かなたちの必死の戦いは続いていた。身重の菊花を必死に支え、しぐれが走る。その後ろをかなと白桜が並走し、追いついてくる相手と戦って時間を稼ぐ。山道の幅が狭いのが幸いだった。夜盗の数は二十人はいただろうが、一度に襲いかかれるのはせいぜい二人だ。
かなと白桜はもう何人に手傷を与えたのかわからなかった。かなは幸い傷つけられてはいなかったが、左肩に矢を受けて動きの鈍っている白桜は、何箇所か浅く斬られている。それでも、決死の形相で刀を振るう。
その苦闘に変化が生じたのは、峠を越えてすぐのところだった。
「前にも追っ手が…!」
しぐれが息を呑むのが聞こえた。かなは追いついてきた男を蹴り飛ばし、後ろを見る。すると、登ってきた山道の下から、殺気に満ちた気配が迫ってきた。
「脇道へ!」
かなはそう言うと、しぐれたちを抱くようにして脇道に飛び込んだ。白桜も追手の一人に一太刀浴びせ、後に続く。どれだけ逃げつづけたのか、やがて夜が明けたとき、かなは見覚えのある場所に立っていた。
「こ、ここは…!」
山中の森が開けた場所。崖になったそこからは、文字通り村が一望できた。何時の間に曇ったのか、陰鬱な雲の下、柵で周りを囲った村の様子が伺える。そして、山の中腹には、半焼した社。しぐれと出会ったあの場所だった。かなの記憶と違うのは、雪が無い事と、そして…三つの石積みが無い事。
「行き止まり…だと?」
白桜が唸った。そして、絶望を運ぶ声が背後から聞こえてきた。
「もう逃げられないようだなぁ、龍神様?」
カシラと夜盗たちだった。
SNOW Outside Story
雪のかなたの物語
第27回 終焉の地
状況はどう見ても絶望的だった。前には重武装の十数人の夜盗。後ろは百メートルはあろうかと言う断崖絶壁。こちらはたった四人と一匹。しかも、戦えるのは二人だけで、うち一人は手負いだ。
「…どうしよう、お兄さん?」
かなは自分でも驚くほど冷静な声で白桜に尋ねた。あまりにも状況が絶望的過ぎて、感覚が麻痺しているのかもしれなかった。
「そうだな…左右に分かれて逃げるか? なんとか村まで行ければ…」
白桜が言う。この岩棚はほぼ三角形をしていて、左右が空いていた。確かに、崖のふちを駆け抜けられれば、逃げられるかもしれない。しかし、それには相手が隙を見せてくれる事が肝要だった。この状況で、相手が隙を作るはずがない。
「でも、やるしかないよね?」
かなは懐剣を構える。白桜も刀を構え直した。
「私が合図をしたら、姉君様は鳳仙と左へ。私は菊花を連れて右に行きます」
そう白桜は指示した。あさひはというと、すぴぃ、と鳴いてかなの足元に擦り寄る。かなといっしょに行く事に決めているらしい。
「分かりました…どうかご無事で。菊花、白桜様のいうことを良く聞くのですよ?」
「はい、お姉様」
しぐれの言葉に、菊花が蒼白な顔で頷く。そして、白桜は夜盗を睨み付けた。何か乗じる隙はないか。それを捜しているのだろう。一方、夜盗の方も圧倒的有利でありながら、なかなか襲いかかろうとはしない。死地にある人間の恐ろしさを知っているのだろうか。
しかし、結局は自分たちの力への自信が、夜盗たちを動かした。
「かかれ!」
カシラが長巻を振るう。夜盗たちが喚声を上げて突っ込んでくる。
「…今だ!」
白桜が合図を発した。かなとしぐれ、あさひは左へ、白桜と菊花が右へ走る。勢いのついていた夜盗たちは、慌てて方向転換しようとしたが、勢いのつきすぎた一人が転倒し、そのまま悲鳴をあげて崖から転がり落ちていった。
「間抜けどもが! 何をやってやがる!!」
カシラが怒声を発し、長巻を振り回しながら走った。その行く手には、かなたちがいた。
「鳳仙様、危ない!!」
しぐれの警告に、かなは慌てて立ち止まった。もし走っていれば彼女の身体があったであろうあたりを、長巻が駆け抜けて地面に切り込む。恐ろしい剛力の一撃だった。
