海に行ってから数日後、治子はいつも通り仕事に行こうとしていた。今日は早番の方である。
「…と言う事で、今日はお願いしますね」
「OK、わかったわ」
 玄関まで行くと、朱美が貴子と話し込んでいた。何かの相談事をしているらしい。
「おはようございます。何を話してるんですか?」
 治子が声をかけると、二人は振り返って微笑んだ。
「おはよう、治子ちゃん。ちょっと今夜の事をね」
 貴子が答える。数日前、クラゲに刺されて溺れかけた彼女だったが、もうすっかり回復して、腫れも傷跡も残っていない。
「今夜?」
 治子が首を傾げると、説明不足の貴子に代わって朱美が答えた。
「もうすぐ社員旅行があるでしょう? その説明会に食堂を借りようと思って」
 治子は頷いた。社員旅行の事は海に行った時に貴子から聞いている。
「えーっと、北海道でしたっけ?」
「そうよ。日程とか、注意事項とかいろいろ話すけど、大事なのは…部屋割りね」
 一瞬、何故か朱美の目が粘つくような光を帯びて見え、治子は背筋に寒いものを感じた。
「ま、詳しい事は今夜ね。治子ちゃん、行きましょうか」
「あ、はい」
 仕事に行こうとする朱美の顔は、既にいつも通りの朱美だった。返事をしながら治子は今のは目の錯覚だったのだろうかと自問自答していたが、もちろん答えは出なかった。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


23th Order 「想い出との再会」


 夕方、仕事を終えて治子は寮への道を辿っていた。彼女は耕治の頃を入れても北海道へ行った経験はない。
「北海道かぁ…涼しいだろうな」
 ぎらつく夕日に照らされて汗みずくになっていると、どこでも良いから涼しい所に行きたい、と思ってしまう。北海道ならきっとその願いがかなうに違いない。
 そんな事を考えながら寮への角を曲がると、建物の裏手から白い煙が立ち昇っているのが見えた。
「…あれ?」
 まさか火事ではないよな、と治子は足を速めた。門を潜り、建物の横を通って裏庭に出てみる。すると、そこでは貴子がしゃがみこんで、この季節にあるまじき行為を行っていた。焚き火である。
「貴子さん…暑くないですか?」
 治子が呼びかけると、貴子は長い鉄の棒で火種をかき回すのをやめて顔を上げた。
「あ、お帰りなさい、治子ちゃん」
 にっこり微笑む。その顔には汗の粒一つ浮いていない。
(ほ、本当に謎だ…)
 治子は額に手を当てた。こっちは見ているだけで暑さにくらくらしてくるのに、貴子が全く平然としているのが信じられない。
「何でまた焚き火なんか?」
 治子が火に近づかないようにして問いかけると、貴子はちょっと身体をずらして、積み上げたゴミ(と思しき)ものを見せた。
「旅行の準備しようと思って、部屋をかき回してたら、なんか一杯出てきちゃって…」
 主に古いファッション雑誌などだ。それを火の中に放り込んでいく貴子。モデルの笑顔が火に包まれ、真っ白な灰になって消えていく。
「古雑誌でも引き取ってくれる古本屋とかありますけどね」
 治子の言葉にも笑って答えず、貴子は本を火にくべていく。やがて、ほとんどの雑誌が灰になってしまった。ふとその時、治子は足もとに何かが落ちているのに気がつき、それを拾い上げた。
「…写真?」
 治子は首を捻った。それは、少しセピア色に変色した、貴子の写真だった。純白の清楚なウェディングドレスに身を包み、心から幸せそうな笑顔を見せている。少し焦げ目が付いている所を見ると、火に放り込んだ後で、何かの拍子に飛び出したのだろう。
「治子ちゃん」
「はい?」
 急に名前を呼ばれ、治子はとっさにポケットに写真を突っ込んだ。顔を上げて貴子を見ると、彼女は木の枝の先に何か黒く焦げた塊を突き刺していた。
「…なんですか、それ?」
 黒い物体の正体を聞くと、貴子はまだ薄く煙を噴いているその物体を二つに折った。中は綺麗な黄金色だ。
