の連中にしてくれ」
 そのまま振り返ると、二、三歩進んで、ふと気づく。
「…と言っても無理か。こいつらは自分の本当の雇い主のことなんか知らないだろうからな」


某所

「…潜入に失敗しただと?」
 部下の報告に、不機嫌そうに応じたのは「ゼーレ」英代表だった。
「は。本部どころか市街地潜入以前に山中で捕捉され、全滅した模様です」
「…わかった。下がって良い」
 部下が出ていくと、英代表はいらいらしたように葉巻を乱暴に灰皿に押し付けて揉み潰し、独白した。
「冬月め…査問会出席を拒否しただけでは飽きたらんか。やはり、血族ではない彼奴に権限を与えるのではなかったわ」
 かつて日本にNERV本部が設立された際に、そのトップにはゲンドウが就任するはずだった。だが、ゲンドウはあえて一歩引き、師である冬月を司令に推挙した。
 目的達成後、全ての暗部を背負って崩壊させられる運命にある組織の長に「血族」以外の人間を据えるのは、血の結束を守るためには有効と判断され、冬月の司令就任は許可された。
 だが、操り人形とばかり思っていた冬月の示す思わぬ強靭な姿勢に、シナリオは狂わされ、先の展望は読めなくなってきている。
「だが、キール議長の懸念どおり、六分儀…奴も裏切り者だと言うことははっきりした。鳴らない鈴…もはや無用と言うことだな」
 英代表は独白した。六分儀ゲンドウこそが冬月の目付け役「鈴」であり、NERVがシナリオどおりに動く様監視するはずだった「血族」の一員。だが、彼は自派閥に組み込んでいたはずの保安部を用いて、「ゼーレ」への叛意を明白にしつつある日本本部を抑えるどころか、積極的にこちらと戦おうとしている。彼の叛意もまた明白だった。
 だが、「ゼーレ」がゲンドウの叛意に気づくのは遅すぎた。
 なぜなら…


新世紀エヴァンゲリオンREPLACE
第弐拾壱話「NERV、誕生」


第三新東京市中央病院 NERV専用病棟

   開け放たれた窓から、芦ノ湖の湖面を渡ってきたさわやかな風が吹き込む。窓の外に広がる蒼い水面を、レイとゲンドウの2人はじっと見つめていた。
「…お父さん」
 レイはゲンドウを父と呼んだ。まだ慣れない、ぎこちない呼びかけ。
「なんだ?レイ」
 ゲンドウも、娘を名前で呼んだ。やはり、まだぎこちない。
「わたし、エヴァの中でお母さんに会いました」
 父とわかっていながら、話しかける言葉には、まだ他人行儀な硬さが残っている。
「そうか…」
 ゲンドウは頷いた。
「ユイは…何を言っていた?」
「具体的なことは何も…わからないことは全部、お父さんに聞けと…」
「そうか」
 レイの答えに、ゲンドウは頷いた。レイは言葉を続ける。
「教えて…お父さん。お母さんとの間に一体何があったのか。お父さんが南極で何を見たのか…何もかも、隠さずに」
 レイの言葉にゲンドウは頷いた。
「そうだな。お前には全てを知る権利がある。長い話になるが…聞いてくれ」


1999年 京都大学

 生物学研究棟の廊下を、白衣を羽織った男が歩いていた。当時のゲンドウである。今の彼の印象を決定付ける顎鬚はまだ生やしていない。
 その彼に、同僚の助手達が声を掛ける。
「よお、六分儀。たまには一杯飲りに行かないか?」
 だが、ゲンドウは愛想のかけらも無い声で拒絶した。
「悪いが…まだ研究が残っている。失礼」
 思わず鼻白んだ研究員に、連れたちが口々に言う。
「よしとけよ…あいつは俺達とは違う人種なんだ」
「冬月博士の一番弟子にして、同じく赤木博士の娘さんを嫁に貰っている、生物学界のホープだからな」
「日本生物学会が誇る『東方の三賢者』のうち2人と関係があるのか」
「そんなコネ野郎と飲んだら酒が不味くなる。行こう行こう」

「…そうした悪評を知らなかった訳ではない。だが、当時の私は学会で名を挙げること、学会の頂点に立つこと、そればかりを考えていた。その為には小人に関わる暇はなかった。ナオコ…妻と結婚したのも、欲しかったのは赤木博士とのコネだ。子供こそ2人産まれてはいたものの、ナオコへの愛情などかけらも無かった。正直言って、当時の私の第一印象は『嫌な奴』…そんなところだったと思う」

 ゲンドウも講義を持っていた。あくまでも義務の範囲内だったので、内容はゲンドウとしてはかなり適当だった。が、逆に余計なことを交えず、淡々と話す彼の講義は「わかりやすい」と評判になった。その一方で「いるだけで単位が貰える」というものもあったが。そのため、彼の講義には熱心な者とそうでない者、多くの学生が集まるようになった。
 そんなある日、彼の元に一本の電話が掛かってきた。
「はい、こちら生物学部室…はい?はあ、六分儀は私ですが。ええ…身元引受人?私が?…わかりました、今行きます」
 電話を置いたゲンドウに、冬月が不思議そうな表情で問い掛けた。
「どうしたんだ、六分儀」
 ゲンドウは彼にしては珍しく困惑した表情で応えた。
「それが…うちの学生が警察の厄介になって、身元引受人に私を指名してきたとか」
「何?」
 冬月もなんだそれは、と言いたげな顔で首を傾げる。
「ともかく、行ってきます」
 そう言ってゲンドウはキャンパスを後にした。


京都府警

「ご苦労様でした」
 警官が連れてきた人物をゲンドウに引き渡して敬礼する。ゲンドウは軽く会釈し、彼を身元引受人に指名した人物を伴って歩き出した。夜の街で絡んできた酔漢を投げ飛ばして捕まったらしい。その人物は意外なことに女性――しかも、かなりの美女だった。
「…確か、綾波ユイ君だったな。私の講義を取っている」
 ゲンドウが言うと、は顔を上げて微笑んだ。
「覚えていていただけたんですか。嬉しいです」
「君のレポートはなかなか見所があった…だからだ」
 嬉しそうなユイにゲンドウは無愛想に言うと、彼女の顔を正面から見据えた。
「何故、私を呼んだ?両親やもっとふさわしい人間が誰かいるだろう」
 すると、ユイは寂しそうな口調でぼつりと言った。
「…いないんです。家族は誰も…みんな死んでしまいました」
 驚いたようにゲンドウはユイの顔を見た。
「身元引受人と聞いた時に…咄嗟に先生の顔が思い浮かんだんです。ご迷惑かけて、申し訳有りませんでした」
「いや…良いんだ」
 悪いことを聞いてしまった、と思ったゲンドウだったが、気にしていないかのようにユイは快活に話をし始めた。ゲンドウは思わず彼女の話に引き込まれてしまい、気がついた時には既に大学まで戻ってきてしまっていた。