「そこから先は行かせないぜ、巫女様よぉ」
カシラが高笑いし、かなは歯噛みした。目の前の男は他の夜盗たちとは文字通り格が違っていた。多少の剣技の優劣でどうこうできる相手ではない。しかも、彼女の武器はたった一振りの懐剣。巨大な相手の長巻と比べれば、ささやかに過ぎる武器だ。その優位を知っているのか、他の夜盗たちは白桜たちを追っていく。
「へへへ、見ればなかなかの上玉じゃねぇか…どうだ、俺様の女にならないか?」
「…絶対に嫌」
かなは言下に拒絶した。平太や白桜ならともかく、こんな下劣な男のものになるくらいなら、舌を噛んで死んだ方がマシだ。
「そうかい。なら、力ずくで言う事を聞かせるまでよ」
カシラが長巻を振り上げる。かなも懐剣を構える。二回に渡った槍の男との戦いで、彼女は懐に飛び込めれば、こうした長い武器を使う相手に対して有利に立てることを知っていた。とにかく、相手の一撃目を回避する。それしかない。かなは半歩進んでフェイントをかけた。凄まじい勢いで長巻が振り下ろされ、とっさに引いた彼女の目の前を切っ先が走っていく。
(今だ!…え?)
飛び出したかなだったが、その時、返す一撃が信じられない速度で迫ってくるのに気が付いた。カシラの力は予想以上で、強引に刃を返してきたのだ。
(やられる!?)
かなが絶望にとらわれたその瞬間、予想外の伏兵が彼女を救った。足元から飛び出した緑色の塊が、カシラの腕に体当たりをかける。
「あさひ!」
「なんだ、うおっ!?」
かなとカシラの叫びが同時に響き渡る。あさひの体当たりはカシラの長巻のさばきをわずかに狂わせ、かなは身をよじってその一撃を回避した。それでも、完全には避けきれずに上衣の胸の部分が切り裂かれる。剥き出しになった胸に、微かに赤い線がにじんだ。
「ちっ、この畜生め!」
カシラはあさひを地面に叩きつけ、更に蹴り飛ばした。崖に落ちかけるところを、慌ててしぐれが受け止める。
「あさひ! くっ、このやろう!!」
かなは体制を整えてカシラに切りかかろうとしたが、一足速くカシラの長巻の切っ先が彼女ののどに突きつけられた。かなは動きを止めざるを得なかった。
「梃子摺らせてくれる…」
カシラはそう言うと、ニヤリと好色そうな笑みを浮かべ、長巻の切っ先を下げた。既に切り裂かれた上衣が更に切り開かれ、かなの形のいい胸が露わにされる。恐怖と屈辱でかなの身体が震えた。
「ほう、小娘かと思ったが、なかなか熟れておるわ…楽しみが増えたわい」
カシラがそう言ったその時、白桜が逃げていった方角で、何か獣の咆哮のような声が聞こえた。
「なんだ?」
その異様な叫びに、カシラが振り向いて背後を見る。逃げる絶好の機会だったが、かなは動けなかった。
「…お兄さん?」
そう呟く彼女の身を、小さな雨粒が打った。
やがて、白桜の逃げた方向から、立て続けに断末魔の悲鳴が上がり始めた。
「うぎゃあああぁぁぁぁ…」
「ひいいいぃぃぃぃぃぃ…」
「こ、殺されるぅぅぅぅぅ…」
「お、鬼だ、鬼だぁぁぁぁ…」
叫びながら、数人の夜盗たちが戻ってくる…いや、逃げてくる。全力疾走だ。しかし、その後ろから、より速く、より凶暴な何かが追いつき、一撃の下に彼らを屠っていく。かなたちの視界に入った夜盗たちが全員物言わぬ骸になるのに、さほどの時間はかからなかった。
「な、何だと…」
自信にあふれていたカシラが、初めて狼狽した声をあげた。その前に、刀を構えたそれが立つ。
白桜だった。背中に、菊花を背負っている。その状態で、人間とは思えない動きを見せ、夜盗たちを斬り捨てて来たのだ。
いや…それも無理はない。白桜の表情を見て、かなは悟った。彼は、人である事をやめてしまったのだと。今の白桜は、まさに鬼神だった。そして、彼をそうさせた理由は一つしかない。
(菊花…)
かなは白桜の背中に背負われた菊花を見た。真っ青な顔で、どう見てもすでに息はなかった。向こうで何があったのかは分からない。だが、菊花は死に、白桜は鬼となった。
「うおおおおおおおぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉっっ!!」
白桜が叫び、刀を振り上げる。その隙を見逃さず、カシラの長巻が振るわれた。どんっ、という音を立て、長巻が白桜の腹に食い込んだ。
「お兄さんっ!」
かなは思わず絶叫していた。しぐれも悲鳴をあげる。勝利を確信し、カシラはニヤリと笑った。しかし、それが彼が最後にこの世で浮かべた表情となった。
白桜の剣が神速の速さで落ち、カシラの巨体を唐竹割りに叩き斬っていた。それを見届け、白桜が膝を突く。
「お兄さん!」
かなは本格的に降り始めた雨の中、白桜に駆け寄った。彼は顔を上げ、かなを見た。そこに鬼神の表情は無い。だが、ただただ空虚な、生気の無い顔つきをしているばかりだった。
「菊花が…私をかばって…」
白桜はただそれだけを言うと、黙り込んだ。菊花は、背中を大きく切り裂かれていた。かなは瞑目し、しぐれは両手で顔を覆った。
それから、白桜は菊花の亡骸を抱え、崖の淵に歩いて行った。理由を問うかなに、白桜は微かな笑みを浮かべて答えた。
「菊花に…菊花が愛していたこの村の全てを見せてやりたい」
かなは黙って従い、ぐったりしたあさひを抱いたしぐれも続いた。白桜は崖の淵にたち、生きている人に呼びかけるように、菊花に話し掛ける。
「菊花…夜盗はみんな倒した。村は平和になったんだ。もう、私たちの幸せを妨げるものは無い。幸せになろう、菊花…」
そう言うと、菊花を柔らかな草の上に横たえ、自らもその横に倒れこんだ。その身体を、降り注ぐ雨が洗っていく。
「お兄さん…」
かなが呼びかけると、白桜は平静な声で言った。
「鳳仙、あさひを掛け軸に戻してあげなさい。あのままでは危ない」
「え…うん」
かなは白桜から掛け軸を受け取った。それを広げ、しぐれの腕に抱かれたあさひに向ける。
「あさひ…さっきはありがとう。助かったよ。だから、こんな形で死んで欲しくない。中でゆっくり休んで…いつかまた会おう」
あさひは一瞬いやだ、と言うようにすぴすぴと鳴いたが、掛け軸が淡い光を発したかと思うと、その光に吸い込まれるようにして消えていった。あとには、兎の絵を取り戻した渓流の風景が広がっている。
「お兄さん、あさひはもう大丈夫。他に何かして欲しい事はある?」
かなが問い掛けると、白桜は何故か朗らか、とさえ言える口調で答えた。
「そうだなぁ…少し疲れたよ。そうだ、水を持ってきてくれないか? 雨では…喉を潤すには足りない」
「…うん、わかった」
かなは頷いた。そうすることしかできなかった。
「私は血止めの薬草を取ってきます」
しぐれが腰をあげた。白桜の傷は重いが、応急手当をして村に連れて行けば、まだ助かる可能性がある。傷を洗うために多めに水がいるな、とかなは思った。
「鳳仙」
「…なぁに?」
きびすを返した彼女を、白桜が呼び止めた。
「鳳仙…いや、ひょっとしたら違う人なのかもしれないな。だが、だれでも良い。ここへ来てから、私はずいぶんお前に救われた。感謝している…ありがとう」
「…私も、お兄さんの事は結構好きだったよ」
かなはそう答えると、近くの水場を探しに行った。確か、龍神湖から流れ出す渓流が近くにあった。死んだ夜盗の兜を脱がせ、それを良く洗って水を汲み、かなは岩棚に戻ってきた。しぐれが既に先に戻って来ていて、白桜の横にしゃがみこんでいる。最初は傷の手当てをしているのかと思った。だが、様子がおかしい。
「どうして…どうして…!」
しぐれは泣いていた。不吉な予感に身を震わせ、かなは白桜の傍に急いだ。そして、息を呑んだ。
白桜は、既に事切れていた。首筋から流れ出した血が彼だけでなく、抱きしめるようにしている菊花の身体をも赤く染めている。自らの剣で、彼はその生命を断ったのだ。かなの手から、兜が落ち、水が血を洗うように流れていった。
