明かりを消した暗い部屋の中で、さやかは枕に顔を埋めて泣いていた。
「う…ううっ…は、初めてだったのに…!」
 つい先ほど経験したさやかにとってのファースト・キス。しかし、それはどこからどう見ても「悲惨」としか言いようのないものだった。何しろ、相手は同じ女性…しかも、恋のライバルだったのだから。
「うぅ…もう、お風呂に入って寝ちゃおう…」
 しばらくして、少し気分が落ち着いてきたのか、さやかは呟いた。ひどい思い出ではあったが、いつまでも泣いていても仕方ない。犬に噛まれたと思って忘れてしまうしかないだろう。さやかは準備を整えて風呂場に向かう事にした。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


12th Order 「女の友情」


「あ…凄いお風呂」
 さやかは露天風呂を見て目を丸くした。ここへ来る前、本店で寮の事については一応簡単な説明を受けていたし、明彦からも電話で聞いていたが、やはり見ると聞くとでは大違いだ。
 しかし、湯煙のためか風呂場全体を見渡す事はできない。もう少し奥の湯船の方を確かめようと進んでいくと、先客が来ているのが見えた。
(誰だろう?)
 さやかは目をこらして見た。そして、絶句した。先客は彼女のファースト・キスを奪ったばかりの相手…治子だったのだ。
 その治子は、酔い覚ましに温泉に入りに来ていた。身体がお湯で温められるに従って、アルコールが体内から追い出され、ようやく頭がすっきりしてくる。そこでまず考えたのは、さやかにどうやって謝ったらいいか、だった。
「…困った。高井さんみたいな娘には変に言い訳したりするのは逆効果になりそうな気がするし…」
 それは、耕治時代の経験から来たものだった。あずさに少しでも言い訳がましいことを言おうものなら、即座に鉄拳か剛脚が飛んできて、耕治を一撃必殺してくれたものである。
「こっちの話を冷静に聞いてもらえるまで待つのも手かもしれないけど…困った。どうすればいいんだ一体…」
 しかし、うまい考えが思い浮かばず、困ったあまりに考えた事が全部、口からだだ漏れになっていた。すると、背後から声が聞こえてきた。
「私がどうかしましたか?」
「ほへ?わ、わわっ!?た、高井さん!?」
 振り向いた治子は、そこにさやか当人がいるのを見て仰天した。実は、治子の姿を見て一瞬回れ右して引き返そうと思ったさやかだったが、治子が何やら真剣な表情をしてぶつぶつと呟いていたので、思わずそれを聞くために立ち止まってしまったのである。耳を澄ましてみると、必死に自分への謝罪を考える治子の言葉が聞こえた、と言うわけだ。
 その治子の様子に、さやかはこの人なら許せるか、と思った。ファースト・キスを奪われた事は、確かにショックだった。でも、あれは事故だったのだ。そう言って開き直る事も出来るのに、誠実に謝罪する事を考えていた治子の姿は、さやかの気持ちを確実にほぐしていた。そこで、その事を伝えようとさやかは口を開いた。
「前田さん、あの…」
 すると、治子は先に頭を下げ、手を合わせてさやかを拝むような姿勢になった。
「高井さん、さっきの事は本当にごめんなさい!」
 治子は何の飾りもない、一番シンプルな言葉でさやかに謝った。さっきまでいろいろ考えていた事は、すっかり頭の中から雲散霧消していた。
「その…前田さん、頭を上げてください」
 さやかは声をかけた。治子の率直な態度は、さやかには好感を持って受け入れられるものだった。
「気にしない…って言うのは無理ですけど、その…忘れるようにしますから」
 そのさやかの言葉に、治子は少しだけ安堵の表情を浮かべた。
「そ、そう言ってくれれば…私も少し気が楽ではあるけど…でも…」
「あの、前田さんも気にしないでください。いつまでもこだわられると、私のほうも気になりますから」
