並べられたコンロの中で、ぱちぱちと炭火の燃える音が聞こえてくる。そして、その火で熱せられた金網や鉄板の上で、食欲をそそる匂いを発して焼けていく食材たち。
 治子の事故や、その後の夏姫のお説教などで既に予定を30分以上オーバーしていたため、全員が「早く食べたい」と逸りたっていた。しかし、食事の前にはまず欠かせない儀式がある。朱美が手を合わせ、コンロの上の食材を拝むようにして言った。
「いただきます」
『いただきまーす!!』
 こうして、親睦会の午後の部…バーベキュー大会が始まった。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


7th Order 「親睦会ぱにっく(二次会)」


(ところで、ここ数日で何回目の宴会だろうね)
 治子はジンジャエールを飲みながら思った。まだ足が痛むので、コンロから離れた所に置いてあるベンチに腰掛けている。すると、ナナが両手に一つずつ皿を持ってやって来た。
「治子さん、どうぞ」
 にっこり笑って彼女が差し出した皿には、肉と野菜、それにやきそばがバランスよく乗せられていた。
「あ、ありがとう」
 治子は皿を受け取った。彼女が明彦に背負われて帰ってきたとき、涙ぐむほど心配し、また喜んでくれたのがナナだった。夏姫のお説教よりも、ナナの涙の方が治子には堪えた。
(やっぱり、こういう妹系の女の子には弱いのかなぁ)
 美奈やともみの事を思い出し、治子が苦笑すると、その笑顔を元気になったと勘違いしたナナは、嬉しそうにコンロの方へ戻って行った。すると、今度は入れ替わりに朱美がまた皿を持ってやって来た。
「前田さん、良かったらこれ食べない?」
 そう言って朱美が差し出した皿の上には、かたち良く作られたタコさんウィンナーが盛られていた。
「美味しそうですね。ところで、これは朱美さんが?」
 治子が尋ねると、朱美はこくりと頷いた。治子は試しに一つ取って口に放り込んだ。
「うん、これは美味しいですね。朱美さんならフロアスタッフじゃなく、厨房スタッフでもいけるんじゃないですか?」
 治子が言うと、朱美は顔を赤くして笑った。
「まさか。タコさんウィンナー一つでシェフが勤まるほど、Piaキャロットは甘くないわよ」
 そう言うと、朱美もコンロの方へ戻っていく。治子はベンチにナナの皿と朱美の皿を置いて食べ始めた…と思いきや、昇がなにやら山盛りになった皿を持ってやって来た。
「治子さん、こいつは俺特製のスタミナやきそばです!これを食って、早く怪我を治してください」
 そう言って昇が差し出してきた皿からは、ものすごい匂いが漂って来た。
「な、なんだこりゃ」
 思わず咳き込みそうになる治子。見ると、それはにんにくやニラが大量にぶち込まれた素敵なやきそばだった。それはスタミナはつくかもしれないが、けが人にはあまり関係ないだろう、と治子は思った。しかし、突き返すのもちょっと気が引ける。
「…ありがとう」
 仕方なく、治子はそれを受け取った。そして、食べずにスルーしようと思ったのだが、見ると、昇が期待を込めたまなざしを送っていた。
(…これを食って感想を聞かせろと?)
 強烈な刺激臭が漂うやきそばを見ながら、治子は心中涙した。そして、ほんの少しだけつまんで口に入れる。
(…!!)
