冬月邸
大きなゴミ袋を持って加持が廊下を歩いていた。レイの部屋の前で足を止め、中を覗き込む。
「レイちゃん、何か捨てるものはあるかい?」
加持は尋ねた。中では脚立に乗ったレイが、タンスの上に置いてあるダンボール箱を引っ張り出そうとしていた。今日は休日で、加持の非番とレイの休みが珍しく一致したため、掃除の最中なのである。
「あ、加持さん。ちょっと待ってくださいね」
レイは振り返らず箱を引っ張り出す事に専念している。どこかに引っかかっているのか中々箱が前に出てこない。危ないな、と加持が思ったまさにその瞬間、レイはバランスを崩した。
「きゃあっ!?」
「危ない!」
間一髪、加持がレイをダイビングキャッチする。が、その拍子に落ちてきたダンボール箱が加持の頭を直撃した。
「はうっ!?」
「か、加持さんっ!」
「あてて…大丈夫、大丈夫…」
落ちた時にぶちまけられた箱の中身が散乱する中、加持は身を起こした。後頭部に手をやるが、出血やたんこぶの類はできていない。
「い、今冷やしタオルもって来ますね」
レイがそう言って部屋を出ていった。加持は頭をさすりながら辺りを見渡した。箱の中身が全部床に零れ落ち、片づけるのは大変そうだ。
「おや?」
加持はふとあるものに目を留めた。眼鏡ケースが落ちていたのだ。
「はて…レイちゃんは目は良かったはずだよな」
加持がケースを開けてみると、そこには小さな女物の眼鏡がしまわれていた。手に取ってみると、それは度の入っていない伊達眼鏡だった。
「なんだこりゃ…レイちゃんも変なものを持ってるな」
加持は呟いた。その瞬間、背後で息を呑むような気配を感じて、加持は振り返った。そこには濡らしたタオルを持ったレイが立ち尽くしていた。
「…だめ!」
「わっ!?」
レイがひったくるようにして眼鏡を加持の手から奪い取った。思わず尻餅をついた加持が見上げると、彼女の顔は真っ青になり、荒い息をついている。
「れ、レイちゃん…?」
加持が恐る恐る話し掛けると、我に返ったのかレイは慌てて加持に謝った。
「ご、ごめんなさい!」
「い、いや…良いんだ…」
加持はレイが投げ出したタオルを手に取り、部屋を出た。眼鏡の事は気になったが、どうも今は聞かない方が良さそうに思えたからだ。
残されたレイは、手をそっと開いて握っていた眼鏡を見た。それは、捨てたはずの過去の象徴なのだった。
「まだ、あったんだ…捨てたと思ってたのに…」
新世紀エヴァンゲリオンREPLACE
第拾六話「死に至る病、そして」
レイの悪夢
「…お母さんは?」
「君のお母さんは…遠くにいってしまったんだよ」
「やだっ!お母さんに会いたい!お母さんはどこっ!?」
・
・
・
「今日から、君の御両親になる人たちだよ」
「さあ、ご挨拶なさい」
「よろしくね、レイちゃん」
「…」
・
・
・
「・・・ちゃん」
「違うもの…わたし・・・なんて名前じゃない」
「どうしてそういう事を言うの?」
・
・
・
エヴァンゲリオン初号機・エントリープラグ
「…はっ!?」
レイは目を覚ました。
「…夢?何時の間にか寝ちゃってたんだ…」
レイは軽く頭を振った。今は既に日常の一部と化したエヴァへのシンクロ・テスト。目をつぶって集中しているうちに、寝入ってしまったらしい。レイは軽く頬を叩いて気合いを入れた。慣れるのは良いが、だれる訳にはいかない。
(嫌な夢…最近は見た事が無かったのに。あの眼鏡を見たせいかな…)
レイが考えていると、モニターの向こうで怪訝そうなリツコの声がした。
『どうしたの?レイ』
「いえ、なんでもありません」
レイは答えた。リツコは深く追求せず、集中してね、とだけ言ってまたモニターに視線を落とした。
(…リツコさん、なんか楽しそうだな)
レイは思った。ちょっと前までリツコは仕事中一切妥協せず、細かいところまで指示を出してきたものだ。しかし、ここ数日のリツコはなにか余裕のようなものが出てきている。
(何か、良い事でもあったのかな)
レイは同居人である加持がリツコにプロポーズし、それが受け入れられた事を知らない。だから、リツコの変化が何に起因するものかに付いては、全く理解の外だった。
そのリツコは、管制室でマヤが読み上げるデータに驚きの色を見せていた。
「とうとう、越えたわね」
「ええ…凄いですね、レイちゃん」
2人は満足そうに笑うと、実験の終了を宣言した。
中央実験管制室
「おめでとう、レイちゃん」
実験場から戻ってきたチルドレンたちを真っ先に迎えたのが、マヤのこの祝福の声だった。
「え?何がですか?」
尋ねるレイに、リツコが答える。
「あなた、とうとうシンクロ率でカヲルを抜いたのよ」
「え?」
一瞬意味が分からず、戸惑うレイにリツコは3人のシンクロ率を記録したグラフを見せた。
シンジ、78.8パーセント。
カヲル、80.7パーセント。
レイ、81.2パーセント。
わずか0.5ポイントではあるが、確かにレイがカヲルを越えるシンクロ率を記録していた。
「ふうん…とうとう抜かれちゃったか…」
カヲルが呟いた。
「さすがは綾波君だね。敬意に値するよ…トップ、おめでとう」
カヲルがレイの右手を握った。
「え?あ、ああ…うん、ありがとう…」
まだ実感が無いのか、レイの表情には戸惑いが貼り付いたままだったが、やがて笑みがこぼれた。
