悪夢でも絶望でもない話


十一月の章 お嬢様はお姫様


 しのぶは見覚えのない場所に立っていた。そこが月光に照らされたバルコニーだ……という事はわかるのだが。
(ここは何処だろう? なぜ私はこんな所にいるんだろう……)
 周囲を見回しながら考えると、唐突にその答えが心の中に浮かんできた。
(そうだ、私は人を待っているんだ。その人は……私にとって大事な人だ)
 しのぶが思い出した途端、庭の片隅に動くものがあった。バラのアーチを潜り、生垣の作る小径を抜けて歩いて来る。やがて、その人物がはっきりと見えてきた。それでもまだ、月光の作り出す影に隠れて、顔を見ることは出来ない。しかし、その姿を目にした瞬間、しのぶの心臓は激しく高鳴った。
(あの人だ。あの人が私に会いに来たんだ。あの人の名前は――そう)
 しのぶはその名前を「思い出し」、呼びかけようとした。
「ああ……」
 次の瞬間、身体が激しく揺さぶられた。
 
 
「わわっ!?」
 しのぶは我に帰った。横を見ると、彩乃がちょっと呆れた顔で立っていた。
「ダメだよしのぶちゃん〜、こんな時に寝てちゃ」
「んん? あ、あぁ……寝てたのか……なんか変な夢見てたな」
 しのぶは頭を軽く振って、眠気を飛ばそうとした。東京も十一月ともなれば、秋も深まり、風は冷たく、そろそろ冬の到来を予感させる季節である。
 しかし、窓ガラスを通して差し込む陽の光は、気持ちの良い暖かさをもたらしてくれる。特に、午後の教室の窓際ともなれば、その気持ち良さは夢の世界への扉を開くのに十分だった。
「えーと、今は何の授業中だったかな」
 まだ半分寝ぼけた頭でしのぶが尋ねると、彩乃の呆れた様子はますます大きくなった。
「何言ってるの。今はロングホームルームの時間で、議題は文化祭の出し物だよ。忘れちゃった?」
 それを聞いて、しのぶはそう言えばそんな話があったな、と思い出した。
 
 文化祭。それは学生生活でも一、二を争う大きなイベントである。ここ聖エクセレント女学院においても、それは例外ではない。
 しかし、例によってしのぶにとっては余り興味のない話である。文化などと言うものはわざわざ祭りをやって盛り上げるようなものではない、というのが彼女の考え方だ。今の時間眠ってしまったのも、そう言う無関心の現れであろう。
「……で、何をする事になったんだ」
 目をこすりながらしのぶが言うと、彩乃は黙って黒板を指差した。そこにはこう書いてあった。
「演劇:ロミオとジュリエット」
 それを見たしのぶは、驚いた表情になった。
(変な夢を見たのは、これのせいか……?)
 思い返してみると、夢の内容はそのワンシーンだったような気がする。
「しのぶちゃん、どうしたの? なんか顔が赤いよ」
 彩乃が不思議そうに聞いてくる。しのぶは慌てて夢の事を頭から追い出した。周りの話し合いに影響されて、あんな乙女チックな夢を見たなんてことは、口が裂けても言えない。
「なんでもないよ。それより、ずいぶん本格的なことをするんだな」
 彼女がまだ紳一で、普通の学校にも何とか通っていた中学生の頃は、出店などの単純なものがメインで、演劇などは専門の部活がやるものだった。
「そうなの? 他の学校の事は良く知らないけど、うちじゃこれが当たり前だよ」
 彩乃が言った。まぁ、常識というものは、それぞれの場所によって違うと言う事だろうか。
「で、配役は……もう決まってるのか?」
 しのぶがそう聞こうとすると、司会進行役の柚流が声を張り上げた。
「それでは、皆さんの推薦により、ロミオ役は松澤さん、ジュリエット役は一條さんにお願いします」
 拍手が沸き起こり、礼菜とせりかが立ってお辞儀をした。現役アイドルの礼菜と、女優のせりか。まず問題ない人選と言って良い。と言うか、普通ならかなりのギャラを払わなければこの二人を競演させる事など出来ないわけで、非常に贅沢な話である。
「まぁ、妥当じゃないか?」
 しのぶが言うと、帆之香が笑った。ちなみに彼女は脚本担当だ。
「うん。本当は、ロミオには勝沼さんが良かったんだけど」
 喋り方が男っぽいから、と言う穂之香に、しのぶは嫌そうな顔をした。
「主役なんてごめんだ。面倒くさいし」
「そう言うと思ったから、寝ている間に勝手に決めちゃおう、って言う案は廃案になったのよ」
 帆之香は悪びれた様子もなく答え、しのぶは呆れたようにため息をついた。
「本当にそんなことしたら殴るぞ」
 もちろん、帆之香は殴られたくなかったので、しつこくしのぶをロミオ役に推薦しようとはしなかった。その後他のキャストについても順次決まっていき、しのぶの役はキャピュレット公爵……つまりジュリエットの父親になった。なかなか重要な役どころであり、出番も多いので、しのぶの自尊心的にも満足である。問題は、最後に和解しなければならない相手であるモンタギュー公を演じるのが、紫音であるということだろう。
(まぁ、別に良いけど)
 紫音とは何かといがみ合い、意地の張り合いをしている関係だが、キャピュレット、モンタギュー両家ほど感情的に対立しているわけではない。劇の最後くらい別に仲良くしても良いだろう。
 しのぶはそう思っていたのだが、事態は「劇の最後くらい」では済まない方向に転がっていく事になる。
 
