祭囃子が響き渡る。いつもは無人でひっそりとしている龍神の社の境内が、今日は人で埋まったようだった。村の総人口よりも人が多いんじゃないか、とかなは思ったが、実際に近隣市町村からの見物客がいるため、500人を超える人出があるそうだ。
 もっとも、それは後で聞いた話。今の彼女は、二人の娘の面倒を見るだけで大変だった。
「おお〜、見た事も無い食べ物なのじゃ〜」
「美味しそうなのだー」
「二人ともあまり買い食いはダメだよ」
 はしゃいで走り回る桜花と旭を、かなは微笑と共に見る。それは、どう見ても幸せそうな母娘の光景にしか見えなかった。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

最終回 空の揺りかご


 龍神鎮魂祭は、「鎮魂」と言う二文字に相応しくない、賑やかなものだった。もっとも、祭りというのは得てしてそうなるものかもしれない。
「なんだか…懐かしい雰囲気ですね」
 一緒に社に来ていたしぐれが呟く。思えば、あの最後の龍神降臨祭以来、彼女は祭りというものに来た事は無い。
「昔はしめやかにやっていたのかもしれないけどね」
 かなは答えた。同時に、この祭りはいつからはじまったのだろう、と思う。あの日…龍神湖への最後の旅に出る前日に会ったきり、もう二度と出会う事の無かった平太をはじめとする村人たち。若生兄妹も龍神姉妹ももはや帰らず、夏の雪に閉ざされた里で、それでも彼らが祭りを存続させた理由は何だったのだろうか。
 かなにはそれは想像もつかない事だった。だが、事情を知っていそうな人に心当たりはある。そう思っていると、心当たりが向こうからやってきた。
「鳳仙、おはようー」
「あぁ、おはよう、かなさん」
 芽依子はさりげないかなの挨拶に答え、それから自分が呼ばれた名前に気付いて、顔色を変えた。
「か、かなさん、ちょっとこっちへ来い」
 そう言うと、芽依子は社殿の陰にかなを引っ張り込んだ。
「なぜだ、何故かなさんが、私の昔の名前を知っている」
 血相変えて尋ねる芽依子に、かなは笑って言った。
「あ、やっぱりそうなんだ」
「や、やっぱり?」
 目を白黒させる芽依子を楽しそうに見ながら、かなはしぐれの名を呼んだ。姿を現したしぐれをみて、芽依子が呆然とした表情になる。
「姉君様…」
「お久しぶりですね、鳳仙様」
 しぐれが懐かしそうに微笑む。しかし、芽依子の方は旧交を温めるという気分では無さそうだった。
「なぜですか? 私たちはもう二度と会わないほうが良い…そう決めたではありませんか」
 芽依子はしぐれの真意を掴みかねていた。すると、しぐれはあの崖の上…三つの墓の方を見ながら答えた。
「あの日…白桜様と菊花が死んだ日、あなたは言いましたね。いつか、この悲しい運命を断ち切ってくれる人が現れる…と」
 芽依子は頷いた。巫女としての先見の力を持っていた彼女は、それを予見し、その日まで自分を不老の存在として生かして欲しいとしぐれに願った。それ以来、何百年という時の流れを彼女は見てきた。
「ええ…兄上の生まれ変わりが、いつかここを訪れる…そう信じて。でも、結果は変わらなかった」
 芽依子は悲しげな表情で俯いた。龍神村には悲恋が多い。特に、外来者と村人の恋は、例外なく悲惨な最期を迎えてきた。まるで、白桜と菊花の恋をなぞるように。
 芽依子は様々な形で恋人たちを助け、幸せになってもらおうと介入したが、それらの努力が実を結ぶ事は無かった。
「それが、実は間違いだったのかもしれない」
 かなの言葉に、芽依子は顔を上げた。
「どう言う事だ? かなさん…私のやった事は無駄だったのか?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
 かなは芽依子の言葉をやんわりと制した。
「ただ、お兄さん…白桜と菊花の事があまりにも衝撃的だったから、みんな忘れてしまってるんじゃないかと思う…芽依子もしぐれも、その子の事を知っているはずなのに」
 一瞬の沈黙が落ち、それから芽依子としぐれはほぼ同時に顔を上げた。かなが何のことを言っているのか、理解したのだ。
 それは、天の犯した一つの過ち。真実の救いを得られていない、哀しい魂。
「だから、協力して欲しい。あの子を本当に助けるために…」
 芽依子は力強く頷いた。
「そう言う事であれば、ぜひ」
「出来る限りの事はします」
 しぐれも決意を込めて頷いた。
「うん、ありがとう、二人とも」
 かなは頭を下げた。もうあまり時間が無いだろうという事は予測がついていた。
 父親のいない今の状態では、あの子を…桜花を支えるだけの愛情を注ぐ事は難しいだろうから。

