夕方5時半、早番組の定時が来た。更衣室に引き上げた治子は、着替えるより早く、備え付けのソファに座り込んで長々とため息をついた。
「はぁぁ…つ、疲れた」
 開店から一週間、休日無しに仕事を続けている。おまけに、この店では毎日がイベント日のようなものだ。加えて治子も関わった新聞報道による宣伝効果もあって、店はますます多くの客を集めている。
 それはそれで嬉しいのだが、客が増えると先日のナンパ男二人組ほどではないにしろ、それなりにタチの良くない客は出てくる。現に、今日も…
「お待たせしました。ハンバーグとシュリンプカツレツのセットになります」
 注文の品を届けた治子に、突然客が話し掛けてきた。
「ねぇねぇ、ウェイトレスさん」
「はい、なんでしょうか?」
 追加注文か何かかと思い、POSを取り出そうとした治子だったが、客の言葉は彼女の予想外の物だった。
「今日、仕事何時まで?終わったら一緒に夜の海辺をドライブにでも行かないかい?」
「…は?」
 治子は客を見た。ファッションからして、どうやら地元の人間ではないらしい。東京辺りからナンパ目的で遠征してきたのだろう。
「その、仕事中ですから…失礼します」
 治子は頭を下げてその場を逃げ出した。幸い、それほどしつこい相手ではなかったが、他にもアドレス教えてくれとせがむ者や、自分の電話番号を書いたメモを押し付けて「ヒマなら電話してよ」などと言ってくる者は、両手の指では数え切れない。
 それを全部断り、なおかつメモは全て廃棄したが、これからもそういう連中の相手をするのかと思うと、正直頭が痛い。そう思っていると、もう一つの頭痛のタネがやってきた。
「大丈夫ですか?お姉さま。元気がありませんけど…」
 美春だった。座り込んでいる治子の顔を覗き込むようにしている。
「美春ちゃん…せめて店ではお姉さまはやめて…」
 治子は一応注意してみた。しかし。
「わかりました、お姉さま」

 ぜんぜんわかってねぇじゃん。

 心の中で治子はツッコミを入れた。口に出さないのは、言っても無駄だろうからである。
 その時、更衣室のドアが開いて、朱美が入ってきた。
「お疲れ様、前田さん、冬木さん」
 治子は顔を上げて朱美に挨拶を返した。それで気づいたのだが、朱美は何か良い事があったような笑顔を浮かべていた。
「どうかしたんですか?朱美さん」
 治子が聞くと、朱美は良くぞ聞いてくれました、とばかりに答えた。
「明日、本店からもう一人ヘルプが来るのよ。これで、もう少しみんなに楽なシフトを組んであげられるわ」
「え、本当ですか?」
 治子も元気が出てきた。これで、来週以降はもう少し休めるかもしれない。
 しかし、新しいヘルプの到来は、新しいトラブルの到来の始まりでもあった。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


10th Order 「彼女、来る」


 その頃、神無月明彦はブルーであった。
(今日も治子さんと話できなかった…)
 明彦はため息をついた。開店の日から続いていた美春の過去に関わるトラブルが治子の活躍によって解決した事を知り、ますます治子に興味を抱いていた明彦だったが、治子に近づこうとする彼の前に、思わぬ強敵が出現した。
 治子に救われた冬木美春その人である。
(美春さんはどうしてああも俺に敵対的なんだ)
 明彦は思った。もともと、初めて会った日から、美春は明彦に対しては冷淡な態度を取っていた。そして、ここ数日それは顕著になり、特に明彦が治子に近づこうものなら、すっ飛んできてブロックしてくる。^
(美春さんの俺を見る目…あれはそう、まるで…恋敵でも見るような目だ)
 そこまで考えたとき、明彦は思わず笑い出した。
「ははは…そんなまさか。いやしかし…」
 笑いながら明彦は思い直した。助けられた恩というのは愛情に変化しやすいものかもしれない。まして、治子くらいの美人で、かつ堂々とした態度で不良と渡り合ったあのいざと言うときの度胸、山で事故った時の冷静さ。精神的にも強い人なのは間違いない。同性ですら惚れる要素は十分だろう。
(やっぱり、美春さんは治子さんが好きなのか?治子さんはどう思っているんだ?)
