昼食を終えた治子と貴子は、再び海岸へ戻ってきていた。ちなみに、貴子はボードを店に預けてきていて、もう午後はサーフィンの事は忘れるつもりらしい。もっとも、波が静かになってきていて、あまりサーフィン向きのコンディションではなくなっていたのだが。
「さて、めいいっぱい泳ぐわよー」
 そう言うと、上に着ていたパーカーを豪快に脱ぎ捨てる貴子。昼にあれだけ食べたのに、体型にはいささかの変化も見られない。
(本当に不思議だ…)
 美しい曲線を描いてくびれた貴子のお腹を思い浮かべ、人体の不思議さに思いを馳せていた治子だったが、既に海に入っている貴子の、
「何やっているの? 置いてっちゃうわよ?」
 の言葉に、慌てて後を追おうとした。その時だった。
「ちょっと、そこのお姉さん」
 突然、治子と海の間に、数人の男が回りこんできた。
「…はい?」
 お姉さん、と呼びかけられたのが自分だと気がつき、首を傾げる治子に、男の一人が言った。
「あんた、前田治子さんだろ? ミス美崎海岸の」
「…そう言えば」
 治子は答えた。しかし、ミス美崎海岸になった日は、数多くの視聴者を含む観客に半裸を晒した、忌まわしい想い出の日でもあった。あの時の賞状とトロフィーは、部屋のクローゼットにしっかり仕舞って封印してある。
 しかし、男たちはそんな治子の思いには気付いた様子もなく、口々に少し興奮した様子で話していた。
「やっぱりな、どこかで見た事があると思ったんだよ」
「こんな所で会えるなんて運がいいな」
「仕事中じゃ声かけづらいもんなぁ」
 その会話を聞きながら、治子はさて、これはナンパなのだろうか、と考えていた。仮にそうだとしても、もちろん受ける気はない。治子は「連れがいますから、これで」と言って、男たちの横をすり抜けようとした。
 しかし、男たちはすかさず治子の行く手を阻み、リーダー格らしい男が言った。
「まぁまぁ、そうつれない事言わないでさ。ちょっと話をするくらい良いだろ」
「…困ります」
 治子はそう言うと、今度は逆方向に男たちをかわそうとした。しかし、それも阻まれる。
「良いじゃないかよ。手間は取らせないって」
 そう言って、男が治子の肩に手を置いた。その瞬間、言いようのない嫌悪感が背筋を貫いた。
「いやっ!」
 治子は反射的にその手を払いのけていた。やってしまってから、治子は自分の手を見て思わず固まった。今の自分の反応に驚いていたのだ。
(い…今のは一体…?)
 ちょっと前までは、男相手なら裸を見られても平気なくらいのはずだったのに、さわられただけで過敏に反応してしまった。それも、ただ嫌なだけではない。
(え…そんな…お、怯えてる? 怖いのか?)
 身体に細かな震えが走っているのを治子は自覚した。彼女に手を払われた男が、それまでとは打って変わった険悪な目つきで治子を睨んでいる。周りの男たちも気色ばんでいた。彼らがまるで壁のように大きく見え、その威圧感に治子は恐怖を感じた。
「このアマ…こっちが下手に出れば調子に乗りやがって…」
 男はそう言うと、治子の手首を掴んで自分のほうへ引っ張った。どうやらこれが彼らの本性らしい。
「や、やめ…」
 男の引っ張る力に対抗しようと、腕に力を込める治子だったが、現職の男にはかなわない。そいつは治子の身体を強引に抱き寄せようとした。
「どうあっても俺たちに付き合ってもらうぜ…」
 男がそう言ってニヤニヤ笑いを浮かべた次の瞬間、突然鈍い音と共に、男の目がぐるんと白目に反転し、治子の腕を放したと思うと、どうとばかりに砂浜に倒れた。
「な、何ィ!?」
 男の連れが一斉に振り返ると、そこには「ここで釣りをしてはいけません。 美崎町」と言う看板を手にした貴子が、腰に手を当てた仁王立ちの姿勢で男たちを睨んでいた。
「アタシの連れから手を離しなさい」
 切れ長の目に炎を宿して貴子は言ったが、相手が女性だと知るや、男たちは強気になって貴子にもからかいの言葉を掛け始めた。
「なんだよ、あんたも俺たちと遊びたいのか?」
「俺たちはかまわないぜぇ」
 それらの言葉にも平然として、貴子はもう一度治子を放すように言った。しかし、彼らは聞く耳持たずで、決定的な一言を口にしてしまった。
「なんだよ、かてぇ事言うなよ、おばさん」
 その言葉を聞いた貴子の目に、純粋な殺気が浮かぶのを治子は見た。
(…終わったな、この連中)
 治子が思うと同時に、貴子の身体から、底冷えのする烈風のような気合が放たれた。
