前回のあらすじ

 十年ぶりに龍神村を訪れた出雲彼方は落石に巻き込まれ、医者に死亡確認される。しかし、実は死んでいなかった彼方は葬式の最中に目を覚まし、場は大騒ぎになる。いろいろあって宿の外に飛び出した彼方は、そこであんまんを追ってきた少女と激突。彼女とのやり取りの中で、己の身に起きた異変に気付き、気を失ったのだった。

SNOW Outside Story

雪のかなたの物語

第2話 かなと彼方の神隠し


 白…
 目の前が、真っ白だ…
 どこかで似たような事を考えたな、と思いつつ、彼方は目を覚ました。目が慣れてくると、白いと思ったのは天井の色だった。そして、彼方は自分が今、布団に寝かされている事を知った。
(ここは、どこだろう…)
 身体を起こし、周囲に目をやってみる。知らない部屋だった。なぜ自分がここにいるのかさっぱりわからない。彼方は額に指を当て、ゆっくり考えてみた。
(えっと…確か、葬式の最中に目を覚まして…寿司を変な女の子に取られて…あんまんを拾って…それから…)
 次第に記憶が蘇ってくる。
(また変な女の子と出会って…それから…)
 その先を思い出した時、彼方は真っ青になった。そして、恐る恐る自分の胸に手を当ててみる。
 ふにょん。
「うわああああぁぁぁぁ!! 夢じゃないいいいぃぃぃぃぃっっ!!」
 彼方は思わず絶叫した。すると、ふすまが開いて、一人の女性が部屋の中に入ってきた。
「あら、気がついたようね」
 女性はにこやかに笑い、彼方の横に正座して座った。
「澄乃が君を連れて帰ってきたときは、一体何かと思っちゃったわよ〜」
 女性の言葉に彼方は曖昧に頷き、知りたかった事を質問した。
「あの、ここはどこなんでしょうか?」
 すると、女性は微笑しながら答えた。
「ここは雪月雑貨店。あたしは店主の雪月小夜里よ。それと…君をここに連れてきたのは娘の澄乃」
「あ、どうも。俺は…」
 彼方が挨拶を返そうとすると、小夜里はまじめな顔つきになって言った。
「芽依子ちゃん…じゃないのよね?」
 彼方は頷いた。
「ええ。と言うか、俺はその芽依子って人のことも全く知らないんですが…」
 そう答えると、小夜里は彼方の顔をまじまじと見つめて溜息をつくように言った。
「そう言われても信じられないほど似てるわね…背丈や髪の長さが違うけど、あの娘だったらそのくらいどうとでも変えそうだし…」
 どういう奴なんだ、その芽依子というのは、と彼方は思ったが、とりあえず自己紹介の続きをする事にした。
「で、俺は出雲彼方と言います」
「ええ、澄乃から聞いたわ。落石事故から助かったんですってね」
 小夜里は頷いた。そして、信じられないと言う表情で尋ねた。
「本当に…あの彼方くんなの?」
「さ、小夜里さんの知っている『彼方』がどんな人かはわかりませんが、俺は確かに出雲彼方ですよ」
 彼方が頷くと、小夜里はさらに質問を重ねた。
「この村に十年前に来た事がある?」
 彼方は頷いた。
「龍神天守閣のつぐみのところの従弟の?」
 彼方は頷いた。
「澄乃と良く遊んでくれた?」
