さくさくと雪を踏みしめ、かなと澄乃は龍神の滝からの山道を下っていた。来る時は長く感じられた道も、一度知ってしまえばそれほど遠くは感じられない。
 また、滝を見てあんまんを食べ、少し疲れが癒されたので、周囲に目を配る余裕もできていた。山林を抜け、渓流の脇を通る道に出たとき、かなはそれに気がついた。
「あれ、こんな道あったっけ…?」
 かなは、脇の雑木林の奥へ消えていく細い道への分岐点で立ち止まった。
「えぅ?」
 突然足を止めたかなを、澄乃が不思議そうな表情で見つめる。
「いや、この道…どこへ行くか知ってるか?」
 かなが道の奥を指差して聞くと、澄乃は首をぷるぷると横に振った。どうやら地元の彼女も知らない道らしい。
「そっか…滝の方への近道に見えたんだけどな」
 かなはそう言ってまた歩き出した。自分の推論を確かめてみたい気はしていたが、疲れているし、また今度で良いや、と思い直したのだ。それに、早く宿に戻らないと、午後からの仕事にも差し支える。
 気になる想いを抑えて、かなは帰り道を急ぐことにした。彼女が再びここを訪れ、その奥へ進んでいくのは、またもう少し後の事である。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第9回 龍神村小紀行(後編)


 風が山道を吹き抜け、地面に積もった雪がさらさらと足元を流れていった。
「…くちゅんっ!」
 かなは可愛らしくくしゃみをした。なんか寒い気がするな、と思ったら、いつのまにか空は曇っていて、今にも雪が降り出しそうな風情になっていた。
「ありゃ…これはまずいな。急いで帰ろう、澄乃」
「うん」
 二人はそれまでよりも早足で山道を下り始めた。龍神湖の横を通り過ぎ、遊歩道に入る。と、その時だった。
「みーつーけーたーのーだぁぁぁぁーっっ!!」
 突然、森に謎の叫び声が響き渡り、かなと澄乃は思わず足を止めた。
「なんだ?」
 かなが辺りを見回すと、澄乃がかなの着物の袖を引っ張った。振り返るかなに、澄乃は前少し上方を指差した。
「かなちゃん、あそこ…」
 かながその先を追って視線を動かしていくと、前方に張り出したかなり太い木の枝の上に、何やら毛布と思しきものをマントのように巻きつけた人影が立っていた。
「な、なんだありゃ?」
 あまりに非現実的な光景に、かなが思わず声をあげると、それに応えたわけでもないだろうが、その謎の人物は素早く毛布を脱ぎ捨てた。そこから現れたのは…
「…女の子?」
 澄乃が言う。その少女は、緑色がかかったかなり長い髪の毛を二つにくくった、かなたちよりは数歳年下と思われる少女だった。背は低く、顔立ちも幼い。
 しかし、大きな氷柱をまるで剣のように構え、木の枝の上に仁王立ちするその姿は、見様によっては勇ましい…と言えなくも無いかもしれない。かなは澄乃に尋ねた。
「澄乃、あれこの辺の子か?」
「えぅー…見たことの無い子だよ〜」
 その答えに、かなは首を傾げた。この小さな村で、さっきの神社の女の子…桜花に引き続き、またしても地元民澄乃の知らない少女が出てきている。かと言って、この寒さの中、ミニスカートで耐えられるような人間が地元民以外であるとは考えにくい。
 その正体はともかく、いったい何をする気なんだろう、と再度少女を見上げるかな。その彼女に対し、少女は持っていた氷柱をびしっと突きつけて宣言した。
「悪は撲滅なのだぁぁぁぁっ!!」
 少女の言葉の意味を理解するまで、かなにはしばらく時間が必要だった。
「えーっと…撲滅? 俺を?」
 戸惑いがちにかなが自分を指差すと、少女は頷き、氷柱を大上段に振りかぶった。
「そうなのだ! 彼方を隠した悪い女は成敗するのだぁっっ!!」
「はあ!?」
 少女が言うところの自分の罪状を耳にしたかなは、困惑のあまり思わず硬直した。それを絶好の隙と見たか、少女は枝を蹴って跳躍した。
「たああああぁぁぁぁっっ!!」
 少女が落ちてくる。振りかぶった氷柱は、まさに破魔の剣となってかなを…
 襲わなかった。
 おそらく目測を誤ったか、あるいは足に力が入りすぎたのだろう。少女はかなの遥か頭上を飛び越え、道端にうず高く積もった雪の吹き溜まりに、真っ向から突入した。
