シフトが終わり、更衣室に入った治子は、部屋の中央に置かれたベンチに投げ出すようにして腰を下ろし、盛大な溜息をついた。
「うはぁ…疲れたぁ…」
 あのミス美崎海岸コンテストから数日、決勝進出8名中6名が4号店の関係者だった、と言う情報が広まるに連れ、店には今まで以上に客が押し寄せていた。昇は6人に内緒でコンテストに応募したのがバレた時に「宣伝になると思って」と言い訳していたが、嘘から出た真、とはこの事だろう。
「このままでは、まともに業務ができません」
 さすがの夏姫が困った表情で言ったほど、ここ数日の混雑は異常を極めていた。夏姫も事務を放り出してフロアの手伝いをし、残業してデスクワークを片付けてから帰る、と言う事を続けている。
「このままじゃ身体が持たないよな…」
 呟いた治子だったが、とりあえず着替えて帰ることにした。できるだけ身体を休めた方が良いだろう。
 ところが、帰ろうとして裏の通用口から出た治子は、そこでアロハシャツにサングラスの怪しげな男を発見した。
(なんだ、昇か…あいつ、どこに行く気なんだろう)
 治子は思った。昇は寮とは反対の方向へ向かおうとしている。疲れているのでさっさと帰ろうと思った治子だったが、ふと好奇心が頭をもたげた。
(ちょっと、後を尾けてみるかな?)
 治子は昇と少し距離を置いて歩き始めた。幸い、彼が向かった先はたいした距離ではなかった。商店街のはずれにある、小さなビデオショップ。昇はその中に入っていった。治子がその前に立ってみると、入り口にはこんな張り紙がしてあった。

閉店記念セール ビデオ1本300円、5本1000円にてお譲りします

「へぇ、何か掘り出し物があるかな」
 興味を惹かれた治子は店の中に入っていった。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


18th Order 「新人さんいらっしゃい」


 店内は薄暗く、ビデオショップと言うよりは酒蔵を連想させるものがあった。だいぶ在庫が捌けたのか、棚はかなり空きが目立つ。ためしに手近なものを一本手に取ってみたが、それは治子が聞いた事もないような、いかにもB級映画の香りを漂わせるものばかりだった。
「なになに…『プルガサリVSポカホンタス』? こっちは…『ある愛の恋と盆と正月』…ダメそうなのばっかりだ」
 掘り出し物はなさそうだった。治子は買うのをあきらめて、昇を探した。彼がどんなビデオを買うのかと思ったのだが、姿が見えない。おかしいと思ってあたりを見回すと、店の奥の方からかすかに話し声が漏れてくるのが聞こえた。
「…これなんか…女優さんも可愛いし」
「おお、良いねぇ。さすがにわかってるなぁ」
 何やらビデオの内容について話し合っているらしい。治子はその方向へ向かった。
「あぁ、なるほどね…」
 治子は納得した。そこはアダルトビデオのコーナーだったのだ。治子はセクシーな美女がウインクしている凄いデザインの暖簾を潜ってその中に入った。
「いらっしゃいませ〜」
「げっ、治子さん!?」
 出迎えたのは、店員の明るい声と昇のうろたえた声だった。治子は店員を見た。緑がかった髪の、快活そうな…
(ん?)
 治子はその店員に何か違和感を感じ、そして、その理由に思い当たって手を打った。彼女は以前にも、この店員と似たような雰囲気を持つ人物に出会った事があるのだ。
「昇君…君結構大胆だね」
 治子が言うと、昇はきょとんとした表情になった。彼から見れば、アダルトコーナーに堂々と入ってくる治子のほうがよほど大胆である。
「え? 何がです?」
 昇が怪訝そうに言うと、治子は彼と店員の顔を交互に見ながら言った。
「だって、普通女の子の店員さんといっしょにアダルトコーナーには入らないでしょ」
 その治子の発言に、昇は驚いて店員を見た。確かに、一見快活そうな少年のように見える。しかし…
「え? ま、まさか…」
 昇が事態を悟って言うと、店員はおかしそうに笑った。
「あ、ひどいなぁ。お客さん、ボクの事男の子だって思ってました? まぁ、よく間違われるんですけど」
 ボーイッシュな外見の上に「ボク」と言う一人称では、確かに男の子に間違えられるのも無理はない。しかし、その笑い声は、確かに女の子のものだった。昇の顔は真っ赤になった。
「そ、そんな馬鹿な…気が付かなかった」
 呆然となる昇。そんな彼を見ながら、店員は治子に声をかけた。
「でも、お客さんは一発で見破りましたね」
「ん? まぁ、慣れてるしね」
 治子は答えた。2号店には女の子でありながら、男装してバイトをしていた同僚がいる。その彼女…神楽坂潤の事を治子は思い出していた。彼女と付き合いがあるせいか、この店員が男の子に見えて実は女の子である、と言う事は治子には一目でわかった。
「ところで、このお店は閉店するんだって?」
 治子が言うと、店員は頷いた。
「あ、はい。今日でおしまいです。またバイト探さないと」
 店員は仕事を失う事など物ともしない明るい声で言った。そんな彼女を見ながら、治子は確信していた。この明るさ、物怖じしない態度。客相手の立ち居振舞いにも慣れている。この娘は使える。
「良かったら、バイト紹介してあげようか?」
 治子の言葉に、店員は初めて驚いたような表情を見せた。

