美崎海岸に朝がやってきた。海の背後にある山の稜線が明るくなっていく空にシルエットになって浮かび上がり、やがてそこから太陽が顔を覗かせる。街並みに光が差し込み、それに伴って気温がじりじりと上昇し始めた。今日も暑くなるだろう。
 日の出から約1時間後、午前7時。街並みのはずれにあるホテル…を改造した寮の一室。その備品になっているカウンターテーブルの上に置かれたCDラジカセにスイッチが入った。

♪バババババババババババ…ちゃ〜ちゃちゃちゃ〜ちゃらっちゃ〜

 突然、ヘリコプターの爆音に続いて軽快な音楽が流れ出す。その音に、一人用にしては少し大きすぎるベッドに寝ていた部屋の主は、驚いたように跳ね起きた。それから、部屋を横断してラジカセのスイッチを切る。
「あ〜、びっくりした…やっぱり『特攻野郎○チーム』はインパクトが強すぎたか…」
 そう言うと、彼女…前田治子は衣装ケースから服を取り出し始めた。
「今日は親睦会か…汚れてもいい服にしておこう」
 そう言って、丈夫なTシャツとGパンの組み合わせにする。いそいそと着替えていると、部屋の内線電話が鳴った。治子は受話器を手にとった。そして、あごと肩で受話器をはさんで手を自由にすると着替えを続行する。
「はい、前田です」
『あ、治子ちゃん?朝ご飯の用意できてるわよ〜』
 貴子からだった。
「あ、はい。今行きます」
 答えながらGパンに足を通し、ベルトを締め、準備を整える。同時に受話器を置いて、治子の着替えは完了した。なかなか器用だ。
「さて、今日もがんばるぞ、っと!」
 自らを鼓舞するように言うと、治子は廊下に続くドアを開けた。今日は4号店の結束を高めるためのイベント…親睦会の日である。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


6th Order 「親睦会ぱにっく(一次会)」


「う〜、今日も暑いなぁ…」
 昇が犬のように舌を出しながら歩く。
「言うなよ、余計暑くなるじゃないか」
 明彦が文句を言う。治子も含めた女性陣は彼らの後ろを固まって歩いていた。
「まぁ、確かにこの暑さで海がお預けと言うのはつらいかもな」
 明彦が横目で海を見る。朝早いというのに、海岸にはかなりの人数が繰り出していた。
「あぁ、会場を海にしてくれればよかったぜ…」
 昇が相槌を打ちながらやはり海を…というか、波打ち際で戯れる水着姿の女性たちを追っていた。実にわかりやすい男である。すると、その昇の脳天に竹ぼうきの一撃が打ち込まれた。
「んがっ!?」
 頭を押さえてうずくまる昇。その一撃を加えた張本人である貴子は肩にほうきを担ぎ直して言った。
「あんたね、少しは遠慮しなさいよ」
 貴子はそう言いながら朱美の方を向いた。今日の企画の主催者は彼女なのだ。
「あはは…そう言われると、せっかくなんだから海を会場にした方が良かったかも…」
 朱美が苦笑したが、貴子は首を横に振ってそれを否定する。
「ダメよ、朱美ちゃん。コイツは『みんなの水着姿がみたーい』なんてのが本音に決まってるんだから、甘やかさないの」
「うぅ、ひでぇよ、叔母さん」
 貴子の情け容赦ない言葉に昇が情けない顔で抗議するが、当然無視された。しかし、彼は後にこの日の怨念を思わぬ形で昇華し、みんなに「やっぱり貴子さんの言う通りだったんじゃないか」と言わしめることになる。
「それで、会場までは後どのくらいですか?」
 場の雰囲気を変えようと治子が聞くと、朱美が立て札を指差して答えた。
「自然公園まであと1キロ…20分ってとこね」
 そこには、街の東側に広がる丘陵地帯に続く道への分岐点があった。
「なるほど。山の中だったら、少しは涼しいかもしれませんね。行きましょう」
 治子が先頭に立って歩き出し、明彦の横を通り過ぎる。すると、明彦は赤い顔をしてうつむき、それから後に続いて歩き出した。それを見逃さなかった貴子が追いついて来て治子に耳打ちする。
「ねぇねぇ、神無月君、まだ治子ちゃんの事見て赤くなってたわよ」
「はぁ、昨日裸見たばかりですからねぇ」
 治子の薄い反応に「なんだ、つまんないの…」と言いながらも、貴子は治子といっしょに坂道を登り始めた。やがて、道の周りから家が途切れ、木々が迫ってくる頃、その向こうに池を中心とした公園が見えてきた。

