祭りの日の翌日、四号店は気まずい雰囲気の中にあった。
 暗い表情で店にやってきた治子は、バックヤードの入り口で明彦と鉢合わせした。
「あ…」
 明彦と顔を合わせた瞬間、治子は身体を硬直させ、その場に立ち尽くした。顔に見る見る血が上るのが自分でもわかる。
「お、おはようございます…」
 明彦も固まったまま挨拶をしたが、治子はそれには応えず、逃げるようにして更衣室に入った。そして、ソファに突っ伏すようにして自問自答した。
(うう…くそ、相手は神無月だぞ!? なんで恥ずかしがる必要があるんだ。どうしたんだ、俺は)
 治子は必死に心を落ち着けようとしたが、どうしても駄目だった。着替えて店に出た後も、明彦を見るたびに動揺が走る。一方、明彦の方も落ち着かない気分だった。
(治子さんが、俺に見られて恥ずかしがってる…少しは、俺のことを男として意識してくれるようになったのかな…?)
 それは、明彦にとっては意外でもあり、嬉しくもある出来事だったが、反面彼を見る朱美と美春の敵意も、殊のほか激しいものだった。美春は藁人形と五寸釘でもあれば、人目をはばからず呪殺に走りそうな雰囲気を漂わせていたし、朱美は店員の査定表に、明彦のミスを針小棒大に書きたてている。それを修正しながら、夏姫はこれはどうにかしないと、と判断したらしい。
「神無月君、今日はフロアはやらなくていいから、倉庫整理に専念してくれるかしら?」
 夏姫の言葉に、正直救われた気持ちになったのか、明彦は頷いて倉庫に去って行った。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


20th Order 「大人の恋愛模様」


 さて、店員同士の人間関係に微妙なしこりを残しつつも、この日の営業時間が終わりを告げた。早番の明彦たちは既に帰り、店には治子と夏姫、それに織江しか残っていない。
「それじゃ、ボクはお先に失礼しまーす」
 それも、着替え終わった織江が元気良く帰っていくと、店には治子と夏姫だけが残された。
「それじゃあ、悪いけど手伝ってもらえるかしら?」
「はい、良いですよ」
 夏姫の言葉に治子は頷いた。彼女が手伝わされようとしているのは、書類の整理である。昼間、人間関係の調整に心を砕いたり、倉庫に引っ込んだ明彦の代わりにフロアに出たりしたせいか、さすがの夏姫も今日は少し残業していかなければ仕事が片付かない、と言う状況にあった。
 しばらく、書類を揃えるトントンと言う音や、修正個所にペンを走らせる音などが聞こえた後、唐突に夏姫は治子に尋ねた。
「前田さん…将来はどうするの?」
「え?」
 治子は書類をキングファイルにとじる手を止めて頭を上げた。
「将来、と言いますと?」
 質問の意味が良くわからず治子は聞き返した。
「Piaキャロットで今後も働いていく上で、何を目標にしてるのか、って言う事よ」
 夏姫は答えた。それを聞いて、治子はそういう事か、と頷いた。それなら、彼女にもビジョンが無いわけではない。
「私は…店長を目指したいと思ってます」
 治子は答えた。二号店にいた頃の店長、祐介はいろんな意味で人生の目標だったし、朱美もやや頼りないながら、しっかりと自分の職分を果たそうとしている。どちらも素敵な店長であり、できればそう言う風にみんなから慕われるような店長になりたい。それが、耕治時代から変わらない、治子の目標である。
「そう…」
 夏姫は頷いた後、思いもかけないようなことを聞いてきた。
「マネージャーになる気は…ないの?」
「マネージャーですか?」
 治子は鸚鵡返しに答えた。マネージャーは店の財務会計を一手に握る職分だ。それなりの資格や技能無しには務まらない職分で、ある意味店長よりもなるのが難しい仕事である。ある人いわく、店長は店の心臓、マネージャーは頭脳。どっちが欠けても、店と言う生き物は動かない。
「いや、私はあんまり頭よくないですから」
 治子はそう答えた。別に茶化しているわけではなく、本当に知力に関しては自信が無いのである。何しろ彼女は学生時代の成績が良かった事が無い。
「あら、頭の良し悪しはあまり関係ないわよ。もしその気があるなら、私が一からノウハウを教えてあげても良いけど。計算もパソコンがやってくれるし」
