「と言う事で、旭に料理を教えてやってください」
「お願いしますなのだ」
 翌朝、一晩中フィーバー(死語)して帰ってきたつぐみに向かって、留守番をしていたかなと旭は頭を下げた。料理どころか、食材は洗って使う、と言う基本さえ知らない旭に、一晩中ひもじい思いをしたかなである。思いは切実だった。
「あらー、別に構わないわよー」
 つぐみは嬉しそうに頷いた。しかし、あっさりと教えてくれるほど彼女は甘くは無かった。かなたちの前にピースサインをした右手を突き出してつぐみは言った。
「ただし、条件が二つあるわー」
「…条件って、どんな?」
 かなが尋ねると、つぐみは人差し指を折った。
「まず、今眠いからー、ちょっと寝てからって事ー」
 かなは頷いた。それはまぁ、徹夜明けの眠くて意識が途切れがちな時に包丁や火を使う仕事なんて危なくてできるはずが無いので、当然である。
「で、もう一つは?」
 かなが聞くと、つぐみは楽しそうに中指を折った。
「かなちゃんも一緒にお勉強するって事よー」
「…え、ええっ!? お…じゃなかった、私も!?」
「もちろんよー。この龍神天守閣数百年の伝統の味、全部かなちゃんに叩き込んで上げますからねー」
 かなはつぐみの笑顔の向こうに、迫り来る脅威を感じ取って戦慄していた。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第12回 約束


 お昼前、着物の上から真新しい割烹着を着込み、ツインテールを三角巾に押し込んで、かなは厨房に入った。なんとなく「日本の母」といった感じである。
「あ、かな、似合うのだー」
「ありがとう、旭。そっちも似合ってるぞ」
 旭も嬉しそうに笑った。彼女の装備はピンク色のエプロンだった。そこへつぐみがやってきた。
「ちゃんとそろってるわねー」
 かなと旭が頷くと、つぐみは笑顔の中にも厳しさを湛えて二人を見つめた。
「それじゃあ、今日のお昼ご飯を一緒に作るわよー。ちゃんと私のする通りにやるのよー?」
「はい」
「わかったのだ」
 二人はそれぞれに返事をした。まずはつぐみがお手本を見せて、その後二人がそれを真似して作っていく予定だ。今回は全くの初心者二人だけに、比較的簡単で、それでいて使うテクニックは多いと言う野菜の煮物が課題となっていた。
「と言う事で、まずは大根の皮剥きからよー」
 つぐみが具に使う大根を手に取ると、輪切りにして外周に沿って皮を剥き、最後に90度角で四等分する。のんびりした口調からは想像もつかない早業だ。
「やってごらんなさいー」
 つぐみに促され、かなも早速包丁片手に大根に挑んだ。輪切りにして、皮を剥こうとする…のだが、これができない。包丁は油断するとすぐに芯のほうへ切り込んでいこうとするし、そうかと思えば、剥いている皮がブチブチとちぎれる。残っている身も多い。つぐみの剥いた皮は滑らかで薄く、身がほとんど残っていないのに。
「かなちゃん、最初からきれいに早く剥こうとしなくていいのよー」
 見かねたつぐみがアドバイスをしてくる。かなはそれを心に留め、ゆっくりでいいから確実に皮を剥こうと心がけた。結果、つぐみの10倍近い時間をかけて、ようやく皮をきれいに剥く事ができた。
「どうでしょうか? つぐみさん」
 かなの手渡した大根を受け取り、つぐみはいろんな方向から見てみる。そして、親指を立てた拳をかなに突き出した。
「なかなか上手よー。あとは数をこなして早く向けるようにするといいわねー」
 その誉め言葉を聞いた瞬間、かなは嬉しさに全身が包まれるのを感じた。
「あ、ありがとうございます…」
 視界がぼやけた。それが、泣いているからだと気づくまで少し時間が掛かった。
「あ、あれ? 何で泣いてるんだろう、私…」
 自分でもわからないまま、ぼろぼろと大粒の涙をこぼすかな。最近あまりにも不幸な目に会い続けたせいか、たかが野菜の切り方を誉められた程度の小さな幸せが、何十倍にも増幅されて感じられたようだった。
