呼んでいる声が聞こえる。
「…さま〜〜 鳳仙様〜〜〜」
 かなは洗濯物を洗う手を止めて、手に付いた水を払うと立ち上がった。社殿の方へ歩いていくと、回廊で菊花が彼女を呼んでいた。
「えぅ〜、鳳仙様〜〜」
「何か用?」
 かなは尋ねた。どうしても威厳が無いせいか、彼女は菊花に対しては敬語を使わない。
「あ、鳳仙様、白桜様はどこですか〜?」
「お兄さんは村に祭の打ち合わせに行った、とさっきも話したはずだけど?」
 かなはちょっとため息混じりに答えた。菊花は澄乃に雰囲気は似ているが、性格はあまり似ていない。澄乃が言葉遣いは幼いように見えても意外としっかりしているのに、菊花は内面的にも幼い。我侭というのとは少し違うが、本能最優先の思考パターンなので、話していて頭に来る事もある。
「えぅ〜〜…まだですかぁ?」
 白桜がまだ不在である事を知り、菊花はがっかりしたらしく、その場に座り込んでしまった。その様はとても彼女が龍神だとは思えない。かなはため息をついた。
 とは言え、かなは菊花をそれほど嫌っているわけではない。むしろ、子供の面倒を見るような気持ちで彼女に接している。旭や桜花との付き合いで培われた彼女の母性愛は、菊花と言う子供に対しても発揮されるようだった。
「まぁ、夕方には帰ってくるよ。お昼は味噌チャーハンを作るから、楽しみにしてなさい」
 かなの言葉に菊花の目が輝いた。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第23回 妖しの掛け軸


