最後の一組の客がチェックアウトして玄関を出て行くと、龍神天守閣の中は急に静かになった。
「さ、掃除掃除」
 見送りをしたかなは、用具室でほうきとバケツ、雑巾を持って部屋に向かった。まずは最初の部屋で布団を片付け、テーブルを拭き、床を掃いてゴミを捨て、お茶菓子を補充する。
「ふぅ…さて、これを後2回…」
 最初の部屋の掃除を終えて、かなは汗を拭った。昨夜は、三組の客が宿泊していた。今日も夕方には二組がやってくる。今のうちに部屋の掃除を済ませ、何時でも客が受け入れられる準備を整えておかなくてはならない。
 かなが仲居の仕事を始めて、今日で四日目になる。最初の一日と違い、二日目と三日目は給料90パーセントカット、などと言う悲惨な事にはならなかったが、それでも40〜60パーセントカットになったため、今財布の中には220円しか入っていない。
 ちなみに、この額では村から出て行こうにも、隣のバス停留所にすら行けない(初乗り350円)。田舎のバス…それも山中で万年雪が積もっているような場所では、運賃が高いのだ。
 まぁ、仮にお金があったとしても今のかなにはどこにも行くアテなどなく…従って、このタコ部屋労働を続けざるを得ないのだった。
「今日こそ、給料全額確保!」
 そう目標を立てるかな。それがいかに低い志か、今の彼女には気付く余裕すらない。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第8回 龍神村小紀行(前編)


 部屋の掃除を終えて用具を片付け、ロビーまで戻ってくると、カウンターではつぐみが何かの帳面を開いて計算していた。たぶん宿の帳簿だろう。かなは声をかけた。
「つぐみさん、終わりましたよ」
「はい、お疲れ様〜」
 帳簿から顔を上げたつぐみが微笑む。
「次は何をします?」
 かなが聞くと、つぐみはそうねー、と言って考え込んだ。何を言われるかと待っていたかなだったが、帰ってきたのは思わぬ言葉だった。
「うーん、今日はしばらく急ぎの仕事はないわねー。3時くらいまでなら自由時間にしてもいいわよー」
「えっ? いいの?」
 かなが確認の言葉を口にすると、つぐみはもちろん、と言う風に頷いた。
「やった。それじゃあ、何をしようかな…」
 かなは考え込んだ。しかし、結論はすぐに出た。何しろ、彼女はこの村に来てから、まだ雪月雑貨店と橘診療所くらいにしか行っていない。他の場所にでも行ってみようと思ったのだ。
 そうなると、是非ともガイドが必要だ。かなは早速澄乃に会うため、雪月雑貨店に向かった。

 さく、ぎゅっ…さく、ぎゅっ…と真新しい雪を踏みしめる時独特の音がする。昨夜も雪が降り、また何センチか積もったようだ。かなの視界に映る世界の全てが、パウダー・シュガーを振りかけたようになっている。
「うーん、良い感触…でも、毎日だと飽きるかなぁ…」
 かながそう呟いた時、背後から何か嫌な気配が感じられた。振り向くと、道の向こうから一団の子供たちがわらわらと駆け寄ってくる。
「あー、かなねーちゃんだ!」
「かなねーちゃん、あそぼーぜー!」
 どうやらかなと芽依子の区別を付けられるようになったらしい子供たちは、あっという間に彼女の周りを包囲した。逃げる間もない疾風迅雷の早業だった。
「お、おはよう…」
 かながこわごわ挨拶すると、子供たちは「おはよー!!」と村全部に響くような声で挨拶した。朝からアクセル全開ブレーキレスな勢いの良さである。挨拶を終えると、子供たちは早速本題に戻った。
「かなねーちゃん、あそぼーよ」
 遊ぼう、遊ぼうと口々に連呼する。どうやら、かなは子供たちからは遊び相手として認識されているらしい。いや、遊び相手であれば良いが「おもちゃ」なのではないかと、先日の悲惨な体験から彼女は思っていた。
「ごめん、これから雪月雑貨店に行く所なんだ。じゃ、さよなら…」