「そうか…一番になったんだ…」
そんな事は考えた事も無かった。レイとしては、常に先陣きって突っ込んでいくカヲルに対して賛嘆の気持ちを抱いていただけに、今や自分がカヲルと同等にエヴァを操れると言う事の意味が分かったのだ。それがどれだけ力強い事なのか。
「これで、少しは渚君を助けてあげられるね」
レイの言葉にカヲルは苦笑した。心の中で考える。
(綾波君はこれだからね…他の人ならともかく、彼女相手じゃ悔しがる気にはなれないよ)
カヲルは苦笑を浮かべたまま更衣室に向けて去って行った。
第三新東京市 中心部
それは突然現れた。
何もない地面に突然小さな染みのような影が出現し、瞬く間に拡大して行く。驚いた人々が、影の主を探して空を見上げ、驚愕の叫びを漏らした。
奇妙な物体がそこにあった。コーヒーにミルクを流したような、黒と白の複雑なマーブル・パターンに彩られた巨大な球体。根源的な恐怖を感じ、我先に人々が逃げ始め、鳩や猫と言った動物たちも迫り来る影の輪郭から反対の方向へ必死に逃げていく。
やがて、人の気配の消えた街中に、ようやく避難警報のアナウンスが流れ始めた。
NERV本部 発令所
「第七区から第十二区まで、住民の避難誘導は8割がた完了!」
「目標は依然として微速前進中。速度、毎時2.5km」
次々に入る報告を聞きながら、ミサトが指示を下していた。
「第十三区、第十六区の誘導急いで。それと、全迎撃システムをスタンバイ。いつでも撃てるようにしておいて」
「了解!」
「了解」
その度にオペレーターたちが命令を復唱し、手順を進めていく。その時、リフトに乗って冬月とゲンドウの2人が発令所に現れた。
「状況は?」
冬月が尋ねる。
「十分ほど前に突然市内に出現しました。レーダー、センサーともに無効で、正体は掴めていません」
「MAGIの予測では?」
と尋ねたのはゲンドウだ。これにはマヤが答える。
「パターン…オレンジ。ATフィールド展開していません。MAGIは判断を保留しています」
「はじめてのケースだな」
ゲンドウが言った。
「ともかく、エヴァを出撃させて万が一に備えよう。パイロットたちに非常呼集かけ」
その命令に、ミサトは頷いた。
「了解しました。しかし、まずは住民の避難が先です」
「む、そうだな…」
ミサトに言われ、冬月も避難を先にする事を了承する。
「まずいですな。住民に使徒を見られてしまった」
ゲンドウが渋い顔になる。
「仕方がない。まあ、ほとんどはNERV職員の関係者か戦自のスパイだ。関係者には緘口令を敷け。市外からの人間は、まあ、一時拘束もやむをえんか」
冬月の指示にゲンドウは頷いた。
「その辺りは加持君が上手くやってくれるでしょう」
「ああ」
冬月は発令所の大ディスプレイに目をやった。そこには、出撃した3機のエヴァがゆっくりと「使徒」に対する包囲網を詰めていくのが見えた。
第三新東京市市街地
市街中心部で停止した「使徒」。それに対し、レイたちはじりじりと包囲網を狭め、一挙動で攻撃範囲に相手を捉える位置まで前進していた。
「準備は良い?」
「こっちはOK」
「僕も」
「使徒」に聞こえるはずもないのに、思わず小声になるチルドレンたち。今日の装備はレイがソニック・グレイブ、シンジがパレット・ライフル、そしてカヲルは新開発のハンドガン。口径460ミリという、かつての戦艦の主砲に匹敵する威力を持った銃弾を発射する。
「さて、どうしますか?ミサトさん」
レイが尋ねた。
『相手の正体がまだ分からないわ。とりあえず、カヲルとシンジ君。射撃戦で様子を見て』
「「了解」」
ミサトの声に答え、シンジとカヲルのエヴァが銃口を使徒に向けた。
『撃て!』
ハンドガンとパレット・ライフルが轟然と火を噴いた。しかし、次の瞬間「使徒」は忽然と姿を消した。
「消えた…!?」
発令所で見守る人々、そして撃ったカヲルとシンジが驚きに目を見開く。思わず辺りをきょろきょろと見回す2人をからかうように、「使徒」は元いた場所に再び姿を現した。
「…この!」
カヲルが3連射するが、弾丸が命中する直前、やはり「使徒」は姿を消し、銃弾が空しく飛び去ったあとに現れた。
「銃じゃ駄目なのかな?」
シンジが敵の反応を見ながら推測する。
「だったら、接近戦なら…!」
レイが駆け出した。
『ちょ…レイ!まだ命令は出していないわよ!』
レイの突然の行動に、慌てて止めに入るミサト。
「でも、銃が通用しないなら!」
レイは反動をつけ、一気に宙に舞い上がると、ソニック・グレイブを思い切り頭上に振りかぶった。
「やああっ!」
ジャンプの頂点から、一気に「使徒」めがけてソニック・グレイブを振り下ろす。「使徒」がまさに唐竹割りに真っ二つにされた、と思った瞬間、再びその姿が消える。
「だめ…!?」
レイは地面に着地した。頭上を振り仰ぐが、「使徒」の姿は影も形もない。
「どこに行ったんだろ…」
そう言ってレイはあたりを見回した。右手にはカヲルの弐号機。左手にはシンジの零号機が控えている。二機とも「使徒」の影の外縁付近に留まっていた。
「…影!?」
レイはある事実に気がつき、再び頭上を見た。「使徒」はいない。それなのに、影は残っている。いや。そもそも不自然な事に、真夏の昼間にもかかわらず、この「影」は「使徒」本体より大きい!
