8月1日。この日の美崎海岸の天候…快晴。気温、最高33度、最低27度。風向き、南東の風2〜4メートル、波の高さ、1メートル50センチから2メートル。
 まさに絶好の海水浴日和だ。この良き日に、Piaキャロット4号店、美崎海岸通り店はオープンする。
 開店を9時に控えての最初の朝のミーティングが始まった。
「今日はいよいよ開店です。ベテランの皆さんは新人をフォローしつつも気を抜かず、新人の皆さんはあせらず落ち着いて、研修の内容を思い出して対処しましょう」
 スーツ姿で心得を説く夏姫の言葉を、フロアスタッフ、厨房スタッフの別なく、全員が直立不動で聞く。続いて、朱美が前に出た。ウェイトレスたちと同じ制服を着ているその姿は、どうしてもこの店を預かる店長には見えない…が、それでも精一杯声を張り上げて挨拶をする。
「先ほど夏姫ちゃ…岩倉マネージャから説明がありましたように、今日からがいよいよ本番です」
 のっけから危なかった。やはり直立不動で聞こうとしているスタッフたちの身体がかすかに震える…が、夏姫の手前笑う事は出来ない。
「私は、皆さんとならこのお店を盛り立てていく事が出来ると信じています。まだ未熟な私ですが、どうか力を貸してください」
 拍手が湧いた。店長らしくない挨拶だが、そこが朱美の良い所かもしれない。
「それでは、Piaキャロットスタッフ五ヶ条の誓い…前田さん、お願いします」
 朱美に呼ばれ、治子は自分を指差した。
「お…私ですか?わかりました」
 びっくりした治子だったが、一歩前に進み出ると、声を張り上げる。スタッフ五ヶ条の誓い…とは、まぁどこの会社や店にも存在する、社員の心得のようなものだ。
「一つ、私たちは誠心誠意、心をこめてお客様をおもてなしします!」
『一つ、私たちは誠心誠意、心をこめてお客様をおもてなしします!』
「一つ、いつでも笑顔でしっかり対応っ!」
『一つ、いつでも笑顔でしっかり対応っ!』
 治子に続いて、他のスタッフが一斉に唱和する。それが終わると店内の最終チェックだ。各テーブルの紙ナプキンや調味料類はちゃんと揃っているか、食器は定数通りか、などを確認していく。
 やがて、それがすべて異常ないことを確認して終わると、フロアスタッフは入り口に整列した。朱美がドアの鍵を外し、入り口にかけられていた「CLOSED」の札を、裏返して「OPEN」にする。時間は9時ジャスト。ドアが開き、客の来店を告げる鐘の音が店内に鳴り響く。記念すべき最初の客に向けて、治子、朱美、ナナ、美春、明彦、昇の6人は腰を折って一礼し、声を合わせて挨拶した。
『いらっしゃいませ、Piaキャロットへようこそ!!』


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


8th Order 「開店の日」


 開店と同時に、店内は文字通り戦場と化した。店内の席はもちろん、外のオープンテラスまでたちまち客で埋まっていく。この時間帯の客には二つのパターンがあって、一つは早朝に家を出て現地で朝食を取る人々。もう一つが、地元民中心だが、朝早くから泳ぎやサーフィンに来て、休憩を取りに来た人々である。
 このため、予想された軽食類だけでなく、比較的重めのメニューも出ていて、夏姫はキャッシャーを担当する傍ら、携帯電話を片手に食材の追加注文をかけていた。
 治子も忙しい店内を飛び回りながら注文を取り、あるいは料理を運んでいる。
 予想通り、開店という要素を省いたとしても、イベント日級の混み方だ。海の家で高くてまずいラーメンややきそばを買うよりは、ファミレスに人は流れる、という本部の見通しは確かに正しかったらしい。
(あー、やっぱりもう少し人数を取らないと辛いなぁ)
 治子は思ったが、それは彼女がベテランだけに考える余裕を持って仕事を出来ていたからで、ナナや昇は注文を間違えないようにするのだけで精一杯と言う状態だった。
「え、えっと…クラブサンドピアキャロ風、アメリカンハンバーガーセット、コーヒー付き、それにアイスコーヒー…以上で間違いありませんか?…え、バニラアイスを忘れてる?す、すみませぇん」
ナナの叫び声が聞こえてくる。
「お待たせしました、海鮮粥ピアキャロ風です。…頼んでない?え、そっちですか?し、失礼しましたっ!!」
 こちらは昇。やはり混乱気味だ。すると、厨房の方からけたたましい音が聞こえてきて、客が一斉にそっちの方を向いた。
「店長、大丈夫ですか!?」
 朝倉料理長の声が聞こえる。それに重なって、朱美の悲しげな声が聞こえてきた。
「ああん、ごめんなさいっ!今すぐ片付けます!!」
 皿を割ったらしい。どうやら、朱美も混乱しているようだ。
 そうした中で、明彦の仕事振りが確かなのはわかるとして、意外にもすべてにそつがないのは美春だ。注文の取り方も冷静で堂に入っているし、料理を運ぶ手つきにも危なげがない。
(やるなぁ、美春ちゃん)
 治子も負けてられない、とばかりに回転数を上げる。ナナ、昇、朱美が混乱を続ける中、治子と美春、明彦の3人が着実に仕事をこなして、どうにか店の機能は維持されていた。

