赤く染まった日が海に沈んでいく。その照り返しを受けて、町並みも赤やピンクの色合いに染まっていた。この美しい夕焼けの景色は美崎海岸の名物だそうである。その夕暮れの風景の中を、治子と朱美、それにナナの3人が歩いていた。制服に着替える時の教訓から、ストラップレスブラを駅前で買い込んできた帰りだ。
「あ、それじゃあ、私は家がこっちですから、ここでお別れですね」
 交差点まで来た時、ナナが言った。
「あ、そうか。地元なんだっけ?」
 治子が聞くと、ナナは頷いて交差点の右に行く道の方を指差した。
「はい。こっちの方なんですよ。それじゃあ、また明日っ」
 そう言って頭をぺこりと下げ、ナナは交差点を渡って帰って行った。
(ちょっとタイプは違うけど、美奈ちゃんっぽいかなぁ、ナナちゃんって)
 治子は故郷の人の事を思い出した。美奈はあずさの妹だ。姉と違って素直で無邪気な少女だった。ナナは美奈よりも少し天然入っているが、印象としては似ているかもしれない。
「前田さん、信号変わったわよ」
「え?あ、は、はい」
 物思いにふけっていた治子を、朱美の声が現実に呼び戻す。治子は慌てて後を追いかけた。
「それで、社員寮ってどんな所なんですか?」
 照れ隠しに治子は朱美に尋ねた。2号店の寮は普通のワンルームマンションだったが、今度も同じような感じだろうか。
「そうね…ちょっとびっくりするかもね」
 朱美はいたずらっぽく笑った。治子は首をかしげる。
(謎の言い方だ…そんなに面白いところなのか?)
 もう少し聞いてみたかったが、どうせすぐにわかる事だと思い直し、治子は朱美と世間話をしながら歩いた。そして、ナナと別れた交差点から5分ほど歩いたところで、朱美は一つの建物を指差した。
「あれがそうよ」
「へぇ…なかなか立派な…って、ホテルじゃないですか?あれ」
 朱美の指差した建物、それはちょっとおしゃれなリゾートホテル風の建物だった。


Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


5th Order 「最初の一夜」


「ただいま帰りました〜」
 寮の玄関をくぐった所で朱美が言った。ちなみに、玄関の構造もホテルのロビーっぽい。看板は確かに「Piaキャロット美崎海岸寮」になっていたが、どうも以前には別の看板がかかっていたような感じだった。
「はい、お帰りなさい〜」
 奥からそんな声が聞こえて、ひとりの女性が姿をあらわした。朱美よりは年上…25〜6と言うところだろうか。いかにも「大人の女性」と言う印象のグラマラスな女性だ。
「あら、新顔さんも一緒ね?」
 女性が治子に目を留めて言うと、朱美が頷いて紹介した。
「ええ、今日からこちらに来る事になった、前田治子さんです。前田さん、こちらはこの寮の管理人の木ノ下貴子さん」
「あ、前田です。よろしくお願いします」
 治子が頭を下げると、貴子はにっこりと笑って挨拶を返してきた。
「よろしくね。アタシの事は貴子で良いわよ」
「えー、では貴子さんと言うことで…」
 治子が確認すると、貴子は大いによし、と言う感じで頷いた。
「じゃ、アタシは君の事は治子ちゃん、と呼ぶわ。いい?」
「は、治子ちゃん!?…まぁ、良いですけど」
 一瞬びっくりした治子だったが、これも貴子の貫禄と言うものか、嫌な感じではなかった。むしろ、彼女にさん付けで呼ばれる方が変な気がしてくる。
「えっと…治子ちゃんの部屋は205号室ね。はい、鍵」
 貴子がロビーのカウンターに入り、鍵を取り出して治子に手渡してきた。受け取ってみると、ホテルでよく見かけるプラスチックの角棒が取り付けられた鍵だ。
「あの、ここはホテルか何かだったんですか?」
 治子が聞くと、貴子はそうよ、と頷いた。
「元はリゾートホテルだったのが、潰れちゃって、そこをPiaキャロットで買収したみたいね」
 朱美が詳しい事情についてフォローしてくれた。治子はなるほど、と頷いたが、こんなまだまだ十分設備の使えるホテルを買収しようとした、となると相当なお金がかかったに違いない。つくづくPiaキャロット…と言うか、木ノ下一族の財力は謎である。
「まぁ、荷物は運び込んであるし、一休みしたら?」
「あ、はい。そうします」
 治子は頷くと、早速自分の部屋の確認に向かった。

