じりりりり…と電話が鳴り響く。その音にかなは驚いて跳ね起きた。
「わっ!? な、なんで? 昨夜はセットしてないのに…」
 驚きながらも受話器を取ったかなの耳に、意外な音声が飛び込んできた。
『はぁ…はぁ…はぁ…』
「ほへ?」
 つぐみの声と言うところは同じだが、昨日の体操とは全然違う声に、かなは何事が起きるのかと耳に神経を集中させた。
『はぁ…あぅ…ううん…はぁ…はぁあああんっ…うっふ〜〜〜ん…』
 甲高い、あえぐようなつぐみの声。かなは思わず赤面した。
「え? ま、まさか…?」
 かなが何を想像したのかは不明だが、彼女はなぜか正座し、赤い顔のままじっと受話器から流れる声に耳を傾けた。
『はぁ…はぁ…あ…ん…あはぁ〜〜ん…』
 つぐみの声はますます艶っぽさと熱さを増していく。かなはごくりと生つばを飲み込み、さらに意識を集中させる。と、その時、つぐみの声が微妙に変化した。
『はぁ…はぁ…もしもしぃ〜?』
「も、もしもし?」
 その気だるげな呼びかけに、モーニングコールだと言う事を忘れて思わず返事をするかな。すると、つぐみはそれまでの艶っぽい声とは全然違う、間の抜けた声で言った。
『お嬢さんのパンツ、何色〜?』
 かなは思わず受話器を握り締めたままその場にくずおれた。受話器の向こうからは、くすくすと言う笑い声の混じったつぐみの声がまだ続いていた。
『以上、悪戯電話で起こしてみよう、でした〜。起きたー?』
「つぐみさん…オヤジですか貴女は…」
 たっぷり一分ほど立ち直れなかったかなは、ようやく身を起こしてつぶやいた。
 ちなみに、色は白だったが、答える義理はもちろんなかった。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第6回 仲居さんのお仕事・おつかい編


 すっかり目の覚めてしまったかなは着ていたYシャツを脱ぐと、押入れの下段に畳んでしまって置いた着物を引っ張り出した。昨日身体で叩き込まれた着付けのやり方を思い出し、見苦しくないように着ていく。それが終わると、くしを入れて髪を整え、最後に芽依子から貰ったリボンで括った。時計を見ると、起きてから軽く40分以上経っている。
「…女の子の身だしなみは大変だな…」
 まぁ、着物を着る時点で男女問わず相当に大変なのだが、そうでなくとも髪の手入れに時間が掛かるのは勘弁して欲しかった。男の頃は無造作にしていた髪型も、今の姿ではそうは行かない。
「ま、おいおい慣れていくしかないか」
 かなが髪の毛が変じゃないかどうか、姿見を見ながらチェックしていると、部屋の扉がノックされた。
「かなちゃん、起きてるー?」
 つぐみだった。かなが返事をすると、部屋に入ってきたつぐみが既に着替えているかなの姿を見て、ちょっと感心したような顔つきになった。
「あらー…もう着替えてたのね。えらいわー、かなちゃん」
「それはまぁ、今日から仕事ですから。で、変なところはありますか?」
 かなは緊張しつつ尋ねた。もしここで少しでも着付けに間違いや見苦しい所があれば…そう、恐怖の大回転タイムだ。ちょっと三半規管が弱い彼女にとって、あれはまさに拷問に他ならない。
 胸をどきどきさせながら審判を待つかなの周りを、つぐみは何回か回って状態を確かめ、にっこり微笑んで手でOKのサインを作って見せた。
「上出来よー。じゃあ、仕事前に朝ご飯にしましょうー」
 かなはほっと胸をなでおろし、つぐみの手伝いをして朝食をテーブルの上に並べた。パンとバターにジャム、スクランブルエッグと焼いたベーコン、カットしたトマトと言う意外にも洋食風のメニューだった。