 まだためらいがちな治子に、さやかは重ねてさっきのキスの事は水に流す事を告げた。
「うん…わかった。ありがとう」
 治子は頷いた。さやかが許してくれると言っているのだから、ここは素直に甘えておこう。
「じゃあ、さっきの事はお互いに言わないし、触れないと言う事で…」
 さやかもそう言うと、かけ湯をして、風呂に入ってきた。
(わ…高井さん、きれいだなぁ…日野森にも負けてないかも)
 その白い裸身を治子は思わずまじまじと観察してしまう。制服を着ているときにも思った事だが、やはりさやかのスタイルはかなりのものだ。悪い事とは思いつつ、ついあずさと比べてしまうのは、どこかこの二人が似ているからだろうか。
(神無月が好きになったのも頷けるな)
 治子が感心しながら見ていると、さやかがその視線に気づいたのか、治子の方を向いた。
「どうかしました?」
「え?あ、あの、ごめん。高井さんがきれいな身体をしてるからつい…」
 さやかの問いかけに、思わず言い訳じみた答えを返してしまう治子。その言葉に、さやかはぱっと顔を赤らめた。
(…って、何バカな事言ってんだ俺!これじゃただのスケベだろ!!)
 怒らせたかと思い、自分のバカさ加減を呪った治子だったが、さやかの次の言葉は意外なものだった。
「えっと…私なんて…前田さんのほうがきれいだと思います」
「…え?」
 治子は一瞬さやかの言葉の意味を図りかね、それから顔を真っ赤にした。そして、さやかの顔が赤くなったのも、自分と同じで羞恥からだと気付いた。
「そ、そんな事ないよ…高井さんは顔だって可愛いし…私が男だったら、絶対に声をかけていると思うけどな」
 治子は言った。男の頃の…こうなる前の自分だったら、あずさとつかさの事がなければ、さやかに会っていれば絶対にそうしただろうと思う。すると、さやかが言い返した。
「そんな事ありません。前田さんのほうが美人です」
「いや、高井さんの方が可愛い」
「前田さんです」
「高井さんが」
「前田さん!」
「高井さん!」
 お互いに相手の名前を叫び、二人は顔を見合わせる。そして、その不毛な言い合いを続ける自分たちに、どちらからともなく笑い声が漏れた。
「ぷぷっ…」
「ふふっ…」
「くすくす…」
「あはははははっ!」
 ひとしきり笑った後、治子はさやかに言った。
「あはは…私たち、結構良い友達になれるんじゃないかな?」
「そうですね」
 さやかが頷く。
「じゃあ、高井さんなんて堅苦しい呼び方じゃなく、さやかちゃんと呼んで良いかな?」
 治子は訊いてみた。他の女性陣には全員「名前+さんorちゃん」と言う呼び方をしていたのに、さやかだけは「高井さん」で呼んでいたので、なんだか堅苦しくていやだったのだ。
「良いですよ。私も、治子さんって呼びますから」
 さやかは意外にも簡単にOKしてくれた。店ではさやかも名前に「さん」か「ちゃん」付けで他の人を呼んでいるから、治子と同じような気分だったのかもしれない。
「でも…治子さんが言うほど、私は可愛くなんてないですよ。もし、私が本当に可愛ければ…」
 さやかの笑顔が曇り、そんな言葉が口をついた。
「あの…さやかちゃんみたいな素敵な娘が、そういう事言うのはもったいない思うよ。私なんて…」
 フォローの言葉を入れようとして、途中から、治子は自由に口が動かせなくなっている事に気が付いた。そして、視界が霞み、意識が朦朧としてきた。
(しまった…のぼせたかな…!?)
 治子は自分に起きた事を悟った。さやかが来る前からずっと長い間温泉に漬かっていたのだから、当然のことかもしれない。身体の力が抜け、治子はゆっくりとお湯の中に倒れこんだ。さやかが何か叫んでいるのが聞こえていたが、治子はその内容を聞き取る事ができず、意識はそのまま闇の中に吸い込まれていった。

