芦ノ湖上空
NERVのロゴをステンシルした大型ヘリが、爆音を立てて第三新東京市の上空を飛んでいた。眼下には芦ノ湖が見え始め、やがて幾つかのきれいな円形をした湖が姿を見せた。
第一使徒戦の際に使用されたN2地雷の爆発孔、第三芦ノ湖と第七使徒の爆発孔、第四芦ノ湖だった。
「4つの芦ノ湖か…これ以上増えない事を望むよ」
窓から下界を見降ろして冬月は呟いた。ちなみに、第二芦ノ湖はジオフロントの地底湖である。
「日本政府からの抗議がやかましかったですからな」
同乗していたゲンドウも頷いた。
「やかましいと言えば、『ゼーレ』の連中もです。司令相手では埒があかないと思ったのか、私に直接抗議してきました。まあ、適当にあしらっておきましたが」
「計画は順調に進んでいる。連中にはそう報告してあるが、よほど信用が無いらしいな我々は」
冬月の苦笑混じりの一言にゲンドウも思わず笑みを浮かべる。
「仕方ありませんよ。連中の疑惑は『事実』ですからな」
「はは、そうだったな」
やがてヘリは高度を上げ、外輪山を越えて関東平野のあるほうへ向けて飛び去って行った。
同時刻 近畿自治州 京都市南部閉鎖地区
日本の文化の源流であり、「千年の都」と詠われた古の街、京都。
だが、2015年の現在、京都にはその面影を残すものはほとんど無くなっていた。セカンドインパクトによる海面上昇で、市街地は南半分まで拡大した大阪湾に侵入されている。街に出された避難警報はそのまま解除される事無く、今や人っ子一人いない京都は、応仁の乱に焼き尽くされた戦国時代をも上回る荒廃にさらされた、ただの廃虚でしかなかった。
その廃都の中を、加持が歩いていた。
「ここか」
閉鎖地区に入り込んだ加持は、一軒のプレハブ事務所の前に立つと、15年前の地図と見比べて番地を確認した。さび付いたドアノブに手を掛け、力を入れるとドアは意外にもあっさりと開いた。風が起こり、もうもうと埃が舞いあがる。
「ひどいもんだ」
埃が収まると、加持はゆっくりと中に足を踏み入れた。ぼろぼろの事務机と、空っぽの錆付いたスチールラック。机の上には今時どころか、これが置かれた当時でさえ珍しくなっていたであろうダイヤル式の黒い電話が寂しげに置かれている。ふと、手に取って耳に受話器を押し当ててみるが、当然ながら何の音も聞こえてはこなかった。
「………」
受話器を置き、加持は懐のブローニング・ハイパワーに手を掛けた。かすかに人の気配を感じたのだ。足音も立てず、滑るようにドアの横に移動する。
「…誰だ?」
加持が言うと、聞き覚えのある声が壁の向こうから聞こえてきた。
「部長、私です」
「鈴谷君か…少しは用心しろ。俺が敵なら君はもう死んでいるぞ」
加持はそう言ってドアを開けた。外には彼の部下が立っていた。保安部のうち、調査課に属する二尉である。
「加持部長相手に気配を隠し通せる人間なんて、そうそういませんよ。私なんかじゃとてもとても」
鈴谷二尉は悪びれもせずそう言うと、建物の中に入り込んできた。手には書類入れを持っている。
「その様子だとあったみたいだな」
「ええ、大津の自治州政府の資料庫をひっかきまわして、ようやく」
加持の質問に答えて鈴谷は書類入れを手渡した。加持は無言で中の資料を引っ張り出す。それは、ある会社の登記簿だった。
「シャノン・バイオ・ジャパン。外資系の薬品会社…出資者はローレンツ・コングロマリット…役員は…」
「一応調べましたが、全員存命しております。ただし、書類の上だけの事ですが」
「"戸籍上の生者"か…」
加持は呟いた。戸籍上の生者。セカンドインパクトの犠牲者で、社会混乱の中で死亡届が出されなかった人々である。その多くは戸籍を不法入国者や犯罪者の隠れ蓑として使われ、大きな社会問題になっていた。
「これでマルドゥック機関に通じる108の企業、その全てがダミーだと判明したわけだ。やはり奴等には実体が無いようだな」
加持が言うと、鈴谷は頷いた。
「ご苦労だった。近畿地区での後始末は一任する。俺は急いで戻らなきゃならん」
資料を返し、加持は鈴谷に指示を下した。
「わかりました。報告ですか?」
鈴谷が訊くと、加持は始めて彼らしいいたずらっぽい笑みを浮かべて振り返った。
「いんや。結婚式なんだ。友人のね」
新世紀エヴァンゲリオンREPLACE
第拾伍話「嘘と沈黙」
第三新東京市・市立第壱中
市立壱中は昼食の時間だった。
「さ〜て、メシや、メシ!これがなんと言っても一番の楽しみやからのぉ〜」
トウジが大声を上げて立ち上がる。周囲の生徒たちがくすくすと笑った。
「じゃあ、購買にでも行くか」
ケンスケも立ち上がった。ちなみにこの時代、給食と言うものはない。セカンドインパクト以来の不況で給食費は真っ先に削られてしまったからだ。
「フッ…カツサンドはいいね。人類が生んだ食文化の極みだよ…」
とカヲル。早くも何を食べるか決めているらしい。
一方、三人娘は早くもお弁当を広げ始めていた。と言ってもおかずを作ってくるのはヒカリだけで、マナとレイは買ってきたおにぎりやパンと一緒にヒカリが多めに作ってきたおかずをつまむのが、彼女たちの定番のスタイルである。
「相変わらずヒカリの料理は美味しいわよね〜」
から揚げを食べながら至福の表情を浮かべるマナ。一方、肉の苦手なレイはポテトサラダを購買部で買ってきたコッペパンに乗せて食べながらこくこくとうなずいた。コッペパンは不人気メニューなので彼女でも余裕で買えるのだ。
「ん、ありがと」
ヒカリがニコニコ笑いながら礼を言った。その顔がふっと真顔になる。その表情の変化に、レイとマナもヒカリの視線の先を追った。そこにはシンジがいた。
「あれ?シンジ君、あの三人と何か買いに行ったんじゃなかったの?」