 夏姫は言った。治子は思わず考え込んだ。マネージャーは難しい職業だが、別段学歴を問われるわけではない。その点Piaキャロットと言う企業は徹底していて、学歴よりも本人の人柄ややる気が高く評価される組織なのだ。だから、治子がマネージャーを目指そうとするなら、勉強して資格をとれば何とかなるかもしれない。
「…いや、やっぱり私には向いてないですよ」
 結局、治子はそう言って断った。マネージャーと言う職業にも興味が無いではないが、やはり店長の方が自分には向いていそうだ。
「そう…」
 夏姫は心なしか残念そうな声で言った。そして、小さな声で呟く。
「え? 何か言いました?」
 治子は聞いた。
「なんでもないわ」
 夏姫は頭を振った。実は、彼女はこう言っていたのだ。
「あなたになら…先輩を任せられるかもしれないと思ったのに…」
と。

 その後、一時間ほどして残業を終えた二人は店を後にした。道路に出たところで、夏姫は治子に尋ねた。
「前田さん。良かったら、一緒に夕ご飯食べていかない?」
「ええ、良いですよ」
 治子は頷いた。夏姫の推薦する店なら趣味が良いであろう事は、以前朱美が連れて行ってくれた店で証明されている。しかし、その時治子はあることを思い出した。
(…いや、夏姫さんに限ってまさかねぇ)
 あの時は酔っ払った朱美を部屋に連れて帰った後でキスされたのだった。しかし、夏姫は朱美とは違う。たぶん大丈夫だろう。
 不安を押し隠して、治子は夏姫の後に続いた。

 治子の期待した通り、その店はなかなか趣味の良い構えだった。
(ん? この店も一応ファミレスなのか)
 入り口の看板を見て治子は思った。ファミレスにしてはずいぶんと高級感漂う印象だ。調度は派手すぎず地味過ぎず、店内のBGMも落ち着いた曲が使われ、照明はやや暗めだ。
 適当に注文し、やがて料理が届いて、二人は遅めの食事をはじめた。
「どう、このお店は」
 夏姫に問われ、治子は食べる手を止めて答えた。
「なかなか美味しいですね」
 治子が食べていたのは、店おすすめの一品だと言うビーフ・ストロガノフ。この時間に食べるにはちょっと重いかな、と言う印象のあるメニューだが、コクがあるのにさっぱりとしていて食べやすかった。
 しかし、その答えを聞いた夏姫は思わず苦笑した。
「そうではなくて、お店の雰囲気を聞いているのよ。うちと比べてどう?」
 治子は辺りを見回し、答えた。
「Piaキャロットよりは高級感がありますね」
 そう言いながら、治子は夏姫にしてはずいぶんと変な質問をするものだと思っていた。Piaキャロットは文字通りのファミリーレストラン。家族向けに子供からお年寄りまで、どんな人も気軽に入れる店作りをしている。一方、この店はファミレスと言う以外にPiaキャロットとの共通点はない。どっちかと言うと、カップルを狙ったような感じで、コンセプトが違いすぎてPiaキャロットとは比較できない。
「そうね」
 夏姫は頷き、また質問してきた。
「前田さんは、うちみたいなお店と、こういうお店、どっちが好みかしら?」
 治子はまたしても戸惑った。夏姫の質問の意図が全くわからなかったからだ。
「どっちが好みか…と聞かれたら…やっぱりPiaキャロットでしょうね」
 結局、治子は正直に答えた。質問の意図がわからない以上、正直に答えるのが一番だと思った。
「そうね…」
 夏姫は頷いたが、その声にはさっきよりも元気がなかった。治子の疑問はますます深まった。
(夏姫さんらしくないな…)
 常に物事をはっきりさせる夏姫にしては曖昧な、つかみ所のない態度に、治子は何か彼女が心配事でも抱えているのではないか、と疑問に思った。それを聞くか聞くまいか考えあぐねているうちに、その場に第三の人物が登場した。
「夏姫。来てたのかい?」
 突然声がかけられた。治子が顔を上げると、まだ若いがいかにも「やり手」といった感じの、しかしそれでいて冷たそうではない雰囲気を持った青年が、彼女たちのテーブルに向かって歩いてくるところだった。
「こんばんは、誠二さん」
 夏姫が挨拶を返す。その様子に、治子は首を傾げた。
(名前で呼び合ってる…ってことは、二人はそこそこ親しい仲なのかな?)