 声にならない味だった。と言うより、匂いがきつすぎて味がわからない。
「…美味しいよ」
「そうですか!そりゃ良かった!!」
 それでも治子がそう言ってやると、昇は小躍りしそうな喜びようで戻って行った。治子はそれを確認してから、ベンチの端にやきそばを置いた。ジンジャエールを口に含み、炭酸の刺激で口を洗うと、ようやくすっきりした気分になった。それでも、風向きによっては匂いが流れてくる。
 すると、今度は美春が皿を持ってきた。
「シーフードなんですけど…食べます?」
「あ…ありがとう、美春ちゃん!」
 治子は喜んで皿を受け取った。焼いたカキやイカがてんこもりになっている。地獄のやきそばに比べたらまさに天国のメニューだ。
「ところで、何か匂いませんか?」
 治子がとりあえずイカを一切れだけつまんで皿を置こうとしたとき、美春が聞いてきた。
「…ちょっとね。良かったら、ゴミ袋を取って来てくれないかな」
 治子が答えると、美春は頷いてコンロの方へ戻って行った。そこでは、めいめいが好きな食材をその場で焼いて食べている。特に、貴子と昇の二人は、5人前くらいの食材が入ったダンボール箱を2つずつ占有して、すさまじい勢いで空にしていた。最初の10人前なんかでは絶対に追いつかないところだった。
 美春が戻ってきて治子にスーパーのビニール袋を手渡した。治子は礼を言うと、昇のやきそばを皿ごと放り込み、何回も結んで匂いが漏れないようにした。
「これで良し」
 治子が頷くと、美春は訳がわからなかったらしく、治子に何をしたのか尋ねてきた。
「大量破壊兵器の破棄だよ。それより、さっきは心配かけてごめん」
 治子は事故の事でまだ美春に謝っていなかった事を思い出し、頭を下げた。
「いえ…無事でよかったです」
 美春はそう答えると、治子の横に腰を下ろした。治子は尋ねた。
「もう食べないの?」
「ええ、あまり食べない方ですから」
 美春はそう言うと、話し掛けてくるでもなく、コンロの方の人だかりをじっと見ていた。治子はもらった皿から食事を続けながら、時々横目で美春の事を観察した。
(…大勢は苦手なのかな?)
 さっき、ナナと3人で歩いていたときは結構話好きな明るい少女と言う印象を受けたのに、今の美春は寂しそうな表情でバーベキューに群がるみんなを見ていた。かと言って、その輪の中に入るそぶりも見せない。
(何があったのかな…)
 美春の様子が気にかかりながらも、治子はその事について彼女に話し掛けるきっかけが掴めなかった。そして、夏姫のパンパンという合図の拍手が聞こえてきた。
「そろそろ食事は終わったようですね。では、これから自由時間とします」
「え?…早っ!」
 治子が時計を見ると、1時40分ごろに食事を始めたにもかかわらず、まだ1時間ちょっとしか経っていない。食事終了の予定時間だった3時よりも前倒しになっている。
(まぁ…あの二人があの勢いで食べてれば無理もないか)
 すっかり空になったダンボール箱を満足そうにたたむ貴子と昇を見て治子は苦笑しつつ納得した。すると、夏姫が治子の方に歩いてくるのが見えた。
「前田さん、今のうちに病院に行ったほうが良いわ。タクシーを呼んであるから、この病院に行きなさい」
 夏姫はそう言うとメモを治子に手渡した。確かに、開店まで間もないこの時期に怪我で休むのはいかにもまずい。
「すいません、お手数をかけます」
 治子は頭を下げて立ち上がった。美春が一緒に立ち上がり、痛めた右足の方に回って肩を支えてくれる。
「ありがとう、美春ちゃん」
 治子が礼を言うと、美春は黙って微笑んだ。二人で公園の入り口まで行くと、ちょうどタクシーが走ってくるところだった。
「じゃあ、ここまでで良いよ」
 治子が言うと、美春は少し心配そうな表情で言った。
「付き添わなくて良いですか?」
「…うん、ありがたい申し出だけど大丈夫。それより、みんなと楽しんだ方が良いんじゃないかな」