 事件が起きたのは、ようやくお昼のラッシュが終わった、という1時半過ぎごろの事だった。
 フロアスタッフ全員が客席対応しなくても良い余裕が出たので、男子二人は倉庫整理に行き、夏姫は午前の売上を整理するため、事務室に篭っている。フロアに出ているのは治子、朱美、美春、ナナの4人になっていた。
 治子が家族連れらしい客を空いた席に案内し、空いた別の席の片付けをしようと、通路の各所に置いてある手押しワゴンの上から新しい布巾を取り上げたとき、素っ頓狂な大声が店内に響き渡った。
「おいおい、美春じゃねーか。オマエこんなところで何してんだよ?」
 その遠慮の欠片もない声に、店内の視線が集中する。そこにいたのは、美春とサーファー風の青年二人組だった。
(ん?あの二人、どっかで見たような?)
 治子がそう思った時、青年の一人がひゃひゃひゃ、と下品な笑い声を立てながら美春に言った。
「美春ぅ、オメェ馬鹿か?オマエみたいな女がそんなかわいらしい制服なんか着ても似合いやしねぇんだよ。とっとと脱いじまえよ」
「へっ、そいつぁ良いや。ウェイトレスの生ストリップショーだぜ」
 男たちは聞くに堪えないような下品な台詞を立て続けに吐き散らす。どうやら美春の知り合いらしいが、冗談としても度を越した態度だ。
「…帰って。もう私は貴方たちとは関係ないわ」
 黙って肩を震わせていた美春が搾り出すような声で言う。しかし、それは男たちをさらに調子付かせただけだった。
「おいおい、聞いたかよ。客に向かって帰れだとよ!!」
「なってない店だなぁ。常識を疑うぜ!!」
 あまりの暴言の連発に、たまりかねた朱美が割ってはいる。
「お客様、申し訳ありませんが、あまり大声を出されては他のお客様のご迷惑になります。どうか…」
「るせぇ!アンタには用はねぇよ!!俺たちゃ美春と話してんだ」
 暴力的な言葉を叩き付けられ、朱美は金縛りにあったように動けなくなった。顔色が青くなり、身体がぶるぶると震えている。
 その瞬間、治子の中で何かが切れた。怒りがふつふつと心の底から湧いて来る。
 この男たちはいったい何のつもりなのか。いや、彼らの意図などどうでも良い。大事なのは、奴等が美春を困らせ、朱美を困らせている、という点だ。
 女の子を困らせる事を、絶対に見過ごしにはできない。
 その事だけが、治子の心の中を占めていた。しかし、だからと言って見境をなくすような事はない。怒りに震えるのとは別のところで、頭が回転し、冷静に対策を打ち出す。そう、ここでは自分がやるしかないのだから、失敗は出来ない。
 今、ここにいる「男」は、自分ひとりなのだから。
 治子はまず、おろおろと情勢を見守っているナナに近づき、優しく声をかけた。
「ナナちゃん、今すぐ事務室に行って夏姫さんを呼んで。それから、倉庫の神無月君と昇君も。急いで」
「は、はいっ!」
 やるべき事を与えられ、我に返ったナナが、バックルームに向かっていく。そして、治子は現場に近づくと、朱美、美春をかばうようにして間に入った。朱美にまで卑猥なからかいを浴びせ始めていた男たちが怪訝な表情になる。
「なんだぁ、姉ちゃん?」
 治子は彼らを無視し、朱美と美春に声をかけた。
「朱美さん、キャッシャーをお願いします。美春ちゃんは14番テーブルの片付けを」
「え、で、でも…!」
