悪夢でも絶望でもない話


九月の章 鬱な季節のお嬢様


 しとしとしとしと……と鬱陶しく雨が降り続いている。窓の外に広がる都心の風景も、雨に煙っていて良く見えない。
 ここは勝沼財閥の中枢である持株会社、勝沼ホールディングスの本社ビル最上階にある社長室だ。現在の持ち主は、もちろん当主であるしのぶその人である。
「…と言うわけで、先日の刺客ですが、顎が砕かれていて喋る事が出来ない上に、何か非常に怯えた態度でして……長期の心身におけるリハビリが完了しない事には、情報源としては期待できないものと思います。今後も奴の療養を続けるかどうか、御裁可を……」
 夏休みに合宿中のしのぶを襲撃した謎の犯人について、主人の判断を仰ぐためにやってきた木戸だったが、しのぶがどこかぼうっとした表情で窓の外を見ているのに気が付き、言葉を止めた。待つ事しばし、しのぶの態度に変化がないと見て取った木戸は、思い切って声をかけた。
「お嬢様、聞こえていますか?」
「……ん? ああ、済まない。なんだったっけ?」
 しのぶが我に返ったように木戸の方を見る。その表情が何処か冴えないのを見て、木戸は話を本題に戻す前に尋ねた。
「お嬢様、お気分でも悪いのですか?」
 しのぶは一瞬頷きかけ、それから慌てたように首を横に振った。
「ん……いや、何でもない。大した事は無いんだ。たぶん天気のせいだろう」
 木戸は窓の外を見た。今年はあまり残暑が厳しくなく、その代わり早くから発達した秋雨前線が日本列島周辺に居座って、長雨をもたらしている。
「今日で、降り始めから三日目くらいのはずでしたかな。確かにあまり気分を浮き立たせるような天候ではないですね」
 木戸が言うと、しのぶは気合を入れるように渋めに淹れたお茶を飲み干し、執務机の上に置いた。
「とは言っても、天気が悪いからと言ってサボれはしないからな。済まんが木戸、もう一度報告を頼む」
「承知しました」
 木戸は主の命に従い、件の刺客の現状を再度伝えた。しのぶはしばらく考え込んでいたが、背筋を伸ばして決定を下した。
「良いだろう。治してやれ。今のところ、黒幕の正体に近づく手札はアレしかないからな。その代わり、こちらに忠誠心が向くように刷り込むのを忘れるなよ」
「かしこまりました」
 木戸は頷いて決定を受け入れた。それから、仕事の続きをするために社長室を辞しようとする。すると、しのぶはただ今のやり取りだけで疲れ切ったかのように、机に体重を預けてため息をついていた。
(どうしたんだろうな、お嬢様は……)
 思い当たる節がないまま、木戸はしのぶのもとを辞去した。
 
 
 翌日も雨だった。二学期を迎えた聖エクセレント女学院も、例外なく降り注ぐ秋雨に濡らされている。残暑が厳しくないとは言え、空気がそのまま液体になってしまったかのような、濃密な湿気が辺りを満たしていた。
 とは言っても、それは外の話。全館空調のしっかり入った聖エクセレント女学院の校舎内は、玄関など一部を除き、ほぼ完全に快適な気温と湿度を保った環境が保持されている。何しろ、各界の名家から預かった選り抜きのお嬢様たちを預かるだけに、彼女たちが体調を崩すような要素は、極力排除されている。
 にもかかわらず、しのぶはこの日もなんとなく調子が悪かった。身体に違和感があり、集中力が出ない。
(うーむ……何か変だな。やはり天気のせいか?)
 本調子の出ない理由を、この鬱陶しい天候に求めて窓の外を見ていると、不意に声をかけられた。
「勝沼さん、先生の話を聞いていますか?」
 しのぶが顔を上げると、目の前にスタイル抜群の長身の女性が立っていた。数学教師の北里しぐれである。この学校は生徒も教師も美形が多いが、しぐれはその中でも「神々しい」と言った方が良いくらいの美女で、生徒たちの人気も高い。
「いえ……すみません」
 しのぶは素直に謝った。すると、しぐれは何か驚いたような表情で硬直した。
「……何か?」
 しのぶがその不審な様子を気に留めて聞くと、しぐれは金縛り状態から脱した。
「あ……いえ、何でもないです。次からはちゃんと話を聞くように」
 しぐれは教壇に戻って行った。しかし、彼女もまた他の生徒たちも、驚きの表情を隠せないでいた。何しろ、しのぶと言えば天上天下唯我独尊、絶対無敵傲岸不遜と言う性格。人に謝ることなどほとんど無いし、そもそもそんな隙を作るような可愛げのあるキャラではない。それが素直に謝ったとなれば……
(なるほど、それで雨が降っているんですわね。明日は暴風雨かしら?)