「…それが、私とユイの出会いだった。正直言って、『変な女だ』というのが最初の印象だった。しかし、気がついてみると、私があんなに人の話を聞いたのは初めてだったような気がする」


数ヶ月後 宇治山中

「先生ーっ!こっちですよーっ!」
 ユイの快活な声が響く。ゲンドウはああ、と返事して山道を登り始めた。
 この日は、六分儀ゼミのハイキング大会だった。フィールドワークの実習も兼ねてユイが企画したものである。意外に多くの学生達が参加し、宇治の山中は活況を呈していた。
 午前中にちょっとした野外講義を行った後の昼食時、ゲンドウはユイに尋ねた。
「綾波君は、卒業後はどうするのかね?」
 こんな質問も、ユイ以外の人間には到底しない質問だった。仕事一筋、出世一筋で他者の愛情を拒否して生きて来たゲンドウにとって、何故かユイは彼の世界へ抵抗無く入り込んでくる存在であると同時に、抵抗無く相手の懐へ入っていける初めての他者だった。
「う〜ん…そうですね、家庭に入るのも良いかな、とは思っているんです」
「それは勿体無いな」
 ゲンドウは言った。本音だった。自分の才能に大いなる自信を抱いていたゲンドウだったが、ユイの才能はそれ以上だった。まるで、大地が水を吸い込むように知識を吸収し、木が育つようにその能力を成長させている。できれば大学院へ進ませ、もっとその才能を伸ばしてやりたいと考えていた。
「でも、『可愛いお嫁さん』になる、と言うのが子供の頃からの夢でしたから…もし、先生みたいな素敵な人に、もっと早く巡り会えていれば…」
「え?」
 ゲンドウは思わず聞き返していた。だが、ユイは言葉を繰り返そうとはしなかった。
「先生はもう結婚されているんですよね…学生結婚だったと聞いています。きっと、奥さんは素敵な方なんでしょうね。羨ましいです」
 ゲンドウがナオコと結婚したのは彼らが大学生の時…以来17年、シンイチとリツコの2人の子供も産まれ、傍目には幸せな家庭。だが、ゲンドウの狙いはあくまでもナオコの父、赤木博士とのコネであり、ナオコを愛している訳ではない。そういう父の態度を子供の方は察していたのだろう。シンイチも、リツコも、何かと父に反発する態度を取っている。
「羨ましい、か…そう見えるのだろうな、世間では。だが…」
 ゲンドウはポツリと漏らした。それが蟻の一穴だった。今まで誰にも明かしたことの無い、ゲンドウの本音が、次々とユイに漏れていった。愛情の無い生活のこと…栄達への欲求…
「とんだ愚痴になってしまったな…済まなかった」
 全てを告白した後で、ゲンドウはユイに謝った。
「だが…君は不思議だな。君の前では、どんなに心に壁を作っていても、簡単に破れてしまう…」
 そのゲンドウの言葉に、ユイは曖昧な笑みで答えただけだった。

「その日から、ユイは私にとってどうしても忘れられない人となった。馬鹿げている、私らしくないと思いつつも、彼女にどうしようもなく惹かれていく自分を抑えられなかった…」


1999年年末 京都大学

 年の瀬も押し迫ったその日、ゲンドウは冬月に呼び出されていた。どんな要件かと思うゲンドウに、冬月は思いがけない話を切り出してきた。
「六分儀…南極へ言ってみる気はないか?」
「は…?南極…ですか?」
 当惑するゲンドウに、六分儀は一通の手紙を差し出した。差出人は「葛城 マサト」となっている。
「葛城…あの葛城博士ですか?」
 ゲンドウの問いに冬月は頷いた。冬月、赤木と並び「東方の三賢者」の一人として、日本の生物学界を代表する重鎮の一人である。
「民間主導で、これまでで最大規模の探検隊を南極へ送る『アンタークティカ・ミレニアム』計画だよ。そのリーダーに葛城博士が選ばれてな…隊員に何人か推薦してくれと私のところに言って来おった」
 冬月は言った。
「もう少し若かったら、私が自分で行くところだが…代わりに行ってみる気はないか?他のメンバーの選任はお前に一任するから」
 その言葉に、ゲンドウは頷いていた。
「ええ、やります。是非やらせてください」
 願っても無い話だった。これに参加すれば、葛城博士とのコネもできる。大発見があれば自分にも箔が付くだろう。迷う要素はなかった。

「そして…私はユイをメンバーに選んだ。彼女の才能を南極でも伸ばしてやりたい、と思っただけではない。この頃には…既に私と彼女は関係を持つようになっていた。そして、思わぬ事態が起きた」


2000年6月 南極大陸 ミレニアム基地

 南極の短い夏…その間に、「アンタークティカ・ミレニアム」隊のメイン基地として建設されたミレニアム基地は既に実働を開始していた。数百人に及ぶ隊員達が働くそこでは2000メートルに及ぶ氷層と、その下の同じ厚さの地盤を貫通し、地下にあるジオフロント…と、そこにある先史文明の遺産を発掘するための作業が開始されていた。
「ユイ君、ユイ君?む…どこへ行ったんだ?」
 朝の定例会議から戻ったゲンドウは、与えられた研究室にいるはずのユイを探していた。
「おかしいな…部屋か?」
 まだ自室にいるのかもしれない、とゲンドウは考えた。疲れているのか、最近ユイは身体の不調を訴えていた。ゲンドウは彼女の部屋に向かった。
「ユイ君?いるのか?」
 扉をノックすると、しっかり閉まっていなかったのか扉はそのショックで開いた。洗面所の方から、水音が聞こえてくる。
「ユイ君…」
 呼びかけたその瞬間、ユイが激しくせき込み、次いで嘔吐する音が聞こえてきた。ゲンドウは顔色を変えて洗面所の方へ向かった。
「ユイ君!」
 ゲンドウの呼びかけに、ユイは青白い顔で振り向いた。
「先生…」
「具合が悪いのか?すぐに医者を…」
 言いかけたゲンドウを制して、ユイが言った。
「いえ…先生。これは、多分…」
 その時、ゲンドウも全てを理解していた。
「まさか…妊娠したのか!?」
 ゲンドウの言葉にユイは頷いた。
「何てことだ」
 ゲンドウは足元が崩れ落ちていくような感覚に囚われていた。

「とにかく先の事は後で考えるとして、渋るユイに南極では子供は産めないと…そう言い聞かせ、一足先に帰国させた。もっとも、結果的にはそれで正解だったが…そう、あの忌まわしいセカンドインパクトにユイを巻き込まずに済んだのだから」