 朝食の後、かなはつぐみに連れられてロビーに来ていた。
「それじゃあ、今日の仕事について説明するわよー」
 かなは神妙な表情でつぐみの言葉を聞いていた。内容を聞き落として、ミスでもしたら大変な事になる。
「今日のお客様はー、夕方近くに来るのー。それまでにお迎えの用意をするんだけど…」
 つぐみが説明を始めた時、突然ロビーの電話が鳴った。つぐみは電話を取ると営業用の口調で返事をした。
「はい、龍神天守閣でございます…あらー、誠史郎さんー?」
 相手が恋人とわかり、途端に甘えた口調になるつぐみ。かなはその変わり身の早さに苦笑した。
「はい、はい…わかりましたー。じゃあ、これから伺わせますねー♪」
 電話を置いたつぐみはかなの方を向いて言った。
「この間の血液検査の結果が出たんですってー。これからすぐ来て欲しいそうよー」
「はい、わかりました…って、仕事はどうするんですか?」
 かなが聞くと、つぐみは問題ないというように、ロビーのカウンターの下からハンドバッグを取り出した。
「大丈夫。最初のお仕事はお遣いだったのよー。中にメモとお金を入れてるから、診療所の帰りに小夜里のところで買ってきてねー」
 そう言って、つぐみはかなにハンドバッグを手渡した。かなは頷きながら中を探ってメモを取り出した。醤油ひと瓶、みりん、七味、じゃがいも5キロ、大根5本…などと書いてある。かなりの量だ。
「ちょっとつぐみさん、このバッグにはこんなに入りませんよ。特にじゃがいも5キロなんて絶対に無理です」
 かなが抗議すると、つぐみはそれならと言って玄関の一角を指差した。そこには、手押し式の台車が置いてあった。
「それ、自由に使っちゃって良いわよー」
 かなは台車を見た。業務用の頑丈な台車で、これなら頼まれた量の5倍くらいの荷物を載せても平気だろう。
「まぁ、これなら…わかりました。借りますね」
 かなは台車のハンドルを立て、サンダルを履いた。雪道を行くには心もとない履物だが、幸い標準装備の足袋が非常に暖かい素材でできていて、寒さ冷たさだけは平気なようになっていた。
「それじゃ、行って来ます」
「行ってらっしゃーい。気をつけてねー」
 つぐみに見送られ、かなは玄関を出た。途端に身を切るような寒さが襲ってくる。
「うう…寒い! でも、早く慣れないと…」
 かなはそう自分に言い聞かせ、雪道に足を踏み出した。しかし…
「う、動かない…」
 せっかくの台車だが、5メートルと進まないうちに車輪が雪を巻き込み、がっちりと固まって動かなくなっていた。男の頃なら力任せに引っ張っていくと言う選択肢も無いではなかったが、かなの細腕ではこれでも引っ張るだけで一苦労だ。
 仕方なく、かなは玄関に戻ってインターホンを鳴らした。しばらく待つと、つぐみが出てきた。
「あら、どうしたのー?」
 首をかしげるつぐみに、かなは台車が動かなくなった事を説明した。
「何か、代わりのものは無いですか? 橇とかがあればそっちの方が良いと思うんですが…」
 かなが言うと、つぐみはしばし考え、それからぽんと手を打った。
「そうだわ。確か、蔵にかなちゃん…と言うか、彼方ちゃんが10年前に使ってた橇があったはずだわー」
 つぐみはそう言うと、ちょっと待っててね、と言い残して蔵の方に向かって行った。残されたかなはロビーのソファに腰掛け、つぐみの帰りを待つ…が、30分経っても戻ってこない。
「おかしいな…見つからないのかな?」
 かなは立ち上がり、様子を見に行く事にした。龍神天守閣の裏に回り、蔵の方へ近づくと、扉はまだ開いていた。
「つぐみさーん、見つからないんですか?」
