入浴の後、治子は部屋に戻らず、ホテルのロビーでじっと考え事をしていた。
(はぁ…まさか、あのさやかちゃんまで…どうしたら良いんだ…?)
お風呂での衝撃の告白に、治子の頭は混乱したまま元に戻らなかった。同じ事がぐるぐると頭の中を回転しているだけで、何も有効な考えが浮かんでこない。あと数日…下手をすれば、今この瞬間にも降りかかってくるかもしれない「天罰」も、彼女の焦りを増幅していた。
幾度目になるかわからないため息をついた時、治子に呼びかけてくる声があった。
「治子さん…? こんな夜中に何をしてるんですか?」
「…織江ちゃん?」
治子は顔を上げた。自動販売機の淡い光に照らされて、織江の心配そうな顔が浮かび上がっている。
「なんでもないよ。ちょっと考え事をしてただけで」
治子はそう答えたが、織江は意外と敏感だった。治子の嘘を即座に見抜く。
「治子さん…それは、ボクは子供で頼りにならないかもしれないけど、治子さんが悩み事を抱えているくらいはわかりますよ」
そう言うと、織江は治子の座っているソファの横に腰掛けた。話を聞く構えのようだ。治子は少し迷ったが、自分との関係を伏せて、さやかは明彦以外の人を選んだのだと言ってみた。
「え…本当なんですか?」
驚く織江に、治子は無言で頷いて見せた。すると、織江は急に真剣な表情になり、治子の顔を見つめてきた。
「な、なに?」
たじろぐ治子に、織江は用件を切り出した。それは、治子にとってある意味最後の砦とも言える事だった。
Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory
Seaside Bomb Girl!〜その少女、不幸につき〜
Last Order 「これが私の生きる道」
初秋の涼しい風が牧草をそよがせ、さらさらと言う音を牧場いっぱいに響かせている。社員旅行二日目、Piaキャロット一行が訪れたのは、函館近郊の観光牧場だった。
「私、ここに来るのが一番楽しみだったんですぅ」
ナナが目をきらきらさせながら言う。牧草地には牛や馬、羊と言った定番の家畜だけではなく、アヒルの大群やブタなどものびのびと歩き回っていた。動物好きの彼女にはたまらない光景である。
「奇遇だなぁ…俺もだよ」
昇が言うと、恋人と同じ意見であることに、ナナの頬がかっと熱くなった。もっとも、昇にとっては動物よりも、お昼のジンギスカンの方が楽しみだったりする事は言うまでもない。
早速近くに寄ってきたポニーを可愛がりに行くナナと、それに付いていく昇。その光景を見ながら、治子は織江に声をかけた。
「それじゃあ、ああなるように頑張ってね」
「は、はい」
織江は頷くと、柵にもたれている明彦の方へ向かっていき、何事か話し始めた。
「上手く行くと良いけど…」
「あとは織江ちゃん次第ね」
治子の独り言に貴子が答えた。
「それにしても…織江ちゃんが神無月君のことがねぇ…この貴子さんの目をもってしても見抜けなかったわ」
「無理もないですよ。子供の頃、数ヶ月だけの付き合いだったそうですから」
嘆息する貴子に答えながらも、治子は昨夜の織江の話を思い返していた。
父親が転勤族で、あちこちを転々としていた織江。そうした生活の中で、彼女は数ヶ月の間、明彦の近所に住んでいたのだと言う。二人が友達になり、一緒に遊ぶ中で、明彦が織江をかばって怪我をした事件があり、その頃から織江は明彦の事を一途に想い続けていたらしい。
だから、織江は四号店に勤めるようになって、すぐに明彦の事がわかったと言う。言われてみれば、自己紹介のときも明彦を見て複雑な表情をしていたし、今回のさやかと明彦ラブラブ作戦(失敗)の間もあまり乗り気には見えなかった。
「見抜けなかったと言えば…さやかちゃんの事もそうね。まぁ、ファーストキスの相手だし、敵愾心が相手への尊敬に転じ、さらに愛情に変わると言うのも無くは無いパターンだけど」
「…それは言わないでくださいよ」
治子は落ち込んだ声を出した。治子にしてみれば、いつかは結ばれる運命だった二人を引き裂いたようで、寝覚めが悪い事この上ない。
だからこそ、せめて明彦と織江の仲くらいはちゃんとフォローしてやりたかった。織江なら、自分とさやかの両方から拒絶された明彦が傷ついたとしても、それを支えていけるだろう。
(問題は…自分の周りの事だよな)