 三人が社殿の裏から戻ってくると、真っ先にその姿を見つけたのは、桜花だった。
「あ、母上じゃ。芽依子もいっしょなのじゃ」
「かな、捜したのだ〜」
 旭も声をあげる。そして、その二人を今まで見ていたらしい澄乃がかなに言った。
「かなちゃん、ダメじゃない。お母さんが子供から目を離しちゃ〜」
「ごめんごめん。でも、二人を見てくれていてありがとうね、澄乃」
 かなが礼を言うと、澄乃はにっこり笑った。
「どういたしましてだよ〜」
 そんな澄乃を見て、しぐれがかなに聞いた。
「かな、あの子が?」
「そう、澄乃。菊花の生まれ変わり」
 かなは頷いた。すると、澄乃の方でもしぐれの存在に気が付いたようだった。
「えぅ? かなちゃん、その人は?」
「あぁ、北里しぐれ。こっちに来てから出来た友達」
 かなが紹介すると、しぐれは一歩進み出て挨拶した。
「はじめまして。よろしく、澄乃さん」
「あ、はい。よろしくお願いします」
 澄乃はぺこりと頭を下げたが、顔を上げると、じっとしぐれの顔を見つめ、不思議そうな表情になった。
「あの〜、前にどこかでお会いした事がありませんか?」
 その言葉に、しぐれは顔をほころばせる。そのまま澄乃を優しく抱きしめた。「え、えぅっ?」と驚いた声をあげる澄乃に、しぐれは慈愛に満ちた声で答えた。
「えぇ…ありますよ。ずっと昔…確かに」
「そうですか〜。でも、思い出せないよ〜」
 頭をひねる澄乃に、かなと芽依子は顔を見合わせて笑った。「姉妹」が揃っている光景は、やはり自然なものだった。

