じりりりりりん、と言うベルの音で、かなは目を覚ました。例によってモーニングコールを掛けたままの電話が鳴り響いている。
 かなは無言で布団から這い出ると、受話器を手に取った。
『ボォォォォーナスゥクイズゥゥゥゥゥー!』
 朝からテンションの高い声が受話器の向こうから聞こえてきた。
『さて、私は誰でしょう?』
 かなは無言のまま、モーニングコールの続きを聞いていた。
『一番、クールな芽依子様。二番、キュートな芽依子様。三番、ヒップホップな芽依子様』
 答えがどれかはともかく、モーニングコールの主は芽依子と判明した。しかし、かなは答えるでもなくただじっとしている。業を煮やしたのか、芽依子はぼそっと脅し文句を言った。
『答えなければ、今日殺す』
 その時、初めてかなが反応した。
「いいよ…殺してくれても」
 その言葉に、電話の向こうの芽依子は沈黙した。それから、誤魔化すように答えを言った。
『こ、答えは4番、アンニュイな芽依子様でした…かなさん、生きろよ』
 がちゃり、と電話が切れる。かなは呟いた。
「アンニュイなのはこっちだよ…」
 珍しくも芽依子に一矢を報いた形のかなだったが、別に嬉しくも何ともなかった。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第10回 小さな同居人


 朝食を早めに済ませ、芽依子は雪道を早足で歩いていた。
(そろそろかな…少しかなさんをいじめ過ぎたか)
 芽依子は思った。かな本人は全く知らない事ではあるが、いろいろ事情があって、彼女は芽依子にとっては大事な人である。再会したら殴ってやろうかと思っていたくらいに。
 いざ再会してみたら女の子だったため、ちょっと殴るのは躊躇われたが、代わりに精神的にいじめてみた。しかし、かなは少しそっちの面は脆かったらしい。今後は優しくしてやった方が良いだろう。
「そうだな…あの方も、最期には…」
 過去に起こった事を思い出して、その不吉な連想に芽依子が慌てて頭を振ってその想念を振り払った時、道の向こう側から、雪月雑貨店へのおつかいに、橇を引きずったかながやってくるのが見えた。幸い、今朝は子供たちの襲撃には会っていないらしい。
「…」
 過去の因縁に関係なく、なぜか嗜虐心を煽るその姿に、芽依子はやっぱりいじめたくなる衝動を抑えつつ、話し掛けた。
「おはよう、かなさん」
「…あ、芽依子か…おはよう」
 かなは暗い声で挨拶した。
「…元気がないな。どうした?」
 芽依子が聞くと、かなは大きなため息をついて昨日の事を話し始めた。
「なるほど、それは災難だったな。まぁ、誠史郎は金にうるさい人ではないから、ほうっておけばそのうち忘れるだろう」
 かなの話を聞き終わり、芽依子が言う。しかし、かなの借金は誠史郎に対するものだけではない。
「いや…ほかにもつぐみさんにもいろいろとあるし…」
「まだ何かあるのか?」
 芽依子が首を傾げながらそう尋ねると、かなは顔を赤くした。
「そ、その…下着とか…」
 小声でぼそぼそと答えるかな。いつも着物なので、普段着に関しては考慮しなくともよかった彼女だったが、下着類はやはり必要だった。しかし、女性用のそれは高い。もちろん、4着で500円とかの安物もあるにはあるのだが、せっかくだからと、つぐみがそれなりにデザインの良い、きれいな物を発注してしまったらしい。
「らしい」と言うのは、それらがまだ手元に届いていないので、かな自身まだ新しい下着を自分の目で確認していないからである。
「え? 着物なのに下着なんかつけてるのか? どれ…」
 芽依子はいきなりしゃがみこむと、かなの着物のすそを掴み、素早くめくりあげた。すらりとした形の良い脚が外気に晒される。その真っ白な肌とは対照的な、黒い布地が脚の付け根に見えていた。レースとフリルをたっぷりあしらい、しかもTバックと言う、セクシーなデザインの黒いショーツである。