 身体全体に伝わるひんやりとした感覚に、治子は目を覚ました。
「ん…?」
 目を開けると、貴子の顔がぼんやりと見えて来た。
「あら、気が付いた?」
 貴子がやさしい声で聞いてきた。治子が頷くと、額に乗せられていた冷たい何かが落ちた。貴子がそれを拾い、傍らに置かれた洗面器の中に入れると、水音と氷がぶつかり合う時の涼しげな音がしてきた。どうやら、氷水に入れて絞ったタオルだったようだ。
「あぁ、あんまり急に動いちゃダメ。治子ちゃんはお風呂でのぼせて倒れたのよ。覚えてる?」
 貴子の言葉に、治子はさっきよりも小さく頷いた。その額にタオルが乗せられる。冷たくて気持ちが良い…と言うか、寒い。鼻の奥がむずむずする寒さだ。
「…は、は、はっくしゅっ!」
 治子はくしゃみをした。それをきっかけに、ぼんやりとしていた頭が急にはっきりとしてくる。すると、同時に身体が夏にあるまじき冷たい空気にさらされて冷えているのがはっきりと認識できた。
「わ、わ、わ、さ、寒いっ!貴子さん、ここはどこなんですか?」
 言いながら、治子は周囲を見渡した。すると、お誂え向きにコタツがすぐそばにあるのがわかった。慌ててその中にもぐりこむと、冷えていた身体にじわりと優しい暖かさがしみこんできた。
「ふぅ…温まる…って、何でコタツ?」
 状況の異常さに治子が首をかしげると、貴子が同じようにコタツにもぐりこみながら言った。
「ここはアタシの部屋よ。どう、みかん食べる?」
 貴子がみかんを治子の前に転がしてくる。彼女はそれを手に取った。夏みかんではない。冬に旬が来る、あの普通のみかんである。
「いただきます…って、何でみかん…」
 治子がまたしても夏にあるまじき物体の出現に首をかしげる。
「あの、まさかお…私は温泉でのぼせて倒れたまま昏睡状態になって、今はもう季節が冬とか?」
 治子が言うと、貴子は一瞬きょとんとしたような表情になり、それから爆笑した。
「あはははははっ!治子ちゃんったら面白い事を言うのね〜。まだ、治子ちゃんが倒れてから10分も立ってないわよ〜。あははははははっ!!」
 笑いつづける貴子を見ながら、治子は周囲を見渡した。カレンダーが目にとまる。そこにはちゃんと8月の分があった。次に時計を見ると、時間は11時半。風呂に入ったのが10時少し過ぎだったから、時間的にはそれほど変ではない。さらに状況を説明できるものを求めて観察を続けると、巨大な業務用クーラーが壁の一面を占拠しており、そこから冷風が吹き出していた。
「…こ、これは?」
 その個人の部屋にはそぐわない機械に治子が目を見張ると、貴子はえっへん、とばかりに胸を張った。
「それはアタシの命の源よ。アタシ、暑いのは苦手だから、夏でもこうして大きなクーラーとコタツとみかんがないとダメなのよ〜」
 治子はクーラーの横にかけられた温度計を発見した。14度を指している。
「…それはまた、環境に厳しいライフスタイルですね」
 治子が言うと、貴子は「いやぁ、それほどでも〜」と笑った。誉めてない、誉めてないと言うツッコミはするだけ無駄なので、心の中にしまいこんだ。
「まぁ、おかげでゆでだこみたいに真っ赤になっていた治子ちゃんも一発で生き返ったけどね…」
 貴子はみかんの皮を剥きながら言った。治子は上半身を起こし、頭を下げる。
「すいません、お手数をおかけしました」
 頭を下げながら、治子は自分がちゃんと風呂場に持っていったパジャマを着せられている事に気が付いた。
(うっ…すると、裸とかばっちり見られたかな)
 治子はその可能性に気が付いた。顔がかあっと熱くなる。すると、その変化を目ざとく貴子に見つけられてしまった。
「それにしても、治子ちゃんってばやっぱりスタイルがいいわね。おっぱいは形の良い釣鐘型だし、乳首は綺麗なピンク色だし、下の方は…」
「うわああぁぁぁ!!それ以上は言わないでください!!」
 クリティカルな攻撃を食らい、治子は火が出るほど真っ赤な顔で叫んだ。そんな治子を見ながら、貴子が不思議そうな表情になる。
「…治子ちゃんって、神無月君に見られるのは平気なのに、アタシに見られるのはダメなのね」
 見られるのはともかく、自分の裸について解説・論評されるのは誰だって嫌だ、と治子は思ったが、貴子は予想をはるかに超えるとんでもない発言をした。
「それとも…彼にだったら見られても良いとか思ってるのかな〜?それも愛の一つの形ではあるわね」
 その瞬間、治子は食べかけのみかんを吹き出した。
「うえっ、えほっ!な、何を言ってるんですか、貴子さん!!」
 咳き込んで苦しむ治子にお茶を差し出しながら貴子は答えた。
「あら、違ったの?」
「…違います」
 お茶を飲んで気持ちを落ち着かせながら治子は答えた。
「そう言えば、今さやかちゃんとお風呂入ってたのよね…キスに続いてお風呂…まさか、治子ちゃんってばさやかちゃん狙い?」
 ぶぷぅ、と激しい音を立てて、治子は今度はお茶を吹いた。それを見ながら貴子が言う。
「同性への禁断の恋心…それもまた愛の一つの形よね」
「…それも違います」
 布巾でお茶とみかんの飛び散ったコタツの上を拭いながら、治子は言った。すると、貴子はまたしても大ダメージを治子に与えてきた。
「違うの?美春ちゃんのことがあるから、てっきり…」
 治子は豪快にコタツの上に突っ伏した。ごちん、と言う音を立ててぶつけた額が痛い。
「な、なんでそこで美春ちゃんが出て来るんですか!?」
 身を起こして治子が言うと、貴子は不思議そうに首を傾げて見せた。
「あら、美春ちゃん、いっつも治子ちゃんに『お姉さま』ってくっついてるじゃない。だから絶対にそうだと思ったんだけどなぁ…両刀使いとはやるわねと」
「両刀ってなんですか!両刀って!!」
 治子は怒鳴った。段々頭痛がしてきた。
「それはまぁ…美春ちゃんに慕われるのは嬉しいですけど…でも…」
 その先は言わず、使った布巾を洗おうと治子が立ち上がる。すると、貴子がつまらなさそうな表情で言った。
「なんだ面白くない…人には言えないあーんな事やこーんな事もしてるのかと思ってたのに…」
 治子ははぁ、と溜息をつき、布巾を洗って水気を絞るとコタツの上に置いた。
「…まぁ、介抱してもらってありがとうございました」
 治子が言うと、貴子はちょっと心配そうな口調で尋ねた。
「あら、もう大丈夫?無理せずにアタシのところに泊まって行っても良いわよ〜?」
 声は心配そうだったが、表情は何やら獲物を前にした猫のような笑顔を浮かべている。危険な予感を覚えた治子は首を横に振った。
「いえ、大丈夫です。おやすみなさい」
「そぉ?じゃあ、おやすみ〜」
 貴子にぺこりと頭を下げ、治子は管理人室を出た。むっとする熱気が身体にまとわりつく。
「暑っ!…今夜は寝苦しそうだなぁ…」