 かなは入り口のところで中に声をかけた。薄暗い蔵の中には、埃の匂いが漂っている。その中から返事は帰ってこなかった。かなは首を傾げ、中に入った。
「つぐみさーん、返事してくださいよー」
 なんとなく不安になりつつも蔵の奥の方へ進むと、突然「うふふふふふ…」と言う不気味な声が聞こえてきた。
「うひゃあっ!?」
 かなは飛び上がって後ろに下がった。心臓が恐怖で高鳴り、この寒さにも関わらず冷や汗が肌に滲む。
「な…なんだ…?」
 かなはそっと奥の方を窺った。すると、またしてもあの不気味な声が聞こえてきた。しかし、それは良く聞くと、つぐみの笑い声だった。反響して無気味に聞こえていただけだったのだ。
「…つぐみさん、何をしてるんですか?」
 かながそう言いながら奥へ進むと、果たしてつぐみは一つの棚の前で、何やら木箱を覗き込んで笑っていた。しかし、かなが近づくと気配を察したのか、くるっと振り返った。
「あら、かなちゃん…どうしたのー?」
 そののんきな声に、かなは呆れたように答えた。
「どうしたのー、じゃ無いですよ。橇を探してたんじゃないんですか?」
 つぐみの持っている木箱は、どう見ても橇の入っているような大きさではない。すると、つぐみはニヤリと笑って、かなに木箱の中身を見せた。
「じゃじゃーん。これをご覧なさーい。長年この龍神天守閣に伝わる、家宝の壷よー」
 それは、一見見事な彩色の施された磁器の壷だった。しかし、模様が派手すぎるところがなんだか怪しい。
「はぁ…で、これと橇と何の関係が?」
 かなが言うと、つぐみはちちち、と音を立てながら人差し指を左右に振って答えた。
「わからないかしらー? これはすごいお宝なのよー。鑑定してもらえば、橇が何百台でも買える値段に…」
「つまり見つからなかったんですね?」
 かなの指摘につぐみは沈黙した。かなは溜息をついてそこら辺の荷物をどかし始めた。
「私も探すの手伝いますから、つぐみさんもお願いします」
 かなの言葉につぐみは頷き、二人はしばらく蔵の中を捜して回った。しばらくして、かなは入り口付近で橇を見つけた。想像していたような、プラスチックの一体成型打ち出しの量販品ではなく、サンタクロースが乗ってくるような、荷台の下に金属のスキッドが付けられた、なかなか本格的な一品だった。
「お、すごいなー。これなら…」
 かなが橇を動かすと、その振動が伝わったのか、後ろの戸棚の上から小さな木箱が落ちてきた。ショックで蓋が外れ、中に入っていた巻物のようなものが転がり出た。
「あっ…しまった…」
 かなは慌てて木箱を拾い上げ、元に戻そうとした…が、箱は歪んでしまったのか、蓋が閉まらない。悪戦苦闘していると、音を聞きつけたつぐみが戻って来た。
「かなちゃん、何してるのー?」
「はわっ!? な、何でも…」
 慌てて木箱を背後に隠してごまかそうとしたかなだったが、その努力も空しく、中の巻物が転げ出た。床に落ちたそれを見て口をぱくぱくさせるかなに対し、つぐみが懐かしそうな表情になる。
「あら…これはー…」
 つぐみは巻物を拾い上げ、広げてみた。中身は掛け軸…それも、なかなか本格的な水墨画だった。空に掛かった満月の下に、渓谷の風景が描かれている。さっきの怪しげな壷よりも由来を感じさせるものだった。
「かなちゃん、覚えてるー? これ、前に来た時に気に入って、ずっと眺めていたものなのよー」
「…え?」
 かなはじっと掛け軸を見つめた。そう言われてみれば、確かに見覚えがある気がしないでもない…が。
「どこに仕舞ってたかわからなくなってたのよねー。せっかくだし、部屋に飾る?」