 かなはそう言って子供たちから離れて歩き出そうとしたが、それで逃がしてくれるほど、この小さな悪魔たちは甘くなかった。かなが歩き出したとたん、半歩も行かないうちに、身体が後ろに引き戻されるような軽いショックがあり、つづけてしゅるり…と帯が解けた。引きとめようとした子供たちの一人が、彼女の帯に手をかけてしまったのだ。
「…え?」
 緩んだ帯がずり落ちて足の動きを阻害し、着物の前がはだけて、冷たい空気が入り込んでくる…と言う事を認識するよりも早く、かなは地面にすっ転んでいた。
「わーい、かなねーちゃんが転んだぞー」
「やっちまえー」
「またか!? またなのかっ!?」
 かなの悲痛な叫びも半ばのどの奥に押し込める形で子供たちが襲い掛かってくる。雪球を作ってばしばしとぶつけてくる者、背中に飛び乗るや、ツインテールを引っ張って「ハイヨー!」と叫ぶ者、着物どころか襦袢までめくろうとする者。無邪気さと紙一重の残酷と言うか、まさに情け容赦を知らない。
「や、やめ…そんな所さわるな…痛い痛い!髪を引っ張るんじゃないっ!」
 かなの必死の叫びも、小悪魔たちには興奮を煽る効果しかなく、地獄の饗宴はそのまま続いた。それを止めさせたのは、やっぱりこの人だった。
「はっはっは、ダメじゃないか。お姉さんが困っているだろう」
 なんとも言えないすっとぼけた口調の注意が飛んだ瞬間、子供たちは弾かれたようにかなの身体から離れた。
「あ、芽依子ねーちゃんだ」
「芽依子ねーちゃん、おはようー」
 子供たちの挨拶に芽依子は片手を軽く挙げて応え、腕を組みなおして子供たちを一睨みした。
「かなさんは私と違って脆いから、遊ぶ時には気をつけるようにと言っただろう。それがわからないのなら…」
 芽依子がそう言った瞬間、子供たちは一斉にUターンし、その場から逃げ出した。
「おれ、帰って犬の世話しなきゃ!」
「春休みアニメスペシャル見なきゃ!」
「じゃーね、かなねーちゃん、芽依子ねーちゃん!」
 口々に叫びつつ、嵐は雪の彼方に消えていった。芽依子は陵辱され尽くし、ズタボロになっているかなの横にしゃがみこみ、自分そっくりの干草色の髪の毛をつついた。
「かなさん、生きてるか?」
 その声に反応し、かながぴくりと身体を震わせた。
「うっうっ…もう、一思いに殺して…」
 その涙声を聞いた芽依子は溜息をつくと、かなの身体を起こし、着付けをやり直すのを手伝ってやった。
「うう…あの悪ガキども…何か恨みでもあるのか…?」
 帯を締めながらえぐえぐと泣いているかなに芽依子は答えた。
「かなさんは新参者で、新鮮な反応が楽しめるからな。まぁ、そのうち飽きるだろう」
「その前に死んじゃうよ…」
 ようやく気持ちが落ち着いたのか、泣くのを止めたかなだが、その表情は暗い。
「逃げようにも、この格好じゃ向こうの方が速いし…どうしたら良い?」
「戦え」
 芽依子の答えは、簡潔極まりなかった。しかし、続く彼女の言葉には、何か抗えない強い信念のようなものが感じられた。
「逃げるだけでは、結局解決しない…事もある…」
「…芽依子?」
 妙に遠い目をして語る芽依子の様子にかなが戸惑いがちに声をかけると、芽依子は憑き物が落ちたように普通の調子に戻った。
「ところで、かなさんはどこへ行くんだ?」
 かながその質問に答えると、芽依子はちょっと残念そうな表情になった。
「そうか…方向が違うな…では、サラバだ」
「あ、あぁ…」
 ひょい、と言う感じで手を挙げ、芽依子は雪道をかなが来た方向へ歩いていく。かなはしばらくその姿を見送り、自分も歩き出した。
「なんか、今の芽依子ちょっと優しかったな…」
 そんな事に幸せを感じるかな。不幸が板に付きつつある彼女である。

 その後はトラブルも無く、かなは雪月雑貨店にたどり着いた。
「こんにちわー」