 寮組が全員到着してみると、既に夏姫とナナが到着しており、そしてもう一人、見覚えのない女性が混じっていた。健康的な小麦色に日焼けしたかなりの美少女で、髪を金髪にしているが軽薄さを感じさせない。不思議な雰囲気の少女だった。
(ひょっとして、あれが「冬木さん」かな?)
 治子がそう思った時、全員集合に気が付いた夏姫がパンパンと手を打って集合を知らせた。
「皆さん、おはようございます」
 全員が集合したところで、夏姫が冷静な口調で朝の挨拶をした。一同がおはようございます、と挨拶を返したところで、夏姫は先を続けた。この暑いのに汗一つかいていないのはさすがと言うべきか何と言うべきか。
「今日は親睦会を行いますが、その前に、新しくスタッフに加わった方を紹介しましょう。冬木さん、どうぞ」
 治子の予想通り、彼女が冬木さんだった。彼女は一歩前へ進み出ると、真面目そうな口調で自己紹介を始めた。
「冬木美春と言います。この度、皆さんと一緒に働かせていただく事になりました。よろしくお願いします」
 美春が自己紹介を終えると、拍手が自然に湧き起こった。そして、逆に美春に向けての各自の自己紹介が始まる。それが終わると、夏姫は今度は朱美に話を振った。
「それでは店長代理、開会の挨拶を」
 頷いて進み出た朱美はえー、おほん、と軽く咳払いをして息を整えると、にっこりと笑って挨拶した。
「皆さん、おはようございます。今日は、オープニングスタッフが全員揃う初めての日…まぁ、厨房スタッフの皆さんはまだですけど…なので、結束を固める意味で親睦会を行いたいと思います。一日楽しくやりましょうっ!」
 再び拍手が巻き起こる。
「では、詳しい内容やスケジュールに関しては、夏姫ちゃ…岩倉マネージャーからお願いします」
「夏姫ちゃん」と言いそうになった朱美を、ものすごい視線で睨んで言い直させた夏姫は、ハンドバッグからメモ帳を取り出すと予定を読み上げ始めた。
「ではまず…10:00より二人一組に分かれてのオリエンテーリング。昼食のバーベキュー大会は13:00からですが、基本的にオリエンテーリングでゴールした人たちから始めます。15:00から17:00までは自由時間。その後、片付けをして、18:00にはこの公園を撤収…19:00に寮の食堂で夕食会を行います。何か質問は?…はい、君島さん」
 手を上げたナナを夏姫が指名した。
「はい。あの〜、オリエンテーリングって、どういう事をするんですか?」
 ナナの質問に、美春も頷いている。どうやら彼女も知らないようだ。
「そうね、わかりやすく言えば、事前に渡された地図を頼りに、この公園の中に隠されている5つの旗を探し出してくる…という宝捜しみたいな競技よ」
 夏姫のわかりやすい解説に、二人は納得したらしく礼を言って下がる。そこで治子は手を上げた。
「はい、前田さん」
「バーベキューの道具と食材ですが、どこにあるんですか?特に見当たりませんが…」
 そう言えば、と言う声があがる。すると、夏姫は朱美と視線を交し合って頷いた。
「道具と食材は後でここに業者が届けてくれるはずです。先輩、食材は発注されたんですよね?」
 夏姫の質問に朱美は頷いた。
「ええ。肉に野菜にやきそば10人前、ちゃんと頼んであるわよ」
 参加者8名で、女性6人に男性2人。普通のメンバーなら妥当な数字と言えよう。しかし、治子は朱美が一つ計算違いをしている事に気が付いた。
「朱美さん…それ、たぶん足りないですよ。あと10…いや、15人前追加しましょう」
 一瞬怪訝な表情をした朱美だったが、すぐに治子の言わんとするところに気が付いた。そう、木ノ下一族の食べる量である。
「そ、そうね。今すぐ電話すれば追加注文が間に合うわね」
 そう言うと、朱美は治子に感謝の片手拝みをしつつ、携帯電話を取り出して業者に連絡を取り始めた。夏姫はその様子を確認し、残るメンバーの方を向いた。
「他になければ、ペアを決めてください。なお、私は連絡係としてここに残ります」
 夏姫の宣言に、全員がざわめく。と、治子の前にすっと二人の人影が現れた。明彦と昇だ。
「「あの、治子さん、良かったら俺と…」」
 二人揃って同じ口調で言ったところで、ライバルの存在に気が付く。二人はそのままにらみ合いに入った。
「明彦…お前とはいつか決着を付けなきゃならん、とは思っていたが、こうも早いとはな…」
「どういうノリだとツッコミを入れたいところだが、とりあえず同感だ」
 昇の宣戦布告に明彦が応じ、緊張感が走る。そして。
「「勝負っ!最初はグー、じゃんけんほいっ!!」」
 パーとパー、あいこだった。すかさず二の矢が繰り出される。
「「あいこでしょっ!!」」
 またしてもあいこ。激しい戦いが続く。しかし…
「はぁ…あの二人は放って置こう」
 治子はあっさりとその場を後にしていた。そして、美春がまだペアを作っていない事に気が付く。
「あの、冬木さん」
 治子が呼びかけると、美春は驚いたように身体を震わせ、それから治子の方を向いた。
「あ…えっと、前田さんでしたっけ?」
「ええ。まだ決まっていないようだったら、私と一緒に行きませんか?」
 実質初対面でこの申し出。警戒されるかな、と思った治子だったが、美春は微笑んで頷いた。
「良いですよ。よろしくお願いします」
 さっきまでは硬い表情をしていた美春だったが、笑うと実に魅力的な少女であることがわかった。つられて微笑んだ治子に、ナナが声をかける。
「あの、前田さん、冬木さん、私もご一緒して良いですか?」
「え?」
 治子は振り向いてナナを見た。考えてみると、参加者8人で夏姫が残るのだから、二人一組ではどうしても一人余りが出てしまうわけだ。
 そして他のメンバーはと見ると、朱美と貴子が組み、男子二名は激しいジャンケン合戦を繰り広げている。まぁ、ナナとしても年上コンビといっしょよりは、歳の近い治子・美春の方がとっつきやすいだろう。
「別に良いよ。冬木さんも問題ないよね?」
「ええ、かまいませんよ」
 治子の言葉に美春も賛同し、ナナを加えた3人でオリエンテーリングに出発する事が決定した。夏姫から地図を受け取り、3人で森の中へ続くハイキングコースを進んでいく。
 なお、明彦と昇のジャンケン合戦に決着が付いたのはその3分後、昇の勝利であった。が、それが全く無意味な勝負だった事に二人が気づくのは、決着の付いた10秒後だった。