 明彦の悩みは尽きない。

 その頃、治子は寮に帰っていた。帰ってくる間、美春はずっと治子と腕を組み、頭を治子の肩にもたれかけさせ、幸せそうな笑顔を浮かべていた。やめてくれと思いつつも、女の子の笑顔を見るとそれが言い出せない自分の性格が恨めしい。
「ええい、そういう優柔不断さからは卒業しようと誓ったんじゃないのか、俺っ!」
 自分を責めつつ、治子が飲み物を買いにロビーへ降りてくると、貴子に声をかけられた。
「あ、治子ちゃん。ちょうど良いところに来たわ。ちょっと頼まれてくれない?」
「なんですか、貴子さん?」
 貴子の言葉に首をかしげながらも治子がフロントのカウンターまで行くと、貴子はキーボックスからごそごそと鍵を取り出し、治子に手渡し、質問した。
「今日、新しいヘルプの人が来るのは知ってるかしら?」
「はい、朱美さんから聞いてますけど…」
 治子が質問に答えると、貴子は頷いて言葉を続けた。
「アタシ、これからちょっと買い出しに行かないといけないのよ。それで、もしアタシが留守の間にその人が来たら、鍵を渡して部屋まで案内してくれるかしら?」
「あぁ、そんな事だったら構わないですよ。どうせヒマですし」
 治子は頷いて、貴子と入れ替わりにカウンターに入った。
「悪いわね。じゃ、よろしく〜」
 そう言うと、貴子は出かけていった。治子はジュースを買い、カウンターに置いてあった小さなテレビを見ながら時間を潰す事にした。
 20分ほど経った時、玄関のドアベルが音を立てた。治子が顔を上げると、なにやら大きなバッグを持った人影が見えた。
「あ…来たか」
 治子は部屋の鍵を持ち、カウンターを出た。
「こんにちわー…って…!?」
 治子は驚いた。そこにいたのは、かわいい女の子を見慣れている治子にしてもかなりの高レベルと認定できる美少女だった。緑色系をベースにしたチェックのワンピースに麦藁帽子という組み合わせは、美春とはまた違った意味で「お嬢様」っぽさを感じさせる。海からの風がさらさらのロングヘアをふわりと持ち上げ、微かにシャンプーの匂いを漂わせた。
(か、かわいい娘だなぁ…スタイルも良さそうだ)
 思わず見とれる治子に、少女が不思議そうな声をかける。
「あの…何か?」
 治子は慌てて我に返った。
「あぁ、ごめん。ちょっと考え事を…君が本店からのヘルプ?」
 治子が聞くと、少女は微笑んで頭を下げた。
「はい。今日からこちらでお世話になります、高井さやかと言います。よろしくお願いします」
「…高井さやか?」
 治子は首を傾げた。その名前には聞き覚えがあった。しばし考え込み…ぽんと手を打つ。
「あぁ、君が噂の神無月君の彼女?」
 その瞬間、さやかの顔がぽん、と音を立てそうな勢いで赤く染まった。
「そ、そんな…彼女だなんて」
 指先を合わせ、もじもじと恥じらうさやかに、治子は苦笑した。
(かわいいなぁ…それにしても神無月の奴め、何が彼女じゃない、だ。こりゃどう見ても神無月に惚れてる反応じゃないか)
 そんな事を思いながら、治子は握手しようと手を差し出した。
「挨拶が遅れたけど…私は前田治子。2号店からのヘルプだよ。よろしくね、高井さん」
「はい…って、あなたが治子さん?」
 さやかが治子の顔をじっと見る。
「な、何?」
 美少女に凝視され、ちょっと落ち着かない気持ちになった治子。そんな彼女をよそに、さやかがポツリと呟いた。
「…負けません」
「え?今何か言った?」
 さやかの呟きを聞き逃した治子が聞くと、さやかは首を横に振った。
「いえ…別に…それより、部屋はどっちでしょうか?」
 何かとげとげしいような雰囲気に変貌したさやかに内心戸惑いつつ、治子は頷いた。
「あ、あぁ…えっと、202号室だね」