 部屋は予想よりも広かった。と言うより、2号店の部屋よりもずっと立派だった。テレビやベッドはもともとここの備品だったらしいものが既に用意してあり、ユニットバスもついている。どうやら、ダブルの部屋を一人用の居室に改造したらしい。
「これならもっと荷物を持ってきてもよかったかなぁ」
 治子はそう呟くと、荷物の整理にかかった。床の真中に置かれたダンボールを一つ一つ中身をチェックして開けていく。衣類は組み立て式の衣装ケースを出して仕分け、下着など人に見られたくないものはクローゼットに仕舞った。カウンター式の机の上にはCDラジカセと一緒に持って来たCD、それに本を置き、最後にノートパソコンを置く。それで終わりだった。
「これで良し。必要なものがあったら、涼子さんに頼んで送ってもらおう」
 ダンボールまでたたんでしまいこむと、治子はベッドの上に寝転がった。外はさすがに暗くなっている。
「ふぅ…疲れたなぁ」
 治子は天井を見上げながら呟いた。何しろ、電車に3時間揺られ、駅でナンパされかけ、店ですごい制服に着替え…とイベント目白押しだった。何と言っても、あの狂乱の歓送会からまだ24時間経っていないのだ。これだけ密度の濃い時間をすごせばそれは疲れもする。
「おっと…そうだ、シャワーでも浴びようかな」
 思わずそのまま居眠りしそうになってしまい、治子はベッドから身を起こした。外を歩いてきて、さらに片付けまでしたせいで、Tシャツはすっかり汗を吸ってしまっており、さすがに心地が悪い。治子は仕分けたばかりの服の中から、適当に部屋着に使えそうなTシャツと、涼しそうなショートパンツ、それに換えの下着だけ取り出してベッドの上に投げた。
「これで良し、と…うわ、ベタベタだなぁ」
 準備を整えて今着ているTシャツを脱ぐと、生地が肌に張り付いていた。それを洗濯物用と決めたプラスチックの籠に入れ、スカートや下着も脱いでは放り込んでいく。タオルだけ持ってバスルームの扉を開けると、嬉しい事に、電気給湯式で好きな温度を選べるタイプだった。

 さー…
「ふあ〜…気持ちいい…」
 少し温めのお湯で全身を流しながら治子は少しうっとりした気持ちで呟いた。まずは汗を流し、それから手にシャンプーを取って、髪にこすりつけていく。2号店にいた頃、あずさが髪のきれいさを自慢にしていたが、治子の髪の毛も負けず劣らずのさらさらしたキューティクルヘアーだった。
「しかし、長い髪の毛だなぁ…身長の縮んだ分の長さが全部髪の毛に持っていかれたんじゃないのかな…」
 今、治子の髪の毛は背中の半分くらいまで伸びている。それを満遍なく洗い、さらにはリンスやコンディショナーで手入れするのは大変だ。女の人は風呂が長いと言うが、それも仕方の無い事だろう。
「あ、でもショートヘアの人はどうなんだろう?」
 4号店には今のところショートの人はいないようだが、2号店に帰ったら葵か美奈に聞いてみようと思いつつ、治子はシャワーを終えた。バスタオルで髪を絞って水分を出し、全身を拭くと別のバスタオルで身体を巻いた。そして、ユニットバスから出て外の洗面台に腰掛ける。そこには備え付けのドライヤーが置いてあった。治子はエアコンのモードを「ドライ」に切り替え、ドライヤーのスイッチを入れた。