 彼方はその質問には頷けなかった。記憶を辿ってみたが、10年前の事はかすんでいて、細部を思い出す事はできない。ただ、さっき出会ったとき、澄乃にどこかで見たような懐かしさを感じたのは確かだった。
「それは…よくわかりません。なんとなく覚えがある気もしますが」
 彼方の答えに、小夜里は少しがっかりしたような表情になった。
「まさか…彼方くんが女の子だったなんて。てっきり男の子だったと思ったのに」
 その言葉に、彼方は顔を引きつらせ、小夜里に質問した。
「あ、あの…やっぱり女の子…でしたか?」
 小夜里は変なことを聞くな、というような怪訝な表情で答えた。
「ええ…あの格好じゃ苦しそうだったし、風邪をひくと思って着替えさせた時に見たけど…女の子よ?」
「えっ!?」
 彼方は慌てて自分の格好を見た。身体中に巻きついていた包帯は全部解かれ、死装束も脱がされて、可愛い猫の模様がついたピンクのパジャマに着替えさせられていた。
「うわぁ…」
 恥ずかしさに赤くなる。
「うちの売り物で悪いけど、たまたまサイズが合うのがあって良かったわ」
 微笑む小夜里。しかし、彼方はそんな言葉は聞いていなかった。ひたすら考え込んでいる。
(やっぱり女の子の身体…なのか? そんな馬鹿な。俺は男だぞ? いくらなんでも、落石事故なんかでこんな風になるはずが…)
 そこでふと気付き、彼方は顔を上げた。
「あの、小夜里さん。鏡ありませんか?」
「え? あ、鏡ね。あるわよ。ちょっと待ってね」
 唐突な質問に驚きつつも、小夜里は近くの棚から手鏡を取り出し、彼方に手渡した。彼方は唾を飲み込み、気持ちを落ち着かせると、思い切って鏡を覗き込んだ。
「…!!」
 そして、絶句した。鏡には、長い干草色の髪の毛をもった美少女が映っていた。前髪に隠れ気味だった目は自分でも信じられないくらい、大きくパッチリとした目になり、少し浅黒かった肌も真っ白になっている。男の面影は微塵もない。
「ちょっと、彼方ちゃん? 大丈夫?」
 小夜里に肩を揺すぶられ、彼方は我に返った。どうやら呆然としていて鏡を取り落としたらしい。
「あ、だ、大丈夫です…」
 彼方は鏡を拾い、小夜里に返しながら頷いた。しかし、頭は完全に混乱していた。ひょっとしたら、自分が男だったと言う過去の記憶の方が、事故のショックで芽生えた幻なのかとさえ思う。
「彼方ちゃん、顔色が悪いわよ。お医者さん呼ぼうか?」
 小夜里が心配そうに聞いてくる。彼方を女の子として認識したためか、呼びかけが「彼方くん」から「彼方ちゃん」に変わっていた。
「いえ、良いです」
 彼方はそれは断った。どんな医者か知らないが、自分を死亡と誤診したような医者は信用ならない。
 するとその時、ふすまの向こうから声が聞こえてきた。
「お母さん、あの娘、目が覚めたの?」
「あ、澄乃。ええ、もう大丈夫みたいよ」
 小夜里が答えると、ふすまが開いて、あの少女…澄乃が顔を覗かせた。
「大丈夫?」
 澄乃の質問に、彼方は顔を上げた。
「あぁ、大丈夫…っ!?」
 言葉の途中で、彼方は電撃に打たれたように動きを止めた。その視線は、澄乃に釘付けになっていた。
 澄乃の頭に、部屋の入り口にかけられていた白いレース編みの暖簾が掛かっていた。その姿に、彼方の中で10年間眠っていたある光景が蘇った。