 龍神姉妹の降臨から数日が経とうとしていた。身の回りことは何一つできない…と言うよりさせられない姉妹の世話はかなが一手に担っている。白桜は祭の準備と、夜盗の迎撃計画を練るために、忙しく村人たちに混じって働いていた。
 龍神が降臨する時、天の通い路が開いて、村全体が明るい光で包まれる。もしこれを夜盗が見ていれば、いつ襲撃が起こるかわからない。現在、村の周囲では竹槍を植えた空堀、丸太を組んだ柵、見張り台の建設が進んでおり、村人たちは白桜の指導のもと、買い集めた刀剣類の使い方を学んでいる。女たちでさえ、漆を混ぜ込んだ泥団子を武器にして夜盗に投げつける訓練をしていた。
 そうした中で、かなは戦いに備えた事は何もしていなかった。「鳳仙」は剣を学んでおり、白桜にも匹敵する使い手だったらしいのだが、今のかなには剣が使えず、戦い方がわからない。一度例の儀式用の懐剣を持ってみたが、構えを見ただけで白桜にはもう良い、と言われてしまった。
 仕方なく、龍神姉妹の世話だけをしているかなである。夜盗が襲ってきたら、足手まといにならないように、どこかに隠れていようと彼女は考えていた。
「鳳仙様、おかわりをお願いします〜」
「はいはい」
 かなは物思いを破る菊花の声に答え、差し出された器に味噌チャーハンを盛り付ける。ごくわずかな量しか食べないしぐれとは違い、菊花は実に良く食べる。「健啖」と言うのは彼女のことを言うのだろう。
「美味しいですぅ〜〜」
 嬉しそうな声で言いながら味噌チャーハンを掻きこむ菊花。お世辞にも行儀が良いとは言えない。
(お兄さんは本当にこの人に救われたのかなぁ…)
 かなは思った。龍神湖で会ったとき、いきなり菊花は白桜の名を呼びながら彼に抱きついていった。どう言う事かと白桜を問い詰めたところ、前の夜盗による襲撃…父母が死んだとき、燃える社から白桜と鳳仙を救いだしたのが、この姉妹だったと言う。
 しかも、父母を亡くしてうなだれる白桜を優しく勇気付けてくれたのが、菊花なのだそうである。かなにはやはり信じ難い事だったが。
(まぁ、記憶は美化されるって言うし…)
 かなはそう思った。巫女がそんな失礼な事を考えているとは露知らず、菊花は二人分を一人で平らげ、お腹を撫でる。
「ご馳走様でした〜〜」
「お粗末さまでした」
 かなが微笑むと、それとは逆に顔をしかめていたしぐれが口を開いた。
「菊花、あなたは仮にも龍神なのですよ? もう少し、それに相応しい…」
 しぐれの説教がそこまで進んだとき、玄関の戸が開いた。
「ただいま戻りました、龍神様」
 白桜の声が聞こえた。今日は随分早いな、とかなが思ったとき、菊花が嬉しそうな声をあげて玄関に…と言うか、白桜の胸に飛び込んだ。
「お帰りなさいませ〜〜、白桜様〜〜」
「わっ!?」
 菊花に抱きつかれた白桜が、頬を染めて硬直する。彼の胸に顔を擦り付ける菊花をどうして良いのかわからないようだ。
「はいはい、離れて離れて」
 かなが玄関に降り、二人を引き剥がす。その間、しぐれはあまりの状況に口をパクパクさせていた。
「で、今日は早いね、お兄さん。何かあったの?」
 いつもは夕方まで帰ってこない白桜の、いつになく早い帰宅に、かなが疑問を投げかけると、ようやく動悸の収まったらしい白桜は、細長い桐の箱を取り出した。
「あ、あぁ…実は、こんなものを預かってな…」
 そう言って、白桜は箱から筒状に丸めた紙を取り出した。それを広げてみると、その下から見事な水墨画が現れる。深山幽谷を流れる清流。その岸辺に、かわいらしい兎が佇んでいる。
「村人の物だが、なんでもこの絵の兎が夜な夜な絵を抜け出して、悪事を働くらしい。それで、妖兎を退治してくれといわれたのだが、どうしたものかと思ってな…」
 しかし、その白桜の説明を、かなはほとんど聞いていなかった。その絵は、間違いなく、龍神天守閣で彼女が部屋の床の間に飾ったのと同じものだった。
 ただ一つ、兎の有無を覗いては。
「鳳仙…鳳仙…! どうした!?」
 白桜に激しく身体を揺さぶられ、かなは我に返った。
「あ、だ、大丈夫…」
 かなは頭を振って意識をはっきりさせた。どうやら、絵に魅入られたようになっていたらしい。
「鳳仙、この絵には何かあるのか?」
 白桜が尋ねてくる。「鳳仙」には「先見」と言う未来を予知する力があるとかで、白桜も随分その事を気にしている。しかし、少なくともかなにはその力はない。だから、かなは白桜の質問には首を横に振ったが、こう申し出た。
「でも、ちょっと気になる。お兄さん、この絵の事は、私に任せてくれないかな」
 白桜は頷き、かなに掛け軸を預けた。その日はその掛け軸を祭壇に置いて様子を見る事にしたかなだが、翌日、絵を見て仰天する事になる。
 兎は姿を消していた。

