悪夢でも絶望でもない話
十二月の章 決着をつけるお嬢様
見渡す限りの雪景色が広がっている。踏みしめる足元はもちろん、遥か彼方に続く山の峰々に至るまで、全てが白銀に輝いていた。
「これは絶景だ」
東京ではまず見られない景色に、あまり物事に感動しない性格のはずの直人も、思わず感嘆の声を漏らしていた。すると、突然その顔に飛んできた雪玉が炸裂し、直人はのけぞって雪原に尻餅を付いた。
「な、な……?」
不意打ちに唖然とする直人に、しのぶの笑い声が掛けられた。
「あははははは、無様だなぁ、直人」
彼女は笑いながら、その手に雪玉を持って弄んでいた。直人に雪玉をぶつけた犯人は、もちろんしのぶだ。
「な、何をなさるんですか、お嬢様」
抗議の声をあげた直人に、しのぶは笑いながらどんどん雪玉を投げてくる。なかなか正確なコントロールで、たちまち彼は雪まみれになった。普通なら黙ってはいないが、相手は最愛の主だ。反撃を仕掛けるなど、想いもよらない。
「お、お戯れはよしてください、お嬢様!」
とうとう根を上げた直人に、しのぶはひとしきり笑った後、ふとしんみりしたような表情と声音で言った。
「ふふ……悪いな、直人。こんな風に雪で遊んだことなんてなかったから……一度やってみたかったんだ」
その言葉に、直人だけでなく、古手川と木戸も胸を突かれた。しのぶがまだ紳一だった頃、病弱だった主はちょっとした気温の変化にも弱く、冬になればすぐに風邪を引き、高熱を出して寝込んでいた。雪の中で遊ぶことなど、考えることすら出来なかったのだ。
「お嬢様……ぶわっ!?」
念願かなって雪の中ではしゃいでいるしのぶに、古手川が喜びの声を掛けようとする……が、それより早く、彼の顔面をしのぶの投げた雪玉が直撃した。さらに木戸にも。反撃できない三人はしのぶの攻撃に追われて、雪原を逃げ惑った
「お、お嬢様! もうお遊びはよろしいでしょう! 早く目的地へ!」
木戸が叫ぶと、しのぶは雪玉を投げるのをやめた。
「そうだったな。遊ぶのは、目的を達成してからゆっくりやることにしよう」
そう言うと、自ら踵を返して、路肩に止めてある車の方へ向かった。さすがに今日は雪の上を走るということで、リムジンではなく、レンジローバーである。側近たちも雪を払って車に乗り込んだ。
発車してしばらく進むと、谷間に大きな看板が掛けられ、水を満々と湛えたダムの想像図が描かれている。その脇に立つプレハブの表札にはこうあった。
「龍神ダム建設予定地 N県土木事務所 西九条建設」
しのぶはその看板を見ると、悪戯っぽく笑った。
「あれももう不要になるな」
「今のうちに撤去しておきますか?」
木戸がおどけた口調で言うと、しのぶは首を横に振った。
「それは後でいいさ。お、村が見えたようだな」
車がダムの堰堤が来るであろう、道の一番高いところを越えると、眼下にその村が一望できた。ここはN県龍神村。日本でも屈指の豪雪地帯である。それと同時に……
しのぶが倒さねばならない相手が潜む、伏魔殿のある土地でもあった。
彼女がここへ来た理由はいろいろあるが、それを説明するには、少し時間を遡らなくてはならない。
三日前、しのぶが通う聖エクセレント女学院は、例年通り二十五日に二学期の終業式を迎えた。普通の学校に比べると少し遅いが、それはミッション系学校と言う事で、クリスマスの行事を大事にするためだ。
終業式に加え、クリスマスのミサ、賛美歌合唱祭、生徒会主催のプレゼント交換会などの行事が一日中行われ、ようやく夕方に解散となる。
「それじゃ、良いお年を、しのぶちゃん」
「また来年ね、勝沼さん」
「ああ、気をつけて帰れよ」
手を振って去っていく彩乃と帆之香に挨拶を返し、しのぶも玄関を出ようとすると、そこでばったり紫音と遭遇した。
「紫音もこれから帰りか?」
軽く手を上げて挨拶しながら聞くしのぶに、紫音は首を横に振った。
「いいえ。これから出かけるところがありますの」
紫音はそっけない口調で答えた。
「ん? こんな時間にか?」
しのぶが言うと、紫音は説明する義理はない、とでも良いたげに相手の横をすり抜けようとしたが、ふと思いとどまって、しのぶの方を向いた。
「ええ、これからが本番ですのよ。どんなにお金があっても、貴女のような人は来れない場所ですわ」