「焼き芋よ。治子ちゃんも食べる?」
「…今ですか?」
 治子は尋ねた。焼き芋はあくまでも冬の食べ物だ。この夏の暑い盛りに食べたいなどとは、間違っても思わない。
「まさか。場所をアタシの部屋に移すわよん」
 あの冬のように冷やされた部屋か…と治子は思い出した。あそこなら確かに焼き芋を美味しく食べられるかもしれないが…
 何かが違う。

 違うと思いつつも、やっぱり焼き芋は美味しかった。
 貴子の部屋の中で、二人はコタツに入り、まだ熱くてほこほこした焼き芋を食べていた。例によって、治子が一個食べる間に貴子が十個近く食べているのはご愛嬌である。
「ご馳走様でした」
 治子が手を合わせると、貴子もそれに習い、コタツの上に散らばった焼き芋の皮を集めた。それをまとめてそこら辺にあったゴミ袋の中に放り込む。
「ずいぶん散らかってますね」
 治子は差し出されたお茶をすすりながら言った。
「そうね。最初は旅の準備だけのつもりだったんだけど、なんか大掃除になっちゃってねー」
 貴子も苦笑いする。もっとも、ゴミはあらかた処分したので、後は収納するだけらしい。
「お手伝いしましょうか? 焼き芋のお礼に」
「あら、悪いわよ」
 治子が申し出ると、貴子は一回は遠慮したものの、結局一緒になって片付けをする事になった。貴子の指示に従い、押入れやクローゼットに荷物をしまっていく。
 その中に、一冊のハードカバーの小説があった。かなり読み込まれたものらしく、ページのあちこちが擦り切れている。挟まれたしおりも、角が丸くなっているほどだ。開いてちょっとページをめくってみると、どうやら恋愛をテーマにした短編小説集のようだ。文章も平易で、読みやすそうな印象を受ける。すると、貴子が声をかけてきた。
「治子ちゃん…その本が気になるの?」
「いえ…そう言うわけではないですけど」
 治子は慌ててページを閉じ、しまう場所を探そうとした。サボっているのを咎められたのかと思ったのだ。しかし、貴子は笑って言った。
「読みたかったら、貸してあげるわよ」
「え?」
 治子は本を見た。別に、どんな本か確認しようと思って開いただけで、読みたかったわけではない。断ろうかとも思ったのだが、そう言えば今もっている本はどれも読んでしまっていたな、と言う事を思い出した。
「じゃあ、お借りします」
 治子が借りる事を決めると、貴子は頷いて微笑んだ。
「うん、感想聞かせてね」
 その貴子の反応に、治子は引っかかるものを感じた。感想を聞かせて、と言う事は、よほどこの小説に思い入れがあるのだろうか。普通人に本を貸すことがあっても、感想まで要求する事はない。
「わかりました」
 疑問に思いながらも、治子は頷いた。しかし、感想を言わなきゃいけないとなると、真剣に読まないといけないな、と思う。その後1時間ほどで貴子の部屋の片付けを終え、自室に戻った治子だったが、すぐには読書タイムに入れなかった。なぜなら…

「では、社員旅行の説明会を始めます」
 食堂のテーブルに集まった一同に向かって、朱美が宣言した。そう、部屋に戻ったあと、すぐに説明会が始まり、治子は最初の数ページを開いただけで本を置いて来ざるを得なかったのだ。しかし、それだけであの本がなかなかの出来である事は理解できた。
 早く説明会が終わって続きが読めたら良いな、と思いながら、治子は説明会を聞いていた。行き先は既に聞いていたが、北海道である。場所は函館近辺で、観光農場に遊びに行ったり、函館山からの夜景を楽しんだりするらしい。
「と言う事で、日程は以上です。質問は?」
 日程説明役の夏姫がクリップボード片手に言うと、美春が手を挙げた。
「はい、冬木さん」
 夏姫に指名され、美春は立ち上がって発言した。
「ホテルの部屋割りはどうなっていますか?」
 これはある意味誰もが気にしていた事だった。