 
「これはダメだ」
 生徒たちの決めたキャストを柚流が職員室まで持っていくと、担任の出雲彼方は開口一番そう言った。
「え、ええっ? どうしてですか?」
 まさか拒否されるとは思わなかった柚流が、珍しく大きな声をあげた。彼方は主演二人を指して答えた。
「いやな、松澤と一條って言うのは、確かに俺も完璧な配役だと思うんだが……これ、外に漏れたら大騒ぎになるぞ」
 その指摘に、柚流は「あ」と小さな声をあげて固まった。
 エク女の文化祭は、砦の如く硬く閉ざされたお嬢様学校の、神秘のヴェールが開けられる数少ない機会と言う事で、多くの来訪者がある。その中には、お嬢様にお近づきになりたいと言う胡乱な輩も珍しくない。
 しかし、もっと危険なのは、普段から在学している芸能人生徒のファンたちだ。礼菜とせりかはそれぞれ人気のある実力派だけに、「二人が共演する文化祭限定ステージ」などというものが実現したら、収拾のつかない大騒ぎになるのは必至だ。
 おまけに、こうした芸能人ファンたちの情報収集能力はスパイ顔負けだ。キャストを秘密にしても、おそらく数日と経たない内に、某巨大掲示板あたりにスレッドが立つだろう。そうなれば、文化祭は確実にパニックになる。
「そう言うわけだから、演目なんかは変えなくてもいいから、キャストを変えてくれ」
 彼方の指示により、仕方なくキャスト決定会議はやり直しとなった。
 
 
 そんなわけで、しのぶたち1−Aの生徒たちは、放課後も教室に残り、会議の続きをしていた。
「主役二人が入れ替わりとなると、ちょっと辛いわね」
 脚本の帆之香がペンを顎に当てて考え込む。が、すぐに笑顔になって、しのぶの方を向いた。
「どう、勝沼さん。やっぱりロミオ役に……」
「嫌だ」
 しのぶは最後まで言わせず、きっぱりと断った。キャピュレット公くらいならともかく、主役をやらされるなど面倒くさい。
「だいたいだな……ロミオとジュリエットなんて、十四と十三のガキが勝手に思いつめて勝手に死んでいく話だろ。そんなアホな男の役はやらん」
 しのぶの辛辣な批評に、さすがの帆之香も引き攣る。とは言え、「ロミオとジュリエット」はしのぶの言う通りの話なのだ。思い切り要約すれば、であるが。
「あ……で、でも、古典劇をそのまんまやっても面白くないし、私としては大胆にアレンジをしてね……」
 帆之香は構想中の脚本について話そうとしたが、しのぶはそれも止めた。
「待った。大体予測がつくぞ。お前の事だから、実はジュリエットも男でした、な〜んてオチじゃないのか?」
 次の瞬間、帆之香は液体窒素でも浴びたように凝固した。少し間をおいて、しのぶは呆れたように言った。
「おい……まさか本当にその通りなんじゃないだろうな」
 帆之香はぶんぶんと頭を横に振った。
「そ、そんな事ないよ」
 声の震えが、動揺しまくっているのを雄弁に物語っている。明らかにそのつもりだったな、としのぶは溜息をついた。
「そんな脚本書いたら、観客は引きまくりだぞ。絶対やるなよ」
 しのぶの念押しに、帆之香はぶんぶんと首を縦に振った。
「まったく、こんな事で本当にちゃんとした舞台になるのか?」
 しのぶがまた溜息をつくと、彩乃が手を挙げた。
「はい、河原さん」
 柚流が指名すると、綾乃はとんでもない事を言い出した。
「ボクはしのぶちゃんがジュリエット役をするのが良いと思います」
 がたん、と音を立てて、しのぶは椅子からずり落ちそうになった。
「ま、待て彩乃! 何で私がジュリエットだ!?」
 しのぶが慌てて立ち上がると、彩乃はニヤリと笑った。
「いやぁ、しのぶちゃんの髪型って、お姫様っぽいし」
「そんだけかコラ」
 しのぶは湿度の高い視線で彩乃にツッコミを入れた。
「まぁ、それは冗談だけど。でも、しのぶちゃんって芽依子先生と話してるときとか、ちゃんとボクよりも女の子らしい喋り方で、凄く可愛いんだもん」
「げ、き、聞いてたのか」
 しのぶは絶句した。芽依子に対しては、何故か苦手意識がある上に、紫音に制服を盗まれた時に電話を借りたり、生理の時にお世話になったりして、頭が上がらない事この上ないので、どうしても丁寧に話し掛けているのだが、それを聞かれていたらしい。
「そう言えばそうね。ちゃんとお嬢様らしく喋る事もあるんだなぁ、って感心したっけ」
 帆之香も、しのぶを保健室に連れて行ったときの事を思い出して言う。それを聞いたほかの生徒たちが、ざわざわと話し始めた。
「あの勝沼さんが、可愛い話し方を?」
「それ、凄く聞いてみたい……」
 そして、彼女たちが意見を一致させるのには、ほとんど一分とかかっていなかった。しのぶを除く全員が一斉に手を挙げ、口を揃えて言った。
『私たち、勝沼さんのジュリエット役に賛成します!!』
「勝手に決めるなぁ! 本人の意向を無視するんじゃない!!」
 しのぶは必死に抵抗の声を張り上げたが……もはやそれは全くの無駄だった。
 

