カニ市場の一角、海鮮食堂はちょっと気まずい雰囲気に包まれていた。
「いやぁ、このカニ美味いなぁ」
「このホタテもいけるわよ」
…などと、何とか場を盛り上げようとしていた木ノ下一族も、無理を悟ったか無言になっている。
いや、その食いっぷりを見る限り、ただ単に食事に夢中になっているだけかもしれないが、それはさておき。
気まずさの原因は、無言で食事をしているさやかと明彦にあった。他の全員が先ほどの二人の様子を見ていたため、つられて無口になっている。治子も黙って二人の方を見ていた。
(何とかしてやらないと)
治子にとって、二人をフォローしてやれるかどうかは、今後の人生に関わってくる事柄になっていた。後数日のうちに出さなければならない「答え」、それはおぼろげながら彼女の心の中に浮かびつつあったが、明彦とさやかをどうするかで、答えを決めた後の苦労にも差が出てくるはずだ。
(とりあえず、午後もがんばっていきますか)
Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory
Seaside Bomb Girl!〜その少女、不幸につき〜
25th Order 「清算される関係」
カニ市場でお土産を買い、食事を終えた一行は、一旦ホテルに戻ってきた。次の観光地、函館山は夜景で知られる名所であり、つまり夜になってから行かないと面白くない。それまでは休憩時間になっていた。
「カニ美味しかったね」
まずはきっかけを掴もうと、治子は同室のさやかに話し掛けた。
「え? あ…はい」
さやかが頷く。…が、どこか上の空と言った風情である。治子は明るい声で話し掛けた。
「どうしたの? せっかくの旅行なのに元気がないね」
もちろん、さやかが落ち込んでいる理由は、治子にはわかっている。それを敢えて聞いてみると、さやかはぽつりと言葉を漏らした。
「私…自信がないんです」
「自信?」
治子は続きを促すように相槌を打って見せた。その途端、さやかの口調が次第に激したものに変わり始めた。
「だめなんです。私、素直になれなくて…こんなんじゃ明彦に振り向いてもらえない! 勝てる自信がないんです! 治子さんに!!」
さやかも気づいていたのか、と治子は思った。明彦が気になっているらしいもう一人の女性が、他ならぬ治子であると言う事に。
「私、もうどうしていいかわからないんです。明彦が私じゃなく、治子さんを見てると思うと、悔しくて、明彦と冷静に話せないんです。それでいて、治子さんの事は嫌えないんです。どうして…治子さんがもっと嫌な人だったら、楽な気持ちになれたのに」
さやかの言葉は、理不尽で支離滅裂なものになっていた。これは重症だな、と治子は考えた。気持ちを内に溜め込んでしまう傾向の強いさやかだけに、もう内心で荒れ狂うものが抑えきれなくなってきているらしい。
「治子さん…」
涙の浮かんだ眼で、さやかは治子を見上げた。
「治子さんは、明彦の事が好きって言うわけではないんですよね?」
治子は頷いた。その事は、以前にもさやかに明言している。明彦に対しては見所のある後輩として好意を抱いているが、もちろん異性として意識する事はできない。元をたどれば同性なのだから。
すると、さやかはとんでもない事を言い出した。
「だったら…明彦にそう伝えてくれませんか? 明彦が貴女の事をあきらめてくれたら、私は…」
「それはできないよ」
治子は厳しい口調でさやかの言葉を遮った。
「ど、どうしてですか…?」
意外な返事に、さやかは戸惑いを隠せない口調で聞き返してきた。
「仮にそれをやったとして…私にフられたから、って言うんじゃ、それからの神無月君とさやかちゃんの関係は、彼にとっては妥協の産物と言う事になるよ。そんなのって、長続きすると思う?」
言葉に詰まったさやかの顔を見据え、治子は言葉を続けた。
「ただ、神無月君もはっきりと私に何か言ってきたわけじゃないから…さやかちゃんがはっきり告白すれば、彼の気持ちをしっかりと捕まえられると思う。そのためのお手伝いなら喜んでするよ」
言いながら、治子は自分が嫌な人間に見えるだろうな、と思っていた。しかし、これで少しでもさやかが自分を嫌ってくれたら、彼女にとっての励みになるかもしれない。それに、明彦にはどうあっても自発的にさやかを選んでくれねば困るのだ。
「ともかく…他力本願はだめだと思う。欲しいものは自分の手で掴まないとね」
この言葉に、さやかは頷いた。しかし、その表情にはまだ暗いものが貼りついていた。