 うろたえた表情の朱美に、治子はウィンクして微笑んで見せた。
「ここは任せてください。美春ちゃんも。いいね?」
「は、はい…」
 治子のいかにも自信ありげな、そして有無を言わせぬ口調に、思わず首を縦に振る朱美と美春。二人がテーブルを離れ始めると、男たちは後を追うように腰を浮き上がらせた。
「おい、まだ話は済んでねぇぞコラ!」
 しかし、すかさず治子は振り返り、極上の営業スマイルを浮かべて一言言った。
「お客様、ご注文は?」
「なにィ?」
 一瞬、毒気を抜かれたように動きを止めた二人だったが、すぐにその顔に好色そうな表情が戻ってきた。
「誰かと思ったら、あの時の駅前の姉ちゃんじゃねぇか…あんたもここの店員だったのかい」
「へへ。こりゃあ楽しみが増えたなぁ…」
 治子は一瞬記憶を検索し、あぁ、そうか、あの時の…と思い出した。美崎海岸へ来た日に、駅前で絡んで来たナンパ男二人組だ。
 二人は治子の全身を、舐め回すような嫌な視線で撫でた。かすかに背筋が冷たくなるような嫌悪感を感じる。が、怯んではいられない。治子は営業スマイルを崩さずに言った。
「お客様、ご注文は?」
 さっきと同じ台詞。治子は徹底的にマニュアル通りの応対に徹するつもりだった。向こうのペースに巻き込まれたら、つけこまれるだけだ。
「あぁ?」
 自分たちのペースに合わせて来ず、同じ事を繰り返す治子に一瞬男たちは苛立った表情になったが、すぐに嫌らしい笑みを浮かべて治子の胸を見つめた。身体にぴったりと密着する制服だけに、彼女の87センチのバストと、深い谷間が否応無しに強調されている。
「俺、おねいちゃんのそのプリンプリンのパイ」
「へへっ、そりゃ良いなぁ。俺もそうしようかな」
 ニヤニヤと笑う男たちに向かい、治子はあっさりと言った。
「申し訳ありませんが、当店ではその商品は扱っておりません。他のメニューをお選びください」
 ぽかんと口を開ける男たち。治子が赤くなったり、恥ずかしがったりする事を期待したのだろう。しかし、治子は普通の女の子ではなかった。顔色一つ変えずに三度目の言葉を繰り返す。
「お客様、ご注文は?」
 期待通りの反応を示さず、ニコニコと笑う治子に、男たちは言葉に詰まった。その時、バックルームのドアが開いて、夏姫が出てきた。後ろには明彦と昇も従っている。3人は治子たちのいるテーブルに近づいてくると、まず夏姫が口を開いた。
「お客様、当店の者に何か失礼な事でもありましたでしょうか?」
 言葉遣いこそ丁寧だが、ほとんど剃刀で切りつけるような鋭さを秘めた夏姫の口調は、男たちのいきがりを根こそぎ削ぎ落とす効果があった。そして、その時になって、男たちも気づいた。店内の客も含め、ほぼ全員が彼らに対して非難の空気を発している事に。
「い、いや…別に」
「ちょっと知り合いにあったんで話し掛けただけさ、なぁ?」
 弱気になった男の一人が美春の方を向いて言ったが、美春はなにも答えなかった。
「そうですか。では、もし何か失礼がありましたら、遠慮なくお申し付けください。前田さん、冬木さん、ちょっと事務室まで来なさい」
 夏姫はそう言うと、踵を返してバックルームに消えていった。名前を呼ばれた治子と美春が後に続く。代わりに、明彦と昇はそのまま残った。二人はナンパ男と堂々と対決した治子を、敬意を込めた視線で見送った。