「…意外な」
 感嘆したように言う芽依子。しかし、かなの名誉のために言うが、これは別に彼女の趣味ではない。最初の日にサイズが合うからと貰った数枚の中に混じっていたもので、他のは洗濯中のため仕方なく使っていたのだ。
 何故、雪月雑貨店の売り物に、こんなものが混じっていたのかは、全くの謎である。
「え? え? ええ…?」
 一方、めくられているかなの方は、完全に硬直していた。めくられているのを直そうとか、そう言う事が全く思いつかない。と、その時だった。
「おおっ!?」
 突然あがった奇声に、かなと芽依子はその方向を見た。すると、そこには通りがかりの村人数名…いずれも男性…がいた。彼らの視線は、まっすぐにかなの剥き出しの脚とショーツに吸い込まれている。
「あれ、龍神天守閣さんの所に新しく来た仲居さんじゃろ?」
「やっぱり都会の娘っ子は大胆じゃのう…」
「ええもん見せてもらったわい」
 遠慮の無い感想に、かなの顔が瞬時に羞恥で真っ赤になった。同時に身体が動きを取り戻し、慌てて着物を元に戻す。
「す、すまん」
 芽依子はとりあえず謝った。しかし、一瞬でかなの目に涙が浮かび、彼女は身を翻した。
「う、う、うわああぁぁぁぁんっ!! 芽依子のばかああああぁぁぁぁぁぁっっ!!」
 大泣きしながら走り出そうとするかな。しかし、着物でうまく走れるわけがない。自分の服にけつまずいた彼女は、数歩と行かないうちにあっさり転倒した。
「ふぎゅっ!?」
 しかも、まだ引き紐を持ったままだったため、後を追ってきた橇が豪快に彼女を轢いた。
「…」
 さすがの芽依子もかける言葉が見つからず、トリプルパンチを食らって地面の上でのびているかなを、困った顔で見下ろしていた。村人たちも気まずそうだった。


 それから数分後…
 かなと芽依子は並んで雪道を歩いていた。かなはまだ泣いている。
「うっ…ひっく、えぐ…」
 芽依子は何も言わず、黙ってかなの横を歩いていた。こう言う時は下手に謝るより、かなが落ち着くのを待とうと言う判断である。やがて雪月雑貨店の看板が見えてきた頃、ようやくかなの泣き声はとまった。
「…済まなかった」
「あぁ…もう別にいいよ」
 芽依子の謝罪に答えてかなは言った。思い返すもショックな出来事だったが、泣いたら負けだ。それに、泣き顔のままで澄乃や小夜里に顔を合わせるのはみっともない。
 着物の袖で涙をぬぐい、かなは雪月雑貨店の戸を叩いた。
「は〜い」
 あわただしく出てきた小夜里に買い物メモを手渡し、必要なものを揃えて貰っている間に、澄乃が出てきてあんまんをお茶請けに、3人でちょっとしたお茶会を楽しむ。このところ、かなにとっては一番心安らぐ時の一つだ。
 しばらくして、買い物メモ通りの野菜や調味料が調い、店の表の橇に積み込まれた。
「ありがとうございます、小夜里さん。それじゃあ、また明日」
 かなは小夜里に頭を下げ、もう少し澄乃の所へ残っていくと言う芽依子とも別れ、橇を引きずって歩き出した。しかし、五分と経たないうちに後ろから追ってきた人がいた。
「かなちゃーん! ちょっと待ってー!!」
「あれ、小夜里さん?」
 かなは立ち止まって小夜里が追いついてくるのを待った。小夜里は手にビニール袋に入れた何かの紙包みを持っていた。
「はぁ…はぁ…呼び止めてごめんね。これを渡すのを忘れてたわ」
「あ。わざわざすいません」
 かなは礼を言い、小夜里が差し出した袋を受け取った。予想に反し、意外に軽い。野菜などではないらしい。かなは首を傾げた。
「なんですか、これ?」
「開けて御覧なさい」
 小夜里の言葉に従い、かなは紙包みを開けた。中に入っていたのは…
「…え?」
 かなは顔を真っ赤にした。それは、色とりどりの下着類だった。かなくらいの年代の女の子が身に付けるものにしては、妙にセクシーな高価そうな下着ばかりだ…というか、値札を見ると実際に高い。