先月の文化祭でキスをしてしまってから、紫音は今までにも増して、しのぶより優位に立つ事に熱意を傾けるようになっていた。しのぶがそんな彼女をちょっと可愛いと思っている事は、口が裂けても言えない。
「そうか。なんだか知らないけど頑張れよ」
しのぶがにこやかに笑いながら手を振ると、紫音は挑発失敗を悟って憮然とした表情になったが、気を取り直して出て行った。しのぶはそれを見送っていたが、紫音の姿が見えなくなると、にんまり笑った。
「悪いね、紫音。今日も私の勝ちだよ」
それから一時間後、紫音の姿は都内某所の超高級ホテル、その最上階の展望ホールにあった。辺りには一目でセレブとわかる人々が行き交い、談笑している。
「おお、西九条公爵家のお嬢さんだね。元気にしているかい?」
一人の紳士が紫音に話し掛けてきた。彼女は服を乱さないように、優雅に一礼し、ふわりとした笑顔を浮かべる。
「はい、おかげさまで」
態度はあくまでも控えめに。学園では女王様たる彼女も、ここではまだ駆け出しの若輩者だからだ。
「そう硬くならずとも良い。君のお父上と私は昔からの親友同士。従って、君は私の娘のようなものだよ」
紳士が鷹揚に笑う。彼は資産こそ西九条家には及ばないが、家柄では匹敵する名門の当主だ。
「ありがとうございます」
笑顔で答える紫音。彼女は場に満ちる、古くからの儀礼と因習が溢れる空気を快く感じていた。なんだかんだ言って、資産を持っているだけの庶民も入学してくるエク女では失われた、真の上流階級に住まう者たちだけが持てる雰囲気だ。
ここは、日本でも名家旧家と呼ばれる名門の人々だけが集まる、クリスマス・パーティーの会場なのである。西九条公爵家の娘たる紫音には、この場に立つ資格があった。
「これこそ、私のいるべき世界ですわ」
紫音は呟く。最近では妙にクラスの雰囲気に流され、庶民たちのペースに強制的に合わせさせられているが、ここにはそんなわずらわしい連中はいない。特にあの……
そんな事を考えていると、紫音は人にぶつかった。
「あっ……失礼しました」
「いえ、こちらこそ」
咄嗟に謝罪し、許しの言葉を貰った紫音だったが、その声に身体を硬直させる。聞き覚えのありすぎる、忌まわしい声。それは、今思い出そうとしていた人物のものだった。
「ど、どうして貴女がここにいるんですの!?」
場に相応しくない紫音の大声に、周囲の視線が一斉に彼女と、彼女が指差している少女に降り注がれる。相手の少女――しのぶは、その雰囲気に怯む様子もなく、柔らかな微笑を浮かべた。身に纏うのは、胸と背中の大きく開いたセクシーなデザインの濃い紫のカクテル・ドレス。手にはワイングラスを持っている。中身はジンジャエールだが。
「あら、ちゃんと紹介状は戴いて参りましたわよ。梅宮さんのお父様に」
お嬢様モード全開で言うしのぶ。成金の勝沼家にはこの会合の招待状など送られないが、然るべき人の紹介状さえあれば出席はできる。
「そう言えば、梅宮さんの家はそうでしたわね……」
紫音は動揺を抑えて言った。柚流の家は実は元伯爵家で、しのぶを紹介するには十分な家格を持っている。
「それで、今日は何を企んでますの?」
何とか気を取り直した紫音が詰問するように言うのを聞いて、しのぶは苦笑した。
「外聞の良くない事を言わないでください。今日は純粋にパーティーを楽しみたいだけですわ」
しのぶがそう答えると、紫音は耐え切れなくなったのか、しのぶの手を取って、無理やり会場の外に引っ張り出した。
「痛いじゃありませんか。乱暴になさらないでください、紫音さん」
しのぶがそう抗議すると、紫音はきっとしのぶを睨みつけ、ドスの効いた声で言った。
「いいから普通に喋りなさい、普通に! 調子が狂って仕方がありませんわ!」
「ちぇっ、せっかく普通のお嬢様っぽさを満喫してたのに」
しのぶはくすっと笑うと、理由を言った。
「まぁ、せっかくだから顔を売りに来たというのも、ある事はあるんだけどね」
「ご冗談でしょう? 今更貴女が顔を売るような必要はないでしょう」
しのぶの言葉を一蹴する紫音。実際、しのぶは財界では有名人だ。若干十六歳の美少女財閥トップという事で、一時期経済誌などでも大きく取り上げられた事がある。
「正直に目的をお話しなさい。今なら怒りませんわ」
紫音に詰め寄られ、しのぶは手を挙げて降参のポーズを示すと、このパーティーに来た真の目的について話した。
