大手ファミレスならば、大抵の所で24時間年中無休と言う体制をとっている。しかし、知名度はそこそことはいえ規模としては小さい「Piaキャロット」では、営業時間は朝の9時から夜の9時までと限っている。
 8時半にオーダーストップを宣言すると、もうほとんど客は残っていない。今も、仕事帰りに一杯コーヒーを飲みにきたサラリーマン風の男性が一人残っているだけとなっていた。
「お待たせしました。アメリカンコーヒーでございます」
 その数少ない客を応対しているのは、スクールタイプの制服を着た治子だった。四号店に行くまで一週間、事情を斟酌して休みでも良い、と店長の祐介は言ってくれたのだが、仕事をしている方が気が紛れた。

 さて、コーヒーを飲み終えた客は支払いを済ませて店を出ていった。
「またのお越しをお待ちしてます」
 挨拶とともに客を見送り、治子は布巾を手に今客が使っていたテーブルに向かった。水の入ったコップやコーヒーカップを片付け、テーブルを拭こうと身を乗り出した瞬間、背後から嬉しそうな声が聞こえた。
「わぁい、前田君の生パンツ見ちゃった〜。ラッキ〜」
 その声に、治子は布巾を放り出し、すばやく両手でスカートのお尻の部分を抑えた。そして、ぎこちなく振り向く。そこにはフロアスタッフのチーフ…つまり、ウェイターやウェイトレスの中で一番偉い人である皆瀬葵が立っていた。
「み、見ました?」
 治子がおずおずと尋ねると、葵はうんうんと頷いた。
「それはばっちりともう。かわいいの穿いてるわね〜」
 そのはやし立てるような言葉に、治子の顔は真っ赤になった。今彼女が身につけているのは、昨日買ってきたばかりのもので、淡いブルーと白のストライプ模様のショーツだった。
「はうう…」
 目の幅涙を流す治子の肩を葵が叩く。
「油断したわね。こういう時は、席の内側に入って、テーブルを横から拭くのよ」
   そう言うと、葵は拭き方を実演してみせてくれた。確かに、通路側から身を屈めて手を伸ばして拭くよりは、ずっと楽そうだしスカートもめくれあがらない。
「なるほど、参考になりました…」
 涙をぬぐって頷き、さっそく実践に励む治子。葵はそんな治子の様子を微笑ましげに見ていた。













Welcome to Pia Carrot2 And 3 Sidestory


Seaside Bomb Girl!
〜その少女、不幸につき〜


3rd Order 「ドリンカーズ・ハイ」


 閉店したあと、後片付けを終えて、治子と葵は家路についた。二人とも同じ寮に住んでいるので、帰り道は全くいっしょだ。
「あふ…眠い」
 あくびをする治子。それを見ていた葵が、唐突に質問した。
「ねぇ、前田君。出発の前の日、夜中はヒマ?」
「え?」
 突然の事に一瞬訳が分からなかった治子だが、すぐに気を取り直して頭の中でスケジュールを確認する。
「ええ、別に何もありませんけど…なんですか?」
 首を傾げる治子に、葵は一つの提案をした。
「うん、一つ歓送会でもしようかと思ってね」
「歓送会?…お…私にですか?」
 戸惑う治子。まだ、動揺するととっさに「俺」が出そうになる。
「そうよ。そんな事になってしまって、今までの自分が無いとか、不安になる気持ちは分かるけど、少なくともあたしは前田君の事は忘れない。涼子もそうだし…あずさちゃんやつかさちゃんだって同じはずよ」
 葵は言った。実のところ、彼女はまだ男の「耕治」だった頃から治子に好意を抱いている。もっとも、それは姉が弟や妹を見る時のものだが。
 そうだとしても、葵が治子の今後を心配する気持ちには変わりが無い。見知らぬ土地へ行く彼女に、せめて、最後に明るい記憶を持っていって欲しい。2号店のお姉さんを自任する彼女なりの、それは気遣いだった。
「…ありがとうございます、葵さん」
 治子にもその葵の気持ちは伝わっていた。だから、素直に頭を下げた。
「歓送会、楽しみにさせてもらいますね」
「任せときなさい。徹底的に盛り上げてあげるわよ」
 葵は胸を張って請け負った。治子も久しぶりに気分が明るくなるのを感じ、二人は笑いながら家路を辿っていった。
 しかし、宴会に来るメンツの性癖を考えたら、治子はこの申し出を断っておくべきだったかもしれない。