レイが尋ねると、シンジは黙って首を振った。
「あまり食欲がないんだ…だから、これで十分だよ」
そう言ってシンジが取り出したのは、幾つかの薬のビンだった。「ビタミン」とか「カルシウム」とラベルには書いてあり、見た目には区別の付かない錠剤が入っている。
「駄目じゃない!ちゃんと食べなきゃ…!」
レイが思わず立ち上がった。
「あんなに美味しいご飯が作れるんだから、残ったおかずをお弁当にするとか、とにかく食べないと体壊しちゃうよ!」
レイの言葉に、シンジは首を振る。
「でも、父さんもミサトさんもあまり家に帰ってこないから、余るほどおかず作らないし」
レイはシンジの几帳面な性格を思い出して溜息を付いた。きっと、家族のスケジュールに合わせて残らないような作り方をしているのだろう。
「…わかった。じゃあ、わたしがシンジ君にお弁当を作ってあげる!」
「「ええっ!?」」
レイとしてはシンジを心配するあまり思わず言った言葉であったが、マナとヒカリは妙なポーズで固まった。
「れ、レイ…それって、すっごく大胆な発言…」
「い、いや〜んな感じ…」
「え?」
言ってから、レイは自分の発言の意味に気が付いて真っ赤になった。
「え?え?あ、いや…その…」
そこへ、購買から戻ってきたトウジ、カヲル、ケンスケがやってきた。
「何をしているんだい?」
カヲルに聞かれ、三人娘は慌てて椅子に座った。そこへ、トウジの能天気な声が響く。
「お、うまそうやのぉ。これ、いいんちょが作ったんか?」
トウジがタッパーに詰められたおかずを見てヒカリに尋ねた。
「え?う、うん。そうよ…」
何故かうつむき加減になって答えるヒカリ。一方、レイは話がそれた事にホッとしていた。
「ほうか。一つもらうで」
言うなり、トウジはから揚げを一つ取って口に放り込んだ。
「ああ〜〜〜〜〜っ!?」
マナが大声を上げて抗議するが、一旦口に入った料理はもう元には戻せない。
「おう、やっぱ美味いわ。いいんちょの料理は。いいんちょをヨメはんに貰う男は幸せやでぇ」
済ました顔で感想なぞ述べるトウジに、ヒカリは顔を真っ赤にし、マナは食って掛かった。
「ひっど〜い!鈴原君!勝手に取っちゃって!」
「え、ええやないか…な、いいんちょ?」
トウジが助けを求めるようにヒカリに顔を向けると、ヒカリは赤面したままおもわず首を縦に振っていた。
「う、うん…良いよ」
トウジは勝ち誇った顔でマナに言った。
「ほれ、いいんちょもええって言うとるやないか」
「む〜〜〜〜〜、ヒカリぃ」
マナはまだ膨れた顔をしている。から揚げは彼女の好物なのだ。
「取っても良いのか?じゃ、俺も…」
ヒカリの態度を都合よく解釈して手を伸ばすケンスケ。その手の甲を、何かがビシリと叩いた。
「痛えっ!?い、委員長、何で俺には…?」
涙目でケンスケが見る先には、なぜ彼を箸で叩いたのか、自分の右手を不思議そうに見つめるヒカリがいた。
「フッ…これはあれだね、霧島君」
「あ、やっぱり?渚君もそう思う?」
小声で話をするマナとカヲル。
「実はさっきもね…」
「やっ、やだっ!マナ、ストップ!」
マナが何を言い出そうとしているか悟って止めに入るレイ。しばらく大騒ぎがあった後、昼休みは終わった。
「はあ…」
レイは溜息を付いた。その場の勢いとは言え、「お弁当作ってあげる」とは、我ながら余りに大胆な発言をしたものである。その時、レイの端末にメールが入った。
『レイ、料理作れるの?良かったら私が教えてあげるけど』
ヒカリからだった。レイは思わずヒカリの方を向き、手を合わせて拝んだ。ヒカリがにっこり微笑んで頷くのがレイにも見えた。幸い、今日はNERVのテストはない。幹部の大半が出払っているのであった。
関東メモリアル・パーク
そこは死者の国だった。
見渡す限り、地平線の果てまで続いているのではないかと思うほどの墓碑の群れ。ここには関東地方でセカンドインパクトや一週間戦争の犠牲となった百数十万人のうち、身元が確認されたほんの何パーセントかの人々が眠っているに過ぎないはずだが、いつ来ても圧倒されるような想いに囚われる。
休暇を取ってここへやってきたリツコは普段の白衣とは対照的な黒いスーツに身を包み、花束を小脇に抱え、広大な墓地の中を歩いていた。やがて一つの墓碑の前に足を止める。
「今年は…会いに来れたわ。兄さん…」
そう呟いて、リツコは花束を供えた。そっと手を合わせる。その墓石には一つの名前が刻まれていた。
SHINICHI, ROKUBUNGI 1983−2000
あの地獄の中で、リツコを守り、そして死んでいった兄。六分儀家の長男であるシンイチの墓だった。
「兄さん…」
リツコの意識は、いつしか15年前のあの日に飛んでいた。
リツコ回想――2000年7月、厚木市郊外
烈風が唸っていた。その風の中に火の粉が、そして叩き付けるような大粒の雨と雹が舞う。辺りには到壊した建物が雨にも消せない勢いで炎上しつづけており、人々はその悪夢のような光景の中を黙々と歩いて避難しつづけていた。
それはセカンドインパクト発生から半日後の事だった。南極で起きた大爆発が地球を揺るがし、大地母神の挙げる苦悶の叫びは地震、火山噴火と言った形で人々を打ち据えた。地殻変動だけではない。地軸が傾きつつある地球上の大気は急激に数千キロも移動する大地に引きずられ、世界中に観測した事も無いような凄まじい嵐を巻き起こしていた。
しかし、14歳だったリツコにはそんな事は分からない。24時間以内の高台への退避を呼びかける政府の勧告に従い、避難民の列に加わって歩く事だけだった。時折地震が起こり、その度に悲鳴が上がり、何かが崩れる音がする。そして、この嵐。時々、力尽きて道端に倒れている人影があっても、誰もそれに構う余裕はない。