「ぶみっ!?」
 間抜けな声とともに、吹き溜まりに少女の形をした穴が穿たれる。それもつかの間、衝撃を受けた吹き溜まりは豪快に崩落し、少女は雪に埋まった。
「………」
「………」
 その一部始終を目を点にして見守っていたかなと澄乃だったが、我に返って顔を見合わせた。
「た、助けたほうが良いかな?」
「多分…アレじゃ死ぬぞ」
 二人は頷くと、吹き溜まりに駆け寄り、雪を掘り返した。幸い、少女が埋まっていた深さはさほどでもなく、すぐに彼女は雪の中から救出された。ただし、ショックで気を失っている。
「こりゃまずいな。とりあえず誠史郎さんとこに連れて行くか」
「うん!」
 自分の生命を狙った相手だが、見捨てるのは寝覚めが良くない。それに、彼女の「彼方を隠した悪い女」と言う言葉も気になる。かなは少女を背負い、急ぎ足で橘診療所へと向かった。その後から、ちらほらと雪が舞い落ち始めていた。

 診療所につくころには、雪はだいぶ本降りになってきていた。幸い、誠史郎は往診などには出かけておらず、診療所にいてくれた。
「やあ、かなくんじゃないか…おや、その子は…?」
 かなの背負っている例の少女を目に留めて、誠史郎は首を傾げた。そして、ぽんと手を打った。
「かなくんの子供かい?」
「ンなわけあるかぁっ!」
 誠史郎のタチの悪い冗談に全力でツッコミを入れ、かなは事情を説明した。
「なるほど…とりあえずレントゲンを撮って骨折とかがないか調べておくか」
 真面目な医者の顔になって誠史郎は頷き、少女を抱きかかえると奥の撮影室に連れて行った。それが終わると、写真の現像が終わるまでの間を利用して外傷の有無を調べた。その結果…
「ふむ…特に怪我は無いな。雪がクッションになってくれたんだろう。運が良かったよ」
 診察の結果を告げる誠史郎の声に、かなと澄乃は安堵の表情を浮かべた。
「ところで、山道で出会ったと聞いたけど、知り合いなのかい?」
 今度は誠史郎が質問する番だった。かなも澄乃も首を横に振る。
「いや、全然…なんか、彼女は俺のことを知ってるみたいでしたけど…」
 正確には、女の子の「かな」ではなく、男の「彼方」の方を知っているようだったが。もちろん、かなには身に覚えの無いことである。
「誠史郎さんこそ見覚えは無いですか?」
 かなが逆質問すると、誠史郎も首を横に振る。
「わからないね。この村の人はみんな顔見知りだし、近隣の村の人でもだいたい覚えているつもりだったんだが…」
 医者と言う立場上、誠史郎の顔は広い。その彼が知らないとなると、本気で村の人間ではない、と言うことになる。
(でも、こんなエキセントリックな奴が、この村以外にいるだろうか…)
 かなは非常に失礼な事を頭の中で考えた。周囲につぐみや澄乃、橘親子しかいないと、龍神村住民の変人率が極めて高いと勘違いしがちだが、村の人間の大半は至ってマトモである。
「誠史郎さんもわからないとなると…本人から聞くしかないか」
 かなは言った。しかし、目が覚めたら目が覚めたで、また襲い掛かってきそうな気がする。どうしたものかと困っていると、どこからともなく鐘の音が2回鳴り響いてきた。
「誠史郎さん、今のは?」
 かなが尋ねると、誠史郎は待合室のほうを指差した。そこには立派な柱時計が掛けてあった。
「あれだよ。今のは2時の合図だね」
 なるほど、と頷いたかなだったが、途端にあることに気づいて真っ青になった。3時までに龍神天守閣に戻らなくてはならないのだ。外を見ると、雪は完全に本降りになっていて、見通しが利かなくなっている。この中を戻るには、もうかなりギリギリの時間だろう。
「いけない、仕事だ! 誠史郎さん、また後で顔出しますから、その子をお願いします!」
 そう言うと、かなは急いで診察室を飛び出そうとした。
「あっ、待ちたまえ、かなくん!」
 誠史郎は慌てて声を掛けた。かなが立ち止まる。
「なんですか?」
 かなが不思議そうに聞くと、誠史郎は不敵な笑みを浮かべ、白衣のポケットから何か銀色のものを取り出した。車の鍵だ。
「急いでいるなら、送って行ってあげよう。今車を出すから少し待っていたまえ」
 かなの顔が輝いた。