 紫音などは自分のことを棚に上げてそう考えていた。
(そう言えば、なんだか調子が悪そうな……)
 素直に心配したのは帆之香である。
「勝沼さん、身体大丈夫? 次体育の時間だし、辛かったら休んだ方が……」
 そっと話し掛けてくる帆之香に、しのぶは首を横に振って答えた。
「大丈夫だ。たいした事は無い」
「でも……」
 なおも心配そうな表情を向ける帆之香に、しのぶは笑顔を見せた。
「本当に大丈夫だ。心配するな」
 普通なら、それで十分に帆之香を安心させる事ができただろう。しかし、今回帆之香を安心させる事はできなかった。
 なぜなら、そこまでしつこく聞かれた場合、普段のしのぶなら怒り出すはずであって、絶対に笑顔を見せたりはしない。彼女の笑みは、逆に帆之香にしのぶの変調を確信させたのである。
 
 
 体育の時間になった。雨が降っているので、この日の授業は本来予定されていたプールではなく、体育館で行う事になった。
「よーし、今日は何がしたい? 言ってみろ」
 体育教師の翔平が声を張り上げる。予定が変わったので、希望の多いスポーツをするのだ。
「はーい。ボクはバレーが良いでーす」
 真っ先に手を上げたのは、クラス随一……と言うより唯一の体力派、彩乃だった。手を上げてるのも彼女が唯一である。
「バレーか。他に希望は無いな? ではそうしよう」
 翔平の指示により、バレー部員を中心にしてコートが準備される。その後のチーム分けは、自然と一学期にミニハンドボールをやった時と同じように分かれた。
「それじゃ頑張ろうねー」
 彩乃が張り切った調子で掛け声をかけるが、しのぶは他の少女たちが「おー」と言いながら腕を上げたのに対し、黙って頷いただけだった。
「しのぶちゃん、大丈夫? なんか元気が無いんじゃない?」
 彩乃が言ったが、しのぶは「そんな事無い」と答えただけだった。
 その、帆之香や彩乃に言った「大丈夫」という言葉が単なる強がりだった事は、試合になってみると明らかだった。反射神経や瞬発力に関しては並みよりは良い筈のしのぶが、ボールを追いきれない。それだけでなく、サーブを打っても、変な方向に飛んでいくか、もしくはネットに当たって味方コートに落ちるといった体たらくで、完全に大ブレーキになっていた。たまらずタイムを取った柚流が、しのぶのところに寄って来て言った。
「勝沼さん、あまり無理しないで。今日のあなたは、明らかに変よ。もし具合が悪いのなら、保健室までついていくから」
 親身になった言葉だった。さらに、翔平も様子がおかしい事を悟ったのか、やはり側にやってきた。
「勝沼、体調を見極めるのも体育のうちだ。無理に授業を受ける事は無いぞ」
 彩乃や帆之香も休む事を薦めてくる。とどめにひなにまで「しのぶおねえちゃん……辛そうなの」とまで言われては、さすがのしのぶも我を張り通すことは出来なかった。
「わかった……少し休ませてもらう」
 そう言うと、彼女は体育館の壁際に座り込んだ。背中を壁に預けると、どっと疲労が押し寄せてくる。
(熱っぽいと言う事も無いのに……身体が重い)
 何か重苦しいものが、身体の芯に食い入っているような気がする。しのぶはそっとお腹を押さえた。そこへ紫音がやってくる。
「勝沼さんがそんな風にしてるなんて、珍しいですわね。鬼の霍乱というのはこの事ですかしら?」