「そうですね、まず神無月君と木ノ下君は男性で一部屋組んでもらうとして…」
 夏姫が言った時、貴子がすかさず発言した。
「あら、別に組み合わせは自由で良いんじゃないの? 神無月君とさやかちゃんとか」
 その瞬間、明彦とさやかは真っ赤になり、口々に言った。
「そ、そこでどうして俺と高井の名前が出ますか!?」
「あ、明彦と同じ部屋だなんて…」
 叫ぶ明彦と、口篭もるさやか。あぁ、どっちもどうしてそう素直じゃないかな、と治子は思ったが、その二人の組み合わせを問題視したのは当人たちだけではなかった。
「何を言ってるんですか、そんなわけにはいかないでしょう」
 夏姫が額に青筋を立てて言う。声を荒げる事無く、一見冷静に答えている辺りが逆に怖い。まぁ、夏姫でなくとも、常識的に考えれば、異性を同じ部屋に組み合わせるのはマズいと誰でも考えるだろう。
「ちぇー」
 文句を言う貴子。「明彦とさやかラブラブ計画」としては是非ともこの組み合わせを実現したかった所だ。しかし、次の昇の言葉に、考えを変える。
「俺はそれでも良かったんだけどな…」
 貴子はやっぱり明彦と昇を同室にするしかないか、と判断した。明彦とさやかが組になれば、昇と他の女の子の誰かが組む事になる。それはよろしくない。自分だったら問題ないが、それは昇が嫌がるだろう。
 こうして貴子が黙ってしまったので、部屋割りは夏姫の規定路線に沿って男子二人が相部屋となり、残る女性陣八人が四組に分かれることになった。
「特に誰かと組みたいと言う意見はありますか?」
 夏姫が言うと、さっきも部屋割りについて質問したりして、やる気十分の美春が真っ先に手を挙げた。
「はいっ! 私、お姉さまといっしょの部屋が良いです!!」
 そう言いながらきらきらと輝く目…いや、欲望にぎらつく目、と言ったほうが正しいかもしれない…で治子を見つめる美春。しかし、治子と同じ部屋を希望するのは当然ながら彼女一人ではない。
「あら、私だって…」
 朱美が美春ほど元気良くではないが、それでも不退転の意思を込めて立ち上がる。たちまち、二人の間で熱い視線がぶつかり合い、火花が飛び散った。
「あは…あははは…」
 治子の額に一粒汗が流れる。本来なら止めるように注意すべきなのだろうが、いざこの二人の狭間に立つと、そんな恐ろしい事はできない。第一、火種である自分の言葉にどれほど説得力があると言うのか。
 困っている治子に代わり、夏姫が妥協点を口にする。
「では、二人でじゃんけんして…」
 その言葉を夏姫が最後まで言い終える前に、貴子が何やら30センチ四方ほどの紙箱をテーブルの下から引っ張り出した。誰もが思わずその箱に注目する。
「貴子さん、それは?」
 今まで事態を傍観していた織江が興味深そうに尋ねた。
「くじ引きよ」
 貴子は答え、箱を揺すぶって見せた。中でかさこそと何かが振り回される音がした。
「この中に、1から4までの数字がかかれた紙が2枚入ってるわ。みんなでくじを引いて、同じ数字同士が同じ部屋割りになる、って言うわけ。どうかしら?」
「なるほど、それは公平ですね」
 夏姫があっさりと賛同する。
「良いんじゃないでしょうか?」
 治子を巡る利権に関しては完全に中立な立場のナナも賛同した。二人が賛成に回れば、後は一気である。さやかと織江も賛成し、治子本人も頷いた。
「…仕方ないわね」
「わかりました」
 じゃんけんに勝てば確実に治子と相部屋になれた朱美と美春だが、世論の圧力には勝てない。渋々くじ引きでの決定に同意した。全員が賛成したところで、さっそく箱が回され、一人一回ずつ中に手を入れては、中から折りたたまれた紙片を取り出した。箱が貴子のところまで戻ってくると、彼女も中に手を入れて紙を取り出す。
「全員いったわね? じゃあ、いっせーので開くわよ」
 女性陣は頷き、紙片に手をかけると声を合わせた。
「いっせーの、せっ!」
 全員が唱和し、紙片を開いた。その結果…