 それは、まるでウサギのような少女の思い出。朝から晩まで、彼方と少女は、いつも二人雪を蹴散らして遊んでいた。
 ある日、彼方とその少女はウェディングドレスを見た彼女の意見で「花嫁さんごっこ」をして遊んだ。その時、ドレスの代用品として、彼方が彼女の頭にかぶせてやったのが、ヴェールに見立てた白いレース編みのカーテンだった。
 彼女の名前は…

「澄乃…」
「えぅ?」
 彼方の呟くような呼びかけに、澄乃が反応した。
「やっぱり、俺10年前にお前に会ってたんだ…覚えてるか? 花嫁さんごっこをして、カーテンを破いて壊しちゃったのを」
 その彼方の言葉を聞いた瞬間、澄乃は呆然とした表情になった。驚きのあまり、何も言えなくなっているらしい。やがて、口をぱくぱくと数回開いた後、震える声で言った。
「ほ…本当に彼方ちゃんなの…?」
 彼方がゆっくり頷くと、澄乃はその場に座り込んだ。
「どうして…? ひどいよ。ずっと、男の子だって信じてたのに」
 どうやら小夜里もそうだが、澄乃も「彼方は本当は女の子だった」と考えているようなので、ここではっきりと誤解を解かねば、と彼方は考えた。もっとも、あまりに信じられない事態なので、自分でもどう説得したらいいものかわからないのだが。とにかく、ありのままの事を全て話すしかないだろう。
「いや、違うんだ澄乃。十年前…と言うか、この村に着いた時は、俺は確かに男だったんだ」
「…えぅ?」
「はぁ?」
 澄乃と小夜里が怪訝な声を上げる。そこで、彼方はここに来る時の事と、落石事故に遭って目が覚めてからの事を全て話した。
「えぅ〜…そんな事って信じられないよ…」
「でも、嘘はついていないようね」
 彼方が語り終えたときも、雪月母娘はまだ目を白黒させていた。
「うーん…龍神天守閣に戻って、俺の荷物を見てみれば、もうちょっとはっきりするかも」
 彼方が言うと、小夜里は頷いた。
「わかったわ。送って行ってあげるから。澄乃も来るわよね?」
「えぅっ!」
 澄乃が謎言語で頷き、3人は小夜里の運転する車で龍神天守閣に向かう事になった。

 龍神天守閣につく頃には、もうすっかり日が暮れようとしていた。夕焼けの最後の光を浴びながら彼方が車から降りると、エンジン音を聞きつけたのか玄関からつぐみが出て来た。
「あらー、芽依子ちゃん。いらっしゃいー」
 相変わらず微笑んだような表情で迎えるつぐみが、彼方に目を留めて言った。彼方は首を横に振って言った。
「ちがうんだ、つぐみさん。俺…彼方だよ」
「はいぃ?」
 つぐみが素っ頓狂な声をあげた。そこで、彼方は簡単に事情を説明した。
「はぁ…確かに芽依子ちゃんにしては背が高いし、喋り方も彼方ちゃんのものね〜」
 芽依子ってどういう背丈なんだ? と一瞬彼方は思ったが、ある可能性に気がついた。それは、周りが背が高いのではなく、自分が縮んだのではないか、と言う可能性である。
(うーむ…女の子の身体になっているくらいだ。何があってもおかしくはないよな)
 あとでちゃんと身長を計ってみよう、と考えながら、彼方は龍神天守閣の中に入った。つぐみに事情を話し、先に宅配便で送っておいた荷物を出してもらうと、さっそく開けてみた。
「わ、すっごく大きな服…」
 澄乃が感心する。荷物の中身は全て男物で、しかもサイズもLL以上だった。
(良かった…男だったと言うのは幻ではないらしい)
 実は自分は昔から女で、男だったと言う記憶の方こそ間違っているのかと疑いかけていた彼方は、心の底から安堵の溜息をついた。もっとも、すぐに今の事態が解決するわけではない事に気付いて、がっかりしたが。
「本当に男の子だったのね」
 小夜里が言うと、つぐみが頷いた。
「そうねー。十年前はちゃんと男の子だったもの。まだ背丈もあれもちっちゃかったけどねー、なーんて、きゃー! きゃー!」
 そう言いながら畳をばしばしと手で叩いて一人でウケているつぐみ。
(何を言ってるんだ、この人は…)
 彼方の後頭部を大粒の汗が一つ伝った。その内心を読んだのか、つぐみが口に手を当てて思い出話をする。
「一緒にお風呂に入ったこともあるのよー。彼方ちゃんのことは身体の隅々まで知ってるわー」
「な、何を言い出すんですか!」
 彼方が赤面して言うその横で、澄乃が腕を組んで考え込む。
「えぅ〜…彼方ちゃんが男の子だったのは本当なんだね」
 そう、それは間違いのないところだ。問題は、なぜ女の子になってしまったかだ。
「やっぱり、先生に聞きに行った方が良いんじゃないかしら?」
 小夜里が言った。
「うーん…それしかないでしょうかねぇ」
 彼方は迷ったが、結局医者のところに行くのに同意した。自分を誤診したところから言ってもあまり頼れる医者ではなさそうだが、背に腹は代えられない。今度はつぐみも加わり、4人で診療所へ向かう事になった。