それはリツコにとっても人事ではなかった。いかに頭脳が早熟な天才ぶりを示していたとは言え、肉体的には並みの少女でしかないリツコは、とっくに脱落していてもおかしくなかった。事実、彼女は今にも倒れそうな程に疲労困憊している。
「大丈夫か、リツコ」
それを支えていたのが、この力強い声――三つ年上の兄、シンイチのものだった。
「うん、お兄ちゃん」
気力を奮い起こして笑顔を見せる妹に、シンイチは笑い掛けた。研究の鬼で、家族を省みず今も南極にまで出かけている父親に反発し、彼はスポーツの道を選んだ。今では神奈川でも甲子園常連校として有名な高校の野球部に在籍し、来年は主将間違いなしと言われる逸材として知られている。その鍛え上げた肉体と、妹を守ると言う使命感が、この大異変の最中でリツコを守り続けてきたのだ。
「ったく、あのクソ親父め。こんな時に家族のそばにいないでどうすんだよ」
シンイチが多分に自分自身の気力を奮い起こす目的で、ここにいない父親を罵倒する。その父が、今まさに大異変の中心部で生き延びるために苦闘している事も知らず。
兄の元気が、それが空元気であったとしても――伝染したリツコが、またしっかりとした足取りで歩き出した。まさにその時だった。
視界が、ぶれた。
「地震だ!でかいぞ!」
誰かの叫び声。次の瞬間、宙に放り出されるのではないかと思うほどの猛烈な突き上げが襲ってきた。ダン!ダン!ダン!と言う衝撃が人々を襲い、地面に打ち倒す。列が将棋倒しになり、押し潰された不運な者が絶叫を放って動かなくなる。
「お兄ちゃん!」
「リツコ!今行くぞ!」
ショックに突き転がされ、離れ離れになったシンイチが、リツコの方へ這うようにして近づこうとする。揺れは収まるどころかますます激しくなり、人々は立つ事すら出来ない。
ようやくシンイチがリツコの傍まで寄ったその時、破局が訪れた。大地が裂け、見る間に幅十メートルを超す地割れが生じる。避難民が絶叫と共に地の底へ吸い込まれていくのを、誰も止める事が出来ない。リツコの目にも、地割れがスローモーションのように兄の方へ迫ってくるのが見え…そして、次の瞬間、彼女は飛び出していた。
「お兄ちゃん!」
「リツコ…!?」
思わず飛び出したリツコは、その細い腕で地割れに落ちかけた兄の体を支えていた。
「リツコ!」
「待ってて…お兄ちゃん…いま、たすけて…あげるから…」
「馬鹿!よせっ!お前まで落ちるぞっ!」
シンイチは叫んだ。事実、彼の体重に引かれてリツコの体はじわじわと地割れの淵からはみ出しつつあった。
「やだよ…一緒に行くんだよ…」
リツコは満身の力を腕に込めた。しかし、彼女の力で兄を引き揚げられるはずが無い。上半身が鳩尾のところまで地割れにせり出した時、兄は決意を込めた目でリツコを見上げた。
「リツコ、箱根へ行け。母さんのところへ…」
次の瞬間、シンイチはみずからリツコの手を払い除けた。
「お兄ちゃん!?」
「箱根だ!箱根へ…!」
そこ知れない深淵の底へ落下しながら、シンイチは最後まで「箱根」を繰り返していた。
「お兄ちゃん!お兄ちゃーん!」
その時には揺れは収まり、兄の後を追って地割れに飛び込みかねなかったリツコは、回りの避難民に引きとめられた。
それからどうやって箱根――当時、母ナオコが在籍していた「ゲヒルン」日本本部研究所へ辿り着いたのか。その間の記憶はリツコには無かった。ただ、あの別離の時、地の底へ消えながら最後まで自分に向け続けられた兄の笑顔が彼女の脳裏に焼き付いたのだった。
「お兄ちゃん…」
いつしかリツコの双眸からは涙があふれ、彼女は14歳の少女の頃に戻ったかのように泣いていた。
「…ごめん。だらしないとこ見せちゃったわね」
リツコは涙を拭って立ち上がった。
「また、来るわ」
そう言ってきびすを返そうとした時、リツコは思いもかけない人物の姿を見た。
ゲンドウだった。彼もまた、花束を抱えていた。
「…どうして、ここに…」
リツコがそう絞り出すように言うと、ゲンドウは言った。
「墓参りだ」
それだけを答え、彼は跪き、花を墓碑に捧げた。手を合わせ、しばし祈る。
「人は忘れる事で心の傷を癒す事が出来る。だが、決して忘れてはならない事もある。例えば、私の背負った罪のように。シンイチは、私がそれを知る前から、私にその事を教えてくれていた」
祈りを終え、立ち上がったゲンドウは言った。
「だが、私はとうとうあの時までそれに気づく事が出来なかった。だから、こうして私はその確認をするためにここへ来ている…」
そう言うと、ゲンドウはリツコに背を向けた。その背中に、リツコは尋ねた。
「シンジ君の事は?あの子は…」
ゲンドウは振り返らず答えた。
「シンジはシンジだ。シンジと言う一個の人間だよ。今言える事はそれだけだ」
ゲンドウはそれを最後に歩み去って行き、やがて乗ってきたらしいヘリが空へ向けて舞い上がるのをリツコは見送った。
NERV司令部専用ヘリ
ゲンドウは再び冬月と向かい合って座っていた。
「リツコに、会いました」
ゲンドウが言うと、冬月はそうか、と一言答えた。
「彼女の墓にも花を添えておいたよ」
冬月が言うと、ゲンドウは黙って頭を下げた。冬月もまた、別の人物の墓参りに来たのだ。
「ナオコ君なら許してくれると思うがな。彼女の墓に詣でる事を」
その冬月の一言に、ゲンドウは首を横に振った。
「シンイチが許してくれませんよ。それに、何よりも私自身が。私は…彼女に別れを告げてしまった身ですから」
「…そうか」
それっきり、機内には言葉を発するものはなく、沈黙が満ちた。
洞木邸