 貴子に渡された鍵の番号を確認して、治子が踵を返す。その後に続きながら、さやかは考えていた。
(この人が治子さん…強敵だわ。確かに美人だし、スタイルも良いし…で、でも負けるもんですか!明彦は…私の…)
 高井さやか。掛け値無しの美少女である彼女の欠点は、意地っ張りでやきもち焼きなところだった。必要のない行為とも思わず、激しい対抗心を燃やすさやかの視線を背中に浴び、治子は何か居心地の悪さを感じるのだった。

 さやかが来てから1時間ほどして、貴子が帰ってきた。
「ただいま〜。さやかちゃん来た?」
 能天気な声で言う貴子に、カウンターで待っていた治子は苦笑すると顔を上げた。
「ええ、来ましたよ…って、あれ?買い物は?」
 貴子は出かけたとき同様に手ぶらだった。
「うん、ちょっと売り切れになっててね〜。仕方ないから帰ってきたのよ」
 貴子は言ったが、実はこれ、大嘘だった。貴子は何も買う予定などなかったのである。目的はただひとつ。治子とさやかを一対一で対面させることだった。
「残念でしたね」
 治子は納得し…かけて、ふと違和感を感じて尋ねた。
「ん?さやかちゃん…って呼ぶって事は、貴子さんは高井さんのことを知ってたんですか?」
 貴子は頷いた。
「それはもちろん、管理人ですもの。新しい入居者のことは知ってるわよ」
 そう答えておいて、何かを狙っているようなニヤリという笑いを浮かべる。
「で、どうだった?」
 この唐突な質問に、治子は首を傾げた。
「は?どうだった…って、何がですか?」
「やぁねぇもうトボケちゃってぇ〜。さやかちゃんの第一印象よ〜」
 なんだそんなことか、と治子は納得した。貴子がなぜにそんなに楽しそうなのかについては相変わらず良くわからなかったが。
「えぇ、まぁ可愛い娘でしたよ。それに…」
 治子は貴子を手招きした。彼女が近寄ってきたところで、そっと耳打ちする。
「明らかに神無月君のことが好きと見ましたね」
 貴子は賛同した。
「うんうん。この間電話受けた時に、『あの…明…神無月君はいますか?』なーんて、もう可愛いったらありゃしないわね。一発でお姉さんにはわかっちゃったわよ〜!」
 静かに話そうとした治子の配慮を無意味なものとしつつ、貴子はさやかの物真似をしながらバンバンとカウンターを叩く。
(楽しそうだな…)
 逆に引く治子。すると、発作が収まったのか、静かになった貴子は治子に耳打ちしてきた。
「で、ああいう可愛い娘が来て、治子ちゃんとしてはどう思うわけ?」
「え?まぁ、可愛い娘は大歓迎ですし、仕事も楽になるのでいいと思いますが」
 治子は答えた。あくまでもこれは裏表なしの彼女の本心である。しかし、「治子は明彦LOVE」だと勘違いしている貴子はその言葉を曲解して受け取った。
「やぁねぇもう無理して平静を装っちゃって〜!!」
 再びカウンターをバンバン叩く貴子。治子は「何が?」という感じで、貴子の言っていることがさっぱり意味がわからずポカーンとしていた。
「まぁ、がんばりなさいよ」
 最後にまた治子にはよく意味のわからない台詞を残し、貴子は厨房へ消えていった。
「…なんなんだ…」
 治子はつぶやいた。なんだかよくわからないが、疲れたので部屋に戻ることにした。

 9時過ぎ、仕事を終えた明彦が寮へ帰ってきた。
「ただいま〜…って、高井!?」
 明彦はカウンターにいた人物を認めて驚愕した。
「お帰りなさい、明彦」
 にっこりと笑って出迎えるさやかに、明彦は呆然としていたが、慌てたように首を振って正気を取り戻した。
「本店から応援が来るのは聞いてたけど…高井だったのか。何で言ってくれなかったんだ?」
 明彦の質問に、さやかはしてやったり、と言う表情で笑った。