「自信がないんだったら、私を相手に告白の練習でもしてみたら?」
治子は冗談でそんな事を言ってみた。しかし、意外な事に、さやかは治子の顔を見ると、こくんと頷いた。
「お願いします…」
これには治子の方が逆に焦りを感じた。
「え? あ、あぁ…本当にやるの?」
念のため確認してみたが、さやかはやはりはっきりと頷いた。仕方なく、治子はさやかと向かい合うようにして立った。なんとなく変な感じだ。
「じゃあ、どうぞ」
早く終わらせようと治子が促すと、さやかは緊張と羞恥で顔をピンク色に染めながらも、その言葉を口にした。
「私…あなたの事が好き…」
練習とわかっていても、治子は心臓が高鳴るのを感じた。さやかのような飛び切りの美少女が、この表情でこの言葉を口にするのは、予想以上に破壊力が大きい。
「どうですか?」
さやかが言うと、治子は内心の動揺を悟られないように、努めて落ち着いた口調で答えた。
「そうだね、なかなか良いと思うよ」
「もう少し、言葉を工夫した方が良いでしょうか?」
「いや、ストレートで良いと思うけど…」
そんな会話をしながら、しばらくさやかの告白の練習は続いた。治子に向かって、「あなたが好き」と言う言葉が何回となく浴びせられる。しかし、こうした言葉は、言うのも聞くのも慣れるということが無い。治子はだんだん頭が混乱してきた。
「私…あなたの事が好き…」
十何回目かの告白の時、治子は遂にギブアップした。
「お、OK…それならどんな男の子だって一発で参る事間違い無しだと思う…」
「わかりました。今の感じですね」
さやかは頷くと、治子に頭を下げた。
「すいませんでした、治子さん…変な事ばかり言っちゃって…でも、私、がんばって見ます」
「う、うん。お役に立てて嬉しいよ」
治子が頷くと、さやかは少しぶらぶらしてくると言い残し、部屋を出て行った。残された治子はベッドに座り込み、額に浮かんだ汗をぬぐった。
「ふぅ…疲れた。まぁ、さやかちゃんもやる気を出したようだし…」
告白練習の最後の場面を思い出し、治子は赤面した。ともかく、あれなら期待が持てるだろう。しかし、治子には少し引っかかるところがあった。
「でも、最後の一言…なんか、異常に真に迫っていたような…」
その頃、男子の部屋でも昇と明彦が会話をしていた。
「お前、まだ迷ってるのか?」
昇の言葉に、明彦は無言で頷いた。
「そりゃまぁ…迷うよなぁ。さやかちゃんと治子さんじゃ」
「いや、そうじゃないんだ…」
明彦は昇の言葉を途中で遮った。
「ただ、俺は…俺みたいな優柔不断な奴が、あの二人の事を好きで良いのかと思って…」
「お前、いまさらそれを言うかね」
昇は呆れたような口調で言い、少し考えて付け加えた。
「まぁ、それだけ本気なんだろうけどさ…でも、お前の事を好きなのはさやかちゃんの方だぜ。応えてやった方が良いんじゃないのか?」
明彦はすぐには答えなかったが、やがて昇の方を向くと感心した口調で言った。
「そうだな…その点、お前は立派だよな。ちゃんとナナちゃんを選んだんだから」
「お、おう」
昇は赤面した。誰にも話してはいないが、彼はこの旅行に出る数日前、ナナの告白を受け入れて恋人同士となっていた。
「だけど、俺にはその真似はできそうも無いよ。少し考えさせてくれ」
明彦の言葉に、昇は思わず頷いていた。これはもう、煽ってどうにかなるものではない、と悟ったのだ。それに、手の届く幸せと届かない憧れの間で悩んだのは、彼も一緒である。
(ごめん、治子さん、叔母さん。こいつは俺には止められないよ)
黙り込む明彦を見ながら昇は心の中で呟いた。
夕食を終え、一行は再び貴子のバスで函館山へと向かった。麓の駐車場でバスからロープウェイに乗り換え、頂上の展望台を目指す。その車窓から見える夜景に、既に歓声が上がっていた。
「綺麗ですね、お姉さま」
美春が治子に寄り添ってきてうっとりした声で呟く。
「そうだね。でも、頂上についたらもっとすごいんじゃないかな?」
治子も初めて見る函館の夜景に感心しながら頷く。果たして、ロープウェイが頂上駅に到着し、展望台へ出てみると、それは事実だった。
「うわぁ…」
全員が一様に感嘆の声を漏らす。眼下には函館の市街地が広がっていた。あまり標高が高くないため、市街地を走る車や路面電車の灯りもはっきりとわかる。街が生きていることを感じさせてくれる眺めだ。