「おばさん…ですって? あんたたち…死にたいようね」
 そう言うや、貴子は手にしていた看板を頭上でバトントワリングのように大回転させ、豪快に振り下ろした。
「烈壊怒号撃滅破ーっ!!」
 美崎海岸の午後は、時ならぬ地響きと断末魔の絶鳴で幕を開けた。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


21th Order 「美崎海岸の休日(午後)」


 事が終わった後、治子は砂浜に呆然と座り込んでいた。例の男たちは、貴子の一撃に豪快に吹っ飛ばされ、今ではゴミ置き場に突っ込んでいる。ピクリとも動かない。もう脅威の対象ではない。しかし、治子は今になって身体が冷たい汗で濡れているのに気がついていた。
(うぅ…何もできなかった…)
 治子は砂浜にうずくまり、自分の不甲斐なさに落ち込んだ。
「さて、仕切りなおして泳ぎましょうか」
 そこへ、貴子がやってくると、治子ににっこりと笑いかけ、片手で男たちを張り飛ばすのに使った看板を砂浜に突き刺した。
「た、貴子さん…」
 治子は貴子を見上げた。すると、貴子は砂浜に膝をつき、治子の頭をゆっくりと抱きしめた。
「あ…」
 治子は小さく声をあげた。貴子の豊かな胸に抱きしめられると、気温よりもなお熱い彼女の体温と、微かに感じ取れる心臓の鼓動が、治子の気持ちを落ち着かせてくれた。
「大丈夫よ。もうあの連中は立ち直れないから」
 そこへ、貴子の優しい声が聞こえる。治子はそっと目を閉じ、早鐘を打つようだった自分の心臓の鼓動が、ゆっくりした貴子のそれに同調するまで、じっとしていた。やがて目を開けると、貴子の微笑がそこにあった。
「大丈夫?」
「…はい」
 治子が頷いて立ち上ると、貴子が意外そうな声で言った。
「それにしても…美春ちゃんのために不良と大立ち回りを演じた治子ちゃんが…調子でも悪いの?」
 言いたいことは良くわかるが、治子は苦笑して首を横に振った。
「あの時は…夢中でしたからね」
 とにかく美春を助けなければ、と言う一心で、治子はあの修羅場に突っ込んでいったのだ。自分の身を省みている余裕など、どこにも無かった。
「まぁ、人のための方が一生懸命になるって言うのは、治子ちゃんらしいわね…」
 貴子が感心したように言う。
「まぁ、気分も落ち着いたようだし、泳ぎましょ」
「はい」
 治子は立ち上がった。まだ少し気持ちが落ち着かない。すると、突然治子の身体に海水が浴びせられた。
「うわっぷ!? けほ、けほっ!!」
 口の中にも海水が入り、塩辛さに思わず咳き込んだ治子に、水を浴びせた張本人である貴子が笑いかけた。
「ほら、そうやって考え事してると、また襲われるわよ」
「むーっ、不意打ちとは卑怯ですよ、貴子さん!」
 治子は反撃に出た。両手で水をすくい、貴子の方に向かって跳ね上げる。しかし、貴子は素早いフットワークで治子の上げる水しぶきをよけながらどんどん攻撃してきた。こちらは逆に治子にことごとく命中し、治子は全身ずぶ濡れになる。
「くっ…待てーっ!」
「おほほ、捕まえてごらんなさ〜い」
 反撃を諦める事無く、貴子を追う治子。これに対し、貴子は一定の距離を置いて一方的に治子に水を浴びせまくった。治子の攻撃は全く効果が無い。
「はぁ…はぁ…はうっ」
 やがて、治子は力尽きたように波打ち際で膝をつき、そのまま倒れこんだ。波が押し寄せてきて彼女の身体を洗っても、そのまま動かない。
「…あら?」
 水掛け合戦を一方的優位に進めていた貴子だったが、この治子の様子に動揺した。やりすぎたかと思ったのだ。そっと治子に近寄り、声をかける。
「治子ちゃん? 治子ちゃん、大丈夫?」
 治子は返事をせず、そのまま倒れていた。貴子は慌てて治子の横にしゃがみこみ、身体を揺すぶった。
「ちょっと、治子ちゃん!?」
 その瞬間、治子は顔を上げ、ニッと笑った。
「貴子さん、捕まえたっ!」
 そのまま貴子の足を掴む。貴子が引っ掛けられた事を悟るよりも早く、足を取られた彼女はしりもちを付いていた。そこへ波が押し寄せ、治子は素早く水をすくって貴子に浴びせまくった。やはりずぶ濡れになる貴子。
「や、やったわね…」
「やりました」
 自分が先に不意打ちを掛けた事を棚に上げて呟く貴子に、笑顔で答える治子。やがて、二人はどちらからともなく笑い出していた。
「ぷっ…ふふふっ…あははははははっ!」
