前回までのあらすじ


 海辺の田舎町に降り立った流浪の人形使い国崎往人とその妹の空。地元の少女神尾観鈴と出会い、彼女の家に厄介になる事になった2人に、町へ来てから二日目の朝がやってくる。


 み〜んみんみんみんみんみ〜ん……み〜んみんみんみんみんみ〜ん……


「…うるさい、朝から」
 この町はどこまで行っても蝉時雨の中にあるらしい。そう思いながら空は目を覚ました。
「ん…そっか、昨日は観鈴の部屋に…」
 空は一瞬自分がどこにいるのかわからず辺りを見回したが、やがてこの町で知り合った友人の家に泊まった事を思い出した。
 同時に、彼女の鼻を何か良い香りがくすぐった。どうやら、パンの焼ける匂いのようだ。という事は誰かが朝ご飯を作っているのだろう。見回してみると、ベッドに寝ているはずの観鈴の姿が無かった。空は身を起こし、バッグの中から洗濯しておいたTシャツとスカートを出してそれに着替えた。
「…観鈴?もう起きてるの?」
 着替え終わった空が部屋を出て台所へ行くと、制服にエプロン姿の観鈴がフライパン片手に目玉焼きを作ろうとしていた。
「あ、おはよう、空ちゃん。もうすぐ朝ごはんできるよ」
 観鈴が振り向いてにこっと笑う。
「おはよう、観鈴…どうしたの?制服なんか着ちゃって。この辺りでももう夏休みなんじゃあ?」
 空が尋ねると、観鈴は「にはは…」と力なく笑って事情を話した。
「わたし、補習なの。あんまり成績良く無いから」
「あぁ、なるほどね」
 空は何となく納得した。しかし、観鈴は空の反応にちょっとダメージを受けたようだった。
「空ちゃん…なるほどは酷いよ…」
「あ。ごめんごめん。そう言うつもりじゃなかったんだけど」
 空は慌てて謝った。すると、観鈴はどうやら機嫌を直したようだった。朝ご飯ができるまで待っててね、と言うので、居間に出て待つ事にする。テレビを点け、朝の情報番組をぼう…っと眺める。世の中は平穏なようで、せいぜい芸能人だれそれのスキャンダルだのと言う話題しかない。退屈だな…と思い始めた途端、その声は響き渡った。
「きゃーっ!?わっ、わっ、わわ…」
 空は慌てて立ち上がり、台所に突入した。
「観鈴っ!?どうしたのっ!?」
 空が呼びかけると、観鈴は涙ぐみながら空にフライパンを見せた。目玉焼きの中に、何やら異様な物体が入っている。空は近づいてそれを良く見た。
「…セミ?」
 そう、それはセミだった。何を思ったのか、熱く焼けたフライパンの上にダイブを敢行してしまったらしい。
「い、いきなり飛び込んできちゃって…どうしよう」
 涙目の観鈴を後目に、少しの間考えた空は、さいばしを手に取ると、セミの死骸を掴み、窓の外へ放り出した。目玉焼きにはもうセミの痕跡は何も無い。
「これは兄貴の分にしよう」
「ええっ!?」
 いきなり外道な事を言い出す空に、観鈴の目が丸くなる。空は大した事ないと言うように答える。
「だって勿体無いじゃない」
 それでも観鈴は心配そうだ。
「だ、大丈夫かなぁ」
「なに、死にゃしないわよ」
「が、がお」
 ぽかっ!

AIR SideStory

”The 1016th Summer――”