 翌日の放課後、しのぶは家庭科準備室で衣裳作りのために、身体のサイズを測っていた。
「それじゃあ、型紙を用意して……メジャー持ってきて」
 衣裳製作責任者でもある柚流が、他の生徒たちに指示を出す。彼女は前にクッキー作りでもその腕前を見せたように、家庭科全般が得意だ。衣裳作りでも、大いにその腕を振るう予定である。
 しかし、彼女の担当はあくまでも裁縫だけであって、デザインなどは別の生徒が実際に「ロミオとジュリエット」の舞台となった中世のヴェローナ地方の資料を探してきて、それを参考にデザインしている。
(こうして見ると、確かに「文化の祭り」なんだなぁ)
 想像もしなかった本格的な作業にしのぶが感心していると、メジャーを受け取った柚流がしのぶに声を掛けてきた。
「それじゃ勝沼さん、サイズ測るから、服を脱いで」
「ん、わかった」
 しのぶは制服を脱いだ。今日の彼女の下着は、またしても黒のレースである。一瞬柚流は目を見張ったが、いつもの事だと思い直して、何も言わなかった。言ったのはやはりサイズを測っている紫音である。
「相変わらず、扇情的な下着ですのね。良い趣味とは言えませんわよ」
 そう言う彼女は、高級品のようではあるものの、意外にシンプルなピンクのブラとショーツのペアだ。
「人の趣味にケチをつけないで欲しいな」
 しのぶは答えた。いつもにも増して素っ気無いのは、紫音がロミオ役だからだ。
 彼女がロミオに選ばれたのは、級友たちがいつも些細な事で対立しているしのぶと紫音を見ているだけに、逆に面白い演技が見られるのではないか、と思ったからだとか、いろいろ理屈はつけているが、根本的にはただの野次馬根性だった。
「ふふん。そんな下着を着けなくとも、大事なのは身体自体の美しさですわ」
 しのぶの軽くあしらうような言葉にも、紫音は余裕だった。彼女はバストが八十五センチで、八十四センチのしのぶよりちょっと大きい。しかし。
「……あれ? 勝沼さん、少し胸大きくなった? 八十六センチになってるけど」
 サイズを測っていた柚流の言葉に、紫音は瞬時に石化し、全身にひびが入った。
「ん? ああ、最近ブラがきついなぁと思って買い直しに行ったら、少し大きくなってた」
 肯定するしのぶの言葉がとどめとなって、紫音は砕け散った。
 もともとしのぶが十六歳を自称しているのは、見た目でなんとなくそう決めただけで、本来は十八歳でも二十歳でも問題は無いはずだが、どうやら本当に肉体年齢が十六歳近辺だったらしく、しのぶの身体は少しずつ成長していた。特に九月に初潮が来てからは、体型も成熟した女性のそれに近づいて、十六歳ながらそうは見えない大人の色気とでも言うべきものが身に付きつつある。
「……あれ? 紫音ちゃん泣いてるの?」
 敗北感に打ちひしがれ、目の幅涙をだーっと流す紫音の様子を見て、彩乃が声をかけようとしたが、それを帆之香が止めた。事情からして、彩乃も巻き込まれかねない話題だし、かといって九十センチの彼女では、慰めの言葉など掛けられない。
「人にはね、泣きたい時があるのよ。そっとしておきましょう」
 帆之香の無意味に深そうな言葉に、不承不承ながらも納得する彩乃だった。
 
 
 さらにその翌日、舞台衣装は揃っていなかったが、俳優になった生徒たちは、早くも練習をはじめていた。当然ながら、主役の二人は一番練習量が多い。
「ジュリエット、僕は誓おう。貴女への愛を。見渡す限り、樹々の梢を白銀色に染めているあの美しい月にかけて」
 ロミオ紫音が、なかなか堂々とした声で台詞を言う。台本片手なのでいまいち決まらないが。それに対し、ジュリエットしのぶが真剣な表情で答えた。
「いけませんわ。夜毎日毎に姿を変えていく、あの不実な月に誓いを立てるなんて。どうか、その誓いは貴方の御名においてお立てになって。私の崇拝する神は貴方。その名に掛けての誓いならば、私も信じましょう」
 その瞬間、おお〜〜〜〜、という感嘆ともなんとも言えないどよめきがギャラリーから漏れた。しのぶは不機嫌そうな表情になると、ギャラリー……クラスメイトたちを睨みつけた。
「お前らね、いい加減に人が台詞を言うたびに感心するのはやめろよ」
 そんな抗議にも、しのぶの新たな一面を見たクラスメイトたちの気持ちは治まらない。
「だってねぇ……」
「そんなに真剣に演技するとは思わなかったんですもの」
 しのぶは不本意そうな表情をした。
「私はそんなに真剣味が足りないように見えるか?」
 それが不機嫌のあらわれに見えたのか、今度はクラスメイトたちが慌てた。
「あ、そ、そうじゃなくて」
「勝沼さんって、どっちかというと、文化祭とかには熱心じゃないようなタイプな感じに思えたから」
 それは誤解である。しのぶは確かに興味がないことはやらないが、かと言って自分がやらねばならなくなった事に手を抜くような性格ではない。やるとなればやる。どっちかと言うと凝り性気質なのだ。
 しかし、自分の性格を説明するのも面倒くさい。しのぶは溜息をつくと、練習を再開する事にした。
「じゃあ、次の台詞行くぞ、紫音……紫音?」
「わかりましたわ……って、次のページが空白ですわよ?」
 紫音がページをめくると、そこは白紙になっていた。
「あ、ごめん。まだ台本全部できてないの」
 帆之香が頭を掻く。そこへ、しのぶと紫音のチョップがずびし、と音を立てて同時に決まった。
「いたっ!?」
 頭を抑える帆之香に、しのぶが言った。
「だったら早く書けって。本番までもうあんまり日が残ってないんだから」
「私たちの練習を見て、感心してる場合ではありませんわよ?」
 紫音も注意する。すると、またしてもクラスメイトたちがざわざわと話し始めた。
「ねぇ、今の見た?」
「うん。すごく息が合ってたわね」
「西九条さんと勝沼さん……思ったより良いコンビだわ」
 しのぶと紫音は顔を見合わせた。
「……反論するのは無駄っぽいな」
「そうですわね。逆にからかわれる素だと思いますわ」
 クラスメイトたちに聞こえないように小声で言い交わすと、二人は今の場面の練習を再開した。
 