 そして、二日後。
「今日からこちらで働かせていただく事になりました、天野織江です。よろしくお願いしますっ」
 朝のミーティングに、ビデオ店の店員…織江が参加していた。それも、ウェイトレスの制服を着込んで。ボーイッシュな彼女だが、フローラルミントの制服は良く似合っていた。スタッフたちが一斉に拍手で歓迎の意思を表す。
「天野さんにはフロアスタッフを担当してもらいます。皆さんも、天野さんが困っているようならアドバイスしてあげてください」
 朱美が言った。全員が一斉に「はい!」と返事をする。
「では、みんなからも一言挨拶してもらいましょう
 夏姫の言葉を受け、端っこにいた美春から自己紹介をしていく。そして、治子の順番になった。
「前田治子です。改めてよろしくね、織江ちゃん」
 治子の挨拶に織江は「はいっ!」と元気良く返事を返し、二人にみんなの注目が集まった。まるで知り合い同士の挨拶みたいだからだ。
「あ、ボクにこのバイトを紹介してくれたのは治子さんなんですよ」
 織江が言った。彼女は治子の「バイトを紹介する」と言う言葉に頷き、履歴書を用意して四号店を訪れたのである。治子の紹介と言う事もあったが、織江自身の態度にも問題はなく、無事採用の運びとなったのであった。
 謎が解けたところで挨拶は続き、男子の番になった。
「あ、え、えっと…木ノ下昇ッス…よろしく」
 彼らしくない妙にもじもじした挨拶に、周囲から不審の目が注がれた。そして、織江の返事がさらにそれに火を付ける事になる。
「うん、よろしく。あの事は黙っておくから」
 一体何があった!?と言う風に緊張が高まった。特に、ナナは怒ったような、拗ねたような視線を昇と織江に送っている。ナナが昇のことを好きらしい、と見ていた治子は、あとでちゃんとフォローしてやらないと、と思った。
(あ、でもすると昇がたくさんのAVを買い込んでいたことをナナちゃんに言わなくちゃいけないのか…それはまずいかな)
 治子がフォロー方法に悩んでいる間に、順番は最後の明彦に回っていた。
「えっと、神無月明彦です。よろしく」
「え…?」
 明彦が挨拶した瞬間、織江の態度に変化が現れた。何かに驚いたような表情をしている。
「…俺の顔に何かついてる?」
 織江に凝視された明彦が照れたようにいうと、織江は我に返った。
「あ、ご、ごめん。なんでもないよ…よろしくね」
 真っ赤になる織江をちょっと可愛いな、と治子は思った。
「ところで、良くサイズの合う制服がありましたね」
 治子は夏姫のほうを向いて言った。フローラルミントタイプの制服は、その形状から言ってもフリーサイズなどはなく、実質的に店員それぞれのサイズに合わせた特注品に近い。
「あぁ、それは君島さんの予備の制服よ。サイズが合って良かったわ」
 何気なく答えた夏姫の言葉に、ナナの表情が変化した。織江に対して向けていた嫉妬の視線が溶けるように消え去り、逆に親しい友人を見つけたような明るい表情になる。
「天野さん…一緒にがんばりましょうねっ!」
「え?う、うん。ありがとう」
 ナナに手を握られ、驚いたように頷く織江。ナナの豹変の理由を誰もが掴みかねたが、ナナ本人にとっては、ようやく悩みを共有できそうな娘が現れた事が嬉しかった。
(だって、みんな大きいんですもの)
 ナナの悩み…それは、周囲の女性陣がみんな胸が大きい事だった。なお、実際には織江の方が少しだけ大きい事を知って、ナナはまた絶望のどん底に叩き落される事になるのだが、それはまた別のお話。
 そんな乙女の悩みも知らない治子は、どうやらフォローしなくてもナナと織江が仲良くなれそうなことにほっとしていた。