 小さな村の診療所、と言う事であまり期待していなかった彼方だが、着いて見るとその建物…橘診療所と言う名前らしい…は、鄙には希な立派な建物だった。
「結構大きな診療所だなぁ」
 彼方が言うと、つぐみが我が事のように嬉しそうな表情で言った。
「そうよ〜。誠史郎さんは名医なんだから〜」
 どうやら、その医者の名前は誠史郎と言うらしい。一体どんな人なんだ、と思いつつ、彼方は3人に連れられて玄関の前に立った。小夜里が代表してブザーを押す。
『…はい、なんでしょうか?』
 インターホンから男性の声が聞こえてきた。
「あ、橘先生。遅くに済みません…」
 小夜里が挨拶しようとすると、突然それを押しのけるようにしてつぐみがインターホンの前に割って入った。
「こんばんは〜♪ 佐伯ですけどぉ〜」
 楽しげにつぐみが挨拶をすると、インターホンの向こうの声も急に明るくなった。
「やぁ、つぐみさん。今ドアを開けますよ♪」
 そして、焦って受話器を戻そうとするのが上手くいかないのか、ガチャガチャと言う音が向こうから聞こえ、そして廊下をスリッパで走るような響きがドアの向こうから聞こえてきた。
 彼方が小夜里の方を見ると、彼女は肩をすくめて見せた。それで、大体の事情は理解できた。おそらく、つぐみと誠史郎は恋愛関係なのだろう。
(とすると…つぐみさんの名医発言も割り引いて考えた方がいいかな…)
 彼方がそう思った時、玄関の扉が開いて、一人の男性が現れた。背はかなり高く、今の彼方からは見上げるような位置に顔があった。なかなか整った顔立ちなのだが、無精ひげとくわえタバコが野性的な雰囲気を漂わせている。
「お待たせしたね、つぐみさん。おや、それに小夜里さんや澄乃ちゃんまでお揃いで…」
 誠史郎はそう言いながら3人に目を留め、最後に彼方の方を向いた。
「やぁ、芽依子。パパのところに帰って来てくれたのかい?」
 言うなり、誠史郎は両手を広げ、彼方の方に向かって駆け寄ってきた。
「!?」
 その姿に危機感を覚えた彼方の手が勝手に動く。走り寄ってくる誠史郎の顔面に対し、彼女のストレートパンチがカウンターで炸裂した。
「ぐほっ!? …芽依子、ナイスパンチだがパパは悲しいぞ」
 顔面からきらきらと光る怪しげな赤い液体を振り撒きつつ、誠史郎は床に倒れた。
「な、なんて事を! 彼方ちゃん、誠史郎さんに謝りなさい!」
 つぐみがいつになく厳しい口調で言った。いつも笑っているように細められている目がつり上がり、本気の怒りを見せている。彼方は慌てて謝った。
「す、すいません…つい…」
 すると、彼方の謝罪の言葉を聞いた誠史郎は鼻血を出したまま、コメツキバッタのように跳ね起きた。
「こ、こんなに素直に謝罪の言葉を発するなんて…君は芽依子じゃないな!?」
 一体芽依子とはどんな人物なのか…今の自分に似ているらしい女性の事が気になってしょうがない彼方だったが、とりあえず回復した誠史郎について診療所へ入った。