 森の中は思ったより涼しかった。木の枝を揺らして吹く風は、さっきまで容赦なく陽に照らされて火照った肌を心地よく冷やしてくれる。そんな気持ちのいい緑の中を、治子たち3人は歩いていた。
「へぇ、美春ちゃんも東京だったんだ」
「えぇ、実家は。こっちには昨日引っ越してきたばかりなんです」
「じゃあ、地元は私だけなんだぁ」
 3人の会話は、美春が最初の印象からは意外な事に、結構話し好きだった事もあって、なかなか盛り上がっていた。お互いを呼ぶのも苗字から名前に変わっている。一見、すっかり打ち解けた雰囲気だ。
「それにしてもヘルプ、でしたっけ?こんな遠いところまで来るのは大変ですよね」
 美春の言葉に治子は大いに頷いた。
「うん。まぁ、これは私が望んで来たんだから、誰にも文句は言えないけど」
 強いて文句をいうなら自分自身か、とこれは言葉には出さずに心中で呟く治子。そこへナナが割り込んだ。
「凄いですよね。私なら東京に行け、なんて言われたらちょっとしり込みしちゃうかも…美春さんはどうしてこっちに?」
 しかし、このナナの何気ない質問は、美春に思わぬ反応を示させた。ひどく強張った表情になり、足も止まってしまったのだ。
「…それは…」
 言葉を続けようとするが、声にならない。そんな美春の様子に、ナナが沈んだ表情で謝る。
「ごめんなさい…なんか、悪い事聞いちゃったみたいで…」
 その余りに恐縮したナナの様子に、今度は美春が慌てた。
「そ、そんな事ないわよ。そうね、私がこっちに来たのは、自分を変えたかったから、かな…」
 何気ない口調だったが、美春の表情はどこか寂しげで、その視線はどこか遠くを見つめていた。再び場が気まずい空気に覆われる。治子は話題を変えようと地図を見ながらことさら明るい声で言った。
「さて、そろそろ最初の旗が見えるはずだよ。探して、みんな」
「「あ、はい」」
 美春とナナも頷き、森の奥へ視線を向ける。1分ほど経った時、美春が声をあげた。
「あれじゃないですか?」
 治子たちは一斉に美春が指差した方向を見た。そこに、木の枝に隠されるようにして白い布が吊るされていた。
「あ、本当だ」
 3人は旗の下に駆け寄った。それは間違いなく探していた目標の旗だった。白地に「1」の番号と「ルリカケス」と言う単語が記されている。旗にはそれぞれ異なった番号と単語…この公園では鳥の名前らしい…が書かれていて、それをチェックしないと有効にならないのだ。治子は地図に見つけた番号と鳥の名をチェックした。
「これで良し。それにしても、よく見つけたね、美春ちゃん。私にはぜんぜんわかんなかったよ」
「目が良いんですね〜」
 治子とナナが誉めると、美春は照れくさそうに首を横に振った。
「いえ、私近眼なんですよ。普段はコンタクトで補正してますけど…だからたまたまです」
 ところが、その後立て続けに2本の旗を見つけたのは美春だった。どうやら、視力と言うよりは観察力と注意力の問題らしい。ナナも地元住民の意地を見せ、1本を発見している。
(むぅ、俺だけ発見なしか)
 治子は心中で唸った。実際のところ、彼女には地図を見ながら一行をちゃんとナビゲートして旗の近くに導いていく、と言う点では功績があるし、そもそもチームプレイなのだから個人の旗発見数を競っても仕方がない。とは言え、一人だけ見つからないと言うのも癪な話だ。
(よし、最後の1本くらいは見つけてやるぞ)
 そう意気込んだ治子は美春とナナを連れて山道を進んでいったが、最後の旗がある場所の目印になる大きな木が見つからない。時間だけが経ち、気が付くと時計の針は12時になろうとしていた。
「すいません…ちょっと休みませんか?」
 先にバテたのはナナだった。Gパンとスニーカーをはいて来た治子と美春と違って、彼女はスカートとサンダル姿。その分動きにくく、疲労が溜まっているらしい。
「そうね…私もちょっと疲れたわ」
 美春も頷いた。額にかなり汗が浮かんでいる。治子としてはもう少し先に行ってみたかったのだが、同行者二人に休憩が必要とあっては仕方がない。
「うーん…じゃあ、あの切り株のところで待ってて。私はもうちょっと先を見てくる」
 治子は美春とナナに道から少し入ったところにある幾つか並んだ切り株を指差した。
「わかりました」
「気をつけてくださいね?」
 二人の見送りに手を振って答え、治子は山道を進んだ。5分ほど歩いた時、治子は視界の端をちらりと何か白いものがかすめたと思った。
(!)
 立ち止まり、周囲を見る。すると、右手の茂みの奥に白い四角い物体の端が見えているのがわかった。
「あった!」
 治子は叫んで茂みの中に分け入っていった。だが、治子はこの時目印のはずの「大きな木」の有無か、または地図上の自分の現在地を確認するべきだった。
 もう少しで旗が見える…と思ったその瞬間、彼女の足元から地面が消失した。
「えっ!?わ、わあああぁぁぁぁぁっっ!?」
 悲鳴と共に、治子の身体は空中に投げ出されていた。茂みの切れたところに崖があったのだ。ものすごい勢いで身体が落下していき、強いショックを感じた、と思った瞬間、彼女の意識は闇に閉ざされた。