 そんなかなを、つぐみは抱きしめて頭を撫でてやった。すると、かなの反対側にいて練習しているはずの旭が、見た目よりも豪快に包丁を使って大根を剥いている…と言うより破壊しているのが見えた。
「できたのだ〜」
 もはや元が何だったのかもわからないくらい、無残な残骸と化した大根を見下ろし、旭は満足そうな声をあげた。
「…旭…何やってんだ?」
 かなが呆れたように聞くと、旭は嬉しそうに手のひらサイズの大根のかけらを差し出した。普通の輪切りと同じくらいのサイズではあるが、不規則な多角形をした、どういう風に切ったのかわからない代物である。
「やっと上手くできたのだ」
 旭は胸を張るが、大根一本をほとんど無駄に使った挙句これか、とかなはつぐみの作った見本を旭の前に差し出した。
「旭、よく比べてみろ。お前のはちょっと違うぞ?」
 旭は見本と自分のを見比べていたが、首をかしげてかなを見上げた。
「良くわからないのだ」
「…え?」
 かなは旭の顔をまじまじと見つめた。冗談を言っているのかと思ったのだ。しかし、旭の表情は本気のそれである。
「ま、いいや。つぐみさん、旭の方も見てあげてください。私は良いですから」
「わかったわー」
 旭がまだ包丁使いに慣れていないからだろうと好意的に解釈し、かなは自分の分にもどることにした。さっき一回剥いてみて、少しコツが掴めたような気がする。

 そして30分後、かなは煮物に必要な大根、里芋、ごぼう、いんげん、たけのこ、鶏肉などの準備を終えていた。時間をかけた分、見た目はなかなかきれいに出来ている。旭はと言うと、つぐみがつきっきりで教えたものの、なかなか上手く行かず、彼女の前には残骸と化した野菜が積み上げられていた。
「これからどうするのだ?」
 しかし、本人はいたってご満悦で、思わずかなもつぐみも苦笑してしまうほどだった。
「じゃあ、煮込むわよー。これも私のやる通りにやってねー」
 つぐみは鍋にだしを張り、沸騰しないようにして具を入れていく。それをみりんや醤油で味付けしながら、火加減を細かく調節する。やはり無駄が無く、手際の良い動きだ。
「こうかな…う…ちょっと味が濃くなっちゃったかも」
 かなは早速つぐみのやり方を真似して味付けをしたが、どうもちょうど良い味にならない。それどころか…
「わ、煮立ってきたっ! 火、火を弱くして…って、消えたっ!」
 火加減の方も上手く行かない。強すぎたり弱すぎたりで、なかなかちょうど良い火加減を持続する事が出来ない。それでも、なんとか作り終わったが、煮汁の味加減を調節しているうちに量が増え、鍋いっぱいに近い量になってしまっていた。しかも、途中で火を強くしすぎたためか、ほのかに焦げ臭い。
「かなちゃん…ちょっと張り切りすぎじゃないー?」
 つぐみにそうツッコまれるほどだった。切るのは上手くいったのに、としょんぼりするかなの横で、こちらは上手く行ったのは旭である。
「…あら、よくできたじゃないー」
 つぐみが旭の煮物を褒める。かなが覗き込んでみると、野菜は不恰好だが、食欲をそそる良い匂いが立ち上り、かなのお腹の虫がきゅう…っと鳴いた。
「あらー、はしたないわよー、かなちゃん」
「し、仕方ないじゃないですか…夕べも今朝もほとんど食べてないんですから…」
 かなは真っ赤になって弁明した。
「そうねー、じゃあお昼ご飯にしましょうかー」
 つぐみはにっこり笑い、かなに器を手渡した。自分で作った煮物をよそえ、と言うことなのだろう。かなとしては、味には少々不安があったものの、ようやくまともで温かいご飯が食べられる事に、彼女は心から安堵していた。

 しかし、24時間ぶりのちゃんとした食事は、あまりちゃんとしたものではなかった。
「かなちゃん、どうー? 自分で作った料理はー?」