「あ、織江ちゃんとなんだー。よろしくねっ」
「ボクの方こそ」
 ナナと織江が一緒の部屋になった。この二人、最近結構仲が良い。
「先輩とですか…まぁ、いつも通りですね」
「うん…」
 夏姫は朱美と。妥当というか何と言うか、これがあるべき姿ではある。
「美春ちゃんはアタシとかぁ。ま、そう気を落とさない」
「…はい」
 美春も治子とは一緒になれず、貴子と同室だった。ニコニコ笑いながら美春の肩を叩いて慰める貴子。
 そして、この3組ができたと言う事は…
「さやかちゃんと同じ部屋か…よろしくね」
 治子は「2」と書かれた紙片をさやかに見せながら言ったが、どっちかと言うとさやかは嫌がるかもしれないな、と思う。先日、海水浴の日に貴子に話を聞かされ、知らぬ間に自分がさやかにとっての恋敵になってしまっていた事に気付いたからだ。
 すると、さやかはちらり、と治子の方を向き、小さく「よろしくお願いします…」とだけ言った。顔は少し赤くなっている。あぁ、やっぱり怒ってるな、と治子は苦笑した。
「では、部屋割りも決まりましたし、説明会は終わりにします。お疲れ様でした」
 夏姫の発言で、その場は解散となった。自宅組は連れ立って帰っていき、寮組はそれぞれの自室に引き上げた。

「ふぅ…さて、続きを読もうかな」
 治子は部屋に戻ってくると、ベッドに寝転がって本を広げた。もともと、彼女には耕治の頃からあまり小説を読むと言う習慣はなくて、読書と言えばマンガか雑誌だった。そう言う人間にも、この本はなかなかおもしろく読める。
 やがて、治子は「プロポーズ」と言うタイトルの短編まで読み進めた。舞台は明治時代。主人公は、将来を嘱望されている若き画家。師匠からは自分の後継者であると言われ、師匠の娘との婚約さえ認められている。しかし、彼は自分の絵を見出せずに悩んでいた。順風満帆な生活を投げ捨て、放浪の旅に出た彼は小さな海辺の町にたどり着き、そこでヒロイン…泊まった旅館の仲居と知り合う。
 主人公が画家と知り、「自分を描いて欲しい」と頼むヒロインに、最初は渋々ながらも絵筆を握る主人公。しかし、ヒロインの明るさと天真爛漫な言動に触れ、次第に主人公は彼女に惹かれて行く。
 やがて、ヒロインの肖像画が描きあがる。それは、彼が今まで描いた中では最高傑作とも呼べる一作となった。そこへ、主人公を探してやってきた絵の師匠が現れる。肖像画を見た師匠は絶賛し、東京に戻って来て娘と結婚し、自分の跡を継ぐように命じる。
 しかし、彼は別の悩みに取り付かれていた。いまや、彼の中で絵とヒロインは同等の価値を持つ存在になっていたのだ。師の言葉は、どちらかを捨てる事を命じるのに等しいものだった。
 師に従って絵の道を選び、この地を去るか、それともヒロインを選び、絵の道を捨てるか。悩みぬいた末、彼はヒロインを夕暮れの海岸へ呼び出した。そして、肖像画を手渡し、これからは二人で同じ人生を描いていこう、と告白する。
 それほど凝ったストーリーではない。むしろ、ありがちな展開とさえ言えるかもしれない。しかし、そうであるが故に、この作品からは主人公の悩みや葛藤、喜びが良く伝わってきた。
「うーん…なかなかおもしろいな」
 治子はこの今まで名前も知らなかった作家に少し感心した。そして、ページの擦り切れ具合から、貴子も良くこの作品を読み返したのだろうな、と思った。しおりが挟んであったのも、最後のプロポーズのシーンだ。
「それにしても、この作品の舞台って、ここに良く似てるような…」
 治子はもう一度「プロポーズ」を読み返してみた。駅の描写や、温泉の情景、夕焼けの海岸の風景など、この美崎海岸をモデルにしたとしか思えないほどそっくりだ。
 貴子もそこが気に入ったのかな?と治子は考えたが、その瞬間、彼女はあることに気がついた。
 土地だけじゃない…この作品のヒロインは…貴子に似ていないだろうか?
