かなが龍神天守閣の女将になってから、一週間ほど経とうとしていた。
「人間、やろうと思えば何とかなるもんだね」
 というのが、かなの感想である。実際、彼女も澄乃も旭も良くやっていた。小夜里もちょくちょくやってきては仕事を手伝ってくれたし、客からの苦情は出ていない。
 そして、帳簿をチェックした芽依子も、サービスを落とさず経費を削減する方法をいくつか考えてくれた。今も、つぐみの部屋だった事務室で、赤鉛筆を片手に帳簿を見ている。
「しっかし、つぐみさんとんでもないドンブリ勘定してたんだな」
 チェックが大量に入った帳簿を見ながら、かなは呆れたように言った。帳簿の見方など知らないが、これだけ赤くなっていれば、素人目にも問題ありとわかる。
「そうだな。そう言えば、初めて診療所の帳簿を見たときも、こんな感じだったな」
 芽依子の何気ない一言に、かなは苦笑した。
「そっか…大丈夫なのかね、あの二人が結婚して」
「心配ないだろう。ここはそれが許されるおおらかな土地だ」
 芽依子はそう答えながら、最後の一項目をチェックし終えた。そして、節約できそうな部分を箇条書きにした別紙をかなに渡す。
「これを守れば、相当経費は浮くと思う。澄乃たちにちゃんと給料払ってやれよ?」
「俺みたいに、日給200円でこき使おうなんて真似はしないよ」
 かなは頷いた。この村での給与水準は不明だが、ちゃんとした給料を出すつもりだ。
「さて、そろそろ部屋の掃除しないと」
 かなが立ち上がると、ふと思いついたように芽依子が言った。
「そう言えば、かなさんは私と一緒の時だけ男言葉だな」
 部屋を出て行こうとしたかなは、足を止めるとちょっとだけさびしそうな表情で言った。
「仕方ないさ。お前以外のみんな、俺が男だったって事忘れてるしね…変に思われるのも嫌だし」
「そうか…」
 芽依子は頷いた。
「まぁ、お前といっしょの時くらい、本当の自分を忘れないようにしたいからな。耳障りかもしれないけど、付き合ってくれよ」
「別にそんな事は無いが…」
 芽依子がそう答えると、かなは安心したように笑い、仕事に戻っていった。しかし、芽依子は笑えなかった。「かな」が「彼方」を圧倒する、そんな予感がしたのである。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第18回 よみがえるもの、きえていくもの


 かなは鼻歌を歌いながら、玄関前に降り積もった雪をほうきで払っていた。これはかなにとっての日課に近い。怠ると、たちまち玄関が埋まったり、扉が凍りついたりして、出入りができなくなってしまうのである。
 ここで標準的な龍神天守閣の一日を見てみると、まずかなは朝5時半に起きる。全館暖房を入れ、食堂の掃除をしていると、6時には澄乃か小夜里がやってきて、朝食の用意が始まる。客に対しては7時から8時半までが朝食の時間となり、かなたち従業員はその後で朝食を取る。
 チェックアウトは9時半から。芽依子は大体この頃にやってきて、お金の出入りを管理する。おおむね10時半から11時には全ての客がチェックアウトを終え、平行して布団の片付けとシーツの洗濯などが始まる。
 13時前後に昼食を終えると、業者が夕食の材料を届けに来るので、それをチェック。その後部屋の掃除をして、茶菓子などを補充。洗濯物を取り込み、アイロンがけをして、客の受け入れ準備が整うのは16時前後だ。
 客は早くて17時くらいからチェックインし始め、この頃から夕食の準備が始まる。18時半から20時の間に客に夕食を出し、その後従業員が集まって食事を取る。それが終わると浴室の準備をして、客を案内。21時頃から客室の布団を準備していく。
 浴場の利用時間は、21時から24時。もっとも、23時にはほとんどの客が温泉に入ってしまうので、それくらいから従業員一同入浴し、大体就寝するのが24時半くらいである。