ヒカリの家はレイの住む冬月邸やシンジたちの住むコンフォート17のある2番街区の反対方向、18番街区にあった。第三新東京市として再開発が始まる以前の古くからの住民が多く住む地区で、マンションなどの集合住宅はなくほとんどが一軒家。ヒカリの家も築十年を越える二階建てだった。この家に洞木一家が引っ越してきたのが1年前の事になるらしい。
「おじゃまします」
「どうぞ」
レイは持ってきたスリッパを履いて家に上がった。実を言うと、ヒカリの家はまるで方向が違う事もあって訪れるのははじめてなのだ。
「あ、レイお姉ちゃん!いらっしゃい!」
レイの姿を認めるや、こぼれんばかりの笑顔で出迎えてくれたのはノゾミだった。第三使徒戦で命の危機を救われていらい、ノゾミにとってレイはヒカリと同様に慕う「もう一人の姉」となっている。
「こんにちわ、ノゾミちゃん。元気にしてる?」
レイも笑顔でノゾミに挨拶した。きょうだいのいないレイにとっても、ノゾミは妹が出来たようで可愛いのだ。
「今日レイお姉ちゃんが料理作るんですよね?楽しみにしてます!」
にこにこと笑うノゾミだったが、レイはほとんど料理歴の無い自分の腕に自信が全く持てないだけに、ひきつった笑いを返す事しか出来ない。
「あはは…な、なんとか頑張ってみるね…」
するとレイの困った様子を察し、ヒカリが割って入る。
「ほらほら、ノゾミ。分かったから出来るまで待ってなさい。レイに迷惑でしょ」
「ふーんだ。なによ、ヒカリお姉ちゃんのイジワル」
あかんべーをして台所から出て行くノゾミ。
「もう…しょうがないわね」
苦笑するヒカリだったが、レイに向き直るとさっそく検討してきたメニューの材料を取り出す。
「じゃあ、簡単な所で…ウィンナーとピーマンの炒め物…くらいからかな」
「うん…」
まずはヒカリが手本を示すため、ウインナーを「タコさんカット」すると、続いてピーマンのへたと種を取り、手早くざく切りにする。
「じゃあ、レイ、やってみて」
「う、うん…」
ざくざくとおぼつかない手つきでウィンナーをカットするレイ。足の太さが見事にバラバラである。
「痛っ!」
さっそく指先を切ってしまった。それほど深い傷ではないが、血が滲んできてレイは慌てて指を口にくわえた。
「大変!急いで洗って!」
ヒカリがそう言いながら蛇口を開けるより早く、台所の入り口の暖簾を撥ね退ける様にノゾミが飛び込んできた。
「大丈夫!?レイお姉ちゃん!」
手際の良い事に救急箱を小脇に抱えている。
「手、出して!」
「う、うん…」
レイが手を差し出すと、ノゾミが傷に消毒薬を塗り、ばんそうこうを貼る。
「はいっ!これでもう大丈夫よ!」
「あ、ありがとう、ノゾミちゃん…」
にっこりと笑って言うノゾミに礼を言うと、ノゾミはにこにこしながら居間の方へ戻っていった。
「まー…すっかりレイになついちゃって…本当の姉にはあれほど優しくないわよ」
ヒカリの言葉にレイは苦笑した。
「あはは…これ以上ノゾミちゃんを心配させちゃ悪いわね。気を付けなきゃ…」
その後、レイはヒカリに包丁の使い方を教わりつつお弁当のおかずを仕上げていった。タコさんウィンナーとピーマンのごま炒め、たまご焼き、紅鮭の塩焼き。本番ではご飯にはおかかを挟んで上に海苔をかぶせる予定だが、今日はおかずだけだ。
「できた…」
レイは最後の鮭を皿に移して言った。始めてからもう二時間近く経っている。
「見掛けは良くないけど…」
ヒカリのお手本に比べると、切り方は不揃いだし、たまご焼きは崩れている。鮭もちょっと焦げている。
「でも、美味しそうだよ」
と言ってくれたのはノゾミだ。
「ありがと。じゃあ、さっそく食べようか」
ヒカリがご飯をよそい、三人はちゃぶ台を囲んだ。
「いただきます」
「いただきまーす!」
レイが見守る前で、ヒカリとノゾミはレイの作った分を取り、口に運んだ。
「…ど、どう?」
レイが恐る恐るたずねると、ノゾミが目を輝かせて言った。
「うんっ、美味しいよ!」
「えっ?本当に?」
レイが聞き返すと、ヒカリが答えた。
「うん。ちょっと塩気がきつい気がするけど…でも大丈夫。これならシンジ君も美味しいって言ってくれるわよ」
「本当!?良かった!」
レイが顔をほころばせると、ノゾミが目を輝かせて聞いてきた。
「ねえねえ、シンジ君って誰?ひょっとして…レイお姉ちゃんの彼氏?」
その言葉に、レイの顔が「ぼんっ」と言う効果音が聞こえて、顔面から湯気が立ちそうな勢いで真っ赤になった。
「ちっ…違うわよ…クラスメイトの男の子で…」
「あははっ、隠さなくてもいいのにぃ」
レイに最後まで言わせないノゾミ。
「ちょっと…ノゾミったら何マセた事言ってるの!」
何故かやはり顔を赤くしたヒカリが言うが、ノゾミは一向に意に介さない。
「でも、レイお姉ちゃんだったらきっと良いお嫁さんになれるな〜。さっき、ご飯作ってる時『お母さん』って感じがしたモン」
その言葉に、レイの顔がますます赤くなる。
「も、もうっ!何を言うのよっ!ノゾミちゃんったら!」
「お嫁さんだなんてまだ早すぎるわよ!」
「あはは、ごめんなさぁ〜い」
少女たちの楽しい晩餐はこうして続いていった。
「あれ?もうこんな時間だわ。そろそろ帰らなきゃ…」
食後、おしゃべりに興じていたレイだったが、時計の針が八時半を指しているのを見てびっくりしたように言った。
「そうね。じゃあ、また明日」
「ばいばい、レイお姉ちゃん」
「うん、またね」
レイは微笑んで手を振ると、家路についた。手にヒカリのくれたレシピと、自信を抱きしめて。
NEON GENESIS EVANGELION
OTHERSIDE STORY "REPLACE"
EPISODE:15 Can I love you again?