 長い時間をかけて、彼方はここに来るまでの事情を説明し終えた。そして、誠史郎にここへ運び込まれた時の自分の事を尋ねた。しかし、帰ってきたのは思いがけない答えだった。
「いや、君を診たのは僕じゃないよ。その頃は隣の村まで往診に行ってたからね…たぶん、診たのは娘の芽依子の方だろう」
 そう言うと、誠史郎はカルテを探し始めた。彼方は聞いてみた。
「あの、芽依子さんってどんな人なんでしょうか?」
「私の娘だが?」
 誠史郎はカルテを探す手を休めずに答えた。
「なかなか医学の心得があるから、助手代わりに使っていてね…お、これだな」
 誠史郎は彼方のカルテを取り出すと、早速クリップボードに挟んで読み始めた。
「うーむ、これは酷い…全身二十箇所以上の骨折に多臓器破裂、致命傷は頭蓋骨陥没骨折に脳挫傷…原形をとどめている部分が少なかったので、人に見えるように包帯で形を整えるのが大変だったと書いてあるなぁ」
「うげ…」
 彼方は顔をしかめた。道理で、目が覚めた時に全身包帯で雁字搦めになっていたはずだ。つぐみたちもちょっと青い顔をしている。しかし、わかっていない人物が一人だけいた。
「彼方ちゃん、それって痛いの?」
 澄乃だった。彼方は頷いた。
「あぁ、どれ一つとっても、何で助かったのかわからんような怪我だな…」
 致命傷は頭へのダメージだと言っているが、それが無くても死んでいたのは確実だ。
「そうなんだ…じゃあ、お百度参りをして良かったよ〜」
 澄乃が言うと、場が凍りついた。
「澄乃…あんた、そんな事してたの?」
 小夜里が言うと、澄乃はニコニコ笑いながら頷いた。
「うん、芽依子に教えてもらったんだよ。お百度参りしたら、願いがかなうって。だから、彼方ちゃんが助かりますようにって、ずっとお祈りしたんだよ〜」
 お百度参り。神社の入り口から祭壇まで行き、お祈りをしてスタート地点に戻る。これを一往復として、百回繰り返すと言う、伝統的な願掛けの一つ。言うは易しだが、行うのは実に困難だ。
「そんな事してくれたのか…ありがとうな、澄乃」
 彼方が素直な感謝の気持ちをこめて澄乃の手を握ると、彼女は嬉しそうに微笑んだ。
「それで…身体の変化の事は何か書いてありますか?」
 本題に戻って彼方が尋ねると、誠史郎はカルテをもう一度読み直して首を横に振った。
「いや…それは無いね」
「そうですか…」
 彼方が肩を落とすと、誠史郎は眼鏡を指でくいっと押し上げ、彼方の顔を見た。
「しかし…これが本当なら、非常に珍しいケースだな。死亡状態から生き返ったのも奇跡だが、生き返ってみたら性別まで変化していたとは…まさに貴重なサンプルだ」
 そこまで言った時、誠史郎の目が怪しく輝き、とんでもないことを言い出した。
「是非とも医学的に調査してみたい。どうかな。ここは一つ、サンプルとして生体解剖を…」
「死にます! 今度こそ死んでしまいます!!」
 全部言い終わるより早く、彼方は猛烈に抗議した。男に戻る前に殺されてはかなわない。
「ははは、冗談だよ」
 誠史郎はそう言ったが、目が笑っていなかった。
「先生…言って良い冗談と悪い冗談がありますよ」
 そこで小夜里がやんわりと誠史郎をたしなめると、さすがに誠史郎も背筋を伸ばして謝った。
「いや、済まない。しかし、彼方くんの存在が非常に希なケースであることは確かだ…今後、身体にどんな変調が訪れるかわからないし、しばらく定期的に検査してみたいと言うのは本当だよ。私の好奇心と言うだけでなく、彼方くん自身の身体の為にもね」
 そう言いながら、誠史郎はくわえていたタバコを灰皿に置いた。その表情は真剣で、医者らしさに溢れたものだった。
「そうねー、それが良いと思うわよー」
「そういう事ならお願いした方が良いんじゃないかしら?」
 真っ先につぐみが賛同し、小夜里も頷いた。彼方はしばらく考え込んだ。
(話としては確かにそうなんだけど、問題はこの人を信頼できるかどうか…)
 誠史郎の軽いノリが心配ではあった。しかし、他に頼れるような医者は無い。
「わかりました…お願いできますか?」
 彼方が頭を下げると、誠史郎は頷いて注射器を取り出した。
「わかった。じゃあ、まず血液検査だけでもしておくよ。その他の精密検査は準備が整ってからね」
 彼方は頷き、腕を差し出した。誠史郎は手際よく患部と針を消毒し、彼方の血を吸い上げた。
「これで良し。結果は2〜3日で出ると思うから」
「お願いします」
 彼方は再び頭を下げた。