空の旅路

第三回

「不思議な姉妹と不思議な犬?」



「…朝からうるさいぞ。頭に響くからやめてくれ」
 空のチョップが観鈴に炸裂し、彼女が「イタイ…」とうずくまっているところへ、往人が入ってきた。
「うわ、兄貴お酒くさ…」
 漂ってきた臭いに思わず顔をしかめる空。往人はムスッとした顔で、頭を抑えながら言った。
「あ…くそ、まだ頭がガンガンするぜ…ったくなんて女だ、あのおかんは…マジで底無しか…」
 昨夜は余程酷い事になっていたらしい。しかし、晴子の方はどうしたのだろうか?そう思った途端に、別の襖を開けて晴子が居間に入ってきた。既にスーツに着替えて仕事に行く準備は万全だ。二日酔いの気配など微塵も無い。
「おー。おっはようさんや!」
 朝からテンションも高く甲高い声で挨拶をする。その途端、その声が脳天を直撃した往人が「ぐあ…」と唸って床に倒れた。
「あ、兄貴っ!?大丈夫!?生きてる!?」
 空が駆け寄り、そう叫んで往人の体を揺さ振る。
「うぉ…やめろ、空…生きてるって…って、やめい!」
 がんっ!
 二日酔いの頭をほどよくシェイクされた往人が、たまりかねて空の頭にゲンコツを食らわせる。
「あうう…何すんのよ兄貴…」
「だ、黙れ…お前二日酔いの辛さを知らんからって…」
 余程痛かったのか、涙の滲んだ目でうずくまる空と、自分の怒鳴り声で自分にトドメを刺してしまった往人が大の字になって倒れている。国崎兄妹の朝の対決は相討ちに終わった。
「なにしとるんや…」
 晴子がそんな2人を妙なものでも見るような目つきで見ていた。

 さて、食事である。晴子はご飯党らしく、目玉焼きをご飯の上に乗せ、醤油を垂らしてからかき混ぜて食べていた。往人も真似をしている。空と観鈴はパンを食べていた。
「…観鈴、さっきから俺の顔を心配そうに見ているが…何かあったのか?」
 往人が尋ねた。正確に言うと、観鈴は往人の食べている目玉焼き乗せご飯と往人を交互に見ていたのだが、傍目には区別が付きにくい。
「え?…な、何でもないよ。ただその目玉焼きがセミっぽく無いかなって思って」
 ぶしっ!
 直球ど真ん中だった。ちょうどミルクティーの入ったマグカップを口に付けていた空は思い切り吹き出し、飛び散ったミルクティーが彼女の顔一面にかかった。
「うわ、汚ねぇ!」
 叫んだ往人が飛び退き、観鈴が慌ててタオルを差し出す。空にとっては不幸だったが、これでとりあえず「セミっぽい目玉焼き」の真相追究は忘れられた格好となった。

「う〜…まだ鼻の奥が牛乳くさいような気がする…」
 顔を洗った空が洗面所から戻ってくると、往人はごろりと横になってテレビに見入り、観鈴は鞄の中身を確かめていた。晴子はもう出掛けたらしい。
「ん…観鈴、そろそろ出かけるの?」
 空が尋ねると、観鈴はうん、と頷いて立ち上がった。
「そっか…よし、兄貴。あたしたちも出掛けるよ」
 空が気合いを入れて言うと、往人はダルそうに空の方を向いて言った。
「出掛けるって…どこへだよ」
 その兄の覇気の無い言葉に、空は大袈裟に溜息を付いてみせる。
「どこへって…仕事に決まってるでしょうが仕事!」
 住所不定に果てしなく近い流浪の大道芸人だって職業には違いない。例え休日でも関係なし…というか、休日こそ稼ぎ時。空は呼び込み兼会計として、兄と二人三脚でこの仕事をしているという自負がある。往人にやる気が無ければ尻を叩くのも相方の努めだ。
「わぁったよ…まだ昨日の借りも返していないしな」
 昨日の借り、すなわち観客の子供たちに逃げられた挙げ句、勘違いしたその親に追い回されたあの一件である。この町でお金を稼がない限り、その屈辱は晴れない。
「しかし、空」
 でかける準備を整える妹に、商売道具の人形を持つだけで終わりの往人が呼びかけた。
「ん…なに、兄貴」
 振り返る空に、往人は尋ねた。
「いつも思うんだが…なんでお前はそんなに熱心なんだ?」
「え?」
 質問の意味が良くわからなかったらしい空に、往人はもう一度尋ねる。
「ただ人形を動かすだけじゃ面白くない。芸をさせろ、とか、大人にも受けるような話を考えよう、とか…確かにまぁ、お前のお陰で俺の力も少しは強くなったし、儲けも増えた。けどな、この稼業はお前くらいの年頃の女の子が付いてくるには辛いだろう。そこまでする理由は何だ?」
 そう…いかにしっかり者でも空は16歳の少女だ。人生の一番多感な時期に、兄と共に住所不定の過酷な生活を続けると言うのは良い影響があるとも思えない。いくら兄の事が心配とは言え、それまでの安定した生活をきっぱり捨て去り、この生活へ飛び込んだのはなぜなのか。往人の疑問はそれだった。
「…なんでかなぁ。あたしにも分からないよ。兄貴が探している空の上の少女を見たいのかもしれないし、ただ単に凝り性なだけかもしれないし。でも…」
 空はいったん言葉を切った。答えになっていないと言えばなっていない。しかし、続けての言葉は往人にも納得できるものだった。
「あたしは、兄貴と一緒に旅に出た事は後悔してないよ。むしろ、それが正しい選択だって確信してる」
「そうか。まぁ、そこまで言うなら」
 往人も、時々発揮される、自分の進むべき道をはっきりと見定める空の直感力を知っているし信じてもいる。空がそこまで言うのなら、それは彼女にとって間違いなく意味のある事なのだろう。
「往人さ〜ん、空ちゃ〜ん、出かけないの〜?」
 その時玄関の方から観鈴の声が聞こえてきて、国崎兄妹は慌てて玄関のほうへ向かって行った。