 10分ほどかけて髪を乾かし終わった治子は、ベッドの上に置いてあった着替えに手を伸ばした。身体に巻いていたバスタオルを取り、ベッドに腰掛けてショーツを穿く。そして、立ち上がってお尻のところを調節しようとしたときだった。
 がちゃり、と言う音がドアの方から聞こえた。
「ん?」
 何事かと治子がそっちを向いた瞬間、鍵をかけておいたはずのドアが開かれた。そして、その向こうには明彦の姿があった。
「…えっ!?」

 明彦が絶句し、手に持っていた荷物を取り落とす。ばさばさと言うビニール袋のしおれる音がして、中の歯ブラシやひげそりが床に散らばった。
「な、なんでここに治子さんが…」
 真っ赤な顔で明彦が言った。その表情に、治子は自分の今の姿を思い出した。パステルグリーンのショーツ一枚と言う、ほとんど裸と変わりない格好である事を。
「…いつまで見てるのかな?」
 とりあえずそう言ってみると、それをきっかけに明彦の金縛りは解けたらしい。
「す、すすすすす、すいませんっ!!」
 慌てふためいて頭を下げると、明彦はドアを勢いよく閉めた。ばたんっ!という轟音と共に、ビニール袋が風圧で治子の足元にまで飛んできた。
「…はて?」
 治子は首をかしげた。こんな格好を見られたからには悲鳴の一つでもあげてみるべきだっただろうか…と思ったのだが、不思議と何も感じなかったのだ。
「…葵さんや涼子さんに裸にされかけたときはあんなに恥ずかしかったのになぁ…?」
 疑問に思いながらも、着替えを終えて、廊下に出てみる。すると、そこには明彦の落としていった買い物が散らばっていた。それを集め、ロビーへ言ってみる。すると、貴子と明彦がなにやら言い合っていた。
「で、ですから俺の部屋に治子さんがいたんですよ!」
「あら、おっかし〜わね〜」
 真っ赤な顔で叫ぶ明彦と、のんきな表情でキーボックスをあさる貴子。治子は階段を下りて二人のところへ行った。
「はい、忘れ物だよ。神無月君」
「え?ええぇぇっっ!!治子さんっ!!」
 明彦は飛び上がって驚いた後、土下座せんばかりの勢いで謝り倒してきた。
「さ、さっきはすいませんでしたっ!!決して覗くつもりではあのその」
「まぁ、落ち着いて」
 治子は明彦の方を叩いて落ち着かせ、買い物袋を渡した。
「わかるって…あんな堂々とした覗きは無いから。部屋間違えた?」
 治子の言葉に、明彦がこくこくと頷く。そこへ貴子がのんきな口調で尋ねてきた。
「あ、治子ちゃん。治子ちゃんの部屋って305だっけ?」
「205ですよ」
 貴子さんが間違いの元凶か、と悟って苦笑した治子が訂正すると、貴子も大笑いした。
「いやぁ〜、間違えちゃったわ。アタシとしたことが。てへ」
「あはは…気をつけてくださいよ?もう」
 治子は一応釘を刺しておいた。「ごめんなさい…」と貴子が素直に謝る。その時、上の階から賑々しい声が聞こえてきた。
「や、皆さんおそろいでどうしたんです?」
 昇だった。相変わらずテンションが高そうだ。
「たいした事じゃないよ」
 治子が言うと、貴子がその後に続けて爆弾発言をぶちかました。
「神無月君が着替え中の治子ちゃんの部屋に乱入しただけ」
 その言葉に、一瞬唖然とした昇だったが、次の瞬間「なんですと〜!?」と叫び、猛然と階段を駆け下りて明彦に突進した。
「お前、何と言う羨ましい…いやっ!けしからんマネを!ちょっとこっちに来いっ!!」
 そんな事を叫びながら、明彦の服をつかんで引きずっていく昇。明彦も決して弱そうなタイプではないのだが、身体の大きな昇のパワーには勝てないらしい。「ま、待て!誤解だ!!」と叫びながらも引きずられていく。やがて、二人は廊下の奥に消えた。
「…どうしたんでしょうね、木ノ下君は」
 治子が言うと、貴子が少々呆れ気味に呟いた。
「どうせ、治子ちゃんの身体はどうだった〜?なんて聞いてるのよ。昇のやる事なんてお見通しだわ」
「はぁ…」