運命の日 ミレニアム基地地下4000メートル

 基地が燃えていた。この日、ジオフロントで行われた行われた「アダム」の起動試験は暴走と言う最悪の結果に終わり、地下から噴出したエネルギーは瞬時に基地の大半を壊滅させていた。
 そのわずかに生き残った施設に、ゲンドウと隊長の葛城マサト博士、そしてその娘のミサトもいた。
「何故だ…『死海文書』を解析して作った起動プログラムは完璧だったはず…何故暴走など」
 気を失ったミサトを抱き上げた葛城博士が信じがたい思いで呟く。彼の特徴である顎鬚が困惑と恐怖に震えていた。
「わかりません…実験データは回収できましたが…」
 データを収めたDVDを胸に仕舞ったゲンドウが立ち上がる。その足元から、不気味な地響きが突き上げてくる。掘っているのだ。アダムが、地上への通路を。
「奴を南極から出す訳にはいかん」
 葛城博士が言った。
「奴を作った文明は滅びた…今の奴にとっては世界の全てが敵だ。南極から出れば、世界を滅ぼし尽くすまで奴の進撃は止まらんぞ」
「くそ、どうします?」
 ゲンドウの質問に葛城博士が答えた。
「奴自身に一瞬でも良いからアンチATフィールドを発生させることだな…うまく行けば奴を自壊させられるはず」
「…我々2人で…やるしかないですね」
 ゲンドウも覚悟を決め、生きている端末を引きずり出した。
「始めるぞ、六分儀君」
 葛城の指示で作業が始まった。間断無く続く地響きの中、キーボードを叩く音だけが響いていく。そのプログラミングを終え、ゲンドウが確認の為にあるデータファイルを開いたその瞬間、彼は全ての元凶を悟った。
「これは…!駄目です、葛城博士!我々のプログラムは全て間違ったデータで計算されています!」
「なんだと!」
 葛城もゲンドウの言うファイルを開き、怒りの唸り声をあげた。その一つだけが正常なデータのままだったのだ。他のデータは巧妙に間違ったものと摺りかえられ…使い慣れたものだった為にだれも確認していなかったのだ。
「畜生!誰がこんな真似を!」
 壁に端末を叩きつけるゲンドウ。
「よせ、六分儀君!こうなったら…我々だけでも脱出するしかない。この脅威を世界に知らせねば」
 そう言うと、葛城はミサトを抱き上げて走り出した。ゲンドウも続く。誰もいなくなったシェルターの中で、葛城の端末だけがプログラム実行のダイアログを空しく明滅させていた。

「だが…脱出中に葛城博士は崩壊した建物の破片で負傷され…私とミサトだけを脱出させて亡くなられた…そして、私たちを乗せたカプセルが海中へ突進している間、地上では恐るべき惨禍が出現していた」


運命の日 南半球

 遂に地上に現れたアダムは、その攻撃プログラムの命じるままに、まずは南極各地の観測基地群を「敵」と判断。衝撃波で消滅させた。だが、その瞬間、彼の体内へ送り込まれたアンチATフィールド発生プログラムが作動する。
 データに誤りがなければ、そのプログラムはアダムを瞬時に分解し、消滅させるだけだったはず。しかし、誤ったデータで作られたプログラムはアダムの崩壊に二つの恐るべきプロセスを付け加えていた。
 まず、アダムを構成する古代文明の素材…純粋なエネルギーをATフィールドで物質化させたものが抑えを失い、元の純粋エネルギーに転換される。その総量、実に25万メガトン。人類がその歴史上の戦争で使用してきた全ての爆薬を合わせた量の10万倍に相当するエネルギーが解放され、南極の氷はことごとく融解し、世界に大洪水を引き起こし、地軸を傾けた。
 もっと凄まじいのは、アダムを中心に爆発的に広がったアンチATフィールドだった。それが触れるところ、あらゆる生命の存在が消滅する。何十億匹と言うオキアミが、液化して海へ溶け込む。異変を感じて海中から躍り出た鯨が、空中でオレンジ色の液体に転化し、海に零れ落ちる。地上でも、ニュージーランドで、オーストラリアで、南米で、アフリカで、何が起きたのかわからないうちに人々が、動物が、草木がオレンジ色の液体と化して大地に飛び散っていった。
 やがて、命の火の消え果てた世界に…ただただ、見渡す限りLCL――生命の根源の水(Life Chaosed Liquid)に覆われた海に、一つのカプセルが浮きあがった。


運命の日より一週間後 ニュージーランド近海

「…ぐ…」
 身体に走る痛みに、ゲンドウは目を覚ました。眩しい光が目に突き刺さり、彼は思わずうめき声をあげた。
「気が付いた」
 その呼びかけにゲンドウは声の方向を見た。ミサトだった。
「良かった…お父さんがずっと目を覚まさなかったらどうしようかと思った」
 ミサトが自分を呼ぶ言い方に気が付き、ゲンドウは疑問の声を上げる。
「お父さん?」
 それに対し、ミサトは不思議そうな表情で彼の顔を見つめている。
(記憶が…混乱しているのか?)
 ゲンドウは思った。無理もないかもしれない。大人の自分でさえ耐え難い恐怖の体験だったのだ。まだ14歳の少女…リツコと同じ歳か…が精神の平衡を崩しても不思議はなかった。
「わかった…大丈夫だよ、ミサト。お父さんはもう大丈夫だ」
 安心させるようにミサトの頭を撫でてやると、ようやく彼女は安心したような表情になった。
(仕方ない。しばらく彼女の父親代わりになるか…)
 ゲンドウは決意した。この日以来、彼は葛城博士に倣って顎鬚を伸ばし始めた。
「容体はどうかね」
 突然、背後から声がした。ドイツ語だった。幸い、ゲンドウは大学時代第二外国語にドイツ語を取っており、簡単な会話なら不自由はなかった。振り向くと、そこにはいかにもゲルマン系と言った感じの長身の男性が立っていた。
「ここは…どこです?」
 周囲を観察すると、次第に辺りの様子が分かってきた。どうやら船の医務室らしい。
「船の中だよ。海洋探査船『アトランティカ』。南極近海で君たちを拾った時は驚いたよ。こちらのお嬢さんは大丈夫だったが、君はひどく衰弱していたからな。拾ってから3日も寝ていたのだぞ」
 船医と思しき人物が笑いながらコーヒーカップを差し出した。ゲンドウはそれを一気に飲み干す。彼は自分の分の食料も水も、全てミサトに与えていた。まともなものを口にするのは久しぶりだったのだ。
「一体、あなた達は…?」
 一息ついたゲンドウが尋ねると、船医は片手を上げて制した。
「それは、この船の責任者が答えるよ。君が起きたら案内してくれと言われているんでね」
 そう言って船医はゲンドウを連れて部屋を出た。向かった先は船橋だった。最新の設備を整えているにもかかわらず、床に逆三角と七つの目を組み合わせた、やけに魔術的印象を受ける奇怪な紋章が記されているのが印象的だった。
「お連れしました」
 船医が言うと、その人物は短く「ご苦労」とだけ言い、振り向いた。背は低いが、巨大と言って良い存在感を持つ老人。
「私を呼んだのは貴方ですか?」
 ゲンドウが尋ねると、老人は頷いた。
「まさか『アンタークティカ・ミレニアム』に生き残りがおったとはな…運が良かったな、六分儀ゲンドウ君」
 自分の名前が呼ばれたことにゲンドウは驚いた。
「…私の名前を知っているのか。貴方は誰です?船長とも見えませんが」
 老人は答えた。
「私はこの船のオーナーで、ローレンツ。キール・ローレンツと言う。君の属していた調査隊に出資していた者だ」
 ゲンドウはそれを聞いて思い出した。「アンタークティカ・ミレニアム」に出資していた欧州最大の企業グループ…ローレンツ・コングロマリットの総帥だ。
「すると、この船は救助に…?」
 ゲンドウが聞くと、キールは首を横に振った。
「違う。今世界はそれどころではないからな。わしはただ単に南極がどうなったか見に来ただけだ」
 そこで、ゲンドウは初めてセカンドインパクト後の世界の有様を知った。
「…何てことだ…」
 打ちのめされたゲンドウに、キールが声を掛ける。
「過ちを取り返したくはないかね」
 その声は、その時のゲンドウにはまるで福音のように聞こえた。
「出来るのですか、そのようなことが」
 思わず口に出した言葉に、キールは頷いてみせた。
「できる。我が組織にはその力がある。そして、君には我らの仲間となる資格もあるのだよ。我ら『ゼーレ』のね」
「私に…資格が?」
 そう言うと、キールは資格に付いて語り始めた。それを聞くうちに、ゲンドウの顔に見る見る驚愕の色が浮かんで行った。