 そう思う間に、誠二と呼ばれた青年は二人のテーブルの横に立った。
「前もって言ってくれれば、席を空けて置いたのに」
「あら、特別扱いは駄目よ」
 夏姫と誠二は親しく談笑している。それをじっと見ていた治子だったが、一瞬会話が途切れた隙に上手く入り込んで尋ねた。
「あの、夏姫さん、この方は?」
 すると、夏姫は治子を蚊帳の外に置きっぱなしにしていた事に気付いて言った。
「あ、ごめんなさい。こちらの方は、このお店のオーナーの元木誠二さん」
 夏姫に紹介され、誠二が頭を下げた。
「はじめまして。元木です。まぁ、オーナーと言うか共同経営者なんですけど」
「あ、はじめまして…前田治子と言います。夏姫さんの下で働かせてもらっています」
 治子も挨拶を返した。じっと誠二を観察する。若いが、オーナーと言うだけあってなかなかの威厳がある。
(俺とは大違いだなぁ)
 治子は思った。彼女と誠二では10近く歳が違いそうだが、後10年後に、自分が彼と同じような威厳をもてるまでに成長しているかどうか、自信は無かった。
(それ以前に、同じ性別に戻っているかも怪しいか…)
 ちょっと沈み込んだ治子に、誠二は一瞬不思議そうなな表情を見せたが、すぐに夏姫との会話に戻る。その内容を聞いていると、二人がお互いを尊敬し、気遣っている事が治子には良くわかった。
(この二人、付き合っているのかな?)
 治子はそう分析した。そうして見ると、実にお似合いのカップルであると思わざるを得ない。にも関わらず、治子は微妙な違和感を感じていた。
(なんだろうな…二人とも、どこか距離を取って話してるように見える…その割にはよそよそしい、と言うわけでもないし…)
 その違和感を抱えたまま、治子は食事を終えた。時間も既に11時を回っている。
「私、先に帰りますね」
 治子は立ち上がった。この店の営業時間はまだ続くようだし、夏姫と誠二の邪魔をしてもいけないと思ったのだ。正直なところを言えば、もう少し二人を観察してみたかったが、そこまで踏み込む事もないだろう。
 しかし、治子の言葉を聞くと、夏姫もはじめて時計に気付いたように声をあげた。
「あら、もうこんな時間…私もそろそろ行きます」
 誠二は残念そうな声で答えた。
「そうか…また、ゆっくり来てくれよ」
「ええ、近いうちに」
 夏姫も頷き、勘定を済ませて二人は店を出た。誠二はドアの外まで出て見送ってくれた。
「ごめんなさいね、なんだか勝手に盛り上がっちゃって」
 歩きながら夏姫が謝った。
「いや、良いんですよ。ところで…」
 治子は首を横に振ると、声を潜めた。
「元木さんって、夏姫さんのお友達ですか?」
 一応どういう仲かだけ聞いておこう、と思っての何気ない質問だったが、夏姫の答えは治子の想像を越えるものだった。
「婚約者よ」
「…こんっ!?」
 驚きのあまり、治子は大声を上げかけ、慌てて自分の口を押さえた。深呼吸一つして気持ちを落ち着かせ、ゆっくりと聞き返す。
「婚約者…ですか?」
 夏姫は頷いた。治子ははぁ、と溜息をついた。婚約者がいる人というのを初めて見たのである。
(そういう事って、あるんだなぁ)
 治子は夏姫の顔を見た。普段はクールな表情を崩さない彼女が、少し照れたような表情をしている。誠二もなかなかの人物と見えたし、夏姫が彼との関係を肯定的に捉えているのは確実だろう。
 なのに、なぜ会話の途中にあんな違和感を感じたのか…治子はどうしてもそこが引っかかった。それも、夏姫だけではなく、誠二の方にも。
 しかし、治子は結局その事を聞くのはやめた。あまりにも不躾な質問に思えたし、ただの自分の勘違いかもしれないからだ。自宅に戻る夏姫と別れ、治子は寮に帰った。

