雪道に橇の跡を残し、かなと芽依子は澄乃の家…雪月雑貨店にやってきた。
「こんにちわー」
 かなが店の戸を開けて中に声をかけると、「はーい」と言う返事が聞こえ、奥から小夜里が出てきた。
「いらっしゃいませー…って、かなちゃん?」
 着物姿のかなに目を丸くする小夜里。しばらくじっとかなを見ていた彼女だったが、やがて顔をほころばせて言った。
「良く似合ってるわよ、かなちゃん。髪型も可愛いし」
「…はぁ、それはどうも」
 素直に喜んで良いのかどうか、複雑な表情でかなは頷いた。
「ところで、おつかいよね?つぐみから話は聞いてるわ」
 小夜里が言った。どうやら、かなが行く事は事前に伝わっていたらしい。
「ええ、このメモの通りにお願いできますか?」
 かながハンドバッグから例のメモを出して手渡すと、つぐみは頷いて、かなと芽依子に椅子を勧めた。そして、奥へ向かいながら呼びかける。
「澄乃、澄乃ー! お茶を用意してちょうだい!」
「は〜い、ちょっと待っててだよ〜」
 いつもながら心和む澄乃ののんびりとした返事が聞こえ、しばらくして彼女が湯飲みと急須をお盆に乗せて現れた。
「おはよう、かなちゃん、芽依子」
 澄乃は挨拶しながらかなの姿を見て、母親とそっくり同じ反応を示した。
「うわ〜…かなちゃん可愛いよ〜…着物も髪型も」
「…ありがとう」
 かなはやはり複雑な表情で礼を言った。
「ふっふっふ、髪型のコーディネートは私だぞ」
 と、これは芽依子が自慢げに言う。
「へぇ…良いなぁ。あ、はい、お茶だよ、かなちゃん」
 澄乃がうらやましがりながらも差し出してきたお茶を礼を言って受け取り、かなは一息ついた。外の寒さで凍えていた身体に、熱いお茶が染みとおるような感覚だ。手のひらで湯飲みを挟むようにして持ち、手を温めていると、澄乃が白い丸いものを差し出してきた。
「あんまんもあるよ〜」
 澄乃がにこにこと笑いながら言う。
「さんきゅ、澄乃」
「いただこうかな」
 かなと芽依子はそれぞれ一つずつあんまんを受け取り、底の紙を剥いて口に運んだ。あつあつのこしあんが、また身体を良く暖めてくれる。
「美味いな」
「うむ」
 かなと芽依子がそんなやり取りをしている間に、澄乃はとろけそうな表情で二つ、三つとあんまんを平らげていた。よく胸焼けを起こさないな、と変な感心をしながら、かなは澄乃に尋ねた。
「お前…そんなに食べて大丈夫なのか?」
 その時、澄乃は四つ目のあんまんに口をつけていたが、ゆっくりと口の中のものを飲み込み、えへへ、と笑った。
「だって、あんまんは命の源なんだよ〜。わたし、三食全部あんまんでも平気だよ」
 三食全てがあんまん…その光景を想像して、かなはちょっと気持ち悪くなった。それは好きなものは好きだから仕方がないのかもしれないが、絶対に身体には良くない。
「そ、そうか…芽依子は何か好きなものはあるのか?」
 これ以上あんまんの話を聞かされると全身が甘くなりそうだったので、かなは芽依子に話を振ってみた。なんとなく甘党っぽくは見えない芽依子だが、答えは簡潔だった。
「芋だな」
「芋?」
 意外な答えにかなが目を丸くすると、さすがに不十分な説明だと思ったのか、芽依子は補足の言葉を口にした。
「芋で作った和菓子が好きなんだ。芋ようかんとか、芋金時とか」
「それはまた意外な…なんとなく辛党かと思ってたぞ」
 かながそう言うと、芽依子はニヤリと笑った。
「とんでもない誤解だ。私はどっちかと言うと甘党だぞ」
 すると、幸せそうに6個目のあんまんにかぶりついていた澄乃が口を挟んできた。