「♪登校っ、登校っ、空ちゃんと往人さんと登校っ」
 妙にテンションの高い観鈴を先頭に、3人は通学路である海辺の町へ降っていく坂道を歩いていく。
「ところで観鈴。時間大丈夫なのか?確か学校というものは8時半くらいから始まるもんだろ?」
 往人が言った。ちなみに現在の時間は8時50分である。
「う〜ん、そうだね。でも、大丈夫。必殺技があるから」
 観鈴はさして気にも留めていない様子で振り返りながら答えた。
「…必殺技?」
 空の呟きのような疑問に、観鈴はにぱっと笑うとVサインを突き出して胸を張った。
「そう。1時間目は出ないで、2時間目から教室に入るの。前の時間も教室にいました、って言う風に、何食わぬ顔で」
 びしっ!
 空のチョップが満面の笑顔を浮かべた観鈴の眉間に炸裂した。たちまち泣き顔になった観鈴が恨めしそうに空を見る。
「イタイ…どうしてそう言う事するかなぁ?」
 久々に出た観鈴の決まり文句に、空が容赦なく言葉のツッコミを入れる。
「意味無いでしょうが、それ。どっちみち授業をサボった事は記録されてるんだから。1時間目の途中で出れば遅刻だけで済むけど、2時間目から出たらプラスサボりだよ。ちゃんと出ないと駄目でしょう」
「…お前がそれを言うか」そのやり取りを聞いていた往人がぼそっと言った。観鈴は一応学校に行っているが、空は退学届も出さずに長期不登校を続けてなおかつ放浪者なわけで、世間的にはより問題児なのは空の方だろう。
「…と言うか、あたしたち2人ともその話題は痛いわね」
 空が答えた。彼女は不登校だが、放浪生活も20年超の実績を誇る往人に至っては最低限の読み書き計算を母親から教わっただけで、天下御免の義務教育未修了者である。
「うむ。この話題はやめよう」
 同意が成立し、兄妹は教育に関する話をやめた。そうこうしている間に、一行は学校へ到着する。「必殺技」にこだわる観鈴をなだめすかして教室に向かわせると、兄妹は防潮堤の上へ登った。
「さて…どうしますか」
 海風を受けて涼みながら、往人が1人ごちる。
「まずは、人通りの多そうなところを当たってみようか」
 空が答えた。とは言え、まだこの町に来て24時間と経っていないのだから、地理など分かるはずも無い。どのへんが人通りの多い場所になるのだろうか。
「とりあえず、まだ行った事の無い方向へ行ってみよう。昨日来た方向は何も無かったしな」
 往人の提案に空も頷き、2人は防潮堤の上を歩き出した。風と波の音が響く中、武田商店の前を通り過ぎ、さらに神尾家への坂道の入り口も過ぎていくと、やがて小さな商店街にぶつかった。
「ここなら良いかな…」
 空の言葉に往人は頷き、防潮堤から飛び降りる。
「ほれ、お前も早く来い」
 そう言って往人は手を広げた。飛び降りてきた空の身体を受け止め、地面に降ろすと、改めて商店街を見る。数百メートルほどの長さを持つ通りの両側に、小さなスーパーを中心として数十軒の店が連なっていた。町の規模と比較して、かなり大きな商店街と言える。
「結構期待が持てそうだね」
 空も意外な商店街の大きさに笑顔をほころばせる。
「よし、では始めるとするか…」
 道の右側にあった小さな駐車場に陣取ると、往人は人形を取り出し、空は声を張り上げた。
「さあ、楽しい人形劇が始まるよっ!小さなお子さんから大人の方までみんなが楽しめる…」
………
……

