それは、あまりにも唐突で、あまりにも衝撃的な宣言だった。
「つぐみさん、今なんて言いました?」
「言葉どおりよー」
 呆けたような表情のかなとは対照的な笑顔で、つぐみは言った。
「龍神天守閣の権利、全部かなちゃんに譲るわー」


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第17回 私が女将?


「ちょっと待ってくださいよ、どうして急にそういう話になるんですか!」
 ショックから立ち直ったかなの心に湧き上がってきたのは、怒りの感情だった。つぐみにはそれは世話になったが、同時に思いつきでやっているとしか考えられない気まぐれな言動に振り回されても来た。
 それはまだ許せる。しかし、今回のは極め付けだ。どう考えても常軌を逸している。何しろ、かなはいくらつぐみと血縁関係があるといっても、経験一ヶ月ほどのバイト仲居に過ぎないのだ。宿の経営などできるはずも無い。
「まぁ、理由はいろいろあるんだけどー、私も女の幸せを追求するときが来たから、かしらねー」
 その言葉を聞いて、かなは理由に思い当たった。
(誠史郎さんだな)
 彼とつぐみは恋人同士である。しかし、片や村唯一の医者。片やこれまた村唯一の温泉旅館の女将。お互いに多忙なこともあって、なかなか結婚までは踏み切れていなかった。
 しかし、ここにかなと言う存在がいる。彼女が、つぐみの代わりに宿を継いでくれれば、晴れて二人が結婚するのに障害は無い。
 かなの意思を除いては。
「そんな、勝手過ぎますよ! 俺の意思はどうなるんですか!?」
 久々にかなはつぐみの前で「俺」という一人称を使った。普段ならまずいことになるが、しかしそんなことを気にしている場合ではない。
「あら、かなちゃんなら立派にやっていけるわよー」
 つぐみの答えはかなの望むものではなかった。問題は能力ではなく意思なのだが、そこに触れようとしない。
(お、大人ってずるい…)
 かなは心の中で涙したが、ふとそこで重要な問題に気がついた。
「それより、俺が権利を引き継ぐって言っても、そんなの無理ですよ。『出雲かな』なんて人は、本当は存在してないんですから」
 そう、仮に権利を引き継ぐとしても、それは本来の姿である「出雲彼方」でしかできない。今の姿である「出雲かな」は仮の存在でしかないのだから。ところが、つぐみの反応は意外なものだった。
「あら、存在してないって、何いってるのー? かなちゃんはかなちゃんでしょうー?」
「…は?」
 かなは唖然とした。つぐみほどかなの秘めた事情を知る者もいないと言うのに、何を言っているのか。
「あの、つぐみさん…少し落ち着いて俺の事を思い出してください。俺は誰ですか?」
 かなが質問すると、つぐみはけらけらと笑い出した。
「何よもうー、あらたまっちゃってぇー」
「大事なことです。俺は誰ですか?」
 かながもう一度重ねて質問すると、つぐみは笑いを収め、たしなめるような口調で答えた。
「出雲かな。私の従妹でー、仲居のバイトに来てもらってるところよー。これで良いかしらー?」
 その答えにかなは呆然となった。つぐみがふざけているのかとも思ったが、そうではない。今つぐみは真面目だ。本当にかなの事を「従弟の出雲彼方」ではなく、「従妹の出雲かな」だと思い込んでいる。
「ちょ、ちょっと待ってください…」
 かなはよろよろと立ち上がった。前に澄乃にも似たような反応を返された事があったが、これはより深刻な事態だ。
「あら、どこへ行くのー?」
 つぐみの質問に答える余裕も無く、かなは外へ出て行った。まず向かう先は、橘診療所だった。