 翌日も人間関係は相変わらずの状況だった。治子は明彦の顔が見られず、朱美と美春は明彦を敵視し、夏姫がその後始末を続けていた。ちょっと違うのは、治子のシフトが昨日は遅番だったのに対し、今日は早番と言う事である。
 仕事を終え、着替えた治子は事務室で書類整理をしている夏姫に一声かけ、そのまま従業員用出口から帰ろうとドアを開けた。その時だった。
「あの、すいません」
「はい?」
 唐突に治子に声をかけた人物がいた。治子がそちらの方向を見ると、一人の男性が立っていた。年齢は50台の半ばから後半と言うところだろう。恰幅は良いが、どことなく疲れた感じを漂わせた人物だった。
「何か御用でしょうか?」
 治子は聞いた。すると、男性は思わぬ人物の名前を出した。
「こちらに勤めている岩倉夏姫を訪ねてきたのですが、まだおりますか?」
「夏姫さん? え、ええ、まだいますが…どのようなご用件でしょうか」
 治子は今出てきたばかりの扉のノブに手を掛けて尋ねた。
「これは失礼…私は夏姫の父でして…」
「え、お父様ですか?」
 その言葉に、治子は男性の顔をまじまじと見つめた。あまり似ていない。
 いや、似ているのかもしれないが、雰囲気が違いすぎてわからなかったのだ。
「では、こちらへどうぞ」
 治子はドアを開け、男性を中へ通した。そして、さっき挨拶をしたばかりの事務室のドアをノックした。
「はい、どうぞ」
 中から夏姫の声がした。治子はドアを開けた。
「あら、前田さん。帰ったんじゃなかったの…」
 夏姫はそこまで言ったところで、治子の背後に立っている人物に気が付いた。その顔が驚きで一杯になる。
「お…お父さん?」
「久しぶりだね、夏姫。たまたま近くを通ってね…」
 父親の方は言ったが、別に夏姫は地元の人間ではない。「たまたま」なんかで近くに来るはずが無かった。わざわざ遠くから会いに来たのに違いない。
「うん…わかった。ちょっとこっちへ来て。前田さん、悪いけど留守番お願い」
 夏姫もそれを察したのだろう。父親を会議室の方に案内した。治子は留守番を了承し、開いているソファに腰掛けた。
(何を話しに来たのかな…)
 夏姫の父がわざわざやってきた理由が何なのか、治子にも気に掛かった。彼女はそっと立ち上がり、会議室のドアのそばで聞き耳を立てた。
「―元気そうで嬉しいわ」
 夏姫の声が聞こえてきた。
「ああ、お前も元気そうで何よりだ」
 父親が答えた。
「…ごめんなさい、心配ばかりかけて。私…」
 夏姫が申し訳なさそうな声で言った。すると、父親は笑いながら娘の謝罪を遮った。
「ははは、良いんだよ。ここに来る時にざっと見たが、町も、この店も、なかなか良い雰囲気じゃないか。お前みたいに落ち着いた娘にはぴったりだよ」
 一瞬会話が途切れ、やがて夏姫が躊躇いがちに尋ねた。
「工場の方は…大丈夫?」
「ああ、心配してもらうような事にはなっていないよ。経営もだいぶ持ち直した」
 なるほど、と治子は思った。夏姫の父の疲れたような感じは、仕事が上手くいっていないからだったのだ。そう理解した時、思わぬ名前が夏姫の口から飛び出した。
「…元木さんのおかげ?」
 再び会話が途切れた。少し間を置いて、父親がごまかすような口調で答えた。
「ま、まぁ…そうだな。そういう事もあるかな」
「良いのよ。私、知ってるの。元木さんの銀行が融資してくれた事…もちろん、彼はそんな事は一言も口にしないけど…」
 治子は夕べの二人の事を思い出した。楽しそうなのに、どこか距離をおいた会話。あれは…そう、遠慮だったのだ。
 夏姫は実家が元木の世話になった事を知っており、そのために素直に彼への好意を出せないのだろう。元木もたぶん…
(これが大人の恋愛…なのかなぁ。俺や日野森とは大違いだよな…)
 治子が溜息をついたとき、夏姫と父親の会話は佳境に入っていた。