 かなが店の奥に向けて声をかけると、ぱたぱたとスリッパの音を響かせて小夜里が姿を現した。彼女はかなの姿を見かけると、とたんに相好を崩した。
「あら、かなちゃん。おはよう」
 かなは頭を下げた。
「おはようございます。あの、澄乃いますか?」
「いるわよ。ちょっと待っててね。澄乃、澄乃ー! かなちゃんが来てるわよー」
 小夜里が奥の方へ呼びかけると、「は〜い、だよ〜」と言う澄乃独特の挨拶が聞こえてきた。やがて、店と家を仕切る暖簾を揺らしながら、澄乃が店内へ降りてきた。
「おはよっ、かなちゃん」
「おはよう」
 満面の笑みで迎えてくれた澄乃に、かなも笑顔を浮かべて返事をした。
「きょうはどうしたの?」
「ん、ちょっと村を見て回ろうと思って…案内してくれないかな?」
 かなが今日来た理由を話すと、澄乃はすぐに頷いた。
「いいよ。ちょっと待っててね」
 澄乃は出かける準備をするために家にとって返した。
「お母さん、かなちゃんとお出かけしてくるね〜」
「夕方までには帰ってきなさいよ」
 奥から澄乃と小夜里の会話が聞こえてくる。そのほのぼのした雰囲気に、思わずかなの顔が緩んだ時、澄乃が手に外出用の服を抱えて戻って来た。いつもの白いコートとベレー帽だ。それをいそいそと着込み、準備完了…と思いきや、彼女はコートのポケットから財布を取り出した。
 一体何をする気なのか、とかなが見ていると、澄乃はレジに500円入れ、代わりに蒸し器からあつあつのあんまんを5つ取り出して袋に詰めた。
「うんっ、準備完了っ! じゃあ、でかけるよ〜、かなちゃん」
「あ、あぁ…」
 かなは頷いた。この村で中華まんの需要がどれほどあるのか、かなにはわからないが、あんまんに関してはほとんど全部澄乃が食べているに違いない。ともかく、二人は連れ立って店の外に出た。
「それで、かなちゃんはどこへ行きたい?」
 澄乃に聞かれ、かなは考え込んだ。具体的に行きたい場所と言うのは、別に考えていなかったからだ。
「そうだな…おれ、じゃ無かった、私は龍神天守閣と澄乃の家と、後は芽依子の家しか行ってないから、それ以外なら何でもいいぞ」
 かなは全部澄乃に任せることにした。ちなみに、彼女は澄乃と話すときは「俺」を「私」に入れ替えるだけで、あとは男の頃の言葉遣いを通す。澄乃もあまり気にしていない。たぶん、芽依子が似たような喋り方だからだろう。
 これがつぐみだと、ちゃんと語尾を「〜だわ」「〜なの」と言い換えて可愛く喋らないと、容赦なくチェックが入る。
「えぅ〜、責任重大だよ〜」
 ガイドを丸投げされた澄乃は腕を組んでしきりに唸っていたが、何か思いついたのかポンと手を打った。
「そうだ、龍神の滝に行こうよ」
「龍神の滝?」
 かなは鸚鵡返しに尋ね、それから思い出した。つぐみが当初かな(彼方)にやらせようとしていたバイトは、そこでの水汲みだった、と言う事をである。
 もし男のままだったなら、毎日のように行っていた場所だが、今となっては見に行く動機がない。ちょうどいい機会だろう。
「よし、じゃあそこに行ってみよう」
 かなが頷くと、澄乃は大きく手を振り上げて叫んだ。
「よ〜し、それじゃあ、しゅっぱ〜つ!!」

 十分後、かなと澄乃は赤い鳥居の前に立っていた。100段ほどの石段が山上に向かって続いている。
「澄乃、ここは?」
 尋ねるかな。あまり滝には見えない。
「龍神の社だよ。滝への道はここの境内を通っていくんだよ」
 澄乃は答え、石段を登り始める。しかし、かなは唖然とした顔で石段を見上げていた。
「つぐみさんは俺に40キロの水を持って、毎日ここを昇り降りしろと言っていたのか…殺す気か?」
 もしやらされていたら、一日で投げ出していただろうな、と思うかな。幸い、今では酒造会社との交渉がめでたくまとまり、龍神天守閣には毎朝40リットルの水が届けられている。