さやか、美春、朱美、貴子。この4人から寄せられている想いに、どう応えていくべきなのか。その答えはおぼろげに見えているような気がするのだが、果たしてそれが正解なのか。悩む治子に、貴子が声をかける。
「そんなに悩まないの、治子ちゃん。治子ちゃんが楽しくなかったら、自分も楽しめないって言う人がここにはたくさんいるんだからね」
その言葉に、治子はぎこちないながらも笑みを見せる。貴子の言葉には、根拠は無いが人を力づける響きがあった。
そう、玉蘭だって、何の前触れも無しにいきなり天罰を与えるとは思えない。最後にまた姿を現すだろう。その時に答えを言えばいい。それが間違っていたとして…恐ろしい天罰があたったとしても、痛いのは自分だけだ。
そう思うと、ちょっとだけ気が楽になり、治子は遠くで見守っているさやかや美春たちの方へ歩き出した。例え天罰があたっても、その前に楽しい思い出を残しておくために。
治子はさやか、美春、貴子と4人で牧場のあちこちを見て回った。チーズ作りを見学したり、羊の毛刈りを体験したりしていると、少し喉が渇いてきた。
「あ、お姉さま、絞りたてのミルクらしいですよ」
そんな治子の気分を察したのか、美春が少し離れたところにある建物を指差す。そこには「牛の乳搾り体験 絞りたてミルクをその場で」と書かれた幟が立っていた。
「へぇ…面白そうね」
「行ってみましょうよ、治子さん」
貴子とさやかも興味を示し、治子にも異存は無かった。さっそくその建物に入ると、そこには先客がいた。
「あれ? みんな」
「あれ、朱美さん。それに夏姫さんも」
治子は声をかけた。そこには、牛の乳絞りをしている夏姫と、その横で見守る朱美がいた。
「あら…じゃあ、みんなの分まで搾らないといけないかしら」
夏姫が言う。見ると、彼女はなかなか器用な手つきでミルクを搾っていた。白い生牛乳が勢い良くバケツに迸っている。
「夏姫さん、上手ですねぇ」
治子が誉めると、貴子がいらん茶々を入れた。
「自分でもそうやって搾って大きくしたのかしらねぇ?」
一瞬、貴子と夏姫以外の全員が、危険を感じて後ずさった。以前の夏姫なら、その一言に瞬時に沸騰していた事だろう。しかし、今の夏姫は余裕たっぷりだった。
「今は、自分でやらなくても良いですから」
びし、と空気の凍る音がした。まさか、夏姫がそういう切り返しをするとは思わなかっただけに、全員がリアクションに困る。その間に夏姫は順調にミルク絞りを続け、6人分を取って係の人に手渡した。搾りたてとは言え、さすがに生の牛乳をそのまま飲むのは、お腹を壊す危険がある。まずは殺菌してからだ。
数分後、熱殺菌を終えた、かすかに温もりの残る牛乳を入れたコップが6人に渡された。市販のパック入りと違って、少しトロッとしている。
「これが本当の牛乳ですよ。さぁ、飲んでみてください」
係の人に言われ、治子はコップに口をつけた。濃厚な味だ。
「あ、美味しい…」
思わず感嘆の声が漏れるが、もっと感動していたのは朱美だった。
「はぁ…凄いわ。やっぱりミルクは濃いのが一番ね」
顔を赤く染め、うっとりした口調でそんなことを言う彼女に、周囲の人間全員がなぜか顔を赤く染める。
「朱美さん…大声でそういう事を言うのはどうかと思いますが…」
さやかが苦言を呈したが、朱美は「何が?」と言う感じで気にも留めず、お代わりを頼んでいた。
(そういえば、朱美さんってお酒飲むときもミルクベースのカクテルが多かったなぁ…)
治子は前に一度一緒に飲みに行った時の事を思い出して、思わず苦笑した。朱美はさらに三杯目を頼もうとしていた。
食事が終わって午後。一行は乗馬を楽しむ事になった。治子も馬を借りようかと思ったが、希望者が多いので後回しにする事にした。ベンチに座って様子を見ていると、向こうからやはり馬に乗った美春がやってくるのが見えた。
「あ、楽しいですよ、お姉さまー…って、ちょっと言う事聞いてよぉ〜! 私はお姉さまのところに行きたいのに〜!!」
急に方向を変えた美春の声が遠ざかっていく。馬にも個性がいろいろあるが、どうやら、美春の馬はあまり素直な性格ではないらしい。遠くまで行って立ち止まり、草を食べ始めた馬に文句をいう美春の姿に苦笑しながら、治子は辺りを見回した。
昇はナナを膝の間に乗せ、二人乗りを楽しんでいる。明彦は織江の馬と並んで、何か話をしながら歩いていた。表情は良く見えないが、なかなか楽しそうに見える。食事の間も、明彦と織江は一緒だった。
(上手く行く…のかな?)