「…それが、私が『ゼーレ』と出会った最初だった。話を聞くまで私には『ゼーレ』の一員たる資格があることは知らなかったが…ともかく、世界を裏面から支配する『ゼーレ』の力を持って世界を再建していこう、と言う誘いに私は乗った。それが魂を引き換えに契約の履行を迫る悪魔メフィストフェレスの誘惑の声とも気づかず…」


NEON GENESIS EVANGELION
OTHERSIDE STORY "REPLACE"
EPISODE:21 Pandora's Box


2000年9月 日本 とある病院

「…どうしてだ。何故こんな事に?」
 帰国後、報を聞いて駆け付けた病院で、ゲンドウは目の前の人物の姿に大きな衝撃を受けていた。ベッドに横たわり、無数の点滴に繋がれている彼女の名は六分儀ナオコ。彼の妻であった。
「あなた…お帰りなさい」
 ナオコは弱々しく微笑んだ。
「あ、ああ…ただいま」
 ゲンドウはベッドの横の椅子に座った。医師から事情は聞いている。ナオコが北陸の原子力災害の被災地にボランティアとして赴き、急性放射線症をわずらったと言う事を。長くても1年の余命だと言うことも。
 リツコは病院に泊まり込んで看病をして来たと言う。が、父と顔を合わせたくないのか、この場には姿を現そうとしなかった。
「あなた…ごめんなさい」
 衰弱した妻の突然の謝罪に、ゲンドウは面食らった。
「どうした…?何を謝ることがある」
 ゲンドウが尋ねると、ナオコの目から幾粒もの涙が零れた。
「私…守ってあげられなかった。シンイチのこと…」
 ベッド脇のスツールの上に飾られた、あの運命の日に死んだ息子の遺影。泣きじゃくるナオコの手を、ゲンドウは知らず知らずのうちに取っていた。
「泣くな…お前のせいじゃない」
 そうだ。ナオコには何の罪もない。
 罪に問われるべきは俺だ。シンイチを死に追いやり、ナオコに回復の見込みのない病を与えたのはこの俺なのだ。

「…そう、私は取り返しの付かない大馬鹿者だ。愛がないなどと…勝手に思い込んでいた。愛はあったのだ。ずっと、側にあったのだ。ナオコはこんな俺をずっと愛していてくれたのだ。それなのに、俺はそれに気が付きもしなかった。そればかりか、ナオコを裏切っただけでなく、守るべき家族を2人ながら死に追いやってしまった…その時、私は誓ったのだ。己の過ちをすべて清算することを」


数日後 京都・福知山

 その人物は入って来たゲンドウを抱きしめる様にして迎えた。
「良く帰ってきてくれたな…六分儀。大勢死んだよ。高木も、栗田も…お前だけでも無事でいてくれて良かった」
 冬月だった。セカンドインパクトで京大も閉鎖され、再開の目途も立たず、福知山の難民収容施設で無為の日々を送っていたのである。
 ゲンドウも恩師の生存を喜んだ。だが、そればかりではいられなかった。彼はキールより、日本における世界救済計画の拠点作りを行うことを任されていたからだ。その相談役として彼は冬月の元を訪れたのである。ゲンドウはさっそく冬月に具体的な話を始めた。
「…話は分かった。そんな大きな計画が動き出していたとはな…」
 冬月は頷いた。
「で、その組織の長はお前がやることになるのか?であれば全力を挙げて補佐させてもらうが」
 その質問にゲンドウは首を振った。
「いえ…私は無理ですよ。人望がないし、第一セカンドインパクトの張本人にその資格はありません。せいぜい裏方役を務めさせていただくくらいです。所長には先生、貴方を推挙するつもりです」
「ワシをか…?」
 冬月は唸った。最初は拒否した彼も、世界を救済したいと言う思いは同じである。結局、ゲンドウが動きやすくなるならと司令を引き受けることにした。この人事は「ゼーレ」にも承認され、国連人工進化研究所「ゲヒルン」を母体として組織作りが始まった。

「この時点では…まだ私たちと『ゼーレ』の間に対立はなかった。だが、彼女との再会から事態は一変する事になる」


2000年11月 諏訪

 セカンドインパクトから半年。日本では徐々に混乱が収まり、秩序が回復しつつあった。国連本部の日本移転も囁かれる中、箱根湖畔のゲヒルン日本本部に新組織準備事務局が開設された。
 ゲヒルンには既にかなりの人材が揃っているが、将来の新組織(NERV)にはまだ足りない。新たな要員を選抜し、予想される対使徒迎撃の予備研究を行う為に組織は拡大された。整った研究施設と破格の高給を武器に、セカンドインパクトで失職した学者・技術者達を続々と呼び集める。
 そうした中で、冬月は所長、ゲンドウは副所長として多忙な日々を送っていた。向こうからやってくる人間だけでなく、埋もれた人材を発掘するためにも彼らは日本中を飛びまわっていた。
 ある日、ゲンドウは諏訪にやってきていた。ここの難民キャンプで診療所を開いている女性が、実は京大出の生物学者だと言う噂を聞いてきたのである。もしかしたら知っている相手かもしれないと思い、そこを訪れたゲンドウを待っていたのは、思いも掛けない人物だった。
「…ユイ君!」
 相手の顔を見たゲンドウは思わず叫んでいた。
「六分儀先生!」
 目的の人物――綾波ユイも叫んでいた。
「生きて…いらっしゃったんですね」
「ああ…君もな」
 ほぼ半年ぶりに再会するユイは、だいぶお腹が目立つようになってきていた。特殊技能があるとは言え、彼女のような若い女性がお腹の子を抱えてあの混乱期を生き延びるには、並大抵ではない苦労があっただろう。そう思うとゲンドウは良心が痛んだ。
 だが、ユイの能力は必ず将来必要となる。そう思ったゲンドウは、諏訪湖畔に彼女を連れ出して話をした。だが、彼女から返ってきた言葉は思いもかけないものだった。