 冷気に慣れた身体を恨めしく思いながら、治子は階段を上がっていった。一方、残された貴子はコタツの上に身体を投げ出して一人呟いた。
「さやかちゃんも美春ちゃんも違い、アタシの誘いにも乗らない…となると、やっぱり神無月君が本命なのね。それにしても、あの素直じゃないところがラブリーねぇ、治子ちゃんってば」
 治子の言葉は、やはり曲解されて伝わっていた。

 一方、治子は自分の部屋に戻る前に、さやかの部屋を訪れていた。ドアをノックすると、まだ彼女は起きていたらしく、「はーい」と言う声が聞こえてきた。
「さやかちゃん?前田だけど」
 治子が名乗ると、ドアがそっと開いて、かわいらしいピンク色のパジャマに身を包んださやかが出てきた。
「治子さん、もう身体は大丈夫なんですか?」
 さやかの心配そうな声に、治子は微笑んで答えてみせる。
「うん。貴子さんを呼んでくれたのはさやかちゃんだよね?ありがとう」
「それはまぁ、大した事じゃありませんから…」
 さやかが答えると、治子はもう一度頭を下げた。
「うん。とにかく、寝る前にちゃんとお礼を言っておきたかったんだ。じゃあ、おやすみなさい」
 そう言って立ち去ろうとする治子を、さやかは呼び止めた。
「あ、あの、治子さん」
「ん?何?」
 治子が立ち止まって振り返ると、さやかはどこかためらいがちな、どう話を切り出そうか迷っている様子だったが、やがて話を切り出した。
「あの…治子さんは、明彦の事をどう思ってるんですか?」
「え?神無月君を?」
 治子は思わぬ話を持ち出されて一瞬混乱した。そして、さっきの貴子との会話を思い出し、ある可能性に行き着く。
(まさか、さやかちゃんまで俺が神無月の事が好きだとか疑っているのでは…?)
 何でそうなるんだ、と思いつつ、ここでしっかり誤解を解いておくべきだな、と治子は判断した。そんな誤解が広まるのは、彼女自身はもちろんの事、神無月にとっても迷惑な事に違いない。治子は微笑みを作って言った。
「神無月君はなかなか見所のある奴だと思うよ」
 治子が明彦に対して好意的な言葉を発した事で、さやかの表情が一瞬曇る。そこを見逃さず、治子は言葉を続けた。
「だから、さやかちゃんも神無月君への気持ちは大事にしようね」
「は、はいっ!」
 さやかは治子の言葉に反射的に答え、次の瞬間、自分がまんまと引っ掛けられた事に絶句する。顔を真っ赤にした彼女は治子の顔を睨んだ。
「治子さん…意地悪です」
「ごめんごめん。でも、やっぱりそうなんだ」
 治子が許しを請うように両手拝みにさやかに一礼しながら言うと、さやかはとんでもない、と言う風にぶんぶんと首を横に振った。
「わ、私はそんな…」
 思い切り引っかかっておきながら、意地を張るさやかに治子は苦笑しながら言った。
「ここには私しかいないよ。誰にも言わないから、正直に言ってみて」
 すると、さやかは小さくこくん、と頷いた。しかし、その表情は冴えない。
「治子さんの言う通り…かもしれません」
「…かも?」
 さやかの不思議な言い回しに、治子は困惑した。
「明彦が、単なる友達じゃない事は確かなんです。明彦と一緒にいたら楽しいし、彼のそばは居心地が良いです。でも、それって、本当に私が明彦のことを好きだから、なんでしょうか?」
 ああ、と治子は頷いた。さやかの感じている不安…それは、治子自身も感じた事があるものだ。
 同じなのだ。さやかは、昔の治子…前田耕治だったころの自分と。
「友人以上、恋人未満」の関係。それは、とても心地が良く、それでいて不安定なものだ。その状態にある者は、楽しさと不安の間で心が揺れ動く。そして、一歩進んで「恋人」の段階を目指そうとするか、または一歩退いて「親友」の段階に落ち着こうと決断する。しかし、その決断自体が重く勇気のいる行為なのだ。
 今、さやかがいるのはそこだ。明彦も多分そうだろう。治子自身は…つい先日までその段階にいた。いや、あずさもつかさも、彼女たちは「恋人」の段階まで進んでいたと考えていたに違いない。耕治は恋人にも親友にも、どちらにも進めずに、無理やり足踏みをしていたのに。
 その結果が、今の姿だ。
(どうしたら良いんだろうね、俺は)
 治子は考えた。この場合、ネックになるのは明彦の気にしている「もう一人の女性」の存在だ。その迷いを断ち切るには、やはりさやかの背中を押してやる方が良いような気がする。
「そうだね…その気持ちは、私にも良くわかるよ。経験のある事だから」
 治子は慎重に言葉を選んだ。さやかは治子の顔を見て、その表情に息を呑む。同性で、年下のさやかでさえ、思わず治子を抱きしめて慰めたくなるほどの…切なく寂しげな表情。それが、一転して、花咲くような笑顔に変わる。
「まぁ、私はそこで失敗しちゃって、不幸になってしまったわけだけど」
 おどけた表情と口調。そして、また優しい微笑みに変わる。
「だから、さやかちゃんには頑張ってほしいと思う。大丈夫。さやかちゃんなら、きっと神無月君のことを振り向かせられるよ」
 治子はそう言って、さやかを励まそうとした。しかし、さやかの表情は硬かった。
(安易だったかな…)
 さやかの表情を見て、治子は思った。その時、さやかが口を開いた。
「私に、できるでしょうか?」
「できる…というか、できなきゃだめだよ」
 治子は答えた。
「できなかった人は不幸だよ。私みたいに…」
 それは間違いなく治子の本心だった。さやかはまたあの表情を見せた治子に圧倒されるようにして頷いていた。
「頑張って…みます。もう一人の人に負けないように…」
「うん、応援してるよ。じゃ、そろそろ遅いから…お休みなさい」
 治子はそう言って、さやかに別れを告げて部屋の前を去った。階段を降りかけて…ふと足を止める。
「もう一人の人…って、さやかちゃんそれが誰だか知ってるのか?」