「実は、お前の父親に会いたいんだ」
「お父様に?」
紫音は不思議そうな表情をした。何故しのぶが父親に会いたいなどと言い出したのか、理由が見えないからだろう。
「ああ。やはりお前を嫁を貰うにはちゃんと親に挨拶を……冗談だ。そう怖い顔で睨むな」
紫音が殺人的な視線で睨んできたので、しのぶはからかうのを止めて、真面目に話し始めた。
「本当のところを言えば、ちゃんとビジネスの話ではあるんだ……ただ、あまり大っぴらには出来ない類の話なので、こういう場に来たんだ」
これこそ嘘偽りのない本音の用事だったが、紫音の疑わしそうな表情は消える事がなかった。
「大っぴらに出来ない話……怪しいですわね。どういう事ですの?」
しのぶとしては、そこから先の事情を話すのはいろいろと面倒くさいので、出来れば話したくなかった。しかし、言わなければ紫音を納得させられないだろう。しょうがないか、と思った時、穏やかな声が彼女の背後から聞こえてきた。
「紫音、ここにいたのか」
「あ、お父様……」
紫音が笑顔を見せたので、しのぶは後ろを振り返った。そこには六十代くらいと思われる、紫音の父と言うより祖父でも通用しそうな男性が立っていた。
「お友達かね?」
しのぶの方を見て、紫音の父が言った。娘が何か言おうとするより早く、しのぶはお嬢様モードに切り替え、優雅に一礼した。
「初めてお目にかかります。紫音さんのクラスメイトで、勝沼しのぶと申します」
名前を聞いて、紫音の父がおや、というような表情を浮かべた。
「ほう、君が勝沼家の……はじめまして。紫音の父で、勇蔵と申します」
勇蔵は思ったより友好的な態度でしのぶに挨拶した。脈あり、と見たしのぶは、紫音が何か言い出さないうちに、用件を切り出す事にした。
「実は、西九条グループ総裁でもある貴方に、ぜひお話したい事がございます。どこか場所を移す事は出来るでしょうか?」
かなり不躾な要求だったが、勇蔵は鷹揚に頷いた。
「ほう。君のような可愛らしいお嬢さんが私のような老人に何用かな? まぁ、部屋の一つや二つは確保しておるが」
勇蔵が言うと、紫音が抗議の声をあげた。
「お父様、よろしいのですか!?」
その娘の言葉に、勇蔵はくすりと笑い声を立てる。
「おや、何かまずい事でもあるのかな、紫音。君が良く話題にしている友人の話を、私も聞いてみたいぞ」
「ゆ……」
紫音は真っ赤な顔になったが、何も言わずに身を翻すと、逃げるようにパーティー会場に戻って行った。そんな娘を微笑みとともに見送ると、勇蔵はしのぶに言った。
「では、こっちで話そうか」
「あ、はい」
先に立って歩き出した勇蔵の後を追って、しのぶも歩き出した。
二人が向かったのは、休憩用に充てられた部屋の一つだった。
「ここならば、ゆっくり話せるだろう」
そう言ってソファに腰掛ける勇蔵。しのぶも向かいに座る。
「君の事は、娘が良く話しているよ。同級生の事など滅多に話したことがなかったあの娘が、君だけは別だ。余程仲良くしてくれているのだろうね」
「はぁ……そうですね」
しのぶは答えに困った。ファースト・キスを捧げあった仲ではあるが、さすがにそんな事は言えないし、また、だからと言って仲が良い訳ではない……と思う。
「とは言え、君は言ってみれば私たちとは不倶戴天の仲と言われている。それだけの相手にわざわざ話とは、大事な用なのだろうね。話してみなさい」
勇蔵が言葉を続ける。しのぶは頷くと、本題について話し始めた。
やがて、話を聞き終えると、勇蔵はしのぶの顔をじっと見て言った。
「我がグループが、あの事業に少なからず投資をしている事は知っているね? その上で、君の言う通りにして欲しいと言うのかな」
しのぶは臆することなく頷いた。
「はい、その通りです」
そう言ってから、追加の情報を出す。
「実は、ここに来るために富嶽銀行の梅宮頭取に紹介状を戴いたのですが、その時に頭取ともお話をしまして、貴方の同意さえ貰えれば、歩調を取って対処する事も吝かではない、と」
それを聞いて、勇蔵はほう、と感心したような声を漏らした。
「なかなかどうして、手回しが良い。十六歳の女の子とは思えないな。娘にも見習って欲しいものだ」
勇蔵はそう言うと、立ち上がって窓際の方へ歩いて行った。そのまま黙って東京の夜景を見下ろす。考えをまとめているのだろうか、と思ってしのぶがじっと待っていると、数分経って、勇蔵はしのぶの方を振り返った。
