店の奥の方をごそごそと探していた小夜里が、紙袋に入れた包みを持って戻って来た。
「お待たせ。とりあえず、かなちゃんに合うサイズはこれだけあったわ」
「すいません、小夜里さん」
 かなは紙袋を受け取って礼を言うと、紙袋を開けた。中には女性用の下着類が入っている。サイズがわかったので、必要な分を買いに来たのだ。つぐみはかな用の着物を用意するため、先に龍神天守閣へ戻っている。
「2〜3日分くらいね。もっと必要になるだろうから、10セットくらい発注しておくわ」
 小夜里の言葉に、かなはまた頭を下げた。
「お願いします。ところで、お代なんですけど…実は財布がないんです」
 かなは困りきった表情で言った。落石事故の時になくしたのか、財布が見当たらないのだ。中身は五千円札と小銭少々、それにレンタルビデオ店の会員証など。大した額ではないが、やはり無いのは困る。
 怒られるかな、と思ったかなだったが、小夜里はニコニコ笑いながら手を降って見せた。
「気にしなくて良いわよ。こういう事情だから仕方ないものね。ある時に払ってくれれば良いわよ」
「すいません…バイト代が出たら、必ず返します」
 かなはまた小夜里に頭を下げた。最初は女になってもバイトかと思っていたが、身の回りのものを一から全部揃えなくてはならなくなり、結局どうしてもお金は必要になってしまった。
(はやく借金を返さないと…よし、バイトを頑張るぞ)
 かなはそう心に誓ったが、彼女が借金を返すまでの道のりが果てしなく遠いものである事を、この時のかなはまだ知る由も無かった。


SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第5話 仲居さんのお仕事・研修編


「つぐみさん、ただいま」
 雪月雑貨店を出てきたかなは、そのまままっすぐ龍神天守閣に戻って来た。
「おらー、おかえりなさいー」
 奥からつぐみがニコニコしながら出てきた。手には今朝のような風呂敷包みを持っている。
「あ…つぐみさん、もしかしてそれが?」
 問うかなに、つぐみは頷いた。彼女のお古だと言う、かな用の着物である。
「これも、私がかなちゃんくらいの歳の時に着ていたのよー。一番のお気に入りだったから、大事に着てねー」
 と言う事は、仲居用の制服としての着物と言う訳でもないらしい。今つぐみが着ているのは、濃い紺の地に、紫の菖蒲のような花を散らしたもので、身体の左半身部に模様が集中しているのが特徴だ。
 やっぱり似たような柄なのかな、と思いつつ、かなはつぐみに続いて自分の部屋に向かった。
「それじゃ、出すわよー」
 部屋に入って扉を閉めると、つぐみは手早く包みを解いて、中の着物を取り出した。それは、かなにはちょっと意外なくらい可愛いデザインの着物だった。
 地はパステル調のピンクで、柄は赤い牡丹の花。つぐみの着物では左半身に集中している模様が、この着物では右半身を中心に描かれている。色と言い、つぐみの今の着物とは好対照を成す一品だ。
「な、なんか…いかにも女の子らしい着物ですねぇ。他に無いんですか?」
 かなは言った。良い物ではあるのだろうが、自分がそれを着ると言うのは抵抗がありまくりだ。
「無いわよー。それに、セーラー服よりは良いでしょー?」
 うぐ、とかなは言葉に詰まった。確かにセーラー服を着つづけるよりは、イメージに合わない可愛いものでも着物の方がまだ数倍マシだ。
「わかりました…着ます」
 かなが観念して頷くと、つぐみは嬉しそうに言った。
「それじゃあ、かなちゃんが一人でも着付けできるように鍛えてあげますからねー」
 つぐみはそう言って着物を広げた。かなはその間に朝から着ていたセーラー服を脱いだ。
(そう言えば、この格好で帰ってきたんだっけ…村中に見られただろうな。鬱だ…)
 暗澹たる気持ちになりながらもセーラー服をたたんで片付けると、つぐみが襦袢を持って立っていた。
「じゃあ、始めるわよー」
「はい、お願いします」
 かなはつぐみの指導のもと、着付けに挑んで行った。そして、1時間後。
「あらー、やっぱり似合うじゃないー」
 着替え終わったかなの姿に、つぐみは手を叩いて喜んだ。
「そうですか?」
 かなは首を傾げた。そこへ、つぐみがすかさず部屋の片隅にあった鏡台を指さした。
「せっかくだから、あれで見てみたらー?」