 
 その日の夜、食事時である。夕方まで練習を続けて疲れたせいか、無言で食事をとるしのぶは、ちょっと不機嫌そうに見えて、誰も話し掛けられなかった。が、直人が勇気を出して聞いてみる事にした。この男、最近は一定時間お嬢様の声を聞かないと禁断症状を起こすらしい。
「お嬢様、練習の方は進んでいるのですか?」
「ん? まぁまぁかな」
 しのぶは顔を上げた。思ったより上機嫌そうなので、場にホッとしたような空気が流れた。
「そうですか。しかし、お嬢様がジュリエットと言うのは、非常に似合いそうですな」
 木戸の言葉に頷く直人。
「みんなそう言うんだが、私は納得いかないな」
 しのぶは苦笑する。自分が美人である事は知っていても、可愛い性格とは思っていない彼女にとって、愚かなまでに純真無垢なヒロイン役を演じるのは、なんと言うか、身体が痒くなってくるような気がしてならないのだ。
「そうですなぁ、同じシェイクスピアでも、お嬢様なら『じゃじゃ馬ならし』辺りの方がハマリ役になるのではありませんか?」
 古手川が言う。しのぶは頷きかけて、ふと疑問を抱いた。
「ちょっと待て、じい。お前はどっちが私のハマリ役だと言いたいんだ? ペトルーチオか? キャタリーナか?」
 しのぶは「じゃじゃ馬ならし」の登場人物の名を挙げた。ペトルーチオは気の強い娘を鞭で引っ叩いて従順な妻に仕立て上げる男で、キャタリーナがその気の強い娘である。
「それはまぁ、ペトルーチオかと。しかし、キャタリーナのように可愛くなっていくお嬢様と言うのも、それはそれで激しく萌えますが」
「いい年こいて萌えとか言うなたわけ」
 しのぶは余計な感想を付け加えた古手川を殴り飛ばしておいて、ため息をついた。
「とは言っても……今の私はクラスメイト総出で『じゃじゃ馬ならし』されているようなものだよな……」
 明日は衣裳合わせの日である。予想を越えるしのぶの淑やかなお嬢様振りを見せ付けられた級友たちが、大ノリで作っているそれは「できるまでヒミツ」とかでまだ見せてもらっていない。しかし、相当に凄い出来になるのは間違いない。それを着せられたうえ、メイクまでされて、あと二週間は無垢な娘の役を演じつづけなければならないのだ。他人を自分色に染めるのは好きでも、自分が他人色に染まるのは、しのぶは好きではない。
「まぁ、お嬢様なら大丈夫ですよ。親族の皆様に会われる時のつもりで行けば完璧です」
 直人が励ますように言ったが、完璧な演技をすればするほど、深みにハマっていくような気がして、安心できないしのぶだった。
 