 ミーティングも終わり、開店時間になる。この日も麗しのウェイトレスたちを一目見ようと、多くの客が押し寄せてくる。昨日ちょっと接客の練習をしただけの織江が上手くやれるかな、と心配した治子だったが、それは杞憂だった。
「はい、お待たせしましたっ。ご注文のタピオカミルクティーとストロベリーヨーグルトサンデーですっ!ご注文の品は以上でお揃いでしょうか?」
「ご注文を確認しますっ。ステーキ&エビフライの洋食セットと美崎海鮮丼の豚汁セット、以上でよろしいでしょうか?」
 明るく、はきはきした声で働く織江。接客慣れしてるだろうと予想はしていたが、それをも超える彼女の仕事ぶりは、今日もフロアの応援に来ていた夏姫も十分合格点を与えるものだった。
「なかなかいい娘を紹介してくれたわね。ありがとう、前田さん」
 夏姫はホッとしたような表情で言った。どうやら、これで滞っていた事務の仕事に専念できるらしい。
「私も楽したいですからね」
 治子は素直に答えた。ただでさえ忙しいのに、ウェイトレスのナンパ目的で来る男性客への対処で、余計に忙しくなっているからだ。ここ数日間で一体何回声をかけられたか…もう数える気にもならない。
「そうね…やはり出ないほうが良かったかしら」
 夏姫が頬に手を当てたポーズで言った。もちろん、あのコンテストの事だ。いつも毅然とした彼女が、こういう疲れたポーズをとるのは珍しい。
「…今さらどうにもなりませんよ。人の噂も何日といいますし、ほとぼりが冷めるのを待ちましょう」
 治子が「ご開帳」された事を思い出し、赤い顔で言うと、夏姫は頷いてバックヤードの事務室に戻ろうとした。するとその時、昇が楽しそうな表情でやって来た。
「あ、治子さん、夏姫さん。さっき叔母さんに電話して、織江ちゃんの歓迎会の手はず整えましたんで、よろしく」
「「はぁ!?」」
 昇の言葉に思わず口をあんぐりと開ける治子と夏姫。昇は用事は済んだとばかりに戻っていく。
「…元気なのは元凶ばかりなり、と…」
「なんか、ムカつくわね」
 二人は顔を見合わせて深い溜息をついた。