「そう言えば、この間芽依子たくさんお菓子を買っていったよね。確か…5000円分だっけ?」
「うむ、臨時収入があったのでな」
 芽依子が頷く。その会話を聞いて、かなは辺りを見回した。置いてあるのは、一個5円から100円までの素朴な駄菓子が基本だ。これで5000円分も買って行くのは相当な量になるだろう。
 それにしても、とかなはある事が引っかかった。5000円。どこか聞き覚えのある金額だ。
「…あ」
 かなはポンと手を打った。何事かと振り向く澄乃と芽依子にかなは尋ねた。
「そう言えば、俺財布なくしてたんだ。中に5000円入ってて…外見は…」
 かなが説明すると、突然芽依子がポーチの中をごそごそと探り、見覚えのある物体を取り出した。
「それはこれかな?」
 かなは芽依子の取り出した財布をまじまじと見た。なにやら薄汚れてはいるが、間違いなくかなのものだ。
「おおっ! それだ、間違いない!! サンキューな、芽依子」
 芽依子から財布を受け取り、かなはさっそく中身の確認に取り掛かった。しかし…
「…ない? …ない! 入ってたはずの5000円札が無い!!」
 驚愕するかなの脳内で、一連の出来事が有機的に結合した。財布には5000円が入っていた。その財布を拾ったのは芽依子だ。そして、芽依子はここで5000円の買い物をした。
「…まさか…?」
 かなが芽依子の顔を見上げると、彼女は確信犯の笑みを浮かべて頷いた。
「あぁ、その5000円なら、確かに私がいただいておいたぞ」
 その時、かなは彼女の世界に亀裂が入る音を確かに聞いた。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第7回 仲居さんのお仕事・実戦編


「な、何で勝手に人のお金を使うかな…」
 かなは半分呆然としながら言った。芽依子の行動には、怒るよりも先に当惑が来ている。ところが、芽依子は悪びれた様子も無く、堂々たる態度で言い放った。
「ふっ…勝手に使ったわけではないぞ。あのお金は正当な取引で私のものになったのだ」
 ここで、ようやくかなの胸にも怒りが込み上げてきた。
「待て。何が正当な取引だ!? 俺の財布を勝手に取ることが正当か!?」
 かなが声を荒げて説明を求めると、芽依子は対照的に穏やかな声で、短く説明した。
「診察代だ」
「…は?」
 あまりに簡潔な答えに気勢を削がれたかなに対し、芽依子は細かく説明を始めた。
「落石に巻き込まれて大怪我をしたかなさん…そのときはまだ彼方さんか、を診察したのは私だぞ? 当然その代金はもらえるはずだが」
 かなは思わぬ成り行きに、戸惑いつつも反論した。
「あ、いや…そ、それはそうかもしれないけど…おまえちゃんとした医者じゃなくて無資格者だろ」
 しかし、芽依子は全く動じない。
「それがどうした? ブ○ック・ジ○ックを見てみろ。無資格医だが貰うものは貰っているぞ。私なんか良心的なほうだ」
「漫画だろうが、あれは!」
 とんでもない自己正当化を図る芽依子に、かなはもっともなツッコミを入れたが、次の瞬間芽依子に怒鳴られた。
「たわけっ!」
 この一喝で固まったかなに、芽依子は続けて言葉を浴びせた。
「ただでさえ原形を留めていない彼方さんの身体を、とにかく見苦しくないように繕ったのは私だぞ。あの苦労を考えれば5000円でも安いっ!」
 かなは目が覚めた時の事を思い出した。全身にしっかり巻かれていた包帯。あれだけでも相当な苦労だったのは間違いないだろう。それは認める。しかし…
「そこを、澄乃の友人である事と、金が無かった彼方さんの現状に鑑み、大まけにまけて有り金全部で妥協してやったのだ。感謝するが良い」