 
 翌日、予定通り彼女の衣裳が上がってきた。それを見て、しのぶは思わず絶句した。
 中世欧州風のドレスは、後年宮廷文化の花開いた時代に、舞踏会に出席する貴婦人たちが身に付けたそれほど、ボリューム的には派手なところはない。形状的には普段着として着ても、あまり違和感はないかもしれない。
 しかし、落ち着いた風合いの、深みのある赤に染められたシルクを用い、要所要所に銀糸で刺繍が施されたそのドレスは、派手さはなくても実にヒロインが着るに相応しい風格を持っており、たかが高校の文化祭、それも一クラスの演し物で使うには勿体無いほどの出来だった。
「どうかな、結構自信作なんだけど」
 やり遂げた表情の柚流の言葉に、しのぶは「あ、ああ……」と頷くしかなかった。
「うわ、凄いねぇ。早速着てみてよ、しのぶちゃん」
 彩乃が急かす。しのぶは頷くと、制服を脱いで衣裳に袖を通した。同じデザインラインの帽子を被り、アクセサリーなどの小道具を身につける。
「サイズは間違ってないみたいね」
 柚流が安堵したように言う。そこで、今度はせりかが何やら一抱えほどもある小箱を持って出てきた。
「それじゃあ、今度はメイクね」
「……え? そ、そこまでするのか?」
 しのぶが驚くと、せりかは小箱……メイク用品入れの蓋を開けながら答えた。
「もちろん。うーん、勝沼さんの場合は、眉の形を変えたほうが良いかな?」
 せりかは問答無用でしのぶの顔にメイクを施し始めた。その途中で気付いたのか、不思議そうな声を上げる。
「あれ? 勝沼さんって、全然お化粧とかしてない?」
「ああ、面倒くさいからな」
 頷くしのぶ。服装の方ではそれなりにおしゃれを楽しんでいる彼女だが、化粧に関しては周りに教えてくれる人もいないので、特にしていなかったのだ。
「もったいないなぁ……こんなに肌がきれいで、お化粧の乗りもいいのに。っと、できたよ」
 せりかがしのぶの前をどいて、周りの人に彼女の顔が見えた瞬間、どよめきが上がった。そこにいるのは、もう勝沼しのぶではない。燦然と輝くキャピュレット家の娘、ジュリエットだった。
「すごい……良く似合ってるわよ、勝沼さん」
「勝沼さん、可愛い……」
 級友たちの言葉に、しのぶは顔を赤らめた。普段の彼女なら「当然だ」と胸を張るところだが、まるっきりの別人を演じると言う事が、心の持ちようにも影響を与えていた。その、めったに見られないしのぶの恥らう表情に、ますます黄色い声があがる。
「わぁ、西九条さんも素敵!」
「本当。凛々しい貴公子って言う感じね」
 今度は別の一角で歓声が上がる。もう一人の主役、紫音のロミオの衣裳も着付けが終わったのだ。
 しのぶのジュリエットのドレスとは対照的な、金糸の刺繍を施した深い青の上衣と純白のズボン。その上から草色のマントを羽織っている。そんな姿の紫音は、髪形も変えて、ざっと束ねたあとでマントの中に隠し、男性のような短髪に見せていた。元が美少女だけに、凛々しい美青年の雰囲気を漂わせている。
「どうだい? 男の子に見えるかな?」
 目いっぱい低くした声で紫音が言うと、悲鳴のような歓声が上がった。紫音は意外とノリやすい性格のようだ。雰囲気は宝塚の男役スターを囲むファンのようである。
「これで主役は完璧ね。じゃ、一回並んでみて」
 帆之香が昨日から書き進めた台本を渡しながら、しのぶと紫音を引き合わせた。今まで着付け役などに囲まれていたので、お互いを見ていなかったのだ。その瞬間、二人は「あ……」と小さな声をあげて固まった。
(紫音のやつ、化けたなぁ)
 しのぶは思った。唐突に、先日の夢の事を思い出す。夢の中で彼女が見た、「大事な人」。顔は見えなかったが、それは……
(〜〜〜〜って、何を考えてるんだ私は! あれはただの夢だろうっ!?)
 突然真っ赤な顔でいやいやをするように首を振り、妙な連想を追い払おうと努めるしのぶ。一方、紫音の方も、しのぶの変貌に驚いていた。
(か、可愛いじゃありませんの……)
 今の紫音は靴を厚底のものに変えているので、しのぶより5センチほど背が高くなっている。その僅かな差が、普段見慣れているはずの好敵手に対する見方を変えていた。恥じらったような仕草を見せているしのぶが、物凄く可愛く見えるのである。
(〜〜〜〜って、何を考えているんですの私は! 相手は勝沼さんですわよ!?)
 紫音も自分がとんでもない事を考えている事に気付き、顔を真っ赤にした。しかし、そうした二人の反応は、周囲から見れば良いからかいの種にしかならなかった。
「まぁ、二人とも赤くなって……初々しいですわ」
「素晴らしいロミオとジュリエットぶり……役作りは完璧ね」
 こうした周囲の発言に、もはや何か反応する余裕もないしのぶと紫音だった。
 
 
 騒然とした雰囲気も、他の出演者たちの衣裳合わせが進むにつれて消えていき、稽古が再開された。これで平常通りに戻った……かのように見えたのも、とあるシーンに入るまでのことだった。
「えーと、次は初夜のシーンね」
 それを聞いて、休憩中だった紫音は、飲んでいたお茶を噴きそうになった。
「しょ、初夜ぁ!?」
 咳き込みながら顔を上げる紫音の横で、しのぶがのんきな声で言った。
「そういえば、そんなシーンもあったな。ただれてるなぁ、十四歳と十三歳」
「そ、そんな事を言っている場合ではありませんわよ!?」
 真っ赤な顔で叫ぶ紫音。それを見て、しのぶは不思議そうな表情になったが、すぐにある事に気がついた。その瞬間、しのぶの顔は本来の彼女らしい、意地悪な笑みで彩られた。
「……紫音。お前まさか、本番ありだとか思ってないだろうな?」
「な、なんですの本番って!!」
 紫音は真っ赤な顔で叫んだ。そう言う言葉を知っているかどうかはともかくとして、「本番」が今のシチュエーションでどういう意味で使われているかは、流石の紫音も気付いたらしい。しのぶは追い討ちをかけるように言った。
「そりゃお前、(ピーッ)とか(ズギューン)とか……」
 お嬢様らしからぬしのぶの危険用語の連発に、紫音はますます真っ赤になった。
「な、何を破廉恥な事を言ってるんですの!? わ、私と貴女が、そ、その……(ピーッ)とか(ズギューン)とか……そ、そんなのあり得ませんわ!!」
 紫音の口から危険用語が飛び出したところで、しのぶは遂に耐え切れずに身体を折って大笑いをはじめた。
「ぷっ……くくく……あーっはっはっはっはっ!!」
 周りの少女たちも、一部はしのぶと紫音のきわどい台詞の応酬に顔を赤らめてはいたものの、概ね一緒になって笑いの渦を作り出していた。
「な、なんですの一体!?」
 馬鹿にされたと思ったのか、声を荒げる紫音の肩を、しのぶがぽんぽんと叩いて言った。
「いやさぁ、冷静になれよ。文化祭の舞台でそんな事するわけがないだろ?」
「うん、シーンの名前が『初夜』なだけで、せいぜいベッドに並んで座るくらいだよ」
 脚本の帆之香も太鼓判を押す。ちなみに、初夜のシーンと言うのは、結婚を誓い合ってすぐに過ちを犯し、人を殺してしまったロミオが、街から追放される前に、最後の夜をジュリエットと過ごすシーンなのである。自分で勝手に暴走していた事に気付いた紫音は、怒りと恥ずかしさで口をパクパクさせていたが、やがて言っても無駄と諦めたのか、溜息をついて首を横に振った。
「わかりましたわ……そう言う事であれば稽古を続けましょう」
 さすがにまだ恥ずかしいらしく、声が震えていた。一方、しのぶの方は紫音が暴走してくれたおかげで、逆に自分のペースを取り戻す事に成功していた。従兄弟のティボルトがロミオに殺された後のシーンでも、彼女は絶好調だった。
「ああ、涙で傷口を洗ってあげれば良いのよ。私の涙は、父上と母上の涙が尽きたあと、追放されるロミオのために流されるのですから。縄梯子を取って。かわいそうに、騙されたのよ。お前も私も。だって、ロミオは追放されるのですもの。お前の部屋を私のベッドへの通り道にされたのにね。処女の私は、処女のまま寡婦となって死ぬのよ」
 こんな長い台詞も、すらすらと覚えられる。さらに続きを言おうとして、しのぶはふと口を止めた。
(そう言えば、私は処女なんだろうか?)
 別に確かめる気はないが、台詞が台詞だけに、ふとそんな事を考えるしのぶだった。