「まさか…!」
レイが足元を見るのと、発令所に警戒警報が鳴り響くのはほぼ同時だった。
NERV本部 発令所
「パターン青!使徒です!初号機の真下にっ!」
マヤが絶叫した。
「真下だと!」
冬月が叫んで身を乗り出したとき、「影」は一気にその濃さをまし、艶のない、真の黒へと変色した。
初号機・エントリープラグ
「な、何、これ…!」
レイは闇と化した「影」が底なし沼のように初号機を飲み込み始めたのを見て、恐怖に身を振るわせた。
「くっ…!」
歯を食いしばり、「影」にソニック・グレイブを叩き付ける。しかし、何の手ごたえも感じられない。その間にも、広がり続ける「影」が周囲のビル群すら呑みこみ始めた。
「やだ…やだっ!」
パニックに陥った彼女は、やみくもにソニック・グレイブを振るうが、「影」には何の効果も与えられない。
『落ち着きなさい!レイ!』
ミサトの叱咤の声も、レイの耳には届かない。
「綾波さん!」
シンジは彼女の方に駆け出そうとするが、自分の足元にも「影」が広がってくるのを見てたたらを踏む。さっきまで足元にあった軽自動車が、「影」に飲み込まれて消えていく。
「く…」
無念の表情でシンジが後退する。一方、カヲルはひとつの手を思いついていた。背中に手を回し、アンビリカル・ケーブルを取り外す。
「綾波君、掴まれっ!」
そう叫び、カヲルはケーブルを「影」の中心部でもがくレイの初号機に向けて放り投げた。
「…渚君!」
レイは目の前に命綱を投げてよこした相手に気がつき、ようやく落ち着きを取り戻した。
「シンジ君、手伝って!」
「うん、わかった!」
零号機と弐号機がケーブルに取り付き、コネクターの取っ手を掴んでいる初号機を手繰り寄せようとする。しかし…
「なんだ、これは…全く動かないじゃないか!」
「もっと力を入れよう!」
「影」がレイを吸い込もうとする力は予想以上に強く、エヴァ二機がかりでも全く歯が立たない。
「くっ!緊急ブーストを…!」
カヲルがレバーに手を伸ばしたとき、エントリープラグ全体を染める赤いランプが点灯した。
「しまった!電源切れか…!ボクとした事がっ!」
ケーブルを外した為、内部電源が切れたのだ。弐号機が沈黙すると同時に完全に均衡は崩れ、一気に張り詰めたケーブルが異音を立てて千切れ飛んだ。
「いやあああっ!」
「綾波さん!綾波さんっ!」
レイの悲痛な叫びと、シンジの血を吐くような呼びかけが無線に木霊する中、目の前で、初号機が「影」の中へ消えていく。胸が、首が、頭部が、角が。そして、最後に虚空を掴むように突き出された腕も「影」の中へと消えた。
NERV本部・発令所
「零号機と弐号機を撤収させろ。大至急だ」
冬月が命令を下していた。それが伝達されるや、シンジが抗議の声を上げようとする。しかし、口を開いたのはカヲルが先だった。
『待ってください、司令!まだ綾波君が…!』
次の瞬間、冬月の今までに聞いた事もないような大音声の怒声が全員の鼓膜を振るわせた。
「馬鹿者!エネルギーの切れた弐号機で何ができる!早く下がらんかっ!」
その一喝に、全員が沈黙した。一瞬置いて、さらに反発しようとするカヲルの機先を制するように、冬月が続ける。
「…すまん。だが、わかってくれ…お前たちまで…」
そこから先は、声にならなかった。カヲルもうなだれ、『了解しました』と言うと、シンジに抱えられるように後退し始めた。
「…司令」
ゲンドウが冬月に声をかける。
「ああ…すまん。大丈夫だ。それより…」
冬月が言わんとするところを悟り、ゲンドウは力強く頷いた。
「わかっています。奴の正体ですね。司令専用ヘリを借りますが、よろしいですか?」
ゲンドウの言葉に冬月は頷いた。ゲンドウはそれを確認すると、リツコを呼んだ。
「リツコ、頼むぞ。お前の力を貸してくれ」
「はい、司令」
二時間後・「使徒」至近空域
轟音を立て、観測機械を満載したNERV司令専用ヘリが「影」の上空を飛んでいた。ゲンドウとリツコはレーダーや各種センサーを使用して「使徒」と「影」の情報を集めている。
あたりのビルはすっかり「影」に呑み尽くされ、広大な空間が開けている。
「レーダー、各種センサー、共に完全に反応なし…これって…」
リツコはその事が示す恐るべき事実に身を震わせた。そこに何かがあれば、どんな微弱なものであれ「反応」は返ってくるはずなのだ。それが全く無いと言う事は…
「使徒」も「影」も、見えるだけで存在しないか、あるいは全くの「無」である事を表す。
ゲンドウも頷いた。
「先ほど、『影』に覆われた地域の地下にあるシェルター全てと連絡が取れたそうだ。つまり、地下にはあの『影』は何の影響も及ぼしていないと言う事だな」
「と言う事は、やはり…?」
リツコが自らの推論と、父のそれが同じである事を確認する。
「ああ…全く、とんでもない事になったものだ」
NERV本部・パイロット待機所
激しい音とともに、ロッカーの扉がひしゃげた。扉の中心部に突きこまれた拳から、つうっと血が流れ落ちる。
「ボクのせいだ…ボクが電源の事にさえ気をつけていれば…綾波君は…」
ぎりり、と奥歯を噛みしめてカヲルは呟いた。
「ちくしょう…ちくしょうっ!」
普段なら絶対に口にしないような汚い言葉づかいで自分自身を罵倒し、罰を与えるかのように痛めた拳を再び振りかぶる。そのままロッカーに一撃をくれようとしたとき。
「…!」
カヲルの拳を、シンジが止めた。
「シンジ君…離してくれ。ボクは…」
カヲルがうつむいたとき、シンジが言い聞かせるように言った。
「そう言うのは、カヲル君らしくないよ」
その静かな口調に、カヲルはますます苛立ったようにそっぽを向く。
「ボクの事は放って置いてくれ。こんな無様な大失敗…どの面下げて司令や葛城部長に会えというんだい」
そう言って椅子に座り込んだカヲルを、シンジは無理やり引きずって立たせた。
「痛い!何をするんだ、シンジ君!」
抗議の声を上げるカヲルの肩を掴み、シンジは正面からカヲルの顔を覗き込んだ。
「カヲル君、綾波さんはまだ死んでいないんだよ」
「…!」
シンジの言葉に、カヲルは雷に打たれたように立ちすくんだ。
「父さんも、ミサトさんも、リツコ姉さんも…みんな、綾波さんを助けようと頑張ってる。僕たちにもあるはずだよ。綾波さんを助けるために出来る事が」
カヲルは再びうつむき、しばらく考えていたが、やがて顔を上げた。
「…わかった。君の言うとおりだよ。とにかく、状況を聞きに行こう」
シンジが頷いた。
「…全く…殴られるよりよほどこたえたよ」
カヲルが渋い顔で呟くと、シンジは微笑んで先に立って歩き出した。カヲルもそのあとを追って歩き出す。その顔は険しかったが、もう自分を追い詰めるとげとげしさはなかった。
NEON GENESIS EVANGELION
OTHERSIDE STORY "REPLACE"
EPISODE:16 Journey for the past and Promiss to meet again
エヴァンゲリオン初号機・エントリープラグ
そこは真の闇に塗りつぶされた世界だった。
「レーダーも、ソナーも反応なし。空間が広すぎるのね…」
「影」に飲み込まれてから体感時間でもかなりの時間が過ぎた。飲み込まれたときに時計は止まってしまい、時間がわからない。辺りに比較するものが何もないため、自分が落下しているのか、浮いているのか、全く見当がつかない。それでも、彼女の辞書には「諦める」と言う言葉はなかった。
まず、役に立たない索敵装置を切り、緊急時マニュアルに従って、当面必要ないと思われる機能を停止していく。やがて、動いているのはLCLの循環モーターなどの生命維持機構のみになった。こうすれば、動かせばたちまち切れてしまうエヴァの内臓電源でも12時間以上は生きている事が出来る。