 三度読み返してみると、どことなく貴子を連想させるシーンが多い。無神経と紙一重の率直な物言いや、くるくるとよく働く活発さ、スタイルの良さも似ている。
「…考えすぎかな」
 治子は、自分がいつのまにか作品の中と現実の世界をリンクさせている事に気付き、頭を振ってその想念を追い出した。美崎みたいな海辺の町は多いだろうし、貴子のようなキャラクターも、悩める主人公を力づけるヒロインとしては妥当な設定だろう。しかし、最後のページまで読み返した時、治子はあることに気がついて、そこに目を凝らした。
「…涙の跡?」
 プロポーズのシーンが描かれたページのあちこちに、よく見なければわからないほどの、しかし確かに何か水滴を落としたような跡が、点々と付いていた。最後の幸せそうに笑うヒロインの描写を見ながら、治子はポケットの上からそこに入っていた物を撫でた。
 幸せそうに微笑む、ウェディングドレス姿の貴子…治子は立ち上がり、3階を目指した。

 かなり夜遅くの訪問だったが、昇は嫌な顔一つせず、治子が持ってきた写真を見て断言した。
「あぁ、これは貴子叔母さんですね」
 治子が間違いないかどうか聞くと、昇は自信を持って頷いた。
「ええ、俺のおふくろが結婚した時の写真だったら、もっと古いですからね」
 そう答えながら、昇は写真をじっと見ていた。そして、しばらくしてから、感に堪えないという感じの口調で言った。
「しかし…貴子叔母さんにもこういう可愛い時期があったんだなぁ…今からはとても想像が…」
 その瞬間、空気の質が変わり、昇はの顔がさっと青ざめた。治子も背筋にぞくぞくと来るような寒気を感じ、身動きができなくなった。二人とも悟ったのだ。今の会話が、誰に聞かれていたのかを。
「昇…アタシにも何があったですって?」
「いや貴子叔母さん、今夜もまたお綺麗なことで」
 昇はごまかそうとしたのか、どこからともなく取り出した扇子でぴしりと自分の頭を叩き、太鼓持ちのような芝居がかった誉め言葉を口にしたが、貴子には全く通用しなかった。
「ごまかすんじゃないっ!」
 貴子の左のボディブローから右のアッパーへと繋ぐコンビネーションが炸裂。昇はきりもみ回転しながら、豪快に部屋の中へ吹き飛んでいった。しかし、治子はその惨状を最後まで見ることはできなかった。貴子の拳が巻き起こした風圧だけで扉が閉まったからである。
「さて…」
 昇を軽く始末した貴子は治子に向き直った。
「治子ちゃん、その写真どこで…?」
「夕方…焚き火をしてたときに、私の足元にあったんです」
 貴子の質問に、治子は正直に答えた。貴子はそう、と頷きながら、写真を見た。
「これはね、アタシがモデルをしてた頃に撮ったのよ。結婚式場のパンフレットに使う予定で」
 治子は写真を見た。そう言われれば、確かにそうかもしれない。しかし、この写真にはモデルであれば絶対ありえないものが写っている。
「本当ですか?」
 治子の言葉に、貴子は眉を逆立てた。
「…どういうこと?」
 少し不機嫌そうな表情になった貴子に、治子は言った。
「だって…この写真の貴子さん、ものすごく幸せそうだから…モデルの人にこんな表情はできないんじゃないかと思って」
 貴子は返事をしなかった。治子は言葉を続けた。
「それに、貴子さんはずっとここで働いていたんじゃないですか? 『プロポーズ』のヒロインみたいに…」