「なんで…?」
 空はぼうっと呟いた。始めてから二時間。儲けは全く無かった。それどころか、人通りさえほとんど無かった。
「良く見ると、ここの店大半が閉まってるのな」
 往人も人形を動かすのを止めて言った。確かに、時間も11時をとっくに過ぎたのに、店の大半はシャッターを閉じていた。電気屋などはやっているが、食料品関係がほとんど店を閉めているのは、スーパーに価格競争で勝てなかったらしい。
「はぁ…仕方が無い。帰ろうか」
 時間が12時15分前くらいになった時、諦めて空が立ち上がった。往人も人形を拾い上げ、腰を上げる。この町が予想以上に過疎化していると言う事実を知り、今後の稼ぎに不安を感じる兄妹だった。
「…帰ってしまうのか?」
 突然、背後から涼しげな女性の声が聞こえてきた。驚いた2人が振り向くと、そこには長い艶やかな黒髪を持つ長身の女性が立っていた。薄い紫のTシャツと黒のタイトスカートの上に白衣を羽織っている。
「誰だ?」
 往人が尋ねると、女性はフッと鼻で笑った。
「見ての通り医者だ。ここはうちの診療所の駐車場だからな」
 空はその駐車場の看板を良く見た。「霧島診療所 平日9:00〜17:00 土9:00〜12:00 日・祝 休診」と書かれている。診療所である事は理解できたのだが、何科の診療所なのか書いていないところがちょっと不安だった。
「さっきからずっと見ていたのだが…その人形はどうやって動かしているんだ?糸などの仕掛けはないようだし…実に興味深い」
 女医さんは往人の手と人形を交互に見ている。
「企業秘密だ」
 往人はそう言って人形をズボンのポケットに押し込み、そのまま手をすっと女医さんに伸ばした。
「…?なんだ?」
 往人のポーズが理解できず、首を傾げた女医さんに往人は言った。
「わかんないか?見物料だよ。人形劇を見たんだから金を払うのが当然だろう、おばさん」
「おば…」
 女医さんの顔がまともに引き攣る。が、彼女が行動に移るよりも早く閃光のような空のビニールスリッパが往人の頭をひっぱたいていた。すぱーん!という乾いた良い音が夏空に吸い込まれていく。
「おごぉっ!?」
「すいません、お姉さん。このバカ兄貴には良く言って聞かせておきます」
 空が先手を打って謝り、女医さんは「あ、あぁ…」と困ったように返事をした。その横で脳まで響く激痛に頭を抱えていた往人が猛然と立ち上がる。
「空ぁ!スリッパはよせって言ってるだろうが!!」
「…切り刻まれるよりは良いと思うけど」
 空がぼそっと答え、女医さんの方をちらりと見た。往人がつられて女医さんを見ると、彼女の手には数本のメスが握られていた。
「…申し訳ない」
 往人は心の底から謝罪した。誰だって命は惜しい。
「…まぁ、良かろう。その妹さんに免じて解剖だけは勘弁してやる」
 女医さんはメスを仕舞った。代わりに今度は財布を取り出す。
「で、見物料だったな。相場がどれくらいなのか知らないが、これで良いか?」
 そう言って女医さんが出したのは、1000円札だった。
「いえ…それは高す「毎度あり」
 空が言うよりも早く、往人がその1000円札を押し頂いた。空はちょいちょいと往人の脇腹を突付いて言う。
「ちょっと兄貴…だめじゃない。普通くれても500円くらいなのに」
「いや、私的には1000円でも安いかと言うものを見せてもらったと思うんだがな」
 女医さんは笑いながら言うと、階段の上から降りてきた。改めて見ると、実に奇麗な人だ。鈍く輝く刃物を連想させる硬質の美貌の持ち主だが、悪戯っぽい目の輝きが冷たくなりそうな印象を打ち消している。
「改めて自己紹介しよう…この診療所の所長、霧島聖だ。君たちは見ない顔だが…」
 そこで、国崎兄妹も自己紹介をした。
「そうか。では、往人君と空君と呼ぼう。しばらくはこの町にいる事になるのか?」
 聖の質問に、往人は「多分な」と答えた。それを聞いた聖が微笑む。
「そうか…では、公演場所として正式にこの場所を提供しよう。客寄せになってくれればお金を払っても良いぞ」
 その聖の言葉に、往人の眼がきゅぴーん、と怪しげな光を発した。
「…マジか?」
「マジだ。近頃隣町に大きな個人病院ができて以来客の入りが悪くてな…まぁそれはどうでも良い。とにかく頼んだぞ」
 思わぬところで追加収入に繋がりそうな話ができた物だ。空は聖に頭を下げた。
「ありがとうございます、聖先生」
「いや、気にしなくても良いぞ」
 聖は鷹揚に笑い、診療所の中へ戻って行った。ちょうどその時、時計が12時を指した。
「そろそろ観鈴の学校も終わりかな?」
「そうだな、迎えに行くか」
 2人は再び学校の方へ向かって海辺の道を歩いて行った。