 からかうような口調で言う紫音。しのぶはため息をついて答えた。
「そうでもない。これでも昔は結構病弱な方だったんだぞ」
「貴女が? 意外ですわね」
 紫音は虚を突かれたように言った。その事を詳しく聞こうと発言を促そうとして、紫音はしのぶの異常に気が付いた。彼女は何か悪い物でも見たような呆然とした表情で、視線も定まっていなかった。
「ちょっと、勝沼さん!? 大丈夫ですの!?」
 紫音が肩を掴んで数回揺すぶると、しのぶは我に返った。しかし、その顔色は蝋のように白い。
「あ、ああ……悪い。大丈夫だ」
 しのぶは言ったが、その時には紫音の叫びを聞きつけて、他の生徒や翔平たちが集まってきていた。
「とても大丈夫には見えませんわよ。素直に休んだ方がよろしいんじゃなくて?」
 紫音が言うと、翔平もさっきより強い調子で言った。
「勝沼、お前は今日は授業に出なくても良い。欠席もつけない。素直に保健室へ行って休め。他の先生方には、俺から言っておく」
 文句のつけようがない提案だったが、しのぶは駄々っ子のように首を横に振った。
「いや……私は大丈夫……」
「ダメだ。全くしょうがない奴だな。梅宮」
「はい、なんでしょう?」
 翔平に呼ばれた柚流が一歩前に進み出てくる。
「俺は勝沼を保健室へ連れて行く。その間の監督はお前に任せる。良いか?」
「はい、先生」
 柚流の返事を受けて、翔平はしのぶの身体を抱き上げた。俗にいう「お姫様抱っこ」である。
「な、何をするんだ、この安月給! 離せ……」
 しのぶは抵抗したが、ただでさえ体格差があり、体力も比べ物にならない翔平を振り払うなど無理な話である。
「こら、じっとしてろ」
 翔平はしのぶを抱きかかえたまま、体育館の外に出た。渡り廊下を経て保健室へ向かう。そこにもじとじとと降り続く雨が吹き込んでいて、少し滑りやすくなっていた。仕方なく、しのぶは大人しく翔平に抱えられるままになっていた。


「……特に熱はないようだが、顔色が良くないな。少し休んでいけ」
 しのぶの口から抜き取った体温計を見ながら、芽依子が言った。
「いえ、私は……」
 身体を起こそうとするしのぶを、芽依子が細腕に似合わない、意外に強い力で強引に押さえつけて、ベッドに寝かせる。
「良いから休んでいろ。体力を過信して無理をすると、ろくな事にならないぞ、良いな?」
「……はい」
 しのぶは諦めてベッドに横たわった。何故かわからないが、芽依子には逆らいがたいものを感じるのだった。悪霊が退魔師に会うと、こういう感覚を受けるのかもしれない。
「……ということだ。翔平、もう十分だろう。授業に戻れよ」
「ああ、後は頼んだ」
 結果が出るまで待っていた翔平が、保健室を出て行く気配がする。芽依子の事を信頼しきっているのだ。彼はこの美貌の保険医に惚れているようだが、芽依子の側でそれに応えたと言う話は聞かない。この「友達以上恋人未満」な二人がいつくっつくのか、恋に恋するお年頃の生徒たちの間では、密かなウォッチ対象となっている。
 とは言え、それはしのぶにはあまり関心のない事柄だ。彼女の関心は目下、自分の体調に向けられていた。
(あまり考えたくない事だが……)
 真っ白い天井を見上げながら、しのぶは考える。その思考は検討したくなかった一つの絶対的な恐怖に結びついていた。
(まさか、病気が再発したんじゃないだろうな?)