「明彦を驚かせようと思って。どう、びっくりした?」
「あぁ、びっくりした。…そうか、この間電話で言いかけたのはこの事だったんだな」
 歓迎会の途中で受けた電話での、さやかの思わせぶりな態度を思い出して、明彦は言った。
「うん。ここでまだ人手が足りないって聞いて…ヘルプに名乗りをあげちゃった」
 さやかはそう答えてくすくすと笑う。明彦の驚き振りがよほどおかしかったらしい。
「そうか…まぁ、高井がきてくれれば助かるよ。よろしく頼むな」
 明彦がそう言うと、さやかは少し拗ねたような表情になった。
「なんだか、あんまり嬉しくないような言い方じゃない?」
 さやかの言葉に、明彦は慌てて否定しようとしたが、それより先にさやかが言葉の先を続けた。
「やっぱり、頼りになる人が一杯いるから?たとえば…前田さんみたいな」
 思わぬ名前を出されて、明彦はうろたえた。
「な、なんでそこで治子さんが出てくるんだ…?」
 明彦が言うと、さやかはまたクスっと笑って答えた。
「ここに来た時に会ったの。きれいな人ね。…ねぇ、明彦」
「な、なんだ?」
 今度は何を言われるのか、と身構える明彦。しかし、さやかはあのときの電話同様、はぐらかすように笑った。
「…ううん、なんでもない。明日からよろしくね」
 そう言うと、さやかは返事も待たずに部屋へ戻るべく階段を登り始めた。言いたかった言葉は、心の中にしまっておく。「私は、前田さんには負けない」と言う言葉は…
 玄関に残された明彦は、さやかを見送って呟いた。
「まさか…高井が来るなんて…ひょっとして俺を追いかけて…いや、そんな事はないよな」
 言葉の最後の部分はちょっと自嘲気味だった。首を振り、部屋に戻っていく。
 一方、管理人室のドアの隙間から、その一部始終を見ていた貴子は、フッと微笑んで言った。
「青春よねぇ…ふふふっ、これから面白くなりそうだわ」
 貴子は早速策を練り始めた。

 10時ごろ、明彦が風呂に行ったのを確認し、貴子は行動を開始した。
 まず、女湯の前に「本日点検のため使用中止。男湯をご利用ください」の立て札を置く。次に管理人室にとって帰して、さやかの部屋に電話をかけた。
『はい、高井です』
「あぁ、もしもし、さやかちゃん?今日は長旅で疲れたでしょう。お風呂に入ってゆっくりしたら?」
『はい、そうします』
 電話を切って貴子はにやりと笑った。これで二人の間に何らかの関係の変化が起きれば、治子だって行動を起こさざるを得ないだろう。
 しかし、貴子はさやかが風呂に行くよりも早く、治子が風呂に向かっていることには全く気が付かなかった。

「…ん?今日は点検中?しょうがないなぁ…」
 風呂場まで来た治子は、例の立て札を見てぼやくと、男湯の脱衣所に入った。まぁ、もともとこっちに入るほうが精神衛生的には落ち着く。適当な籠を引き出し、すばやく服を脱いでその中に入れ、タオルだけもって治子は男湯の扉を開けた。
「ふぅん、男湯はこうなってたのか…女湯よりちょっと荒々しい雰囲気だな」
 初めて見る男湯を見渡して治子は言った。岩風呂なのは女湯と同じだが、丸い角の取れた石や岩を使用している女湯と違い、こちらはアルプスの山をミニチュア化したようなごつごつした岩が周りを取り巻いていた。湯船の広さは、まぁ同じくらいだろう。そして、湯船の中でこちらを見て目を見開いている明彦。
「…ん?神無月君、先に入ってたんだ」
 治子が言うと、ようやく金縛りが解けたように明彦は叫んだ。
「な、な、な、なんで治子さんがこっちに入ってくるんですかっ!?」
 慌てふためく明彦に、治子は冷静に答えた。
「なんでって…女湯が点検中だから、こっちを使えと言われただけだけど…気づかなかったの?」