 治子は美春の申し出に首を横に振った。美春がなぜか人の輪から外れがちだったのが気にかかったのだ。
「でも…はい」
 治子の意志が固いことを知ると、美春は頷いた。治子はタクシーに乗り込んで運転手に行き先を書いたメモを渡し、美春に手を振った。
「じゃあ、また後で!」
「はい、治子さんも気をつけて」
 挨拶と同時に自動ドアが閉まり、タクシーは病院に向けて走り出した。角を曲がって姿が見えなくなるまで、美春はそこに立って見送ってくれていた。

 夕方の六時過ぎ、ようやく治子は病院から寮に帰ってきた。崖から落ちた、と言う事で念のためにレントゲン写真撮影などを受けたのが原因だ。しかし、幸いにも治子の怪我はたいした事がなく、一番重傷の右足も、一週間もすれば完全に直ると診断された。
「なに、これなら痛いのは今日だけですよ。念のため、湿布と痛み止めを渡しますから、急激な運動は控えるようにしてくださいね」
 医者はそう言うと、治子の足に湿布を貼り、テーピングで固定した。すると、ゆっくりとなら歩いても支障が無いくらいに痛みが和らいだ。
「では、3日くらいしたら様子を見ますのでまた来てください。お大事にどうぞ」
 医者に礼を言うと、治子は夏姫に電話で結果を報告し、病院の前からバスに乗った。寮の最寄りのバス停まで行き、そこからは歩いて帰る。長距離でもあまり痛みは感じない。さすがに走る、跳ぶなどは無理そうだが、これなら仕事に支障が出る事はないだろう。治子は安堵した。
 そして、寮に帰ってくると、食堂には明かりがつき、にぎやかな話し声も聞こえてきた。19:00から夕食会という予定だったが、どうやらみんなもう帰っているらしい。治子は急いで食堂へ向かった。
「ただいま帰りました」
 そう言って治子が食堂のドアを開けると、途端に破裂音が鳴り響き、色とりどりの紙テープが彼女に向かって飛んできた。
「わ、な、何?」
 視界を遮る紙テープをよけてみると、ナナと貴子、昇がクラッカーを治子に向かって構えていた。さっきの破裂音はこれだったらしい。
「治子ちゃん、大したこと無くて良かったわね〜」
 貴子が満面の笑みを浮かべながら言う。
「あ、はい。ありがとうございます」
 治子が頭を下げると、すかさず夏姫が厳しい口調で言った。
「今回は運が良かっただけです。今後は怪我をするような危険なことは慎んでください」
 昼間の説教でも散々言われたことだが、まだ言い足りないようだった。それにも素直に頭を下げる治子。
「まぁまぁ、夏姫ちゃんもそこまでにして。前田さんももうわかってると思うし」
 そこへ朱美が止めに入り、夏姫もそれ以上の言葉を納めた。さすがに同じ事を何度も言うのはしつこいと思い直したらしい。それに、「危険なこと」を突き詰めると、結局企画した朱美まで累が及んでしまう。
「それじゃあ、そろそろ飲み物を配るわよ〜」
 話が終わったと見切り、貴子が宣言した。昼間、バーベキュー大会の時は非アルコール飲料ばかりだったが、今回は夜なのでビールなども用意してある。治子は回ってきた飲み物の中からグレープフルーツ味の炭酸飲料を抜いて自分のコップに注いだ。周りを見ると、彼女の他にはナナがジンジャエールを選んだくらいで、後は全員ビールや缶チューハイを選んでいる。
 やがて、全員が飲み物の準備を終えると、朱美がゆっくりとコップを掲げた。全員がそれに倣ったところで、朱美は精一杯の大声で乾杯の音頭を取った。
「それでは、Piaキャロット美崎海岸通り店の門出を祝して…乾杯!」
『かんぱーい!!』
 次々にグラスを打ち鳴らす音が響き渡る。昼間に大食いした事もあって料理は比較的少なめ(と言っても、やはり木ノ下一族の分だけで10人前以上)だが、その分手の込んだものになっていた。
「うーん、このまぐろのカルパッチョはお店でも出したいかも…」
「まぐろは地元の特産品ですからね。今度検討して本店にも提案してみましょう」