そして、街よりもすごかったのは、海の様子だ。この時期はイカ漁が盛んなため、沖合いには集魚灯を点けた無数の漁船が群れている。まるで、海の上に幾つもの街が出現したかのような光景だった。
「凄いな…百万ドルの夜景ってのは伊達じゃない」
治子は頷いたが、いつまでも感心してばかりはいられない。まずは隣にいる美春、次いで周囲の人々にも目配せする。それに頷き、明彦とさやかを除く一行は次々と思い思いの物陰に散っていった。明彦とさやかを覗くために。
残された二人は、いつのまにか視界にお互いしかいなくなっている事に気づいていた。しかし、寄り添うと言うところまではいかない。2メートルくらいの距離を置いていた。
「もどかしいわね…」
朱美が呟いた時、さやかの声が聞こえてきた。一行は慌てて押し黙り、二人の会話に耳を傾けた。
「明彦…初めて話した時の事、覚えてる?」
「ああ、俺が本店のバイトに入った時だよな」
Piaキャロットで働き始めた時期は、実は少しさやかの方が早い。それまではただの同級生同士でしかなかった二人が友人になったのは、同じ職場になってからだ。
「まるで初対面みたいな振りしてたけど、私、明彦の事をずっと前から知ってた」
さやかが昔の事を話し始めた。彼女が始めて明彦を見たのは、彼が部活をしていた頃の話だ。学校のバスケットボール部ではレギュラーとして活躍していた明彦。決してエースではなかったが、その姿はさやかの心になぜか強い印象を残した。
「それからは、良くバスケ部の様子を見に行ったの。あ、今日も頑張ってるんだなって…」
さやかがそこまで話すと、明彦が呟くように言った。
「知ってたよ」
「え?」
戸惑うさやかに、明彦が話を続ける。
「知ってたんだ。高井が良く部活を見に来てたのは…あ、今日もあの娘が見に来てるなって気づくと、妙に張り切ったりしてさ」
明彦は苦笑し、さやかに質問した。
「最後の大会の後も…いたよな?」
「うん…フリースローしてたよね」
3年生となり、引退前の最後の試合を終えた明彦は、一人コートとの別れを惜しむように、そして結果を残せなかった、不完全燃焼な思いを吐き出すようにフリースローを打ちつづけていた。さやかはその時も見ていたのだ。
「気づいてたんだ…」
さやかの言葉に明彦は頷く。
「ああ。でも、声をかける勇気がなかったんだ。ずっと気になってたのにな…だから、Piaキャロットで働いてる高井を見たときに、これがチャンスだと思ったよ」
「それは…私も一緒よ。ずっと明彦の事が気になってたのに、結局話ができなくて…だから、明彦がPiaキャロットへ来た時は、凄く嬉しかった」
さやかが言うと、一時二人の間に沈黙が落ちた。逆に、それまで固唾を飲んで見守っていた他の店員一行の間に囁きが漏れ始める。
「…なんというか…もどかしさもあそこまで行くと筋金入りですね」
美春が言うと、夏姫もそれに賛同した。
「そうね…今時珍しい純情カップルだわ」
「でもまぁ、これで両想いな事は事ははっきりしてるわけですし…上手く行きそうですね」
治子が言うと、周りの一同がうんうんと頷く。確かに、今までの会話は告白の前振りのように聞こえたし、いよいよ決定的瞬間が近づいてきている事を誰も疑わなかった。しかし、次の瞬間、話は思わぬ方向に向かって転がり始めていた。
「でも…最近わからなくなっちゃったの。明彦にとって私はなんだろうって」
さやかの言葉に、その場の空気が凍りついた。
「四号店に来たら、明彦は私じゃなくて、違う人の事を見てた…」
一同の視線が治子に降り注ぐ。思わずたじろぐ治子だったが、もちろんそんな影のやり取りに気づくことなく、明彦が声をあげた。
「そ、それは…」
「どうして言い訳しようとするの?」
その言葉をさやかが封じる。
「それは…明彦の気持ちもわかるよ。治子さんは美人だし、優しいし、仕事ができるし、惹かれてもおかしくない人だと思う」
さやかの言葉がつむがれるたびに、治子は心臓に杭を打たれるような感覚を覚えて苦しんでいた。しかし、さやかの独白はさらに続く。
「でも…一番ショックだったのは、治子さんになら負けてもしょうがないかなって思っちゃったこと」
「え?」
「もし…本当に明彦の事が好きなんだったら、そんな事思わない。どんな人が相手でも、絶対に負けたりしないって思うはず。それなのに、治子さんになら…って思った瞬間、私が明彦の事を思う気持ちは、そんな物だったのかって、自分に愕然としたの」
そう話しつづけるさやかの顔色は、夜目にもわかるほど白くなっていた。
(そんな馬鹿な…こんな展開ありか!?)