「どうして…こんな事になっちゃったんだろう」
かなはそう呟いた。しかし、実のところ、彼女には白桜の気持ちがまるで自分の事のように理解できた。
白桜には…何も無かったのだ。菊花以外には何も無かった。龍神降臨祭を復興させる事も、夜盗を倒し、両親の敵を討つ事も、彼にとっては生きる理由ではなかった。菊花に出会う事だけが彼の生の理由であり、全てだった。だからこそ、それが失われた時、迷わず死を選んだのだろう。
天は残酷だ…一瞬の希望を与えて、そして何もかも奪っていった。だが、考えてみれば、最後の夜、今生きている二人は…そして、白桜は何を祈っただろう。
自分はどんな罰を受けてもいいから、他の3人を救って欲しい…そう願ったのではなかったか。その願いはある意味かなえられた。3人が共通して救済を願った菊花は自分を取り戻し、愛する人のために死んだ。そして、その事によって全員が罰を受けたのだ。
「でも…死んでしまったら、何にもならないじゃない…」
それが白桜の運命だったのだ。そう理解しつつも、かなはそう言わざるを得なかった。白桜にはもう何もなかったかもしれない。けれど、彼を必要とする人はまだ多かったのだ。しぐれ、村人たち。彼らのために、生きて欲しかった。
だが、白桜は逝ってしまった。かなは彼の手から、もう必要のなくなった刀を放してやり、代わりに菊花の手としっかり握り合わせてやった。もう二度と離れないように…
「さようなら、お兄さん…」
そして、かなは別れの言葉を「兄」に告げた。気が付くと、うるさいほどだった雨音は何時の間にか小さくなっており、やがて、静けさが辺りを包んだ。降り注ぐのはもはや雨ではない。白い…雪。白桜と菊花の赤い血潮の上にも、それは降り注ぎ、白く覆い尽くしていく。罪と愚かさを隠すように。
「しぐれは…これからどうするの?」
かなは尋ねた。雪が降る理由は聞かない。それは既に知っていた。全てを失ったしぐれの、悲しみと後悔。それが雪になって降り積もっているのだ。
「…もう、人と関わるのが嫌になりました。天にも帰れない以上、私はこの山の中で生きていきます。そして、ずっと白桜様と、菊花と、二人の子の魂を弔っていきます」
しぐれは静かに答えた。そして、かなの方を振り向いた。
「鳳仙様はどうするのですか?」
「それは…私には決められないな」
かなはそう答えた。「鳳仙」がどう生きるかは、「かな」の決める事ではない。それに、かなはそろそろこの「世界」が終わろうとしている事を悟っていた。視界に映る風景がぼやけ、闇の中に飲み込まれるように消えていく。まるで、夢が覚める時のように。
「ただ…私が果たすべき役割が、やっとわかったような気がする」
闇の中に残ったしぐれに、その一言を投げかける。それと同時に、闇の中に光が一筋刺し込み…
かなは目を覚ました。身体を起こすと、そこは彼女が見慣れたはずの龍神天守閣の一室だった。
「…懐かしいな」
そう呟いたとき、横の布団に寝かせていたしぐれが、微かに身じろぎし、それから目を開けた。
「おはよう、しぐれ」
「おはようございます…」
しぐれも身体を起こした。彼女の頭をかなは見た。そこには、やはり角があった。龍神である事の証。彼女が伝説に残る、悲劇の姫君の姉である事の証。
「しぐれは、そうやってずっと辛い時を過ごしてきたんだね」
かなが言うと、しぐれは悲しげに目を伏せた。
「やっぱり…あの鳳仙様は、かなだったんですね」
かなは頷いた。あの過去への旅、それはしぐれの見ていた夢。繰り返される悔恨の夢だったのだ。
「でも、かなが何故私の夢の中にいたのですか? そんな力は普通の人には無いはずなのに」
しぐれは理解できない、と言うように首を振る。
「それは、私があの悲劇の伝説に深い関わりを持つ人だから…だね」
かなが言うと、しぐれはますます訳がわからなくなったようだった。