 そう言いながら、治子は湯船に近づいた。
「な、な、な、なんでこっちに近づいてくるんですかっ!?」
 真っ赤になって叫ぶ明彦に、治子はやはり冷静に答えた。
「なんでって…お風呂に入るためだけど…あ、そうか」
 治子は今の自分の格好を思い出した。全裸で、体の前面を申し訳程度にタオルで隠しただけだった。それは、健全な青少年には刺激が強すぎだろう。
 治子の思った通りで、明彦は気になっている女性がほとんど一糸まとわぬ姿で自分の至近に堂々と接近してきた事に動揺しまくっていた。それは、彼も健全な青少年であるから、このようなイベントが嬉しくないわけはない。実際、なんだかんだ言いながら、昇に連れられて治子の入浴シーンを覗いた事もある。しかし、今回は何の心の準備もなかっただけに、動揺が先にきた。
 そして、「見られる」と言う点では、今回は彼も治子と同じ立場なのである。治子の裸を見れてラッキーと言う喜びよりも、恥ずかしいと言う気持ちが先に立った。
 一方、治子はと言うと…
(うーん、俺が同じ立場だったらもう少し喜ぶのに、純情な奴だな…)
 などと明彦を観察する余裕があった。何しろ、精神的には同性なので、明彦ごときに裸を見られたところで何の動揺もない。この間のナンパ男や昇みたいにやらしい目つきで見られたら、嫌だな、くらいは感じるだろうが。
 と言うわけで、あくまで余裕の治子に対し、先に行動を起こしたのは明彦のほうだった。
「お、お、俺、もう出ますっ!」
 そう言うと、慌てて立ち上がり、前を押さえながら出口に向けて逃走しようとする。
「そう?でも、走ると危ない…」
 治子がそう注意しようとしたその瞬間、運命は残酷にも明彦に「お約束」の主人公を演じることを強いた。彼の足元に、石鹸が落ちていたのである。それを踏みつけ、明彦は大きくバランスを崩した。
「わ!?う、うわあぁぁぁっ!!」
 明彦の体が、治子に突っ込んでくる形で倒れてくる。
「危ない!」
 治子はとっさに明彦の身体を受け止めた。しかし、豪快に倒れる男の体重を、治子の腕力で支えられるはずがなかった。そして、二人はもつれるようにして風呂場の床に倒れた。
「あいたたた…」
 一瞬気が遠くなった治子は上半身を起こそうとした。が、何か重いものがのしかかっていて動けない。顔だけ持ち上げると、明彦が彼女を押し倒すような格好で倒れていた。
「神無月、起きろっ!」
 治子が手を動かして、彼女の右腕が抱え込むような形になっている明彦の頭を小突く。すると、意識がはっきりしたのか、明彦は頭を動かして治子の顔を見た。
「は、治子さん?大丈夫ですか?」
 明彦の言葉に治子は頷いた。
「大丈夫。でも、お前がのしかかってるせいで動けない。早くどいてくれ」
 そこで、明彦は初めて自分の状況に気づいたらしい。慌てて身体を動かそうとした。
「す、すいません!いまよけます!」
 そう言って、明彦は地面に手をつこうとした…が、その手は板状の岩でできているはずの床の硬い感触ではなく、「むにゅ」と言う柔らかい感触を伝えてきた。
「…なんだこれ?」
 明彦はその正体を確かめようと二、三度手を動かした。すると、その時。
「ん…あっ…!そ、そうじゃなくて…わ、わざとかおまいはー!!」
 治子が怒鳴った。そして、明彦は気がついた。自分が地面と間違えて鷲掴みにしているもの、それは治子の胸だということに。
「うわああ!!す、すいません!!」
 慌てて上半身を起こすが、相変わらず手は胸についたままだ。
「それは良いから早く手を離せ!」
 治子が怒鳴ったときだった。すぐ背後でがらら、と脱衣所への扉が開く音がした。その瞬間、明彦の顔が蒼白になった。治子は何事かと後ろを振り向いてみる。すると、そこには…