 その日の営業もどうにか終わり、後片付けを済ませると、着替え終わった織江はリュックを右肩がけにして帰ろうとした。
「お疲れ様でしたー。明日もよろしくお願いしますねっ!」
 元気良く挨拶して部屋を出て行こうとする織江を、治子が呼び止めた。
「あ、ちょっと待って、織江ちゃん」
「はい?」
 怪訝な表情で振り返った織江に、治子は歓迎会のことを告げた。
「え、ボクのために?良いんですか?」
 驚いたように言う織江に、治子はもちろん、一緒にいたナナとさやかも頷いた。
「もちろん。これから一緒に仕事をしていく仲ですもの」
 さやかがにこにこと笑いながら言う。その横で、治子は腕組みをして真剣な表情で言った。
「まぁ…木ノ下一族の陰謀っぽいけどね」
 貴子と昇、いざお祭り騒ぎや楽しげなイベントとなれば、一致団結して事に当たっている。実に良いコンビである。
「でも、織江ちゃんを歓迎するのは大賛成です」
 既に織江を「貧乳同盟の同志」とみなしているナナが満面の笑顔で言った。
「ありがとう、ナナちゃん」
 そんな風に思われているとも知らず、織江が嬉しそうに答える。そして、4人は連れ立って会場となる寮へ向かって行った。

 寮では既に貴子が大量の料理を用意して待っていた。それにしても、宴会の多い職場だとつくづく思う。
(まぁ、少ないよりは良いんだけど。それにお金がかかってないし)
 治子は思った。普通に居酒屋などで宴会をすると、一人3000円は取られるところだが、ここの場合はお金を取られた覚えがない。まさか無料で済んでいるはずはないが、誰が負担しているのだろうか。
 その辺りを今度貴子か朱美にでも聞いてみよう、と思った時、その朱美が久々に店長らしく乾杯の音頭を取った。
「それでは、天野さんを歓迎して…かんぱーい!」
『乾杯!!』
 それぞれ目の前のドリンクを手に取って飲み干す。織江は一応未青年だそうで、普通のグレープジュースを選んでいた。乾杯が終わると、彼女は立ち上がって頭を下げた。
「今日はボクのためにありがとうございます」
 拍手が起こる。治子も手を叩いていると、さりげなく治子の右横に座った人物がいた。朱美だ。
「今日もお疲れ様、治子ちゃん」
「あ、はい。朱美さんも」
 頷きながら、治子は朱美の掲げたグラスと自分のグラスを打ち合わせた。そして、いつのまにか朱美の治子に対する呼び方が「治子ちゃん」になっていることに気づく。前は「前田さん」だったのに…
 そう思って朱美の顔を見ると、恋する乙女の熱っぽい潤んだ瞳とまともに視線が合ってしまい、治子は激しく動揺した。
「あ、あはは…」
 治子が乾いた笑い声をもらした時、左横に人の気配がした。これはすぐに誰か分かる。美春だ。振り向くと、彼女は明らかに拗ねたような表情で治子の顔を見ていた。
「お姉さま、私とも」
 そう言って美春はグラスを差し出してきた。治子が頷いてグラスを合わせると、目の前で火花が散る。美春と朱美の視線のぶつかりあいだ。
(朱美さん、なんだかんだ言って退く気はないんですね?)
 治子は心の中で涙した。しかし、朱美としては、治子が美春を選べば仕方がないとしても、できれば治子が自分の事を選んでくれるように、恋敵を牽制し、自分をアピールするのは当然の行為である。
 激しく火花を散らす朱美と美春の間で、いつしか心だけでなく実際に目の幅涙を流す治子を、向かいに座っていた夏姫はちょっと複雑な表情で見ていた。