 朱美と夏姫はここでも仕事熱心だった。なにやら二人で相談事をしている。すると、かなりテンションの上がってきている貴子が何やら引っ張り出してきた。
「はいはい、せっかくの宴会なのに固い話ばっかりしないの。それよりもこれよ、これ!!」
 そう言って貴子が自慢げに取り出したもの…それは業務用の立派なカラオケセットだった。しかも、採点機能つきだ。
「ど、どうしたんですか?これ」
 治子が驚いて言うと、貴子は良くぞ聞いてくれました、とばかりに嬉しそうな表情で答えた。
「これはここがホテルだった頃からの備品よ。曲のバージョンアップはいまでも怠っていないわ…と言ったところで、はい、これ」
 そう言って、貴子はいきなり治子にマイクを押し付けた。
「え?ええ??」
 突然のことに戸惑う治子はそのまま貴子に前に引きずり出された。貴子はそのままもう一つ備え付けのマイクを手にとり、口上を述べ始める。
「さて皆様お待たせしました。美崎海岸期待の新人、前田治子嬢が魂を込めて熱唱します!曲はご存知『永遠のストーリー』!!」
「えええっ!?」
 治子は驚愕した。何時の間にか曲まで勝手に登録されている。イントロが流れ、観客が大いに拍手を浴びせた。
「いよっ、待ってました!!」
「治子さん、すてきー!!」
 昇やナナが拍手しながら叫ぶ。治子は救いを求めるように夏姫を見たが、恐ろしい事に彼女までにこやかに笑いながら拍手をしていた。
「くっ…仕方ない」
 治子は覚悟を決めた。幸い、「永遠のストーリー」は化粧品のCMソングで、テレビでも良く流れるので、彼女も知っている曲だった。
「出会いは偶然で〜どこにでもあるとしても〜二人なら永遠のストーリー〜♪」
サビ以外ではわからない部分もあったが、何とか歌い終える。すると、ドラムロールの効果音と共に採点が始まった。デジタル表示板がめまぐるしく明滅する。全員が固唾を飲んでその行方を見守った。
 そして、「じゃんっ!」と言う音が鳴り響き、ついに点数が表示された。
 86点。
 このなかなかの好成績に、再び拍手が湧き起こった。
「よ、良かった…無様な点数じゃなくて」
 初めて歌う歌で、しかも慣れない女性ボーカル曲での成績だっただけに、治子は安堵で胸をなでおろした。
「よーし、次は俺、俺!!」
 大ノリで立ち上がった昇がマイクを引っつかむと、「俺の歌を聞けぇぇぇぇ!!」と激しくシャウトしながら歌い始める。意外に上手い。結果が出る。84点と治子には及ばないが、なかなかの成績だ。
「む…俺的には不満足なのだが…」
 昇が不平を言うが、機械には通じない。しかし、こうなると場も一気にテンションが上昇してくる。
「♪ぐるぐる今日も目が回る〜いつもの事気にしてないけど〜」
 ナナがキャピキャピ(激しく死語)のアイドル系の歌を熱唱する。しかし成績は72点と振るわない。
「ぶ〜!!」
 ナナが口を尖らせる。上手な事は上手だったのだが、彼女では少し大人し過ぎたようだ。
「♪眩しいSummerDay 出会ったその瞬間に…」
 続いて、美春が少し落ち着いた印象の歌をしっとりと歌い上げる。結果はなんと91点と、一気にトップに立った。
「…こんなものかな?」
 拍手喝采にも、余裕の表情で応える美春。なかなか堂々とした態度である。
 続いて、酔っ払った朱美が明彦を強引に連れ出してベタ甘なラブソングを歌う。しかし、結果は68点と最低。
「えぅ〜!神無月君のせいよ〜!!」
「お、俺が悪いんですかっ!?」
 低成績を明彦のせいにして、ぽかぽかと殴る朱美と、情けない声で抗議する明彦に、全員が大爆笑した。
 こうして、残るは夏姫と貴子の二人になった。日頃から何かと仲の悪い二人の対決だけに、雰囲気もこれまでと違ってどことなく緊張感をはらんだものとなった。
「では…」