 学校に到着してみると、まだ補習は終わっていないようだった。兄妹は防潮堤の階段に腰掛けて観鈴を待つ事にした。プールの帰りなのか、小学生と思しき子供たちの集団が目の前を過ぎて行く。手にアイスやらジュースやらを持っているところを見ると、お金は持っているのだろう。
「兄貴、ちょっと商売してみようか」
「そうだな、手持ちぶさただし」
 空の提案に往人も賛同し、さっそく人形を用意する。往人の集中が始まったところで、さっそく空は呼び込みを開始した。
…15分後

「兄貴…むなしいわね」
「あぁ…そう言えばむなしいと言う字は空とも書くな」
「嫌な事を言うわね…」
 2人は気の抜けた会話をしていた。呼び込み自体は大成功で、十人近い子供が集まったのだが、見物料徴収と言う段になって、やはり速攻で逃げられたのだった。昨日の二の舞いになるのは嫌だったので、往人はもう追いかけたりはしなかった。
「田舎のガキの方が変にスれてなくて、素直に金を払ったりするもんなんだが…」
 納得行かないのか、ブツブツと文句を呟きつづける往人。そんな兄をなだめようとした空は、ふと彼の足元に何かがうごめいているのを見つけた。
「…兄貴、それ何?」
「ん?…おわっ!?なんだこの毛玉は」
 往人は足で「それ」をつついた。白い毛玉のようなその物体はもぞもぞ動き、つぶらな瞳が2人を見上げる。全体的な印象は犬に似ていない…事も無い。
「ぴこっ?」
 そして、それは鳴いた。…「ぴこぴこ」と言うのが本当に生物の鳴き声だとすれば。
「あ、兄貴…」
 空は往人の腕にしがみつく。なんだか分からないが、彼女の本能が「コイツは危険だ」と告げていた。
「うむ…」
 往人も額に汗を浮かべている。その間、謎の物体はぴこぴこと言う怪音を発しながら兄妹の前を行ったり来たりしていた。何となく、何かをお願いしているようにも見える。
 そのうち、ただ足元を往復するだけでは飽き足らなくなったのか、謎の物体は別の行動に出た。
「た、立った…!?」
「き、奇っ怪な…!」
 そう、どう見てもそんな事が可能な形態とは思えないにもかかわらず、それは直立歩行をしていた。そして…
 ぴっこぴっこぴっこ…
 相変わらずの鳴き声を立てながら、それは奇妙な踊りをはじめた。国崎兄妹はそれを凍り付いたように見つめていた。やがて、意識を取り戻した往人が立ち上がった。こいつは排除せねばならない。早急に。
「このっ…!!」
 往人が謎の物体を蹴り飛ばそうとしたその瞬間、のんびりした声が響き渡った。
「あ〜、だめだよぉ。ポテトを蹴ったりしちゃぁ」
 今にもキックを放とうとしていた往人がその声に静止する。同時に、空も金縛りから解放された。
「え?」
 兄妹はその声の主を見た。ショートカットの小柄な、しかし快活そうな少女だ。観鈴と同じ制服を着ているところを見ると、同じ学校の生徒なのだろう。なぜか右手首に黄色いリボン…いや、バンダナか…を巻いているのが印象的だった。
「ポテト、おいでっ」
 その少女が声を掛けると、謎の物体は踊るのを止めて彼女の足元に駆け寄っていった。どうやら、ポテトと言うのがその謎物体の名前らしい。
「ねぇ、それ…キミの…」
 空は少女に声を掛けようとして戸惑った。「飼い犬?」と聞こうと思ったのだが、果たしてそいつは犬なのか。しかし、少女は空の戸惑いに何も気づいていないかのように答えた。