「ふふ…くすくす…きゃははははははっ!」
 二人は顔を見合わせてしばらく笑い転げた後、波打ち際に大の字になって空を見上げた。はしゃぎまわって熱くなった身体を洗う波の冷たさが心地よい。
「ふぅ…元気出た?」
「おかげさまで」
 貴子の質問に治子は答えた。身体を思い切り動かしたら、さっきの嫌な出来事と、それにまつわる鬱な思いはどこかに吹き飛んでしまっていた。
「それは良かったわ」
 貴子は身体を起こし、沖のほうを見つめた。
「まぁ、それにしても男って言うのは本当にねぇ…」
 貴子が独り言のように呟く。「本当に」なんなのかは、言われなくても治子にはわかった。
「それは…ああいう連中ばかりじゃない、とは思いますけど」
 元男である治子としては、世の男性たちに対し、一応の弁護を試みることになる。もっとも、昔の自分のことを考えると、暴力的なことはしてない(むしろされていた)だけで、女の子を傷つける事に関しては人のことは言えないか…とまたちょっと鬱になった。
 しかし、ここでの貴子の反応は意外なものだった。
「例えば、神無月君とか?」
「あぁ、彼ならまともですね」
 治子が答えると、貴子はつまらなさそうな表情をした。
「それだけ?」
「何がです?」
 治子が真顔で聞き返したので、貴子は訝るような表情になった。そして、ちょっと声をひそめて尋ねる。
「治子ちゃんから見て、神無月君ってどんな感じ?」
 治子の方も、何でそんな事を聞くのか、と言うような訝しげな表情になって答えた。
「まぁ…真面目で良い奴だとは思いますけど」
 その治子の答えに、貴子はちょっと考え込むような表情になった。彼女の表情がくるくる変わる様を、治子が「ちょっと面白い」と思いながら見ていると、やがて、貴子はくすりと笑いを漏らした。
「そうね…治子ちゃんは女の子専門の方だもんね」
「な、何がですか?」
 貴子の怪しげな独り言を治子が問い質すと、貴子は笑いを大きくして答えた。
「好きなのが」
「まぁ…そうですけど」
 ごまかそうにも、美春、朱美に言い寄られているのは既に周知の事実になっているし、あずさとつかさの一件もある。
 もっとも、治子としては今でもまだ中身は男のつもりなのだから、女の子のほうが好きだ、と言うのは自然な感情で、ごまかす方が変なのだ。治子は素直に認めた。
 と、そこで気がつく。さっきから貴子は明彦の事をしつこく聞いていた。そして、以前にも明彦の話題が出たときに、妙に絡んできたような覚えがある。もしかして…
「あの、貴子さん…ひょっとして、私が神無月君のことを気にしてないかとか思ってました?」
 ちょっと控えめに、ストレートな「好き」と言う言葉を避けて訊いた治子だったが、貴子はあっさりと認めた。
「ええ、そうじゃないかと思ってたけど…アタシの勘違いだったみたいね」
「…それはまた迷惑な勘違いを」
 治子は言った。彼女が明彦を好きになる事など、天地がひっくり返り、太陽が西から昇ったとしてもありえない話だ。
「だいいち、神無月君にはちゃんと好きな人がいますしね」
 治子の言葉に孝子が頷く。
「…さやかちゃんね」
 治子はええ、と答え、それからもう一つ付け加えた。
「なんか、他にも気になる人がいる、みたいな事を言ってましたけど…素直に高井さんと付き合えば良いのに」
 この治子の言葉を聞いた瞬間、貴子は口をあんぐりと開き、目は点になった。辛うじて、呆れたように声を絞り出す。
「に、鈍いのもそこまで行くと犯罪的よね…」
 この言葉を明彦へのそれだと受け取った治子は大いに頷いた。
「そうなんですよね…高井さんの気持ちをもう少し察してやれば良いのに」
 これにはさすがの貴子も激しくツッコミを入れた。
「違うわよっ!」
 え?という間抜けな表情になった治子に、貴子は決定的な一言を口にした。
「神無月君が気にしてるもう一人って言うのはね、治子ちゃんの事よ!」
 しばし沈黙が流れ…やがて、治子は慌てたように自分を指さした。
「はぁ!? わ、私ぃっ!?」
 貴子が重々しく頷く。治子は呆然とした表情のまま固まった。よくよく考えてみれば、確かに明彦の態度の端々に、どこか思い当たる点が無いでもない。
「もう一人の人」とはつい最近出会ったらしかったし、その名前を明彦が治子の前で口にした事も無い。
 だとすれば…
 明彦に「親切なお姉さん」としていろいろアドバイスしてやったりしたのは…
 全部、逆に明彦の迷いを助長していた?