治子がそう思ったとき、視界の端にさやかの姿が入った。彼女も明彦と織江のほうを見ている。その顔には、ホッとしたような表情が浮かんでいた。その表情の意味を図りかねて治子が首をかしげると、さやかも治子の存在に気がついたのか、彼女の方から近づいて話し掛けてきた。
「織江ちゃん…明彦の事が好きなんですね」
「そうだったらしいね」
治子は答えた。その事をどう思っているのか、さやかに聞いてみたくなったが、どう話を切り出そうかな、と考えていると、さやかが先に話し始めた。
「明彦の奴…織江ちゃんまで私みたいな気持ちにさせたら、承知しないんだから」
これはまた微妙な発言だな、と治子は思った。さやかは本当に明彦の事を諦めてしまったのだろうか?
「…まぁ、大丈夫なんじゃないかな。それに、女の子を泣かしているという点では、私の方が…」
治子が言いかけたその瞬間だった。
「「きゃああああぁぁぁぁっっ!」」
突然さやかが悲鳴をあげ、織江のそれも重なった。何事かと治子が明彦たちの方を見ると、明彦の馬が前足を高々と上げて竿立ちになっていた。
「危ない!?」
明彦が振り落とされそうになったのを見て、治子は思わず叫んでいた。明彦は何とか馬具にしがみついて落下を免れたが、ホッとしたのも束の間、斜めに傾いた不自然な体勢でしがみついている明彦を乗せたまま、馬は暴走を始めた。
「くっ…!」
治子は辺りを見回した。すると、近くの建物の前に四輪バギーが停めてあるのが見えた。この牧場の備品のようだが、治子は迷わずそのバギーに駆け寄り、エンジンを掛けると、暴走している明彦の馬を猛然と追った。幸い、明彦の馬は暴走していてもまっすぐ走っておらず、追いつくのは簡単だった。
「神無月っ!!」
横に並んだ治子が呼びかけると、必死に馬にしがみついていた明彦が顔を上げ、彼女の方を見た。そこで、治子はさらに呼びかける。
「じっとしてろよ! 今、反対側から引っ張る!!」
頷く明彦。治子は一度馬の後ろに回りこみ、明彦がずり落ちている反対側に回った。彼の足が辛うじて鞍に引っかかっているのを確認し、治子は手を伸ばした。しかし、片手でバギーを操作するのは難しく、そう簡単には掴めない。二、三度と手が空を切ったが、何度目かの挑戦で、遂に治子は明彦の足を掴んだ。
「引っ張るぞ! せーのっ!!」
明彦の返事を待たず、治子は力を込めて彼の脚を思い切り引っ張った。同時に、明彦も腕に力を込めて手綱を掴み、身体を引っ張りあげる。身体が少しずつ持ち上がっていき、何とか体勢を立て直した明彦は、必死に手綱を引いて馬を制御しようとした。それを感じたのか、暴走していた馬が落ち着きを取り戻していく。
ホッとした治子だったが、次の瞬間、明彦が切迫した叫びを挙げた。
「は、治子さん危ない!! 前、前っ!!」
慌てて前を向いた治子の目に映ったのは、牧場の柵だった。ブレーキもハンドル操作も間に合わず、バギーが柵に突っ込む。全身を貫くようなショックと共に、彼女はバギーから投げ出されていた。
「…!」
「……!!」
宙を飛びながら、治子の目には明彦や、後を追ってきた他のPiaキャロット店員たちが、何かを叫んでいるのが見えた。しかし、それが何と言っているのかを知覚する前に、彼女の身体は地面に叩きつけられた。
「…ん?」
治子は目を覚ました。目の前が白い。何度か瞬きをしてみると、視界がはっきりしてきて、そこがどうやら病室のような場所らしい、と言うことがわかった。
「…なんで、こんな所に…?」
どうも記憶が混乱して思い出せない。その時、病室の扉が開いた。