 という風に、とてつもなく恩着せがましく言われては、納得できようはずも無い。かなは何とか反撃しようと口を開きかけたが、その前に芽依子の言葉の続きが出ていた。
「嫌なら、正規の値段をとっても良いんだぞ。彼方さんは保険証を持っていなかったから、さぞかし高くつくだろうなぁ…」
 かなは再び固まった。確かに保険証は持っていない。あったとしても、「出雲かな」が「出雲彼方」の保険証を使うことはできない相談だ。そして、芽依子はさらにとどめの一言を口にした。
「ふふふ…足りない分は身体で払ってもらう事にしようかな?」
 芽依子が目をきらーん、と輝かせ、指を見るからにいやらしい感じにくねらせながらかなに手を伸ばしてきた。かなは思わず手をついていた。
「すいません、もう言いませんから、それだけは勘弁してください」
「よし、では5000円で納得してくれ」
 芽依子は満足そうに笑った。

 こうして芽依子に言い負かされたかなは、べそべそと泣きながら龍神天守閣への道を辿っていた。考えてみると、芽依子の言い分には正当性など無く、自分が謝る理由など無いはずだが、勢いには勝てなかった。
「うぅ…あんまりだ」
 かなは重い野菜の箱を載せた橇を引きながら、この村に着てから数え切れないほど口にした言葉を繰り返した。
 なぜ、こんな不幸な目に会わなくてはいけないのか…こんな事ならつぐみの誘いに乗って村に来なければ良かった、と思っても、もう後の祭りである。ともかく、今は元に戻れる事を信じて、一生懸命にやるしかない。
 そう自分に言い聞かせていると、いつのまにか龍神天守閣のそばに戻ってきていた。かなは着物の裾で涙を拭おうとした。しかし。
 頬をこすると、ぱりぱり、という妙な音がした。何事かと思って袖を見ると、細かい氷がついている。どうやら、この村では涙も凍ってしまうらしい。かなは涙を拭くつもりでますます泣きたくなった。
「ま、負けるもんか…」
 泣いたら負けだと自分に言い聞かせ、かなは玄関の戸を開けた。
「ただいまー」
 奥に向かって呼びかけると、しばらくしてつぐみが出てきた。
「おかえりなさいー、かなちゃん」
 ニコニコしながら出迎えてくれたつぐみと、暖房にホッとした気分になりつつ、かなは橇から降ろしたダンボール箱を見せた。つぐみが中身をチェックしていく。
「うん、ちゃんと揃ってるわねー。お疲れ様ー、かなちゃん」
 つぐみがかなの頭を撫でた。子ども扱いしないで欲しい、と思ったかなだったが、つぐみの雪国美人らしいすべすべの手のひらで頭を撫でられるのは案外気持ちがよく、結局その抗議は言いそびれてしまった。
「じゃあ、ちょっと早いけどお昼ご飯にしてー、それからかなちゃんには午後の仕事をしてもらうわよー」
「わかりました」
 かなは頷いて玄関から上がった。午後の仕事というと、部屋の準備か何かかな、と想像する。何でも良いから暖かい場所で仕事したいな、と思うかなだった。

「…暖かい場所が良かったのに…」
 かなは呟いた。山間を吹き抜ける風が、容赦なく彼女のツインテールをなびかせ、路面に積もった雪を吹き流していく。
 ここはどこかというと、村唯一の公共交通機関であるバスの停留所だ。そして、そこで次のバスを待っているかなの手には、「歓迎 龍神天守閣」と書かれた旗がある。そう、午後の彼女の仕事は、道案内だった。
 バス停から龍神天守閣までは角を2回曲がるだけ、およそ1キロ程度の短い道のりだ。しかし、夏でも雪が降り、下界とは確実に10度から15度に達する気温差がある龍神村は、他所の土地から来る人間の常識では到底推し量れない場所である。慣れない観光客が万一道を間違えでもしたら、速攻で遭難事件になりかねない。道案内は必須だった。