 治子はそれを聞くと、昇たちが向かった廊下の途中まで進んで聞き耳を立ててみた。
「…で、治子さんはどうだった!?やっぱりきれいな身体してたのか!?」
「ど、どうって…とっさの事だったし、こっちも驚いてたから良く見てないよ…」
「少しくらいは覚えてるだろ!?乳首の色はピンクだったかとか!」
「知るか馬鹿野郎っ!!」
 治子は苦笑しながら戻ってきて、貴子に報告した。
「予想通りでしたよ」
「そう?昇の馬鹿は後でお仕置きね。神無月君は治子ちゃんに任せるわ」
 ニヤリと笑う貴子に、治子はまぁ、お手柔らかに、と答える。
「それにしても、治子ちゃんって意外にオトナと言うか、落ち着いてるのね。男の子に裸見られたり、セクハラな会話のネタにされたりしてるのに、ぜんぜん平然としてるし」
「まぁ…なんと言うか、共感でしょうかね」
 治子は答えた。実際、元男としては明彦の反応や昇の気持ちは理解できなくも無い。しかし、この答えは貴子には意味がわからなかったらしい。何それ?と言う表情をしていた。その貴子の反応に苦笑しながら、治子はあることに気づいた。昇は木ノ下、貴子も木ノ下。そして、木ノ下といえばPiaキャロットのオーナー一族だ。
「あの、貴子さんと昇君って…オーナーと関係が?」
 治子の質問に貴子は頷いた。
「まぁね。オーナーとアタシはいとこ同士、ってことになるみたい」
「え、そうなんですか?」
 治子は驚いた。オーナーがいくつかは知らないが、50歳以下と言うことはないはずだ。ずいぶん歳の離れた従兄妹である。
「で、アタシからみると昇は甥っ子なのよ。あいつのおしめを変えてやったことだってあるんだから」
 貴子がそう言うと、廊下のほうから昇の声が聞こえた。
「叔母さん、いい加減おしめの話はやめてくれよ」
 渋い顔をした昇が現れた。背後には明彦も続いている。それから、昇は治子の方を向いて、笑顔で言った。
「安心してください、治子さん。この馬鹿にはよーく言って聞かせておきましたので」
「…ふ〜ん、よく言って聞かせた、ね…」
 治子は言った。もちろん皮肉のつもりだが、昇には通用しなかったらしい。
「はい、その通りです。これからも万事この木ノ下昇にお任せください」
 そう言って胸を叩く。背後で明彦が「よく言うぜ…」とぼやいていた。思わず吹き出しそうになる治子。話題を変えるために治子は話を貴子に振ってみた。
「それにしても…貴子さんって昇君のような大きな甥っ子がいるようには見えませんねぇ。姉弟かと思いましたよ」
 すると、貴子は嬉しそうににっこり笑って答えた。
「あら、治子ちゃんたらお上手ねぇ。ま、無理も無いわ。アタシ20歳ですもの」
「「え?」」
 疑問の声を発したのは、治子と明彦だった。すると、昇が種明かしをした。
「ははは、そういうサバを読むのはやめようぜ、叔母さん。20歳って言ったって20歳と108ヶ月とかの事だろ。本当はにじゅうきゅ…」
 次の瞬間、治子の横をとてつもない速度と打撃力を有した物体が駆け抜け、昇のみぞおちを直撃した。
「がはっ!?」
 みぞおちを押さえた昇、その眼球がくるっと反転し、白目をむいてどうと床に倒れる。そのみぞおちには、竹のほうきが突き刺さっていた。
「昇…キジも鳴かずば撃たれまい、って言葉教えてあげようか?」
 ほうきを投げた体勢のままで貴子が言う。
「いや…教えても聞こえないんじゃないですか?」
 治子は言った。昇の身体がぴくぴくと震え、口の端から泡がふきこぼれている。かなり瀕死の状態だった。
「ま、良いわ。そろそろ晩ご飯にするわよ。アタシは用意してくるから、治子ちゃんは朱美ちゃんを呼んでくれる?番号は202よ。それと、神無月君はその馬鹿を起こしておいて」
「あ、はい」
 厨房の方へ向かう貴子を見送り、治子は内線電話の受話器を手に取った。そして、明彦は昇を見下ろしながら困った表情で呟いた。
「起こせって…生きてるのか?」