「あとは…これね」
レイは、ファースト・エイド・キットから睡眠薬の入った無針注射器を取り出した。眠っていれば、12時間がさらに24時間近くに伸びる。その間に救助が来てくれることを信じて、レイは注射器を腕に押し当ててトリガーを引いた。
「信じてる…みんな…」
次第に薄れていく意識の中で、レイはそう呟いて眠りに就いた。時の止まった空間の中を、少女の規則正しい呼吸だけが流れていく。
NERV臨時本部・前線指揮所
深夜になった。レイが「影」に消えてから既に10時間。「使徒」を無数の投光器が照らす中、リツコとゲンドウを中心とした作戦会議が開かれていた。用意されたホワイトボードには難解な数式やグラフが描かれている。
「つまり、あの『影』が使徒の正体と言う事か?」
加持が言った。説明をしていたリツコは首を横に振った。
「そうとも言えるし、違うとも言えるわ。あの『影』は使徒の支配する空間の入り口と言うところね。」
続いて、ゲンドウが口を開く。
「『影』の直径は約680メートル。これに対し、厚みはゼロだ。あれは、おそらく内向きのATフィールドによって形成されたものだと考えられる」
青葉が手を上げる。
「副司令、そこが良くわからないのですが、内向きのATフィールドとはなんでしょうか?」
ゲンドウはいい質問だ、と言いたげに頷くと、カヲルとシンジの方を向いた。
「それを説明する前に…シンジ、カヲル。お前たちはATフィールドを展開するときに何を思う?」
話を振られて、戸惑ったようにシンジとカヲルは顔を見合わせた。ややあって、シンジが口を開く。
「良くわからないけど…攻撃をはねつけようという気持ち…」
カヲルも考えながら言葉を口にする。
「ボクも…同じようなものです。跳ね返す、追い返すと言う思い…」
二人の言葉にゲンドウは頷いた。
「二人の言う事はまさにATフィールドの本質を現している。外部からの力に抵抗する事で、自分を守る。それが物理的な影響力をもって発現する時に、ATフィールドが形成される。が、これは外向きのATフィールドなのだ」
聴衆は黙ってゲンドウの言葉に耳を傾けている。
「これに対し、内向きのATフィールドは外部に対して己を隠す事で、自分を守ろうとする心の動きから発現する。内向きのATフィールドは、その内部に隠されたものを決して見せない。そこにはただの虚無があるばかりだ。その虚無が、あの『影』なのだよ」
マヤが手を上げて発言する。
「と言う事は、その虚無の中に使徒の本体がいると言う事ですか?」
これにはリツコが答えた。
「いるのは確かね。あの球体が証拠よ」
「どう言う事ですか?」
と、日向が尋ねる。
「内向きのATフィールドは内部への外部の情報を全て遮断する…つまり、私たちのいる、この三次元空間の法則からも離れた存在になっていると言う事よ。今はああやって『影』が通路になっているから、中の亜空間に存在する使徒が、この三次元空間にああ言う形で投影されている…あの球体こそ、影に過ぎないわ」
「ディラックの海、ですか」
カヲルが呟いた。リツコがわが意を得たり、と言うように頷く。
「そう…その存在が予言されていた、虚数によって立つ法則が適用される世界。私たち三次元空間の存在が感知できる時間と空間と言う概念が意味をもたない世界。あの『影』は、そう言った宇宙が誕生する以前の状態と同じになっているのよ」
場を、冷え冷えとした無力感が漂う。それが本当なら、レイは無限の漂流者になってしまったも同然。どうやって救い出せば良いのか、見当もつかない。
「手段は…ないでもない」
ゲンドウが言った。全員がハッとしたようにゲンドウの顔を見る。しかし、その顔に浮かんだ苦渋の表情に、全員が言葉を詰まらせた。それが恐ろしく困難で、しかも危険な手段である事を、全員が確信した。
「かまわん。言いたまえ、六分儀」
今まで黙っていた冬月が言った。
「わかりました。詳細は、葛城君から説明させます」
促され、ミサトが立ち上がると、作戦について話し始めた。
「では、これより『大爆誕』作戦の詳細を説明します…まず…」
それを聞いているうちに、今度こそ全員の顔に隠しきれない驚愕の波が走っていった。
?
ガタン…ゴトン…ガタン…ゴトン…
「…ん…?」
体に伝わる規則的な振動に、レイは目を開いた。
「…ここは?」
そこは、電車の中だった。辺りは日が落ちかけ、夕焼けの赤に染められている。その光景に見覚えがあるような気がして、レイは車窓の向こうに流れる山並みに目を凝らした。
(…!ここは、松代の…)
そう、それはレイが第三新東京市に来る以前。養父母の家のある松代の街で、通学に使っていた路線の風景だった。
(…でも、ちょっと違う)
レイは思った。家の数が少ない。遠くの山すそまで広がる田園風景は、第ニ新東京市として発展している2015年の松代にはない光景だった。
何よりも、今乗っている電車が古い。レイが乗っていたのは、リニアモーター駆動の静かな電車だった。こんな、鉄レールと車輪の旧式な列車ではない。
「やっと、気づいたのね」
突然かけられた声に、レイは驚いてその方向を見た。いつのまにか、自分の正面に一人の人物が座っていた。声の質とシルエットからして若い女性のようだが、夕日のハレーションに邪魔されて顔立ちはわからない。
「あなた…誰?」
レイが問い掛けると、人影はくすくすと笑った。
「忘れてしまったの?私はあなたよ」
「…えっ…?」
その謎めいた答えに、レイが思わず身を乗り出した時、列車がカーブに差し掛かり、人影の背後にあった夕日が外れた。違う方向から射しこむ夕日の光が、今まで隠していたその人物の顔をはっきりと浮かび上がらせる。眼鏡のレンズが、一瞬光を反射した。
「あ…あなたは…!」
その人物の正体を悟り、レイの全身が驚愕と戦慄で震えた。
「そう…私はあなた…あなたが、数ヶ月前までそう名乗っていた人間よ。綾波レイさん」
さらさらのロングヘアを持つ、眼鏡をかけた大人しげな少女。それは、松代にいる頃のレイの姿だった。
養父母の本当の娘の名、山岸マユミの名をもっていた頃のレイの…
NERV臨時本部・前線指揮所
「現存する、992発のN2弾頭兵器全てを利用したエヴァの強制サルベージ…!?」
加持の驚きの声に、ミサトが頷いた。
「ええ…今、可能と思われる唯一の方法よ。今世界にあるN2弾頭兵器の破壊力は、合計16万メガトン。その全てを一時に爆発させたときには、破壊力は相乗効果で計算不能なまでの威力になるわ。その爆心温度は約一兆度。これは、宇宙開闢…大爆誕に匹敵する力よ」
「それだけのエネルギーの解放は、『変化』の存在しない虚無の世界に時間の流れを生み出すに足りるもの…いわば、使徒の潜む世界が一つの宇宙となるのだ。その時、元からその世界の存在ではなかったエヴァは比較的近い場所にある元の世界、つまり我々の世界へ吹き飛ばされる」
ゲンドウが解説を締めくくった。
「…危険すぎます!そんな事をして、レイちゃんやエヴァが無事に帰れるとはとても思えません!」
加持が腕を振り上げて反対の意思を表示すると、マヤも立ち上がった。
「加持さんの言うとおりです。その作戦は下手をすれば、私たちのこの時空をも破壊しかねません。余りにも、危険な賭けです。ここは他の作戦を…」
それを皮切りに、他の要員たちも反対の声を上げ始めた。だが、ゲンドウはきっぱりと言い切った。
「残念だが、『他の手段』などは存在しないのだ。諸君にはあるのかね?無限の広がりを持つディラックの海から、レイを探し出して連れ帰ってくる方法が…」
要員たちが沈黙する。そうした中、ミサトとリツコは初めてゲンドウがレイを「綾波君」ではなく、「レイ」と呼んだ事に気がついた。
(…そうなのね、父さん?)