「…あまり美味しくないです」
 かなはうっすらと涙の浮かんだ眼で答えた。火加減が下手だったせいか、具は表面が焦げたり煮崩れたりしている割に、芯まで火が通っておらず、生煮えに近い状態になっている。
 味も、塩加減は何とかなったが、調節のため途中で水を足して薄めたりしたせいか、ダシのうまみがあまり感じられない。そのくせ、みりんが多すぎたのか、後味が妙に甘ったるいのだ。
 とどめに、口に入れたときに焦げ臭さが強く感じられる。よく「空腹は最高の調味料」などと言うが、失敗作を美味しくするほどの魔力はないようだった。
「これから練習すれば上手になるわよー」
 つぐみはそう言って励ましてくれたが、現状の失敗作が成功に変わるわけではなかった。一方、旭の煮物は見てくれは良くないが、味は普通…むしろ美味かった。かなも一口もらって、その味に思わず唸る。
「うーん…美味しい。旭、何かコツでもあるの?」
 ただ真似しただけでは出せない美味さに思わずかなは質問していた。すると、旭は照れくさそうに答えた。
「大した事はしてないのだ。音とか匂いとかがつぐみの鍋と同じようになるようにしただけなのだ」
 かなとつぐみは思わず顔を見合わせた。つぐみはもちろんだが、素人のかなでも、旭の言った事の凄さはわかる。特に、音で料理の出来具合をはかるなどという芸当は、玄人にだってそう簡単に出来る事ではない。
「あ、旭ちゃん…あなたひょっとしたら天才なんじゃないー?」
「少なくとも、私よりは才能がありそうだよな…」
「そ、そうなのか?」
 二人の褒め言葉に、旭が顔を赤くする。そして、俄然やる気が出てきたのか、張り切った口調でつぐみに言った。
「よーし、もっといろんな事を覚えるのだ! つぐみ、もっと料理を教えて欲しいのだ!」
「もちろんよー。まかせなさいー」
 つぐみも教えがいのありそうな弟子の出現に、めらめらとやる気を燃やしていた。口調からはあまり伝わらないが。

 昼食の後、かなは外に出かけていた。旭とつぐみは厨房にこもって料理の練習をしている。おかげで、かなの事はすっかり忘れられていた。
「まぁ…その方が楽といえば楽なんだけど」
 かなは呟いた。料理をする事に乗り気だったわけではないが、放っておかれるのはそれはそれでちょっと寂しい。
 澄乃の所でも行くか…と雪道を踏みしめて進むかなの目の前に、石段が現れた。龍神の社の入り口だ。
「そう言えば…最近来てなかったな」
 別段用事など無かったが、ふと思い立ってかなは石段を登り始めた。最上段が近づいてくると、彼女の耳に奇妙な掛け声のようなものが飛び込んできた。
「よいしょ、よいしょ」
「ニャン、ニャン」
 小さな女の子と、猫の鳴き声。どちらもかなには聞き覚えのある声だった。果たして登りきってみると、そこには予想通りの光景が繰り広げられていた。
「よいしょ、よいしょ」
「ニャン、ニャン」
 桜花が一生懸命に雪玉を転がしていた。それをシャモンが追って行く。どうやら雪だるまを作りたいらしい。しかし、転がし方が悪いのか、せっかくの雪玉は途中で崩れてしまった。
「またなのじゃ…ええい、もう一度やるのじゃ、シャモン!」
「ニャニャニャン」
 再び雪玉を転がし始める桜花。後を追うシャモン。どうやら、ずっと同じ事を繰り返していたらしく、境内のあちこちに崩壊した雪玉の跡と見られる小さな雪の山が点在していた。かなは見ていた場所から一歩出て、桜花に声をかけた。
「それじゃだめだぞ、桜花」
「うわっ!?」
 突然声をかけられ、飛び上がって驚いた桜花だったが、相手がかなと知ると、途端に頬を膨らませた。
「なんじゃ、かなではないか。脅かすでない」
 相変わらずの古風な口調で怒る桜花に、かなは思わず苦笑しながら片手拝みで謝った。
「あはは、悪い、悪い」
「まあ良いがの。して、今日は何用じゃ?」