 それから、六人は祭りの会場を見て回った。様々な屋台が軒を連ねている。そのどれもが、桜花と旭、それに世間馴れしていないしぐれにとっては、新鮮なもののようだった。特に桜花がお気に入りなのは、綿あめだった。
「これは甘くて美味しいのじゃ…糸に見えるのに、なんとも不思議なものよのう」
 感心する桜花を抱き上げ、かなは綿あめ作りの機械を見せてやる。職人が機械にざらめを入れると、魔法のように綿あめが噴き出してくるのを見て、桜花は歓声をあげた。
 旭はフランクフルトが気に入ったらしく、大きめのものを二本買い、豪快にかぶりついていた。
「旭、そんなに食べると太るよ?」
 かながからかうように言うと、旭はむっとした顔で言い返してきた。
「太らないのだ! これは大きくなるための栄養なのだ!!」
 そう言ってますます勢い良くフランクフルトをかじり取る旭。その姿を見ながら、かなは兎のあさひのことを思い出していた。
「芽依子、あれからあさひの掛け軸はどうしたの?」
 いか焼きを食べている芽依子に聞くと、彼女は旭を見て答えた。
「あの子が今、かなさんのところにいる。それが答えだ」
「龍神天守閣に預けたんだ」
 かなが言うと、芽依子はいか焼きの串を傍らのごみ箱に突っ込んだ。
「あそこなら、確実に未来に伝わる…そう先見の力が囁いた」
 かなは頷いた。芽依子の力は確かだ。掛け軸は再びかなの手に戻ってきたのだから。
 もう一人の過去の生き証人、しぐれはすっかり澄乃と打ち解けていた。かつて、龍神という立場から、十分に妹に愛情を向けることが出来なかった、その想いを埋めるように。
「わ、しぐれさん上手〜」
 澄乃がしぐれの手並みを誉めているのは、金魚すくいである。しぐれの足元に置かれた小さなバケツには、既に十匹の金魚が泳いでいた。が、十一匹目をすくおうとしたとき、すくい器の紙が破れてしまう。
「いっぱい取れたね〜」
 手放しで誉める澄乃にはにかんだような笑みを見せ、ふとしぐれは疑問に思った。
「ところで、この子達はどうするのでしょう?」
 取った金魚をどうするかは考えていなかったらしい。そこで澄乃が説明する。
「おうちで飼うんだよ。金魚ばちとか、水槽とかを使って」
「金魚ばち…ですか」
 どうやら良くわかってないようだと思ったかなが助け舟を出した。
「あ、うちの中庭の池で飼う? あれなら温泉のお湯が少し入ってるから、凍らないし、良いと思うけど」
 その提案に澄乃が賛成する。
「それが良いよ〜。そうさせてもらおう、しぐれさん」
「そうですね、お願いします」
 しぐれは金魚の袋をかなに手渡した。かなは傍らのシャモンに言う。
「シャモン、これ取って食べちゃダメだよ」
「ウニャ〜」
 ちょっと不満そうなシャモンの声。しかし、主である桜花が金魚に興味を示す。
「かな、綺麗な魚じゃのう。これを庭の池に入れるのか…楽しみじゃな」
 桜花が楽しみにしているものを取るわけには行かない。シャモンはうなだれ、それがまた笑いを誘った。
 そうして祭りは佳境を過ぎ、突然甲高い音が鳴り響いた。六人が見上げる空に、色とりどりの大輪の花が咲く。
「なんじゃ!?」
「な、なんですか?」
 驚く桜花としぐれに、かなは言った。
「これが花火だよ、桜花、しぐれ」
「花火…これが」
 自分が山中から引っ張り出される口実に使われた火と光の芸術を、しぐれはじっと見つめる。
「美しいものなのですね…これを見るだけで山を降りてきた甲斐があります」
 しぐれはそう言ったが、それでも、破裂音はしぐれ、そして桜花にはちょっと恐ろしいらしく、一発ごとに身をすくめている。そう言えば、この二人には雷に対するトラウマがあったはずだ。
「音が出ない小さいのもあるよ。線香花火とか」
 かなが言うと、しぐれは不思議そうな表情をした。
「線香…って、あのお墓に供えたような?」
「あ、そうじゃなくて、見た目が」
 そう言われても、しぐれにはどうしても線香と、上空の花火のイメージが結びつかないようだった。
「母上、そんな小さな花火なら、わらわも見てみたいのじゃ」
 桜花も興味を示す。すると、澄乃がぽんと手を打った。
「そうだ、家に帰ったら、去年の夏の花火がまだあるかもしれないよ〜」
「本当に? じゃあ、行ってみようか」
 かなの決定により、一行は月明かりと花火の光に照らされた雪道を、雪月雑貨店に向かって歩いて行った。
「花火? 確かにまだちょっと残ってるわよ。でも、随分季節はずれのものを欲しがるのね」
 店にいた小夜里はそう言いつつ、在庫の花火を引っ張り出してきた。ロケット花火や手持ち花火に混じり、一束の線香花火もあった。かなはそれを全部買って、小夜里に礼を言うと、来た道を引き返し始めた。
「えぅ? どこでやるの? うちの前でやれば良いのに〜」
 澄乃がそう言ったが、かなは「良い所があるから」と進んでいく。目的地は決まっていた。そこでなら、過去に分かれた人たちも見守ってくれるだろう。