 それからまた数日後、いよいよ治子がこの二号店で働く最後の日になった。控え室に引き揚げてきた治子を、涼子と葵、それに祐介が出迎える。
「お疲れ様、前田君」
「お疲れ〜」
「ご苦労様」
 口々に言いながら手を差し伸べてくる三人と握手をしながら、治子は何度も頷いた。
「ありがとうございます。こんな俺のために…」
 思わず「俺」が口を突いて出た治子の額に、涼子が人差し指を立てて軽く押し当てる。
「駄目でしょう、前田君。『私』よ」
 注意しながら微笑む涼子。その目が少し潤んでいる。治子も目尻がじわりと熱くなるのを感じた。そう、今日でこの店とはお別れ。みんなと出会う事もしばらくはあるまい。元に戻れなければ、一生会う事が無いかもしれないのだ。
 そんな雰囲気を察したように、葵がことさら陽気な声を張り上げる。
「やぁねぇ、しんみりしちゃって。また会えるわよ。それに、これから歓送会なんだからぱーっといかないと!」
「その通り。これで最後じゃないさ」
 祐介も落ち着いた声で言う。涼子と治子は浮かびかけた涙を払って「はい」と答えた。
「じゃあ、場所を移すか」
 祐介の言葉に従い、4人は歓送会の会場となる寮の葵の私室に向かう事になった。

 葵の部屋には、いつのまに用意したのかペーパーチェーンの飾りつけが施され、テーブルの上にはすき焼き用の鉄鍋も用意してあった。そして、忘れてはならない要素が「これを本当に4人で飲む気なのか」と言いたくなる膨大な数のビールや酒だった。まぁ、大半は葵の中に消える事になるのだろうが。
「壮行 前田治子」となかなか達筆な字(おそらく涼子のものだろう)で書かれた襷をかけられた治子が上座に座らされ、その向かいに祐介、両脇に葵と涼子と言う布陣で歓送会は始まった。
 鍋に材料が入れられて火がかけられ、コップにまずは基本のビールが注がれると、葵が話を振った。
「えー、それではまず前田君のご挨拶をー」
 えっ?と一瞬戸惑った治子だったが、まぁ、自分が送ってもらうのだから挨拶は当然かと思い返し、立ちあがって一礼した。
「えっと…今日はお…じゃなかった、私のためにこのような会を開いていただき、ありがとうございます」
 そこまで言うと、葵がチャチャを入れてきた。
「やーねー、そんな真面目にならなくても。もっとぶっちゃけて行きましょーよ」
 治子は思わず苦笑した。
「いやぁ、そんな事言われても急には…ともかく、向こうに行ってもがんばりますっ!」
 治子が最後に気合いの入っているところを見せると、祐介が微笑んでグラスを掲げた。
「それでは、前田君の幸運と向こうでのがんばりを祈って…乾杯!」
「「「かんぱーい!!」」」
 グラス同士を打ち合わせる音が響き渡り、全員がビールを喉に流し込んでいく。一気に一杯を空けた葵が、手酌で二杯目を注ごうとしているのを見て、治子はすかさずビールの缶を手に取った。
「葵さん、お酌しますよ」
 葵はそれを聞いて嬉しそうに笑いながらグラスを差し出した。
「おお、悪いわね〜。治子ちゃんにお酌してもらえるなんて」
「は、治子ちゃん?」
 目を白黒させる治子に葵が笑いながら背中を叩く。
「だって、女の子なのにいつまでも『前田君』はおかしいでしょ?いい加減女の子としての呼ばれ方にも慣れておかないと」
「は、はぁ…そうですね…」
 治子は頷いた。確かに、四号店に「前田治子」として行くからには、「前田さん」ないし「治子さん」と呼ばれる可能性が高いだろう。まぁ、「治子ちゃん」はさすがに無いと思うが。
 実際にはそうでもないのだが、とにかく治子が気を取り直していると、涼子の声が聞こえてきた。
「そろそろ良い感じに火が通ってきましたよ。食べましょう」
 涼子の言う通り、肉はもちろん野菜や豆腐もすっかり火が通って、良く煮えている。取り皿に落とした生卵を良く溶くと、治子は肉とねぎ、それにしらたきを取った。たっぷりと卵をまぶして口に運ぶ。
「あ…美味しい」
 口の中にじんわりと肉のうまみが広がる。なかなか良い肉のようだ。
「あら本当。おごったわね、涼子」
 葵が誉めると、涼子はにっこり笑って祐介の方を向いた。
「実は、このお肉は店長の提供なんですよ」
「え、そうなんですか?ありがとうございます」
 感謝する治子だったが、次の瞬間、祐介はとんでもない事を言い出した。
「美味しいかい?そうだろうね。うちの店で入れたミートフェア用の肉だから」
 その言葉を聞いたとたん、祐介以外の3人は凝固した。ミートフェアは先週、まだ治子が耕治だった時のイベントである。つまり、この肉は…
「あぁ、大丈夫。昨日賞味期限が切れて廃棄処分をしたばかりだし、ずっと冷凍してあったから」
 祐介が言うと、涼子が額を指で抑えながらツッコミを入れた。
「店長、そう言う問題では…」
 かなり頭が痛いらしい。一方、葵は大丈夫とわかった途端に平然と食事を再開していた。
「食べないの?あたしが全部食べちゃうわよ」
「いえ、食べます…」
 治子も鍋に箸を運んだ。考えてみれば、賞味期限切れだろうとなんだろうと、肉をたっぷり食べる機会などそうそう無い。バイトの身は貧乏暇なしなのだ。
 それを見て涼子も食事を再開し、そのうち酒が回るにしたがって、肉の出所などどうでも良いと言う状態へ突入した。