 朝食後、かなは絵の事を聞くために、村に下りた。絵の持ち主は村でも長者の部類に入る権蔵という老人だった。名前を聞いて悪人みたいな名前だと失礼な事を考えたかなだったが、権蔵老人は気の良さそうな、いかにも好々爺という言葉の似合いそうな老人だった。
「あの絵は都で買ったもんですじゃ。しかし、最近になって、兎が夜な夜な絵を抜け出して、悪さをしおるのです。恐ろしゅうてなりませんわい」
 嘆息する権蔵にかなは尋ねた。
「それで、具体的にはどんな被害が?」
「まぁ、今のところは、畑が荒らされたとか、その程度ですじゃ。しかし、放って置けば何をしでかすかわかりませぬゆえ」
「そうですねぇ…」
 かなは腕を組んだ。悪事が畑荒らしどまりとは、所詮は兎である。とは言うものの、貧しい村で貴重な作物が荒らされるのは確かに問題だろう。
「わかりました。ちょっと調べてみましょう」
 かなが言うと、権蔵は深々と頭を下げた。
(とは言うものの)
 かなは思った。既に兎は絵を抜け出してしまっており、どこに行ったのか行方が知れない。まずはそれを探すのが先決だった。
 権蔵老人の家を辞したかなは、その後も畑を荒らされた村人たちに話を聞いて回り、兎の被害にあった畑も見に行った。そこは予想通りというか、ニンジン畑で、真新しい齧り跡のついたニンジンも見つかった。夕べもここに来たようだ。
「ご機嫌様、鳳仙様」
 かなが畑をさらに調べていると、平太に出会った。畑仕事の途中らしく、鍬を担いでいる。
「ご機嫌様」
 かなも挨拶を返すと、平太は不思議そうな表情で尋ねてきた。
「鳳仙様、こんなところで何してるんですか?」
 そこで、かなは妖兎を探している事を説明した。すると、噂はこの青年にも伝わっていたらしい。
「ほ、鳳仙様お一人で化け物兎を? そりゃ危なくないですか?」
「さぁ、それはわからないけど」
 かなは答えた。妖怪変化の類とは言え、相手が兎ということで、彼女にはいまいち緊張感が湧かない。しかし、迷信深い時代の生まれである平太にとっては、兎であってもそれは恐るべき化け物だった。少し考えた後、平太はかなに申し出た。
「あの、俺もついて行って良いですか?」
「平太さんが?」
 かなは首を傾げた。しかし、平太の真剣な表情を見ていると、むげに断るのも躊躇われた。また、彼女は一応懐剣を持っては来たが、上手くは使えない。見るからに屈強な平太が着いて来てくれれば、もし相手が襲ってきても、どうにかなるかもしれない。
「じゃあ、お願いしちゃって良いですか?」
 かなが頭を下げると、平太は勢い良く頷いた。
「は、はい! 喜んで!!」
 平太の表情は、申し出が受け入れられた事以上に嬉しそうだった。

 その後、かなと平太の二人は兎の足跡を見つけ、それを追って山の中に分け入っていた。のんびりしているかなと異なり、鍬をしっかり構えた平太は緊張した表情だ。
「平太さん、あんまりピリピリしていると疲れちゃいますよ?」
 かながそう言っても、平太は
「い、いやっ! 化け物がいつ襲ってきても良いようにしてるんです!!」
 といって聞かない。仕方なく、かなは彼の好きなようにさせる事にした。そして山道を歩く事1時間。唐突にそれは起きた。
「あ」
「すぴ」
 茂みを掻き分けたところで、かなとそれは目があった。明らかに他とは違う緑色の毛を持った、普通の兎の倍くらいほどの体格を持った兎である。
(…大きい…けど、そんなに怖くは無さそうだけど?)
 かなは思った。兎としては不自然だが、別段恐怖を煽るような外見ではない。しかし、平太には違う感想があったようだ。
「ひ、ひいいいぃぃぃぃっっ!? で、出やがったああぁぁぁっっ!!」
 かなの後ろから覗き込み、兎を見つけた平太が素っ頓狂な叫びをあげた。驚くかな。驚いたのは兎もいっしょで、すぴぃぃぃ、という声をあげると、そのまま林の奥に走り去っていく。
「あ、ま、待って!!」
 かなは手を伸ばしたが、聞く耳持たずに兎は茂みに飛び込んで姿を消した。かなは平太の方を振り向いた。
「平太さん…」
 できるだけ平静を保ったつもりだったが、やはり冷たい声に聞こえたらしい。
「す、すいませんでした…」
 平太は恐縮しきって謝った。念のため、もう少し奥までかな一人で進んでみたが、結局兎には出会えなかった。仕方なく引き返す事にしたかなだったが、一つの事が気にかかって仕方なかった。
 兎の緑の毛並み…その色合いに見覚えがあるような気がして仕方なかったのである。