 それから10分後、食堂ではすっかり夕食の準備が整っていた。全員がテーブルに着いている。もちろん、昇は何事も無かったように椅子に座っていた。
「これは…また豪華な料理ですねぇ」
 治子はテーブルに並べられた料理の数々を見て唸った。
「今朝美崎漁港に揚がったばかりの新鮮な海の幸よ」
 貴子がにっこり笑って頷くが、問題はその量だった。5人に対して15人前はありそうな気がする。治子だけでなく明彦もこれには驚いていたが、他の人たちのリアクションは違っていた。
「相変わらずすごい量だなぁ」
 昇が言うと、朱美もさして驚いた様子も無く頷く。どうやら、ここではこれが標準らしい。みんな大食いなのだろうか?
 治子がそんな事を思っていると、貴子が用意したビールをコップに注ごうとしていた。治子は片手を挙げてそれを制した。
「すいません、私はお酒はちょっと」
 貴子は意外そうな顔をした。
「あら、治子ちゃんはお酒は苦手?」
 貴子の質問に治子は首を横に振った。
「いえ…苦手、では無いんですけど、最近お酒が原因でひどい目にあったので…」
 最近と言うか、24時間前だ。
「そう、なら仕方ないわね」
 貴子は他の4人にビールを回し、治子にはウーロン茶を勧めてきた。飲み物が行き渡ると、寮の責任者として貴子が乾杯の音頭を取った。
「えー、それでは今日めでたくこの寮の仲間となった治子ちゃんと神無月君を歓迎して…乾杯!」
「「「「かんぱ〜い!」」」」
 グラスが打ち合わされる。そして、早速新鮮な海の幸に全員が舌鼓を打ち始めた。…が、治子が、そして明彦も驚いたのは、一番食べるのが貴子であると言う事実だった。昇も相当なものなのだが、貴子の前に並べられた料理が見る間に彼女の中に消えていく様は、まるで魔法のようだ。
「ひ、人は見かけによらない…」
 治子はそう思った。自分は女の子になってから食が細くなったのに、世界は広い。