「元木君は良い人だ。裏表のない誠実な人だよ。だが、彼との関係をどうするかはお前が決める事だ。私は、お前が幸せになってくれさえすれば、他には何もいらないよ」
「お父さん…ごめんなさい…私、ろくに親孝行も出来なくて…でも、もう少し考えさせて欲しいの」
 夏姫の言葉に、かすかに泣き声が混じるのが聞こえた。父親が優しい声で娘を慰める。
「いいさ。お前の人生だ。納得いくまで考えると良い」
 会議室が静かになった。治子はそっとドアの前から離れ、最初に座っていたソファに戻った。数分して、ドアが開いて二人が出てきた。
「今日は、久しぶりにお前の顔が見られて嬉しかったよ」
「うん。お母さんにもよろしくね」
 二人とも微笑んでいる。特に、夏姫には泣いていた跡はかけらも無い。それがかえって治子には痛々しく見えた。
(夏姫さん、大丈夫かな…)
 笑う夏姫を見ながら、治子は案じていた。そして、ある行動に出る事を決意した。

 店を出た後、治子は昨日の店…元木の店に来ていた。席に案内してくれたウェイターに元木を呼ぶように頼み、事情については夏姫の件で話をしたいといえばわかる、と押し通した。果たして、待つ事5分ほどで元木がやってきた。
「おや、あなたは昨日の…」
 驚く元木に対し、治子は微笑んで見せた。
「前田です。不躾なお呼びたてをしてすいません」
 笑顔のまま謝罪する治子。たぶん、これなら相手に与える印象は悪くないものだ、と計算している。
(…女の武器を使うなんてちょっと嫌だけどね)
 治子がかすかに自己嫌悪を感じていると、向かいの席に元木が座った。
「で、夏姫の事でお話があるそうですが…」
 早速本題を切り出してくる。治子は元木に尋ねた。
「夏姫さんの実家に融資をされたのは、あなただそうですが…」
 元木は頷いた。
「ええ。私がまだ銀行で働いていた時の事です…なぜそれを?」
 治子はその質問を無視して先を続けた。
「夏姫さんと出会ったのは、その時なんですか?」
「ええ、あの頃まだ夏姫は大学生で…私が融資の相談に来ている時に、お茶を持ってきてくれたんですよ」
 そこで、元木は遠くを見つめるような視線になった。
「思えば、あれが一目ぼれだったのかもしれない…それ以来、頭の中は彼女のことで一杯で、難しい融資だったけど、彼女のためならと強引に話をまとめもしたっけ…」
 治子はその独白に近い元木の言葉を黙って聞いていた。その言葉の端々に、夏姫への真剣な思いが篭っていることが、彼女にはわかった。
「それから、何回かデートを重ねて、プロポーズもしたんですが…未だに彼女からは正式な答えをもらってないんですよ」
 そこまで話したところで、元木はふっと我に返ったような表情になった。そして、恥ずかしそうな笑みを浮かべる。
「いや失礼。つい夢中になってしまいました」
 治子は気にしない、と言うように首を横に振って見せた。
「それで、融資の件は夏姫さんには内緒にしてたんですか?」
 そう質問すると、元木はゆっくりと首を縦に振った。
「ええ。彼女には余計な心配をさせたくなかったんです。私との事は融資とは関係なく、考えて欲しかった」
 そこで治子は今日知ったばかりの情報を口にした。
「夏姫さんは知ってましたよ。融資のことを」
「…え?」
 驚く元木に、治子はさらに言葉を続けた。
「そりゃあ、夏姫さんは頭のいい人ですから…すぐにわかったんじゃないでしょうか?」
 元木はしばらく唖然としたような表情をしていたが、やがて苦笑を浮かべた。
「それじゃあ、私は余計な心配をしていたのか…それなら、隠していたことで余計に夏姫に負担を掛けていたとしてもおかしくない…」
 考え込む元木に、しかし治子は笑いかけた。
「でも、心配ないです。貴方との関係を夏姫さんに聞いたとき、『婚約者』って言ってましたから」