「な…何をしてるの…!?」
 身体にバスタオルを巻いたさやかが仁王立ちしていた。身体がぶるぶると震えている。彼女の目に映ったもの。それは、どう見ても「明彦が治子を抱いて、胸を揉みしだいている」光景にしか見えなかった。
「ち、違うんだ、高井!これは事故で…」
 慌てて立ち上がった明彦が言い訳をはじめた。その瞬間、「精神的には異性」であるさやかに見られ、治子の羞恥心にスイッチが入った。すぐそばに落ちていたタオルを掴み、慌てて立ち上がると、身体を隠す。しかし、その行為は、どう見ても「今まで人には言えないナニかをしてました」と言う風にしか見えなかった。
「あ、ちょっと転んじゃって…」
 治子は言ったが、さやかはそんなもの聞く耳持たなかった。顔を真っ赤にして怒鳴る。
「あ、明彦のばかあっ!」
 そして、痛烈な平手打ちが飛んだ。「ばしーん!」と言う小気味のいい音を立て、さやかの一撃が明彦に炸裂。よろめいた明彦は、そのまま風呂場の床に倒れこんだ。
「もう知らないっ!」
 そう言い残し、さやかはぴしゃりと扉を閉めた。後に残されたのは、倒れた明彦と、呆然としている治子だけ。
「…ど、どうしようかな…」
 思わぬ修羅場を現出してしまった治子は、呆然と呟いた。

 数分後、治子と明彦は脱衣所にいた。二人とももう服は着ている。
「まだ痛い?」
 治子が聞くと、明彦は鮮やかな手形のついた頬を押さえながら頷いた。
「悪かったね」
 治子が言うと、明彦は首を横に振った。
「な、なんで治子さんが謝るんですか?悪いのは俺のほうじゃないですか」
「いや、高井さんとの事で」
 治子が風呂場のことではなくさやかの事だと言うと、明彦は動揺した表情になった。
「な、なんで高井の話が出てくるんですか…?」
 うろたえている明彦を見ながら、治子はささやくように聞いた。
「好きなんじゃないの?高井さんのことが。正直に言ってみ」
 明彦はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「実は…俺にも良くわかりません。高井の事は本店にいたころから気にはなっていました。でも、今は…もう一人気になる人がいて…」
 そう言うと、明彦は俯いた。治子はその言葉を聞いてため息をついた。
(なんと言うか…思い切り俺の辿った道を歩きかけてるな、コイツ…)
 治子も耕治時代には経験のあることだった。最初はあずさ、次はつかさ。どちらも魅力的な少女であり、それ故にどちらへの想いが強いのか、耕治には選び切れなかった。
「そう…まぁ、どちらを選ぶのか、それは神無月君の自由だけど…」
 治子が口を開くと、明彦は顔を上げて彼女を見た。そこには、彼が気になって仕方のない、あの昔を悔やむような寂しげな表情が浮かんでいた。
(あぁ、またあの表情だ…)
 明彦がそんな想いを抱く中、治子は言葉を続ける。
「相手の気持ちがどこにあるのか…それだけはちゃんと受け止めてあげるように。少なくとも、高井さんは君のことを嫌いじゃないと思う。むしろ、好きだと思ってるんじゃないかな」
「高井が、俺のことを?」
 驚く明彦に治子は頷いて見せた。
「たぶんね。彼女がここへ来た理由は、君を追いかけて、と言う動機が強いと思うよ」
 治子は言った。さやかは面影がちょっとあずさに似ている。おそらく、ちょっと意地っ張りで、やきもち焼きな性格だろう。好きな人に対してなかなか素直になれない性格だと見た。
 だから、明彦のほうが素直に気持ちをぶつけてやらなくては、さやかの本心を開かせるのは難しい。治子はその後押しをしてやるつもりだった。明彦の言う「もう一人の気になる人」が誰かは知らないが、すでにお互いへの気持ちを持っているさやかとの方が上手くいくだろう。