第三新東京市内のとあるホテル
大学時代の同級生の結婚式場は市内のホテルにあった。オレンジ色のスーツに身を包んだミサトは、同じ卓の出席者がなかなかやってこないので、仕方なくスパークリング・ワインをちびちびと舐めながらじっと式の様子を眺めていた。「人生の先輩からのはなむけの言葉」として送られる年配者からのスピーチ。ケーキカット。2015年の今になっても定番な、新郎新婦の友人たちによる「てんとう虫のサンバ」の合唱。繰り返されるお色直し。
「やあね…30前になるとみんな焦っちゃってさ…」
そう言うミサトの横に、リツコがやってきた。
「遅いわよ、リツコ」
「ごめん。寄るところがあったから、遅くなっちゃった」
不機嫌なミサトの声に答えるリツコは、ここに来るまでに紫色のパーティードレスに着替えていた。墓地で見せた涙は既に跡形もない。
「加持君もまだなの?」
リツコが空席を指して尋ねると、ミサトはまだ不機嫌な声で言った。
「加持君が時間の約束守った事なんて、無いじゃない」
心当たりのありすぎるリツコは艶然と微笑んだ。
「そう言えばそうね」
そこへ、噂の人物が現れた。礼服を着た加持である。
「よっ、2人ともおそろいで」
砕けた口調で言う加持に、リツコは「今来たところよ」と答えた。
「良いわね〜男は。ネクタイ白黒代えるだけで冠婚葬祭全部OKなんだから…」
ミサトが言うと、加持も笑って応じる。
「それが男の特権でね…そういう葛城は新しい服にしたみたいだな。あのお気に入りの空色のドレスはどうしたんだ?」
「う…ちょっとね」
加持に聞かれたミサトが口篭もると、事情を悟ったリツコが小声で言った。
「…きつくなったのね?」
「そ、そうよ…」
顔を赤くしてそっぽを向くミサト。加持が笑った。
「笑っちゃ駄目よ、加持君…ほら、貴方もネクタイ曲がってるじゃない」
そう言いながらリツコが手早くネクタイを直しにかかる。それを見て、ミサトが逆襲とばかりにからかった。
「そうしてると、夫婦みたいよ。2人とも」
この一言の威力は抜群だった。普段なら「良い事言うねぇ」くらいで済ませそうな加持も、そしてリツコも顔を赤くして固まったのだ。
「…」
威力が抜群すぎて自分まで爆発に巻き込まれた事を悟ったミサトは黙ってワインを傾け、にぎやかな結婚式の最中にもかかわらず、卓には不思議な沈黙が漂った。
ホテル・スカイラウンジ
やがて結婚式は終わり、友人たちを集めた二次会があって、今は加持、リツコ、ミサトの3人だけで三次会に突入していた。
「ちょっち、トイレ」
そう言ってミサトが立ち上がった。かなり酔っているらしく、足取りが覚束ない。
「おいおい。大丈夫か?」
加持が言うと、ミサトは「へーき、へーき」と言いつつ出口のほうへ向かっていった。
「やれやれ、しょうがないな…あ、そうだ。これ、おみやげ」
そう言って加持は水晶でできた猫のブローチをリツコに手渡した。
「あら、ありがと…って、甲府?」
「今の京都じゃみやげ物なんて手に入らないからな。途中下車して買ってきた」
リツコの疑問に加持が答える。昔の東海道新幹線もあちこちで水没して通行不能になっているため、関西に行くのにはリニアの中央新幹線が一番早い。
「…ところで、ミサト遅いわね」
リツコがなかなか戻ってこないミサトの席に目をやると、そこにはトイレに行くには必要ないはずのハンドバッグがなかった。
「…逃げた?」
不審げな表情で言うリツコ。
「もう…ミサトったら、何を考えているのよ。人を放って置いて先に帰るなんて…」
立ち上がりかけたリツコの腕を、加持が掴んだ。
「…加持君?」
加持の思いがけない行動に、リツコは戸惑ったような表情を見せる。その彼女を見上げ、加持は口を開いた。
「りっちゃん…今晩は…俺ととことん付き合ってくれないか?」
その声は真剣で、いつもの茶化すような雰囲気は微塵も無かった。それに気圧されたように、リツコは思わず椅子に座りなおす。
「…」
「…」
付き合ってくれ、とは言ったものの、加持は何も言わず黙ってグラスを傾けていた。一方、リツコも口を閉じたままである。彼女にもわかっていたのだ。
なぜ、ミサトが先に帰ったのか。
やがて、加持が口を開いた。
「何年ぶりだろうな…こうして君と2人で飲むのは」
「7年…いえ、8年ぶりかしら?」
リツコは答えた。その表情は硬い。以前2人で飲んだ時。それは、余りにも苦い思い出として、2人の脳裏に刻まれているのだった。
「8年ぶりか…気持ちを整理するには十分な長さだ…」
そう言って、加持は手にしていた水割りのグラスを置いた。
「…加持君」
その横顔を見ながらリツコは呼んだ。彼女の方を振り向く加持に、尋ねる。
「私は…変わったかしら?」
「ああ」
加持は頷いた。
「奇麗に…なったよ」
「貴方は変わらないわ」
リツコはその答えにフッと笑みを浮かべる。
「そんな台詞がスッと出てくるところなんか、特に…」
「そうかもしれん」
加持が答える。
「少なくとも、君への想いは…」
「…」
リツコはグラスを傾けて言った。
「ホメオスタシスとトランジスタスね…」
「現在を維持しようとする力と、変えようとする力、か…」
加持は呟くようにリツコの言葉に答えた。
「男と、女だな」
「…」
2人は再び沈黙し、黙ってグラスを傾け始めた。
冬月邸
「こんな…ところかな?」
レイは目の前に並んだ弁当の材料の下拵えを前に満足そうな笑みを浮かべた。それをあるものはラップをかけ、冷蔵庫へ入れていき、炊飯器のスイッチを入れる。