「本当ですか!? お願いします!!」

 三十分後…かなは龍神天守閣まで帰っていた。しかし、そのことを彼女は死ぬほど後悔していた。
「かなくん、大丈夫かね?」
 何でもないような口ぶりで尋ねる誠史郎に応える余裕も無く、よろよろと車外に出たかなは、そのまま雪の上に卒倒した。視界の全てがぐるぐると回転し、静止しているにもかかわらず、身体が嵐の中の船に乗っているように揺れる感覚がする。
「あ…あうう…ぎ、ぎぼぢわるい…」
 かなは喉の奥までこみ上げてきている苦いものを必死にこらえた。誠史郎の運転は、はっきり言って最悪の一言だった。もし都会なら、確実に5〜60人は轢き殺しかねない腕である。
 何しろ、いくら雪で見通しが利かないからといって「あ、間違えたかな?」の一言で道以外のところへ突っ込んでいくのだ。と言うか、明らかに道以外のところを走ってきた距離のほうが長い。途中で立木や藪を薙ぎ倒したことも一回や二回ではない。
「いや、済まないね。かなくんがそんなに車酔いする体質とは知らなかったんだよ」
(アンタの運転じゃM・シューマッハでも酔うわっ!)
 そう言い返してやりたいのは山々だったが、その元気はかなには無かった。車酔いだけでなく、昼はあんまん一個しか食べてないのだから。もっとも、ちゃんとした食事をしていたら、今ので全部吐いてしまったかもしれない。
「とにかく悪かったよ。どれ…」
 誠史郎はかなの様子がかなり酷いのを見て、さすがに悪いと思ったのか、倒れている彼女をひょいと両腕で抱き上げた。いわゆる「お姫様抱っこ」だ。
「せ、誠史郎さん…恥ずかしいからやめ…」
 かなは力なく抗議したが、誠史郎は構わずかなを抱いたまま龍神天守閣の扉を開けた。連動して鳴るチャイムが玄関に響き渡り、奥から「はーい、ただいまー」と言う朗らかな声とともに、つぐみが現れた。
「あらぁ、誠史郎さんー…と、かなちゃん?」
 二人の様子を見て、つぐみが不審そうな表情になる。
「いやぁ、車で送ってきたんだけど、酔っちゃったらしくてねぇ。少し休ませてあげてください」
 そう言うと、誠史郎はかなを玄関ロビーのソファに寝かせた。かなはまだぐったりとしている。
「あら、そう言う事だったんですかー。すいませんねー」
「いやいや」
 しばらく二人は世間話をしていたが、やがて誠史郎は車に乗って帰って行った。遠くで破壊音が聞こえたのは、多分また何かにぶつけたのだろう。
「さて…」
 誠史郎を見送ったつぐみは、かなの横にしゃがみこんだ。
「かなちゃん、立てるー?」
 耳元で囁くように尋ねられ、かなはのろのろと身を起こした。まだ少し気持ち悪いが、さっきほどではない。
「は、はい。なんとか…」
 テーブルに手をついて立ち上がると、かなの手に何かが握らされた。見ると、例の客誘導用の旗だ。
「今日は2組様よー。いつもどおりお願いねー」
 つぐみが平然と言う。かなは外を見た。風が出てきて、雪は本格的な吹雪になりつつあった。
「こ、この天気でも行くんですか…」
 かなは震える声で言った。これは誠史郎の車に同乗するのに匹敵する死の予感が漂っている。
「もちろんよー。私たちは平気でも、お客さんが迷ったら大変でしょうー?」
「そ、それはそうだけど…と言うか、私は平気じゃありませんが…」
 一応抵抗したかなだったが、客の事を言われると返す言葉が無い。仕方なく、彼女は着物の上にはんてんを着込み、マフラーを巻き、懐には数個の使い捨てカイロを仕込んで出かけることにした。

「さ、寒い…マジで死にそうだ…」
 バス停の風除けの陰に身を潜め、かなはガタガタと震えていた。目の前は一面の白い闇だ。谷間を吹き抜ける風は轟々と唸り、密度の濃い雪と地吹雪が入り混じって、視界は10メートルも無い。今なら体感気温は−30℃は行くだろう。
「お、お客さん…は、早く来て…」
 寒さのあまりもつれる舌でかなは呟き、バスが来るのを待った。その時、突然電話のベル音が辺りに響き渡った。
「うわっ!?」
 かなは驚いて懐から携帯電話を取り出した…が、これが鳴っているのではない。着信音は別の音だし、そもそも龍神村は全域が圏外だった。この電話にしても時計以外の役には立っていない。