「力は貸せない、私にゲヒルンから手を引けと言うのか?どういう事なんだ、ユイ君」
 尋ねるゲンドウにユイは頷いた。
「先生、貴方にはある組織が接触してきたはずです。『ゼーレ』。違いますか?」
 その瞬間、ゲンドウの顔に驚愕の色が浮かんだ。
「馬鹿な…何故それを知っている」
 すると、ユイは胸元から一つのペンダントを取り出した。それは、ゲンドウがローレンツ財団の船「アトランティカ」の船橋で見たものと同じ、逆三角に七つ目の紋章を意匠としたものだった。
「ユイ君、それは…」
「見覚えがあるでしょうね。これは『ゼーレ』の紋章なのです。そして、わたしの本名を知れば、わたしがこれを持っている理由もお分かりになると思います」
 ユイはペンダントをしまうと、一息すって自分の本名を告げた。
「わたしの本当の姓は碇…碇ユイ。それがわたしの本名です」
「碇…だと!?では、君も!」
 ユイは頷いた。
「ええ。わたしも『ゼーレ』に連なる者。12宗家筆頭たる碇家の正統後継者にして最後の一人…先生、わたしがなぜ貴方を止めようとするか…それは、今の『ゼーレ』がかつての理想を失っているからです」
 ゲンドウは頷いた。先を続けてくれ、と言う合図だった。ユイは話を続けた。
「『ゼーレ』は今から12000年前の先史文明に端を発する世界最古の組織です。『ゼーレ』を創設した始祖の父親は、自分のミスから世界を滅亡に追いやりました。彼はその事を反省し、子供たちに世界を再生する事を遺言しました。その子供たちが作ったのが『ゼーレ』です」
「…すると、君たちは先史文明人の直接の子孫なのか」
 ゲンドウの言葉にユイは頷いた。
「ええ。『ゼーレ』は一端は絶滅に追いやられた人類を再生させ、その文明の進歩を裏面から見守り、時には良き方向に修正しようと介入したりもしました。ですが、長い年月の間に彼らもまた変質を余儀なくされていきました」
 ユイは無念そうな顔つきで言った。
「裏から世界を操作することで莫大な利益と権力が転がり込むことを、彼らは学んだのです。最初の理念は失われ、幾多の戦争が彼らの手で惹起され、多くの人々が死に追いやられるたびに、彼らは肥え太りました」
 ゲンドウは黙ってユイの話を聞きつづけている。彼女は理想を失った「同胞」を憐れんでいるようにも、憤っているようにも見えた。
「もちろん、最初の理念を追う人々もいました。わたしのいる碇家もその一つでした。碇家の当主は代々そうした理念を失った人々と戦ってきたのです。でも、敗北の時がやってきました…最後の当主だったわたしの母も、家族も次々に謀殺されて、今は碇家の人間はわたししか生き残っていません」
「では…ローレンツ議長はその…君の家族を殺したのか。自分達の欲望の為に」
 ゲンドウの問いかけにユイは頷く。
「ええ。少なくとも、今生き残っている11の宗家の過半数はローレンツ派に与しているでしょう。彼らは裏面からの支配に飽き足らず、世界の全てを手中に収めようと画策しています。そのために、碇家…筆頭としての権威を持つわたしたちが邪魔になったんです」
 ユイはそこでじっとゲンドウの顔を見つめた。
「…名前を変え、今まで逃げてきましたが…先生の実家…六分儀家は、遠い昔に碇家から分かれた分家の末裔です。わたしが警察沙汰を利用して先生に近づいたのは、血の繋がりが頼りにならないか、とそう思ったからです」
「…そうだったのか」
 ゲンドウは余りに途方もない話に、深い溜息を付いた。世界を救いたいと言う思いに変わりはない。その為にはキールの力が必要なのだ。だが、キールはユイにとっては敵に当たる人物だ。どうすれば良いのか。だが、その心を見通したようにユイが言った。
「先生…もう一度、南極のことを思い出してください。そうすれば、何が正しく何が間違っているのかわかると思います」

 結局、その日の話はそれで終わりだった。宿に戻ったゲンドウは、ベッドに寝転んでユイとの会話を反芻していた。
「南極のことか…」
 忙しさもあって、あえて思い出さないでおこうとしてきた南極の体験を、ゲンドウは思い返した。やがて、一つの考えが頭に浮かぶ。
「そうだ、セカンドインパクトは人為的に仕組まれていた。何の為だ。そして、誰がそんな事をしたのか…」
(もう一度、南極のことを思い出してください。そうすれば、何が正しく何が間違っているのかわかると思います)
 ゲンドウは跳ね起きた。
「まさか…あれを仕組んだのは『ゼーレ』だとでも言うのか!?」
 ゲンドウは端末を起動し、南極の資料を呼び出した。やがて、一人の人物の資料を見つけたゲンドウは心の底からの憤りに震えながら怒号を発した。
「…!キール老人!貴様は俺をコケにしているのかッ!!」
 その資料には「サルヴァドル・ラングレー」の名があった。セカンドインパクトの前日、突如として基地を発ち、帰国していた男だ。職務はコンピュータ技術者。出向元はローレンツ・コングロマリット!