 橘診療所につくと、珍しく誠史郎は在席していた。
「おや、かなくん。朝早くからどうしたんだい?
 朗らかに笑う誠史郎。かなとしては、つぐみとの事を問い詰めたいのは山々だが、それよりも優先すべきことがあった。
「芽依子いますか?」
 かなが聞くと、誠史郎は頷いて、大声で叫んだ。
「おーい、芽依子、芽依子ー! かなくんが来てるぞー!」
 しばらくして、廊下に続くドアが開いて、芽依子が入ってきた。
「おはよう、かなさん。何か用か?」
 寝ていたらしく、ちょっと眠そうで不機嫌だった。いつものかななら、毒舌の嵐にさらされることを恐れて身構えるところだ。しかし、今日のかなは恐れず質問した。
「芽依子…初めて俺がここに運ばれてきたとき、どんな様子だった?」
 芽依子は変なことを聞くな、という表情をしたが、ともかく口を開いた。
「前にも話したと思うが、骨折と打撲だらけで、そりゃどう見ても…」
「あ、いや、そうじゃなくて」
 かなは質問の仕方を間違えたことに気づき、迷った挙句、直接的に尋ねた。
「その時、性別はどうだった?」
 すると、芽依子は誠史郎の顔を見て、それからかなに向き直った。
「ちょっと場所を変えよう。誠史郎、空き病室を借りるぞ」
 そう言って、芽依子はかなを空き病室に誘った。かなをベッドに座らせ、自分はパイプ椅子を広げて腰掛ける。
「で、さっきの質問だが…男だった」
 何事かと訝るかなに、芽依子は答えた。
「どの時点で生き返って性別が変わったのかはわからないが、明らかに男だった」
 かなは安堵のため息をついた。
「そっか、芽依子は大丈夫か…」
 そう言ってから、かなはふと芽依子の顔を見た。
「実は、つぐみさんや澄乃が変なんだ。まるで、俺が男だったって事をすっかり忘れてしまってるみたいなんだ」
「あの二人もか?」
 驚く芽依子に、今度はかながあることに気づいて聞く。
「も、って…ひょっとしたら誠史郎さんも?」
 芽依子は重い表情で頷いた。
「理由はわからないがな…」
 芽依子の言葉に、かなは頭を抱えた。
「なんか、逃げ道がどんどんなくなっていく気がする…これで宿のことも任されたら…」
 そう呟き、そういえばつぐみの問題もあったと思い出して、かなの鬱はさらに酷くなった。しかし、考えてみたらここにはそっちだけでも解決できそうな人がいた。
「わかった、そっちの理由はともかくとして…もう一つの懸案を片付けよう」
 そう言うと、かなは立ち上がり、診療室に戻った。幸い、誠史郎はまだいた。
「誠史郎さん、ちょっとお話が…」
 そう言うと、かなはつぐみの事を話した。意外な事に、彼はつぐみのその決断のことを全く知らない様子だった。
「え、つぐみさんが? そりゃちょっと問題だね」
 頷く誠史郎に、かなは希望を見出して尋ねた。
「誠史郎さんからも、つぐみさんを説得してくれませんか?」
「良いよ。善は急げだ。すぐに行こう」
 頷いた誠史郎が白衣のポケットに手を突っ込む。しかし、ちゃりん、という微かな金属音が鳴るのを聞いて、かなは顔色を変えた。
「せ、誠史郎さん? まさか車ですか?」
 かなが聞くと、誠史郎は当然だろう、と答え、逃げようとするかなの手を掴んだ。
「やだ、やだぁっ! 死ぬのはいやーっ!!」
「ははは、安心したまえ。今日は安全運転を心がけよう」
 泣き叫ぶかなと、説得力皆無の発言をする誠史郎。それを見送りながら、芽依子は呟いた。
「かなさんと、この村の縁が強くなっている…やはり、かなさんには与えられた役割があるのか」

 そして、十分後。誠史郎が運転する車は龍神天守閣に到着していた。そして、かなはやはり助手席から滑り落ちるようにして地面に倒れこんだ。
「…」
 口を開いたら吐いてしまいそうで、ただ荒い息をつくかなを、誠史郎がお姫様抱っこして中に入る。すると、つぐみが奥から出てきた。
「あら、誠史郎さんー、いらっしゃいー」
 弾むような声で迎えるつぐみ。しかし、不思議な事に何故か大荷物を持っている。これから旅にでも出るかのようだ。
「やぁ、マイハニー…どうしたんだい、その荷物は」
 かなをロビーのソファに横たえてやりながら誠史郎は尋ねた。
「えっとー、そのー…」
 珍しくつぐみは言いよどんだ。誠史郎はそんな彼女の肩を抱き寄せ、ささやくように言う。
「どうしたんだい? 僕には隠し事など無用じゃないか」
 その甘く優しい(つぐみ主観)誠史郎の言葉に、つぐみは頬を赤らめながら答えた。
「そ、そのー…実はー、街の看護学校に通うことになったのー」
「看護学校?」
 不思議そうな表情をする誠史郎に、つぐみはもじもじした態度で事情を説明する。
「そのー、内緒で受験してたんだけどー、合格通知が来たのー」
 そう言って彼女が着物の袖から取り出したのは、間違いなく合格通知と入寮案内の書類だった。
「ほほう、これはすごい。でも、どうして?」
 誠史郎が感心しながら言うと、つぐみはさらに顔を赤らめた。
「やっぱりー、誠史郎さんの奥さんになるからにはー、そういう仕事もできなきゃいけないでしょうー? って、いや〜ん、私ったら〜」
 そう言ってぶんぶん頭を振って恥ずかしがるつぐみを、誠史郎は感動の眼差しで見つめた。
「つぐみさん…そこまでして僕に…よし、善は急げだ! その学校まで送っていこう」
 その瞬間、かなは心の中で「ちょっと待て! 行かないように説得してくれるんじゃなかったのか!?」と絶叫していたが、車酔いのダメージで口にはできなかった。
「誠史郎さん…私、嬉しい…」
「僕もさ、マイハニー。しばらく会えないのは寂しいけれど…」
 そんな会話をしながら、残り少ない時間を惜しむようにいちゃつきまくる二人。そこから5メートルと離れていない場所で、かなは世界の果てに飛ばされたような気分を味わっていた。
 そして、彼女が起き上がれるようになったのは、二人が車で去った数分後のことだった。立ち上がり、よろめいてテーブルに肘を突くかな。その目からぽろぽろと涙がこぼれ、テーブルに小さな池を作る。
「ば、ばかっぷるなんて大嫌いだ…」
 彼女の涙は、心配した芽依子が後を追ってくるまで続いた。
 