(…やはり…心の底では大事に思っているのですね。あの娘の事を…)
二人は「父」が見せた微妙な態度の変化と、そこに秘められた想いを感じ取った。
「無論…今のは作戦の大雑把な流れだ。この作戦で最も重要な局面を担うのは…」
父――ゲンドウの言わんとすることを悟り、シンジが言う。
「そうだ。シンジ、カヲル。お前たち二人は、この世界にレイを呼び戻す鍵となる。恐ろしく危険だが、やってもらわねばならんぞ」
その言葉に、カヲルが力強く頷く。
「何でもやります。綾波君を、この手で助け出せるのなら」
「よろしい。では、手順を説明しよう」
使徒の世界
レイは対面の席に座る彼女、マユミと見つめあったまま、動けないでいた。
―山岸マユミ――レイの養父母となった冬月の知り合いである山岸夫妻の本当の娘は、セカンドインパクトの混乱の中で行方不明に――おそらく死んだものと――なっていた。
やがて、マユミが口を開いた。
「どうして、こんな怖い目にあってまで戦い続けるの?」
「…えっ…?」
唐突な質問にレイが戸惑っていると、マユミはさらに言葉を続ける。
「お父さんも、お母さんも、愛してくれたじゃない。何が不満だったの?」
―レイを預けられた山岸夫妻は、レイをいなくなった娘の生まれ変わりのように想い、愛情を注いだ。
「…不満なんかじゃないわ」
レイが唇をかんだ。
―しかし、娘を無くしたと言う事実は、その愛情をどこか歪めたものにしていた。
「わたしは…わたしとしてみて欲しかっただけなのに…」
―最初は、名前の呼び間違いから始まった。
「わたしは…マユミさんじゃない。わたしは…」
「でも、結局はそう呼ばれることを受け入れた。違う?」
「違わない。でも…」
―呼び間違いでない事は、すぐに明らかになった。自分の名前はレイだ――そう答える「娘」に悲しげな表情を向ける「親」の姿は、レイの口を閉ざさせた。
「いいじゃない。マユミだって。やさしい親と、何不自由ない生活。この厳しい時代にそれが得られるのに、何を不満に思う事があるの?」
「…そうかもしれない。でも…」
―小学校に上がる頃、「綾波レイ」という人間は戸籍上だけの存在となっていた。そこにいるのは「山岸マユミ」という、戸籍からは消えた人間だった。
「わたしは…どうしても耐えられなかった。自分が日々、自分じゃない誰かになっていくことに…」
―「山岸さん」「マユミちゃん」――そう呼ばれることに耐えられなくなって、レイは人との付き合いを避けるようになった。
―内向的な子供。友達も少なく、「山岸マユミ」はクラスの中でひたすら目立たない子供として過ごしてきた。やがて、彼女の年齢は本当の山岸マユミに追いついた。マユミとして過ごした時は、レイとしての人生の倍以上になっていた。
「本を読んで、わたしは空想した。わたしの好きな本の中の登場人物たちは、自分をはっきりと持っている人たちだった。もし、わたしが『山岸マユミ』ではなく、本来の自分…『綾波レイ』だったら…そう考えずにはいられなかった…」
―「綾波レイ」としての自分。レイはマユミとして生きてきた十年の間にも、それを忘れてしまう事はなかった。むしろ、年を経るに従って彼女は本来の自分と言うものを強く意識するようになった。そして――
運命の転換点が訪れた。
NERV臨時本部・前線指揮所
ゲンドウがシンジとカヲルに与えた命令。そのすさまじさに、二人の顔が強張っていた。
「ATフィールドで『影』の崩壊を阻止する…!?」
カヲルがうめく様に言った。
「そう。内部で起こるビッグバンはレイをこの世界へ押し戻す役割を果たすはずだ。だが、その前にこの世界へ通じる門である『影』が崩壊する事は避けねばならん。二人は、『影』にATフィールドを掛け、開けたままにしておくのだ」
発令所のメンバーたちもその危険性に唸った。中でビッグバンが発生すれば、そのエネルギーの大部分――99.9999……以下9が数億桁続くほどのパーセンテージは内部へ向かうが、わずかなエネルギーが「影」を通してこの世界へ噴き出して来る。
そのわずかな部分でさえ、二機のエヴァを瞬時に消滅させるには十分すぎるほどの力を持っているだろう。「影」自体が破壊されてもおかしくは無い。
だが、シンジもカヲルも、一瞬で決意を秘めた顔に戻った。
「やります。どんな危険な事でも厭わないと誓いましたから」
カヲルが言うと、シンジも首を盾に振った。
「僕もカヲル君と同じです。綾波さんを助けるためなら…」
ゲンドウは頷いた。
「いま、世界各地よりN2兵器が輸送されている途中だ。従って、作戦は夜明けと同時になる。それまでゆっくり休んでくれ」
そう言うと、彼は二人の手を握って頭を下げた。
「頼む…」
その言葉に、シンジとカヲルも頷いた。
使徒の世界
「だから、冬月のおじ様の手紙を受け取ったとき、それがチャンスだと思った。本当の自分に帰るための」
レイの言葉に、マユミがかぶりを振る。
「…わからないわ」
「…何が?」
「本当の自分って、なんなのかしら?それは、本当にそんなに大事な事かしら?私は、自分の思うようには生きられなかった。他人が私に抱くイメージを演じている方が、みんな喜んでくれた」
「…え…?」
「素直な女の子。優等生。それがみんなが私に抱くイメージ。その作られたイメージを演じていれば良かった。自分の思うように行動すれば、必ず誰かとぶつかり合う。傷つけあう」
レイは歌うように言うマユミの顔を見る。
「あなた、もしかして…?」
問われたマユミはさびしげな顔を浮かべていた。だが、口調は変わらない。
「…だから、『本当の自分』なんて無くったって良い…」
マユミは口を閉ざした。沈黙が訪れ、電車の走行音だけが響く。
やがて、レイが口を開いた。
「でも、それって本当に幸せな事?」
その言葉に、マユミが顔を上げてレイを見た。
「わたしは…それは違うと思う。自分をごまかして、人を偽って、確かに傷つく事は無いけど、そこには本当の事は何一つ無いもの」
マユミが反論する。