物陰で治子は頭を抱えまくっていた。昼間までは確かにさやかはまだ明彦の事を諦めていなかったはず。それなのに、これではまるで別れ話だ。同時に、悪夢の再来を予感して冷や汗が身体中を伝う。
「だから、私は明彦に想ってもらえるような資格なんて、無いのかも知れない。私はただ単に、恋をしてる、って思い込んで、その事に酔ってたのかも…」
さやかがそこまで言った時、今度は明彦が話を始めた。
「高井が自分を責める事はないさ」
そう言って、明彦はさやかの顔を見つめた。
「俺はヘルプの話を最初に持ち出された時、断ろうと思ったんだ。でも受けた。何でだと思う?」
その質問に、さやかは首を横に振った。
「俺は…高井に行かないでって止めて欲しかったんだ」
明彦が答えを言うと、さやかは大きく目を見開いた。
「だけど、そんなのは俺の思い上がりさ。ずっと怖くて気持ちを打ち明けられなかった俺に、高井に引き止めてもらえるような資格はない。本当に高井の事が好きだったんなら、ヘルプの話を迷わず断ればよかったんだ」
そこまで言うと、明彦はそれ以上さやかと顔を合わせるのが辛い、とでも言うように、視線を街のほうへ向けた。
「治子さんの事もそうかもしれない。こっちへ来て、治子さんに出会った時、すごく気になる人だなって思った。でも、その時さっきの高井と同じように感じたんだ。俺はそんなに気持ちがふらふらしている人間なのか、ってね。そして、高井が四号店に来た時、嬉しいと思う半面で、やっぱり自分はいい加減な奴だと思った」
自嘲の言葉を吐きつづける明彦。そんな彼を労わるように、さやかは声をかけた。
「もう良いよ、明彦」
言葉を止め、再びさやかの方を向いた明彦に、彼女は微笑を向けた。
「結局…私たちは、お互いの本当の気持ちを確かめないまま、意地を張ってたんだね」
「そうだな」
明彦が自分の言葉に頷くのに応え、さやかは言った。
「みんなが私たちの事を付き合ってると思ってたし、私たちもそうなりたいって思ってたけど、お互いに勇気がなかったのね」
「ああ。だから、二人とも気持ちが揺れて、不安で仕方なかったんだな」
「本当の自分を見せずに…仮面を被って相手に接して、その仮面を見て相手のことが好きだと思い込もうとしてたのね」
二人はまた黙り込み、夜景を眺めていた。しばらくして、明彦が口を開いた
「…でも、考えようによっては、良かったかもしれないな。本当の相手を知らないまま、安易に付き合う事を選んでいたら…」
「どこかで、もっと酷い対立をして、嫌な思いをしたかもね」
さやかは頷き、突然思いもよらない事を言い出した。
「あのね、明彦」
「ん?」
「本当は、私も、今他に気になってる人がいるの」
「…え?」
突然の告白に、明彦が目を丸くする。同時に、周囲で見ていたPiaキャロット一行も口をあんぐりと開けていた。それはまさに青天の霹靂というべき衝撃的な告白だった。
「高井、それって…」
「誰かは秘密よ。でも、それが本当の私の気持ち」
そう言うと、さやかは明彦から少し離れた。
「明彦が嘘はつかないって言ってくれたから、私も隠さない。本当の私で勝負するわ」
妙に吹っ切れたような笑顔で言うと、さやかは土産物屋の列の方へ小走りに向かって行った。その途中でくるりと振り返り、にっこりと笑う。
「負けないわよ、明彦。そう簡単には渡さないんだから」
「え? あ、あぁ…」
あっけにとられた表情で見送った明彦は、顎に手を当てて考え込んだ。
「な、なんだろう…まだ脈ありってことなのか? わからん…」
明彦の困惑は、Piaキャロット一行の困惑でもあった。
「だ、誰なのかしらね、さやかちゃんの気になるもう一人って」
朱美が困った顔つきで言うと、貴子がありそうな可能性を口にした。
「本店の人じゃないかしらね。まさかコイツとは思えないし」
そう言って、昇の肩をポンポンと叩く。
「ひ、ひでえよ、叔母さん」
昇が情けない声をあげたが、それは無視された。一同考え込んだが、心当たりはない。