「つぐみさん…張り切りすぎ…」
 かなは半分泣きそうになりつつ、袋の口を丁寧に閉じた。今朝のように身につけている状態でなくとも、道端で見せびらかすような代物ではない。
「いつも着物でいる分、中くらいはおしゃれに、ってつぐみは言ってたわよ」
 小夜里が言ったが、そんな江戸っ子みたいな心意気はいらないとかなは思った。ともかく、小夜里に礼を言って帰りを急ごうと思ったその時だった。
 ぱしん、と言う音を立ててかなの側頭部に衝撃が走った。同時に顔や首筋に冷たい感触が無数に走る。すぐにその原因はわかった。雪玉をぶつけられたのだ。
「こらーっ、誰だー!!」
 かなは雪玉が飛んできたと思しき方向を向いて怒鳴った。大方近所の悪ガキの仕業だろうと思ったのである。しかし、そこにいたのは…
「つぐみさん?」
 龍神天守閣で待っているはずの彼女が何故ここに? と思うよりも早く、つぐみが口を開いた。
「迎えに来たわよー、かなちゃん」
「えっ!?」
 かなは時計代わりの携帯電話を取り出した。時間は12時少し過ぎ。確かにおつかいにしては時間がかかりすぎている。
「ご、ごめんなさい!」
 かなは慌てて謝ったが、つぐみが怒っているのは、時間の事に対してではなかった。
「こらーって、誰に言ったのかしらー?」
 口調は穏やかだが、さっきのかなの怒声は自分に向けられたものだと思っているらしい。かなは慌てて弁解した。
「あ、つぐみさんにじゃないですよ…誰かに雪玉をぶつけられたので…」
「そういうことは問題じゃないわよー」
 つぐみはかなの弁解を途中でさえぎった。
「女の子は、もっと可愛く怒らないとー。こらーっ、だなんてだめよー。と言う訳で減点1ー」
「はうっ!?」
 かなは目の前が真っ暗になった。これでまたしても満額支給の夢は消えた。
「ちょっとつぐみ、それはかなちゃんが可哀想じゃないの?」
 小夜里がつぐみには逆らえないかなの代わりに抗議の声をあげた。
「あらー、三食昼寝に住む所付きよー? 恵まれた労働環境だと思うけど―」
「いや、昼寝はついてないし…」
 つぐみが小夜里に反論し、かなはその内容に小声でツッコミを入れた。ここで大声で言えないのが、彼女の立場の悲しいところだ。
「労働条件のことじゃないわよ。かなちゃんは女の子初心者なんだから、ちょっとくらい言葉遣いが変でも大目に見てあげないと」
「女の子初心者…それに、変って…これが普通なんですが…第一、ツッコんでもらうなら労働条件の方が…」
 小夜里が自分を心配してくれる気持ちは嬉しかったが、何気ない言葉の一つ一つにダメージを受けるかなだった。
「駄目よー。そうやって甘やかすと、いくら待っても言葉は直らないわよー」
 つぐみも断固として方針を変える気はない事を宣言する。しかし、次の小夜里の言葉に珍しく眉を吊り上げた。
「何言ってるの。つぐみだってそんなに誉められた言葉遣いじゃないでしょう」
「な、なんですってー? 私の言葉遣いのどこがいけないって言うのよー?」
「それ、その語尾を延ばす喋り方よ。もう少し力のこもった喋り方はできないの?」
「んまーっ、んまーっ、それは言ってはならないことなのにいいぃぃぃぃっ!!」
 しゃべり方がとろい事は結構気にしていたらしく、じだんだを踏むつぐみに、勝ち誇ったような態度の小夜里。目の前で突然勃発した女の闘いに、かなはおろおろするばかりだった。
 その状況を一変させたのは、二度目の衝撃だった。今度はかなの後頭部に雪玉がぶつけられ、砕けた雪の、比較的大きな塊が襟元からかなの背中に入り込んだ。
「うひああああぁぁぁぁぁんっっ!?」
 いきなり色っぽい声をあげてのけぞったかなに、睨み合っていたつぐみと小夜里が、あっけに取られた表情でかなの顔を見た。
「…どうしたの?」
 小夜里が恐る恐る聞くと、かながそれに答えるより早く、彼女の背後から無数の雪玉が飛んできた。ぱしん、ぱしんと小気味よい音を立てて、かなの身体のあちこちに雪玉がぶつかって砕ける。