「これで良し。あとは…」
自分の部屋へ戻ると、目覚し時計を取り上げ、普段より30分早くタイマーをセットした。
「…シンジ君、喜んでくれるかな…」
そう言ってレイが目覚し時計を置いた時、インターフォンが鳴った。
「ただいま、レイ」
帰ってきたのは冬月だった。
「お帰りなさい。おじ様」
玄関にやってきたレイは、冬月が普段の制服とは違う黒の礼服を着ている事に不思議そうな表情を浮かべた。
「おじ様、普段の服はどうしたの?今日法事でもあったの?」
レイに問われて、冬月はまだ礼服を着たままだった事に気が付いた。
「ああ、いや。墓参りだよ」
それを聞いてレイは首を傾げた。幾ら墓参りと言っても、普通は礼服で行ったりはしない。その彼女の表情に気が付き、冬月は答えた。
「その人は、とても…大事な人でね。礼を失した格好では行きたくなかったのさ」
「そうなんだ…」
それを聞いて納得したのか、レイは冬月が差し出した礼服の上着を手に取ると、クローゼットに駆け寄りながら言った。
「ところでおじ様、お風呂沸いてるよ」
「ああ、わかった。入らせてもらうよ」
冬月は微笑しつつ靴を脱ぎ、家に上がった。だが、心の中では別の事を考えていた。
(済まないな、レイ。本当ならお前も連れていってやりたかったが…)
冬月が花を捧げた墓の主、それはレイにとってもこの上なく重要な意味を持つ人物だった。
(だが、今はまだ真実を話す事は出来ない…いつか、本当の事を話す時が来たら、お前はワシを許してくれるだろうか…)
かいがいしく振る舞うレイを見ながら、冬月の内心は苦いものに満たされていた。
とあるガード下
2人の人影が歩いている。一方は長身の男性で、よろよろとした足取りの女性を支えるようにして歩いていた。
「大丈夫か?りっちゃん」
「うん…大丈夫」
男は加持であり、女性はリツコだった。リツコの顔は青く、あまり大丈夫そうには見えない。
「珍しいな…りっちゃんがこんなに酔うまで飲むなんて。…いや?」
加持は首を傾げた。そう言えば、彼はリツコが誰だけ飲めるのか知らなかった。彼自身はかなりの酒豪だし、ミサトも負けずにいける口だから、もう一人のリツコも飲める方なのかと単純に考えていた。
だが、考えてみればリツコは決して大量に飲酒する事はなかった。
「しょうがないじゃない…だって、怖いんだもの」
「怖い?」
思いがけない言葉に、加持は思わず聞き返した。
「そう…怖いの…」
「怖いって、何がだよ」
加持が改めて聞き直すと、リツコはそれには答えず口を開いた。
「8年前…貴方のプロポーズをごまかしたわよね。他に好きな人がいるから、って。あれ、嘘だったの」
加持は頷いた。8年前、2人で飲んだ時の苦い思い出とはそれだった。
その時のショックで、と言うわけではないが、加持はその後自衛隊へ進み、リツコとは疎遠になった。そして、3年前、彼女はNERVに移籍した加持と入れ替わるようにドイツへ旅だったが、離れていても彼女が特定の個人と交際していると言う噂を聞いた事はない。
「気づいたの…加持君は、私の兄さんに似ているって」
リツコは加持から離れ、彼の顔を見据えた。
「兄さんは、私の支えだった。忙しくて、滅多に帰ってこない両親の愛情に飢えていた私にとって、兄さんはまさに父親代りだったの」
言いながらリツコの肩は震え始めていた。
「セカンドインパクトで兄さんが死んで…母さんが死んで…父さんは相変わらず離れていて…私は一人で、ミサトの姉代わりになった。今まで支えられる一方だった私が、人を支えてあげる立場になった。だから、私は懸命に努力したわ。強くなろうって。人を支えてやれる強さを持とうって…そんな時、貴方に出会った」
加持は無言でリツコの独白を聞きつづけていた。
「いつも肩肘張って生きてきた私が、貴方の前では安らぎを覚えられた。貴方といる事が楽しくてしょうがなかった。恋だと思ったわ。でも、それは私の勘違いだったの。私は、貴方に兄さんの面影を追っていただけ…」
「…」
「加持君に兄さんの面影を追っている時が付いた時、どうしようもなく怖くなったわ。兄さんがいなくても生きていける強さを持とうとした私が、兄さんに似た人を好きになる。それを認めてしまったら、私はもう強い人間ではいられなくなってしまう…14歳の頃の、他人に甘えるだけだった自分に戻ってしまう…それがたまらなく怖かった…」
リツコの目に涙があふれ始めた。
「ごめんね、加持君。わかったでしょう?私は卑怯な人間なのよ。自分が可愛いだけの…」
「いいんだ。謝る事なんて無い」
加持が口を開いた。感情のこもらない、だが重い声でリツコの独白を制止しようとする。だが、リツコの言葉は止まらない。
「結局、私は臆病者なのよ…父さんから逃げ出して、兄さんから逃げ出して、貴方から逃げ出して…それでいて、男の人を信じられないの。貴方も、父さんや兄さんのように、私の前からいなくなってしまうんじゃないかって…私は結局強くなんてなれない。弱い人間なんだわ」
「もういいっ!やめろっ!」
遂に、加持が語気も荒く強引にリツコの言葉を遮った。
「弱いのは俺も一緒だっ!君に告白するだけで勇気を使い果たして、断られた時にその真意を確かめる度胸が無かった!君の口から、本当の気持ちを聞く事が怖かったんだ!」
「…」
「人間、誰しも一人で強くなんてなれないんだ…少なくとも、君は葛城のために強くなろうとしたじゃないか。だったら、俺が君のために強くなってやる。君の弱さを支えてやれる人間になる」
「加持君…」