 それももっともだと、かなは鏡台の前に立って、三面鏡を開いた。そして、次の瞬間。
「えっ!?」
 かなは絶句した。鏡の中に映っている自分の(と言う実感はあまりないが)着物姿は、予想以上に似合っていた。日本人離れした干草色の髪の毛も、ピンク色の着物とはそれほど違和感を感じさせない絶妙のマッチングだ。
「あらー、自分でも驚くくらい可愛いー?」
 つぐみにからかわれて、かなは我に返った。確かに可愛い。これが自分でなく、男の時に道端ですれ違っていたら、声をかける度胸は無くとも、じっと見とれるくらいの反応は示すに違いない。
 いや、かなとしても、今の自分が世間標準でもかなりの美少女に分類されうる容姿なのは、芽依子を見たりしても知っていたつもりだが、髪形や服装を整えるだけでこうも違うとは思っていなかったのだ。
「はぁ、ちょっとびっくりしました…なんでこれが自分なんだろう…」
 あまりにも惜しいな、と思いつつかなが答えると、つぐみは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「でしょうー? だから、もっと可愛くなる努力をしなきゃもったいないわよー」
 さすがに、この言葉にはかなも頷けなかった。しかし、反抗する気力は無かった。
「というわけでー、まずはかわいくなる第一歩として、自分ひとりで着物を着て見ましょうねー」
「…はい」
 かなは着せてもらったばかりの着物を脱ぎ捨て、それからつぐみがやっていたのを思い出しながら、なんとか着直そうとした。しかし、素人にそう簡単に覚えられるようなものではない。
「あっと…こ、こうかな…違うか。じゃあ、ここをこうして…」
 試行錯誤しながら着付けに挑む事1時間。ようやく、それらしい形に着物を着る事が出来た。
「こ、これで良いですか? つぐみさん」
 かなは尋ねた。しかし、つぐみの返事が無い。
「…つぐみさん?」
 かなはつぐみの顔を覗き込んだ。一見、その表情は普段と変わらない。しかし。
「くー…」
 つぐみの唇から安らかな寝息が漏れる。かなは脱力してその場に突っ伏した。
「つぐみさん…そりゃないよ…」
 自分が必死に頑張っている間、つぐみはずっと居眠りしていたのかと思うと、かなはいたたまれない気分になって、目の幅涙をだーっと流した。しかし、泣いてばかりもいられない。かなは起き上がり、つぐみの肩を掴んで揺すぶった。
「つぐみさん、つぐみさん、起きてくださいよ」
 揺さぶりをかけながら呼びかける。すると、つぐみは「ん…」と艶のある吐息を漏らし、微かに身動きした。そして、かなの方を見ると口を開いた。
「あら…かなちゃん…? どうしたのー?」
 かなは溜息をついて答えた。
「えっと、着付け終わったので、ちょっと見てもらえますか?」
「あ、良いわよー」
 つぐみは頷くと、立ち上がってかなの周りを歩き始めた。どことなく、目つきが厳しいような気がする。
 その間、かなはどんな評価が出るかと、少し緊張しながら待っていた。やがて、つぐみはかなの背後で立ち止まった。耐え切れなくなり、かなはつぐみに尋ねた。
「あの…どうですか?」
 その途端、つぐみはいきなりかなの帯をがっしと掴んだ。かなが驚くよりも早く、つぐみは帯を思い切り引っ張りながら言った。
「だめー! 全然なってないわー!!」
 つぐみの行為によって帯が外れ、かなの身体はそれが引っ張られる勢いで回転し始めた。
「こ、これは伝説の『お代官と腰元ごっこ』!? つ、つぐみさん、やめてくださいっ!!」
 噂には聞いていたが、実際には見たことの無いシチュエーションに今自分が立ち会っていることを知り、かなは叫んだ。まさか、自分が腰元役になるとは思わなかったが。
「おほほ〜、良いではないか、良いではないかー♪」
 つぐみが高らかに笑いながら答えた。こちらはノリノリらしい。やがて帯が巻き取られると、かなは目を回してふらふらになり、布団の上に倒れこんだ。
「は、はうぅ…きぼぢわるい…」
 青い顔であえぐかな。つぐみは楽しそうに巻き取った帯を広げながら言った。
「さ、早く覚えないと、もっと回しちゃうわよー」
 その言葉に、かなは布団に大きなしみが出来るほどの涙を滂沱と流した。
「つ、つぐみさんの鬼…」