「では、捕まえる事はできなかったのか」
「うん…見たところ、それほど凶暴そうには見えなかったけど」
 夕食の席でかなは今日の事を報告していた。ちなみに、夕食の山菜鍋を作ったのは白桜である。掃除洗濯はかなの方が圧倒的に上手だったが、料理に関しては逆だった。かなとしては少し悔しい。
「兎さんですかぁ〜〜。私も見に行きたいですぅ〜〜」
 菊花がわがままを言い出した。しぐれがたちまち目を吊り上げる。
「何を言っているのですか。祭の日まで私たちはここから出ないのが決まりですよ。兎を見に行くなどとんでもない。まして相手は妖怪。穢れが移ればなんとします」
 姉の叱責にも、逆に菊花は感情を高ぶらせる。
「えう〜〜〜〜〜っっ! 見たいです、見たいです、見たいですぅぅぅ〜〜〜〜〜っっ!!」
 困りきった表情のしぐれに、白桜が助け舟を出した。
「菊花様、そう姉君様を困らせるものではありませんよ。そうだ、明日は私が双六の相手でもつとめますゆえ…」
 その言葉に、菊花はたちまち機嫌を直した。
「わ〜〜〜い、ありがとうございますぅ、白桜様〜〜〜」
 そう言って白桜の腕に抱きつく。たちまち、白桜の顔が赤くなった。良く見ると腕に菊花の胸が当たっている。
「き、菊花様…お戯れを」
 困った表情で言う白桜。ふとかなはおばばの言葉を思い出した。龍神に惚れれば、よくないことが起こる。そして、彼女の知る龍神伝説の真実」
「菊花、お兄さんから離れて」
 ふと気付くと、かなはその言葉を口にしていた。言ってしまってから、もう少しソフトな表現にするつもりだったのに、やけに冷たい口調になってしまった事に自分でも驚く。
 驚いたのは他の3人も一緒だったらしく、唖然とした表情でかなの顔を見ていたが、まず菊花がうなだれた。
「ご、ごめんなさい…鳳仙様」
 そう言って、白桜の腕から身体を離す。すると、その白桜が怒り出した。
「鳳仙! お前は、なんと言う口の聞き方をするのだ!! 我らは仮にも龍神様にお仕えする身だぞ!」
 その通りであるが、かなにも言い分はある。白桜がおばばの言葉を忘れているように見えるからだ。
「お、お兄さんこそ、その龍神様に抱きつかれて、鼻の下を伸ばしてるじゃないですか!」
 売り言葉に買い言葉でかなが言い返すと、白桜の顔が真っ赤になり、口がパクパクと動いた。怒りのあまり声が出ないらしい。それでも何かを言おうとした時、軽い咳払いが聞こえた。
 しぐれだった。その威厳に満ちた態度に、かなも、白桜も、気を削がれて座り込む。
「…も、申し訳ございませんでした」
 白桜が謝ると、しぐれはため息を交えて言った。
「いえ、良いのです。それよりも、菊花。私に付いて来なさい」
「え、えぅ?」
 しぐれと菊花は隣室に移り、すぐにしぐれのお説教が夜風に乗って流れてきた。その声を聞きながら、かなは言った。
「あ、あの、お兄さん…私は…」
 口にしてみてから、いったい私は何を弁明しようとしてるのか、とかなは口を閉じた。これではまるで、兄を彼女に取られそうなブラコンの妹の嫉妬みたいじゃないか、と激しく自己嫌悪に陥る。
「…いや、良いんだ。それより、明日も兎を捕まえるのだろう? 早く寝ると良い」
「う、うん」
 白桜があまり自分と会話したく無さそうなのに気が付き、かなは大人しく引いた。しかし、白桜が菊花に惹かれつつあるのではないか、と言う懸念は、消える事がなかった。