 先に立ったのは夏姫だった。歌は、彼女のイメージにふさわしい渋いバラード。しかも、歌詞が英語だ。それを見事な発音で流麗に歌い上げていく。
「こ、これはかなりの成績だぞ…」
 昇が呟く。やがて、歌い終えるとさっそく採点が始まった。誰も一言も口を利かないまま、デジタル表示板に視線を注ぐ。そして。
 93点。
 その瞬間、どよめきと共に拍手が湧き起こった。夏姫は「フッ…」と不敵に笑い、貴子にマイクを手渡す。そこには既に勝利を確信したかのような余裕すら漂っていた。
「やるわね…」
 貴子が立ち上がり、曲を入力する。流れてきたのは、意外と言うか、イメージ通りと言うべきか、コテコテの演歌だ。
「これ…聴いたことない曲だな。なんだろう?」
 治子が言うと、昇がにやりと笑ってその曲の正体を教えてくれた。
「これ、美崎海岸のキャンペーンソングなんですよ。何年か前に、当時のミス美崎海岸に歌わせてCDを売り出したらしいけど、あまり売れなかったみたいですね」
「へぇ…」
 最近はキャンペーンソングブームだから、今なら売れるかもしれないなぁ、と治子が思ったとき、イントロが終わって貴子の歌が始まった。その瞬間、全員がうなった。
 上手い。ものすごくはまっているのだ。まるで、貴子のために作られた歌を歌っているようだ。
 こぶしを利かせて歌う貴子を見ながら、治子は思わず呟いた。
「す、すごいな…貴子さん」
 感心する治子の横で、昇が首を捻った。
「あれ、待てよ…叔母さんは昔ミス美崎海岸になったとか豪語してたっけ。するとまさか…」
『え?』
 昇の言葉が意味するところを悟って全員が疑問の声をあげたとき、歌が終わった。ドラムロールが再び始まる。そして、結果が出た。
 94点。
 その瞬間、これまでで最大の歓声が食堂を揺るがした。拍手が湧き起こり、貴子はただでさえ豊かなバストを強調するように胸を張り、夏姫を見て「フッ…」と笑った。
「…!」
 平静を装う夏姫だったが、内心動揺しているのは治子の目にも手にとるようにわかった。
(…夏姫さんって、意外に面白いなぁ)
 スキ無しの大人の女性、と言う貫禄を見せていた夏姫の意外な一面を垣間見て治子が微笑ましく思った時、電話の音が聞こえてきた。
「はいもしもし〜、こちらPiaキャロット美崎海岸寮です…はい?えぇ、いますよ〜。ちょっと待ってくださいね」
 勝って上機嫌の貴子が電話に出た。そして、受話器を指差しながら明彦の方を見た。
「神無月君、電話よ〜」
「へ?俺に?誰からです?」
 きょとんとする明彦に、貴子はいたずらっぽい笑みを浮かべて囁くように言った。
「カ・ノ・ジョ」
『…ええ〜っ!!』
 貴子の優勝が確定した時を越える激しいどよめきがあがった。一方、明彦は身に覚えがあったらしく、慌てて電話に駆け寄ると受話器を受け取る。
「もしもし…やっぱり高井か。どうしたんだ?…うん」
 会話に没頭し始める明彦を全員が注目している。席に戻ってきた貴子に、昇が聞いた。
「な、なぁ、叔母さん。明彦の彼女って…」
 すると、貴子は唇に人差し指を押し当て、全員を見渡して「静かに」の合図をした。そして、テーブルの下をごそごそと探ると、何かを取り出す。
『おお〜』
 全員が思わず感心した。それは、ハンズフリー通話機能付きの電話だった。しかし、木ノ下貴子20歳(自称)、実に何でも用意できる人である。
「それでは…ポチっとな」
 その自称年齢を裏切る古いネタをかましつつ、貴子はハンズフリーモードのボタンを押した。さっそくスピーカーから明彦と、相手の「高井」と言う女性の声が流れてきた。
『明彦も元気にしてる?』
「あ、ああ…こっちはみんな良い人ばかりだし、楽しくやってるよ」
 会話を聞きながら、まず昇が所感を述べた。
「こりゃあ、相手の娘は絶対可愛い娘だな。声でわかる。よし、ライバルが減ったぜ…」
 何の根拠もない断定だったが、治子も全く同感だった。ところで、ライバルって何のことだろう?