「よかろう。あの勝沼家が身内の恥を晒してまで言ってきた事だ。君の頼みを聞こうじゃないか」
その言葉に、しのぶは立ち上がり、勇蔵に頭を下げた。
「ありがとうございます。これで存分に戦えます」
しのぶが言うと、勇蔵は首を横に振った。
「待ちたまえ。私としても、君の要求を呑むのに条件をつけないわけにはいかんよ」
しのぶは頷いた。ただで言うことを聞いてくれる相手はいない。とくに、生き馬の眼を抜くビジネス界では。
「まず、この一件で我々が蒙る損失は、きっちりと補填してもらいたい」
しのぶは黙って頷いた。これはまぁ、仕方のない事だと最初から必要経費に入れている。
「次に……これは君個人へのお願いだが、娘と仲良くしてやってくれ」
「……え?」
意外な言葉にしのぶが頭を上げると、勇蔵は遠い目をして言った。
「紫音は私たち夫婦が歳を取ってから生まれた娘でね。あまりに嬉しかったので、つい甘やかしすぎて、すっかりわがままな娘に育ってしまった」
しのぶは黙ってその独白にも似た言葉を聞いていた。
「これではいかんと思ってはいたのだが、なかなか紫音をしかりつけると言うことも出来なくてね。だが、高等部にあがって君と言う、思い通りにならない相手と知り合ったのが良かったのか、最近はわがままも影を潜めるようになったよ」
(それは猫被ってるだけなんじゃあ……?)
しのぶはそう思ったが、娘の成長をひそかに喜んでいる勇蔵に、そう言う野暮な事はいえなかった。
「だから、君には迷惑かもしれないが、紫音と仲良くしてやって欲しいのだよ。頼めるかね」
しのぶは一瞬考え、すぐに結論を出して頷いた。
「良いですよ。私も、彼女の事は嫌いじゃないですから」
口に出してしまってから、自分の言った事に驚くしのぶ。昔の彼女なら、絶対にこんな事は言わなかっただだろう。しかし、それは決して不愉快な驚きではなかった。
(お互い様……なんだよな。私と紫音は)
しのぶにとっても、紫音は何かと突っかかってくる上に、妙にペースを乱されがちな相手で、決して思い通りに操れる相手ではなかった。彼女に限らず、クラスメイトの全員がある意味でそうだと言えるかもしれない。彼女たちとの付き合いが、自分の狭かった世界をどれだけ広げてくれた事か。
そう思うと、しのぶの方こそ、紫音や彩乃、帆之香、柚流たちに感謝しなくてはならないのかもしれなかった。
(なーんて、絶対に言えないけどね)
そんな事は照れくさくて絶対に言えない。勇蔵と話したことも、紫音には黙っておくつもりだった。
勇蔵との話が終わり、しのぶが会場に戻ると、それを待っていたかのように、紫音がつかつかと歩み寄ってきた。
「勝沼さん、お父様と何を話したんですの?」
余程気になるらしい。しのぶは苦笑を浮かべて言った。
「だからビジネスの話だって。気になるなら、父親に直接聞けば良いじゃないか」
紫音は首を横に振った。
「お父様は仕事の話は家族になさらない方なのよ。だから貴女に聞いてるんじゃありませんの」
「そんな、お前の家の家庭の事情は知らないよ」
しのぶは笑いながら紫音の質問を適当にあしらいつづけた。妙に楽しい気分だった。こういう、なんと言うか曇りも濁りも無い、純粋に楽しい気持ちになった事は、今までの人生で無かったかもしれない。
紫音とじゃれあうようにして過ごすうちに、パーティーの閉会が告げられた。ドレスの上からコートを着込んで会場を出ようとしたしのぶは、同じく帰ろうとしている紫音のほうを向いて言った。
「紫音」
「……なんですの?」
立ち止まって続きを待つ紫音に、しのぶは一瞬迷ったあと、こう言った。
「良いお年を」
「……貴女もね」
紫音はほんの微かに口を笑みの形にすると、父親について去っていった。しのぶはため息をついて、その後ろ姿を見送った。
「良いお年を……か。そうできると良いな」
そう呟くと、しのぶはエレベーターで地下駐車場まで降りた。そこでは側近の3人が待機していた。
「お嬢様、お帰りなさいませ。首尾は如何でした?」
問い掛ける古手川に、しのぶは微笑んで見せた。
「思ったより上手くいったよ。西九条財閥は磯部への資金供与中止に同意した」
「それは重畳」
木戸が笑顔を浮かべる。
「これで、奴らに止めを刺す事が出来ますね」