 謝られてあっさり機嫌を直した桜花に、またしてもこみ上げる笑いを抑えつつ、かなは答えた。
「いや、特に用事は無いんだけどね…それより、雪だるま作りたいんだろ?」
「うむ、そうなのじゃ…今朝からずっと挑戦しておるが、なかなか上手くいかぬ…」
 桜花が沈んだ声を出す。かなはその前に立つと、地面の雪を手で一すくいして固め、小さな雪玉を作った。
「教えてやるから、言う通りにやってみな」
「まことか?」
 かなの言葉に、桜花が目を輝かせてその手つきを見守る。かなはゆっくり玉を転がし、ある程度成長すると、転がす方向を変えた。
「こうやって、満遍なくいろんな方向に転がすんだ。いつも同じ方にだけ転がしてると、途中で支えきれなくなって崩れちゃうんだ」
「ふむ、なるほどのぅ」
 桜花は感心した表情で見ている。やがて、かなの雪玉が50センチくらいに成長したところで、彼女は桜花に言った。
「さ、桜花もやってごらん」
「わかったのじゃ」
 桜花は立ち上がると雪玉を転がし始めた。シャモンが後をついていく。
(微笑ましい光景だな)
 社の階に腰掛けて桜花を見守りながら、かなは思った。今度は崩れることなく、着実に成長していく桜花の雪玉。それにあわせてはしゃぎ声も大きくなっていく。やがて、40センチくらいの雪玉を作り上げた桜花は、かなを呼んだ。
「かな、頭を載せるから手伝って欲しいのじゃ」
「ん、わかった」
 かなは立ち上がり、桜花の傍に歩み寄った。40センチというと大したことは無いように聞こえるが、それでも小さな桜花と比べれば、身長の半分近い大きさだ。かなは桜花と一緒に雪玉を持ち上げる。と言っても、実際は彼女が一人で持っているのに近い。
(お、重い…)
 男の頃なら片手で持ち上がりそうな雪玉だったが、今のかなには重労働も良いところだった。なんとか最初に彼女が作った雪玉の上に載せてやると、ほとんど桜花と同じくらいの大きさの雪だるまがその形を現した。
「おぉ〜…すごいのじゃ」
 桜花が目を輝かせて雪だるまを見る。しかし、すぐに不足しているものに気がついた。
「でも、顔が無いのじゃ。かな、何か良い知恵はないかのう」
 困った時のかな頼みで相談してくる桜花。かなは周囲を見回した。
「うーん…木の枝くらいしかないか」
 山の中だけあって、木は周囲に豊富に存在している。雪を掘れば石も出てくるかもしれないが、スコップでもないと地面に届くような穴は掘れそうもない。かなはそこらの木に近づき、手ごろな枯れ枝を数本折り取った。
「桜花、これで好きなように顔を作ってごらん」
 桜花は頷き、枯れ枝を好きな長さに折って、雪だるまの顔に貼り付け始めた。いろいろと試行錯誤すること十分ほどたって、桜花は手を叩いた。
「できたのじゃ」
「お、なかなか可愛いじゃないか」
 桜花が作ったのは、シャモンに似せたらしい猫っぽい顔だった。それが自分だとわかったのか、シャモンも尻尾を振って喜んでいる。かなは雪をすくって仕上げをしてやる事にした。雪だるまの頭の両脇に、猫の耳を象った三角形の出っ張りをつけてやる。
「ほら、こうするとシャモンだるまのできあがり」
「おお〜、すごいのじゃ〜」
 耳のついた雪だるまに大はしゃぎする桜花。その天真爛漫な様子を見ていると、かなの胸に、不意に今まで感じた事のない、温かい感覚が湧き上がってくるのが感じられた。
「…か、かな、どうしたのじゃ?」
 桜花の驚く声。気がつくと、かなは桜花をしっかり抱きしめていた。自分でも、何故そうしようと思ったのかはわからない。
「なんでかな…桜花はこうされるのは嫌?」
 自分でもびっくりするくらい優しい声でかなが尋ねると、桜花は首を横に振った。
「ううん…そんな事ないのじゃ…」
 そう言って、桜花の方からもしっかりとかなの胸にしがみついてくる。
「かなは温かいのじゃ…まるで母上みたいじゃ…それに、良い匂いがする」