 かなが皆を連れてきたのは、あの崖の上だった。山中に小さく開いた雪原は、雪明りに照らされて青く染まっている。ここに来るのがはじめての澄乃と桜花は、村を一望できるその眺望に歓声を上げた。
「凄いところがあるんだね〜。知らなかったよ〜」
「社があんなに小さいのじゃ」
 一方、かな、芽依子、しぐれ、そして旭はじっと黙っていた。ここは、彼女たちにとっては聖地だ。
「ねぇ、かなちゃん、これなんだと思う?」
 やがて、石積みに気がついたのか、澄乃が聞いてきた。のんきだなぁ、とかなは苦笑した。自分の前世の墓だというのに。もっとも、かなもここに白桜が眠っている事に気付かなかったのだから、人の事は言えない。
「後で話すよ。それより花火をやっちゃおう」
 かなの言葉に頷いて、一行は思い思いの花火を手に取った。
「お、この棒付きの花火は何なのだ?」
 ロケット花火を持つ旭に、芽依子が悪人顔になって答える。
「うむ、この棒をもってな、火をつけたら、こうやって投げるんだ」
「芽依子、旭に変な事教えないで」
 かなが抗議すると、芽依子は妙な笑い声を立てた。
「いや済まない。しかし、すっかりお母さんだな、かなさん」
「まぁね…本当にそうなる事を誓いに来たようなものだし」
 かなが頷くと、芽依子も茶化すのをやめて、「そうだったな」とまじめな声で言った。そうやって、とにかく適切な花火を全員が手にすると、かなはライターを取り出した。もう一人、芽依子も点火役に回る。
「じゃあ、火をつけるから並んで並んで」
 その言葉と共に、雪原での花火大会は始まった。青い月光に混じって、色とりどりの火光が乱舞する。
 オーソドックスな楽しみ方をする澄乃としぐれ、ロケット花火などを派手に打ちまくる芽依子。旭はねずみ花火を自分の足元に投げてしまってパニックに陥り、桜花は雪だるまに花火を刺して楽しんでいた。
 そんな楽しい時間もあっという間に過ぎ去り、ついに一束の線香花火だけが残された。各自に一本ずつそれが配られ、点火される。
「あ…」
 線香花火を気にしていたしぐれが、手の先で小さな火の粉を撒き散らす線香花火の光に目を奪われる。
「大きいのも綺麗ですけど…私はこれが好きですね」
「ええ、不思議な風情があります」
 芽依子も賛同する。
「本当は、花火をよくやるのは、夏のお盆の頃なんだよね」
 かなが言うと、しぐれが顔を上げた。
「お盆、ですか?」
「うん、お盆の頃は、死んだ人たちが、この世に帰ってくる日なんだ」
 かながそう答えると、しぐれは何かに気付いたように背後の石積みを見た。そして、息を呑んだ。
「白桜様…! 菊花…!」
「兄上…! 菊花様!」
 芽依子も気付いた。全員が信じられない表情で、石積みの上を見上げる。
 月光を背景に、半分透き通った二つの人影が、寄り添うように浮かんでいた。
「ぐうじさまといもうとぎみさま…」
 旭もまた、その名を呟いていた。
 彼らは、白桜と菊花だった。
「え、えうっ!? ゆ、幽霊さん〜〜〜!?」
 澄乃が腰を抜かしそうになるのを、かなが後ろから支えてやり、続いて桜花を抱き上げる。
「あの人たちは…本当の桜花のお父さんとお母さんだよ」
 かなの言葉に、桜花が目を見開く。そして、澄乃もまた驚きの表情を浮かべていた。
「父上…? 母上…?」
 桜花が言うと同時に、白桜と菊花の霊は頷いた。
(そうだ、我が愛し子よ)
(一緒にいてあげられなくてごめんなさい)
 その場にいた全員の心に、白桜と菊花が直接語りかけてきた。
「父上! 母上!!」
 桜花が涙声で叫ぶ。その伸ばした手に、そっと降りてきた二人の霊が手を重ねる。
(本当は、私たちの手であなたを育ててあげたかった。乳を与え、子守唄を聞かせ、共に眠り、抱いてあげたかった)
 菊花が言う。
(でも、罪深い私たちには、それはかなわない事。お前だけではない。鳳仙や姉君様にまで、無用の長い苦しみを与えてしまった。本来なら…お前の前にこうして姿を見せる事も許されぬ身なのだ)
 白桜が悲しげな口調で言う。
「そんな、兄上…私は…」
 芽依子が首を横に振る。するとその時、しぐれがすっと前に進み出た。そして、手を振り上げると、実体を持たない霊のはずの白桜の頬をひっぱたいた。
(!)
(お姉様!?)
 しぐれの意外な行動に、霊二人だけでなく、現世の五人も硬直する。
「貴方たちと別れたあと、鳳仙様に言われたのです。いつか、白桜様と再会することがあったら、殴っておやりなさい、妹の私が許します、と」
 しぐれはそう言うと微笑んだ。
「白桜様、繰言を言うためだけに参られたのではないでしょう? 貴方が私の夢にかなを送ったのは、
 それなりの理由があるはず」
(そ、そうでした…)
 しぐれに叩かれ、本題を思い出した白桜と菊花は姿勢を正し、かなの方を向いた。
「お久しぶり、お兄さん」
 かなが挨拶をすると、白桜は苦笑した。
(自分の魂を受け継ぐものにそう言われるのも、変な感じだが…)
「でも、私と貴方は違う人間です。性別が同じ時でさえ。まして違う今では…」
 かなが言うと、白桜は苦笑を収めた。
(そうだな…まぁ、私もそなたの事は、鳳仙同様の妹のように思っている。だからこそ、そなたにも私たちの罪を知ってもらい、その上で判断して欲しかった)
 そこで、菊花が進み出る。
(どうでしょうか、かな様。私たちの勝手なお願いです。それでも、あなた様は聞いてくださいますか?)
 かなは頷いた。迷いは無かった。
「もちろんです。お兄さん、菊花…二人の子を…桜花を、本当の子として、私にください」
 白桜と菊花は頷いた。
(ありがとう、かな…)
(これで、もう思い残す事は何もありません)
 そう言うと、二人は桜花の頭を撫でた。
(桜花、今日から、お前は本当の意味でかなの子になるのだ)
(愚かで罪深い私たちの子ではなく、無垢な子として)
「そんな…父上、母上! いやなのじゃ! わらわを一人にしないで!!」
 桜花が号泣する。白桜はそんな娘を優しく諭した。
(だめだよ。お前も知っているはずだろう? 私たちはもう死んだのだ。死んだ者が、お前と一緒にいる事は出来ない)
(だけど、本当は罪の無いお前なら…人の子として生まれ変われるはずです。お前の母親になってくれると言ったかな様を信じるのですよ)
 菊花も微笑む。二人の姿が、だんだん薄くなっていく。
(さらばだ…娘よ)
(どうか幸せに…)
 その一言を残し、二人は月光に溶けるように消えた。
「父上―っ! 母上―っ!!」
 桜花の叫び声が山に木霊した。しかし、もう白桜と菊花は何も答えようとしなかった。雪の上に突っ伏した桜花を、かなは優しく抱き上げた。
「かな…父上が…母上が…」
 かなは何も言わず、ただ桜花の身体を抱きしめ、落ち着くのを待っていた。桜花の泣き声がようやく止まったとき、かなは桜花に聞いた。
「桜花、前にも聞いたけど…私は桜花の本当のお母さんになりたい。許してくれるかな」
 桜花はしばらく黙っていたが、やがて、顔を上げてかなを見つめた。決意を秘めた表情をしていた。
「かな…わらわは…本当はこの世にいないものじゃ…それでも良いのかえ?」
「もちろん。桜花なら、例え本当の姿が何でも、私は気にしない。だから…」
 かなは桜花を抱く腕に力をこめた。
「私の子供になって、桜花」
 桜花がにっこり笑って、頷いた…その光景を、かなは確かに見たと思った。山の稜線から朝の光が差し込んだその瞬間、かなの腕に抱かれていた桜花は、まるで空気のようにその姿を消していた。
「桜花…」
 しかし、かなにはわかっていた。桜花は消えたのではない。自分の中に、新しい命として宿ったのだ。
「かなさん…思い切った事をしたな」
 芽依子が肩を叩く。
「その子を取り上げるのは私だ。絶対に譲らないぞ」
「…こちらこそ、お願いするよ」
 かなは微笑んだ。そして、しぐれ、澄乃、旭の方を向く。
「その…いろいろと大変な事になっちゃったけど…よろしく」
 三人は戸惑いつつも頷いた。
「私で良ければ、私なりに」
「なんだかよくわからないけど、わかったよ〜」
「任せるのだ」
 朝の光が五人の少女を…いや、一人の母親と、四人の少女を照らす。それは、悲劇に巻き込まれた一つの罪無き魂の、彷徨の終わりを告げる朝日でもあった。