「そうはわかってても…寒いーっ!」
 かなは自分の身体を抱きしめて叫んだ。懐に入れている使い捨てカイロのぬくもりが無かったら、彼女自身が遭難しそうだ。おまけにバスは遅れているのか、予定の時刻を過ぎてもまだやってこない。
 いい加減叫ぶ元気もなくなってきた頃、ようやくエンジンの音が響いてきた。かなが道路に身を乗り出すと、いまどき見かけないボンネットバスが屋根にうずたかく雪を積もらせて走ってくる。このバスを最初に見たときは、かなは今自分が何時代にいるのかと訝った代物だった。
 やがて、バスは停留所の前で止まり、中から8人の乗客が降りてきた。そのうち6人が大荷物を抱えている。この人たちが今日のお客で、後の2人は村の人だろう、と見当をつけたかなは、6人組の前に出て声をかけた。
「本日龍神天守閣にお泊りの方でしょうか?」
 すると、そのうちの一人…なかなか恰幅のいい中年男性が振り向いて答えた。
「そうですが…宿の方かな?」
「はい、宿まで道案内をさせていただきます。私の後について来てください」
 かなはそう言ってぺこりと頭を下げた。男性は豪快な笑い声を響かせた。
「おうおう、これは可愛い道案内だ。よろしく頼むよ」
「課長、それってセクハラですよ」
 少し若い男性がたしなめるように声をあげる。かなは客を観察した。課長と呼ばれた人を含め、全員男の人だ。職場の慰安旅行か何かのように見える。
「下らん事を言うな。君も可愛いと言われれば嬉しいだろう?」
 課長が言う。言葉の後半はかなに向けられたものだ。
「はぁ…嫌ではないですけど」
 今日三度目の「可愛い」に、かなが相変わらず複雑な気分で答えると、課長はほら見ろ、と言う風に部下を睨み、それから満面の笑みを浮かべてかなの方に向き直った。
「じゃあ、よろしく頼むよ。ここは寒くてかなわん」
「あ、はい。こちらへどうぞ」
 かなは旗を掲げ、先頭に立って歩き始めた。しばらくバス道を進み、宿への最初の角を曲がる。
「あ…」
 そこでかなは思わず足を止めた。どうと言う事は無い普通の山道だが、道端に子供の頭ほどもある石が幾つも転がっている。斜面の途中にある木は、何本もなぎ倒されたように折れていた。
「ここか…」
 自分が落石にあった現場を確認して、かなは立ち尽くした。来る時は急いでいたのであまり気にとめていなかったのだが、こうしていると何かを思い出しそうな気がする。
「君、どうしたんだ?」
 課長に声を掛けられ、かなは回想から現実に戻って来た。愛想笑いを浮かべ、言い訳する。
「あ、すいません…ここはちょっと前に落石事故があった場所で…気をつけてくださいね」
 一行が頷くのを確認し、再びかなは歩き出した。その時、空からはちらほらと雪が降り始めていた。

 夜になって雪の勢いが強くなり、龍神天守閣の周囲が静かになるのに反比例して、中の宴会場は大盛り上がりを見せていた。
「課長、お一ついかがです?」
「うはははは、悪いなぁ」
「お、もう空か…おーい、お銚子もう一本!」
 夕方から客は飲めや歌えやの大騒ぎを続けている。彼らが休むまで、かなとつぐみの仕事も休みなしだ。
「つぐみさん、焼き鳥4本追加お願いします」
 注文を取ってきたかながつぐみに料理の追加分を告げ、自分はお銚子に日本酒を入れると、鍋に掛かったお湯の中に入れて燗しはじめた。何事も本格派のつぐみの方針により、電子レンジによる燗は禁止である。