 その日も放課後遅くまで稽古があり、しのぶはかなりの疲労感を引きずって家に帰ったが、不思議と不快な感じはしなかった。部下たちの目にも、彼女が機嫌良く見えたらしい。
「お嬢様、今夜はなんだか楽しそうですね」
 共に食卓を囲んでいた木戸の言葉に、しのぶは笑顔で頷いた。
「そうね。稽古も順調に進んでいるし」
「左様ですか。それは結構な事……で?」
 古手川が笑顔を浮かべようとして、そのまま固まった。なにやらとてつもない違和感を覚えたのだ。
「……じい、どうしたの?」
 しのぶに問われ、古手川は咳き込むと誤魔化すように言い直した。
「あ、い、いや、何でもございませぬ。稽古が順調な事、誠に結構な事でございますな」
 しのぶはにっこり微笑んだ。
「ありがとう、じい」
 がちゃん、と言う音を立てて、直人が食器を落とした。しのぶを放心した表情で見つめている。しのぶはそんな側近の顔を見て不思議そうな表情で、可愛らしく首を傾げると、席を立って自室に戻っていった。後に残された男三人はしばらく固まっていたが、やがて、木戸が絞り出すような声で言った。
「……そ、染まっていらっしゃる……」
 普段は猫を被る時にしか見せない、しのぶの「深窓のお嬢様モード」。それがごく自然に出ていたのだ。ジュリエットの演技を続けているうちに、その仮面が地に近づいているらしい。
「ああ、お嬢様……素晴らしい……」
 固まっていた直人が、夢見るような表情で呟く。この男にとっては、しのぶがキツかろうとお淑やかだろうと、どちらでも構わないらしい。完全にイってる表情を見ながら、木戸はため息をついた。
「コイツも病気だな……」
 しかし、もっと病気な人がいた。
「お、お嬢様にお礼を言われた……笑いかけられた……嬉しいけど、嬉しいけど、何かが物足りないわいー!!」
 古手川が叫んで頭をかきむしった。しのぶに蔑まれ、罵られ、殴打蹴撃されるのを楽しみにしているだけに、今のでは刺激が足りなかったのだろう。
「……」
 木戸はますます深いため息をつくと、トリップしている二人を放置して、とっとと部屋に帰った。
 
 
 こうして、役にはまり込んだしのぶの、妙に熱の入った演技が他の生徒たちを引っ張る形になり、たかが文化祭の一クラスの演し物とは思えない密度で、稽古は続けられていった。修道士ロレンス(配役:柚流)との会話のシーンも、気合の入った演技が続いている。ここは、ジュリエット、ロレンスの二人ともに長い台詞が多く、帆之香が上手く短く編集しているとは言え、素人芝居には辛いところだが、いまや全員そんな事は関係なくなっていた。
「聖者様、いま手はお空きでございましょうか? それとも、夕べのミサの時に参りましょうか?」
 しのぶジュリエットの問いに、柚流ロレンスがいかにも聖者らしい威厳と風格を持って答えた。
「いま手は空いておる。悲しげな我が娘よ。パリス伯、済まぬが二人だけにしてもらえるだろうか?」
 パリス(ジュリエットの婚約者)役の文が頷いて退場すると、しのぶは床にくずおれて切々と訴えた。
「ああ、どうか扉を閉めてください。そして、私と一緒に泣いてください。希望も、慰めも、救いもない私と」
「ジュリエット、そなたの悲しみは存じておる。なれど、わしの知恵をもってしても、もうどうにもならぬ。何事が起ころうとも延期することなく、この木曜日にかの伯爵と結婚と聞いた」
 柚流ロレンスが嘆くしのぶジュリエットの肩に手を置き、優しく語り掛ける。
「聖者様、聞いたと仰るのなら、なんとしてもこの結婚を取りやめにする方法をお教えください。もしそのお知恵でも解決できないのなら、私の決心を賢い知恵と仰ってください。何もかも、この懐剣で解決してみせましょう」
「待て。一縷の望みがないわけではないのだ。だが、それには絶望的な勇気がいる。避けようとする事態が絶望的なだけにな。しかし、この恥辱的な結婚を逃れるためになら、死をも選ぼうというその勇気があるのなら、その方法を教えない事も無い」
 しのぶに引きずられるように、柚流が熱演を見せる。陽が落ちるのにも気付かないように、稽古は続いていった。
 