「ち、違うか…一体なんだ?」
 かなは耳を済ませ、音の来る方向を聞き分けた。どうやら風除けの外らしい。
「…」
 かなは考え込んだ。この吹雪の中に一歩でも出るのは嫌だが、音は気になる。散々逡巡した挙句、彼女は思い切って風除けの外に出た。風と寒気に耐えつつ、音源の方向を見る。
「…電話?」
 音源の正体は公衆電話だった。ピンク色の、テレカ非対応の電話である。
「まだこんなのがあったんだ…」
 かなはしばし感慨深げに電話を見たが、すぐにそれどころでは無い事を思い出し、受話器を手に取った。
「も、もしもし…」
 かなが言うと、受話器の向こうから聞きなれた声が聞こえてきた。
『あ、かなちゃんー?』
「つぐみさん? どうしたんですか?」
 かなが聞くと、電話の向こうからつぐみの済まなさそうな声が聞こえてきた。
『バス会社から電話があってー、今日は運休ですってー。お客さん来れなくなったから、帰ってきても良いわよー』
「…」
 かなはめまいのしそうな脱力感に襲われ、その場に倒れそうになった。しかし、ここで倒れたらもう二度と起き上がれないだろうと、最後の気力を振り絞った。
「マジですか…」
 それだけ言うと、つぐみは明るい声で答えた。
『マジよー。早く帰っていらっしゃいー』
 がちゃり、と電話が切れる。かなは受話器をフックに叩きつけるように置き、大声で叫んだ。
「うわああああああぁぁぁぁぁぁぁんっっっっ!!」
 泣き声ではあったが、もう涙すら出ないかなだった。

 半ば凍りつきながら龍神天守閣へ帰ってきたかなは、お風呂に漬かってようやく生き返った心地になった。着物はすっかり雪まみれになっていたし、客ももう来ないことはわかっていたので、パジャマ代わりにしているワイシャツだけの格好で部屋に戻る。
「お疲れさまー、かなちゃん」
 部屋では、つぐみが夕食の準備をして待っていてくれた。今日のメニューはすき焼きらしい。
「本当、疲れましたよ…」
 苦笑しながらも、かなはコタツに入った。箸を手に取り、いただきます、と言おうとしたその瞬間、またしても電話のベルが鳴り響いた。
「ちょっと待っててねー」
 つぐみがそう言って電話に出る。お預けを食らったかなは、恨めしげにぐつぐつ音を立てる鍋を見つめた。しかし、電話は彼女あてだった。
「はい、はい…ちょっとお待ちくださいー。かなちゃん、誠史郎さんからよー」
「え?」
 かなは首を傾げながらも、つぐみが差し出した受話器を受け取った。
「はい、お電話代わりました」
『やぁ、かなくん。実は今日君が連れてきたあの女の子の事なんだが…』
「あっ!?」
 かなは思わず大声をあげた。少女のことをすっかり忘れていたのだ。
「あ、すいません。あの子がどうかしたんですか?」
 気を取り直して話の続きを聞くと、誠史郎はあまり深刻じゃなさそうな口調で深刻なことを言った。
『実は、ちょっと目を離した隙にいなくなっちゃってね』
「…え?」
『もう30分くらい前だと思うんだが、良く寝てるのでそのままにして晩御飯を食べていたら、その隙に出て行ったらしいんだな』
「それって、すごく大変じゃないですか!」
 かなは思わず叫んだ。外は相変わらずの吹雪模様だ。あんな小さな女の子が出歩いて無事に済むとは到底思えない。
『うん、家に帰っただけなら良いんだけど、ひょっとしたら君の所へ行くかもしれないね』
「いえ、そういう問題ではなくて」
 暢気な誠史郎の言葉に、かなはあきれたように答えた。
『もし君のところに来たら、一応知らせてくれたまえ。じゃ』
 がちゃり、と電話が切れた。あまりに暢気な態度に、あきれ果てたかなだったが、ふと思い直した。ひょっとしたら、龍神村の人間にとっては、この吹雪も大した事の無い天候なのかもしれない。
 だからと言って、自分みたいな他所からきた人間に、その常識を当てはめて判断してもらっても困るのだが…とかなは思った。
 まぁ、この天気では少女も家に帰ったことだろう。かなはそう楽観的に考え、夕食を取る事に決めた。滝でのあんまん以来何も口にしていないので、すっかり腹が減ってしまった。
「じゃあ、頂きます」