 さて、夕食を食べていると、朱美が治子に尋ねてきた。
「前田さん、もうお風呂に入ったの?シャンプーの香りがするけど…」
「お風呂ですか?汗でベタベタでしたから」
 治子が答えると、朱美は笑いながらさらに質問してきた。
「どうだった?」
「へ?」
 治子は首を傾げた。お風呂がどうだったと聞かれても「気持ちよかった」以外に答えようがない気がするのだが…
「あれ…ひょっとして…治子ちゃんが入ったのは部屋のお風呂?」
 どうやら期待したようなリアクションが返ってこない事で、事態に気づいた貴子が会話に加わってきた。
「はい…そうですが?」
 治子が頷くと、貴子と朱美は顔を見合わせた。
「あれ…教えてなかったかしらね」
「そうみたいですね」
 その謎の会話に、治子はたまりかねて口を開いた。
「なんですか?教えてくださいよ」
 すると、貴子が振り返って、いかにも重大事を発表するように口でドラムロールのまねをし始めた。
「じゃ〜ん、だららららららららら…ばばーん!実は、この寮のお風呂は温泉で露天風呂なのでーす!」
「え?マジですか?」
 驚く治子に朱美が頷く。
「本当よ。だから、感想を聞いてみようと思ったんだけど…」
「うーん、失敗したかな…知ってたら入りに行ったのに。まぁ、寝る前にもう一度くらいお風呂に入っても良いか」
 治子は一瞬しまった、と言う顔をしたが、すぐに風呂くらい何度入っても良いか、と思い直した。何しろ温泉だ。これを逃す手は無い。
 その会話を聞いていた昇の眼が怪しげな光を発した事に気づいたのは、一人だけだった。

 夕食の後、少し腹休めをしてから、治子は風呂場に赴いた。一階の奥に行ってみると、ちゃんと男女別の大浴場がある。早速屋内の風呂をスルーして露天風呂へ行ってみる事にした。大浴場の奥にある引き戸を開けると、そこには治子の予想を越える世界があった。
「わ…結構本格的じゃないか」
 治子は思わず呟いた。露天風呂は岩風呂になっていて、ちょっとした池くらいの大きさがある。岩の隙間からはなかなかの勢いでお湯が噴き出していた。いわゆる温泉の匂いはしないが、たぶん硫黄泉ではない、と言う事だろう。
 かけ湯をした治子はゆっくりと温泉に浸かった。湯加減は彼女の好みと比べて少し熱めだが、十分に気持ちいい。頭上を仰げば、そこは東京ではとても見られない満天の星空。まさに天国のようなシチュエーションだ。
「ふぅ…これは良いなぁ。これだけでもここに来た甲斐が…あるわけ無いか…」
 思わずお気楽な思考に流されそうになった自分を戒める。遊びに来たのではないのだ。
(そうだ…俺は、ここで何かを見つけるために来たんだから…)
 治子は空をもう一度見上げた。温泉と満天の星空。どちらにもいろいろと思い出がある。夏祭りにあずさたちと行き、花火の咲く夜空を見上げた事…温泉では、混浴と気づかずに涼子と出くわしてお互いにびっくりしたものだ。そんな事を思い出していると、涙が出そうになって、治子はばしゃばしゃとお湯をすくって顔を洗った。
 そして、そのせいで少しのぼせてきたので、適当な岩に腰掛けて一度身体を冷ます事にした。