 つぐみの言葉に、掛け軸をみつめていたかなは我に返って答えた。
「そ、そうですね…そうします」
 どこか寂しい感じのする絵だが、良いものなのは間違いない。かなの部屋にはちょうど良い床の間もあることだし、飾るのに異存はなかった。
「じゃあ、私は診療所に行ってきます」
 かなはそう言うと、橇を持ち上げて外に出そうとした。しかし。
「おほほ、お待ちなさいー、かなちゃん」
 つぐみの朗らかながらも有無を言わせぬ声に、かなは金縛りにあったように動けなくなった。全身に噴き出してくる嫌な汗を自覚しつつ、かなは首だけを油の切れたからくり仕掛けのようにぎりぎりと回して尋ねた。
「な、なんでしょうか?」
 すると、つぐみはかなの帯にがっしりと手をかけて言った。
「おほほほー、箱を壊しちゃったようねー。お仕置きよー」
 見逃しているはずがなかった。
「いやああぁぁぁぁっっ! やっぱりぃぃぃぃぃっっ!!」
 蔵にかなの悲痛な叫びがこだました。

 それから十分後、かなは橇を引きずって診療所への道を歩いていた。その足取りはどことなくおぼつかない。ただ単に雪道に慣れていないだけの話ではない。
「うう…酷いやつぐみさん…」
 まだくらくらする頭を支えつつ、かなは雪道を進んだ。あの大回転は本当に辛い。あれなら、まだお風呂場で…
 別の意味で嫌な事を思い出しそうになり、赤面したかなだったが、そこへ背後から賑やかな声が聞こえてきた。村の子供たちらしい。
「あ、橇がある!」
「乗ろうぜー」
 彼らは目ざとくかなの橇を発見し、断りもなく次々に乗り込んだ。かなは振り返って子供たちを睨んだ。
「こら、お前たち」
 注意しようと口を開くと、子供たちはかなの顔に目を留めてはしゃいだ声をあげた。
「あ、診療所の芽依子ねーちゃんだー」
「芽依子ねーちゃん、遊ぼうぜー」
 かなが違うと言う暇もなく、橇を飛び降りて群がってくる子供たち。彼女はその勢いに押された。
「うわ、ちょ、ちょっと待って…ひゃあっ!?」
 雪の塊に足を引っ掛け、かなは仰向けにひっくり返った。幸い下が雪なので痛かったり、怪我をしたりと言う事はなかったのだが、無防備状態になった彼女は子供たちの格好の獲物だった。
「わーい、芽依子ねーちゃんが倒れたぞー」
「やっちまえー」
 水に落ちた犬は打てとばかりに、次々に襲い掛かってくる子供たち。たちまちかなはもみくちゃ状態にされた。
「こ、こら…! うわ、変なところ触るな、このマセガキっ! …きゃははははははっ! く、くすぐるなぁ!」
 必死に抵抗するかなだったが、子供と言えど4、5人も集まればその力は半端ではない。反撃など思いも寄らず、完全になすがままだ。子供たちはますます調子に乗って、彼女のツインテールは引っ張るわ、着物はめくるわ、やりたい放題である。散々弄ばれているうちに、かなは意識が遠のいていった。
 そのままかなが押しつぶされそうになっている時、彼女に良く似た落ち着いた声が、子供たちの動きを止めた。
「こらこらお前たち、かなをいじめるのはよしなさい」
 子供たちの一人が振り返り、その声の主を確かめて言った。
「あ、芽依子ねーちゃん。今芽依子ねーちゃんと遊んでるところだから、また後で…」
 言っている途中で、その子供は異変に気が付いたらしい。目を回しているかなと、声の主―芽依子を交互に見比べた。
「め、芽依子ねーちゃんが二人っ!?」
 子供たちが一斉にかなから離れる。芽依子はゆっくりとかなの側に近づくと、子供たちを見渡して言った。
「この人はつぐみさんの所に来た仲居さんのかなさんだ。私と違って貧弱だから間違えないようにな」