 女の子になって、はじめてホッとしたかなだったが、既にかなり登っていた澄乃の呼ぶ声に、慌てて後を追った。石段を登りきると、そこは想像していたよりはこじんまりとした神社の境内だった。
「龍神の社…か」
 村と同じ名前の神社の境内を、かなは見回した。ここも10年前に来たのだろうか、と考えるが、記憶は蘇ってこなかった。
 その時、かなは微かに人の声を聞いたような気がした。彼女は澄乃のほうを振り向いて尋ねた。
「澄乃、何か言ったか?」
「ううん、何も言ってないよ〜」
 首をぷるぷると振る澄乃。気のせいか、とかなが思うと、さっきよりもはっきりと人の声が聞こえた。
「…のじゃ」
 そして、猫の鳴き声。かなと澄乃は顔を見合わせた。
「かなちゃん、今のって?」
「誰かいるみたいだな」
 二人は頷き合うと、声の聞こえてきた社の裏手に近づいて行った。さっきよりもはっきりと声が聞こえてくる。
「ほれ、シャモン、お寿司が出来たのじゃ」
「ウニャ〜ン…」
 小さな女の子らしき…それにしてはしゃべり方が古風な…声と、猫の鳴き声に間違いない。二人は社の角から裏手を覗き込んだ。
 そこでは、3〜4歳と見える少女が、一生懸命雪を固めて、そこに葉っぱや石を乗せては、シャム…にしては品の無いブサイクな…猫の前に置いている。猫がちょっと不満そうなのは、寿司が本物ではない事を知っているからだろう。
「どこの子かな…見た事が無いよ…」
 澄乃が言った。それは意外な、とかなは驚いた。何しろ人口300人の過疎の村。そこにあんな小さな子がいれば、目立たないはずが無い。にも関わらず、澄乃は知らないと言う。
(他所からきたのかな…)
 そう考えながらも、かなは少女にどこかで見覚えがあるような気がしていた。すると、少女は猫のノリの悪さに不満だったのか、何かを取り出して雪で出来た寿司を移し変えはじめた。
「ほれ、これであれば文句は無いであろ?」
 漆塗りの寿司桶だった。その瞬間、かなは少女の正体を思い出した。葬式の日、かなが寿司を食べ損ねた原因を作ったのは、彼女に寿司を全部食われたからだ。しかも、最後の一つは今彼女が雪を入れている寿司桶ごと持って行かれたのである。
「こらっ!」
 気がついたときには、かなは少女を叱りつけながら一歩を踏み出していた。少女と澄乃はびっくりして声も出ない。
「人の寿司を取っておいて、入れ物を返しにもこないのか!」
 それを聞いて、少女は慌てて立ち上がり、逃げる構えを取ったが、今回ばかりはかなの方が速かった。素早く少女の腕を掴む。
「は、離すのじゃ!」
 じたじたと暴れる少女。しかし、いくらかなが貧弱と言っても、3〜4歳の少女に力負けするほど弱くは無い。また、猫のほうが主人を守ろうと一生懸命かなの足に猫パンチを入れているが、痛くも痒くもない。
「ダメだ。お前、この間旅館に入り込んで、勝手にお寿司を全部食べただろう?」
 かなが言うと、少女は典型的な開き直りを見せた。
「あ、あれは落ちていたのじゃ!」
「ンなわけあるかいっ!」
 かなはツッコミを入れると、少女の腰に手を回し、身体を抱え込む。かなの腰の所にちょうど少女のお尻が来た。
「あれは他の人が食べるものだったんだ。それを勝手に食べて、『ごめんなさい』も言わない悪い子は、お尻ペンペンの刑だっ!」
 そう言うと、かなは少女のお尻をぺちん、と叩いた。
「痛いのじゃ! やめるのじゃ!」
 再び少女がじたじたと暴れる。
「謝るまで許しませんっ!」
 かなは意に介さず、二度、三度とお尻をぶつ。実際にはそれほど力は入れていないのだが、四度、五度と続けていくと、そのうち少女は一生懸命謝り始めた。
「わ、わらわが悪かったのじゃ! ごめんなさいなのじゃ!」
「か、かなちゃん、その辺で許してあげようよ〜」
 澄乃もおろおろとした声と態度で嘆願する。かなはいったん手を止めて少女に尋ねた。