「あれほどの怒りを抱いたのは初めてだった。私の夢も、野望も、願いも、全て奴の手のひらの上で弄ばれていたのだ。キールがこの場にいたら、まず間違いなく絞め殺していただろう…言葉でなど、到底表現不可能な激烈極まる怒りだった。翌日、私は再びユイに会い、再度力を貸してくれるように頼んだ。だが…」

「どうしても…駄目だと言うのか?何故だ?」
 やはり拒絶の意思を示すユイの気持ちが分からず、ゲンドウは強い調子で問い掛けていた。だが、ユイは力なく首を横に振った。
「わたしに出来るのは…先生に真実に気づいてもらうことだけです。それ以上の力にはなれません」
 ユイの目に涙が浮かぶ。
「わたしは…ローレンツ派への復讐に貴方の力を利用しようとしました。そんなわたしに、貴方の力になるような資格はないんです。それに…」
 涙が零れ、諏訪の湖水が静かに打ち寄せる砂浜に滴り落ちる。
「わたしは、本気で貴方のことを愛してしまった…そんなわたしが貴方のそばにいては、邪魔になるだけです。貴方の心には…もう別の人が住んでいるのですから…」
 ゲンドウは絶句した。それは、彼の一番痛い部分を抉っていたからだ。

「そう…ナオコの心情を知ってしまった私には、もうあいつを裏切ることなど出来ようはずもなかった。それはつまり、ユイを切り捨てると言うこと。だが、私はそれに気づかず…いや、気づいていない振りをして、彼女を求めた。それがユイに対する裏切りだと言うことを忘れて…結局、私のような身勝手な人間には、2人とも失ってしまうのが似合いの結果だと言うことだった」

「…俺は勝手な男だ。ナオコを裏切ることになりながら君と…」
 ゲンドウは吐き捨てるように言った。実際に、自分に唾を吐きかけたい気分だった。
「知っていて、貴方を求めたのはわたしです。悪いのはわたしなんです。貴方には責任は…」
 ユイは言ったが、ゲンドウは無言で立ち尽くしているだけだった。
「では…」
 いたたまれなくなったのか、ユイが踵を返そうとする。その時、ゲンドウが口を開いた。
「待ってくれ。せめて…」
「…なんですか?」
 振り返ったユイに、ゲンドウは言った。
「生まれてくる子が男ならシンジ、女ならレイ、と名づけて欲しい」
「…シンジに、レイ…」
 その名前を噛み締めるように繰り返すユイに、ゲンドウはその理由を明かした。
「リツコの次に子供を授かったら付けようと思っていた名だ。その子が俺の子である証だ。たとえそれを世間に向けて明らかにできないとしても、俺は君と子供の事は忘れない。誓うよ」
 忘れないこと。それが、ゲンドウがユイに示すことのできる最後の誠意だった。
「お約束します」
 ユイはそう答えると、今度こそゲンドウの元を去って行った。それが、ゲンドウがユイを見た最後の姿だった。


2015年 第三新東京市中央病院 NERV専用病棟

 長い話を終えたゲンドウは、ふうっと溜息を付き、娘の顔を見た。
「私を…軽蔑するか?」
 そう尋ねた。
「…お父さんは…勝手な人だと思います」
 レイは呟くように答えた。ゲンドウは「そうだろうな」と答えた。どんな答えが返ってきても、仕方のないことだとして受け止めるつもりだった。だが、レイの言葉はまだ続いていた。
「でも、お母さんは…お父さんのことを恨んでいませんでした。それに、お父さんもずいぶん苦しんだと思う…だから、その事でお父さんを責めたりしません」
 そう言ってレイは笑った。
「そうか…」
 ゲンドウは呟くように答えた。その時、真面目な顔になったレイが尋ねた。
「お父さん…一つだけ、教えてください」
「…何だ?」
「わたしを…冬月のおじ様の親戚と言うことにして、山岸の家に預けた理由。わたしは…要らない子だったんですか?」
 それは、レイが昔からずっと心の中に抱いてきた疑問。いつか父と再会できたら、聞こうと思っていたことだった。
「それは絶対に違う」
 ゲンドウはきっぱりと断言した。
「私は誓ったのだ。ユイとお前のことは忘れないと。だが、私は…人を愛すると言うことに自信が持てなかった。私のような人間にまともな子育てが出来るのか…そんな時に冬月先生が助けてくれたのだ」
「おじ様が?」
 レイが尋ねると、ゲンドウは頷いた。
「ああ。山岸氏は冬月先生の門下で、私の弟弟子に当たる。セカンドインパクトで娘を亡くしたばかりで、彼ならお前を大事に育ててくれるだろうと…養子縁組の仲介を取ってくださったんだ」
「そうだったんですか…」
 レイは頷き、ある事に気が付いた。
「じゃあ…シンジ君はどうなんですか?シンジ君はお父さんとずっと暮らしていたみたいだけど…それに、ナオコさんはもう子供を産めるような状態じゃ…」
 すると、ゲンドウは遠い目になった。ナオコのことを思い出しているのかもしれない。
「ああ…そうだな。あれの事に付いても話さねばならんな。シンジは…ナオコの願いなんだ」


2001年6月 ジオフロント NERV本部工事現場

 周囲は耳の痛くなりそうな雑音に包まれていた。溶接のスパーク音、杭打ち機の轟音、作業員達の怒鳴り声といったものが一体となって響き渡っている。
「工事はだいぶ進んでいるようだな」
 視察にやってきた冬月が満足そうに言った。現在、ゲヒルンは来年のNERVへの組織改編を控えて活発に活動しており、特にこの本部建設は最大の事業となっている。
「地下はかなりの部分が遺跡で流用できましたからね。意外に工期も短くなりそうです」
 ゲンドウが答えた。
「しかし…この空間…こんな巨大なものが12000年前に作られていたとはな」
 冬月は感心したように、頭上1000メートル以上の高さにある岩の天蓋を見つめる。
「先史文明人は重要な施設は地下に作る事が多かったようです。南極…死海…トルコ…今までに発見されたジオフロントには必ず遺跡がありましたからね…おっと、ここです」
 ゲンドウが立ち止まったのは、発令所のMAGIステージへ通じるドアの前だった。ゲンドウがドアを開くと、女性がきびきびと指示を下す声が聞こえてきた。
「やっているようだね、ナオコ君」
「あ、冬月先生。お久しぶりです」
 責任者の女性――六分儀ナオコは乗っていた車椅子をターンさせて冬月に挨拶した。
「進捗状況はどうだ?」
 ゲンドウが尋ねると、ナオコは持っていた端末にデータを表示させた。
「もう『カスパー』以外の2基は据え付けを終わっているわ。あと半月の内には実働可能になりそうね」
「さすがだ。早いな」
 ゲンドウが笑うと、ナオコもつられるように笑った。が、すぐに寂しげな顔になる。
「ええ…でも、このMAGIは学習し、成長していくシステム…理論上の性能を出すには何年も掛かるわ。だけど、私はそれまでには…」
 ゲンドウはナオコの肩を抱きしめた。
「ああ…それは俺やリツコの仕事になるだろう…」
「リツコは…あの娘とは少しは話した?」
 ナオコの問いに、ゲンドウは寂しげな笑いを浮かべる。
「相変わらずだ…俺の事を父とさえ思っていない。まあ、無理も無い。俺がお前達をないがしろにしてきたのは事実だ。お前に許してもらえたことでさえ僥倖というべきだからな」
「そう…でも、あの娘は賢い娘よ。時がくればきっとわかってくれるわ」
「そう願いたいな」
 そんな会話をした後、ゲンドウと冬月は次の場所を見るためにMAGIステージを後にした。
「元気そうだな、ナオコ君は」
 冬月が言うと、ゲンドウは沈痛な表情で言った。
「見た目は…本当は、とても今のような激務に耐えられる身体じゃないんです。俺とて、本当はナオコには休んでいてもらいたい。ですが…」
「わかっている。己のライフワークを成し遂げながら死ぬ…それは研究者にとって無上の喜びだからな。同じ研究者としてワシにも彼女の気持ちは理解できるし、止めることは出来んよ」
 言葉を続けられなくなったゲンドウの肩を叩き、冬月は言った。ナオコの病状はますます進行しており、彼女の死はもはや旦夕に迫っている。だが、それを知っているナオコは研究テーマである有機コンピュータの完成に残る生命の全てを燃やし尽くして挑んでいた。