 しかし、このスパルタ(?)式教育の効果は確かにあった。その後、かなは二回大回転を敢行させられたものの、どうにかつぐみから見ても恥ずかしくない着付けを覚える事に成功したのだった。

「さて…ここからが本番よー」
 しっかりと着替えたかなの前で、つぐみは言った。
「これから、かなちゃんには接客の基本をしっかり覚えてもらうわよー」
「は、はいっ!」
 背筋を伸ばしてかなは答えた。着物には自然に背筋が伸びる所があるが、かなの場合はそればかりではない。着付けの段階であれだけ酷い目に合わされたのだから、今後もミスをすればどんな目に合わされるか知れたものではない、と言う恐怖感がある。
「あらー、そんなに固くならないでー、リラックスリラックス」
 つぐみは苦笑するように言ったが、かなの緊張はほぐれなかった。つぐみは仕方なく、かなをそのままにして話し始めた。
「まずは挨拶の仕方ねー。お客様をお迎えする時は、『いらっしゃいませ。龍神天守閣へようこそおいでくださいました』よー。はい、言ってみて」
「い、いらっしゃいませ。りゅ、龍神天守閣へようこそおいで…」
 かなは言葉の途中で押し黙った。つぐみが不思議そうな顔をすると、かなは目じりに涙を溢れさせて言った。
「ひ…ひははんは…」
 かなの口から漏れたのは、澄乃の「えぅー」並みの謎言語だった。
「…ヒババンゴ?」
 つぐみが翻訳を試みると、かなは首を左右に振った。つぐみはしばらく考え、そして手をポンと打った。
「舌噛んだ?」
 かながこくこくと頷く。つぐみは部屋の隅に用意してあったティッシュを箱ごと手に取り、数枚抜き出してかなに渡した。かなはそれを唇に押し当て、口の中にたまった血を吸わせた。幸い、痛みの割にそれほど出血は酷くなかった。
「ふう…す、すいません、つぐみさん」
 かなが頭を下げると、つぐみは慈母のような微笑でそれに応えた。
「いいのよー。それよりも落ち着いていきましょうねー」
「は、はい…」
 かなは頷き、接客の練習に励んだ。出迎え、見送り、食事の案内…と覚えるべきパターンはいくらでもある。しかも、ホテルなどと違ってマニュアルは存在しないから、基本は全てつぐみからの口伝である。
「お客様、お布団ご用意させていただきます。ごゆっくりお寝みください」
「お、お客様、お布団…」
 まだちょっと痛む舌に顔をしかめながらも、必死についていくかな。挨拶だけでなく、実際に布団を上げ下ろししたり、お茶の葉を代えたり、実際の作業も覚えていく。やがて、陽が傾き、夕焼けが空や雪を染める頃、一通りの挨拶はマスターした。
「うーん、だいぶ良くなったわねー。お疲れ様、かなちゃん」
「は、はい…ありがとうございます」
 ハードな講義に疲労を滲ませた声で答えるかな。一方、全く平然としているつぐみは、ゆっくり立ち上がるとかなに告げた。
「じゃあ、私は夕ご飯の準備をしてくるから、少し待っててねー。出来たら呼ぶからー」
「わかりました」
 かなは頷いて部屋から出て行くつぐみを見送ると、座椅子にもたれかかるようにして一休みする事にした。
「つ、疲れた…ハードなんだな、仲居の仕事って…」
 これで、つぐみは疲れた顔一つ見せずに仕事をこなしているのだから、偉いもんだとかなは思った。
(でも、バイトが欲しかったって事は、やっぱり疲れてるのかな…少しは手伝えると良いな)
 いろいろ酷い目に遭わされている相手に、身を案じるような考え方をしてしまうかな。こういうお人良しなところが、彼女の損な性分と言えるかもしれない。
 ともかく、休み時間を有効に使おうと、かなはテレビを付けた…が、NHKしか入らない。さすが山奥だ、と涙しつつ、かなはぼーっとニュース番組を眺める事にした。
 どれくらい待ったのか、かなが少しうとうとし始めた時、唐突に部屋の扉が開き、つぐみが戻って来た。
「おまたせー、ご飯できたわよー」
「あ、はい」
 我に返ったかなが姿勢を正すと、つぐみはそのまま部屋に入ってきて、かなの対面に座った。料理はどこにも用意されていない。
「…つぐみさん?」
 その不審な行動に、かなが首を傾げると、つぐみが言った。
「さ、かなちゃん。これも研修の一環よー。私がお客さん役をするから、厨房から料理を運んできてねー」
 そういう事か、とかなは合点して立ち上がった。
「了解。すぐ持ってきます」
 かなが言うと、すかさずつぐみの指摘が飛んだ。