 この間、休憩は交代交代で合計2時間ほど取れれば上等だ。かように旅館経営とは過酷な仕事である。もっとも、龍神天守閣は路線バスの本数が極端に減る日曜祝日には、事実上開店休業状態となるし、平日でも客の来ない日があるので、そういう時はみんなのんびりとしている。
 今日もそんな日だった。かなが玄関掃除を終えて、久々に桜花のところにでも遊びに行こうか、などと考えていると、道の向こうから軽快なエンジン音が聞こえてきた。見ると、赤く塗ったスノーモビルが雪を蹴立てて走ってくる。
「あ、郵便屋さんか…」
 かなが待っていると、玄関前に停車したスノーモビルから、配達員が降りてきた。年は20代後半くらいで、村では比較的若手の部類に入る。
「おはようございます、かなさん。これ郵便です」
「お疲れ様です。寒いのにご苦労様」
 かながにっこり笑いかけると、配達員は顔を赤くした。
「いやぁ、ははは…仕事ですから。かなさんもがんばってくださいね」
 早口に言うと、配達員はスノーモビルにまたがり、何故か歓声をあげて走り去っていった。
「いつも元気だな…」
 かなは思ったが、なぜ配達員が元気だったのかを知れば、彼女も赤くなっただろう。かなのあずかり知らぬ事ではあるが、彼女は村の若い独身男性の間ではかなりの人気者なのだ。健気で、しっかり者で、美少女とくれば、「誰が彼女を落とすか」で勝負事が成立するのも無理は無い。
「さて、どこから…ん?」
 そんな裏の事情も露知らず、かなが郵便を見ていると、一つの封筒に目が止まった。宛名に「出雲かな様」とある。ここに彼女が住んでいる事を知っているのは、村人だけで、彼らがわざわざ郵便を送ってくることは考えられない。何しろ狭い村だ。
「誰からかな…」
 訝りながらも屋内に戻ったかなは、ロビーのペン立てからレターオープナーを取り出して封を切った。すると…
「あれ、これ父さんの字じゃないか。こっちは母さんだ」
 かなは混乱した。何故、両親が「かな」の事を知っているのか。ともかく、かなは便箋を広げてみた。

「かなへ つぐみちゃんから話は聞いた。お前が龍神天守閣の女将になった、と聞いて父さんは少々驚いている。しかし、フリーターよりはやりがいも意義もある仕事だと思うので、ぜひがんばって欲しい。今は忙しいので無理だが、近いうちにぜひお前が守っている龍神天守閣の暖簾を潜らせてもらうよ。では、がんばれ。 父」

「かなちゃんへ お元気ですか? フラフラしていたあなたがちゃんとした仕事についてくれて、母さんは嬉しいです。可愛い子には旅をさせろって本当ね。あとは、かなちゃんが素敵な恋人でも見つけてくれれば言う事なし。ひょっとしたらもういるのかしら? もしそうでも、子供を作るのはまだ早いわよ。母さんはまだおばあちゃんにはなりたくありません。 じゃ、元気でね。 母より」

 読み終えて、かなは頭を抱えた。
「なんだ、これは…」
 両親の手紙だという事はわかるが、どう見てもこれはおかしい。直接接している村人たちはともかく、なぜ両親まで自分の事を「かな」と呼ぶのか。呆然としていたかなは、芽依子の声で我に返った。
「かなさん、どうしたんだ?」
「あ、芽依子…実は…」
 かなは手紙を見せた。芽依子はそれに目を通すと、微かに唸るような声を発した。
(まさか、ここまで影響が広いとは…これが天の力)
 考え込んでいた芽依子を、今度はかなが我に返す。
「芽依子、これってどう思う?」
「私にはわからないな…」
 芽依子は答えた。実際、完全な答えは彼女にも無い。考えられるのは、本来なら死んでいたはずの彼方が生き返った事、その「代償」ではないか、という事だ。
「代わりに、一つ話をしようか」
 芽依子はその推測を言う代わりに、そう切り出した。何事かとかなが顔を上げる。
「かなさんは、ここに来てから龍神伝説、というのを聞いたか?」
 かなは頷いた。その伝説は龍神の社や龍神の滝にあった案内板に書かれていたし、澄乃にも聞いた事がある。