 事務室に入ると、夏姫はマネージャー席の椅子に脚を組んで腰掛け、ふぅ、とため息をついた。そして、厳しい口調で言った。
「冬木さん、事情を説明してください」
 美春の身体がびくっと震えた。震えはとまらず、まるで熱にうなされる病人のように顔色も真っ青になっている。
「わ、私は…私…変われる…と…思った…のに…」
 震える彼女の唇から、ほとんど意味のない言葉が漏れる。
「美春ちゃん?」
「…冬木さん?」
 異変を感じた治子と夏姫が同時に呼びかけるが、美春の異変は収まらない。
「どうして…そっと…しておいて…くれないの…?」
「夏姫さん」
 治子は夏姫の方を向いて言った。
「今は、美春ちゃんはそっとしておく方が良いと思います」
「…そうね。落ち着いてから改めて事情を聞くわ。そこのソファを使って」
 夏姫もその意見を受け入れ、治子は自分より少し高い美春の肩を抱くようにして彼女の身体を支え、ソファに座らせた。
「美春ちゃん、少し休んでて」
 こくりと美春が頷く。
「夏姫さん、美春ちゃんをよろしくお願いします」
 治子が振り向いて言うと、夏姫は黙って頷いた。そして、治子の方を向いて言った。
「前田さん、冷静な対処をしてくれて助かりました」
「いえ…たいした事じゃありません。マニュアル通りにしただけですから」
 治子は首を横に振った。
「それをとっさに出来るところが慣れなのよ。先輩にも、その域に達してほしいものだけど…」
 夏姫はため息をつくように言い、それから治子に朱美を呼んでもらえるように伝言した。
 治子がバックルームを出て例の席を見ると、既にあの男たちはいなかった。
「あ、治子さん!」
 治子の姿に気がついたナナが、小走りに治子の元にやってきた。
「あの、美春さんは?」
「…ちょっと奥で休んでる。それより、連中は?」
 治子が聞くと、ナナは目を輝かせて答えた。
「それがですね、昇さんが応対したら、さっさと逃げていったんですよ。カッコイイですよね…昇さん」
「へぇ、やるなぁ彼」
 治子が感心すると、聞こえたのか昇がニヤリと笑い、治子の方に親指を立てた握り拳を突き出してきた。確かに、190センチ近い長身とがっちりした体格の昇は、外見的には十分脅威として認識されうる相手だろう。それに、明彦も細身で優男風だが、バスケをやっていただけあって背は高い。それなりに頼りにはなる。
「まぁ、詳しい事は後で聞くとして…朱美さん、夏姫さんが呼んでます。キャッシャー代わりますから、行って来てください」
 治子に呼ばれ、朱美は「うん…」と元気のない声で返事をしてバックルームに入って行った。それを見届け、キャッシャーカウンターに立つと、玄関のところに何か白いきらきらと輝くものが飛び散っていた。どうやら、誰かが塩でも撒いたらしい。
「また来なきゃ良いけど…しつこそうだからな、ああいう手合いは」
 治子は今後の展開を考えて、少し鬱な気分になった。すると、そこへ朱美が戻ってきた。やっぱり怒られたらしく、表情が暗い。朱美は治子の側まで来て、頭を下げた。
「前田さん…さっきはありがとう。私だけじゃ、どうしたら良いのかわからなかったわ…」
 治子は慌てて朱美の肩を掴み、頭を上げさせた。
「気を落とさないでください。怖いのは誰だって怖いです」
 治子が言うと、朱美は首を横に振った。
「でも、結局あの人たちを止めたのは前田さんだわ」
「それは違いますよ」
 今度は治子が朱美の言葉を否定した。
「最初に止めに入ったのは、朱美さんじゃないですか。だから、私も後に続けたんです。朱美さんは立派です」
 治子のその言葉に、朱美は浮かびかけていた涙を指で拭って、ありがとう、と小さな声で言った。
「…そうね。初日から、あんな事に負けていられないわ。がんばらなきゃ」
「その意気ですよ」
 治子が笑うと、朱美も釣られて微笑んだ。少し暗い雰囲気になっていたフロアに、再び明るい雰囲気が戻ってきた。やはり、朱美はムードメーカーなのだ。