 火の通った肉にとき卵をからめ、口に運ぶ。半日ぶりに口にするまともな食事をかなが味わいながら食べていると、何か不自然な音が聞こえたような気がした。
「…ん?」
 かなは背後を振り返った。そこには窓しかない。今は障子とカーテンで二重に視線がさえぎられ、風の音しか聞こえてこないが。
「…気のせいかな」
 かながテーブルに向き直り、再び食事を再開しようとしたとき、またその音は聞こえた。
「…ぉぉぉぉぉぉ〜〜〜っっ!?」
 音と言うよりは、声のようだった。再びかなは窓の方を振り返り、耳をすませる。
「…まけないのだぁぁぁぁ〜〜〜っっ!」
 今度は少し鮮明に聞こえた。明らかに、風の音ではない。むしろ人の声…と言うか、聞き覚えのある声だった。
(ま、まさか…?)
 かなはつぐみの方を振り返った。今のはつぐみにも聞こえていたらしく、きょとんとした表情をしている。しかし、どうやらかなの様子を見て、何か事情を知っていると悟ったらしく、質問してきた。
「かなちゃん、今のはなにー?」
「えっと…実は…」
 かなは今日起こった出来事をかいつまんで話した。
「で、ひょっとしたらその女の子がここに来てるんじゃないかと…」
 かながそこまで話したその瞬間、窓ががんがんと叩かれる音がした。思わずびくりと震え、窓の方を見つめるかなとつぐみ。二人の目の前で、窓を叩く音が続く。
「…つぐみさん」
「わかったわ」
 かなの言いたいことを察してつぐみが頷く。かなはそれを受けて立ち上がり、窓に近づいた。カーテンと障子を開く。窓は白く曇っていて外の様子は見えないが、叩かれ続けているらしく細かく振動している。彼女はそっと鍵を外し、思い切って窓を引き開けた。
「…!」
 途端に、身を切るような冷気と雪の粒が吹き込んでくる。そして、「ぶみっ!?」と言うあの奇妙な悲鳴とともに、小さな人影が部屋の中に入り込んできた。勢いあまって転げたらしい。
 それを確認し、かなは素早く窓を閉めると、人影を確認した。二つに分けた緑がかった髪の毛、小柄な身体、手にした氷柱。どこからどう見てもあの少女だ。
「こら」
 かなが呼びかけると、少女は気を取り直したように素早く立ち上がり、氷柱を構えてかなと向かい合った。
「や、やっと見つけたのだ! 今度こそ悪撲滅なのだ!」
 そう言った少女は、ワイシャツ一枚と言うセクシーなかなの姿を見て、頬を赤く染めた。
「な、ななな、なんというハレンチな格好なのだ! そうやって彼方を誘惑したに違いないのだ!」
「ハレンチ…」
 事切れてから相当経つ死語を聞かされ、かなはお前幾つやねん、と心の中でツッコミを入れた。ともかく、少女には聞かなければならないことはいくらでもある。
「あー…ちょっと誤解があるようだけど」
 そこまで言った時、少女は問答無用で攻撃態勢に入った。
「覚悟なのだーっ!」
 思い切り氷柱を振り上げ…ようとした少女の動きがぴたっと止まる。何事かと様子を見るかなとつぐみの前で、少女のお腹が「きゅう」と可愛らしい音を立てた。
「あぅ…お腹が減ったのだ…」
 そう言うと、へなへなと崩れ落ちる少女。かなは自分も激しい脱力感に襲われて膝をついた。
「あらあら、じゃあ一緒にご飯にしましょうー」
 一人だけ自分のペースを取り戻していたつぐみが、のんびりした声で言った。

「ごちそうさまでしたなのだー♪」
 たっぷりすき焼きを詰め込んだ少女が手をぱちんと合わせて元気よく挨拶する。
「お粗末さまでした」
 つぐみがニコニコ笑いながらお茶を用意する。湯飲みに注いだお茶を少女の前に置いてやり、気持ちが落ち着いたところで話し掛ける。
「それでー、えっと…お名前は?」
「旭。日和川旭なのだ」
 名を問われ、少女はあっさりと自分の名前を明かした。
「旭ちゃんね…旭ちゃんは彼方ちゃんとはどんな関係ー?」
 その質問に、旭はぽっと顔を赤らめた。なんか意外な反応だ、と思ったかなだったが、次の旭の告白に、文字通り吹っ飛んだ。
「ずっと…一緒にいてくれるって約束したのだ」
「「!?」」
 雷鳴のような凄まじいショックが、かなとつぐみを襲った。男と女が「一緒にいよう」と約束すること…それは一つしかありえない。
(か〜な〜ちゃ〜ん〜? これはどういう事かしらー?)
