かなは夢を見ていた。
 努力しても努力しても報われない夢だ。夢の中で、彼女は一生懸命人の役に立とうとしていた。畑の収穫の手伝い、洗濯物の取り入れ…しかし、どれも上手くできない。逆に人を怒らせるばかりで、石は投げられるわ、棒で打たれるわ、はっきり言って散々だった。
 そんな苦しい夢を、突然の電話のベルが打ち破った。
「あ…モーニングコール…」
 目をこすりながら布団から出ようとした時、電話のベル音を打ち消すような奇声が部屋に響き渡った。
「ぴきゃーっ!!??」
 同時に、かなの後頭部を何か強烈な打撃が襲った。誰かが彼女を思い切り踏んづけたのだ。
「はうっ!?」
 眠りの世界から現実の世界に僅かに滞在しただけで、昏倒の世界に引き込まれるかな。薄れ行く意識の中で、かなは自分の後頭部を踏みつけた者の正体を見た。
「な、何なのだ!? うるさいのだ!」
 旭だった。電話の音に驚き、その発生源を探して走り回っている。電話というものを知らない環境で暮らしていただけに、何が起こったのかわからない様子だった。
(なんで、旭がここに…?)
 夕べから旭が同居する事になった、と言うことまで思い出すことができないまま、かなは気を失った。一方、旭の方はと言うと、音の正体が電話だと知り、腰に手を当てて言い放った。
「悪発見! 撲滅なのだっ!!」
 同時に、電話にキックをぶちかます。モジュラーケーブルが引きちぎられ、宙を飛んだ電話は壁に叩きつけられると、沈黙を余儀なくされた。音が消えた事に満足して頷くと、旭は再び布団にもぐりこんで行った。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第11回 休日の過ごし方


「かな…ごめんなのだ。まだ痛むのか?」
 横を歩く旭が済まなさそうな表情でかなの顔を見上げてきた。
「いや…大丈夫。そんなに酷くはないよ」
 かなは旭を心配させないように笑って見せた。実際のところは少し痛い。踏まれた頭は平気だが、首のところが軽いむち打ちでも起こしたらしかった。
 そこで、一応診てもらおうと橘診療所へ向かう途中である。旭はそれとは別の用事があり、いったん自分の家に戻って、必要なものを取ってくると言う事だった。
「でも…ごめんなのだ」
 少しは痛い、と言うことにしきりに謝る旭。かなはもう一度旭を安心させるように笑って見せた。
「良いって。今日はお休みだから寝坊にもならなかったし」
 旭に踏み潰されたかなは、9時近くまで気を失ったままだったのだが、これが仕事のある日なら、寝坊とみなされて一瞬で日給の大半が消えるところだった。そのちっぽけな幸運をかなは神に感謝した。
「そっか…」
 ようやく旭も安心したらしく、少し笑顔が戻った。その時、龍神の社の赤い鳥居が目の前に見えてきた。
「じゃあ、ボクは家に戻って来るのだ」
「ああ、また後でな」
 かなが頷くと、旭は駆け足で社の前の石段を登って行った。途中、何度か振り返って手を振ってくる。かなも手を振ってそれに応え、旭の姿が見えなくなると首を押さえた。
「あいたた…手ぇ振ったらまた痛くなってきた…」
 首の鈍い痛みをこらえつつ、かなは橘診療所への道を歩いて行った。

 橘診療所は、相変わらず閑古鳥の巣と化していた。
「やぁ、おはよう、かなくん。今日はどうしたんだい?」