「…そして、最期の日がやってきた。その時、私はナオコの最後の願いを聞いたのだ」


2001年7月 NERV本部建設現場 MAGIステージ

 それは、MAGIシステムが完成し、初運転を明日に控えた晩の出来事だった。病室からナオコが消えたという報せに、ゲンドウが真っ先に駆け付けたのがここだった。果たして、ナオコはそこにいた。
「ナオコ!」
「カスパー」の内壁にもたれかかり、目を閉じているナオコに、ゲンドウは呼びかけた。その目がうっすらと開かれる。
「あなた…やっぱり来てくれたのね」
 ゲンドウは答えた。
「ああ…心当たりはここしかないからな。明日は大事な日だ。すぐに戻り…」
 ナオコは微笑んで首を横に振った。
「良いのよ…わたしの役目は終わったのだもの…こうしている内にも、どんどん体が冷たくなっていくのが…自分でも分かるの。だから…死ぬ時は、貴方の腕の中も良いけど、やっぱりここに居たいと思っていたから…」
 切れ切れの口調で言うナオコ。ゲンドウは膝をつき、ナオコの身体を抱きしめた。
「ナオコ…俺は君に何もしてやれない。本当に幸せだったのか、君は…」
 ゲンドウは尋ねた。
「ええ、幸せでしたよ」
 ナオコは答えた。
「あなたは…私を見ていなかったかもしれないけど…一見クールで、それでいて胸の中に熱いものを秘めた貴方に…私は惹かれていました。側で貴方を見ているだけで…私は良かった。今も感じる。貴方の熱さを…」
「…ナオコ…!」
 彼女を抱きしめるゲンドウの目から涙が零れ落ちる。俺は何と愚かだったのか。己のくだらない野望など、彼女と引き換えに出来るはずはなかったのに。
「あなた…お願いがあるの…リツコはいつか私の後を継いでくれるはず…そうしたら、これをあの娘に受け継がせて…」
 ゲンドウは辺りを見回した。内部に張りつけられた無数のメモ用紙。MAGIの裏コード。
「ああ…わかった。約束する。他に何かないか?」
口がかすかに動く。ナオコの体が急速に冷たくなっていく。ゲンドウは耳を彼女の口元に寄せた。
「帰りたい…あの頃に……あなたが…いて…わたしが…いて……リツコが…そして……シンイチがいて………」
 ナオコの心臓が最後の一鼓動を打った。そして、彼女の時は永遠に静止した。
 翌日、ナオコは「カスパー」の中で安らかな顔で永遠の眠りに就いているところを発見された。だが、ゲンドウの姿はどこにも見当たらなかった。


2001年8月 NERV本部

 ナオコの死から一月…ゲヒルンはNERVへと発展解消され、本格的な業務が始まった。だが、それまで中心となって動いてきた副司令・六分儀ゲンドウは依然失踪したままだった。
「六分儀よ…お前は今どこにいるのだ?まさかおかしな真似はしとらんとは思うが…」
 冬月はつぶやいた。おかしな真似とはつまり、ゲンドウが自殺でもしたのではないかという心配であった。だが、彼は意外なところで見つかる事になる。
「セントラル・ドグマの最下層だと?そんなところにいたのか!」
 保安部の報告を受けた冬月は驚き、直ちにゲンドウがいたというセントラル・ドグマの最下層…ほとんどターミナル・ドグマに近い辺りにあるその部屋へと向かった。そこで、冬月は驚くべき光景を目にした。
「六分儀!お前、これは…!」
 部屋に入ってきた冬月は思わず叫んでいた。そこは異様な部屋だった。巨大な透明のシリンダーにオレンジ色の液体が満たされ、その中に赤ん坊が浮かんでいる。
「…先生。なぜ、ここが…?」
 やつれた表情のゲンドウを押しのけるようにして、冬月はその装置の前に進む。
「これは…クローンではないか!正気か!?六分儀!クローンをめぐる問題の複雑さはお前も知らないわけではあるまい!!」
 冬月の叫びにゲンドウは頷いた。
「勿論…知っています」
「知っていますではない!なぜこんな事をする!」
 冬月が詰め寄ると、ゲンドウは装置の一つに手をかけた。
「…これは…人工子宮なんです。先史文明の。私は、ナオコの最後の願いをかなえるためにこれの使い方を覚えました」
「何…?人工子宮だと?それに、ナオコ君の最後の願いとは…」
 落ち着きを取り戻した冬月に、ゲンドウは言った。
「ナオコはずっと悔いていたんです。シンイチを死なせた事を。死の直前にあいつは言いました。家族全員が揃っていたあの頃に戻りたいと…だから、私はナオコから採取した遺伝子と私のそれを掛け合わせて、シンイチを再生しようと思ったんです…」
「六分儀…お前、そのためにわざわざこの装置を解析したのか」
 子供を見ながら冬月は驚いた。まさか、ゲンドウがそこまでする男だとは思わなかったのだ。そして、ゲンドウを振り向いたとき、彼は倒れていた。冬月は慌ててゲンドウに駆け寄った。
「六分儀!?いかん、かなり衰弱している…」
 おそらくナオコの死以来、ほとんど不眠不休、飲まず食わずでこの装置と格闘していたのだろう。とにかく、冬月はゲンドウを病院へ運ばせた。

「…お前は冷静なようで、思い立ったらわき目も振らず猪突猛進だな。今度からは少しは考えて行動しろ」
「…すいません」
 手当てを受け、意識を取り戻したゲンドウは冬月に叱責されていた。
「まあいい。で、あの子供の事だが」
 ゲンドウの体がぴくりと動いた。
「…わしは何も見なかった。あの子はお前とナオコ君の間に生まれた最後の子だ。それでいいだろう」
「せ、先生…」
 ゲンドウは顔を上げて冬月を見た。
「倫理的にどうかと言う問題はあるだろう。だが…あの子のためにも、わしの心情から言っても表沙汰にはしたくない。ただし」
 ここで冬月は語調を強めて言った。
「自分で育てろよ。今まで親の責任を放棄していたお前だ。それくらいはしてみせろ」
「…はい」
ゲンドウは頷いた。