 一方、治子の帰りを待っていた美春とナナは、いつまで経っても戻ってこない治子に不安を感じていた。
「おかしいですね…いくらなんでも遅すぎませんか?」
 ナナの言葉に、美春が腕時計を見て確認する。
「そうね。もうすぐ30分近くになるわ…まさか何かあったんじゃ?」
 少し考えて、美春は結論を出した。
「治子さんが戻ってくるかもしれないから、ナナちゃんはここで待っていて。私は広場に戻って応援を呼んでくる」
「は、はい!」
 ナナがうなずくのを確認し、美春は元来た道を引き返し始めた。10分ほど歩いて、別の道との合流点に来たとき、美春は二人の男性がやってくるのに気が付いた。思わず身構える美春。が、それは明彦と昇の二人だった。
「あれ、冬木さん…どうしたの?」
「あとの二人はどうしたんですか?」
 美春一人がいる事を不思議に思った二人が次々に質問してくる。美春は唇をかむと、落ち着かなくなる気持ちを抑えて話し始めた。
「治子さんが…先に行ったまま戻ってこなくて」
「「なんだって!?」」
 明彦と昇は顔を見合わせた。そして、互いに頷き合うと、明彦が美春に言った。
「わかりました。俺たち二人で探しに行きますから、冬木さんはこのまま広場に行ってください。この道を下っていけば、5分くらいで出られるはずです」
「…ええ、わかったわ」
 美春が帰りの道を下り始めたのを見て、明彦と昇は治子たちが通った道に入った。途中でナナと合流し、やはりナナに待機していてもらう事を決め、二人はさらに奥へ急いだ。