 そう気付いた瞬間、治子は砂浜に突っ伏していた。
「ああああ…馬鹿…俺の馬鹿…」
 あまりの動揺に、無意識のうちに「俺」を使っているが、その事に自分でも気付いていない。ぶつぶつと呟く治子を、貴子はちょっと哀れみを込めた目で見下ろしていた。
「はぁ…どうしよう…」
 しばらく落ち込みまくっていた治子がようやく立ち直ったのは、二十分ほど砂浜にうずくまっていた後の事だった。
「何か理由がないと断りづらいしねぇ」
 貴子も一緒に考えている。
「ここは…強引にでも彼と高井さんをくっつけるしかないか…」
 治子は言った。何しろ二人は両想いなのだから、本来恋人同士になることに何の障害も無いはずだ。明彦の優柔不断さと、さやかの意地っ張りな性格が、単純なはずの問題を複雑化しているのである。しかし、何かきっかけさえあれば、一気に二人の仲を伸展させるのも夢ではない。
「それなら、もうすぐ社員旅行があるわね」
 貴子の言葉に、治子は顔を上げた。
「社員旅行?」
「そう。北海道に二泊三日」
 貴子は答え、目論見を明らかにした。
「旅って言うのは気分を盛り上げるものだし、告白するには良いムードだわ」
 治子にも貴子の狙いがわかってきた。
「つまり、旅の間、二人をできるだけ一緒にしておくんですね?」
「その通り。できれば、事前に可能な限り二人を煽っておくと、より効果的ね」
 治子と貴子は顔を見合わせた。そして、どちらからとも無く手をがっしりと握り合った。
「やりましょう」
「やるわよ」
 二人は力強く「明彦・さやかくっつけ作戦」を遂行する事を宣言したが、ふと治子は疑問を感じて尋ねた。
「ところで…貴子さん、妙に気合が入ってますけど…何かあったんですか?」
 すると、貴子は急に遠い目をした。
「いろいろあるのよ…」
 そして、発した言葉はそれだけだった。貴子は立ち上がると、200メートルほど沖合いに見えている小さな島のような岩場を指差した。
「治子ちゃん、あそこまで競争しない?」
 露骨な話題そらしだった。治子は普段はおちゃらけている貴子にも、触れてほしくない過去があるのだろうな、と察した。明彦とさやかにしょっちゅうちょっかいを掛けていたのも、そのせいかもしれない。
(貴子さんも俺と一緒なのかな…)
 そう思うと、治子は貴子が今まで以上に身近な存在に見えてきた。だから、彼女は貴子の話題そらしに乗ることにした。
「うーん…まぁ、良いですよ。で、勝負だったら何か賭けますか?」
 治子が言うと、貴子はどこかホッとした表情になって答えた。
「そうね、ここは定番だけど…負けた人は勝った人の言う事を聞く、と言う事でどうかしら?」
「良いでしょう」
 治子は頷いた。どうせ貴子に勝てるとは思えないが、とても聞けないようなとんでもない命令をされる事もあるまい。泳ぐのに邪魔なパレオを外して荷物の上に広げると、何時でもどうぞ、という風に貴子の顔を見た。
「じゃ、位置について…よーい、どんっ!」
 それに応じて貴子が自ら合図し、二人は海に向かって駆け出した。ある程度深くなったところで、泳ぎに切り替える。治子はそれほど運動が得意と言うわけではないが、それでも人並みには泳げる自信があった。しかし。
(うわ…予想はしてたけど…それ以上に速い…)
 貴子はまるで競泳選手のような綺麗なフォームで先に進んでいく。その速さは治子の比ではない。たちまち差が開いていく。
 せめてあんまりみっともない大差で負けるのだけは防ごう、と、治子は水を切る手と足に力を込めた。200メートルと言う距離は予想以上に長く、目的の小島はなかなか近づいてこないが、それでも治子は全力で泳いだ。
 やがて、何とか小島の近くまでたどり着いた時、治子は先に進んでいたはずの貴子の姿が見えないことに気がついた。
(おや…? ひょっとして、もう着いて、島の上にでも登ってるのかな?)