 夕方、休憩に入った治子は、朱美と一緒に事務室の扉を叩いた。
「どうぞ」
 夏姫の返事が聞こえ、治子は扉を開いた。夏姫に会釈し、朱美と一緒に、ソファに座って膝を抱え込んでいる美春の横を挟むように腰掛ける。
「…少しは落ち着いた?」
 治子が出来るだけ優しい声で問い掛けると、美春はこくんと頷いた。
「あの人たちは帰ったわ。もう心配ないわよ」
 朱美が言うと、美春は今度は首をふるふると横に振って、「だめ…」と呟くように言った。
「だめ、って…?」
   治子はあくまでも優しい口調を崩さない。
「ここも…<ツイスト>みたいにされちゃう。あいつらが入り浸ったせいで…!」
 美春の声に嗚咽が混じった。三人は顔を見合わせた。美春の言う事は断片的でわかりにくかったが、文脈から推測するに、<ツイスト>と言うのは美春がよく行っていた店か何かで、そこが例の男たちの嫌がらせによって潰れた、という事であろうか。
「ダメなんだ…ここへ来れば、過去から逃れてやり直せるなんて、夢見てただけなんだわ…!」
 美春の独白を、三人は黙って聞いていた。そして、美春は顔を覆い、黙って泣き続ける。その状態がどれほど続いただろうか。
「あの、店長、マネージャー」
 やがて、美春が顔を上げた。
「なんですか、冬木さん?」
 夏姫が応じると、美春は思ってもみない事を言い出した。
「私…このお店を辞めます。ここにいたら、きっとまた迷惑をかけてしまう…」
 三人は黙っていたが、やがて治子が朱美の方を向いた。
「どうしましょうね、店長?」
 治子が聞くと、朱美は形の良いあごに指を当てて考え込んだ。
「そうね…まずは、問題客が来たら、すぐにシフトを変更できるようにして置く事ね」
 すると、夏姫がすばやく案を出した。
「そうですね。彼らが来たら、冬木さんには倉庫整理にでも回ってもらって、男子をフロアに回して…」
 いきなり例の二人組対策に関する相談を始めた三人を、美春は驚いたような目で見た。
「あの…」
「「「ん?」」」
 三人は美春の方を振り向いた。
「どうして…?私を辞めさせれば簡単な事なのに…」
 美春が言った。すると、夏姫が呆れたような口調で答えた。
「契約では、冬木さんと当店の雇用関係は一ヶ月間あります。まだ3日も経っていませんよ」
 朱美も頷く。
「今、お店は人手不足で大変なの。冬木さんは仕事の覚えも早いし、残ってほしいな」
 そして、治子がまとめた。
「あの連中と美春ちゃんの間に何があったかは知らないけど…悪いのは明らかに連中だよ。美春ちゃんが辞めるなんてとんでもない」
 すると、美春は首を横に振った。
「違います…私、そんな風に思ってもらえるほど立派な人間じゃない。あいつらは、私が荒れていた頃の仲間なんです。だから…!」
「でも、今は仲間じゃない」
 美春の言葉を途中で遮り、治子はきっぱりと言った。
「さっき、あいつらに言ってたじゃないか。私はもう貴方たちとは関係ないって。それに、親睦会でも自分を変えたいって言ってたよね」
「で、でも…」
 弱々しくうなだれる美春に、声の調子を優しく戻して治子は言葉を続けた。
「人は、変わろうと思えば変われるはずなんだよ。そう信じなきゃ。私だって、自分を変えようと思ってここのヘルプを受けたんだから」
 治子にとって、それは心からの言葉だった。正確には、変わってしまった女の子の自分から、元の男の自分へと戻るため。しかし、完全に元の自分には戻れないし、戻ってもいけない。男になった自分は、以前の自分ともまた違う、別の自分に変わっていなければならない。
「だから、美春ちゃんもあきらめちゃダメだ。あんな連中に…負けちゃいけない」
「は…治子さん…!」
 また堪え切れなくなったのか、美春が泣き出した。治子の胸に顔をうずめ、涙をこぼしつづける。治子の制服のビスチェ部分に、美春の涙が落ちて小さなしみをいくつも作った。
「冬木さん」
 朱美が優しい声で言った。
「私はね、お店は一つの大きな家だと思うの。店員は家族で、同時に兄弟姉妹だったり、親子だったり。だから、辛い事があったら、どんどん頼って欲しいな。私は頼りない家長かもしれないけど…絶対に家族を見捨てたりしないわ」
 そこで朱美は夏姫の方を振り返って言った。
「こんな事を言うと、夏姫ちゃんは甘いって言うかもしれないけど」
「甘いですね」
 夏姫は答えた。しかし、その声に朱美を責めるような調子は含まれておらず、珍しく優しい表情を浮かべていた。
「ともかく、辞意は受け付けません。店員に落ち度がなければ尚更です」
 夏姫が厳しい表情にもどって言うと、治子が頷いた。
「そうそう。第一、迷惑客のあしらいなんて、接客マニュアルの中にもある事だしね。特に、うちみたいな店だと、盗撮しようってバカも多いし」
 制服のかわいさをうりの一つにしているPiaキャロットだが、それだけに安売りは許されない。盗撮に対しては断固たる態度で臨んでいた。
「暴力的な客に対するマニュアルをまとめるチャンスかもしれないわ」
 朱美は冗談めかして言った後、美春の顔をじっと見つめて言った。
「ともかく!あんな人たちに負けるわけには行かないわ。店を挙げて応援するから、冬木さんも負けないで」
「は、はいっ!」
 美春はようやく笑った。親睦会で笑ったときでも、どこか陰がある笑顔だった美春が、ようやく本当の笑顔を見せてくれた、と治子は思った。

 それから2日ほど、男たちは店を訪れたが、その度に美春は倉庫に退避し、明彦や昇、場合によっては腕に覚えのある厨房スタッフまでが出てきて彼らを見張った。
 その甲斐があったのか、3日目にはついに男たちは来なくなった。粘り勝ちしたと、誰もが思った。
 しかし、美春を巡る戦いは、まだ最後の一山を残していたのである。

(つづく)

治子への好意カウンター(爆)
明彦:+1 トータル5ポイント
美春:+2 トータル4ポイント
朱美:+1 トータル2ポイント


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