直人も笑った。しかし、しのぶはそれほど楽観的ではなかった。
「そうでもないさ。経済的には連中を破滅に追い込めても、自棄になったら屋敷にダイナマイトを積んだダンプで突っ込んでくるくらいの事はしかねない奴らだ。ぐうの音も出ないよう、直接討ち滅ぼす必要がある」
「それではお嬢様、やはり……」
木戸が真面目な顔つきになったのを見て、しのぶは頷いた。
「ああ。龍神村に乗り込んで、磯部と直接対決だ」
そう、この聖夜にしのぶがライバル財閥との密談をしてまで整えたのが、五月以来彼女の命を狙い続けている磯部家を、徹底的に滅ぼすためのお膳立てだった。夏に彼女を襲った刺客の治療と洗脳が成功し、一連の襲撃事件の黒幕が磯辺である事が確実になったのである。
普通なら警察に教えれば片がつくところだが、磯部もそれなりの財力と権力の持ち主だ。連中の地元の公権力は、懐柔されていてほとんど当てにならない。ならば、その権力と財力を破壊してやればいい。そのために、しのぶは磯部と取引のある企業や金融機関に働きかけ、密かに経済封鎖戦を仕掛けていた。
そして、その総仕上げが、磯部が今進めている最大の事業……ダム計画を破綻させるため、その事業に関連している西九条家を口説き落とす事だった。
これが成功した以上、磯部家は壊滅したも同然なのだが、これまで一方的に襲撃を受けるだけだったしのぶとしては、その目でどうしても連中が破滅する瞬間を見ないことには、満足できそうも無かった。
と言うわけで、こうして彼女は龍神村……磯部の本拠へと乗り込んできたのだった。
車が峠道を下って村の中心部に入ってくると、所々に小さな看板や幟が立っていた。そのどれにもこう大書してある。
「龍神村を守ろう ダム建設反対」
それを見て、しのぶは感心したように言った。
「確か、この村のほとんどは磯部の土地なんだよな」
「ええ。大きな温泉旅館と神社と診療所、そのくらいでしたかな。自前の土地を持っているのは」
古手川が答える。つまり、そうした看板や幟を掲げている村人たちは、追い出し目的の嫌がらせに耐えてでも、自分たちの生活を守ろうとしているわけだ。圧倒的な力に対して蟷螂の斧にしかならない抵抗かもしれないが、その度胸だけは大したものだ、としのぶは考える。
「その温泉旅館が、どうも私の担任の親戚がやっているらしいんだよな」
しのぶが言うと、ハンドル握る直人がへぇ、世間は狭いですね、と言い、続けて思いついた事を言った。
「それじゃあ、全てが上手くいってその温泉旅館が助かったら、お嬢様は担任に貸しを作れますね。内申点が上がるかもしれませんよ」
「馬鹿言うな。そんな事しなくても、私は十分優等生だ」
後部座席からしのぶは直人の頭を小突いた。
「でもまぁ、担任に紹介状を貰ってきたから、全部が片付いたら、その温泉でゆっくりしていこうか」
しのぶが言うと、車内に歓声が湧いた。
その明るいムードを反映したように、車は軽快に雪を蹴って目的地へ向かう。途中で電柱に突っ込んで大破している医者の車を助けたりもしたが、それは余談である。ともかく、村に入って三十分ほどで、しのぶたちは目的の家の前に到着した。
「ほぉ、小生意気にもでかい家に住んでいますな」
古手川が馬鹿にしたような口調で言う。純和風のその屋敷は、もちろんしのぶの住む勝沼本家邸宅には劣り、土地の安い田舎に建っていることを差し引いても、十分豪邸で通る威容を持っていた。
「なんだ、お前たちは?」
門の前にいた、屈強そうな黒ずくめの男二人が、屋敷の前に止まった車から降りてきた四人を見て近寄ってくる。暴力沙汰に慣れた……と言うより、暴力を生業として生きている人間特有の、荒んだ雰囲気を漂わせている。
「おさがり、下郎」
しのぶは高飛車お嬢様モードで、叩き付けるように言い放った。女の子からきつい言葉を浴びせられ、一瞬戸惑ったように男たちが動きを止める。その戸惑いが怒りに変わる前の一瞬の隙をついて、しのぶは男たちに命令した。
「お前たちの主に取次ぎなさい。勝沼の当主が談判に来たと」
「か、勝沼だって!?」
男たちは驚いた。抗争中の相手、しかもそのトップが直接来たとあっては、驚くのも当然だろう。どうしたものか戸惑う男たちに、木戸がこれまた人に命令する事に慣れた口調で怒鳴りつけた。
「何時まで待たせる気だ、無礼者! 早くしないか!!」