 そんな異界化している治子の回りはさておき、今日の主役である織江は、周囲を他の店員たちに囲まれて、すっかり打ち解けた雰囲気になっていた。
「え、じゃあ織江ちゃんって地元の人ってわけじゃないんだ…」
 地元民代表、ナナの言葉に織江は頷いた。
「うん、ボクはずっと家の都合で引っ越しが多かったから…ここに来たのもついこの間だよ」
 織江は屈託なく笑ったが、どことなく寂しげな影が表情に出るのを、周囲のみんなも感じていた。治子も泣きながらではあったが、その様子をしっかり観察していた。
(…なんか、織江ちゃん神無月の事を気にしてるな)
 そう言えば、朝の挨拶の時もそうだった。かと言って、一目惚れとかそう言う話でもないようだ。
 強いて言えば、懐かしい人に出会ったような、そんな感じの目だ。しかし、明彦のほうは織江に好意的な視線こそ向けているものの、同じような懐かしそうな表情はしていない。
(うーん…織江ちゃんが神無月の事を知っているのか…それとも、ただ単に知っている誰かに似ているだけなのか…?)
 治子は思ったが、それは考えても仕方のない事だった。二人の過去を知らない以上、わかるはずのない事だからである。
(でも、これで織江ちゃんが神無月の事好きになったりしたら、また話がややこしくなりそうだな…)
 明彦は治子と性格が似ているので、もしそうなったらどうなるかは手に取るようにわかる。ただでさえさやかと見知らぬ誰かの間で揺れ動いている明彦は、織江に好意を寄せられてますます混乱するだろう。
(って、まぁ…起きてもいない事について心配しても仕方ないんだけど、少し気をつけておくか…それより)
 治子は現実に戻った。そこでは、朱美と美春が相変わらず自分を挟んで対決を続けていた。
「お姉さま、これどうぞ」
 美春がしきりにグラスに入ったオレンジジュースを勧めてくる。一方、朱美の方はと言うと…
「健康には濃いミルクが一番よ」
 などと言いながら、牛乳を入れたグラスを勧めてきている。どちらを先にとっても角が立ちそうだし、同時に飲むにはオレンジジュースと牛乳では組み合わせが悪すぎる。
(どうしよう…)
 困る治子に助け舟を出したのは、意外にも夏姫だった。
「先輩、前田さんと親睦を深めるのもいいですが、店長として新人の天野さんを放って置くのはいかがなものでしょうか」
 夏姫の言葉に、朱美がハッとしたような表情になる。つい美春と張り合ってしまったが、確かに店長としては新人を放置しておくのはマズかろう。
 どうやら朱美が脱落すると見てニヤリと笑った美春だったが、その彼女にも夏姫の矛先は向けられた。
「冬木さんも、できれば天野さんにいろいろとアドバイスをしてあげて欲しいのですが」
「え…はい」
 仕方なく、織江を囲む輪の中に入る朱美と美春。治子は助かった、と言う気持ちで夏姫を見た。しかし、夏姫も単純に治子を助けたわけではなかった。
「前田さん、ちょっとお話があります」
「…?あ、はい」
 一瞬何の話だろう、と不思議に思った治子だったが、夏姫の表情がいつもに輪をかけて真剣になっていることに気が付き、思わず息を呑む。喉が渇き、治子は手近なグラスに手を伸ばして、その中身を口に含んだ。美春のオレンジジュースだった。
「…お待たせしました。で、お話とは?」
 治子が訊くと、夏姫は黙って廊下のほうを見た。どうやら、他人には聞かれたくない話のようだ。立ち上がった夏姫に続き、治子は廊下…正確には玄関ホールに出た。
「前田さん…先輩と何かあったの?」
 夏姫は治子の方を振り返ると、開口一番そう言った。
「は?」
 治子は思わず間抜けな声をあげた。夏姫は構わず言葉を続ける。
「最近…先輩が前田さんを見るときの表情が、普通じゃないから…」
 治子は困った事になった、と思った。相手が夏姫では下手なごまかしは通用しないだろうし、かと言って正直に事情を話すのはもっと避けるべきだ。考えた挙句、治子は口を開いた。
「それは…夏姫さんが相手でも話せないことはあります。プライベートな事ですので」
 治子の言葉は、真っ向から詮索不要と言う意思をぶつけるものだった。それに、ある意味正論ではある。
「それはわかります。ですが、プライベートな事でも仕事に影響を及ぼすようであれば、私としては事情を知りたいのですが」