「…う…ん…?」
 鳥の鳴き声で、治子は目を覚ました。
「こ、ここは…痛っ!」
 身体に走った痛みで、治子は自分がどうなったのかを思い出した。たしか、崖から落ちたのだ。
「死んだのかな…俺。それにしちゃあ痛いけど」
 だんだん意識がはっきりしてくると、治子は自分が地面にうつぶせに倒れている事がわかってきた。どうやら助かったらしい。
「えっと、手は…よし、動く」
 腕に力をこめて、治子は上半身を起こそうとした。すると、足に鋭い痛みが走った。
「いたたっ!…う〜…」
 少し涙目になりながら、身体を横に倒して、手を痛みの走った右足に伸ばす。幸い、痛かった辺りを触っても、腫れや血の感触はなかった。身体のほかの部分も、ちょっと打ち身程度の痛みがあるだけだ。
(そんなに大怪我じゃないのか…崖が低かったのかな?)
 上を見上げると、驚いた事に崖の高さは7〜8メートルはありそうだった。
「よ、よく大丈夫だったな…うん?」
 治子は足の怪我した部分に触っていて、ちょっと違和感を感じた。Gパンのごわごわとした感触ではなく、素肌を触るときのすべすべした感触だ。治子は自分の下半身を見て、ぽかんと口を開けた。
「…あれ?…なんでパンツ一丁なんだ?」
 崖から落ちる前は確かに穿いていたはずのGパンが消えうせ、下半身はショーツ一枚のあられもない姿になっていた。辺りを見回すと、頭上3メートルほどの高さのところから生えている木の枝に、彼女のGパンが引っかかっていた。どうやら、落ちる途中でGパンがあの木に引っかかり、落下速度が殺されたらしい。そのお陰で足をひねったくらいのダメージで済んだのだろう。運が良かったのだ。
 脱げてしまったとは、また不思議な力の掛かり具合をしたものだが。
「よ、良し…Gパンを拾って帰ろう…って、痛たたっ!!」
 立ち上がろうとすると、足に激しい痛みが走った。とてもではないが、あの木の所まで行って、Gパンを回収するのは無理だ。
「いった〜…さすがにこの格好で降りていったらまずいだろうなぁ…電話しようにも携帯はあれのポケットの中だよ…」
 どうやら助けを待つしかないようだ。治子は地面に座り込み、ぼーっと崖の上を眺めた。ふと、例の白くて四角いものが目に入った。旗だと思っていたそれは、ただの立て看板だった。よく見ると、それにはこう書かれてあった。
「危険!この先ガケ 美崎町公園課」
 治子はため息をついた。
「いまさら言われても遅いよ…」