「本当に悪いと思ってる?」
 少女がこくこくと首を縦に振った。かなは頷くと、少女を地面に降ろしてやった。
「か…勝手に食べてごめんなさいなのじゃ…もうしないのじゃ」
 少女は逃げる様子も無く、かなに謝った。かなは微笑むと、しゃがみこんで少女の頭を撫でた。
「よしよし。ちゃんと謝れたな。偉いぞ」
 そう言いながら優しく頭を撫でてやると、少女は照れたように笑った。こうして見ると、なかなか愛らしい顔立ちの子である。将来はさぞかし美人に成長するだろう。
…しゃべり方は変だが。
「じゃあ、これは返してもらうぞ」
 かなは寿司桶を拾って立ち上がった。少女を見下ろし、ふと尋ねる。
「お前、名前は?」
 かなの質問に、少女は胸を張って答えた。
「桜花なのじゃ。若生桜花」
「桜花…いい名前だね〜」
 澄乃が誉めた。かなが辺りを見回してみると、この境内には無数の桜の木が生えている事がわかった。何百年と続く冬のせいで花をつけたことは無いだろうが、もし花が咲く事があれば、さぞかし見ごたえのあるものだろう。
「父上と母上が付けてくれたのじゃ」
 誉められた桜花の方は、よっぽどその名前が…あるいは両親が好きなのか、満面に笑みを浮かべた顔で答える。
「そっか、で、お父さんとお母さんはどうした?」
 今度はかなが質問した。この神社は道には面しているが、人家のある辺りからは結構離れている。この年齢の子供をこの寒空の下遊ばせるには、ちょっと不安な場所だ。
「父上と母上は…遠くに行っているのじゃ」
 桜花の答えに、かなと澄乃は思わず顔を見合わせた。遠く…出稼ぎにでも行っているのだろうか。こんな小さな子を残して?
「でも、必ずここへ帰ってくるって約束したのじゃ。わらわはずっとここで待っているのじゃ。シャモンもいるし、寂しくないのじゃ」
 そう言って、桜花は猫のシャモンを抱き上げた。言葉とは裏腹に寂しそうな主人を気遣ってか、シャモンが鳴きながら桜花の顔に自分の顔を擦り付ける。くすぐったそうに笑う桜花を見て、かなと澄乃は不憫な思いにとらわれていた。
「そっか…早く帰ってくると良いな」
 そう言って、かなはもう一度桜花の頭を撫でた。照れたように微笑む桜花。
「それじゃ、そろそろ行くか…またな、桜花」
「うんなのじゃ…えっと…」
 挨拶を返そうとして、戸惑ったように口篭もる桜花。そこで、かなたちは自分たちがまだ名乗っていなかった事を思い出した。
「あ、私は出雲かな。で、こっちが…」
「雪月澄乃だよ。じゃあね、桜花ちゃん」
 かなと澄乃が相次いで名乗ると、桜花はニット型の手袋に包まれた小さな手を振って別れを告げた、
「さらばなのじゃ、かな、澄乃」
 呼び捨てにされたが、悪い気はしなかった。二人はもう一度手を振ると、境内の横手にある遊歩道に足を踏み入れた。そのまま歩く事15分。滝はまだ見えない。
「澄乃、まだなのか?」
「もうすぐだよ」
 かなが質問すると、澄乃は迷わずに答えた。しかし、それからさらに15分後。道はまだ続いている。
「澄乃、まだなのか?」
「もうすぐだよ」
 さらに15分…
「す、澄乃、まだなのか…?」
「もうすぐだよ」
 かなはだんだん息が上がってきた。そもそも着物は山歩き向きの格好ではない。澄乃は相変わらず同じ事しか言わないが、もう怒る気力も無かった。一休みしよう、と言い掛けた時、突然目の前が開けた。
「…うわ…すごい…」
 かなは思わず溜息をついた。そこに広がっていたのは、かなりの広さを持つ湖だった。水は青く澄んでいて、この寒さにも関わらず凍っていない。
「龍神湖だよ〜。わたし、良くここに絵を描きに来るんだよ〜」
 澄乃が解説した。確かに絵を描くには良い場所だとかなは思った。
「って、絵を描くのか? 澄乃」
 かなが尋ねると、澄乃はえっへん、という感じで胸を張った。