「その、『本当の事』が辛い事ばかりなのよ。特に、私にはね」
「だから、嫌な事に目をつぶって、耳をふさいだままでいるの?それは逃げているだけよ」
レイの言葉に、マユミが体を震わせる。
「イヤよ!聞きたくない!」
「だめ!」
頭を抱えてうずくまるマユミに、レイは強い調子で言った。
「だめよ…逃げちゃ。嫌な事があっても。楽しい事を、数珠みたいに繋いで生きるなんて…そんな都合の良いことが事出来るはず無いよ…わたしも、そうだったから…」
「…え?」
顔を上げたマユミに、レイは言った。
「今朝、見つけたの。わたしがあなただった頃に使ってた眼鏡。マユミをやめたときに捨てたはずだったもの。でも、結局どんなに嫌な事であっても、それはわたしの一部分だもの…本当に捨てる事なんて出来ないよ…その証拠に、いまわたしは、こうしてあなたと出会っているんだから…」
マユミは黙ってレイを見つめていた。
「だから、あなたも逃げないで。自分を捨てないで。わたしも、もう逃げないから…」
レイは手を差し伸べた。マユミは、黙って自分の方に差し伸べられたレイの指先を見つめていた。
「…本当に、私にも出来るかしら?捨てつぃ待った自分を探す事が」
レイは頷いた。
「うん…きっと、見つかるよ。同じものは無理でも、代わりになるものはきっと見つかると思う」
その言葉に、マユミはおずおずと手を差し出した。そっと、レイの手に重ねる。最初触れ合うだけだった二人の少女の手は、やがてどちらからともなくしっかりと握り締められていた。
NERV臨時本部・前線指揮所
重々しいジェットエンジンの唸りが辺りを圧して響き渡った。世界各地より急遽搬送されたN2弾頭――元は弾道ミサイルや地雷、対軌道爆雷であったりしたものだが、それを航空爆弾へ改造したものを搭載した国連軍の爆撃隊が、市街地上空へ到達したのだ。
「来たか…」
上空を見上げてゲンドウが唸った。万が一の使徒の攻撃に備え、護衛戦闘機を引き連れた爆撃隊は、その総数二百機を超えており、明け始めた空を飛行機雲で塗りつぶすほどの迫力を持っていた。
「『大爆誕』作戦開始まで、あと100秒です」
日向が告げる。
「うむ…」
冬月が頷いた。タイミングを図っての「影」へのN2爆弾による絨毯爆撃。外れれば第三新東京市そのものが無事では済まない。下手をすれば、地球はおろか、この宇宙そのものをも破壊しかねない作戦が、今まさに始まろうとしていた。
「作戦開始まであと10秒…9、8、7…」
日向がややかすれた声でカウントダウンを開始する。冬月、ゲンドウ、ミサト、加持、リツコと言った幹部たち、そして青葉とマヤも、一声も立てず、身じろぎすらせず、その瞬間を待ち受ける。
そして、ビッグバンの威力から、「影」の崩壊を防ぐために、ATフィールドで守る役目のシンジとカヲルも。
「3、2、1…0!『大爆誕』作戦開始!一番、北米隊より投下開始します」
編隊の先頭機が黒っぽいN2爆弾を投下する。続けて、後続の爆撃隊が次々にタイミングを計らって爆弾を振り落とす。「影」の中に数百発の爆弾が吸い込まれるように消えていった。
「起爆まであと30秒!エヴァンゲリオン各機、ATフィールド展開用意!」
ミサトが号令を下す。その声に答え、「影」を挟み込むように展開していたエヴァが「影」に向かって手を伸ばす。
「ATフィールド…」
「全開っ!!」
二機のエヴァの差し伸べる腕の先に、淡いオレンジ色の輝きが灯る。それと同時に、前線指揮所のN2爆弾起爆までのカウンターがゼロを指した。
「綾波君…!」
「帰ってきて…!」
二人の少年が、そして見守る全ての人々の目の前で、「影」は何事も無かったかのように存在し続けていた。しかし…
使徒の世界
突然、夕暮れの空に光が走った。レイは驚いて窓の外を見た。紅かった空が、走り抜ける光で夏空のような真っ青な空へと変わっていく。
「…これは!?」
レイが言うと、マユミが笑った。
「大丈夫。あなたを迎えにきた人がいるのよ」
「え?」
レイがマユミのほうを振り返ると、彼女は席を立ち、ドアの傍に立っていた。列車は徐々に減速し始めている。
「もうすぐ駅に着くわ」
マユミがいうと同時に、列車は駅へ滑り込んだ。駅舎はあるが、駅名表示ボードなどは無い。奇妙な駅だった。列車が止まると同時に、ドアが開く。
「ここは?」
レイが尋ねると、マユミはニッコリと笑った。
「お別れね。あなたはここで降りなさい。そうすれば、来た場所へ帰れるわ」
レイはマユミに押されるようにしてホームへ降り立たされた。
「ま、待って!あなたは?どこへ行くの?」
レイの問いに、マユミは答える。
「…捨ててきた自分を探しに、かな」
その答えにレイは頷いた。
「うん…そう、なんだ。やっぱり、あなたは…」
マユミは頷いた。
「ありがとう。私を助けてくれて。それに、父さんと母さんを10年間支えてくれた事も…」
発車ベルが鳴り響く。
「私はあなたみたいに強くはなれないかもしれないけど、でも頑張ってみる。さよなら…綾波さん」
その言葉を最後に、ドアが閉まった。列車がゆっくりと動き出す。レイは遠ざかっていくマユミを追いかけて、ホームを走った。列車の中からマユミが手を振る。レイも、それに答えるように手を振った。
「さよなら…マユミさん。もう一人の、わたし…」
列車はホームを抜け、遥か彼方に遠ざかっていく。寂しげな夕焼けの松代の町並みは消え、希望をはらむような、夏空の大草原の中を。その影が地平線の向こうへ消えたとき、レイは振り返った。
「さて…どっちへ行けばいいのかな…」
その時、レイは陽炎にかすむホームの端に、誰かが立っているのを見た。
「…誰?」
その声に引かれるように、その影はレイの方へ向かって歩いてきた。その人物が、声を発した。
「…っしゃい…いらっしゃい。こっちへいらっしゃい。レイ…」
その声をきいたとたん、レイの全身を何かが走りぬけた。ひどく懐かしい感覚にとらわれ、視界がぼやける。
「え…何、これ…わたし、泣いてるの…?」
レイが呆然と呟くと、その人物はレイの前に立った。