「だ、誰だ!?」
 体制を立て直し、飛んでくる雪玉から顔を守りながら、かなは叫んだ。そして背後の林の方を睨むと、彼女はそこに昨日知ったばかりの顔を見つけた。
「わーっはっはっはなのだ! 今日こそ悪を撲滅するのだー!!」
 旭だった。腕にいっぱい雪玉を抱え込み、矢継ぎ早に投げつけてくる。かなはとっさに自分も雪を一掴み手に取り、手早く丸めた。旭の過去と自分にどういう過去があったのかはわからないが、旭が何か勘違いして自分を敵視している以上、話を聞くためには彼女との決着をつけるしかない。
「ていっ!」
 雪玉を二つ作ったかなは、まず第一弾を旭に向かって投じた。それは彼女が抱え込んでいる雪玉に命中し、見事一発で地面にばら撒いた。
「ああっ!? ボ、ボクの玉がぁ!」
 予備弾をなくして距離を取ろうとする旭に、かなは第二弾を投じた。それは逃げ腰になっていた旭の顔面を見事に直撃した。
「ぴきゃっ!?」
 妙な悲鳴をあげて、旭は後ろにひっくり返った。かなは転ばないように慎重に、しかしできるだけ急いで、旭の元へ向かった。
「い、痛いのだ…」
 起き上がった旭だったが、既に目の前にかなが仁王立ちしているのに気づくと、よほど驚いたのか、四つんばいで逃げようとした。
「こら、待て」
 かなは旭の腰に後ろから手を回し、ひょいっと抱き上げた。
「は、離すのだ!」
 じたばたと抵抗する旭。それを封じ込めようとかなは旭の身体を強く抱きしめた。その瞬間、旭は戸惑い気味の声をあげた。
「え…同じ…?」
「ん?」
 急に大人しくなった旭に、かなは不審の表情を浮かべた。すると、旭はそれまでとはうって変わってしおらしい態度でかなの顔を振り仰いだ。
「大丈夫、逃げたりしないのだ。離して欲しいのだ」
「え? あ、あぁ…」
 かなは思わず旭を抱いていた腕を離していた。解放された旭は振り返ると、かなの全身をじっと見つめた。さっきまでの敵意に満ちた視線ではなく、何かを確かめようとしている真剣な視線に、かなも言葉をかけられず、見られるままになっていた。
(ちょっと恥ずかしいな…どうしたんだろう、この娘は)
 かなは余りに真剣な視線を受け止めかねて頬を赤くしたが、それもつかの間の事だった。旭はかなの顔をじっと見上げると、こう言った。
「彼方…女の子だったのか?」
「…えっ?」
 旭の言葉に、かなは驚いて立ち尽くした。

 小夜里とも別れたかなとつぐみは龍神天守閣に戻ってきた。ちなみに、旭は一緒に付いてきていて、今かなの目の前でお茶を飲んでいる。
「それで…かなちゃんが彼方ちゃんだってわかったのね?」
 つぐみの質問に、旭は少しはにかんだような笑顔で答えた。
「そうなのだ。ギュッてされた時の感じが同じだったのだ」
 それから、急に暗い顔になって、かなの方を向く。
「かな…勘違いして襲ったりしてごめんなさいなのだ…」
「いや、それはもう良いんだけど…」
 かなが答えると、旭は一瞬安心したような表情を浮かべたが、すぐに膨れっ面になった。すごい百面相だな、とかなが思うよりも早く、旭が文句を言い始める。
「でも、かなも酷いのだ。女の子だったら女の子だって、十年前に言って欲しかったのだ」
 どうやら、旭も十年前の彼方を「男の子と偽った女の子」だと思っているらしい。そんな勘違いされるほど可愛い顔じゃなかったと思うけどなぁ、と考えつつ、かなは説明を試みた。
「いや…十年前は確かに男だったよ。と言うか、俺が女の子になったのはここ数日の出来事なんだけど」
「ふみ?」
 旭は何を言われたのか理解できなかったらしく、目が点になった。そこで、かなは龍神村に戻ってくる事になったいきさつから、今日に至るまでの事情を話した。
「そう言う事だったのか…」
 旭は大いに頷いた。その仕草の素直さに、かなの方が逆に戸惑ったくらいである。
(よ、よくこんな話を一発で信じるな…)