 貴子はやはり何も答えなかった。治子も、もうそれ以上は何も聞かなかった。黙って見つめあうこと数十秒間、やがて、最初に目をそらしたのは貴子のほうだった。
「…さすがね、治子ちゃん」
 そう言うと、貴子は治子を手招きした。治子は無言で頷くと、貴子の後に続いた。

 二人は貴子の部屋に来ていた。二人の間にあるのは、あの写真と本だけだ。
「治子ちゃんが言う通り、これはアタシの結婚式の時の写真よ」
 貴子はそう切り出した。
「その頃はまだこの寮もホテルとして運営していて、いろんなお客さんがきていたの。その中に、あの人がいた…」
 治子は黙って貴子の独白に耳を傾けていた。
「あの人は作家の卵で、ちょっと世間から見るとズレたところのある人で…でも、優しくて素敵な人だった。日がな一日部屋にこもって原稿を書いている彼と話してるうちに、アタシたちは恋に落ちたの」
 そこで、治子は初めて口を開いた。
「じゃあ、あの『プロポーズ』って言う作品は…」
「そう、ほとんど実話よ」
 貴子は頷いた。
「時代背景と、彼の職業が違うだけ。あと、彼は凄い才能の持ち主ではなかった、って言う事かな…」
 そう、彼は大した才能の持ち主ではなかった。自分の選んだ道に限界を感じていた。貴子と出会い、二人恋に落ちてからしばらくして、彼は作家を目指すことに見切りをつけた。
「夕焼けの美崎海岸で、アタシは彼のプロポーズを受けたわ。とても嬉しかった。君となら、新しい道を一緒に歩いていける。君と一緒なら、僕はここに骨を埋めても構わない…そう言ってくれた。その後はとんとん拍子に話が進んで、結婚式の日が来た…」
 美崎海岸の外れ、海を臨む小さなチャペルで、ささやかな結婚式が行われる予定だった。貴子は純白のウェディングドレスに身を包み、彼がやってくるのを待っていた。姉…昇の母親がその姿を一枚の写真に収めた。
 それが…その日の記憶を形として留める唯一の物となった。
「彼は…来なかったのよ」
「どうして…」
 治子は息を呑んだ。貴子の過去は彼女の想像を遥かに越えたものだった。それでも何とか理由を尋ねると、貴子はそれに答えた。
「彼にはね、アタシ以前に付き合っていた女性がいたのよ。その人との間にね、赤ちゃんが生まれてたの。彼はそれを知って…その人のところへ戻る事にしたの」
 結婚式を挙げるはずだった日から数日後、プロポーズの時と同じ夕焼けの浜辺で、貴子は彼から別れを告げられた。責任を取らなければならなくなった、と彼は言った。
「今なら、僕と君の関係は無かった事にできる。君は強いから…僕無しでも大丈夫なはずだって彼は言ったわ」
 治子は数日前、病院で目覚める直前の貴子のうわごとを思い出した。「待って…行かないで…アタシ…ここにいる…」と、貴子は行ってしまった恋人に何年もの間呼びかけていたのだろうか。
「そんな、身勝手な…」
 治子は憤ったが、すぐにその言葉は自分自身に戻ってくるものだと言う事に気がついた。黙り込んだ彼女に貴子は言った。
「まぁ、アタシと彼の間にはまだ身体の関係はなかったから…そう言う意味では婚約を解消するのに障害はなかったかもしれない。でも、ひどい話だと思わない? アタシは…そんなに強くなんてない…彼を引き止めることはできないとわかってはいたけど、凄く恨んだわ」