 治子はかすかに唸った。夏姫の反論は、これもまた正論だった。確かに、仕事中に店長である朱美がそわそわしているようでは、補佐役の夏姫としてはそれを解決しなくてはならない。
 どう反撃しようかな、と治子が考えた時、夏姫が先に攻撃を仕掛けてきた。
「私としては…先輩が前田さんにそう言う話をするのは不適切な関係だと思うのです」
 その瞬間、治子の心臓の鼓動は一気に2オクターブほど跳ね上がった。
(夏姫さん、いったいどこまで知ってますかっ!?)
 そう問いかけようとしても、口がぱくぱくと開くだけで、言葉が出ない。酸欠を起こした金魚状態の治子に構わず、夏姫はさらに言葉を続けた。
「もちろん、先輩があなたのことを気に入っているのはわかります。ですが、ちゃんと常識ということを考えないと」
 治子の心臓が激しく鼓動する。全身が熱くなり、それに反比例するように冷たい汗が全身を流れ始める。確かに、朱美が彼女に寄せている想いは、非常識の極みである。しかし、いくら朱美が天然だからといって、夏姫に治子との事を漏らしたとは考えにくい。
(や、やっぱり…一番身近で、しかも付き合いも長いからわかったのかな?)
 夏姫くらい冷静で観察力のある人なら、朱美の行動を読むくらいは造作もないのかもしれない。混乱しながらも、治子はそう考えた。
「前田さん、ちゃんと話を聞いていますか?」
「…はいっ!?」
 考え事をしていた治子は、その夏姫の呼びかけに我に帰った。少し怒ったような顔をしている。
「す、すいません。でも、朱美さんは…」
 治子は素直に謝り、そして朱美の代わりに何か説明しなければ、と思い口を開いた。しかし、先に夏姫がため息をつきながら言った。
「…ともかく、店舗間の人事は本部の管轄なんですから、いくら先輩でも勝手に口出しをするのは良くありません。前田さんからもそう言っておいてもらえますか?」
「気持ちは真剣なんでしょうけど私もなんと答えたら良いか…はい?」
 夏姫の言葉の内容に違和感を覚え、治子は答えを途中で切った。
「…夏姫さん、失礼ですが何の話を?」
 治子は怒られるのを承知で聞いた。
「…先輩があなたを四号店にヘッドハンティングしようとしていた話です」
「…ふぇ?」
 夏姫の答えに、治子は思わず口をぽかんと開けた。
「前田さんは仕事もできますし、人望もありますから、このお店に残って欲しいというのは事実ですが」
 夏姫は言葉を続けている。ここに至り、治子はどうやら夏姫が大きな勘違いをしていることに気が付いた。まぁ、それはそうだろう。いくら夏姫の洞察力が優れていても、「朱美は治子が好き」などという非常識な結論を導き出すのは難しいはずだ。
(し、心配して損した…)
 そう思った瞬間、治子の緊張の糸はぷっつりと音を立てて切れた。同時に視界がぐにゃりと歪み、膝の力が抜け、彼女は床の上にへたり込んだ。
(…あれ?)
 自分の身に何が起きたのかわからず、治子は首を傾げたが、その首を傾けた方向にそのまま倒れ、床に寝転がってしまう。
「ま、前田さん?」
 慌てて夏姫が治子を抱き起こすが、その時には既に治子の意識は半分以上混濁していた。
「た、大変!」
 夏姫は慌てて人を呼んだ。
(えと…これは…酔ってるのかな…)
 だんだん暗くなっていく意識の中で夏姫の声を聞きながら、治子は思った。実は、さっき飲んだ美春のオレンジジュースは普通のものではなく、ウォッカが混ぜてあるカクテル…スクリュードライバーだった。口当たりの割にアルコール度が高く、別名をレディキラーと言う。
 女性に飲ませて、酔わせて良からぬ事をするのに適したお酒であることからついたあだ名である。これを飲んだ治子は既に酔ってはいたのだが、緊張が途切れたことで一気に酔いが回ったのだった。
 美春がこれを治子に飲ませて何をするつもりだったのかはともかく…
(たまには酔うのも良いかな…)
 どうやら話がうやむやになりそうなことで、女の子になって初めてお酒で得した治子だった。

(つづく)

治子への好意カウンター
夏姫:+3 トータル5ポイント
織江:+1 トータル1ポイント


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