「あら…どうしたの?」
その人物――声質と姿からして、ミサトやリツコと同年代の女性らしい――は、ひどくやさしい声で言った。
「泣かないで…レイ。大丈夫。さ、こっちへいらっしゃい」
女性はレイの肩を抱きかかえ、駅舎の出口に向かった。改札を抜けると、草原の中を、太陽の方向に向かって一直線に白い道が伸びている。
「ここをまっすぐ行きなさい、レイ。みんなが待っているわ」
女性に軽く押され、レイは道を歩き出した。レイは立ち止まろうとした。しかし、足が勝手に進んでいく。
「ま、待って…!聞きたいことがあるの!」
レイは必死に振り向いて、女性に呼びかけた。
「一緒に来てくれないの!?やっと会えたのに!」
彼女は寂しげに笑って言った。
「ごめんなさい、レイ。私はまだ、ここでやる事があるから…」
「やだっ!一緒に来てよ!」
次第に遠ざかる女性に、レイは必死に呼びかける。
「ごめんなさい…でも、私はいつでもレイのそばにいるわ…それだけは覚えていて…それに、あなたは一人じゃないわ。そうでしょ?」
彼女が言うと同時に、レイは前方から声が聞こえてくるのを感じた。自分を呼ぶ、真摯な声が。
「シンジ君…渚君…それに…みんな…?」
レイが呟くと、女性が言った。
「そう…だから、あなたは寂しくないはずよ。さよなら、レイ。いつかまた、会える日まで…元気で…」
その声と同時に、レイの前方の太陽が一気に輝きを増し、すべてが白く塗りつぶされた。
エントリープラグの中、眠るレイの目から一粒の涙があふれ、LCLに溶けて消えた。
「…おかあさん…」
その唇から小さな呟きが漏れ…
そして、止まっていた時計が再び時間を刻みだした。
NERV臨時本部・前線指揮所
最初は小さな地鳴りから始まった。
「これは…!?」
誰かが言うと、その小さな地鳴りが一気に大きな揺れに変わる。
「くっ…地震か!?」
冬月が叫ぶと、マヤが声を上げた。
「震源が…『影』の中心!深さ0!始まります!」
それと同時に、「影」の中心から周辺へ向けて光の波紋が走った。蛍を思わせる小さな光の粒が無数に飛び散る。
「『影』中心部に超高エネルギー反応!毎秒5億メガ・エレクトロン・ボルトのエネルギー発生を確認!」
世界の一日の消費電力に匹敵する膨大なエネルギーの漏出に、ミサトの顔色が変わる。
「シンジ君!カヲル!大丈夫!?」
視線を向けたモニターの先に、巨大なエネルギーの津波に立ち向かう二機のエヴァの姿があった。
『大丈夫です…意外に圧力を感じません!十分持ちこたえられます!』
カヲルの声がスピーカーから聞こえる。
「わかったわ。頑張って…!」
ミサトが激励の言葉を口にした直後、彼女の視線はモニターの一点に釘づけとなった。
「…球体が!?」
その声に、そこにいる全員の視線が集中する。上空の球体…亜空間に潜む使徒の「影」が、変化を見せていた。ストライプ模様の白の部分が一気に広がり、全体が白一色に変化する。そして、輪郭が崩れはじめ、見る間にその姿が変わっていった。
「…まさか!?」
ゲンドウが叫び、ミサトも顔を青くする。今や輝きを放ち始めたかつての球体は、長く伸びる翼のような構造物を天に伸ばしていたからだ。南極の悪夢が彼らの脳裏をよぎった。
「…セカンド…インパクト…?」
だが、その輝きはあのときのような禍々しさを持たず、むしろ清らかでさえあった。やがて、翼以外の部分が徐々に形を整え始める。それは、少女を思わせる人間の姿をしていた。
「物凄いエネルギー量だ…なのに、熱や圧力は全く無い…一体、何が起きているんだ…?」
モニターと計器を交互に見ながら青葉が呆然と呟く。やがて輝く「少女」は完全にその姿をあらわしていた。輝きに覆われ、細部までは見えない。だが、それは確かに、一対の翼を持つ少女の姿をしていた。
「…レイちゃん?いや、少し違う…」
その姿に同居人の少女の面影を見て加持が言った時、「少女」は、大きく翼を広げ、天に向かって飛び立った。それは、さながら天使の帰天の様にも似た、荘厳な光景だった。
その光景に全員が声を発するのを忘れて見つめ続けていたその時、シンジの声がその沈黙を破った。
「…見て!街が…綾波さんが!!」
彼のエヴァが指差すその先で、影から溢れる光の粒が凝縮し、形を作っていく。「影」に消えたビルが、車が、街路樹が、次々と再生していった。そして、ひときわ強い光が一ヶ所に集まったかと思うと、初号機がその姿をあらわしていた。
「綾波君!」
カヲルが、シンジが、慌てて初号機へ駆け寄る。
「大丈夫なの、綾波さん!返事をして!」
シンジが呼びかけると、今まで空白だった初号機のライブ映像中継用モニターに光が灯った。
「…シンジ君…渚君…みんな…聞こえてたよ…わたしを呼ぶ声が…」
モニターの向こう、浄化機能が落ちて赤黒く濁ったLCLの中で、レイが途切れ途切れに、だがはっきりした声で答える。
「綾波さん!」
シンジが叫ぶ。そして、全ての音声チャンネルにNERV職員たちがあげる歓喜の叫びが木霊した。
NERV本部 司令公室
「レイは多少衰弱が見られるそうですが、3日も休めば元気になると…そう、医者が言っておりました」
報告に来たゲンドウの言葉に、冬月が安堵の息をついた。しかし、すぐに深刻な顔になる。
「そうか…良かった。しかし、気になることがあるな」
「レイがあの世界で見た『夢』の事ですか?」
ゲンドウが言うと、冬月は縦に振った。
「ああ…今のところ緘口令は敷いてあるが…『委員会』の耳にでも入れば厄介な事になるぞ」
ゲンドウも頷く。
「ええ。それに、レイはおそらく真実の一端を知ってしまいました。これが我々と彼らのシナリオにどう影響を及ぼすか…」
「レイが…エヴァの真実を知ったら…」
「ええ。我々は、許してもらえんかも知れませんね」
それっきり、二人は黙ってテーブルの上に視線を落とした。
2日後 NERV本部 医務室