 夜の帳が降りる頃、ようやくこの日の稽古は終わった。しのぶは衣裳を脱いで制服に着替えた後、そのスカートを摘んで優雅に一礼して見せた。
「それでは皆さん、ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 つられて級友たちも挨拶し、帰って行くしのぶを見送った後、一斉にため息をついた。
「はぁ……役作りに打ち込んでるなぁ、しのぶちゃん」
 彩乃が感心したように言うと、まだ着替え中の柚流が苦笑した。
「そうね。私も思わずつられて役に入り込んじゃうわ」
 さらに、本職の女優らしく、せりかが論評した。
「西九条さんは意識して役作りするタイプだけど、勝沼さんは役になりきるタイプね」
 その分析に一同が納得した。
「いずれにせよ……この本番、伝説になりそうね」
 帆之香がニヤリと笑った。
 
 
 帆之香の予言が当たるかどうか……それを確かめる文化祭本番の日がついにやってきた。1−Aの上演を前に、古手川、直人、木戸の3人は講堂の後ろに設置された父兄席に座って、開幕を今か今かと待ちわびていた。その焦りを示すように、ポリポリと言う音が響いている。
「じいさん、映画じゃないんだからせんべいとかポテトとか持ち込むなよ」
 直人がせわしなくお菓子を食べる古手川に苦言を呈した。
「そうは言うても、こうでもしておらんと落ち着かんのじゃ。ああ、お嬢様……上手く行くか心配でならんわい」
 直人はやれやれと言うように肩をすくめて見せた。その時、今の演目である吹奏楽部による「魅惑のジャズ名曲メドレー」が終わり、舞台に幕が降ろされた。そして、がたがたと大道具を準備する音。それも数分で静まり、司会進行のアナウンスが響き渡った。
『お待たせしました。ただいまより、1−Aによる演劇「ロミオとジュリエット」の上演をはじめます』
 拍手が沸く。見に来ている生徒たちはかなり多い。チョイ役とは言え、せりかや礼菜、鈴と言った芸能人たちが出ているのも見逃せないポイントだが、主役を張る二人……しのぶと紫音はエク女に通う生徒たちの間でも屈指の名門の出であり、有名人だ。彼女たちがどんな演技を見せるのか、と言うことにも純粋な興味が集まっていた。
『花の都のヴェローナに、権勢を競う二名門。古き恨みが今日もまた、人々の手を血に染める。ああ、かかる仇より生まれたる不幸な星の恋人よ……』
 第一幕の口上が読み上げられる。同時に幕が開き、舞台の上に再現されたヴェローナの街に生命が吹き込まれる。
「おはよう、ベンヴォーリオ。今朝はまだ早いのかい?」
 ロミオ役、紫音の凛々しい貴公子姿に、観客席からどよめきが上がる。
「お嬢様の出番はまだかのう……」
 ますますそわそわし始める古手川。
「まだだよ。だから落ち着けって」
 直人が言うが、彼はなまじ物語を知っているだけに、しのぶの出番が待ち遠しくてしょうがないようだった。彼らの焦りを倍増させるように、最初の数幕がゆったりと、後半の激動を予感させるスローペースで進み、いよいよしのぶの出番……二人の馴れ初めの場となった、キャピュレット家の仮面舞踏会の場に進んだ。赤いドレスに身を包んだ彼女の姿は、紫音以上の反応を客席にもたらした。しっかりとメイクを施し、普段の強気な印象を殺ぎ落としたしのぶは、まさに今訪れる恋の予感に胸を震わせる可憐な少女、ジュリエットそのものである。
「あ、あれが本当にお嬢様か?」
 木戸が思わず不敬な言葉を漏らす。言ってしまってから、古手川と直人の口撃を予想してしまった、と一瞬焦った木戸だったが、横を見ると古手川も直人も、埴輪のように口をぽかーんと開けたまま凝固していた。
 そんな側近たちの様子などいざ知らず、ジュリエットになりきったしのぶは、見事な演技を続けていた。あの有名なテラスのシーンで、彼女は切なさをいっぱいに込めて台詞をつづる。
「おお、ロミオ、ロミオ……! 貴方はどうしてロミオなの? どうか、私を愛するのならば、その名をお捨てになって。そうすれば、私もこのキャピュレットの名を捨てて、一人の女として貴方を愛しましょう」
「その言葉を受け取りましょう。恋人と呼んでください。それが僕の新しい名前。これからはもう、決してロミオではありません」
 紫音も負けじと情熱的な言葉を紡ぐ。いつしかどよめきは収まり、客席の眼は舞台の上の一挙手一投足に注がれていた。そして、いよいよ物語はクライマックスへと突入する。
 パリスとの結婚を免れるため、修道士ロレンスに貰った秘薬を飲み、仮死状態になるジュリエット。追放の憂き目に遭いながら、ジュリエットへの思慕が断ち切れぬロミオは、懐に毒を忍ばせてヴェローナへと舞い戻る。そこで最愛の女性の死を知った彼は、一目その姿を見ようと墓場へと忍び込んだ。
 そこでパリスと鉢合わせしたロミオは、パリスを殺害してしまう。そして、ジュリエットにもう永遠にあえないと言う絶望の中、毒を仰いで死を選ぶ。目を覚ましたジュリエットもまた、絶望のあまり自害して果てる……その名シーンだ。
 さて、このシーンには一つの重大な問題があった。
「これはなに? 杯が、愛する人の手の中に。……そう、これは毒なのね。あの人の最期をもたらしたのは。なんて酷い。一滴も残っていないなんて。私に後を追う事すら許さないというのですか?」
 倒れている紫音の手から、しのぶは毒杯を取り上げる。ここまでは良い。問題はこの後だ。
「……その唇に口づけを」
 そう、この場面にはキスシーンがあるのだ。ジュリエットはロミオの唇に毒が残っていて、それによって自らも死ぬ事を願うのである。もちろん、この劇は健全な劇であるので、本当にキスはしない。寸止めである。
「そこにまだ毒が残っていれば、あの世で本当の生命を……」
 しのぶはそう言いながら屈みこみ、そっと顔を紫音の顔に寄せる。その時だった。
「!」
 連日の猛稽古の疲れが出たのか、しのぶは足を滑らせ……そして。
 