 くわえタバコの誠史郎が軽いノリで挨拶してくる。かなが事情を説明すると、誠史郎は頷いてかなの首筋を診はじめた。
「ふむ…むち打ちだね。たいした事はないが、何日かは痛みが残るかもしれないな」
「え…」
 誠史郎の診断に、かなは困った表情になった。仲居の仕事は結構重い物を運ぶ事が多く、首筋が痛いままではいろいろと支障が多い。
「何とか早く治りませんか?」
 かなが聞くと、誠史郎は無精ひげだらけのあごに手を当てて考え込んだ。
「ふむ…鎮痛剤では眠くなるし…そうだ、良いものがあった。少し待ちたまえ」
 何かを思いついたらしく、誠四郎はカルテのフォルダや医学書が並べられたスチールラックの上に手を伸ばすと、何かを引っ張り出した。一抱えほどの黒い革の鞄だ。誠史郎がそれを開けると、そこには銀色にきらきらと光る無数の針が並べられていた。
「誠史郎さん、それは?」
「鍼治療さ。痛み止めには良く効くんだよ」
 かなの質問に答え、誠史郎は15センチはありそうな細い鍼を手に取った。
「さて、かなくん…着物を脱ぎたまえ」
「はい…って、えぇっ!?」
 一瞬頷きかけたかなが驚愕の声をあげた。
「何故脱がなきゃいけないんですか!?」
「いや、脱いでくれなきゃ正確なツボの位置がわからないだろう?」
 誠史郎の言葉は実にもっともなものだった。
「鍼以外に何かないんですか?」
 かなは脱がされるのだけは勘弁とばかり、必死に訴えたが、誠史郎は首を横に振った。
「もう一つ手段が無くはないが…お灸だよ。やっぱり脱がないとだめだね。まぁ、背中の方だし、上半身だけだから」
「はうぅ…」
 かなは目の幅涙を流したが、背に腹は代えられない。少し恥ずかしいのを我慢してでも痛みを取らなければ、今後の仕事に差し支える。
「あ、あんまり見ないでくださいね」
 かなは無理を言いつつも、誠史郎に背を向けて、着物の襟をそっとずらした。軽い衣擦れの音と共に、彼女の細い肩と滑らかな背中が露わになる。
「あ、ブラジャーもできたら外して欲しいんだが」
「え…わ、わかりました」
 誠史郎の要求に新たな涙を流しつつ、かなはブラのホックを外そうとした。幸い、今日は昨日のように黒ではない。白の比較的大人しいデザインである。
「…」
「どうしたね?」
 固まったようになったかなに、誠史郎が不思議そうに尋ねると、かなはまた震えながら涙目で誠史郎のほうを向いた。
「い、痛くて腕が回らないんです。すいません、外してください…」
 最後は消え入りそうな声だった。
「そうか…仕方ないな」
 誠史郎は頷くと、指でホックをつまみ、ぱちんと音を立てて外す。障害物の無くなったかなの背中は、羞恥でピンク色に染まっていた。誠史郎はおもむろにそこに手を這わせる。
「ひゃあんっ!?」
 その微妙な刺激に、かなは思わず甘い悲鳴をあげて飛び上がった。
「こら、かなくん、動くんじゃない。ツボが探せないだろう?」
 誠史郎はかなを叱責すると、彼女の身体を押さえつけて鍼を手に取った。かなは一瞬背中にぞわっと言う寒気に似た感覚を覚えた。しかし、その感覚がすぐに心地よさに変わる。
「あ…?」
「よし、まずは一本。あと何箇所か打つから大人しくしていてくれたまえよ」
 そう言って、誠史郎は手際良くかなの背中に鍼を打ち終えた。痛みは全く感じられなかった。
「な、なんだか気持ちいいものなんですね」
 かなが少しだけ安堵した声で言うと、誠史郎は満足げに頷いた。