 そう思いながらかながじっと旭の顔を見つめると、彼女は逆に質問してきた。
「で、かなはいつ彼方に戻るのだ?」
「それは…わからないよ。一応医者の先生に調べてもらってはいるけど」
 かなは首を横に振って答えた。誠史郎はもうサンプルを母校の医大に送ったと言っていたが、こうなった理由にしても、元に戻る方法…そんな物があるとして…にしても、そう簡単に見つかるとは思えない。
「そーなのか…」
 旭は寂しそうな表情と口調で言った。その彼女をさらに落胆させる事を言うのは心苦しいものがあったが、それはどうしても言わなければならない事だ。かなは口を開いた。
「で、旭」
「ふみ?」
「その、十年前の事なんだけど…どうもあまり記憶がなくて、お前の事もよく覚えていないんだ。俺たちはどんな風にして出会ったんだ?」
 そう、それが最初からのかなにとっての疑問だった。旭が彼方の名を知っていたからには、彼女と十年前に何らかの形で出会っていたのは間違いない。だが、旭は見た目10〜12歳くらいの小さな女の子だ。十年前はほとんど乳児だったとしてもおかしくないくらいだ。そこが、かなにはどうしても引っかかるところだった。
「覚えていないのか…?」
 覚えていない、と言われた旭の方は、さすがにショックだったらしく、身体を微かに震わせていた。
「ごめん」
 ちょっと誠意に欠けるかな、と思いつつ、かなは頭を下げた。しかし、旭の方はその言葉も耳に入らないように、ぶつぶつと呟いている。
「ひどいのだ…チューしてくれて、ずっと一緒にいようねって言ってくれたのに…二人で一つの毛布に包まって一緒に寝たのに」
 それを聞いて、かなとつぐみは思わず顔を見合わせた。
「チューして…」
「一緒の毛布に包まって寝た?」
 二人で旭の言葉の意味するところを考えていく。つまり、かな…と言うか、十年前の彼方は旭に対して、何か男として責任を取らなければならないような行為をした、と言うわけではないらしい。
「そりゃそうか…10年前って言ったら、俺もまだほんの子供だもんなぁ…」
 そう、当時の彼方は小学校の二年生か三年生。想像してたような「何か」ができるはずがない。多分、勢いでプロポーズやキスの真似事をしただけだろう。
(あ…でも、澄乃とも花嫁さんごっこなんかしてたんだっけ…それはそれで最悪だな、俺)
 子供ながらろくでもない遊びをしていたものだ、とかなは反省した。その間に、つぐみは旭に事情を改めて問いただしていた。
「じゃあ、じゃあ、旭ちゃんは彼方ちゃんと愛する男女の営みをしたわけではないのねー?」
「い、いとなみ? なんなのだ、それは?」
「それはねー、愛し合う男女は…」
「それ以上は言っちゃだめーっ!」
 なにやら話がとんでもない方向へ行きそうになっていたので、かなは慌てて割って入った。
「つぐみさん、相手を考えてください。旭にはどう見てもその話は早過ぎます」
「あら…」
 つまらなさそうな表情のつぐみ。やれやれ、と思うかなの袖を、今度は旭が引っ張る。
「かな、あいしあうだんじょのいとなみって何なのだ?」
「…だから、旭はまだ知らなくても良いから」
 そこまで言われても知りたがる旭を、何とかなだめすかすのに成功した頃には、時間は既に日付の変わる頃になろうとしていた。
「うわ、もうこんな時間か…早く寝ないと」
 かなは呟いてから、ある事に気が付いた。旭みたいな小さな女の子をこんな時間まで引き止めてしまったことになる。親はさぞかし心配しているだろう。
「旭、家の電話番号教えてくれないか?」
 部屋の電話に手を掛けながらかなが聞くと、旭は不思議そうな表情をして首を傾げた。
「でんわ?」
「ほら、これだよ。こんな遅くなっちゃって、親も心配してるだろ」
 かなが受話器を見せると、旭はますます不思議そうな表情になった。
「そんなもの持ってないのだ。それに、ボクには親はいないのだ」
「え」