 ちゅっ
 
 柔らかな音と共に、世界が凍った。目の前には、目を見開き、わなわなと震える紫音の顔のアップ。その喉の奥から悲鳴が漏れそうになっているのを感じた瞬間、しのぶは思い切った行動に出た。
 
 ちゅううううううぅぅぅぅぅぅぅっ
 
 悲鳴を封じ込めるように、期せずしてやってしまったキスを、そのまま続行したのである。しかも、暴れられないように、紫音の手を押さえつけながら。異常に長いキスシーンに場内がざわめく中、息が出来なくなったのか、紫音はぐったりとなった。どうやら気絶したらしい。
(勝った……)
 すんでのところで舞台の破綻を防いだ満足感を覚えつつ、しのぶは立ち上がった。ロミオの剣を取り、最期の台詞を一気に言う。
「ああ、あの人が呼んでいる。剣よ、お前の鞘は、私のこの胸。さあ、ここでお眠り。そして、私をあの人の元へと」
 そして、しのぶは剣を胸に刺して、気を失った紫音の上に崩れ落ちた。ようやく拍手が鳴り響く。ちらりと見ると、舞台の袖で、次のシーンの出番を待っていたせりかや礼菜がまだ凍っていたが、もうそれはしのぶの知った事ではなかった。
 
 
 カーテンコールを終え、一同は控え室に引き揚げてきた。そこで、これから起こるであろう大爆発に備えるべく、全員が身を硬くしたその直後、意識を取り戻していた紫音はしのぶの前に立った。
「か、勝沼さん……」
「あ、ああ」
 劇が終わったためか、しのぶの「深窓の令嬢モード」は解除されていた。頷く彼女に、紫音は腕組みをして言葉を続ける。
「ぶ、舞台が台無しにならないようにするには、ああするしかなかったことは認めますわ。でも、でも……!!」
 そこで、爆発をこらえてきた紫音の感情が一気に弾けた。
「許せません……! 許せませんわ!! 良いこと、勝沼さん! 私は貴女を絶対に許しません!! 私が大事に守ってきたものを奪った以上、一生かけてでも償わせて見せますわ!! この事を覚えてらっしゃい!!」
 しのぶに口を挟む余裕を与えずそうまくし立てると、紫音はお嬢様らしからぬドスドスと言う足音を立てて去っていく。その後を数人の取り巻きが追っていき、後にはちょっと困惑した表情のしのぶと、それを遠巻きに見る級友たちが残された。やがて、勇気を振り絞った彩乃が、おずおずと話し掛けた。
「あのさぁ、しのぶちゃん……一応、あとで紫音ちゃんに謝っておいたほうが良いんじゃないかなぁ」
 すると、しのぶは彩乃の方を向いて、不思議そうに答えた。
「なぁ、彩乃……紫音の奴、何であんなに怒ってるんだ?」
「え」
 あまりの言葉に、彩乃は固まった。見かねた柚流が説明を買って出る。
「それはね、たぶん、西九条さん初めてだったと思うの。キスするのが……」
 お嬢様学校らしい古風な純潔の観念が息づくエク女において、ファースト・キスが意味するところは重大だ。これならしのぶも意味を理解するだろうと柚流は考えたのだが、次の瞬間、彼女は思わぬカウンターパンチにのけぞる。
「初めて……それはお互い様なんだけどなぁ」
 しのぶの言葉は全員を凍りつかせた。これは一応事実で、しのぶは男の頃からキスをしたことはない。女性の唇に押し当てるものは、常にここでは言えない別のモノだった。
「でもまぁ、そう言う事なら了解した。そっか、一生ものか……ふふふ。まぁ、紫音が何をして来たとしても、踏み潰して通るだけだけどね」
 しのぶはほくそ笑むと、あっけにとられている一同を尻目に着替えを済ませ、控え室を出て行ってしまった。数分たって、呪縛が解けたように、全員のため息が部屋を満たした。
「はぁ……心臓によくないわね」
 柚流が言うと、彩乃が首を傾げながら言った。
「でもさ、なんかしのぶちゃん、楽しそうだったよね?」
「そうね。それに、西九条さんも『一生掛けても償わせてやるー』とか言ってたけど、本当に怒ってたら、無視するとか絶交するとかよね」
 帆之香が彩乃の言葉に頷きながら言った。
「つまり、西九条さんのあれは、一生お付き合いしてやるから覚悟しろ、って言う事でしょうか?」
 文が控えめに言った。それに頷いたり返事をしたりするものは誰もいなかったが、みんなの思いは一緒だった。そして、彩乃、柚流、帆之香の三人が異口同音に、全員分のその思いを代弁したのだった。

『ほーんと、二人とも素直じゃないんだから』


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