 実際には芽依子よりもかなの方が体格が良くて少し大人っぽいのだが、それは子供には良くわからない。ともかく、後から来た芽依子を自分たちの良く知っている芽依子だと認識した子供たちは、口々に了解の意を伝え、道を走り去っていった。
「さて…大丈夫か? かなさん」
 芽依子がしゃがみこんで倒れたままのかなに呼びかけると、かなの手が微かに動いた。
「うぅ…この身体では子供にも勝てないのか…」
 ほとんど半泣きの声でかなは呟き、それからよろよろと立ち上がった。
「と、ともかく…助かったよ、芽依子。ありがとう」
 着物に付いた雪を払いながらかなが言うと、芽依子はいやいや、気にするな、と言いつつ橇に乗り込んだ。かなが怪訝そうな表情になると、芽依子はフッと怪しげな笑いを発してかなに言った。
「どうした、かなさん。早く行こうじゃないか」
「…どこへ?」
 芽依子の言葉に付いて行けず、かなが尋ねると、芽依子はさも当たり前のように答えた。
「何を言っているんだ? 助けてもらったからには、恩返しとして竜宮城へ連れて行ってくれるのが当然だろう?」
 かなは心底呆れたように言った。
「どこの世界の当然だよ」
「さてね…ふふふ…竜宮城がダメなら、羽をむしって織物でもいいぞ?」
 かなは芽依子のたわごとをそれ以上相手にせずに言った。
「いいから降りてくれよ。これからお前の家に行かなきゃいけないんだから」
「何? うちに?」
 芽依子が聞くと、かなは自分の血液検査のことを話した。芽依子は得心したように頷いた。
「なるほど、誠史郎が忙しそうにしてたのはそれが理由か…」
 その芽依子の言葉に、かなは引っかかる部分を覚えて尋ねた。
「芽依子、父親の事を名前で読んでるのか? しかも呼び捨てで…」
 すると、芽依子は少し厳しい顔つきになって答えた。
「大声で言えないけどな、実は娘じゃないんだ」
「…え?」
 かなは戸惑った。と言う事は、何なのだろう。確かに誠史郎は芽依子のような娘がいる年齢には見えないが、それを言うなら小夜里だって同じだ。義理の娘…としても、誠史郎には結婚している相手はいなさそうだし、第一つぐみという恋人がいる。考え込んでいると、芽依子が茶化すように言った。
「実は息子なんだ」
 かなは驚いたように叫んだ。
「なにいいいぃぃぃぃっっ! …って、驚くとでも思った?」
「いや全然」
 芽依子はかなの反撃にも平然と答えた。かなは溜息をついて芽依子から視線を外した。正直言って、まじめに考えただけ損だ。娘じゃないと言うのも、芽依子一流のからかいのテクニックなのだろう。
(どうもこの村の人は疲れる…)
 かなはそう思った。一緒に暮らしているつぐみからしてそうだし、かなが主導権をとって話せる相手は誰もいない。強いて言えば澄乃くらいなのだろうが、あの天然ボケぶりには時々圧倒される。
「ともかく、俺は行くからどいてくれないか?」
 かなが言うと、芽依子はいつのまにか、どこからともなく座布団を取り出してその上に正座し、やはり魔法のように出現した水筒から湯飲みにお茶をついで、完全に居座り態勢だった。
「いやいや、私もかなさんの検査結果には興味があるな。このまま連れて行ってくれ」
 平然と言う芽依子に、かなは頭痛を感じて額に手を当てた。
「…頼む、勘弁してくれ…」

 その後、どうにか芽依子を橇から降ろしたかなは、彼女と連れ立って診療所までやって来た。相変わらず患者は少ない。そう言うと芽依子に蹴り飛ばされたが。
「やぁ、かなくん。待っていたよ。まぁ掛けたまえ」
 出迎えた誠史郎は、トレードマークのくわえタバコで椅子を指した。かなも礼を言って腰掛け、誠史郎と向かい合うかたちになる。