「治子さん!!」「お姉さま!!」「治子ちゃん!!」
口々に叫びながら、Piaキャロット一行が部屋に入ってくる。彼らは治子が目を覚ましているのを見て、泣きそうな、あるいは嬉しくてたまらなさそうな笑顔を浮かべていた。
「あっ…良かった、お姉さま! 目を覚ましたんですね!?」
その中で、抜け駆けして治子に抱きつこうとした美春が、横からひょいと伸びた手に阻止される。その手の主…医者はベッド脇の椅子に腰掛け、治子に尋ねた。
「意識が戻りましたか。私の言っている事がわかりますか?」
治子は頷いた。
「よろしい。では次は…」
医者はいくつかの簡単な質問をし、それが終わると笑顔になった。
「どうやら、頭を打った後遺症などは無いようですね。貴女はバギーで事故を起こしたのですが、覚えていますか?」
そういわれた途端に、治子は目を覚ます直前の記憶を取り戻した。医者に頷いてみせ、視線を背後の同僚たちに向ける。
「えっと…今はいつですか?」
「そんなに時間は経ってないわ。もうすぐ夜の八時ね」
夏姫が答える。半日くらい気を失っていた事になる。どうやら、たいした怪我ではないようだ。たぶん、下が柔らかい牧草地だったので、ショックが少なかったのだろう。
「神無月君はどうなった?」
すると、美春と朱美は不愉快そうな表情になり、そっぽを向いた。
「彼なら、治子ちゃんに合わす顔が無いって言って…ここのロビーで待ってるわ」
答えたのは貴子だった。それはまぁ、助けてくれた相手が事故ったのでは、気まずくてとても顔を出す気になれないに違いない。
「そっか…」
治子は呟くように答えて天井の方を向いた。
「気にしなくて良いのになぁ…ねぇ、織江ちゃん?」
「え?」
声をかけられたことが意外だったらしく、織江が目をぱちくりさせる。治子はそんな彼女に苦笑しながら頼み事をした。
「悪いけど、神無月君呼んで来てくれないかな? どうしても話があるって」
「は、はい」
織江が慌てて出て行く。その間に、治子は一同を見渡した。
「悪いけど、神無月君と話があるので、彼が来たら席を外してもらえないかな。先生、良いですか?」
「ええ、あまり長くなければ構いませんよ」
医師が頷く。一行のうち、美春などはあからさまに不満そうな表情になったが、貴子や夏姫に促されて、仕方なく出て行った。それから数分して、部屋のドアがノックされた。
「どうぞ」
治子が言うと、強張った顔つきの明彦が入ってきた。後ろにいる織江がドアを閉めようとしているのを見て、治子はそれを止めた。
「あ、織江ちゃんもいてくれないかな?」
「ボクもですか?」
織江は不思議そうな表情になったが、頷くと明彦に続いて病室に入ってきた。治子が話をしようと口を開きかけた瞬間、明彦が床に突っ伏すように膝をついた。
「は、治子さん…お、俺…すいませんでしたっ!!」
叫んで、身体をがくがくと震わせる明彦。よほど申し訳なく思っているらしいが、別に治子は重傷を負ったわけではない。
「あー…気にしないで。私も気にしてないから。それだと話ができないから、まずは落ち着いて」
治子が数回そうやってなだめると、ようやく明彦はベッド傍のパイプ椅子に腰掛けた。織江はその横に立っている。
「ま、神無月君が無事でよかったよ」
治子が言うと、明彦は青い顔で首を横に振った。
「そんな…俺が怪我するべきだったんです。助けてくれた治子さんに怪我をさせて…俺は…」
またしても謝罪ラッシュに突入しそうになる明彦。治子はその機先を制した。