「うん。ポテトはかのりんの飼い犬第一号なんだよぉ」
「かのりん?」
 ポテトを抱き上げて答える少女。その言葉の中で、空は疑問に感じた単語に付いて尋ねた。ポテトが犬かと言う疑問はとりあえず放っておく。少女は明るく答えた。
「かのりんはかのりんのあだ名だよぉ」
 訂正。答えになっていなかった。まぁ、「かのりん」と言うのが恐らく少女本人を指すと言う事は見当が付くのだが。それにしても、この町には観鈴と言い、どうして年齢不相応に子供っぽい言動の少女が多いのだろうか。国崎兄妹はそこを疑問に思い、顔を見合わせた。
「…あ、えっとね、かのりんは霧島佳乃って言うの」
 さすがにそれでは分からないと思ったのか、かのりんこと佳乃は正式に自分の名を名乗った。そこで国崎兄妹もそれぞれ自己紹介をする。
「へぇ〜、往人くんと空ちゃんかぁ」
 佳乃は微笑んだ。早くもどう呼ぶかを決めたらしい。しかし、異議を唱えた人間が一人いた。
「待て。俺は一応佳乃より年上なんだから『往人くん』はやめてくれ」
 往人だった。その要求に、佳乃が小首を傾げて尋ね返す。
「えっと、じゃあなんて呼んだら良いのかなぁ?」
「そうだな。やはり往人お兄さんか往人お兄ちゃ…んげはぁ!?」
 最後まで答え終える前に往人は崩れ落ちた。空のリバーブローがクリティカルヒットしたためである。脇腹を抑えてひくひくと痙攣する往人を見下ろして空は佳乃に尋ねた。
「アホは放っておいて…霧島さんって、聖先生の関係者?」
 目の前で起きた惨劇にも動じず、佳乃はにっこり笑って答えた。
「うん。わたしのお姉ちゃんだよ」
「あんまり似てないんだね」
「あははっ、良く言われるよぉ」
 佳乃との会話は思いも掛けず盛り上がったものとなった。明るく、ころころと表情の良く変わる佳乃は、見ていてもなかなか面白い少女だった。
「へぇ…往人くんとずっと旅をしているんだぁ。旅人さんかぁ…格好良いなぁ」
 佳乃は何やら「旅人」と言うところにえらく感銘を受けたらしい。
「ねぇ、旅人さんだとやっぱりギター弾けたりするのかな」
 しかし、彼女の旅人に関する知識は思い切り偏っていた。
「いや…それはないけど。まぁ、それに代わる芸はできるよ」
 苦笑する空。実は彼女はピアノが弾けたりするのだが、それはこの際関係ない。空はリバーブローのダメージで死んでいる往人を揺り起こした。
「兄貴、兄貴っ、ほら起きて」
「む…」
 生き返った往人は顔をしかめながらも起き上がり、階段に腰掛けた。
「ちょっと佳乃に法術を見せてあげてよ
 空が言うと、往人は佳乃を見て言った。
「構わないけど、見物料は貰うぞ」
「ええ〜?わたし今月ピンチなんだけどなぁ」
 本気で悩んでいる佳乃を見て、往人はフッと笑うと人形を地面に置いた。
「冗談だ。お前の姉貴からたっぷり貰っているからな。サービスと言う事にしておいてやる」
 そう言うと、往人は念を込めて人形を動かした。地面に力無く横たわっていた人形がひょっこりと動き出すのを見て佳乃は驚きに目を丸くした。
「わっ…すごい」
 往人の意思で歩き回り、飛んだり跳ねたりする人形。佳乃は往人がかざす手と人形の間の空間を何度も手で斬ってみるが、糸も何も引っかからない。
「仕掛けなんて無いぞ。俺の力で動いているんだからな」