「あぁ、確か、龍神のお姫様と人間の男が恋をして…でもそれは許されない恋で、それで結局二人は結ばれなくて、天に帰ったお姫様の悲しみが、この村に雪を降らしている…とかなんとか」
 かながその内容をそらんじると、芽依子は首を横に振った。
「表向きはそうなってるな。でも、伝説の真実はそうじゃない。姫と男は、結ばれたんだ」
 かなは感心したようにへぇ、と言った。
「良かったじゃないか」
「そう思うだろう? しかし、その真実には続きがある」
 芽依子はそう言って、真実の伝説の続きを語った。結ばれた姫と男だが、やはりそれは許されない恋だった。天は罰を下して二人の命を奪っただけでなく、呪いをかけ、二人の魂が幾度生まれ変わっても、決して結ばれないようにした。
 そして、死んだ姫には姉がいた。この姉は神々の中でただ一人妹の死を悲しみ、そのために龍神村は雪の消えない土地となった…芽依子はそんな内容を語った。
「そりゃ酷い話だな…いくら許されない事だといっても、そこまでするのか」
 かなが怒ったように言う。
「そうだな…私もそう思う」
 芽依子が深く頷く。ふと、かなは疑問を感じ、それを芽依子に尋ねた。
「それで、なんで社や滝に書かれている内容は違うんだろう?」
「やはり、あまりにも救いが無かったから、だろうな。ただ引き離されただけなら、いつかはまた会えるかもしれない。そんな願いが表の伝説には込められているんだろう」
 うーん、とかなはため息を漏らし、それから芽依子の方を向いた。
「で、何でそんな話を俺にするんだ?」
「いや、不思議な話という点が、今のかなさんの身に起こっている事に似てるからな」
 芽依子が答えると、かなは腕組みをして考え込んだ。
「うーん…まぁ、男が女になったり、そんな不思議なことがあるんだ。伝説が本当にあったことでもおかしくは無いよな」
 かなは言った。確かに今の状況はおかしな事だらけだが、どうせ理由がわからないのだから、考えても仕方が無い。そう開き直ったのである。
「目がさめたら女だった、って言うなら、その逆が突然あるかもしれないさ。ところで、そろそろお昼だけど、何か食べていく? 味噌チャーハンくらいなら作るけど」
「そうだな、では馳走になっていくか」
 芽依子は笑った。そして、感心した。かなは強い。自分の身に降りかかった理不尽さを受けとめていられる。あの時の自分に、もう少しそんな強さがあれば…
 それこそ、言ってもどうしようもない事だ。

 昼食の後、診療所に帰る芽依子に途中まで付き合って、かなは龍神の社まで行った。宿を継いでからの数日間は、忙しくて桜花にもしぐれにも会いに行っていなかった。お詫び代わりに、芽依子に作ってやった味噌チャーハンの一部を持ってきている。
「…? 今日はなんだか静かだな」
 石段を登る最中に、かなはいつもと様子が違う事に気がついた。普段なら、桜花と旭が遊ぶ声が、とても二人分とは思えない賑やかさで聞こえてくるものなのだが。
 それでもその時は不審に思わなかったかなだったが、境内に出てみて、明らかに様子がおかしい事に気が付いた。二人の姿が見えないのだ。
「かくれんぼでもしてるのかな…」
 かなは辺りを見回した。すると、境内に積もった雪の上に、小さな足跡を見つけた。大きさから見て、これは旭のものだろう。だが、桜花のものらしい足跡は無い。
「桜花、旭、いないの?」
 かなが呼びかけると、社の本殿の方でがたっという戸の鳴るような音が聞こえ、一瞬かなは身体をこわばらせた。しかし、そこから出てきたのが旭だという事に気づくと、胸をなでおろした。
「なんだ、旭、いたんだ。だめじゃない、本殿に勝手に入っちゃ…」
「か、かなあああぁぁぁぁぁっっ!!」
 かなの言葉は、旭の叫び声にかき消された。走ってきた旭が、かなの胸に飛び込む。
「あ、旭? 泣いてるの?」
 かながうろたえながら言うと、旭は目に涙をいっぱいに溜めて、かなの顔を見上げた。そして、うわごとのように親友の名を繰り返す。
「桜花が…桜花が…」
「桜花に何かあったの!?」