 その頃、美春は広場に辿り着き、夏姫と合流していた。ちなみに、貴子・朱美ペアも全部の旗を見つけてゴールしている。
「え?前田さんが?」
 美春の報告に、夏姫は顔をしかめ、貴子と朱美は心配そうな表情になった。と言うか、朱美はもろに動揺していた。
「ああああ、何てことっ!まさか遭難でもしたんじゃ…」
 鶏のようにぐるぐると回る朱美に、夏姫が呆れたような声をかける。
「先輩…少しは落ち着いてください」
「はい…」
 夏姫の一言には朱美を落ち着かせる効果があったらしく、朱美は回るのをやめたが、同時に自分の慌て加減に恥じ入ってしゅんとなる。
「とりあえず、前田さんの携帯に電話してみましょう。公園の中なら電波が届くはずですが…」
 夏姫はハンドバッグから携帯電話を取り出し、治子の電話を呼び出した。数秒待って、電話がかかる。
「かかったわ」
 夏姫は一瞬安堵したが、何度呼び出し音が鳴っても、治子が電話に出る気配がない。
「…おかしいわね。まさか…」
 夏姫は嫌な予感に顔を曇らせた。ひょっとしたら、電話が取れないくらいひどい状況にあるのかと思ったのだ。そこへ、貴子が能天気な口調で言う。
「寮に忘れているだけだったりして…」
「少し黙っててください」
 夏姫は険悪な口調で貴子の言葉を遮った。この二人、ちょっと相性が良くない。話の腰を折られた貴子もムッとした表情で夏姫を睨みつけ、辺りには不穏な空気が漂った。
「ま、まぁ…夏姫ちゃんも貴子さんも落ち着いて…とりあえず、私探しに行って来ます」
 朱美が二人をなだめつつ捜索出発を申し出ると、貴子と美春も名乗りをあげた。
「じゃあ、アタシも」
「私も行きます」
 夏姫は頷いて朱美に言った。
「わかりました。私はここで五分おきくらいに前田さんに電話をします。着信音を頼りに捜索してください。3時を過ぎても見つからない場合は、警察に電話します」
 夏姫の提案に朱美は顔をほころばせ、それからふと思いついて尋ねた。
「あの、前田さんの着信音って何か知ってる?」
 夏姫は少し考えてから答えた。
「たしか…007のテーマだったと思いますが」
「…よくわからない趣味ね」