 採血が終わると、一行は再び小夜里の車で龍神天守閣へと向かった。
「彼方ちゃん…これからどうするの?」
 じっと成り行きを見守っていた澄乃が久しぶりに口を開いた。
「え? そうだなぁ…この格好じゃ家に帰れないし、検査ができるまで、しばらくこっちにいようとは思ってるけど」
 彼方が答えると、澄乃は思わぬ事を言い出した。
「じゃあ、女の子らしい名前、考えない?」
「え?」
 彼方は思わず怪訝な声をあげた。
「えぅー…だって、彼方って女の子の名前としては変だよ〜」
「そうかなぁ…」
 彼方が首を捻ると、つぐみと小夜里が澄乃の意見に賛成し始めた。
「そうね…ちょっと違和感があるわね」
「昔の男の子の彼方ちゃんを知ってる身としてはねー」
 そう言うと、彼方を除く女三人(彼方も今は女の子だが)はああでもない、こうでもない、と意見を戦わせ始めた。
「ちょ、ちょっと待ってくれよ。俺の意見はどうなるんだ?」
 勝手に改名させられてはたまらない、と口を開いた彼方の顔面に、つぐみの指がびしりと突きつけられた。思わず黙り込む彼方に、つぐみがさらにとんでもないことを言い出す。
「だめよー、女の子が『俺』なんて言っちゃ。ちゃんと、『私』とかにしないとー」
「そ、そこまで変えるんですか!?」
 つぐみの言葉に、彼方は愕然となった。しかし、それに追い討ちをかけるようにつぐみが言葉を続ける。
「そうよー。名門旅館としては、バイトの子が『俺』なんて言ってちゃ、評判が良くないもの〜」
 彼方がつぐみの言葉の意味を理解するまで、たっぷり30秒は掛かった。
「…ば、バイトさせるんですか。こうなっても」
 彼方はかすれたような声で尋ねた。確かに、彼方がここを訪れた目的は、龍神天守閣でのバイトだ。だからと言って…
「もちろんよ〜。最初に予定していたのとは違うけどー、布団の片付けとか、料理運びとか、仕事はいくらでもあるわよー」
 つぐみがにこやかな笑顔で言う。しかし、彼方はその笑顔の向こうに、メリノー種の羊に似た角が生えてコウモリそっくりの翼を生やし、尖った尻尾を持つ怪奇な影を見たような気がした。と言うか、確かに見た。
「あ、悪魔だ…あなたは悪魔だ、つぐみさん…」
 がっくりとくず折れる彼方。その肩を、澄乃が優しく叩いた。
「えぅー、元気出してよ、かなちゃん」
「ありがとう、澄乃…って、今なんて言った?」
 優しげな声に一瞬ほっとしかけた彼方だったが、その言葉の中に聞き捨てならない部分があるのに気付いて、がばっと顔を上げた。
「えっと…だから、元気出してって」
「違う! その後!!」
 彼方が澄乃の肩を揺さぶって言うと、澄乃は目を回しそうな表情で答えた。
「えぅー、落ち着いてよ、かなちゃん〜」
「それだ! そのかなちゃんって何だ!?」
 彼方が叫ぶと、小夜里が運転席から答えた。
「だから、女の子としての名前よ。出雲かな。可愛いじゃない?」
 ニコニコ笑う小夜里。どうやら、彼方がつぐみと話している間にも、雪月母娘で彼方の女の子としての名前を考えていたらしい。それを聞いたつぐみが満面の笑顔で頷いた。
「あら、なかなか良いじゃないー。じゃあ、彼方ちゃんは今からかなちゃんねー」
「勝手に決めるなー! と言うか、俺の意思を無視するなー!!」
「だめだよ、かなちゃん。女の子はちゃんと『私』って言わないといけないよ〜」
 叫ぶ出雲彼方…改め出雲かなと、それを柳に風、ぬかに釘、暖簾に腕押しと聞き流しまくる女性陣。にぎやかな声を響かせつつ、小夜里の軽ワゴンは夜の雪道を龍神天守閣に向かって走っていくのだった。

(つづく)


前の話へ     戻る      次の話へ