「あははははは〜、治子ちゃん、飲んでる〜?」
 葵がもはやコップに注ぐのももどかしいらしく、缶ビールを片手にぐびり、とやりながら聞いてくる。既に鍋の火は消え、中身は空。完全に酒だけを飲み続けている状態だ。
「ふぁい、飲んでましゅよ〜」
 治子は答えた。舌がもつれる。
(おかしいなぁ…そんなに飲んでないのに…)
 治子は思ったが、個人差はあれど基本的に男性より女性の方がアルコールの分解速度は遅い。治子の場合、男性から女性になったわけだから、同じペースで飲めば男の時より今の方が酔いが速く回るのは必然だった。
「あははははは〜、治子ちゃんしゃべり方が変よ〜」
 葵はケタケタと笑いながら治子の肩を抱き寄せて、彼女のコップにビールを注ぐ。
「もっと飲め〜。そうすれば治る〜」
 むちゃくちゃな事を言っているが、治子の方にもそれを吟味する理性は無くなっていた。
「ふぁい、飲みましゅ〜」
 素直に頷いてぐっとビールを空ける。それを見て、更に葵が飲ませにかかる。完全に泥沼だった。

 一方、他の二人はと言うと、涼子は手酌で日本酒を飲みながら何事かぶつぶつと呟いていた。その視線はうつろで、何を考えているのかわからない。かなりヤバい状態だ。祐介はとっくの昔に酔い潰れ、床で大の字になって爆睡している。
 状況に更なる変化…それも、悪い方向に…が起きたのは、女三人がさらに数杯を重ねた直後の事だった。
「葵さん、もう飲めにゃいでしゅ〜」
 治子が呂律の回らない口調で言う。さっきからコップの中身(葵が面白がっていろんな酒を混ぜて造った謎のカクテル…と言うか、チャンポン)は1ミリたりとも減っていない。
「あによ〜、あたしの酒が飲めないってかぁ〜?」
 応じる葵。口調、視線とも完全に座っている。
「お腹がダブダブでしゅよ〜」
 お腹をさすりながら治子は抗弁した。首も据わらないらしく、左右にゆらゆらと揺れている。
「お腹がいっぱい?何言ってんのよ。そう言う時はここに入れるのよぉ」
 言うなり、葵は手を伸ばして治子の胸をわしづかみにした。
「ふぇ?あ、葵さん、にゃにをするんでしゅか〜!?そんなところに入るわけにゃいじゃないでしゅか〜!!」
 一瞬何をされたのかわからない治子だったが、葵が手をわきわきと動かして二三度彼女の胸を揉みしだくと、ようやく事態を把握して叫んだ。もっとも、相変わらず呂律は回っていなかったが。
「い〜や、入る!その証拠に、あたしは酒をここに入れて大きくなったんだから!」
 そう言うと、葵は強引に治子の腕を取った。その弾みで治子の手からコップが落ち、中身が彼女のミニスカートの上にばしゃりと零れる。
「つ、冷たいっ!?あ、葵さん、やめてくだしゃいよ〜」
 治子は抗議したが、葵は聞く耳持たず、治子の手を自分の胸に強引に押しつけた。2号店では並ぶ者の無い葵の92センチのバストが治子の手の中でたゆんっ、と揺れる。
「どう〜?ビールで育てた自慢の胸は〜?」
 葵はぐりぐりと胸を押し付けたが、治子は酔いが回りすぎて全身の力が抜け、握力もなくなっていた。葵が手を離すと、治子の腕は床に落ちる。
「こら〜、つまらないぞ治子ちゃん〜」
 葵が何とか治子を動かそうとしたが、彼女は床の上にぐったりと伸びたままだ。
「う、動けにゃい〜…お尻が気持ち悪いにょに〜…」
 治子は言った。彼女の下半身はさっきこぼしたチャンポンでびしょぬれになっている。スカートどころかショーツまで染みてしまっていた。それどころか、こぼれた上に寝転んだので、Yシャツの背中の方にまでじわじわと染み込んでいる。
「あぁ、良く見るとびしょ濡れね。よ〜し、お姉さんが着替えさせてあげちゃうぞ〜」
「ふぇ?ふえええぇっっ!?」
 葵の目がきゅぴーん!と怪しげな光を放った。手を怪しげに動かしながら迫ってくる。それに対して治子は一歩たりともそこを動けない。まさに俎上の鯉状態。
「あ、葵さん…や、やめて…」
 怯える治子と迫る葵。
「さ〜て、ご開帳〜」
 葵の手が治子のスカートにかかったその瞬間だった。
「待ちなさい」
 葵以上に根性の座った、ドスの利いた声が聞こえてきた。
(涼子さん!)
 治子の顔が輝いた。涼子がこの惨状を目にして立ち上がったらしい。彼女さえ来てくれればこの状況から脱出できる。
 と、思ったのは甘かった。甘すぎだった。突然、治子の視界を何かふわりとしたものが覆った。目の前がクリーム色の霞に覆われる。