「だけど、俺にも弱い部分がある。誰かに支えて欲しい弱さが。それを預けられる人間を、俺は君の他に知らない…」
リツコは顔を上げた。その目にはまだ涙が浮かんでいたが、その涙は、先ほどまでとは違う涙だった。
「加持君…それって、あれなの?8年前の…」
加持は頷いた。
「ああ…あの時言えなかった、言葉の続きさ…りっちゃん、いや、赤木リツコさん。俺と…」
その先は言葉にならなかった。リツコはつま先立ちして加持の肩に手を回した。そして、そっと目を閉じ、無言の行為で加持に応えたのである。
暗いガード下で、二つの影は寄り添い、そのまましばらく動かなかった。
翌朝 冬月邸
その朝の目覚めは、いつに無くすっきりしていた。髪をブラッシングし、制服に着替え、エプロンを着ける。冷蔵庫から昨夜のうちに下拵えしておいた材料を取り出し、ガスコンロの元栓をひねった。
「…よし!」
包丁を握り、レイは気合いを入れて調理台に向かった。やがて、リズミカル…ではないが軽快な包丁がまな板を叩く音が台所に響き始める。
「…お?どうしたんだ?レイ」
その音に釣られてか、起きてきた冬月がフライパンとフライ返しを手にして炒め物を作るレイを見つけて驚いたような声を上げた。
「あ、おはよう、おじ様」
レイがにっこりと笑った。
「ちょっと、お弁当を作ろうと思って」
その言葉に、冬月は相好を崩した。
「そうか、そうか。レイもそういう年頃になったのか」
いやめでたい、と言いたげな冬月の後ろに、加持が現れた。
「おはよう、レイちゃん」
「あ、加持さん。おはようございます。夕べ、いつ帰って来たんですか?」
加持は頭を掻いて答えた。
「ああ…っと…二時ごろ、だったかな?」
「そのくらいだったな」
冬月が頷いた。
「昨日、ミサトさんとリツコさんとでしょう?盛り上がったんでしょうけど、皆さん今日は仕事じゃないですか。大丈夫なんですか?」
「ははは…まあ、大丈夫だろ。それより、お弁当作ってるんだって?」
加持に聞かれ、レイは満面の笑みを浮かべて言った。
「はい!おかず、ちょっと余ったから、これで朝ご飯にしましょう。感想、聞かせてくださいね?」
「ああ、いいよ」
「うむ、楽しみじゃな」
加持と冬月がそれぞれに頷き、食卓に付いた。やがて、レイがタコさんウィンナーとピーマンのごま炒め、たまご焼き、紅鮭の塩焼きというお弁当に入りきらなかったおかずを持ってきた。
「いただきます」
「うむ、なかなか美味そうだな」
加持と冬月が同時に箸を付ける。
「どうですか?」
尋ねるレイに、2人は大きく頷いた。加持は親指を立てた右拳を突き出す。
「美味しいよ、とても」
「うむ、レイは良いお嫁さんになれるぞ」
「本当ですか!?」
2人の賛辞に、レイが顔を輝かせた。
「本当だとも。ですよね、司令」
「味付けも程よいし…文句無しだよ」
「嬉しい!これで自信が持てます。じゃ、わたし、学校いきますね!」
レイは立ち上がると弁当箱を鞄に入れ、「行ってきます!」と元気良く家を飛び出していった。残された2人はおかずを奇麗に食べ終え、食後のお茶にかかった。
「さて…」
コーヒーをすする加持に、冬月が声を掛けた。
「式はいつだね?」
加持が豪快にコーヒーを吹き出した。
「し、ししし、司令っ!?一体何をっ!?」
珍しくも慌てふためく加持を、冬月は微笑ましげに見やって言った。
「いや何、君が夕べ帰って来た時、リツコ君が良く付けている香水の香りがしたのでね。ただ一緒に飲んでいただけにしては香りが強かったのでカマをかけてみたんだが、そうか、やっぱりそうか」
にやりと笑う冬月に、加持は肩を落としていった。
「人が悪すぎますよ…司令。まあ、おっしゃる通りなんですが」
「勿論、仲人はワシに任せてもらえるだろうな?」
「…参りました。お任せします」
無条件降伏し、白旗を掲げる加持に、冬月は久々に心から愉快な気分になって笑い声を上げた。
市立第壱中
昼休み、レイは鞄の中から弁当箱を取り出した。
「あ、レイ。本当にお弁当作ってきたんだ。愛妻弁当とはこの事ね〜」
「な、何を言うのよ…」
マナのからかいの声を背に、レイはシンジの机に歩み寄った。
(お、落ち着いて…渡すだけなんだから。マナが言うような事じゃないんだから)
いざ渡すとなると、緊張で心臓がどきどきして、声が上ずりそうになる。
「あ、あの…シンジ君…」
レイは弁当箱をシンジに差し出した。
「お、お弁当作ってきたんだけど…食べてくれる?」
その時、シンジは例の薬ビンを取り出そうとしているところだった。彼はしばらくレイのお弁当を見ていたが、やがて薬ビンを仕舞い、頷いた。
「ありがとう、綾波さん」
「うんっ!いっぱい食べてね!」
レイは輝くような笑顔でシンジに弁当箱を手渡した。シンジは丁寧に包み布を解き、弁当箱を開ける。見た目はちょっと良くないが、彼は気にせず中身を口に運んだ。
「ど、どうかな?」
レイが恐る恐るたずねると、シンジは頷いた。
「うん、良く出来てるよ。ちょっと火の通りが良くないけど…」
美味しい、と一言で言えば女の子を喜ばせられる、という発想はシンジには無いため、正直な感想を言ってしまう。思わず固まったレイだったが、すぐに気を取り直してシンジに笑いかけた。
「そ、そう。その…まだ、わたし勉強不足だから…そうだ!シンジ君、今度料理教えてね?」
レイの一言に、シンジは頷いた。
「うん、良いよ」
「ホント?約束だよっ?」
少し離れたところでは、マナとヒカリがお弁当をつついていた。
「…うらやましいなあ…」