「はーい。それにしても、今日の人たちは凄いわねー」
 いつもの着物にたすきがけの格好で包丁を振るうつぐみが、感心したような、呆れたような口調で言う。
「あの人たちだけだから遠慮要りませんしね…っと、できた」
 かなは答えながらお銚子を鍋から取り出し、手早く拭うと宴会場へ急いだ。
「お待たせしま…『♪お前は死んでも俺は死ぬなぁ〜』わっ!?」
 扉を開けた瞬間、中からの大音響にかなは驚いて、お酒をこぼしそうになった。例の課長がカラオケセットで大熱唱の真っ最中だった。
「あぁ、びっくりした…お客様、こちらにご注文の品、置いておきますね」
 かなが中に上がってテーブルの上に熱燗を置くと、目ざとくそれを見つけた課長が、彼女に声をかけてきた。
「おお、良い所に来たなぁ…俺とデュエットしてくれないか?」
「はぁ?」
 課長の言葉に、かなは思わず客商売にあるまじき返事をしてしまった。しかし、課長は気にも留めず、強引にかなの手を掴んだ。思わず反射的に殴り飛ばしそうになったが、何とか自重する。その間に、かなはカラオケセットの前に引きずられていた。
「あ、あのっ!? こ、困るんですけどお客さんっ!」
 かなは手首を振りほどこうと腕を振り回したが、酔っ払ってハイになっている課長の馬鹿力には到底対抗不能だ。完全に据わった目で、彼女にしつこく言い寄る。
「良いじゃねぇかよケチケチすんなよ、一曲くらい」
 見かねた部下が制止しようとするが、これまた聞く耳持たずである。かなは考えた。仲居はホステスではない。客とカラオケをするのは職務外のことだ。しかし、相手は理屈の通じる相手ではなさそうだし、ここで抵抗して客を怒らせたら、つぐみに迷惑が掛かりそうだ。
「わ、わかりました…一曲だけ」
 かなは仕方なく頷いた。課長は大喜びで、さっそく曲番号を入力する。そして、イントロが始まった。幸いかなでも知っている定番中の定番だ。
「じゃ、いくぞ〜」
 そう言うなり、いきなり課長はかなの肩を抱き寄せた。酒臭さと嫌悪感で、彼女の全身に鳥肌が立つ。やっぱり反射的に殴り倒しそうになったが、かなは必死に我慢した。
(うう…い、一曲だけだから…)
 かなはそう自分に言い聞かせ、なんとか歌い終わるまで我慢した。曲が終わると、課長は大笑いしながら言った。
「うわはははは、愉快愉快。楽しかったよ、お姉ちゃん」
 言うなり、彼はかなのお尻を撫で上げた。その瞬間、彼女の堪忍袋の緒は、音を立ててぶっちぎれた。
「…!」
 かなは無言で愛想笑いを浮かべたまま振り向くと、いきなり課長の足を踏みつけ、動きを止めた。そして、そのこめかみに必殺の一撃を叩き込んだ。
「お客様、お客様、どうしました?」
 白目を剥いた課長の身体を支え、形ばかり揺すぶって気絶している事を確認し、かなは他の5人を振り返った。
「お疲れになってる様子です」
 かなが言うと、5人は顔を見合わせ、おもむろに頷いた。
「あれだけ飲んでたからなー」
「しゃあないよなー」
 非常に白々しい演技で同意する5人。心情的にはかなの味方をしてくれていたらしい。そのまま宴会はお開きと相成った。
「ふぅ…すっきりした」
 ここ数日のストレスを一撃と共に吐き出したかなだったが、廊下に出た瞬間硬直した。
「あらー…かなちゃん、ダメじゃないの、お客さんに手を上げちゃあ」
 つぐみが怖い顔でかなを睨んでいた。手には焼き鳥を持っている。どうやら、かながなかなか戻ってこないので、彼女自ら料理を運んできたらしい。
「う…す、すいません…」