「『かしこまりました、すぐにお持ちします』よー」
「…失礼しました」
 厳しい指摘を受けて言い直したかなは、廊下に出て厨房へ急いだ。その調理台の上には、綺麗に盛り付けられた山海の幸が敷き並べられていた。思わず感心するかな。
「おお…美味そうだなぁ…鶏と山菜の煮付けに、蟹の甲羅に詰めたグラタン…刺身は三種盛り合わせか。それに、こっちは胡麻豆腐に温泉たまご…お、すき焼きまであるぞ。すごいご馳走だ」
 ご満悦なかなだったが、メニューを見ているうちにあることに気がついた。
「えびのマヨネーズ焼き…もずくの酢の物…自家製糠漬け…温麺の吸い物にデザートはカットパインとりんごの盛り合わせ…これを一人で運ぶのか…?」
 一人11品と言う豪華な夕食に不満は無いが、それを二人分、一人で運べと言うのは無理・無茶・無謀の三無主義だ。かと言って、早く運ばないと冷めてしまう。
「えっと…どうすれば…お、これだ!」
 かなは辺りを見回して、良い物を発見した。良く、ファミレスなどで使われている給仕用の手押しワゴンがあったのだ。急いで料理をワゴンに移し、こぼさないように部屋の前まで押していく。そして、扉を開けようとして、これも研修の一環だった事を思い出した。かなは扉をノックした。
「はーい」
 部屋の中からつぐみの声が聞こえてきた。
「お客様、お夕食をお持ちしました」
 教わったとおりに挨拶すると、つぐみは満足したように答えた。
「ありがとうございますー。どうぞー」
 そこでかなはそっと扉を開け、失礼します、と声をかけてから、おかず類を載せたお盆をつぐみの前に置いた。続いてお茶碗とご飯を入れたおひつ。すき焼きの鍋を乗せた携帯コンロも持っていく。
「ワゴンの中にライターがあるわよー」
 つぐみに言われ、かなはワゴンからライターを持ってきてコンロの固形燃料に点火した。最後に正座して「ごゆっくりどうぞ」と言うと、つぐみはパチパチと拍手をしてかなの手並みを誉めた。
「お見事よー。これなら明日からでもお仕事行けるわねー」
「ありがとう、つぐみさん」
 さすがに照れくさくなったかなは頭を掻いた。
「じゃ、かなちゃんもご飯にしましょう」
 頷いて、かなは自分の分の食事も運び、つぐみと向かい合って座った。胡座でもかきたいところだが、あいにく着物はそう言う構造になっていないので、正座である。
「では、いただきます」
「はい、どうぞー」
 手を合わせて料理を拝み、二人は夕食を食べ始めた。宴会の時も思ったのだが、つぐみの料理の腕はまさに鉄人レベルだった。
「うま…いや、美味しい…」
 こんな時でも思わず女の子らしい言葉遣いを心がけるようになってしまった事に溜息をつきたくなりながらも、かなは料理の美味しさを誉めた。
「お代わりもあるわよー」
 誉められたつぐみが嬉しそうに言う。そんなには食べられない、と思いながらも、やはり良い料理は箸の進みが速い。いつしか、ちゃぶ台の上の料理は綺麗に片付けられていた。
「ご馳走様でした」
「いえいえ、お粗末様でしたー」
 満ち足りた気分でおなかをさすろうと、軽く上体を後ろに反らしたかなだったが、その瞬間彼女は顔を強張らせ、凝固した。
「かなちゃん、どうしたのー?」
 異変に気付いて問い掛けるつぐみに、かなは震える声で答えた。
「あ、足がしびれた…!」
 こんなに長い時間正座する事など無かったから、思い切り足がしびれていたのである。歩くどころか立つ事も出来ない。そっと足を崩して痺れが取れるのを持とうと思ったが、それよりも早くつぐみが動いた。
「あら、じゃあマッサージしてあげましょうかー?」
 つぐみの口調は疑問形だったが、既にやる気十分だった。素早く接近し、かなの着物の裾を捲り上げる。血の気が無くなったせいか、余計に白く見える綺麗な足が露出した。
「ひゃあっ!? つ、つぐみさん、良いですってば!」
 それだけで激しくしびれ、七転八倒しそうになったかな。しかし、抗議も空しくつぐみは彼女の足を撫ですさった。
「うひゃああぁぁぁぁぁっっ! つ、つぐみさん勘弁してええぇぇぇぇっっ!!」
 この日も、かなの悲鳴が龍神天守閣に響き渡った。

 マッサージ(?)の甲斐があったのかどうかは不明だが、思ったよりも早くかなの足の痺れは取れ、二人は厨房で食器を洗っていた。その最中、かなはふと頭に浮かんだ疑問をつぐみにぶつけてみた。