(お、俺にもなにがなんだかさっぱり…)
(あ、今俺って言ったわねー。減点1よー!)
(ああっ、しまったぁっ!!)
 小声で漫才のような掛け合いを続けるかなとつぐみ。その二人をよそに、自分の世界に入った旭の告白が続く。
「あの晩…ボクと彼方はずっと愛し合ったのだ…」
 今度は百雷の轟くようなショックがかなとつぐみを襲った。男と女が「愛し合った」と言うこと…それは一つしかありえない。
 つぐみが再びかなを問い詰めようとしたその時、旭の様子が変わった。
「それなのに…彼方が帰ってきたと思ってたのに、いたのはそこの変な女なのだ!」
 旭がビシっとかなを指差す。その視線と口調は敵意に満ちていた。
「え? あ、あのね、旭ちゃん。かなちゃんはー…」
 つぐみがフォローするより早く、素早く立ち上がった旭は窓のところへ飛び去った。
「今夜は、美味しいご飯をご馳走してもらったことに免じて、問い詰めるのは許してやるのだ。でも、明日からは容赦はしないのだー!!」
 そう叫ぶなり、旭は窓を開け、吹雪の中に身を投じた。
「あ、旭!? 待てよ…うわっぷ!」
 後を追おうとしたかなだが、ワイシャツ一枚のほとんど裸に近い格好では、窓から吹き込んでくる冷気にも耐えられない。何とか窓を閉めたときには、もう旭の姿は影も形も無かった。
「なんなんだ…一体…」
「さあ?」
 残されたかなとつぐみが唖然としていると、電話が鳴った。今度はかなが受話器を取った。
「もしもし」
『やあ、かなくんか』
「誠史郎さん? どうしました?」
 かなはそこまで言って、さっき彼が電話を掛けてきたときの用事を思い出した。
「あ、そう言えばあの子が来ましたよ。つい今しがた帰りましたけど…」
 かながそう言うと、電話の向こうで安堵するようなため息が聞こえた。
『そうかい。実は、その事で言いわすれていた事があってね…あの子の診察代の事なんだが』
「…え?」
 かなはとてつもなく嫌な予感に身を振るわせた。
『払わずに帰って行っちゃってね。悪いけど立て替えてくれないかな。額は…』
 誠史郎が告げた金額…それは今のかなには一年間働いても返せそうも無い、凄まじい金額だった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ! 何でそんなに高いんですか!」
 ほとんど泣き声でかなが詰問すると、誠史郎は何でもないことのように答えた。
『いやだって、保険証持ってなかったしね。まぁ、額が額だから、出世払いで良いよ。じゃあよろしくね』
 一方的に告げて電話が切れた。傍で聞いていたつぐみがかなに声を掛けた。
「かなちゃん、誠史郎さん何の用事ですってー?」
 かなは何も答えなかった。ただ、その手から受話器がぽとりと落ちる。その異常な様子に、つぐみが慌ててかなに駆け寄る。
「か、かなちゃん? しっかりしてー!」
 つぐみがかなを揺さぶる。しかし、かなはショックのあまり、立ったまま気絶していたのだった…

かなの収支メモ
本日の給与:180円(-10パーセント)
現在の所持金:400円(+180円)
現在の借金:(ピー)万円

(つづく)


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