 涙を拭いたテーブルにお茶セットを持ち出し、かなと芽依子は一息ついた。
「済まなかったな、かなさん。うちの馬鹿父が迷惑をかける」
 謝る芽依子に、かなは首を横に振った。
「良いよ。あの二人が顔を合わせればああなるって事を、俺も予測しとくべきだった」
 二人はほぼ同時にお茶をすすった。そして、芽依子が尋ねる。
「それで、これからどうするんだ?」
「まぁ、やるしかないだろうなぁ…他に行くあてなんて無いし」
 この世に存在しない人間であるかなにとって、帰れる場所はここしかない。居場所を守るためにも、何とか宿の業務を続けていくしかなかった。
「掃除洗濯は自分でもできるけど、問題は料理か…澄乃に頼んでみようかな。味付けだけなら旭も上手いし…」
 戦力として頼れそうな人を計算していくかな。もっとも、旭はともかく澄乃は学生なので、冬休みが終わればそう一方的には頼れない。
「小夜里さんも料理は上手だぞ。二人にお願いしてみたらどうだ?」
 芽依子が助言する。かなは頷いて、メモ帳に小夜里の名を記入した。後で雪月家に直接行って頼んだ方が良いだろう。
「あとは…帳簿関係か…これが難問だな」
 かなは呟いた。こればかりはちゃんと教育を受けた人か、つぐみのように事情に通じた人がいないと、どうにもならない。そして、かなはどちらでもなかった。
「それなんだが、私がやろうか?」
 すると、芽依子が思いがけないことを言い出した。かなは頭を上げた。
「芽依子、帳簿の書き方なんてわかるの?」
「失礼な。私に不可能は無い。まぁ、診療所のも私がつけているしな」
 かなは大いに納得した。誠史郎もその辺はいいかげんそうな印象がある。
「よし…何とかやっていけるかもしれないぞ。とりあえず、澄乃の家に行こう!」
 かなは立ち上がった。もう泣いている場合ではない。戦わなければ路頭に迷うしかないのだ。
 
 雪月雑貨店に行ってみると、幸い、澄乃も小夜里も、事情を聞いて全面協力を約束してくれた。
「うん、わたしで良ければお手伝いするよ〜」
「つぐみも無茶するわねぇ…よし、あたしに任せときなさい!」
 母娘は頼もしい答えを返してくれた。さらに、小夜里は思いがけない提案もしてくれた。
「みやげ物コーナー?」
 目をぱちくりさせるかなに、小夜里は店の隅を指差した。そこには龍神の滝の水を分けてもらっている酒蔵の銘酒「龍神の滝」や、温泉饅頭が積まれている。
「この村は農業ができないから、ああいうのを作るのが盛んなのよ。今まではうちだけで扱ってたんだけど、観光客は来てくれなくて…かなちゃんとこに置かせてくれれば、売上も上がると思うんだけど、どうかしら?」
 かなは一も二もなく頷いた。
「それくらいなら大歓迎ですよ。ロビーのあたりをちょっと詰めれば、スペースは取れるだろうし」
「じゃあ決まりね。荷物は明日運ぶわ。それと、澄乃、さっそくお手伝いに行ってあげて」
 小夜里はにっこり笑って娘に言った。澄乃が返事をして準備のために奥に引っ込むのを見送り、かなは小夜里に頭を下げた。
「すいません、無理なお願いを聞いてもらって」
「良いのよ、大した事じゃないし。それに…」
 小夜里はかなの手を取った。
「かなちゃんの事は、あたしも娘のように思ってるしね。だから、かなちゃんもあたしの事をお母さんだと思って、どんどん相談してちょうだい」
 かなは頷いたが、小夜里も「彼方」の記憶を失っていることに気が付いた。
(何なんだろうな…いや、今はそれどころじゃないか)
 かなは気持ちを切り替えると、戻ってきた澄乃と一緒に龍神天守閣に戻ることにした。芽依子は家に帰ることになった。
「私は帰って、誠史郎にお仕置きしておく。帳簿は明日見よう」
「あぁ、よろしく、芽依子」
 そんな挨拶を交わし、三人の少女はそれぞれの目的地に向かいはじめた。しばらく歩いたとき、後ろからかなを追いかけてくる足音が聞こえた。
「おーい、かなー!」
 かなが振り返ると、追って来たのは旭だった。朝から駆け回っていたので意識していなかったのだが、もうそろそろ夕暮れ時だった。
「帰る途中で姿が見えたのだ。一緒に帰るのだ」
 息を弾ませる旭。そう言えば、旭は何も知らないだろうな、と思い出したかなは、帰る道すがら事情を説明した。
「つぐみ、いなくなっちゃったのか…」
 さびしそうに言う旭。彼女は可愛がってもらっていたので、つぐみの事は大好きだった。
「うん、それで、旭にもいろいろとお手伝いして欲しいんだけど、大丈夫?」
 かなが聞くと、旭は寂しさを我慢するように胸を張った。
「わかったのだ! それで、どんな事をすれば良いのだ?」
 意気込む旭に、かなはとりあえず澄乃や小夜里が料理するときの手伝いと、バス停へのお客の送迎を頼むことにした。
「任せろなのだ〜」
 張り切る旭。かなは、帰ったら彼女に会う着物を探してやらないと、と思っていた。まぁ、つぐみが子供だった時の物くらいは残っているだろう。