「効いている証拠だよ」
 かなは頷き、そのままじっとしていた。10分ほどして、誠史郎は鍼を抜き始めた。打たれる時のそれに似たぞわっと言う感触が彼女の背中に走った。
「どれ…首を動かしてごらん」
「あ、はい」
 誠史郎に促され、かなは慎重に首を動かしてみた。
「…あ、痛くない。すごく軽くなった感じです」
 かなは驚きの声をあげた。首筋の鈍い痛みは綺麗に取れていた。それどころか肩こりなども楽になった気がする。
「そりゃ良かった」
 誠史郎は頷くと、かなのブラのホックをつまんだ。さっき外してやったのだから、今度は留めてやろうと思ったのだ。その動きに気づいたかなが慌てて後ろを振り向く。
「あ、せ、誠史郎さん! 何するんですか!?」
 かながそう叫んだ時、突然診察室の扉が開かれた。
「誠史郎、この間借りていた本を返しに…」
 芽依子だった。手には数冊の本を抱えている。その彼女の目が、室内の状況を目にして大きく見開かれた。上半身を露わにされ、涙を浮かべているかなと、彼女のブラジャーに手を掛けている誠史郎。
「何をしとるか、この痴れ者がっ!!」
 芽依子は叫ぶなり、快音を立てて踏み込み、誠史郎のあごを正拳で打ち抜いた。
「はぐっ!?」
 たまらず床に崩れ落ちる誠史郎。芽依子はかなの肩を掴み、声をかけた。
「大丈夫か、かなさん! こいつに一体何をされた!?」
「え? あ、は、鍼治療…」
 芽依子の勢いに押されながらも、かなは事情を説明した。
「え…?」
 芽依子はかなと、床に倒れている父を交互に見ながら聞いた。
「ひょっとして、誤解か?」
 かなはこくこくと頷いた。芽依子はふむ、と息を漏らし、誠史郎を見下ろした。
「すまなかったな」
 芽依子が言うと、誠史郎はすっくと立ち上がった。そして、ニカッと妙にさわやかに笑ってみせる。
「はっはっは、だめじゃないか、芽依子。人を殴る前にちゃんと事情を聞かないと」
 言葉もしっかりしている。あごを殴られたダメージは全く無いらしかった。
(頑丈な人だ…)
 かなが感心していると、誠史郎は汚れた白衣を手ではたいて埃を払っていた。
「だいたい、娘の君にそっくりなかなくんを見て、僕が欲情するわけが…」
 そう言いながらかなの方を向いた誠史郎はなぜか絶句し、その鼻からたらり、と血が流れた。
「あ…か、かなさん、ティッシュ…」
 自分が殴ったせいかと思い、やや焦ったような様子で芽依子がかなの方を向き…そしてやはり絶句した。
「え?」
 橘父娘が自分の方を向いて固まったのを見て、かなは何が起きているのかわからず、その場に立ち尽くした。次の瞬間、芽依子が大声で叫んだ。
「か、かなさん、服、服!」
「え…あ、う、うわああぁぁぁぁぁぁっっ!?」
 ようやくかなも気づいた。自分が上半身裸で、しかも、さっき誠史郎が殴られた時、彼がつまんでいたブラジャーがずり落ちて、胸が剥き出しになっている事に。
 真っ赤な顔で胸を抱きかかえ、しゃがみこむかな。その横で、芽依子が再び拳を振るっていた。
「見るな、馬鹿者! というか、欲情しないと言う言葉に説得力がないわっ!!」
 再び誠史郎が快音と同時にあごを打ち抜かれて倒れ、かなは悲鳴をあげながら泣いていた。
 橘診療所の修羅場はそれからしばらく続いた。

 それから30分後…龍神天守閣への帰り道を、かなは泣きながら辿っていた。
「うっうっ…見られた…」