「やめやめ。私は別に君に恩を売ろうとして助けたんじゃないぞ。そうするのが当然の事だから…神無月君だって昔はそうしたらしいじゃない。人をかばってわき腹に大怪我したとか」
その言葉を聞いた途端、織江は驚いた表情になり、明彦は訳がわからない、と言う様子でで尋ねた。
「なんで、治子さんが俺の傷の事を知ってるんですか?」
「織江ちゃんに聞いた」
答えを聞いた明彦が不思議そうに織江を見る。治子もまた、織江の顔を見ると、そっと目配せした。それに勇気を得たように、織江が話し始める。
「あ、あのさ、明彦…ボク…明彦がボクをかばってその怪我をした時から…ずっと…」
「…まさか、織江って…おーちゃん!?」
明彦の顔に驚愕の色が浮かぶ。彼も思い出したのだ。目の前の少女に、10年以上前に出会っていたことを。
「覚えててくれたんだ…嬉しいよ」
織江が目に涙を浮かべる。
「あれからボクはすぐ引っ越しちゃったけど…もう一度明彦に会って謝りたかったんだ。だから、お店に入ったときに明彦を見て凄くビックリしたの。そんな偶然あるわけ無いって…でも、今なら言えるよ。ありがとう。そして、ごめんなさい、明彦」
信じられない再会に戸惑う明彦だったが、織江の謝罪には首を横に振った。
「いや…良いさ。後悔なんてしてない。織江が無事で本当に良かった」
明彦がそう言うと、治子はくすりと笑った。二人が彼女を注目すると、治子は言い聞かせるように言葉を口にした。
「ほら、神無月君だってわかってるんじゃないか。助けた方は当然と思ってやってるんだから、私の事は気にすることは無いよ」
「いや、でも…」
なおも逡巡する明彦。その時、突然扉が開かれた。驚いてそちらを見た室内の3人の視界に、さやかの姿が飛び込んできた。
「じれったいわねぇ。治子さんが気にするな、って言ってるんだから気にしなければ良いのに」
そう言いながらずかずかと部屋に入ってくるさやか。唖然としている明彦の目の前で、さやかはいきなり織江の手を取って言った。
「天野さん、こんな煮え切らないヤツだけど、明彦のことよろしくね」
「え? は、はい…って、い、良いの? さやかちゃん。だって、さやかちゃん明彦のこと…」
思わず返事をしてから、戸惑ったように言う織江。すると、さやかは頷いて、いきなり治子の腕を手に取った。
「良いの。私は…別の愛に生きることにしたんだから!」
その行動と言葉の意味を織江と明彦が理解するまで、しばらく時間がかかった。
『え、え、ええ〜〜〜〜〜〜っ!?』
二人だけでなく、事情を知らなかった治子と貴子以外の全員(結局覗いていた)が大声をあげる。その騒ぎは、激怒した当直の看護婦さんがすっ飛んでくるまで続いた。
結局、治子は今夜は病室に泊まっていき、明日の朝、一行と合流して東京へ帰る事になった。みんなが帰ってしまった後の病室で、治子は部屋のドアを見ると、そっと声をかけた。
「入って来たら?」
それに応えるように、ドアがそっと開く。入って来たのは玉蘭だった。
「気づいていたあるか」
「なんとなく」
治子がそう答えると、玉蘭はフッと笑った。
「さて、どうやら覚悟は決めたらしいあるな。聞かせてもらうある。あなたの気持ちを」
玉蘭の言葉に頷き、治子は口を開いた。
「最初は、いなくなろうと思ってたんだ。こんな優柔不断で、女になっても見境なしの俺に、人を好きでいる資格も、好きになってもらう価値もない。だから、みんなの前から姿を消そうと思ってた」
治子は淡々とした口調で言った。玉蘭は黙って聞いている。
「でも、それもなんか違うような気がしたんだ。ただ逃げているだけだから。自分のやった事の責任を、果たしてないような気がするから」