(え?)
 訳がわからないながらも、何とか手を動かして顔を覆っているものを摘み上げる。焦点が合うと、それは何かの布地だった。
「にゃんだろ、この色…どこかで見たようにゃ…」
 呟いた時、その布地が引っ張られ、横に投げ捨てられた。その向こうから現れたのは…
 下着姿の涼子だった。さっきの布地はさっきまで彼女が着ていたTシャツだ。
「二人だけでそんな楽しい事をするなんてずるいわ…私も混ざる」
「あんですとっ!?」
 治子は驚愕し、そして重大な事を思い出した。酔った涼子は葵と互角…あるいはそれ以上に酒癖が悪く、特に厄介な事に脱ぎ癖、脱がし癖があったのだ。
「葵…そっちは任せたわ。私は上ね」
「おっけぇ〜」
 迫り来る二人の酔っ払い魔人。もはや治子の運命は風前の灯だった。
「や、やめてくだしゃいっ!二人ともっ!!」
 さすがに治子は必死に逃げようとしたが、体の自由が利かないのに変わりは無い。おまけに、女性とは言え二人分の体重がのしかかってくる。動けるはずが無かった。
「今度こそ…そ〜れ!」
 葵が治子のスカートをするりと脱がしてしまう。さらに、涼子がプチプチと音を立ててYシャツのボタンを外し始めた。治子が着けているスカイブルーのブラジャーのフロント部分が覗く。
「治子ちゃん…胸おっきいのね…うらやましい…」
 酔って上気した顔で呟きながら、涼子はどんどんボタンを外していく。
「あ、ありがとうございましゅ…って、そうじゃないでしゅよぉ〜〜〜〜っっ!!」
 治子は身体をくねらせてもがくが、お姉さま二人組は彼女の身体をがっちりとホールドして離さない。
「つぎはこっちね〜」
 遂に、葵はショーツの方に手をかけた。涼子はボタンを全部外し終わり、今度は治子の背中に手を回してブラのホックを外そうとしていた。ここで涼子が激しく酔っていることは、実はこのブラがフロントホックである事で証明できる。
「あ、葵さん…涼子さん…お願いだからもうやめて…!」
 懇願しながら、治子は脚で葵の腕を挟んで抵抗するが、葵の方は同じ酔っているのでも力の加減が出来なくなる方らしい。そんな防御では到底防げず、じりじりと治子のショーツが脱がされていく。既にお尻が半分露出していた。
「…このブラ、変だわ」
 そして、涼子の方はホックが見当たらない(当然だが)事に業を煮やしたのか、手でつかんで無理やり上に引っ張り始めた。
「いた、痛い、痛いっ!涼子さん、それは痛いってば!!」
 治子が叫んだ時、廊下の方からばたばたと言う足音が聞こえてきた。そして、いきなり玄関の扉が開けられた。どうやら鍵を閉め忘れていたらしい…が、そんな事は問題ではなかった。
「ちょっと、静かにしてくださいよ!」
 不機嫌そうな表情のあずさがそこに立っていた。治子はどこかで確かに何かが崩壊するような音が聞こえたと思った。
「今、何時だと…」
 不機嫌そうだったその顔が、室内の惨状…とりわけ、葵と涼子に押し倒されてほとんど裸にされている治子に気がついて、呆然とした表情になる。
「ひ、日野森…こ、これは…」
 ともかく、何か言わねばならない。そう思った治子だったが、口から出たのはほとんど何の意味もない言葉だった。そして、一瞬呆然としていたあずさの表情が、まず羞恥、そして憤怒へと二種類の赤に染まる。
「ふ、不潔っ…!!」
 わなわなと震えるあずさに、治子はとりあえず自由になる首をぶんぶんと横に振った。
「ち、違うんだ、日野森…!これは…!!」
「言い訳なんて聞きたくないわっ!」
 しかし、あずさは治子の言い分など聞く耳持たずで、とっさに手にあたった何かをつかんだ。それは、葵の飲みかけらしいミネラルウォーターのペットボトル。
「ま、待て日野森!それはあぶにゃ…」
「だから言い訳なんか聞きたくないって言ってるでしょうっ!?」
 あずさが問答無用でペットボトルを投げた。空中で蓋が外れ、きらきらと電灯の明かりを反射しながら中の水が飛び散る光景を、治子は妙にはっきりと目に焼き付けた。
「へぶっ!?」
 そして、顔面に激しい衝撃。目の前に星が散り、そしておそらく中の水であろう冷たい感触が全身に降りかかっていく。薄れていく意識の中で、轟然と言う形容詞がふさわしい音を立てて閉まる玄関の扉が見え、そして、「きゃっ、何これ!?」「やんっ、冷たいっ!!」と言う声が聞こえ…そして、治子は意識を失った。