「ま、まぁ泣くな、かなさん…」
 横には芽依子が付き添っていた。ショックでふらふらと歩くかなを見かねて着いてきたのだ。
「そんな事言ったって…」
 かなの泣き声は止まらない。実を言うと、かなが裸を見られたのは別にこれが最初と言うわけではなく、小夜里やつぐみにも見られているし、身体測定の時に芽依子にも見られている。
 それでも、小夜里の時は気を失っていたから気分が楽だし、つぐみも一応身内だからまだ耐えられる(耐えられないのは触られる事だ)。芽依子は他人だが、友人だと考えれば耐えられなくも無い。
 しかし、誠史郎は他人の上に男だ。ショックは大きかった。
「おーい、かなー!」
 その時、前方から元気の良い声が聞こえてきた。旭だ。左手に風呂敷包みのようなものを持ち、右手をぶんぶんと振り回しながら駆けて来る。
「旭…はっ」
 かなは旭が来る前に、慌てて着物の袖で目の辺りをぬぐった。泣いていたのを旭に見られたくはない。しかし、旭の方ではそんなかなの様子を見逃さなかった。
「ふみ? かな、泣いてるのか?」
「…そんな事ないよ」
 かなは否定したが、赤く泣き腫らした目はごまかしようがなかった。旭は厳しい表情になって辺りを見回した。
「かなを泣かす奴は悪なのだ! 撲滅するのだ!!」
 決め台詞の「悪・即・撲滅」を放ち、旭は芽依子に目を留めた。
「むむっ! かなを泣かしたのは…あんたかっ!?」
「いや、違う…」
 かなは否定しかけて、ふと首をひねった。診療所での光景を誤解して誠史郎をぶっ飛ばし、かなの胸がはだける原因を作ったのは、芽依子だと言えなくもない。
 誤解を解くべきかなが黙り込んでしまったため、旭は果敢に芽依子と向かい合った。しかし。
「ふ…ふみ…?」
 しばらくして、旭の様子がおかしくなった。芽依子は何もしていないのにぷるぷると身体を震わせ、冷や汗が身体を伝っている。まるで何か怖いものを見ているようだ。
(どうしたんだ?)
 かなが訝った時、芽依子がフッと鼻で笑い、旭に向かって強烈な言葉を浴びせた。
「いきなり悪扱いか…いい加減な事を抜かすと、皮を剥いで煮えたぎった湯に放り込むぞ?」
 その瞬間、旭は身も世もないような恐怖の絶叫を上げた。
「ぴきゃーーーーーっっ!?」
 そのまま飛び退るようにしてかなに抱きつき、がくがくと身体を震わせる。あまりの惨状を見かねて、彼女は芽依子に向かって言った。
「芽依子…お前、こんな小さな子に物凄い事言うなよ…」
「フッ、しつけにはこれが一番効くんだ」
 芽依子は悪びれた様子もなく答えた。
「まったく…よしよし。大丈夫」
「怖かったのだぁ、かなぁ」
 かなはため息をつくと、まだ震えている旭をきゅっと抱きしめて安心させてやる。それでようやく旭は落ち着きを取り戻した。それでも芽依子は怖いらしく、かなの背中に隠れている。
「まぁ良い。で、その娘は?」
 芽依子が姿勢を正して聞いてくる。その声にまた旭が震えるため、かなが代わって答えた。
「あぁ…この娘は日和川旭。山奥に住んでたらしいんだけど、今度うちに居候することになったんだ」
「日和川旭…か。良い名前だな」
 芽依子が微笑む。その笑顔に、それまで怖がっていた旭が少しだけ警戒を緩めた。それを確認したように、芽衣子が突然きびすを返す。
「では、かなさんの連れが来たところで私は去るとしよう」
「ん? 帰るのか?」