『そう?でも、一人暮らしだからって不摂生しちゃだめよ。ちゃんとご飯食べてる?』
「大丈夫だよ。そんなに心配するなって」
 今度はナナが目をきらきら輝かせながら頷く。
「わぁ、もう恋人同士の会話、って感じですね〜」
 先入観の入った判断だったが、治子も全く同感だった。
『そっちは忙しそうなの?』
「ああ。俺以外の経験者は朱美さんと治子さんの二人しかいなくてね。まぁ、新人の人たちも飲み込みは早そうなので大丈夫だとは思うけど…」
 夏姫が呟いた。
「店長を名前で呼ぶなんて…減点1ね」
 貴子も頷いた。
「彼女相手の電話に女の人の名前を出すとは迂闊なヤツ」
 治子も全く持って同感だった。と言うか、俺の名前を出すな。
『ふーん…朱美さんと治子さん?どういう人?』
 やはり気を悪くしたらしく、電話の向こうの彼女の声に、拗ねたような調子が混じったが、明彦は気づかない。
「ああ、朱美さんはこっちの店長さん。それと、治子さんは2号店からのヘルプの人。どっちも頼れそうな人だよ」
 その言葉に、朱美は「まぁ」などと顔を赤らめていた。まだ酔っているのかもしれない。しかし、美春は出来の悪い弟の不始末を咎めるような呆れたよう声でつぶやいた。
「彼女相手の電話で他の女性を誉めちゃダメじゃない…」
 治子も全く持って同感だった。と言うか、頼むからこれ以上俺の名前を出すな。
『そうなんだ…あのね、明彦』
「ん?なんだ、高井?」
『あのね、近いうちに…ううん、やっぱりやめた。その時になったら教えてあげる』
「なんだよ、気になるじゃないか」
『だから、その時になったら、ね。お休みなさい』
 電話が切れた。すかさず貴子がテーブル上の電話を元に戻す。
「なんだよ、高井のやつ…」
 彼女の思わせぶりな態度に、ぶつぶつ呟きながら戻ってきた明彦に、全員の視線が集中した。
「わ、な、なんですか!?」
 驚く明彦に、貴子が意地の悪そうな視線を送りながら笑う。
「ふ〜ん…彼女は『明彦』なのに、君は名前で呼んであげないんだ。かわいそうに」
「かわいい娘なんだろうなぁ。やるじゃねぇかよ大将」
 と、こっちは昇。木ノ下一族の見事な連携プレーに、明彦の顔が真っ赤に染まる。
「な、な、聞いてたんですか!?」
 慌てふためく明彦に、貴子がその通りだとは言わず、しれっとした表情で答える。
「いや、神無月君の受け答えだけでも大体の事はわかるし」
 言葉が出なくなったらしく、口をぱくぱくとさせるだけの明彦。そこへナナが声をかける。
「それで、相手の方はどういう人なんですか?」
 明彦もさすがにこれには答えられた。ゆっくりと、一言一言確かめるように口に出す。
「彼女は…高井さやかは…高校の同級生で、本店でのバイト仲間なんだ…恋人とか彼女とか、そういう仲じゃない」
 明彦が故郷で気になっていた女の子、高井さやか。彼女とのほんの些細な気持ちのもつれから、明彦はこの街へ来る事を選んだ。それだけの相手が恋人や彼女でないとしても、ただの友人であるはずがない。それは瞬時に昇、貴子、ナナに見破られた。
「嘘だ」
「嘘ね」
「そうは見えないですよ〜」
 三連撃を食らってよろめいた明彦は視線が泳いでいた。既にダウン寸前のボクサーと言った風情だ。
「治子ちゃんもそう思うわよね?」
 貴子がなぜか治子に聞いてきた。その目には、ただ単に意見を求める以上の何かを期待するような光がある。
「は?なんでお…私に話を振るんですか?」
 治子は言った。しかし、突然に呼びかけられて驚いたために、声が上ずって、なんとなく怒っているような口調になってしまう。少し気持ちを落ち着けて、治子は言葉を続けた。
「・…まぁ、神無月君が誰と付き合おうと私は一向に構いませんけども」
 これは彼女の正直な気持ちだった。しかし、気持ちを落ち着けるための絶妙の間と、今ひとつ練りこみの足りない言葉は、聞いていた者に大きな勘違いをもたらした。
(治子ちゃん…もしかして妬いてる?かわいいわね〜)
(馬鹿な!何でそんな反応を示すんですか!!)