 帰ると、旭はガイド用の小旗をもってお客の出迎えに出かけ、澄乃はすぐに厨房に入って夕食の準備に取り掛かる。そして、かなは急いで朝から放っておいた各部屋の掃除や茶菓子の補充に取り掛かった。時間の余裕が無いだけに、戦場のような忙しさだ。
 30分後、客の第一陣が到着すると、その忙しさには拍車がかかった。かなはロビーに陣取ってチェックインと部屋への案内を繰り返し、澄乃は澄乃で、初めて大人数相手に料理を作る経験に悲鳴をあげていた。それができた端から旭が各部屋に配膳し、かなは風呂の掃除をして、客に入浴できることを伝え、それから各部屋の布団を準備し…とまさに目の回るような忙しさだった。
 3人が仕事から解放されたのは、夜11時過ぎのことだった。
「疲れたね〜」
 苦笑交じりに澄乃が言う。
「まったく、腕がパンパンだよ」
 かなはそう言って、腕を二人に見せた。
「仕事って大変なのだ。つぐみはやっぱり偉かったのだ」
 旭が言うと、かなも澄乃も異議なく頷いた。何しろ、かなが来る前はつぐみ一人で今日の仕事を全部していたわけである。三人とも不慣れで…というより素人同然で、つぐみがプロだという一点を無視しても、素直につぐみは凄いと言わざるを得ない。
「まぁ、ここでゆっくり体をほぐして、明日またがんばろう」
 かながそう言うと、二人も頷いて肩までお湯に浸かった。そう、今はみんなで入浴している最中である。
「それにしても…」
 旭がかなと澄乃を交互に見て言った。
「二人とも大きいのだ。ボクもあやかりたいのだ」
 かなと澄乃は顔を赤らめた。言うまでもなく、旭が気にしているのは、胸の大きさである。
「え、えぅ〜…」
 困ったように鼻のすぐ下まで水面につける澄乃。かなは旭の頭をなでてやった。
「大丈夫、旭ならきっと大きくなるよ。運動をして、たくさんご飯を食べて、健康にしていれば、きっと私や澄乃よりも大きくなるかもね」
「本当か? よし、がんばるのだ!」
 旭は勢い良く誓いを立てた。おして、何か昔を懐かしむような表情になる。
「そう言えば、前にも、こうやってボクの頭をなでて、いろいろ教えてくれた人がいたような気がするのだ…」
「それって、私?」
 かなが聞くと、旭は首を横に振った。
「違うのだ。その人は男の人だったのだ。良く覚えてないけど…」
「そう…」
 かなは頷いた。ひょっとしたら、それは彼方だった頃の自分かもしれない。旭も彼方のことを忘れてしまっているのだろうか。
(でもまぁ、がんばっていれば、きっと男に戻れる時も来るさ)
 かなはつとめて先の事を考えないことにした。今できることを一生懸命やる。彼女にはそれしかないのだから。
 龍神天守閣新体制最初の一日が、こうして過ぎようとしていた。

 かなの収支メモ
 バイトでなくなったため、廃止。

(つづく)


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