「いやいや、今日もまたかわいらしい格好だねぇ」
 目を細めてかなをみる誠史郎に、彼女は顔に血が上るのを感じた。しかし、恥ずかしがってばかりもいられない。彼女は本題を切り出した。
「それで先生、検査の結果はどうなってたんでしょうか?」
 それを聞くと、誠史郎は至極まじめな顔つきになった。普段軽い言動をしていても、専門分野を語るときには、やはり気構えが違うものらしい。検査結果を記した紙を取り上げて説明を始めた。
「うむ…この間取った君の血と、事故現場で採取した男の頃の君の血を比較して検査してみた」
 そんな事までしてたのか、とかなが感心する中、誠史郎は説明を続けた。
「その結果…遺伝子レベルではほぼ同一人物である、と言う結果が出た…ただし、性別だけが違う。今の君は、遺伝子レベルで見ても完全な女性だ」
 かなは息を呑み、唇を噛んだ。自分の身に降りかかった、この信じられない事象が、科学的にも証明されたのだ。
「…原因は、わかったんでしょうか?」
 かなが声を振り絞って尋ねると、誠史郎は首を横に振った。
「残念だが、それはわからない。そもそも、ここに担ぎ込まれて、芽依子が診た時はまだ男だったようだし…正直言って見当もつかないな」
 誠史郎が芽依子に視線を向けると、彼女は首を縦に振った。
「そうですか…」
 かなは俯いた。少しでも原因や、元に戻る方法につながる発見は無いかと思っていたが、どうやら徒労に終わったようだ。しかし、少しでも励ますように誠史郎は言った。
「まぁ、君の血や遺伝子情報は、私の母校の方に送っておいた。そこでもっと凄い人材や機械を使って精密に調べてもらえるように依頼したから、何かわかったら教えるよ。それまで、君の健康状態は私が全力を持って管理しよう」
「お願いします」
 かなは改めて誠史郎に頭を下げた。結果がどうなるかわからないが、医学的な面では、頼れる相手は彼しかいない。さすがに芽依子では怖すぎる。

 それからかなは簡単な問診と、検査用の組織片として、皮膚と髪の毛を採取され、診療所を後にした。精神的疲労のせいか、橇がやたらと重く感じられる。
「はぁ…どうなるんだろうな、俺…」
「なるようにしかなるまい」
「そうだな…って、芽依子ぉぉぉっっ!?」
 かなは驚いて背後を振り返った。すると、芽依子がいつのまにか橇に乗り込んで寛いでいた。
「ど、道理で橇が重いはずだよ…って言うか、いつの間に乗った!?」
 かなが尋ねると、芽依子ははっはっは、とわざとらしい笑い声を立て、それから「最初から」と答えた。かなはまたしてもぶり返してきた頭痛をこらえ、額に手を当てながら言った。
「芽依子…俺を苛めて楽しいのか…?」
「楽しいな」
 芽依子はきっぱりと答えた。
「澄乃ではからかっている事に気付いてくれないからな。かなさんは反応が初々しくて実に良い」
「…初々しいってお前…」
 かなは溜息をつくと、これ以上芽依子のペースに巻き込まれないように話題を変えることにした。
「まったく…これから澄乃の所に行って、野菜を買わなくちゃいけないんだ。降りてくれ」
 かなが言うと、芽依子はニヤリと例の邪悪な笑みを浮かべた。
「それはちょうど良かった。私も澄乃の所へ行く途中でな。乗せていってくれ」
「…頼む…本当に…勘弁してくれ…」
 かなは本気で泣きそうな声で懇願した。おつかい半ばにして、既に一日の全精力を使い果たしつつある彼女だった。

(つづく)


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