「そう言えば…俺が男のままだったら頼もうと思っていたバイトって、何だったんですか?」
 つぐみは皿を洗う手を止め、にこやかな笑顔で宣告した。
「今『俺』って言ったのでー、減点1」
 しまった、油断した、とかなは顔をしかめた。「私」に言い換えてもう一度聞くと、つぐみは炊飯器を指さして言った。
「このご飯はねー、村営水道のお水で炊いているんだけどー、それだと本当の美味しさは出ないのよー」
「え、あれでですか?」
 かなはさっき食べたご飯を思い出した。透明ささえ感じる艶やかな飯粒は、都会では味わえないような素晴らしい美味さだった。あれで不満があるなんて思えないのだが。
「本当はねー、龍神の滝で汲んで来たお水を使うのが一番なの。村営水道の水はちょっとねー」
 かなは水道の水をすくって口に含んでみた。水道と言っても、たぶん井戸水なのだろう。カルキ臭さはかけらも無く、これで十分にミネラルウォーターとして売れそうだ。
 しかし、龍神の滝と言えば、確か、ここへ来る前に見た村の観光ガイドに、「村自慢の名水」として載っていたような気がする。よほど良い水なのだろう。
「はぁ…と言う事は、水汲みのバイトだったんですか?」
 かなが尋ねると、つぐみは頷いた。
「そうなのよー。そうすれば、お客様にもっと美味しい料理を出せるのよー」
 のんきな口調だが、そのつぐみの言葉には、プロの誇りが溢れていた。思わず心打たれたかなは尋ねていた。
「で、そのお水って、一日にどれくらいいるんですか?」
 大した事の無い量なら汲んで来ても良い、と思ったかなだったが、つぐみの答えは想像を越えたものだった。
「40リットルよー」
「なんだ、そんなもの…って、40リットルぅ!?」
 思わず叫んだかなに、つぐみは指折り使い道を挙げた。
「そうよー。ご飯を炊く水に、魚を洗ったり、お吸い物に使ったり、40リットルでも足りないくらいよー」
 つぐみの嘆きはもっともだったが、いくらなんでも40リットルは多すぎだ。体力に自信のあった男の頃でも相当に辛い。まして、腕力を失った今のかなには、その半分でも運びきれるかどうか。
 諦めた方が良いか、と思ったとき、かなはふとさっきの観光ガイドの一節を思い出していた。
(龍神の滝の水は村一番の名水で、村の造り酒屋でも仕込みに使っています)
 確かそんな事が書いてあった、と思ったかなは、つぐみに聞いてみた。
「つぐみさん、この村にお酒造ってるところってありますよね…どこですか?」
「え? 村の中心部の方だからー、1キロちょっとだと思うわよー。でも、どうしてそんなこと聞くのー?」
 それを聞いてかなは満足した。滝までの距離は知らないが、1キロよりも遠いのは確実だからだ。かなは一つ提案してみた。
「造り酒屋さんも龍神の滝の水を使っているらしいですよ。分けてもらえないか、頼めないですか?」
 その提案に、つぐみはぽかんと口を開けたが、やがて手を打った。
「そ、そういえば…全然気付かなかったわー」
「まぁ、そう言うもんですよね…」
 かなは頷いた。地元の人には当たり前すぎて見過ごされがちな事だったのだろう。一方、つぐみは思わぬ指摘に浮かれたような調子でかなに礼を言った。
「ありがとうね、かなちゃん。明日さっそく酒屋さんに電話してみるわー」
「あはは…お礼なら、水を分けてもらえてからで良いですよ」
 かなは笑った。

 洗い物も終わり、かなは風呂に入っていた。朝からの晴天はまだ続いていて、露天風呂に浸かって見上げる夜空には、その辺の雪を一掴みすくってぶちまけたような無数の星々が瞬いている。
「はぁ…今日は疲れたなぁ…でも、仕事の本番は明日からかぁ…」
 今日は休みだったが、明日は何組かのお客が来ると言う。つぐみを仮想のお客様に想定しての研修でさえ大変だったのに、そのたった一日の経験だけで本番に挑まなくてはいけないのだ。
「大変だけど…頑張らないとな。よし、やるぞーっ!」
 かなは夜空に向けて手を突き上げて叫んだ。いつ元の姿に戻れるかわからない今、ひょっとしたら一生ここで暮らす事になるかもしれない。そのためにも、世話になるつぐみの手伝いは手を抜かずちゃんとしていこう。誓いを新たにするかなだった。

(つづく)


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