その怒鳴り声に、弾かれたように男たちが邸内に駆け込んでいく。片方を門前に残して見張らせようという配慮すら働かないらしい。
「なっていませんな」
木戸が言うと、しのぶはにやりと笑った。
「そのほうが好都合というものですわ」
テンションを保つため、まだ喋り口調はお嬢様モードのままだ。このモードの時に参考にしているのは、何と言っても紫音のそれである。待つ事数分、さっき門前にいた男の一人が、顔に青あざを作って戻ってきた。たぶん門前での失態を叱責されたのだろう。
「御前がお待ちだ。来い」
顔をしかめて言う男に頷くと、しのぶは部下たちを振り返った。
「じい、直人、木戸。行きましょう」
『ははっ』
三人が素早くしのぶを守るように隊列を整える。そのまま門を潜り、池のある広い庭を横切って玄関にたどり着くと、その老人はいた。
「宗家のお嬢様か……わざわざこんな田舎まで来るとはご苦労なことじゃの」
嘲るような台詞。磯辺の長、権造は写真で見るよりもずっと品の無い、精力だけは有り余っていそうな老人だった。
「勝沼しのぶ、磯辺の家長との談判に参りましたわ。権造さんはご在宅かしら?」
しのぶが敢えて権造の事が判らないかのように要件を告げると、権造は露骨に顔をしかめた。
「ワシがそうじゃ。知らずと尋ねてきたのか」
「あら、そうでしたの。自分から名乗りもしない非礼な方が長とは知りませんでしたわ」
しのぶの言葉を聞いて、権造の額にくっきりと青筋が浮かび上がった。そのまま脳の血管の一本でも切れてくれたら、始末が楽で良いなと思ったしのぶだったが、権造はすんでのところで自制した。
「フン、まぁ良かろう。出がらしの茶くらいはくれてやるから上がるがいい」
そう言い捨てると、ドスドスと廊下を蹴るように歩いて行く。しのぶはまずは精神戦で優位に立ったことを確信して悪人な笑顔を浮かべると、その後に続いた。
応接間に通されると、権造はさっさと上座にドカッと腰を下ろし、腕を組んで四人の招かざる客を見据えた。特にしのぶを見る目は厳しい。その視線で撫でられるたびに、しのぶは猛烈な嫌悪感に襲われた。
古手川もしのぶを好色そうな視線で見ることはある。しかし、そこには一応敬意と賞賛と言った成分も含まれている。だが、権造の視線にはそれがない。まるで、視線だけでしのぶを裸にして舐め回すような、実に気持ちの悪い視線だ。
(く……いやらしい目で見るなクソジジイ)
玄関で確保した精神的な優位を一瞬取り返されそうになったしのぶだったが、幸い権造はそれほど気長に精神戦をするタイプではなかったらしく、しのぶを視姦するのをやめて、横柄な口調で言った。
「で、何の用だ?」
これで一息ついたしのぶは、まだ背筋に残る嫌な感じを追い払うように軽く咳払いをすると、権造の顔をまっすぐ見つめて言った。
「率直に申し上げれば、貴方に引導を渡しに参りましたわ。磯部権造」
それを聞いて、権造は怒り出すかと思いきや、大声で笑い始めた。
「ぶっ……ぐわっはっはっはっは!! 何を言い出すかと思えば、ワシに引導だと? 小娘、宗家の当主だろうがワシを舐めるでないぞ」
権造はそう言うと指を鳴らした。その途端、周囲の襖や障子が一斉に開き、黒ずくめのボディガードたちが現れた。全員が拳銃やブラックジャックと言った剣呑な武器を手にしている。
「のこのこ現れるとは、所詮小娘の浅知恵よ。その程度では慰み者にするほどの価値しかないわい」
圧倒的優位を背景に高笑いする権造。しかし、その笑いは途中から消えていき、代わって不愉快な表情が浮かんだ。なぜなら、しのぶとその側近たちが、全く慌てた様子も無く、余裕の表情だったからだ。
「……小娘、何を考えている?」
権造が聞くと、しのぶはにっこりと笑い、おもむろに携帯電話を取り出した。
「貴方こそ、私を……勝沼の宗家を舐めてもらっては困りますわね。何の策もなしに私がここへ来たとでもお思い?」
しのぶはそう言いながら、ボタンをプッシュし、耳に当てた。
「もしもし? 私よ。例のお客さんは? そう、元気そうね……今代わるわ」
電話の向こうと短く会話をすると、しのぶは権造に携帯電話を放り投げた。
「貴方とどうしても話したい人がいるそうよ」
「何?」
権造は訝りつつも、電話を耳に当て、顔色をさっと変えた。
『ぱ……パパ……助けて……』
「と、俊樹!?」