「まぁ、誰でも良いでしょう。今高井さんの目の前にいるのは神無月君だけなのですから、やることは変わりません」
夏姫が話を打ち切るように言った。
「ともかく、旅行日程はまだあります。明日は観光牧場ですが、そこでも引き続き作戦を続行しましょう。良いですね?」
夏姫の言葉に、全員がはーい、と返事して、とりあえず今夜の作戦は終了した。それにしても、何時の間にかノリノリな夏姫だった。
予定の時間が過ぎ、一行はロープウェイで山を降りて宿へ帰った。半日ではあったが、なかなか中身の濃い旅程だった。身体の芯に疲れが残っているような気がして、治子はお風呂に入ることにした。
「おお〜…って、見慣れてるか…」
宿の風呂は温泉で露天風呂だった。寮でも毎日入っているので、新鮮味は無い。しかし、入ってみるとさらさらした感触の寮の温泉とは違い、少し滑るような感触のお湯だった。
「へぇ、これはなかなか…」
治子がお湯を腕に絡ませて感触を楽しんでいると、突然声が掛けられた。
「なんでも、ここのお湯には美肌効果があるそうですよ」
「えっ!? さ、さやかちゃん? 何時からそこにいたの?」
治子は驚いて湯船の中で転びそうになった。何時の間にか、すぐそばにさやかの姿があったのだ。
「ずっとさっきからいましたよ?」
さやかは背後の岩の方を指差しながら答えた。どうやら、岩陰にいたのと、湯気が濃いのとで見逃していたらしい。治子はまだ高鳴っている心臓を抑えるように胸に手を当てながら体制を整えた。
「そ、そう…」
相槌を打ちながら治子はさやかを見た。函館山の山頂で見たときのような、なんだか清々しい、吹っ切れた表情だ。あのときの笑顔は強がりなどではなかったらしい。
「なんか、良い事でもあったの?」
その笑顔の秘密を探るべく、治子は声を掛けた。すると、さやかはこくりと頷いた。
「ええ。治子さんに勝つ必要なんて無いって気づいたんです」
「…え?」
背筋に妙な寒気を感じる治子。それに構わず、さやかはゆっくりと治子に寄り添い、身体をくっつけた。さやかのすべすべした肌の感触が治子を戸惑わせる。
「さ、さやかちゃん? 何を?」
上ずった声で問い掛ける治子に応えるように、さやかはますますその身を治子に擦り付けてきた。
「私は…ずっと治子さんに勝ちたいと思ってました。でも、本当は違うんです。私は…治子さんに憧れてました」
治子はびしり、と彼女の頭上で何かがひび割れるような音を聞いたと思った。
「それは普通のことじゃないから…私は明彦が好きなんだと、治子さんはライバルなんだと思い込むことで自分をごまかしてたんです。でも、今は言えます」
その瞬間、治子は昼間、さやかの告白の練習に付き合ったときに感じた、あの違和感の正体を悟った。さやかの相手への呼びかけは…「あなた」は「貴方」ではなく…
「私は…貴女の事が好きです」
そう、こんな字だったのだと。
「…あんですとっ!?」
治子は絶叫した。しかし、さやかの告白はまだ続いていた。
「明彦は私に振り向きそうには無いから…それなら、私ももう一つの気持ちに正直になろうって決めました。通じなくても良いからはっきり言います」
「ちょ、ちょっと待って。落ち着いて、さやかちゃん。確かに神無月君の態度はアレだけど」
治子はさやかがヤケでも起こしたのではないかと思い、慌てて止めようとしたが、さやかの告白は止まらなかった。
「治子さんには美春さんや朱美さんもいるのはわかってますし、明彦もまだ治子さんのことを諦めてません。でも、私も選択肢の一つには数えておいてくださいね?」
さやかはそう言うと、ゆっくりと立ち上がり、更衣室へ消えていった。それを見送りながら、治子は自分の未来に取り返しのつかない亀裂が走っており、今まさにそれが割れたのだと悟っていた。
(つづく)
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