 その頃、隣の男湯では二つの影が闇の中をそろそろと這い進んでいた。
「おい…昇、本当にやるのか?やめたほうが良いよ…」
 明彦と昇だった。二人が進んでいるのは、以前に昇が見つけた、女湯を覗けるポイントだと言う。
「馬鹿だな明彦。治子さんみたいな美人がお風呂に入っているんだぞ。これを覗きたいと思うのは男の当然の欲求だ」
 胸を張って堂々と身勝手な論理を展開する昇に、明彦がため息をつく。
「それを実行に移すのはまた別の問題だと思うが…」
 呆れながらも結局付いて来ているのだから、この段階ではまだ明彦も昇と同じ穴の狢ではある。
「しっ、静かにしろ。ほら、そこだ」
 昇は一点を指差した。明彦が目を凝らすと、女湯を囲む岩場を形作る岩の中に、小さな隙間が開いているのが見えた。昇はその隙間から向こうを覗き込んだ。
「…おおっ!?」
 大声をあげかけ、慌てて口を押さえる昇。顔が真っ赤になり、ぶるぶると身体を震わせている。
「…どうした?」
 その尋常ではない様子に、思わず声をかける明彦。すると、昇はそこから一歩下がって隙間を指差した。自分で見てみろ、と言う事だろう。明彦は良心が咎めながらも、その隙間に近づいた。悲しい男の性だった。
「…う…!?」
 隙間を覗いた明彦は、そこに見えた光景に絶句した。
 岩に治子が腰掛けている。身体には一糸もまとっておらず、この夜の暗がりの中でもはっきりとわかる白い肌が何も隠すことなく見えていた。
(治子さん…綺麗だ…)
 明彦は心の中で呟いた。欲情の対象と言うよりは、価値ある芸術品を鑑賞する時のような気分になる。
(綺麗だけど…すごく、寂しそうだ)
 脚だけを湯に浸し、夜空を見上げて物思いにふける彼女の姿は、儚げで、手を触れれば消えてしまいそうな危うさがあった。なぜか見ていられなくなり、明彦は隙間から顔を離した。
「…やっぱり良くないよ、こう言うのは…」
 隙間から離れただけでなく、来た道を引き返していく明彦に、昇は不思議そうな表情で呼びかけた。
「おい、どこに行くんだ?」
「俺はもうやめておく。お前もやめたほうが良いぞ」
 それだけ答えると、明彦は暗がりに消えていった。昇は不思議そうな表情をした。
「変なやつだな…まぁいいか。俺一人でゆっくり鑑賞しよう」
 そう言うと、昇は隙間に顔を埋める。しかし、向こうの治子は既に湯船にもう一度浸かった後だった。
「あ、惜しい…もう一度出ないかな」
 昇がそう言った時、背後から恐ろしい声が聞こえた。
「何が?」
 その瞬間、昇の全身の皮膚が恐怖に粟立ち、毛が逆立った。マッハの速度で隙間から離れ、そこに立っている人物を見る。
「お、叔母さん…!!」
 そう、そこに立っていたのは貴子だった。満面に笑みを浮かべているが、目だけは笑っておらず、全身から真っ赤に燃え立つような怒りのオーラを発している…と昇の心眼には見えた。
「こんなところに隙間があったとは知らなかったわ。教えてくれてありがとう、昇」
「ど、どおいたしまして…」
 全身をガクガクブルブルと震わせながら昇は答えた。必死に逃げ道が無いかと考える。が、そんなものはあるはずが無かった。
「お礼にアタシの得意な全身マッサージをしてあげるから、おとなしくしなさいね」
 語尾にハートマークでも付きそうな口調で貴子は言ったが、口調とは裏腹に彼女は手を組んでポキポキと言わせ、昇に冬の烈風にも似た冷たい殺気を吹き付けた。
「け、結構で…んぎゃああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!?」

「ん…野犬か何かかな…そろそろあがるか」
 どこからか聞こえてきた謎の声をきっかけに、治子は風呂を出た。身体を拭き、持って来たパジャマに着替えて部屋に戻ろうとする。その途中に明彦がいた。
「あ…」
 治子を見て言葉を詰まらせる明彦。そんな様子に気づく事も無く、治子は微笑んで頭を下げる。
「お休み、神無月君」
「あ…は、はい。お休みなさい」
 覗いたと言う罪の意識にとらわれつつも明彦が頭を下げると、治子は階段を上って部屋に戻っていった。その表情には、さっき見たあの寂しさ、儚さは見えない。
(治子さん…治子さんはなんであんな寂しそうな表情をしていたんだろう…何か俺に力になれることはあるだろうか)
 一人の少年に激しい勘違いを抱かせつつ、治子の美崎海岸での一日は終わろうとしていた。

 なお、昇は翌朝、全身の関節が変な風に曲がった状態で廊下に転がっているところを朱美に発見される事になるが、それはまた別の物語である。

(つづく)


治子への好意カウンター(爆)
明彦:+1 トータル2ポイント


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