 その頃、治子はまだ崖の下にいた。頭上でGパンのポケットから着信音が流れてくる。

♪でんでれでーででで でんでれでーででで ちゃっちゃら〜ちゃらら〜…

 電子音だと妙にマヌケに聞こえるテーマ曲が山の中を流れる。
「うう…くっそー、電話だけでも回収できたらなぁ」
 治子は情けなさにため息をついた。それから電話は2回ほど鳴った。誰かが定期的にかけて来ているようだ。
(なんか、ずいぶんしつこくかかってくるな…)
 治子がそう思った時、崖の上でがさがさと言う茂みを掻き分けるような音がした。治子ははっとして顔を上げた。
「誰かいるのか!?」
 治子が大声を上げると、崖の上から「治子さんっ!?」と言う声が聞こえてきて、茂みを掻き分ける音が早くなった。治子は慌てて叫んだ。
「ちょっと待った!こっちに来ると崖がある!!」
「ま、マジですか!?」
 茂みを掻き分ける音が急停止した。しばらくして、それはゆっくりと前進を再開し、やがて、崖のふちの茂みから細い木の枝が突き出した。それは何回か地面を叩くように動き、やがてそこにないもない事がわかると、木の枝は引っ込んで、代わりに明彦の顔が姿をあらわした。
「神無月君!」
「やっぱり治子さんの電話だったんだ!大丈夫ですか?」
 明彦の言葉に治子は頷いた。
「そんなに大怪我はしてないと思うけど、足をひねっちゃって動けない。ちょっと助けにきてくれるかな」
「わかりました。待っててください」
 明彦は顔を引っ込め、茂みを掻き分ける音が遠ざかって行った。電話がまた2回ほど鳴ったあと、山頂の方から明彦が降りてきた。
「治子さん、大丈夫ですか…って」
 明彦が急に立ち止まり、真っ赤な顔をしたのを見て、治子は不思議そうに問い掛けた。
「…どうした?」
 明彦は赤い顔のまま、手で目の前を覆って叫んだ。
「な、なんでズボン脱いでるんですかっ!?」
 ああそうか、今そういう格好だったっけ、と治子は納得した。そして、指で木の枝に引っかかったGパンを示す。
「脱いだんじゃなくて、脱げたんだよ。悪いけど、取ってくれないかな」
 治子が頼むと、明彦は「は、はい」と上ずった声で答え、崖を登り始めた。幸い、その辺りは取っ掛かりも多く、登るのに苦労はない。根っこに辿り着いた明彦が数回木を揺すると、引っかかっていただけのGパンはばさりと音を立てて治子の足元に落ちてきた。
「おっ、ありがとう」
 治子はGパンを拾って穿こうとしたが、足を曲げた途端に痛みが走り、思わずGパンを取り落としてしまった。
「くぅっ…!」
「だ、大丈夫ですか?」
 痛みに顔をしかめていると、崖を降りてきた明彦が駆け寄ってきた。
「ちょっと大丈夫じゃないかも…これじゃズボンが穿けない」
 明彦が見ると、治子の右足首が青くなっていた。腫れや外傷はないが、かなり痛そうだ。
「ど、どうしましょう」
 明彦が言うと、治子はいきなりGパンを明彦に手渡した。そして、足を地面に投げ出すようにして伸ばした。そのすらりとした形のいい脚と、その付け根でTシャツから覗いているパステルグリーンの布地が目に入った瞬間、明彦の心臓は爆発寸前になった。それは、間違いなく昨日間違って治子の部屋に入ったとき、彼女が穿いていたショーツだ。
「は、治子さん!?何をっ!?」
 動揺しまくった声で明彦が言うと、治子は対照的にあっさりとした声で言った。
「ちょっとズボン穿くの手伝ってくれないかな。足首さえ通れば、後は自分でできるから」
「…ええっ!?」
 さらに激しく動揺する明彦。
「い、良いんですか?」
 思わず馬鹿な質問をしてしまう。一方、治子はズボンを穿かないと降りられないのだから、手伝ってもらうのは当然だ。
「いいから早く」
 治子がもう一度促すと、ようやく明彦は覚悟を決めて行動に移った。治子の脚の方に回り、足首をそっと持ち上げてGパンに通そうとする。
「入れますよ?ちょっと痛いかもしれませんけど…」