 そう言って目を閉じた桜花のお腹の虫がきゅう…っと鳴いた。たちまち顔を真っ赤にした桜花はあたふたと弁解するように言った。
「こ、これは…ち、違うのじゃ! かなが良い匂いをさせているからいけないのじゃ!!」
 かなは苦笑した。桜花の言う「良い匂い」とは、どうやらお昼に染み付いた料理の匂いだったらしい。
「あはは…別に気にしないよ」
 かなは言った。第一、彼女だってお昼にはやはりお腹の虫を鳴かして恥ずかしい目に会っているのだ。
「ところで桜花、お腹減ってるの?」
「うむ…朝から何も食べておらぬ…」
「え?」
 かなは時計を見た。もうすぐ2時になる。朝から何も食べてないとすると、さぞかしお腹が減っている事だろう。
(何か用意してやればいいのに)
 桜花の家族の事を考え、かなはひどい話だと思った。そして、ふと袖の中に入れた自分の財布に手を伸ばす。ここ一週間ほどかけて貯めた珠玉のお金だ。
(…まぁ良いか。どうせ他に使う事もないし)
 覚悟を決めて、かなは桜花に聞いた。
「桜花、何かお菓子でも食べる?」
「なに、お菓子!? かな、持っておるのか?」
 桜花が目を輝かせた。しかし、かながここから降りて店まで買いに行く事を告げると、彼女の表情はいっぺんで曇った。
「それは困るのじゃ…わらわがいない間に父上と母上が帰ってくるかもしれぬ…」
 待ち合わせをしている桜花としては、親と入れ替わりになるのではないか、と言う危惧の方が強いらしい。神社を離れる事を嫌がった。
「大丈夫、そんなに時間は掛からないし、親だって桜花の事を待ってくれるさ」
 かなは笑顔でそう言い、桜花もようやく安心して、一緒に行く事を承知した。かなは桜花と手をつないで神社の石段を降りた。もちろんシャモンも一緒だ。

 雪月雑貨店の戸を開けると、中を見た桜花とシャモンは感嘆の声をあげた。様々な駄菓子やおもちゃ類に目を奪われているらしい。喋り方は古風でも、こういうところは子供だな、と微笑ましく思いながら、かなは店の奥に向かって呼びかけた。
「こんにちわー。小夜里さーん、いますかー?」
 しばらくして、「はーい」という返事と共に、ぱたぱとと店の奥から出てきたのは、小夜里ではなく澄乃だった。
「あ、かなちゃん。いらっしゃいだよ〜」
「おはよう、澄乃。小夜里さんは?」
「お母さんなら、朝方に帰ってきて、そのまま寝てるよ〜」
 そう言えば、つぐみは小夜里と夜遊びに行っていたのだった、とかなは納得した。
「あ、桜花ちゃんも。いらっしゃい〜」
 かなが考えている間に、澄乃が桜花をみて満面の笑顔で出迎えていた。
「おぉ、澄乃。ここは澄乃の家なのか?」
「うん、そうだよ〜」
 二人が出会ったのはつい先日、短い間だけだったのに、まるで姉妹のように打ち解けている。かなは澄乃に頼んだ。
「澄乃、桜花腹減ってるらしいんだけど、何かお腹に溜まるお菓子はないか?」
「えうっ、そう言う事なら…」
 澄乃は迷わずウォーマーに駆け寄り、中から例のものを取り出した。
「はいっ、あんまんだよ〜」
「…聞くまでもなかったか」
 かなは苦笑した。お菓子の事を聞いて、澄乃があんまんを持ち出さないわけがない。
「あつあつでおいしいよ〜」
「お前が食うなよっ! で、一個いくら?」
「むぐむぐ…50円だよ〜」
 高い、と言いそうになって、かなは気がついた。高いわけがない。むしろ安い。おかしいのは自分の金銭感覚のほうなのだ。
「じゃあ、とりあえず2個…あと、シャモン用に何かもらおうかな」
「それだったら、この魚せんべいが良いよ」
 かなは自分と桜花にあんまん、シャモンに魚せんべいの合わせて130円を払い、澄乃と一緒にお茶にする事にした。
「これは美味しいのじゃ。こんな甘くて美味しいお菓子は初めてじゃ」
 桜花はあんまんを頬張ってご満悦だ。あまり美味しそうに食べるので、澄乃が自分の分を分けてあげたくらいである。