「え…でも、他にあの時を覚えている人など…」
「あ、そうだよね。やっぱりこの姿だとわからないか」
かなは苦笑した。そして、しぐれに自分の真の名を告げた。
「私は…私の本当の名前は出雲彼方。白桜の魂を受け継いだ者」
しぐれの目が驚愕に見開かれた。
「は、白桜様の…!? でも、あなたは女の人で…」
「そう…確かに今はこんな姿だけど、この村に来る前…今から二月くらい前かな? それまでは、男だったんだ。この村に来たとき、落石事故で一度死んで…目が覚めたら女になってた」
過去への旅を通して、かなは階段から落ちたときに失っていた記憶を取り戻していた。そして、その真相についても見えたような気がしていた。
「この村に、澄乃って言う女の子がいるんだけど、たぶん、その子が菊花の生まれ変わりじゃないかと思う。それで、私が白桜の生まれ変わりだから…天が二人を近づけさせないように、事故で私を殺したんだろうね」
「生き返った…と言う事ですか?」
しぐれの質問に、かなは頷いた。
「そう。その澄乃が、私が助かるようにお百度参りまでして祈ってくれたんだ。だから、命だけは助けられた。あんな無慈悲な天の神様も、少しは話を聞いてくれるみたいだね。もっとも、絶対に私と澄乃が結ばれないように、こんな姿にされちゃったけど」
しぐれは信じられない、と言うように首を振った。しかし、かなとしては、自分の身に起きた事は、そうとしか説明がつかない事だった。第一、当人を含む人々…あまつさえ親の記憶まで操作して、「出雲彼方」と言う存在を徹底的に消し去る事の出来るほどの、超常的な力を持つ存在は、天以外にありえなかった。
やがて、しぐれも納得したらしく、顔を上げた。
「そうですね…確かに、天の力ならそれも可能でしょう…」
そう呟くように言って、そしてしぐれはある危険性に気が付いた。
「でも、それではかなはどうするんですか? 彼方さんの記憶を取り戻した今、また天から何かの干渉を受けてしまうかもしれません。今度こそ命を失うかも…」
危惧をあらわにするしぐれに、かなは微笑んで答えた。
「うん…でも、多分大丈夫。私は確かに出雲彼方としての記憶を持っているし、白桜の魂を継いでもいるけど…その宿命まで受け継ぐ気はないから」
「そ、そんな事出来るんでしょうか…?」
「できるよ」
かなは断言した。
「むしろ、それが天の意思かもしれない。たぶん、天が一つだけ犯した間違いを正す事が出来るのは、私だけだと思うからね」
そう言ってかなは微笑んだ。
「天の犯した間違い…?」
しぐれにはそれが何かはわからなかった。そもそも、天の意思に間違いがある、と言う発想自体が彼女には無い。そこで生まれ、その定めた宿命に従って生きてきた彼女にとって、天は絶対者だった。
「わ、もうこんな時間かぁ…旭と桜花を起こさないとね。それから朝ご飯にしよう。味噌チャーハンでいい?」
悩むしぐれをよそに、かなは日常生活に意識を切り替えている。夢とは言え、あれほど過酷な運命を共に体験したはずのかなが、いつもと変わらない姿を見せている事に、しぐれは感心した。
(確かに…かなは白桜様とは違います。あのお方は、運命に立ち向かう強さをお持ちではなかった…でも、かなはいったい何をする気なのでしょうか?)
しぐれにはわからなかった。
その頃、隣の寝室では、かなが子供たちを起こしていた。
「おはようなのじゃ、母上―」
「かな、おはようなのだ」
元気良く挨拶をする桜花と旭。夢の中の長い旅を終えたかなにとって、二人の笑顔は何よりも懐かしく、眩しく、そして愛しかった。
(この子達を守るためなら、どんな苦労も厭わない)
かなはそう決意していた。そして、それを実行に移すときは、そう遠い先の話ではなかった。
(つづく)
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