 まさか追い抜いたはずは無い。治子は最後の10メートルを泳ぎきり、島に手をついた。さすがに200メートルも全力で泳ぐと、全身を重い疲労感が包んでいる。少し息を整え、治子は島の岩に足をかけて上に登った。
「…いない?」
 治子は首を傾げた。そこには貴子の姿は見えなかった。おかしい、と思って今来たほうを振り返る。
「…!」
 その瞬間、治子は息を呑んだ。島から50メートルほど離れた所に貴子が浮いていた。足を押さえて苦しむような素振りを見せている。
「まさか!」
 溺れたのか。治子は迷わず島の上から海に飛び込んだ。貴子の位置を確認し、来た時よりも必死に水を切る。近くまで来た時、治子は大声で貴子に呼びかけた。
「貴子さん! どうしたんですか!!」
 返事が無い。治子はそのまま貴子のすぐ傍まで泳いでいった。貴子は足を抱きかかえた姿勢で気を失っていた。その足に、点々と真っ赤な腫れができている。それを見て、治子は何が起きたのか悟った。クラゲに刺されたのだ。
「くそっ!」
 治子は小さく罵声を漏らし、貴子の身体を抱えて海岸へ向かった。足が海底に付くようになると、彼女は貴子をお姫様抱っこして砂浜に上がり、大声で叫んだ。
「すいません! 救急車、救急車呼んで下さい!」
 治子の切羽詰った声に、状況を悟った近くの海水浴客が慌てて携帯電話を出す。その間に、治子は貴子の身体をビーチタオルの上に横たえて、彼女の様子を観察した。脈はある。しかし、息が無い。治子は血の気が引くのを感じたが、覚悟を決めて息を吸うと、貴子の唇に自分のそれを重ねた。
(貴子さん…しっかり!)
 人工呼吸を施しながら、治子は必死に念じた。しばらくそれを続けると、突然貴子は咳き込んで呑んでいた海水を吐き出し、自発呼吸を再開した。
「よ、良かった…」
 何とか危ない状況は脱しただろう、と治子は安堵した。その時、救急車のサイレンが遠くから聞こえてきた。

 病室に、夕焼けの光と海風が入っていた。ベッドの上で眠っている貴子の横で、治子はじっとその寝顔を見つめていた。
 病院に担ぎ込まれた貴子だったが、応急処置が早くて適切だったため、生命に別状は無く、クラゲに刺された足も、数日は腫れと痛みが残るものの、問題はないだろうと言う事だった。ただし、念のため今夜は入院する。
 ようやく完全に安心できた治子は、店に電話して夏姫と朱美に事情を話した。そして、二人の服を取って来てもらうことにした。海岸から直行したので、治子も貴子も水着のままだったのだ。
 その朱美たちはまだ来ていない。さすがに肌寒さを感じ、治子は窓を少しだけ閉めようとした。その時、貴子がかすかに身動きした。治子は椅子から少し腰を浮かせただけの姿勢で、貴子の様子を見守る。すると、彼女はまるで泣くような切なげな声で何かを呟いた。
「待って…行かないで…アタシ…ここにいる…」
「貴子さん?」
 治子が思わず身を乗り出したとき、貴子はうっすらと目を開け、治子の方を向いた。
「治子…ちゃん…?」
「目が覚めた…良かった」
 治子は貴子の手を握った。それをきっかけに、貴子は自分の状況を思い出した。
「そっか、アタシ競争の途中で…」
「クラゲにやられたんですよ。たいした事はないってお医者さんは言ってましたけど、念のため今夜はここにお泊りです」
 貴子は頷いた。そして、ぎこちなくではあったが微笑む。
「競争…治子ちゃんの勝ちね」
 治子は首を横に振り、微笑み返した。
「こんな事になって、勝ち負けなんて関係ないですよ。貴子さんが無事だっただけで私は良かったです」
 そう答えると、貴子はダメよ、と言い返してきた。
「理由はどうあれ、勝ちは勝ちよ。そういう事ははっきりしておかないと。さ、治子ちゃんはアタシに何をして欲しい?」
 治子は苦笑した。それなら、早く元気になって…と言いかけて、思い直す。それはちょっと大げさ過ぎだ。
「えーっと…考えておきます」
 治子がそう言い、貴子が頷いた時、廊下の方で聞きなれた声が聞こえてきた。朱美に夏姫はわかるとして、さやかや明彦、美春に織江、昇にナナ。どうやら四号店こぞってお見舞いに来たらしい。治子と貴子は顔を見合わせ、思わず苦笑した。
 窓の向こうでは、夕陽が完全に海に沈もうとしていた。

(つづく)

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