 ちゅんっ、ちゅんっ、ちちちちち…
「…はっ!?」
 目に当たる光とスズメの鳴き声に、治子は目を覚ました。
「…ゆ、夢?」
 ベッドから身を起こし、ふっと微笑んで呟く。
「はぁ…酷い夢を見た…自分が女の子になったり、四号店に行く事になったり、歓送会で葵さんと涼子さんにひん剥かれそうになって、それを日野森に見られて、ビンをぶつけられたのも…みんな夢だったんだ…」
 そう言いながら、横を向いた治子は、悲しげな表情になって先を続けた。
「…なんて事は無くて、やっぱり現実なんですね…」
「い、遺憾ながら」
「ごめんなさい…」
 ベッドの横に立っていた葵と涼子は心底申し訳無さそうな表情で頭を下げた。
「…何かあったのかい?」
 そう言いながらすっくと上半身を起こし、さわやかに微笑む祐介。夕べの大騒動の事は全く知らなかったらしい。その微笑を見ながら、チャレンジャー海淵よりも深く落ち込む治子だった。

「さて…それじゃ、行ってきます」
 二時間後、治子は用意してあった旅の荷物を持って寮の玄関に立っていた。見送るのは、夕べ一緒だった三人である。もっとも、ここに来るまでにめちゃくちゃになった部屋の片付けやシャワーなどいろいろとあったのだが。
「その…駅まで送っていかなくて大丈夫?」
 涼子が言ったが、治子は笑って首を横に振った。
「いいですよ…3人とも今日仕事でしょう?」
「あぁ、まぁね…」
 答えたのは葵。ちょっと元気がないのは、おそらく二日酔いのせいだろう。幸い治子には二日酔いの兆候は無かった。
「うむ…それじゃあ、向こうに行ってもがんばってくれよ」
 頷く祐介に、治子は頭を下げた。
「はい、店長。お…私、向こうに行ってもこっちで教わった事をしっかり活かします」
 そして、治子は三人に手を振り、歩き始めた。後ろは振り返らない。ずっと、前を見て。この呪いがいつ解けるのかはわからないけど、その日が一日一秒でも近づくように。

その治子が一回だけ立ち止まったのは、二号店の前を通った時だった。店内を見ると、あずさとつかさが忙しそうに働いているのが見えた。
「さよなら、日野森…つかさちゃん」
 そして、治子は今度こそ立ち止まらずに駅に向かって歩いていった。


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