 かなが言うと、旭は頷いて、本殿を指差す。かなは急いでその中に駆け込んだ。
 そして、そこに広がっていた光景に、思わず声を失った。
 最近掃除されていないのか、埃の積もった床。そこに散らばる無数のごみ。その中に埋もれるように広げられた、つぎはぎだらけの汚い布団、そして、そこに横たわる桜花の姿を、シャモンが心配そうに見下ろしている。
「桜花っ!」
 かなは布団に駆け寄り、桜花の身体を抱き上げた。その瞬間、手に熱が伝わる。
「酷い熱…! 旭、今から急いで診療所に行って、誠史郎さんをうちに呼んできて。道はわかるよね?」
「わ、わかったのだ!」
 旭が弾かれたように駆け出していく。かなは桜花を抱きかかえた。
「シャモン、行くよ!」
「ウニャ!」
 桜花を抱えて、かなは一目散に走った。その心中には後悔があふれている。
(こんな…こんな小さい子を置いていく親なんているはずが無い。どうして気づいてやれなかったんだろう…桜花は、ずっとあそこで親を待ってたんだ。たった一人で…ずっと)
 もし気づいていれば、この子がこんなになるまで放っては置かなかった。その想いを噛み締めながら、かなは宿に帰った。すぐに清潔な布団を出し、部屋の暖房を最強にして、桜花を寝かせる。それから、氷水を作り、タオルを絞って桜花の額に乗せてやった。
 もどかしいほど時間が経つのが遅く感じられた。診療所に電話をしようと思ったとき、慌しい足音と共に、旭が帰ってきた。後ろには誠史郎ではなく、芽依子がついている。
「芽依子、誠史郎さんは!?」
「済まない。往診中だ。とりあえず、私を信じてくれ」
 芽依子はそういうと、往診鞄から聴診器を取り出し、桜花の診察に取り掛かった。
「どうなんだ?」
 かなが聞くと、芽依子は聴診器を外して答えた。
「大丈夫、ただの風邪だ。暖かくして、栄養のあるものを食べさせれば大丈夫。念のため薬も出しておこう」
「そっか…良かった」
 かなは胸をなでおろした。
「ありがとう、芽依子」
「ん、何、医者の義務だからな」
 気にするな、と言って、芽依子は診察代も受け取らずに帰って行った。残ったかなと旭は、桜花の布団を囲むようにして座っていた。かなは旭に問い掛けた。
「旭…知ってたの? 桜花があそこで暮らしてたのを」
「知らなかったのだ…知ってたら、あんな所にはいさせないのだ」
「そうだよね」
 それっきり、二人は黙って桜花の看病を続けた。彼女が眠ったままなので、濡れタオルを取り替えてやるだけだが。そのまま日が暮れて、夕食の時間になり、深夜になっても、かなと旭はそれを続けていた。

 いつしか、寝入ってしまっていたらしい。雨だれのような音で、かなは目を覚ました。
「あれ…雨?」
 目をこすりながら、かなは窓際に寄った。障子を開けると、視界には灰色の空が飛び込んできた。昨日までは軒下に連なっていた氷柱が、雨で融かされ、細くなっている。かなりの雨脚だった。この村では珍しい。
「嫌な天気…そうだ、桜花は…」
 かなは夕べ看病しながら寝てしまった事を思い出し、布団を見た。そして、済んでのところで悲鳴をあげるところだった。
 そこに寝ていたはずの桜花の姿が無い。そして、シャモンも。
「旭、旭! 起きて!」
 かなは自分の反対側に転がっていた旭の身体を揺すった。
「んにゅ…かな、おはようなのだ」
 寝ぼけた声で言う旭に、かなは叫ぶように言った。
「大変、桜花がいなくなっちゃった!!」
「な、何ーっ!? そ、それは大変なのだ!!」
 旭は一発で目を覚まして飛び起きた。その間に、かなは布団に手を当てて余熱を探っていた。まだ微かに温かい。
「それほど前じゃないか…行ったのは…」
「社に間違いないのだ」
 二人は顔を見合わせて頷くと、部屋を飛び出した。降りしきる雨の中、傘も差さずに社を目指す。息を切らしながら石段を登っていくと、やはりそこにその姿はあった。
「桜花…」
 かなが呼びかけると、桜花はふらりと顔を上げた。その頬はまだ熱に赤く染まっている。