 そういう事は、隠していても噂になる。それからの1年ほど、貴子にとっては生きていくのも辛い時期だった。そんな時、彼女は一冊の本と出会う。その作者名は…彼だった。貴子は思わずその本を手に取っていた。
「この本に…彼があの時悩み苦しんだ全てが書かれていたわ。その事で彼は作家として成長できたのかもしれないわね。この本、結構評判になったのよ」
 確かに、それは治子にも頷けるものがあった。実際彼女は感心しながらそれを読んだのだから。
「この本では、彼とアタシは結ばれている。彼にも在り得なかった未来への思いがあったのかもしれないわね。だから…アタシはずっとこの本を持っていたの。そうすればいつか、彼がアタシの所へ来てくれる様な気がして…そんな事あるはずがないのにね」
 貴子はそう言うと、自嘲の笑みを浮かべて本を置いた。
「…その…私、余計な事を…」
 治子は謝った。彼女のしたことは、貴子の心の傷を晒してえぐっただけの事だったのだ。しかし、貴子は顔を上げて、治子の手を握った。
「良いのよ…もう無くなってしまった恋に、未練がましくしがみついていたのは、アタシの方だったんだから。治子ちゃんに何もかも話してしまって、心が軽くなったわ。もうアタシは過去に囚われないで生きていける」
 そう言って、貴子は微笑んだ。治子よりもずっと過酷な悲恋を乗り越えた強い女性の姿がそこにはあった。
「やっぱり…貴子さんは強い人ですよ」
 治子は言った。
「私が貴子さんの立場だったら…とても生きていけなかったと思います。私は…未だに自分の間違いの正し方も知らないバカだから…」
 治子の言葉は、後半部は独り言のようになっていた。貴子は尋ねた。
「この間の相談の事ね?」
 治子はこくんと頷いた。すると、何を思ったか、貴子は治子の身体を抱き寄せ、彼女の頭を自分の胸に抱いた。
「え…!?」
 しっかりと抱きしめられ、戸惑う治子に、貴子は優しい声をかけた。
「みんなに、正直な気持ちを伝えてみたら? それで、もしみんなに嫌われて、どこにも行く場所がなくなったとしたら…」
 貴子は治子を抱く腕に力をこめた。
「アタシが、治子ちゃんの最後の居場所になってあげる」
 その言葉に、治子の身体は硬直した。
「あ、あの…それは一体?」
 しどろもどろになって質問する治子に、貴子は聖母のような顔で答えた。
「そのままズバリよ。わからなければ…この場で実践してもいいけど?」
 一転して艶っぽい目をする貴子に、治子は慌てて離れると、それは勘弁してください、と頭を下げた。

 貴子のもとをようやく辞去し、部屋に戻ってきた治子は、妙な事に気が付いた。閉めて出かけたはずの部屋の扉が、開いていたのだ。
「あれ?ドアが開いてる。鍵をかけ忘れたのかな…?」
 そう言った瞬間、彼女は部屋の中に何かの気配を感じた。そして、強烈な既視感が彼女の全身を貫いた。
「ま…まさか…?」
 治子は震える手で扉のノブに手を掛け、思い切って押し開けた。そして、部屋の電気のスイッチを入れる。
「君は…!」
 そこにいた、予想通りの人物の姿に、治子は呆然と立ち尽くした。
「久しぶりあるね」
 治子を今の姿に変えた、あの占い師の少女…玉蘭の、忘れたくても忘れられない姿が、そこにはあった。

(つづく)

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