 かなが尋ねると、芽依子はにやり、と邪悪な笑みを浮かべた。
「なに、かなさんと旭の邪魔をする気は無いからな」
 そう言い残し、雪道を来た方向へ戻って行く芽依子。残されたかなは首をひねった。
「邪魔はしない…って、何を言ってるんだあいつは…」
 まさかとは思うが、とんでもない噂でも流されやしないかとかなは内心不安になった。ただでさえ、彼女は村では新参者なうえに、その美少女ぶりと龍神天守閣の仲居という立場のせいで目立つ存在なのである。
 しかし、何しろ狭い村のこと、話題に飢えた村人たちによって、かなは大いに噂の的とされていた。例えば…
「かなは芽依子の生き別れの姉(または妹)で、今度村に帰ってきた」
 と言うのはまだ大人しい方である。
「かなは誠四郎が他所の村で作った隠し子で、自分では引き取れないのでつぐみの所に預けている」
 と言うのもある。どちらもかなと芽依子が似ていることから立った噂だろう。他にも、かなのこれまでの行動から立った噂もある。
「かなは都会の女子高生だったが、親が莫大な借金を残して死んだので、龍神天守閣に奉公に来た」
 と言うのは、セーラー服を着ていたことと、彼女の周りに漂う不幸そうな雰囲気から来た噂であろうと思われる。
 いずれにしても、かなの精神的健康のために、あまり彼女に聞かせたくはない噂ばかりだった。

 それはさておき、かなと旭は芽依子と別れた後、特に何事もなく龍神天守閣への道を辿っていた。
「旭、本当に荷物それだけなのか?」
 かなが尋ねると、旭はこくんと頷いた。
「そうなのだ。これがボクの全財産なのだ」
 言い切る口調には悲壮感など何もないが、かなはさすがに心配になった。とてもじゃないが、その小さな風呂敷包みに収まるだけの物で、人が生活できるとは思えない。
「無理しなくて良いんだぞ? もし他にもあるなら、持って行くのを手伝ってやるけど…」
「い、良いのだ! ボクの家は狭くて汚いから、他の人には見せたくないのだ!」
 かなが手伝いを申し出ても、旭は強硬に断ってくる。結局、そこまで言うなら…と、かなも諦めることにした。そこまで見せたくないものを無理に見ても、ろくなことにならない…と言うのは、女の子になってからの彼女が散々経験したことである。
 ただ、この場合見られるのは常にかなの方だったが…
 そんな会話をしているうちに、二人は何時の間にか龍神天守閣の前についていた。玄関を潜り、中から溢れて来る暖気にほっとしつつ帰りの挨拶をする。
「つぐみさん、ただいま」
「ただいまなのだー」
 返事がない。つぐみから出かけると言う話は聞いていないのにな、と思いながら、かなが中に入ると、厨房の方から声が聞こえてきた。
「…それじゃ、4時に集合ねー。また後でー」
 つぐみだった。手にはコードレスの電話の子機を持っている。それをスタンドに戻してつぐみはかなたちを見た。
「お帰りなさいー。どうだった?」
「そんなに大した事はなくて、もう治りました」
「ちゃんと荷物を持ってきたのだー」
 かなと旭はそれぞれに今日の外出の成果を報告する。そして、かなは先ほど聞いて気になったことについて、つぐみに質問した。
「ところで、なんか今4時に集合とか言ってましたけど、どこかに行くんですか?」
「そうなのよー、小夜里と夜遊びよー」
「…夜遊び?」
 かなは首を傾げた。この村にそんな事が出来そうな場所があっただろうか?