「桜花、病気なんだから、無理しちゃダメ。暖かくして寝てないと」
 かなが言うと、桜花はふるふると首を横に振った。
「だめなのじゃ…わらわはここで父上と母上の帰りを待たなくてはいけないのじゃ…」
「その前に桜花が死んじゃうよ! こんなに濡れて…こんなに熱が出てるのに…!」
 かなは桜花を抱きしめた。そのまま抱き上げて連れ帰ろうとするが、桜花は手足を振って抵抗した。
「かな、やめるのじゃ。わらわが待っていないと…」
「ボクが代わりに待っていてあげるのだ! だから、桜花は寝てなきゃダメなのだ!!」
 叫ぶように旭が訴える。雨足は一段と激しくなり、遠くから雷鳴さえ聞こえてきた。まるで、桜花の感情の激しさに合わせるように。
「ダメなのじゃ! 約束したのじゃ!! いつかきっと、父上と母上と、ここで…!!」
 桜花がそう叫んだその瞬間だった。
 3人の視界が真っ白に染まった。そして、耳をつんざくような轟音。
「うわあっ!?」
「ぴきゃーっ!!」
 かなと旭は悲鳴をあげ、その場にうずくまった。境内の巨木、それに落雷したのである。幹が二つに裂け、火の手が上がる。焦げ臭いような異様な臭気が辺りに漂った。
「ここは危ない…ひとまず下へ…」
 かなは改めて桜花を抱き上げようとして、その異変に気が付いた。二人が悲鳴をあげるようなあの落雷の中で、桜花は声も上げずにその場に立ちすくんでいたのである。
「…桜花?」
 かなが呼びかけると、桜花の口からささやくような声が漏れた。
「思い出したのじゃ…」
「え?」
 かながいぶかしんだ時、桜花の口から、まるで堰を切ったように激しい言葉が噴き出した。
「思い出したのじゃ…! 父上も母上も、もうこの世にはいないのじゃ! 二人とも、雷に打たれて死んでしまったのじゃ!!」
 その言葉に、かなは立ちすくんだ。桜花の両親はもういない? 死んでしまった? 落雷で?
 その一瞬が隙になった。桜花はわけのわからない叫び声を上げ、走り出していた。
「うわああああぁぁぁぁぁっっ!!」
「お、桜花、危ないのだ!!」
 腰が抜けたのか、地面にへたり込んだままの旭が叫ぶ。その横をすり抜け、桜花が石段に向かって走る。
「危ない!」
 かなは走った。案の定、桜花は足を踏み外し、その小さな身体が宙に舞った。
(届け!!)
 かなは必死に手を伸ばした。その指が、桜花の身体に触れる。そのわずかな手がかりを支えに、かなは落ちていく桜花の身体を必死に境内の方へ手繰り寄せた。一度は下に転がり落ちかけていた桜花が、ゆっくりとかなとすれ違う。そして、腰が抜けながらも必死に追ってきた旭が、その身体を受け止めた。しかし。
「か、かなあぁぁぁぁぁっっ!!」
 旭が叫んだ。勢いあまって、今度はかなが石段から飛び降りる形になっていた。彼女の視界の中で、桜花を抱きとめた旭の悲痛な表情が消えていく。
 どうしてそんなに悲しそうなの? 桜花は助かったのに。
 そんな事を思いながら、かなは石段を転げ落ちていった。身体中に激しい衝撃が加わり、やがて一際強烈な打撃と共に、彼女の身体は地面に叩きつけられていた。いつのまにか、雨は雪に変わり、かなの身体を包み込むように降り注ぐ。その雪が自分の身体から流れ出した何かで赤く染まっていくのを、かなは霞がかった視界に捉えていた。
「…!」
「…!!」
 誰かが呼んでいる。猫を連れた、小さな女の子。途方に暮れたような表情で、見下ろしている。慌てているのか、下着が見えているのも気にしていない。かなは苦笑した。
 だめだよ、桜花…女の子なんだから、そんなはしたない真似をしちゃ。
 それにしても…と、かなは混濁していく意識の中で考える。確か、前にもこんな事があった。倒れている自分を見下ろしている桜花。あれは、何時だっただろう。
 もう思い出せなかった。かなの意識は、そのまま深い闇の中に吸い込まれて行き…そして、消えた。

(つづく)


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