「なら、どうするあるか?」
玉蘭は尋ねた。治子はベッドから起き上がり、玉蘭と向かい合うと、自分の胸に手を当てた。
「俺は…もう元の姿に…男に戻れなくても良い」
治子はきっぱりと言い切った。
「日野森やつかさちゃんを傷つけた事、四号店のみんなの人生を狂わせた事。その事から逃げ出さないために、俺は甘んじて天罰を受ける。女の子の姿になるより酷い事でも構わない。その代わり、一生かけてみんなを見守る。それが俺の答えだ!」
それが、治子の出した答えだった。玉蘭はしばらく黙っていたが、やがてふうっと長いため息をついた。
「あなた…アホだバカだと思っていたけど…本物あるな」
玉蘭は笑った。
「良いある。その覚悟なら、天罰を受けてもらうあるよ。一生付きまとうような強力な奴をお見舞いしてやるから、せいぜい苦労するある」
玉蘭の手の先に、治子を女の子に変えたときと同じような…しかし、遥かに強い光が点る。眩しさに目を覆った瞬間、気合の声と共にその光が治子の身体を直撃した。
「うわああああああああぁぁぁぁぁぁぁっっっ!?」
全身を凄まじい苦痛が苛み…治子の意識は闇に落ちた。
それから一週間後…
治子は故郷へ帰る電車の車中にいた。本部からの辞令が届き、四号店へのヘルプの終了を告げられたのである。
「…なんか、何ともないよなぁ…」
治子は自分の手を見つめた。すべすべした、白魚のような手。玉蘭の一撃を受けた時は、次に目覚めた時はあの世に行っているか、あるいは何か人間でないものに変身させられた自分の姿でも見るのではないかと危惧したものだが。
治子は相変わらず女の子の姿で、周りの人の反応も変わりなかった。夕べは盛大な歓送会も開いてくれた。美春は泣きじゃくり、朱美や貴子も涙を浮かべて別れを惜しんでくれた。
あと数日美崎海岸に残ることになっているさやかだけは、本店と二号店は近いから、また会えますね、と笑っていた。その隣では、明彦と織江が楽しそうに語らっていた。
天罰が下ったはずなのに、何も変わらない…その事を不思議に思っていた時、車内アナウンスが流れた。
『長らくのご乗車、ありがとうございます。次は終点、中杉通り、中杉通り。終点です。どなた様も忘れ物がないようお気をつけてお降りください…』
気がつくと、車窓の外の風景が懐かしく見慣れたものになっていた。治子は立ち上がり、網棚のバッグを降ろした。
ブレーキの音を響かせて、美崎海岸からの急行は中杉通り駅に滑り込んだ。ドアが開き、乗客がどっとホームに降りていく。治子はその一番最後から降りてきて、美崎海岸にはなかった排気ガスの匂いが混じった都会の空気を吸い込んだ。
「さて…一度店に寄って挨拶していくか…?」
あずさとつかさに顔を合わせるのは辛いが、と思いつつも治子が次の行動を決めたその時、ホームに素っ頓狂な声が響き渡った。
「あーっ、いたいたぁ!!」
治子は驚いてその声の方向を見た。聞き覚えのある声だったからだ。果たして、そこには彼女の良く知る人物…二号店の後輩アルバイトで、やたらと大きなリボンで髪を括った少女、愛沢ともみが立っていた。
「と、ともみちゃん?」
驚く治子に、ともみは駆け寄ってくると、まるでタックルを浴びせるように力いっぱい抱きついてきた。
「お帰りなさい、お姉さんっ♪」
「へ? あ、あぁ…ただいま…ん?」
ともみを抱きとめながら、治子はとてつもない違和感にとらわれていた。ともみは自分の事を確か「お兄さん」と呼んでいたはず…それ以前に、彼女は「耕治」が「治子」になったことを知らないはずだ!