「桜花は、普段はあんまりお菓子とかは食べないのか?」
 かなが聞くと、二個目のあんまんにかぶりつきながら桜花は頷いた。
「そうじゃな。普段はこのようなものは食べられぬ。昨日は木の実だけじゃったしな」
「だめだよ〜、そんなの食べちゃ」
 澄乃が注意し、かなも同意する。
「そうだぞ。お腹でも壊したら大変だろ。お菓子くらい…」
 一瞬かなは言葉に詰まった。彼女の経済力では、桜花にお菓子をおごる事は、かなりの負担だ。しかし、桜花の喜ぶ顔を見るのは、彼女にとっても嬉しい事だった。かなは言い切った。
「お菓子くらい、いつでもおごってあげるから」
 清水の舞台から重りを背負って飛びおりるくらいの覚悟で言ったかなの言葉に、桜花が目を輝かせる。
「ほ、本当か?」
「あぁ、本当…」
 かなが答えかけたその瞬間、ごとん、という重い音がした。何事だろうと思って店内を見回したかなと澄乃は、そこに展開されていた光景に唖然となった。
「ウニャ〜」
 シャモンが嬉しそうな声をあげて、魚せんべいを食べている。ただし、かなが買ってあげたものではない。シャモンがひっくり返した、大きな広口ビンからこぼれ落ちた売り物だ。床にあふれた魚せんべいの量は、20枚はくだらないだろう。
「…」
 かなはともすれば空白になりそうな意識を、なんとか現世に繋ぎ止めつつ考えた。魚せんべいは一枚30円。今シャモンがこぼした分は、目測で20枚程度。つまり、600円。
 今の彼女の所持金…520円。
 かなの目から、つうっと一筋の涙が零れ落ちた。
「桜花…ごめんな…お菓子はおごってあげられなくなったよ…」
 すると、お仕置きとばかりにシャモンのほっぺたを引っ張っていた桜花は、その手を離してかなを慰めるように言った。
「それなら…かなにご飯を作って欲しいのじゃ」
「え」
 まるでプロポーズのような桜花の言葉に、かなは思わず間抜けな声をあげた。
「そんなに良い匂いがしているのじゃ。きっと美味しいに違いないのじゃ」
 かなは困ってしまった。彼女が料理下手なのは、さっき証明されたばかりである。
 しかし、桜花は期待に満ちた視線をかなに向けている。その視線を浴びた瞬間、彼女の中に再び、さっきと同じ、不思議な温かい感覚が満ちてくるのが感じられた。その感覚に押されるようにして、かなはしっかり頷いていた。
「わかった。ちょっと練習しなくちゃいけないけど…必ず桜花のために美味しいご飯を作ってあげるよ」
「本当じゃな?」
 桜花が大喜びして尋ねてくる。
「本当だよ」
 かなが頷くと、桜花は彼女の方に小指を立てた手を突き出してきた。かなは頷いて、桜花の小さな小指に自分のそれを絡めた。
「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲―ます」
「指切ったのじゃ」
 約束を違えない事を誓う儀式を済ませ、桜花がにっこり笑う。その笑顔を見ると、かなは安請け合いをした事の後悔も薄れ、桜花のために一つ頑張ろうと言う気になったのだった。お茶会が終わると、かなは早速龍神天守閣へ帰り、まだ続いているであろうつぐみと旭の料理教室に混ざろうと思った。
(頑張らないと…それにしても、なんで桜花のためなら頑張ろうって気持ちになるんだろ?)
 道を急ぎながら、かなはふと今日の出来事を疑問に思った。しかし、桜花みたいな子を可愛く思うのは当然か、と深く考えないことにしてしまった。
 それが、母性本能の目覚めである事を、彼女は知らない。それはかながだんだん引き返せない深みにはまりつつある証拠でもあった。

 かなの収支メモ
 本日の収入 0円
 本日の支出 520円
 現在の所持金 0円
 新たな借金 330円(魚せんべい弁償)
 借金(ピー)万円

(つづく)


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