「うん、私美術部の部長さんだもん」
「ほぉ…」
 人は見かけに寄らない、とかなは思った。それを言うと澄乃は怒るだろうが。
「今度絵を見せてくれよな」
「良いよ〜」
 そんな会話をしながら、二人は龍神湖畔を通り過ぎた。良い景色を見たせいか、かなの足も少し軽くなっている。湖に流れ込む渓流に沿った道を、二人は川上に向かって進んだ。
 それから15分後…
「す、澄乃、まだなのか…?」
「もうすぐだよ」
 再びかなは息が上がっていた。どうやら、遊歩道は湖畔までだったらしく、今歩いている川沿いの道は正真正銘の山道である。狭いわ傾斜は急だわで、歩きにくいことこの上ない。澄乃は平然としたものだ。細く見えてもさすがは地元っ子である。
「つぐみさん…いくら男のときでもこれは無理です」
 かながつぶやいた時、耳に微かにドドドドドド…と言う水のなだれ落ちる音が聞こえてきた。顔を上げると、山の斜面に遮られた曲がり角の向こうからそれは聞こえてくるようだった。
「着いたのか?」
「うん、頑張って、かなちゃん」
 澄乃に励まされ、かなは最後の道のりを歩ききった。そして…
「うわ…こりゃ思ったより凄いな」
 かなは感心しながら目の前の滝を見上げた。落差は30メートルくらいだろうか、水がくねるようにして岩肌を流れ落ちている。確かに天に上る龍神の姿と見えなくも無い。滝壷も広く、そして深そうだ。水は一点の濁りも無く透き通っていて、底の砂の一粒一粒が見分けられそうな気がする。試しに一すくい手ですくって飲んでみた。
「確かに美味しい…」
 かなは思わず呟いた。村営水道の水も十分都会の水より美味かったが、これはそれ以上…けたが違う。
「でも、これを汲んで帰るって…絶対に死ぬ…」
 かなは思った。ここまで、龍神の社からでも軽く1時間以上。龍神天守閣からなら、1時間半はかかるだろう。40リットルの水を持ち帰ることを考えたら、帰りは2時間でも無理…3時間近くかかるのではないだろうか?
 そして、もしその間に吹雪でも襲ってきたら、これはもう確実に遭難死する。かなは男の姿でなくて良かったと、心底ホッとした。
(…って、それもマズいだろ)
 女である事を肯定しかけた自分にそう言い聞かせつつ、かなはしばらく滝を眺めていた。すると、突然目の前に白くて丸いものが出現した。
「わっ!…って、あんまんか」
 横では澄乃がニコニコしながらあんまんを差し出していた。いつのまにか、彼女は既に一個食べている。
「かなちゃんも食べる?」
「ん、ありがとう」
 かなは頷いてあんまんを受け取った。この寒空にこれだけ動き回ったのに、まだほのかに温かい。
(不思議だな…ん?)
 かなは幸せそうに2個目のあんまんをぱくつく澄乃を見た。あんまんの袋は彼女の胸にずっと抱かれていた。
(あぁ…なるほど。この温かさは澄乃の体温なのか…なんか恥ずかしいな)
 顔を少し赤らめながら、かなはあんまんをかじった。そういえばずいぶん歩き回って腹が減ったな、と思いつつ食べ終える。そして、もう一個貰おうかと後ろを振り向くと、そこには満足そうな澄乃の顔があった。
「えぅ〜…美味しかった」
 既に他の4個は澄乃に食い尽くされていた。その澄乃は、かなの顔を見て、不思議そうな表情をした。
「えぅ? かなちゃん、どうしたの? 何で泣いてるの?」
「…泣いてなんかいないよ…それより、帰ろうか」
 かなは震える声で言うと、さっときびすを返した。首を傾げていた澄乃だったが、かなの姿が曲がり角に消えそうになっているのを見て、慌てて後を追う。
「えぅ〜っ! 待ってよ、かなちゃん〜!!」
 必死に雪を蹴散らしてかなに追いつく澄乃。そして、二人は山を下っていった。

(つづく)


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