「あ、あのさ…ともみちゃん、今俺のことをなんて呼んだ?」
治子が言うと、ともみはきょとんとした表情になり、それから急に笑い出した。
「あー、お姉さんってば、女の人なのに自分の事を『俺』なんて、変ですよ〜」
やはりともみは治子を「お姉さん」と呼んだ。困惑する治子に、今度は別の人物が声をかけてきた。
「お帰りなさい、治子ちゃん」
「あれ? 留美さん…」
治子はさらに困惑を深めた。現れたのは、二号店の祐介店長の妹で、一号店のエースとも呼ばれる木ノ下留美。二号店にヘルプに来ていた事もあって知らない仲ではないが、彼女も「治子」の事は知らないはずだった。訳がわからず戸惑う治子。その唇に、突然熱いものが押し付けられた。
「!?」
困惑しているうちに、目の前が留美の顔で埋め尽くされていた…と言うより、キスされている事に気づいたのは、しばらく経ってからだった。
「んふふ〜…隙ありぃ」
硬直した治子から唇を離し、にんまりと笑う留美。その横でともみが腕を振り回して怒った。
「ず、ずるいです、留美さん! お姉さんにキスするのはともみが最初のつもりだったのに!!」
そのやり取りを眺めながら呆然としていた治子だったが、現状を説明できるある可能性に気づいた。治子は荷物を抱えて走り出した。
「あっ! 治子ちゃん、どこへ行くの!?」
「ちょっと行くところがありまして! 店にはあとで顔を出しますから!!」
叫ぶ留美に答え、治子は全力で改札口を駆け抜けると、一路区役所を目指した。
そして、三十分後…
治子は出力された書類を手に、微かに身体を震わせていた。それは、前田家の戸籍謄本だ。見慣れた父や母の名前の下に、そこだけが…「前田 耕治」とあるはずの、彼の知る前田家とは違う名が並んでいる。すなわち…
「前田 治子」。
治子は謄本を握り締め、天を仰いだ。
「そ、そう言う事か…何時の間にか、俺は最初から…生まれた時から女の子と言う事にされてるんだ…これが天罰なのか…?」
空は何も答えなかった。しかし、治子はその向こうに、今はもう手に入れる術もない平穏な生活が消えていくのを、心の目で捉えたような気がした。
可愛い制服と美味しい料理が自慢のファミリーレストラン、「Piaキャロット」。個性派揃いのこのファミレスで、とりわけ個性的な女性が前田治子嬢である。抜群のスタイルに男勝りの行動力、男女を問わず熱い…熱すぎるほどの支持を受けている彼女には、固定ファンも多い。
最近は店長修行であちこちの店を渡り歩いているので、必ずしも出会えるとは限らないが、もしPiaキャロットに行って彼女に出会う事ができたら、こう聞いてみよう。
「今、幸せですか?」
と。たぶん、彼女は幸せそうな微笑を浮かべてこう答えてくれるだろう。
「とっても不幸せです」
Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸に付き〜
劇終
あとがき
と言う事で、26話に渡ってお送りしてきました「Seaside Bomb Girl!」はこれにて完結です。
結局治子は男に戻れず、女の子としてこれからの人生を送っていく事になりました。まぁ、戻す気は最初からなかったのですが(爆)。
さて、最終話を読んでも棚上げになっていることがいくつかあります。「あずさとつかさとの関係はどうなるの?」とか、「ともみや留美はこの先どう関わってくるの?」とか、「四号店の娘たちはもうほったらかしなの?」とかですね。
実を言うと、最初はこの辺りを続編として書こうかという予定がありました。しかし、「どう決着をつけて良いかわからない」という致命的な欠陥により、連作シリーズとしての続編を書くのはやめました。
その代わりといっては変ですが、次期新店舗の店長候補になった治子が、店長の仕事を学ぶべく、あちこちの店を回って修行を積む、と言う設定で一話完結型の外伝を不定期連載し、その中で上記のエピソードを扱っていく予定です。その作中で、治子が二号店制服や四号店の秋〜春期制服である「ぱろぱろタイプ」を着た艶姿を披露する機会があるかもしれません(笑)。
最後に…本作品のタイトル原案および治子のキャラクターデザインを考えてくださったAAMさん、素敵な治子のイラストを送ってくださったGGJさん、ariake_ikuzou(仮)さん、そして、最後まで本作を読んでくださった読者の皆さんに感謝の言葉を捧げて、締めの言葉に代えさせていただきます。
みなさん、本当にありがとうございました。
2003年9月 さたびー
おまけ 治子への好意カウンター 最終集計
さやか:最終獲得ポイント12 攻略
朱美:最終獲得ポイント10 攻略
美春:最終獲得ポイント10 攻略
貴子:最終獲得ポイント10 攻略
夏姫:最終獲得ポイント10 攻略失敗
明彦:最終獲得ポイント15 攻略失敗
織江:最終獲得ポイント1 攻略失敗
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