 翌日、白桜との会話も少ないまま、かなは例の山道に向かった。そして、昨日兎と出会った場所に、それはいた。
「うさぎをおいかけるとたたられるのだ」
 小さな子供のような喋り方の…実際、小学校低学年くらいの少女が、かなの行く手を塞ぐようにして立っていた。山中にいるには不自然な少女。しかし、かなが驚いたのは、そこではない。
「あ、旭…!?」
 かなは思わず叫んでいた。その少女は旭そっくりだったのだ。
「ふみ?」
 少女は首を傾げたが、かなが立ち去らないので、もう一度言う。
「うさぎをおいかけるとたたられるのだ」
 しかし、かなは引かなかった。
「旭…いったい何を言ってるの?」
「う、うさぎをおいかけるとたたられるのだ」
 気迫に負けたか、少したじろぐ旭そっくりの少女。すると、かなは少女の頭を小突いた。
「こら、何を言ってるのよ。こんな耳までつけて」
 かなはそう言うと、少女の頭部に生えている兎の耳を引っ張った。
「すぴーっ!?」
 痛そうな悲鳴をあげる少女。そして、かなはそのうさ耳が飾り物でない質感を持っていることに、思わず硬直していた。
「ほ、本物?」
 うさ耳とそれを触った手を交互に見つめてかなは呟いた。すると、少女は涙目で頷き、素早く身を翻して茂みの中に飛び込んだ。かながあっという間もなく、兎の姿でそこから反対方向へ飛び出し、林の奥へ消えていく。
「…どういうことなんだろう」
 兎が化けた少女の姿が旭そっくりだった事。その意味を捉えきれず、かなは社に帰る事にした。

 帰ると、境内の大木のところで、白桜が目を手で隠して数を数えていた。
「じゅうごー、じゅうろくー、じゅうななー、じゅうはちー…」
「…お兄さん、何してるの?」
 その異様な光景に思わずかなが尋ねると、白桜は苦りきった表情で答えた。
「菊花様が双六に飽いたので、かくれんぼがしたいと言い出してな…今は私が鬼なのだ」
「はぁ…お兄さん、嫌なものは嫌と言わないと」
 かながアドバイスをすると、白桜は頷いた。
「うむ…しかし、こうやって童心に返るのもたまには良いものだ」
「…お兄さん」
 かなは少し強く警告しなければならないと思った。口調の変化に気付き、白桜も表情を真剣なものとする。
「なんだ?」
「お兄さん、おばばの言った事は覚えてるよね?」
 白桜は頷いた。
「ああ、龍神様に恋してはいけない…そうだな?」
「そう。この掟を破れば、恐ろしい天罰が下る…忘れてなければ、それで良いんだけど」
 かなは頷くと、社殿に向かった。
「あ、そうだ。後で聞きたいことがあるから、菊花様を見つけたら来てね、お兄さん」
「わかった」
 かなの言葉に頷く白桜。しかし、かなが社殿に入ってしまうと、彼は呟いた。
「天罰…天罰か…そのようなものが本当にあるのだろうか」

 数時間後、かなと白桜は例の掛け軸を挟んで座っていた。かなは絵を広げ、その一角を指さす。
「これ、書いた人の名前…だよね? なんて書いてあるかわかる?」
 かなが指さしたところには、確かに何かの文字が書いてあった。彼女には達筆すぎて読めないが。
「ああ、ちょっと待ってくれ」
 白桜は掛け軸をひっくり返して自分の方に向け、その字を読んだ。
「ひ…日和…川…旭。日和川旭と書いてあるな」
 その名前に、かなは思わず息を呑んだ。
「なんと、日和川旭か。私も聞いた事がある。都でも名の知れた女の画家だ。数年前に流行り病で亡くなったと聞いたが…確かに、あの天才なら絵の兎に命を吹き込むことができるやも知れぬ」
 白桜が感心したように言ったが、かなはその解説を聞いていなかった。
(日和川旭と言う人が描いた絵…それが龍神天守閣に伝わって、私が蔵で絵を見つけた直後から、旭は私の前に現れた…まさか、旭は…でも、そんな事あるはずが)
 かなは混乱した。ここは夢の中なのだから、そういう設定なのだと自分に言い聞かせても、ある疑念が大きく膨らむだけだ。
(ここは…本当に夢なのかな)
 それがかなの疑問だった。夢だと思い込むには、あまりにもリアリティがありすぎる。現に、時々ここが夢だと言う事を忘れて行動してしまっている事がある。夕べの菊花との一幕がそうだ。
(もし私が本当に龍神伝説の真実に立ち会っているのだとしたら…私はどうしたらいいの?)
 知っている伝説には、男と龍の姫はいても、男の妹や妖兎の話などは出てこなかった。未知の物語を前に、かなは迷子のようにひたすら立ち尽くしていた。

(つづく)


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