 そして…
「澄乃、青龍の間と白虎の間、もうすぐ食事終わる! デザートできてる!?」
「えぅ〜、後三分待ってだよ〜」
「かな、お風呂場の掃除終わりましたよ」
「あ、お疲れ様、しぐれ。澄乃手伝ってあげて」
「かな、大変なのだ! 桜花が泣き止まないのだ!」
「え? あー、ミルクはさっきあげたし…ええい、ちょっと待ってて!!」
 修羅場状態の喧騒を抜け出し、かなは自室に飛び込んだ。つい先日生まれたばかりの愛娘、桜花が火がついたように泣いている。その前で旭がおろおろしていた。
「私が見るから、旭は料理運びをやっておいてくれる?」
「らじゃー!」
 かなの言葉に、旭は廊下に飛び出していく。揺りかごから桜花を抱き上げ、かなは軽く揺すった。
「ふふ、どうしたの? 桜花。お母さんはここだよ」
 かながそう言ってあやすと、桜花の鳴き声は小さくなり、やがて安らかな寝息に変わった。
「ふぅ…あの頃の桜花よりは小さいけど、手間がかかることには変わりないね」
 そこへ、廊下から声がかけられる。
「お母さん役が板についたカマボコだな、かなさん」
「…意味わからないよ、芽依子」
 何時の間にか来ていた芽依子に返事をして、桜花を揺りかごに戻す。それを見て芽依子が本題を切り出した。
「そろそろ母子健康診断の時期だからな、お報せに来た」
「…ちゃんと誠史郎さんが診るんでしょうね。無資格医は却下だよ」
 かなは言った。
「うむ、そこは安心しろ。それに、私もちゃんとした医者になることに決めた。来る道で医大に願書を出してきたところだ」
 その言葉に、かなはへぇ、と感心した声をあげる。
「私にとっても身内同然の桜花をあのスチャラカ夫婦に何時までも委ねてられないからな」
 芽依子の言葉に、かなは声を潜める。
「あ…やっぱり、すごいの? つぐみさんと誠史郎さん」
「…聞くな」
 芽依子が顔をしかめる。この少女をしてこの態度をとらせる新婚ほやほやの橘夫婦に、かなは戦慄を覚えた。
 あれから1年が経つ。2ヶ月前、かなは女の子を出産し、もちろん桜花と名付けた。この大事件をめぐっては村中に様々な噂が乱れ飛んだが、もちろん真相を突いたものは何も無い。
 その間に、澄乃としぐれが正式に龍神天守閣の従業員になり、旭はかなの養女になった。芽依子はずっと止まっていた時が動き出したように、髪の毛が伸びるようになった。
 そして、龍神村はその特異な自然が注目され、なんと世界遺産になっていた。おかげで観光客が押しかけ、今では龍神天守閣は連日大入り満員の賑わいである。
「しかし、どうして雪が降り止まないのかな。しぐれは吹っ切れたし、私が澄乃とくっつく可能性も無いのに」
 吹雪が来たのか、カタカタ揺れる窓を見ながらかなが呟くと、芽依子が桜花の揺りかごを揺らす手を止めて答えた。
「そうだな…今となっては、雪の無い龍神村なんて考えられない。みんなそう思ってるんじゃないか?」
「かもね」
 かなは苦笑した。神様の悲しみ、苦しみも越え、それを糧にして、人は生きていく。どんな試練だって、乗り越えられないものはない。それは自分たちが証明している。
 かなの…桜花の…澄乃の…しぐれの…旭の…芽依子の…そして、龍神村の未来は、雪のかなたにこそあるのだから。