電話の相手は、権造の息子俊樹だった。権造は真っ赤な顔でしのぶの方を見た。
「き、貴様! 息子に何をした!?」
「あら、落ち着いて。ただ、うちの客になってもらっているだけよ」
しのぶは余裕たっぷりに答えた。磯部家の周辺調査をして、俊樹がこの年末に何やら東京のベイエリアで開かれる大きな祭りに来る事を知ったしのぶは、上京してきた彼を速攻かつ強引に「招待」したのである。
「うちの招待係は優秀よ。貴方の部下みたいに、獲物をいきなりがっつこうとするようなマナーの悪い者はいないわ」
しのぶはもう半年以上前、磯部の部下に襲われ、もう少しで陵辱されそうになった時の事を引き合いに出して皮肉った。しかし、今の権造に、それに応じる余裕はない。
「貴様、今すぐに息子を解放しろ! さもないと……」
「さもないと何かしら?」
しのぶは余裕を崩さない。
「今の貴方が私に何か要求できる立場だと思って? 念のため言っておくけど、もし私にもしもの事があれば……」
しのぶはそこですっと目を細め、決定的な一言を放った。
「貴方、一生江戸前の魚が食べられなくなってよ」
「ぐっ……」
さすがの権造も言葉に詰まった。逆らえば息子は東京湾の魚の餌だと言う事を理解したのだ。それを見て、しのぶは悪党でも子供は可愛いのか、と妙なところで感心した。
(あの肉団子が可愛いとは思えないけど……)
誘拐……もとい、招待してきた俊樹を見た時の事を思い出して、しのぶはため息をついた。一方、権造はわなわなと震えていたが、顔を上げると憎悪に満ちた目でしのぶを睨み付けて来た。
「……何が望みだ」
怒りを抑えて、今のところは交渉で息子を取り返すことを考えているらしい。しかし、しのぶはそんなものに応じる気はさらさら無かった。
「貴方が提供できる程度のものは、私は全部持っていてよ。今更何を貰おうと、私の気が晴れる事は無いわ」
冷酷にそう宣言しておいて、くすりと無邪気ささえ感じさせる笑みを浮かべる。
「でも、貴方にできることが一つだけあるわね。それさえしてくれれば、こちらとしてはもう他に何も望む事は無いわ」
「なんだ、それは?」
身を乗り出す権造を、しのぶは手を上げて制した。
「そう慌てる事は無いわ。 ……そろそろかしら?」
しのぶがそう言ったちょうどその時、屋敷の外で車が止まる音がした。しばらくして、黒服の一人が応接室に入ってきた。
「御前、西九条建設の監督が……」
「何? 今取り込み中だと言え」
新たな来客に不愉快そうな表情を見せた権造に、しのぶが言った。
「いいえ。その人にも同席してもらうわ。この件と無関係ではないから」
「なんだと?」
権造はしのぶの言葉に訳がわからん、と言いたげな表情をしたが、今ここでしのぶに逆らう事は出来ない。黒服たちを下がらせ、西九条建設の監督を招き入れた。その恰幅の良い男性は、応接室に入ってくるなり、挨拶もそこそこに本題を切り出した。
「磯部さん、残念ですが、当社は貴方との契約を破棄して、ダム建設より全面的に撤退する事を決定しました」
一瞬ぽかんとした権造だったが、見る間に憤怒の表情になると、監督に詰め寄った。
「どう言う事じゃ! 納得の行く説明をしてもらおうか!!」
肝の小さい人間なら震え上がるような一喝だったが、そこは監督も人の上に立つ人間。怯むことなく静かな口調で答えた。
「残念ながら、私には上の決定を伝える事しかできんのですよ。申し訳ありませんが、これにて失礼」
監督は本当に決定だけを伝えに来たらしく、とっとと帰ってしまった。呆然としていた権造だったが、しのぶの方を振り向くと、地鳴りのような声で言った。
「こ、小娘……まさか貴様が……」
「大当たり」
しのぶはものすごく楽しそうに答えた。
「西九条と手を結べば、勝沼グループの干渉を排除して力を蓄えられるだろう、と考えたのは良い目の付け所だったわね……でも、もう勝沼と西九条が対立する時代は終わったのよ」
しのぶは立ち上がって、自分より背の低い権造を見下ろすようにすると、右手を開き、親指を折った。
「今のは、貴方を追い込むために打った布石の一つでしかないわ。他にも富嶽銀行に手を回して、貴方への融資を取りやめにさせたし、日照物産からの融資も同じ。マスコミ関係には貴方の悪事の一部始終を送付済みで、水無瀬環境大臣にも同じものを送っておいたわ。確か、水無瀬大臣は、ダム反対派のここの県知事と懇意にしていたわね」