「だから、勇気を出してぶつかってみることだね。まぁ、今日はとんでもないところを見られてしまったけど…なんだったら一緒に謝りに行ってあげるから」
 治子が微笑むと、明彦はしばらく考え込んだ。
(勇気を出して、相手の気持ちを受け止めて…か)
 それは、明彦には痛い言葉だった。それが本店の頃にできていれば、何の問題もなかったのだ。思いが通じたにせよ、通じなかったにせよ、さやかとの関係には何らかのケリがついていたに違いない。
(そうだな…まずは相手の気持ちを知ることが大事だ)
 勇気を出して、明彦は口を開いた。
「治子さん…治子さんは、どうして俺にそんな話をしてくれるんですか?」
「え?」
 治子は明彦の思わぬ言葉に戸惑った。
「俺が高井と電話をした後も、そんな事を言ってましたよね?どうしてでしょうか」
 何を言い出すのか、と治子は思った。今の明彦にとって大事なのは、いますぐさやかのところに行くことだろうに。はぐらかそうとも思ったが、明彦の目は真剣だった。
(こんな話をしといて、ごまかすのも良くないか…)
 治子は思い直し、明彦の問いに答えた。
「私も、同じような経験をしたからだよ。二人の人を同時に好きになって…いや、ちょっと違うか。相手はたぶん私の事が好きだったのに、私はその二人の思いに真剣に応えられなくて、どっちつかずの態度を取ってしまったんだ」
 話す治子を、明彦はじっと見つめていた。
「それで…結局、私はその二人を傷つけて…私自身ものすごく不幸な目に遭った。だから、君にはそんな思いはしてほしくない」
 そう言って治子は口を閉じ、自嘲の笑みを浮かべた。明彦は治子の過去…だいぶ要約されたものだったが…を知って、圧倒される想いを抱いていた。
(そう言う事か…だから、治子さんはよくあんな寂しげな雰囲気をしていることがあるんだ)
 明彦は納得し、同時に曖昧だった治子への気持ちに一つの形を得た。明彦は口を開いた。
「治子さん、俺は…多分、高井のことが好きだったんだと思います。いや、今も好きなんでしょう」
 治子は頷いた。
「うん、だったら…」
 さやかにそのことを伝えたら?と続けようとしたが、明彦の言葉はまだ続いていた。
「でも、同時に、もう一人の人への気持ちも…同じくらい強いんです。その人はいつも寂しそうで、守ってあげたくなるような人なんです。ただ、俺はどっちかを選ぼうにも、二人のことを良く知りません。これから、もっと二人の事を知って…気持ちを確かめて…その上で、告白しようと思っています」
 治子は頷いた。相手の気持ちをはっきりと知ることは、治子が耕治だった頃に逃げてきた事だった。今も逃げているのかもしれない。それをしようとする事を、明彦が決意したのは、いい傾向だと思った。
「そうか…がんばれ、神無月君」
「はい」
 明彦は頷き、脱衣所を出て行った。まずは、さやかにさっきのことを釈明しに行くのだろう。
「ま、一つ前進かな」
 治子は頷き、お預けになっていた風呂に入り直した。湯に浸かり、夜空を見上げながら治子は一つの決意をするのだった。
(神無月と高井さんに、俺と同じような目を見せるわけには行かない。ここは一つ、俺がキューピッド役になって、二人の仲を成就させてやろう)
 これ以上、自分と同じような不幸に陥る人を増やしたくない。その治子の想いは大事だったが、ある意味彼女自身が明彦を迷わせ、別の不幸を作り出している原因になっていることには、さっぱり気が付いていないのだった。

(つづく)

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