 かなとつぐみは顔を見合わせた。ややあって、つぐみが微笑みながら尋ねる。
「えっとー、それじゃあ家の人はー? おじいちゃんでもお兄さんでもいいからー」
 この質問にも、旭は首を横に振る。
「誰もいないのだ。ボクは一人暮らしなのだ」
 旭の口調は何でもない事のように朗らかだったが、その事実はかなとつぐみを打ちのめすには十分だった。電話すらない家に、たった一人で住む少女。それは、どんなに心細い事だろう。
「くっ…」
 先に堪え切れなくなったのはつぐみだった。
「苦労してるのねえぇぇぇっ、旭ちゃあぁぁぁんっ!!」
 そう叫ぶや否や、がっしと旭を抱きしめるつぐみ。
「ぴきゃっ!? つ、つぐみさん、苦しいのだっ!」
 つぐみのボリュームのある胸に抱きしめられ、手足をじたばたさせる旭。それに構わず、つぐみはさらに力をこめつつ、旭の頭を撫でる。
「この歳でたった一人で生きてるなんてえらいわあぁぁぁぁっ!!」
 そうやってしばらく旭を抱きしめまくった後、つぐみは突然とんでもない提案を切り出した。
「旭ちゃん、もし良かったらー、ここに引っ越してこないー?」
「ふみ?」
「んなっ!?」
 かなと旭はそれぞれに困惑の声をあげた。
「ちょ、ちょっと、つぐみさん…良いんですか? 部屋だって無限じゃないのに」
 かなの言う通り、龍神天守閣は老舗で名門ではあるが、それほど大きな旅館と言うわけではない。既に一室をかなが占有しているのに、さらに旭が引っ越してくるようになれば、客に提供できる部屋は減少する一方だ。
「あら、かなちゃんと同じ部屋に住めば良いのよー」
 つぐみはあっさりそう答えた。
「ええっ!? そ、そんな事急に言われても」
 かなはまたしてもつぐみの奇想天外な提案に仰天した。確かに、この部屋は基本的には客室だから、かなと旭の二人なら…いや、あと二人くらい同居人が増えても問題はないだろう。
 しかし、それはあくまでも面積の問題だ。もう襲撃される心配はないとはいえ、何をしでかすかわからない旭と同室と言うのは問題ありだ。
 すると、つぐみは急に怖い顔になってかなを睨んだ。
「あらー、そうすると何かしらー? かなちゃんは旭ちゃんが今の生活のままでも良いって言うのねー?」
「い、いえ…そんな事は…ただ、いきなりな話だしもう少し慎重に…」
 かなは弁解したのだが、つぐみはそんなもの聞いちゃいなかった。
「酷いわー。なんて不人情なのかしらー。私はかなちゃんをそんな風に育てた覚えはないわよー」
 かなとしては育てられた覚えもないです、と答えたいところだったが、つぐみの方はそれを許さなかった。
「良いわよー、それなら旭ちゃんの面倒は私だけで見るからー。だから、旭ちゃんの生活費を捻出するためにも、かなちゃんの給料は明日から50パーセントカットよー」
 びしり、と音を立ててかなは凍りついた。それでも、必死に凍てついた身体を無理に動かし、彼女は言葉を搾り出した。
「つ…つぐみさん…そ、それは…っ!」
 勘弁してください、と言うかなに、つぐみは大きく頷いた。
「だったらー、旭ちゃんと一緒に住むのは歓迎よねー?」
「はい、大歓迎でございます…」
 かなは答えた。答えざるを得なかった。選択の余地はまったくない。
「と言う事でー、早速今夜からここに寝泊りしていきなさいねー、旭ちゃん」
「ふ、ふみ? う、うん…ありがとうなのだ」
 全てを強引に仕切ったつぐみの勢いに押され、こくこくと頷く旭。その横で、がっくりと膝を突いたかなは、虚ろな表情で呟いていた。
「いや…別に旭が嫌なわけじゃないんだけどさ…誰でも良いから、俺に優しくしてよ…」

かなの収支メモ
本日の収入:120円(-40パーセント)
現在の所持金:520円(+120円)
現在の借金:(ピー)万円

(つづく)


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