(落ち着いてるようで、結構熱いのね)
 まさかそんな勘違いをされているとは夢にも思わず、治子がさらに言葉を続けようとすると、ロビーの方から柱時計が鐘を打つ音が聞こえてきた。
「あら、もうそんな時間?」
 貴子が言う。気が付くと、時間は夜の10時を過ぎていた。食べ物も飲み物もほとんど無くなっている事だし、そろそろお開きにしても良い時間だった。
「そうね、明日はもう本番だし…今日は解散にしましょう」
 夏姫が立ち上がって宣言した。朱美は相変わらず赤い顔でけらけらと笑っており、場を締める役には立ちそうもない。明日は大丈夫なのだろうか、と誰もが思った。
「それじゃあ、お休みなさい」
「また明日」
 玄関まで行った所で、ナナと夏姫が挨拶をする。地元民のナナはもちろんだが、夏姫も寮住まいではない。近くにマンションを借りて、そこに一人で住んでいた。店員を萎縮させないためらしい。
「おやすみ〜。昇、アンタ途中まで護衛していきなさい」
 女二人で帰るのは無防備だろうと、貴子が昇に命じた。「ええ〜?」と口では嫌そうにした昇だったが、美女、美少女と3人連れというシチュエーションの魅力には抗しかねたのか、「じゃ、行って来ます」と言って靴を履いた。
「気をつけてね」
「おやすみ」
 寮に残るものが口々に別れの挨拶をする。やがて、昇を含めた三人の姿は夜に呑まれてすぐに見えなくなった。
「うりゅ〜…酔っちゃったかな〜」
 相変わらずグロッキー状態の朱美。見かねた貴子が腰を支えてやりながら部屋に連れて行き、ロビーには明彦と治子の二人が残った。
「えっと、それじゃあ、俺も寝ます。お休みなさい」
 明彦がそう言って部屋に向かおうとすると、治子はそれを呼び止めた。
「ちょっと待った」
「…え?なんですか?」
 明彦が振り向くと、治子は寂しそうなな笑みを浮かべて言った。
「さっき、言いかけた事の続き。君が相手の事をどう思っているかよりも、相手が君をどう思っているのか、それを考える方が良い」
「え?」
 それができなかったばかりに、治子は自分がこんな身体になってしまったと思っている。だから、明彦にはそんな風にはなってほしくなかった。しかし、明彦の方は意味が良くわからなかったのか、目をしばたたかせただけだった。
「相手の気持ちと自分の気持ち、両方を良く考えた上で、答えを出す事。そうでないと…きっと後悔するよ。私みたいに、ね」
 自分にも、あずさとの間でお互いに素直になれない時があった。それを思い出して治子は忠告したつもりだったが、明彦の印象に残ったのは、それを話すときに、治子の表情に表れた翳りの部分だった。
「それじゃ、おやすみ」
 言いたい事を言って自室に向かう治子を見送りながら、明彦は思った。
(治子さんは…俺に何を言いたかったんだろう。どうしてあんな寂しそうな顔をして話すんだろう。気になる…俺は、治子さんのことを、もっと良く知りたい…)
 電話であっても久しぶりにさやかと話せた喜びはもちろんあったが、それに匹敵する勢いで治子への気持ちがますます膨らんでいくのを、明彦は感じずにはいられなかった。

(つづく)

治子への好意カウンター(爆)
明彦:+1 トータル4ポイント
美春:+1 トータル2ポイント


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