 かなは小さくなって謝った。たしかにあのオヤジはむかつく事この上ない相手だったが、だからと言って客をKOして良いと言う法は無い。これはさぞかし怒られるだろう、と想像したかなだったが、意に反して、つぐみは柔和な顔に戻ると、かなの肩に手を置いた。
「お客さんが無茶を言う時は、ちゃんと私に言いなさいねー。良い?」
「は…はい」
 かなが頷くと、何を思ったのか、つぐみは着物の袖を探って、中から小瓶を取り出した。
「こういう風にー、もっとスマートに片付ける方法もあるんだからー」
 何だそれ?と思いながら、かなは小瓶の表面に貼られたラベルを見た。そこには「ハルシ○ン」と書かれていた。
「…あの、殴った私が言うのもなんですけど…もっとヤバいのでは…?」
 かなは後頭部に冷や汗を浮かべて言った。
「そうかしらねー…誠史郎さんは良いものだって言ってたけどー」
 つぐみはハ○シオンの小瓶をしまいこみ、かなに微笑みかけた。
「それじゃ、片付けちゃいましょうかー」
「はい」
 かなはつぐみに続いて宴会場の片付けに入った。

 それから洗い物、布団の用意、朝食の仕込みなど、忙しく働き、客が全員風呂に入り終わった事を確認して、入浴できたのが、そろそろ12時近くになろうかと言う夜遅くの事になった。
「うう〜っ! …はぁ、凝ってるなぁ」
 かなは湯船の中で思い切り手足を伸ばした。今日一日の重労働で酷使され、きしんでいた手足が柔らかくほぐれていくような気がする。
「思ったより大変だな…今日は客が一組だけだから良いけど、複数になったらどうなるんだろ…?」
 湯船に落ちて一瞬で溶けていく雪を見つめながら、かなは考え込んだ。それを今まではつぐみ一人で処理してきたわけだから、よく体が保つなと感心する。
「はぁ…頑張らないとね」
 明日からの仕事に備え、かなはお湯の中でゆっくりと身体をほぐした。風呂を終えて部屋に戻ると、そこではつぐみが待っていた。
「あれ? つぐみさん、どうしたんですか?」
 なぜここにつぐみがいるのかと不思議に思ってかなが尋ねると、つぐみは懐から白い封筒を取り出した。
「はい、渡すの忘れてたけど、お給料よー」
 その瞬間、かなの顔に、龍神村へ来てから一番嬉しそうな表情が浮かんだ。
「あ、ありがとうございます!」
 かなは勇んで封筒を受け取り、中身を確認した。
 10円玉が2枚入っていた。
「…はい?」
 かなは封筒をひっくり返した。ちゃりんちゃりん、という澄んだ音を立てて10円玉が床に転がる。それだけだった。いくら調べても、他のお金は1円玉一つ入ってはいない。
「な…何故に…!」
 かなが絶望的な声をあげると、つぐみは指折り減給の理由を数え上げた。
「まず、男言葉を使ったのが通算で4点マイナスねー。それと、お客さんを殴ったのが減点5で、合計9点。お給料を90パーセントカットよー」
「そ、そんな…」
 打ちひしがれた表情で、かなは床に転がった2枚の10円玉を見つめた。
…2枚の10円玉?
 かなはおかしな事に気がついた。90パーセントカットで20円。つまり…100パーセント時は…200円?
「…はうっ」
 あの重労働やセクハラまでされて苦労した代価が200円でしかない、と言う事を悟った瞬間、つぐみを問い詰めるとかの以前に、かなの神経はぷちん、と音を立てて切れた。目の前が真っ暗になり、かなはゆっくりと布団に倒れ伏した。
「あらあら、そんな格好で寝ちゃ風邪ひくわよー」
 とどめを刺した自覚もなく、つぐみはニコニコしながら気絶したかなに布団を掛けてやる。その姿は、まさに慈母そのものだった。
…中身は悪魔だが。

(つづく)


前の話へ     戻る      次の話へ