劇終







あとがき

 という事で、「雪のかなたの物語」はこれにて完結です。なぜ彼方君が女の子にならなければならなかったのか、最後まで読んで納得はしていただけましたでしょうか?
 この話を書いた理由は、「桜花が桜花として救われる結末は無いか」と言う発想からです。原作「SNOW」では、白桜と菊花の子である桜花は彼方と澄乃の養女になりますが、霊であるが故に他の人には見えず、彼方たちの実子であるさくらが生まれる直前に消えていきます。
 一応、さくらが桜花の生まれ変わりである、という事を示唆する描写もあるのですが、さくらはさくらで個性のあるキャラなので、桜花のあのこまっしゃくれた(笑)言動を愛するファンとしては、ちょっと不満があったりしました。で、桜花の母親足りうる資格をもつ新ヒロインを作ってしまったわけです。
 まぁ、突き詰めればそれこそ趣味以外の何物でもないわけですが(自爆)。
 それにしても、ヒロインかなの個性には苦労しました。いろんなエピソードを詰め込んだ結果、いじめられっ娘で、母親キャラで、かつ妹属性もちょっとあるという訳のわからない娘になってしまいました。まぁ、これはこれで可愛いものです。
 さて、現在「SNOW」の続編である「友達以上恋人未満(友恋)」が作成されていますが、ひょっとしたら、この「雪かな」にもその設定を生かした続編が出来るかもしれません。そのための伏線もちょっと本編中に張ってありますので、ヒマな方は探してみてください。
 では、最後に、ここまで読んでくださってありがとうございました。また別の作品でお目にかかりましょう。

2004年初春 さたびー拝



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