しのぶが指を折るたびに、権造の顔が蒼白になっていく。密かに勝沼家を裏から牛耳るために巡らせていた計画の全てが、しのぶに叩き潰されていた事を、彼はようやく悟ったのである。
「き、貴様は……何と言う……」
搾り出すような権造の声に、しのぶはとびっきりの笑顔で答えた。
「そう……悪党よ。それも大悪党。それが勝沼の当主と言う事。貴方も筋は良かったけど、勝沼家に楯突こうなんて一万年早くてよ」
喋るたびに顔色を変える権造を見ながら、しのぶは高飛車お嬢様喋りは、実に効果的な挑発になると感心していた。参考にした紫音に心の中で感謝しつつ、彼女はとどめの一言を放った。
「そういうわけで……無様に破滅するところを見せていただこうかしら? 貴方に出来る事はもうそれだけよ」
その言葉を聞いた瞬間、権造の中で何かが切れたらしい。
「ぐ、ぐぐぐ……グキイイイイィィィィィィィッッ!!」
理性を失い、狂乱した表情でしのぶに飛び掛る権造。しかし、次の瞬間、しのぶの手が一閃し、強烈な平手打ちを彼の顔に見舞っていた。
「ぐがっ!?」
弾き飛ばされ、床に転がる権造。その目は虚ろで、もう何も映してはいない。
「壊れましたかな」
古手川が何処からか持ってきた木の枝で、権造の身体をつつく。もちろん反応はない。
「……放っておけ。そいつが正気を取り戻そうと、そのままだろうと、終わっている事に変わりはないよ」
言葉遣いを戻して、しのぶは踵を返した。三人も後に続く。玄関に行く途中で「ご、御前が!」と言う叫びと共に屋敷の中が大騒ぎになったが、しのぶたちは放って置いて外へ出た。
そこへ、さらに大騒ぎの元となる存在がやってきた。県警のパトカー、十数台である。金も権力もなくなった悪党に味方する酔狂な奴はいない。権造が破滅したと知って、それまでその権力の前に雌伏していた警察が乗り出したのだろう。彼らは門前にてんでに止まると、先頭の一台から出てきた刑事の指揮の元、屋敷の中に突入していった。
「おら、新米! 急げ! 奴らが逃げちまうだろ!?」
「僕は新米じゃなくて矢部ですってば、唐墨さん」
刑事たちの会話を聞きながら、しのぶたちは車に乗り込んだ。もうここには用はない。
「終わりましたね、お嬢様」
「ああ、全くだな」
直人が車を発進させながら言うのに答えて、しのぶは言った。
「それにしても、あの叔父さんの言ってた事は確かだったな……」
しのぶに学校行きを薦めた叔父は、その理由として、級友同士の人間関係やコネの形成を重視していた。その時は鼻で笑っていたしのぶだが、今回の一件でその正しさを思い知らされた。
磯辺潰しに協力を依頼した富嶽銀行は柚流の父が頭取を務める銀行、日照物産は彩乃の父が社長をしている会社だ。マスコミ関係では礼菜やせりかに関係者を紹介してもらったし、水無瀬環境大臣はクラスメイトの水無瀬流花の父親である。もちろん西九条財閥のことは言うまでもない。
「しかし、あのじじいは見苦しかったですな。同じじじいとして恥ずかしいですわい」
古手川がそう溜息をつきながら言うと、しのぶは首を横に振った。
「そう言うな。私だって……一歩間違っていればああなっていたかもしれん」
自分と対等の存在がいない世界。そこに住んでいれば、人間はいくらでも増長し、見苦しくなれる。過去のしのぶ……紳一が、まさにそういう存在だった。自分は無謬で万能だと考え、それに疑問すら抱かなかった。今思えば恐ろしい事だ。
「よろしいじゃありませんか。お嬢様はそこから抜け出したのですから」
木戸が言うと、しのぶは安心したように微笑んだ。
「ありがとう、木戸。……そうだな。別に私だって、似合いもしない善人になったわけじゃない。悪人をより凶悪な手段で叩き伏せただけだ」
すると、直人が大いに頷いた。
「そうですね。じじいを追い詰めているお嬢様は、活き活きとして輝いてましたよ」
「はははは」
しのぶは大笑いをして、直人の肩を叩いた。
「よし、それでは約束通り、温泉でのんびりとするか」
「御意!」
直人のおどけたような返事と共に、車は方向を変えて、温泉旅館の方向へと向かっていく。その方向は、一つの悪の滅びを祝ってか、空も晴れ晴れとしていた。
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