帰ってきた日と、その次の日は押しかけていた見舞い客も、2日目ともなると余り来なくなっていた。シンジとカヲルは毎日顔を出しているが、今は学校の時間である。する事もなく、レイは青葉たちが持ってきてくれた文庫本に時々目を通しながら、入院生活を送っていた。
すると、看護婦が何かを持ってレイのところへやってきた。
「綾波さん、お手紙ですよ。家に届いたのを、こちらに転送されてきたそうです」
レイが手紙を受け取ってお礼を言うと、看護婦は病室を出て行った。その差出人を見て、レイは驚いた。「山岸」とある。松代の養父母からの手紙だった。だが、宛先は「綾波 レイ様」となっている。かすかに震える手で手紙を取り出し、目を通していたレイだったが、やがて、彼女は背を丸めて嗚咽を漏らし始めた。
「綾波 レイ様
突然このような手紙を差し上げる事をお許しください。
あなたが去ってから、私たち夫婦は抜け殻のような日々を送っていました。しかし、不思議な事に、2日前、夫婦そろって同じ夢を見たのです。
夢の中に出てきたのは、マユミでした。マユミは私たちの寂しさを理解してくれたうえで、こう言いました。
『寂しい思いをさせてごめんなさい。でも、その寂しさをレイさんに背負わせないで…』
そう、私達はマユミがいなくなった事を信じられず、あなたに無理やり娘の面影を重ねていたのです。それがどんなにあなたにとって辛い事だったか、今になってようやくマユミに教えられました。
10年間、あなたに重荷を背負わせてしまった事を、心から謝りたいと思います。こんな事を言えた資格はありませんが、こんな愚かな私たちをどうかお許しください。
そして、マユミはこうも言っていました。
『時間はかかっても、なくしたものならきっと代わりは見つかる。私はレイさんにそう教えられたから、父さんも、母さんも、負けないで』
と。一体あなたとマユミの間に何があったのかはわかりませんが、私達はその言葉を信じて、生きていきます。素晴らしい二人の『娘』の言った事なのですから。
だから、祈らせてください。これから、本当の自分を生きていくあなたに、素晴らしい人生がありますように、と。
さようなら。どうか、お元気で…
山岸 アキヒコ ナルミ」
涙を流しながら、レイは言った。
「そう…帰れたんだね、マユミさん…夢じゃなかったんだ。それなら、きっと探せるよ…マユミさんのなくしたものを」
そして、彼女はあることに気がついて、顔を上げた。
「あれが夢じゃなかったとしたら…おかあさんも?」
小さな呟き。だが、それは彼女が、この世界を巡る大きな秘密の核心に近づく第一歩となったのだった。
(つづく)
次回予告
アメリカで建造中だったエヴァ四号機が起動実験中にネルフ第二支部ごと消滅する。
予期せぬ事件に対し沈黙を守る冬月とゲンドウ。みずからシナリオの修正をするゼーレの老人達。
そして四番目の子供が選出される。
捕らえどころのない不安と苛立ちを人々に与えながら…
次回、第拾七話「四人目の適格者」
あとがき
リツコ(原作版)「ふっ…無様ね」
ひいいいぃぃぃぃ!すいません!またしてもやってしまいました。前回あとがきで「今世紀中の公開を目指します」といっておきながらこの体たらく。誠に申し訳ありません。
実を言うとこの第拾六話はこの作品を書き始める前、構想段階から非常に書きたかったお話なのでした。しかし、それだけにどれだけ書き直してもまとまらない。使徒の世界のシーンなど三週間近く掛けて書いてます。
何度も何度も書き直し、ようやくできたのですが…それでもまだ不満の残る出来かもしれません。一番やりたい事って、実は一番上手くできない事なのかもしれませんね。原作のシンジが人との触れ合いを求めながら、なかなかそれが出来なかったように。
ともあれ、ようやく第二部まで来ました。いよいよ物語も佳境です。後12話、全力で書いていくので今後ともよろしくお願いいたします。
2001年1月新春 さたびー拝
さたびーさんへの感想はこちら
Anneのコメント。
>(嫌な夢…最近は見た事が無かったのに。あの眼鏡を見たせいかな…)
ふむ・・・。興味深いセリフですね。
やはりアスカ的役割が居ないから、レイはアスカの役も担っているのかな?
>『待ってください、司令!まだ綾波君が…!』
>「馬鹿者!エネルギーの切れた弐号機で何ができる!早く下がらんかっ!」
おおうっ!?冬月先生、格好良すぎますっ!!!(大歓喜)
正にロボットアニメ的司令官の熱い魂の迸りを感じます。
>「二人の言う事はまさにATフィールドの本質を現している。
> 外部からの力に抵抗する事で、自分を守る。それが物理的な影響力をもって発現する時に、ATフィールドが形成される。
> が、これは外向きのATフィールドなのだ」
>「これに対し、内向きのATフィールドは外部に対して己を隠す事で、自分を守ろうとする心の動きから発現する。
> 内向きのATフィールドは、その内部に隠されたものを決して見せない。
> そこにはただの虚無があるばかりだ。その虚無が、あの『影』なのだよ」
なるほど・・・。これは迂闊でした。
密かにエヴァは第16話にしてアンチATフォールド、人類補完計画の全貌をレリエルを使って説明していたんですね。
いやいや、今まで何となく漠然と感じていましたが、今の今まで確信に至るまで気付きませんでした(^^;)
実際、今回レイに起こった現状は正に補完計画って感じですものね。
>「忘れてしまったの?私はあなたよ」
>「…えっ…?」
なんと、まあ・・・。なかなかレイも可哀想な生い立ちをしてますね。
それにしても、マユミは既に逝っちゃっていたんですね。
で、レイの過去=マユミと言う設定起用もなかなか興味深いです。
だって、良くマユミ=女の子版シンジと言われるじゃないですか?
これにより、REPLACEにおける配置転換の妙であるレイ=シンジの要素が強くなりますからね。
う〜〜〜ん・・・。いつもながら、さたびーさんの深い考えには脱帽です。
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