マナがぼそっと呟く。普段レイやヒカリをからかって遊んでいるように見える彼女だが、そこはやはり恋に恋する思春期の少女。レイとシンジの関係が眩しく見えるのは仕方が無かった。
「そう思わない?ヒカリ」
そう言ってマナが正面にいる親友の顔を見詰める。だが、ヒカリはじっと考え事をしていた。
「…ヒカリ?」
マナが不審そうにヒカリの顔を覗き込むと、ヒカリはそっと呟いた。
「…も、お弁当、作ってあげたら喜んでくれるかな…」
「…こいつもか…」
マナは黙って天を仰いだ。
安らかな、そして喜びに満ちた日々。だが、それはこれからの激動の日々の前の、嵐の前の静けさに過ぎないことを、この時点で予感しているものは誰もいなかった。
(つづく)
次回予告
シンクロテストでカヲルを抜き、遂にトップにおどり出るレイ。
だが、張り切って先陣を切った彼女はディラックの海に取り込まれてしまう。
エヴァのエネルギーがゼロに近づいて行く中、恐怖、孤独、絶望が少女を包み込む。
残されたわずかな生存可能時間の中で、彼女は捨てたはずの過去と対面する。
次回、第拾六話「死に至る病、そして」
後書きという名の言い訳
まずはお詫びから。
その1、この9月半ばから12月初めまでの2ヶ月半の間に感想メールを下さったMMさん他の皆さん!
お返事が出せなくて真に申し訳有りませんでした!(土下座)
その2、これまでに「続きを期待しています」と感想をくださった皆さん!
書くのが遅れて本当にごめんなさい!(再び土下座)
前回の拾四話投稿が9月の17日ですから、実に2ヶ月半。まさに「士道不覚悟に付き切腹」を申し付けられてもおかしくない状態ですが、一応言い訳を申しますと…
まず、6月に引き続きまたもマシンが壊れました。修理と言うよりほとんど全部買い直す羽目になり、気が付くとFDD以外は新しく買ったものになっていました。まあ、自作PCと言うのはそういう恐ろしさを秘めたものなのですが。結局安定動作するまでに1ヶ月半…その間に何度もOSの再インストールやら何やらでメールのバックアップを間違って消してしまったのです。
幸いこの第拾語話は残っていたのですが、間にそれだけブランクが空いていると勘を取り戻すのにも一苦労。結局これだけ間が開いてしまいました。
まあ、これ以上言い訳しても見苦しいだけなのでやめますが、「まだ返事を貰っていないぞ!」と言う方は再度メールしてくだされば必ず返事を書きますので、見捨てないで下さい。
さて、今回の拾五話ですが…加持とリツコの恋に関するお話です。ちょっと展開が強引かな?という気もしましたが、私は恋愛物には慣れていないので、見逃してやってください。リツコも加持も本作品世界では「愛人」だの「女たらし」だののアビリティを持たない真面目な人ですので。特に第弐話と比較して読むと、加持の人生哲学が見えてくると思います。
それと、レイのお弁当。最初はレイは料理が苦手にしようかと思ったんですが、それだとレイが可哀相なので止めました。殺人シェフと言う事に関してはミサト、アスカがいますし、この話ではリツコもなので、これ以上増えても仕方が無いですから。先生(ヒカリ)も良いですしね。
いよいよ次回は第二部(第九話〜第拾六話)の最終話となる対レリエル戦です。レイに関する意外な過去が明らかになります。今世紀中の公開を目指して(汗)頑張りたいと思いますので、改めてよろしくお願いいたします。
2000年11月末日 さたびー拝
さたびーさんへの感想はこちら
Anneのコメント。
>「"戸籍上の生者"か…」
>加持は呟いた。戸籍上の生者。セカンドインパクトの犠牲者で、社会混乱の中で死亡届が出されなかった人々である。
>その多くは戸籍を不法入国者や犯罪者の隠れ蓑として使われ、大きな社会問題になっていた。
もしかしたら、現実社会でもあるかも知れないですが・・・。
この設定、セカンドインパクト後にいかにも有りそうですね。
うむぅ〜〜・・・。相変わらず、さたぴーさんのこういう何気ない設定には感心して唸らされます。
>「今年は…会いに来れたわ。兄さん…」
>そう呟いて、リツコは花束を供えた。そっと手を合わせる。その墓石には一つの名前が刻まれていた。
>SHINICHI, ROKUBUNGI 1983−2000
これも上手いですなっ!!
長男なのに何故『シンジ』なんて次男みたいな名前?と言う疑問を上手く使ってますね。
>「待ってて…お兄ちゃん…いま、たすけて…あげるから…」
>「馬鹿!よせっ!お前まで落ちるぞっ!」
>「やだよ…一緒に行くんだよ…」
>「リツコ、箱根へ行け。母さんのところへ…」
>「お兄ちゃん!?」
>「箱根だ!箱根へ…!」
>「お兄ちゃん!お兄ちゃーん!」
なるほど・・・。こういう事があったんですね。
そりゃ、リツコがゲンドウを恨む気持ちも解らないでもないと言った感じです。
・・・って言うか、これって絶対にトラウマになっていますよね?(^^;)
>「加持君…それって、あれなの?8年前の…」
>「ああ…あの時言えなかった、言葉の続きさ…りっちゃん、いや、赤木リツコさん。俺と…」
いやぁ〜〜・・・。今回は上手いの一言に尽きますね。
この場面の原作のミサトとリツコの立場交換もそうですが・・・。
何気ない上手い誘導でノゾミにレイを『お母さん』発言させるところが、いやはや何とも。
うむぅ〜〜・・・。感服致しました。
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