 その言葉に、元木は思わず顔を上げた。その表情には嬉しさが混じっている。
「本当ですか?」
「ええ、夏姫さんが本心では貴方の事が好きなのは、間違いないと思いますよ」
 尋ねる元木に、治子は自信を持って請け負って見せた。そして、最後の一言を言った。
「だから…包み隠さず本音で話してみたらどうでしょうか。二人で」
 治子のその一言を最後に、席にはしばらく沈黙が流れた。やがて、元木が口を開いた。
「そう…ですね。そうしてみます。私は少し難しく考えすぎていたのかもしれない」
 そう言って、元木は不思議そうな表情で治子の顔を見た。
「でも、何故貴女が私たちの事で、こんな話を…?」
 確かに、治子のやった事は世間的に見れば「お節介」以外の何物でもないだろう。しかし、もちろん治子にはこういう行動を起こす理由はあった。
「…私、恋愛失敗者なんですよ」
 治子はそう言って笑って見せた。もちろん、朗らかな笑みではない。
「だから…夏姫さんには私みたいな目には会って欲しくないんです」
 それだけ言って、治子は黙ってコップの水を口に運んだ。元木は、その治子の寂しげな表情をじっと見ていた。

 それから数日後…治子と明彦、朱美、美春の気持ちもようやく落ち着いてきた頃、治子は夏姫に呼ばれて事務室に入った。
「なんでしょうか? 夏姫さん」
 問う治子に、夏姫はそっと左手を掲げて見せた。その薬指に、指輪がはめられていた。
「あれ、それは…」
 治子は首を傾げた。その指輪は、夏祭りの日に夏姫が屋台で購入していたおもちゃの指輪だった。
「昨日、誠二さんが尋ねてきたの。私…彼のプロポーズを受ける事にしたわ」
「え、それはおめでとうございます」
 夏姫の思わぬ言葉に一瞬驚いた治子だったが、すぐに祝福の言葉を送った。きっと、二人本音で語り合って決めた事なのだろう。夏姫の顔は幸せそうだった。
「でも、私にもやりたい事があるし、結婚はまだ当分先。この指輪は、とりあえずの契約の証よ」
 そう言って、夏姫は手を降ろした。手近なもので済ませる辺りが合理性を重んじる彼女らしいと、治子はおかしくなった。
「はぁ、で…やりたい事ってなんですか?」
 治子は尋ねた。結婚よりも優先させる事だから、きっとよほど大事な事に違いない。すると、夏姫は不敵な笑みを浮かべた。
「それはもちろん、この店をPiaキャロットグループで一番にする事よ。それに、私がいなくなっても…先輩…店長を支えてくれる人材を育てる事ね」
 おお、と治子は頷いた。いかにも夏姫らしい目標だ。しかし、次の瞬間、その感心する気持ちは吹き飛んだ。
「…と言うわけで、これからびしばし鍛えるわよ、前田さん」
「…え…は? わ、私?」
 驚きのあまり間抜けな声をあげる治子に、夏姫は頷いた。
「そうよ。ちょっと悔しいけど、先輩が今一番頼りにしてるのは前田さんみたいだし…それに、貴女には私には出来ない気配りができるみたいだし」
 え、何の事だろう、と思った治子に、夏姫はとんでもない事を言った。
「誠二さんが言ってたのよ。『君に、彼女みたいな寂しい顔をさせたくはないからね』ですって。誰の事かしらね」
「う…」
 治子は絶句した。元木のところに行ったことがしっかりバレている。
「さて…そろそろお昼の時間帯ね。フロアに行くわよ、前田さん」
「は、はい」
 治子は立ち上がった夏姫の後に続いた。どうやら、治子の行動は夏姫にとっては良い結果になったようだが、吹っ切れた夏姫の張り切る分は、それを手伝った治子にもちゃんとのしかかってくるのであった。

(つづく)

治子への好意カウンター
夏姫:+2 しかし攻略失敗(爆)
明彦:+1 トータル13ポイント


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