「駅の辺りに行くのよー。あの辺りなら開けてるからー」
「…開けてる?」
 かなはこの村へのバスが発着していた駅の事を思い出した。
 一両編成の鈍行列車が一時間半から二時間に一本のペースで止まるその駅の周りは、一応人家が並んでいるものの、基本的には田園地帯。店と言えば、コンビニとパチンコ屋があったような気がしないでもない。
「ちゃんと朝までやってるカラオケ喫茶があるんだからー」
「…カラオケ喫茶? ボックスじゃなく?」
「今夜はそこでオールナイトよー」
「…マジですか」
 はしゃぐつぐみとは対照的に、文明ギャップに悩むかな。ふと、あることに気が付いた。
「あれ? そう言えばうちにもカラオケがあったんじゃ…?」
 間違いない。以前酔っ払いにデュエットを強要され、あまつさえお尻まで撫でられた嫌な思い出があるだけに、カラオケセットの存在ははっきりと覚えていた。
「あれは古い曲しか入ってないし、かなちゃんたちが寝るのに迷惑でしょー?」
「それはまぁ、確かに」
 龍神天守閣は立派な宿ではあるが、如何せん古い。防音はあまり考慮されておらず、宴会時間ならともかくオールナイトでカラオケなどとんでもない話である。
「と言うわけで、留守よろしくねー」
 そう言って出かける準備をはじめるつぐみ。かなは頷いて部屋に戻ろうとしたが、そこでまた忘れていた事に気が付いた。
「あ、つぐみさん。晩ご飯はどうしたら良いんですか?」
 その質問に、つぐみは笑顔で厨房を指差す。その先に、業務用の巨大な冷蔵庫が鎮座していた。
「材料はあの中にいっぱいあるわよー。好きなように使っちゃってねー」
「…え? 私、料理なんてした事ありませんよ!?」
「為せば成る、よー。がんばりなさいー」
 かなは驚いたが、つぐみはお構い無しにバッグを提げて玄関を出て行ってしまった。その姿を呆然と見送っていたかなだったが、その時、旭が妙に自身たっぷりな態度でどんと胸を叩いた。
「かな、任せるのだ! ボクが美味しいご飯を作ってあげるのだ!」
「え? 旭、料理なんてできるの?」
 かなは思わず聞き返したが、良く考えてみれば、旭はこの歳で一人暮らしをしてきたのだ。料理くらいは簡単なのかもしれない。
「じゃあ、お願いしようかな」
「まーかせるのだー!!」
 張り切って厨房に向かっていく旭。かなはその姿を見送り、自室に戻った。今日は客もいないし、する事は何もない。テレビでも付けようとリモコンを探し始めたその時、いきなり部屋の扉ががらりと開いた。
「お待たせなのだー!!」
 旭だった。手には何かを山盛りにした大皿を抱えている。
「も、もうできたのか?」
 驚愕するかな。あれからまだ5分も経っていない。しかし、彼女が驚くのはまだこれからだった。
「…って、何これ…?」
 かなは大皿に盛り付けられた「それ」を見て尋ねた。
「ご飯なのだ」
 旭はどん、と大皿をテーブルに載せて胸を張る。しかし、そこに載せられていたのは、生のニンジンや大根やキャベツ…しかも、泥さえ洗っていなかった。
「食えるかっ!」
 思わずかなが叫ぶと、旭は「ぴきゃきゃっ!?」と驚いた声をあげて後ずさった。言い方がきつかったな、と思い直したかなは、できるだけ優しい声で旭に尋ねた。
「あのさ、旭…つぐみさんの料理ってこんなんだったか?」
「…そういえば、ちょっと違うかもしれないのだ」
 ちょっとじゃなく凄くだろ、と内心ツッコミをいれつつ、かなは言った。
「つぐみさんくらいすごくなくても良いからさ、せめて洗って火くらい通そうよ…」
「でも、やり方がわからないのだ…」
 旭は困ったように答える。かなは、一体彼女がどんな食生活を送ってきたのかわからなくなった。
「ともかく…あんまり手を掛けずに食べられるものでどうにかするか」
 かなは立ち上がった。これ以上旭に任せておくのは無理そうだ。

 結局、その日の夕食は輪切りにしたポンレスハムだけだった。
「美味しかったのだー」
 ハムが気に入ったのか、ばくばくと食べまくり、ご満悦な旭。その微笑ましい光景を見ながらも、かなはある事を考えていた。
(と、とにかく…つぐみさんがいない時でもまともな食事が食べられるようにしよう…でないと…死ぬ)
 旭に大半のハムを食われてしまい、寂しいお腹を抱える彼女だった。

かなの収支メモ
本日の収入:0円
現在の所持金:520円
現在の借金:(ピー)万円
新たな借金:(ピー)円(治療代)

(つづく)


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