 残ったさやかは部屋に入り、ベッドに身を投げ出す。
「もう…かなわないなぁ…」
 ぼそりと呟く。もう一人の、明彦の気になる人…治子が魅力的な人だから、治子の意思やさやかの想いに関係なく、明彦は彼女の元へ惹かれていってしまう。さっきもつい、対抗心から無駄な意地を張ってしまった。それに対して、治子のあの余裕の態度。
(貴子さんや夏姫さんとはまた違う、大人の女性…って感じよね)
 実際には、さやかと治子では2年も歳は離れていない。しかし、さやかにはそれは実数以上の大きな差として感じられた。
「もっと嫌な人だったら…何も怖がる事はないのに」
 実際にはあんな形でファースト・キスを奪われた後でさえ、嫌えそうにない人なのだから始末に負えない。
(あの人に…治子さんに負けないにはどうしたらいいんだろう…)
 さやかは思った。治子はさやかの不安を読み違えていたのだ。さやかの不安、それは、治子と言う強力すぎるライバルの出現による怯えだった。例え明彦に告白しても、もう明彦は自分の事を見てくれないのではないか。治子への想いの方が強いのではないか。そういう不安だ。
 そんな不安の中で、さやかはいつのまにか眠りの世界に引きずり込まれていった。

(つづく)

治子への好意カウンター(爆)
さやか:+2 トータル4ポイント
貴子:+1 トータル2ポイント


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