 治子がその言葉に頷くのを確認し、明彦は布地を脚に通していく。しかし、まだ動揺が残るのか、手が震える。そのため布地が治子の足の指に引っかかって、足首が少し曲がった。
「痛っ…!」
 治子が小さな悲鳴を上げた。明彦は慌てて手を止め、もう何度目かになる質問をする。
「だ、大丈夫ですか?」
「い、痛いけど…大丈夫。続けて」
 会話だけ聞いていると激しく誤解しそうな内容ではある。しかし、最大の誤解はこの直後に訪れた。Gパンが膝まで通ったところで、治子が頷く。
「ここまでで良いよ。後は自分でやるから」
「あ、そうですか…」
 明彦は答えた。ほっとした反面、残念でもある。
(ひょっとして…治子さんは俺のこと男扱いしてないのかな…)
 裸を見られても悲鳴一つあげないし、今もこうして俺に無防備な姿を見せて平然としている。信頼してくれてもいるのかもしれないが…
 そんな事を思いながら、明彦が治子から手を離そうとしたとき、背後から「ああ〜っ!」とも「ええ〜っ!」とも付かない奇妙な悲鳴が聞こえてきた。慌てて振り向くと、そこには朱美と貴子の二人がいた。
「か、神無月君!前田さんに何をしてるのっ!?」
 朱美が顔を真っ赤にして怒鳴れば、貴子がうんうんと頷く。
「まさか、神無月君と治子ちゃんがそういう関係だったとはねぇ…」
「「え?」」
 一瞬訳がわからなかった治子と明彦だったが、傍目には「明彦が治子を脱がそうとしている」ように見える可能性に気づき、慌てて弁解した。
「ち、違います!そんなお二人が考えているような事は決して」
 明彦がしどろもどろになって説明すると、治子がもう少し詳細な内容を話した。
「足をくじいてしまったので、崖から落ちた拍子に脱げたズボンを穿くのを手伝ってもらっただけですっ!」
 この時、治子の顔は赤くなり、明らかに明彦相手のときよりも羞恥心を見せていた、明彦は落ち込んだ。
(やっぱり…俺って危険だとは認識されてないのか…?)
 それはそれで男として悲しい。落ち込む明彦をよそに朱美はしばらくじっと二人を見ていたが、二人の目が真剣な事を見て取ると、肩の力を抜いて言った。
「わかったわ。あなたたちの言う事を信じます」
 朱美の怒りが収まったのを確認して、貴子が治子の横にしゃがみこんだ。
「治子ちゃん、ちょっと足を見せてくれる?」
「あ、はい」
 治子はGパンを完全に穿きなおし、貴子の方に足を出した。貴子はしばらく怪我の具合を見てから治子に言った。
「無理に歩かない方が良いわね。神無月君は治子ちゃんをおんぶしてあげて」
「わかりました…って、おんぶぅ!?」
 明彦が返事をしたときには、貴子は「早く戻ってバーベキュー〜♪」と歌いながら、軽やかな足取りで斜面を下っていくところだった。明彦は治子を見た。
「悪いけどよろしく」
 治子はためらいがちな表情の明彦に言った。頷いて手を差し出してくる明彦に掴まり、片足立ちをしたところで、背負ってもらう。何回か揺さぶってバランスを調整したところで、明彦は夏姫への報告電話を入れ終わった朱美と共に山を下り始めた。
「悪いね。重くない?」
 背後から聞こえる治子の声に、明彦は平気ですよ、と答えつつ歩いた。治子の身体は見た目よりは軽く、それほど背負うのも苦にはならない。
(それにしても、山の中で崖から落ちて、怪我をして、動けなくなったって言うのに泣き顔一つ見せないなんて…治子さんはやっぱり強い人だな)
 明彦は本気で治子に感心していた。その彼女は、心配したと怒りがぶり返してきた朱美に謝っている。
(それに…すっごく柔らかい)
 首筋に治子の豊かな胸が当たる。思わず邪な考えが浮かびそうになるのを必死に打ち消しつつ、明彦はようやく広場まで治子を連れ帰った。明彦の中で、前田治子という女性の存在は、確実に大きくなりつつあった。

(つづく)


治子への好意カウンター(爆)
明彦:+1 トータル3ポイント
美春:+1 トータル1ポイント


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