2015年 第三新東京市中央病院 NERV専用病棟

「数ヶ月後…子供は外界に出られるまでに成長し、私はシンジと名付けることにした。最初はシンイチでも良いかと思っていたが…見守っているうちに、この子はこの子、シンイチはシンイチと思い直した。だが…」
 ゲンドウはシンジが生まれた時のことを思い出したのか、苦い顔つきになった。
「あの子は手間の掛かる子だった。泣いたり、笑ったり、そう言う感情の部分がひどく弱かったんだ。だから、腹を空かせたり、おむつを替えたり…そう言うことのタイミングがわからなかった。やっぱり生まれのせいかとひどく悩んだものだよ。しかし…」
 ゲンドウはレイの手を握った。
「この街にレイが来て、カヲルが来て、友人が増えるたびにあいつはだんだん感情が豊かになっていった。みんな、お前達のお陰だ。私は子育て一つ出来ない父親失格の男だが、どうか頼む。これからもシンジと仲良くしてやってくれ」
レイは、ゲンドウの手を握り返した。
「いいよ…お父さん。わたし、嬉しいもの。わたしはずっと一人だと思ってたけど、本当はお父さんがいて…お母さんがいて…」
 シンジ君がいて、と続けようとした時、レイは今までシンジに対して抱いていた思いが心の中で揺れるのを感じた。
 一体何が?レイは自問した。確かにシンジには好意を抱いているけれど、でもそれは恋心だったのだろうか。ただ、無意識に感じる肉親の情だったのでは?
 レイはシンジとのことを思い出す。人と打ち解けないシンジ。第五使徒戦の前、人形のようだったシンジ。弁当を持ってこないシンジ。その時の思いはそう…「放っておけない」ということ。
 そう、あれは無意識のうちに「姉」として「弟」の世話を焼きたい、という気持ちではなかっただろうか。そう思った時に、レイは言葉の続きを口にしていた。
「素敵な…弟がいて」
 そう、シンジ君はわたしの弟なのだ。漠然とした想いが一つの形を与えられた。
「それだけじゃない。学校の友達、NERVの人たち。この街に来てわたしはたくさんの人たちと絆を結べたから…それを大事にしたい。そして…」
 レイははっきりと、自分の意志を告げた。本当の戦いに挑む決意を。
「わたしは、あなたとお母さんの間に産まれた娘として…2人の意志を継ぎます。この世界をおかしくしてしまった『ゼーレ』と戦います」
「そうか…ありがとう」
 ゲンドウは言った。涙で視界がぼやけた。レイが激怒し、関係を絶ちきると宣言してもおかしく無い話だったのに、彼女は自分達との絆を大事にしたいと、「ゼーレ」と戦うと言ってくれたことが嬉しかった。
(ユイ君…やはりレイは君の娘だな。君の力を、意志を、そして魂をレイも確実に受け継いでいるよ)

 そう…「ゼーレ」がゲンドウの叛意に気づくのは遅かったのだ。
 NERV、それはもう14年も前から人類を守る最後の砦だったのだから。
(つづく)


次回予告

 親という存在。自分のルーツ。それを知りたいと願うカヲル。
 それは心の中の隙となり、使徒が放つ精神攻撃が彼の心を蝕んでいく。
 カヲルを救おうとするレイ。
 遠い記憶の果てに、カヲルは己を見出すことが出来るのか。
 次回、第弐拾弐話「せめて、人間らしく」


あとがき

 という訳でお送りした今回はゲンドウ、ユイ、ナオコの過去のお話でした。
 ところで原作のゲンドウは何をしたい人だったんでしょう。ユイを失ったあとはユイにもう一度会うことのようでしたが…それ以前がわかりづらいので、このような設定にしてみました。そしてセカンドインパクトと家族の死、ユイとの別離。それが自分の名誉欲が元凶だったと気づく。ここまでしてREPLACE版のゲンドウの今の個性はあります。これならいくらなんでも反省するだろうということで。
 ユイとナオコとの関係(特にナオコとの)も、原作よりはきれいなものになったのではないかと思っています。
 で、今回の、というよりREPLACE全体の大自爆。レイとシンジ、2人が姉弟だって事、設定の時点でわかっていたはずなのに、なぜLRS属性のような書き方をしていたのでしょう。
 ま、まあ過去ではなく未来を目指すのがREPLACE版NERVのモットーですので、次回のお話を。多分カヲル主役のお話です。
 ではまた第弐拾弐話でお会いしましょう。
2001年3月某日 さたびー拝





さたびーさんへの感想はこちら


Anneのコメント。

>「よう、遅かったじゃないか」

むむっ!?このセリフまでもを逆転してしまうとは・・・。
うむぅぅ〜〜〜・・・。感服いたしました。

>「…そうした悪評を知らなかった訳ではない。だが、当時の私は学会で名を挙げること、学会の頂点に立つこと、そればかりを考えていた。
> その為には小人に関わる暇はなかった。ナオコ…妻と結婚したのも、欲しかったのは赤木博士とのコネだ。
> 子供こそ2人産まれてはいたものの、ナオコへの愛情などかけらも無かった。
> 正直言って、当時の私の第一印象は『嫌な奴』…そんなところだったと思う」

今でこそですが・・・。昔のゲンドウは原作通りの外道だったんですね。

>「そして…私はユイをメンバーに選んだ。彼女の才能を南極でも伸ばしてやりたい、と思っただけではない。
> この頃には…既に私と彼女は関係を持つようになっていた。そして、思わぬ事態が起きた」

しかも、ユイと不倫の仕方が原作より酷い様な気が・・・。(^^;)
ほら、原作のナオコとの不倫は目的のみであり、愛は全くなかった感じですが、このお話では完全に逆ですからね。
どっちにしろ、この時点でのナオコは原作のナオコより不幸な気がします。

>「『ゼーレ』は今から12000年前の先史文明に端を発する世界最古の組織です。
> 『ゼーレ』を創設した始祖の父親は、自分のミスから世界を滅亡に追いやりました。
> 彼はその事を反省し、子供たちに世界を再生する事を遺言しました。その子供たちが作ったのが『ゼーレ』です」
>「…すると、君たちは先史文明人の直接の子孫なのか」

なぁ〜んとなくナディアを彷彿させますね。
先史文明の子孫だと思っていたら、実は人間だったガーゴイル的末路をキールが辿る様な・・・。

>「素敵な…弟がいて」

なんとっ!?これでLRS神話が完全崩壊っ!!?
いや、何となく2人が姉弟だとは薄々感じてはいたのですが・・・。



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