 得意げに言う往人に、佳乃は目を輝かせて拍手をした。
「すごぉい!往人くんって本物の魔法使いなんだね!!」
 その佳乃の言葉に、往人は遠い目をして答えた。
「魔法使い、か。そう言えば昔、空も同じことを言ってたなぁ。あの頃は可愛かったのになぁ…」
「…むか」
 空は膨れた。もう一発リバーブローを入れてやろうかと思ったその時、ポテトが「ぴこぴこ」と例の怪音を発した。それを聞いていた佳乃がポテト語(?)を翻訳して言った。
「あのね、往人くん。ポテトが人形劇の見物料を払うって」
「なに?こいつが?」
 往人が言うと、ポテトは「ぴっこり」と言いながら、毛の中から何かを取り出した。それは…
 骨だった。ニワトリか何かの。
「あはは、ポテトにしては思い切ったねぇ」
 佳乃は笑い転げたが、往人にはそう言う冗談は通用しなかった。
「いるかンなモンっ!!」
 どかっ!!
 今度こそ、往人のキックがポテトをぶっ飛ばした。「ぴこ〜〜〜〜〜」と言う音を響かせ、天空高く舞い上がるポテト。
「わぁ…飛んだねぇ」
 のんびりと言う佳乃に、空は聞いた。
「あの…佳乃。良いの?仮にも飼い犬なんでしょ?」
 飼い主の危機感の無さに思わず後頭部に冷や汗を浮かべる空だったが、佳乃は平気だった。
「大丈夫だよぉ。ポテトだもん。じゃ、お姉ちゃんが心配してるから、あたしそろそろ帰るねっ」
 佳乃は立ち上がり、スカートをぱんぱんと叩いて埃を払うと、駆け出した。
「じゃあ、またねぇ〜空ちゃん、往人くん」
 空の彼方に消えたポテトを追うかのように走っていく佳乃。その後ろ姿を見送っていた国崎兄妹は、どちらからともなく顔を見合わせた。往人が口を開く。
「変な奴だったな…」
「佳乃が?それともポテトが?」
 空は聞き返した。
「両方だ」
 その答えに、空はうんうんと頷く。変と言うのは言い過ぎにしても、佳乃もまた不思議な個性の持ち主だった。姉の聖を含めて、霧島ファミリーはなかなかユニークな人々のようである。
「あ、往人さ〜〜ん、空ちゃ〜〜〜ん、おまたせ〜〜〜〜」
 その時、観鈴ののんびりした声が聞こえてきた。校門のところで手を振っている。
「遅いよ〜〜〜、観鈴〜〜〜〜!」
 空が叫び返すと、観鈴が手を合わせて謝る仕種をする。それが何となくおかしくて、兄妹は思わず苦笑した。
「よし、行くか。すっかり腹が減っちまったぜ」
「ん、帰ろ」
 3人は合流し、朝来た道を逆に辿っていった。

(つづく)

次回予告

 午後の稼ぎに出る国崎兄妹。しかし、やっぱりさっぱり儲からない。そんな彼らの目の前に現れた、3人目と4人目の不思議少女。独特な空間を作り出す彼女たちと国崎兄妹の掛け合いが始まる。
 次回、空の旅路第四回
「遠野ワールドへようこそ」
 お楽しみに。


あとがき

 まだまだ人物紹介編です。これを書き始めてわかったのですが、「AIR」の世界は予想以上に強固で、なかなか崩れてくれません。空ちゃんと言う「異分子」がこの世界に与える影響はまだまだ小さなもの。ですが、いつかはバタフライ効果のように大きくこの世界を変貌できたらな…と思います。というか、そのつもりで書いているんですが。
 ではまた次回で。
2001年10月吉日 さたびー拝



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