 それは、しのぶが一番恐れていた事だった。
 次第に重くなっていく身体。萎えていく筋肉。絶え間なく続く微熱が体力を削り取り、時として発作に襲われては、血の混じった咳を繰り返す。治療法もなく、正確な病名さえ良くわからない。
 それが、しのぶ……勝沼紳一に取り付いた業病だった。今は熱はない。発作もない。しかし、今感じている気怠さは、あの暗黒の日々に感じていたそれと同じ物のように思えてならない。
(冗談じゃない。私は……完治したはずだ。病気なんかじゃない)
 しのぶは自分にそう言い聞かせた。病気なんかじゃない。だから、授業にだって出られるし、バレーだってできるはず。自分は健康なのだから。
 彼女が無理にでも身体を動かしつづけたのは、自分は健康であると思い込みたい、その一心からだった。
 しかし、芽依子に寝かしつけられた今、彼女の身体は意思を裏切って動かせなくなっていた。不調なのに無理をし続けたせいか、身体中に疲労が重く溜まっている。
(そうか……ちょっと疲れているだけなんだな。なら、寝るのは問題ない……そうだよな)
 あくまでも疲れているだけで、病気ではない。そう自分をごまかし、しのぶは急激に襲ってきた睡魔に身を委ねていった。
 
 
 気が付くと、白かったはずの天井が淡いオレンジに染まっていた。
「……あれ?」
 不思議そうな声を上げるしのぶに、芽依子が呆れたような口調で声を掛けてきた。
「あれ、ではないぞ。全く良く寝ていたな。もう夕方だぞ」
 壁にかけられた時計を見ると、時刻は間もなく六時を指そうとしていた。いつのまにか雨雲は去ってしまったらしく、空は夕焼けに染まっている。
「……ご迷惑をお掛けしました」
 しのぶは夕焼けの光だけでない赤色に顔を染め、芽依子にお辞儀をした。
「人のことは言えないが、お前がそう言うしおらしい態度を見せるのは、ちょっとした驚きだな」
 芽依子は苦笑した。そして、真面目な顔に戻って尋ねた。
「気分はどうだ?」
 しのぶは上半身を起こし、腕をくるくると回してみた。完全復調とは言えないが、ここに担ぎ込まれる寸前ほどのだるさはない。睡眠を取った効果が少しはあったようだ。
「悪くはないです」
 しのぶが言うと、芽依子は首を傾げた。
「微妙な言い方だな……まぁ、良かろう。表にお前の部下たちが待ってる。気をつけて帰れよ」
「はい」
 しのぶは頷いて、ベッドを降りた。もう一度芽依子に礼を言って保健室の外へ出る。荷物を取りに教室へ行こうと考えた時、すっとんきょうな声が上がった。
「お嬢様〜〜! ご無事ですか〜〜〜!!」
 こんな声を出す人間は一人しかいない。しのぶは顔を上げ、声のした方向に予想通りの人物を見出した。
「じいか。ご苦労。見てのとおり大丈夫だ。そう心配するな」
 しのぶの言葉に、古手川は安堵のため息をついた。
「そうでございますか。安心いたしましたぞ。もしお嬢様に万が一のことがあったら、ワシはもう生きていく希望を失ってしまいます」
 そう言って、古手川はハンカチで涙を拭う仕草をして見せた。
「大げさな奴だな。それより、教室に荷物を取りに行かねばならん。少し待っていろ」
 しのぶが苦笑しながら言うと、何時の間に近くにきていたのか、木戸がすっと出現した。
「必要ありません。御学友の方から、荷物は預かっております」
 彼の手にはしのぶの制服と鞄があった。
「手際が良いな。それでも着替える手間はいるんだが」
 しのぶが言うと、古手川がぶんぶんと首を横に振った。
「お嬢様、お疲れでしょうから、一刻も早く帰る事にしましょう。車の中ですから、制服姿でなくとも問題はございませぬ」
 その古手川の言葉に、しのぶは何か引っかかるものを感じたが、すぐに頷いた。
「そうだな……この時間では更衣室も閉まっているし、帰るとしよう」
『ははっ』
 古手川と木戸は主の言葉に賛意を示した。二人を連れて車の所へ行くと、ボンネットにもたれてタバコを吸っていた直人が、驚いたような表情をした。
「……」
 そのまま凝固している直人。不審に思ったしのぶは声をかけた。
「おい、直人? どうした?」
 下から上目遣いに覗き込むと、呆けていた彼は再起動し、慌ててしのぶに頭を下げた。
「こ、これは失礼しました。ご無事な姿に思わず感動を……」
 しのぶは呆れた表情になった。
「お前もいい加減大げさだな。ところで、タバコが燃え尽きそうだぞ?」
「え? ぬわっちゃーっっ!?」
 何時の間にか摘んでいた指を焦がしかねないほどになっていたタバコを、直人は慌てて投げ捨てた。
 若干のアクシデントはあったが、しのぶを乗せた車は無事に学校を後にした。しのぶの向かいに座った古手川は、終始楽しそうだった。その態度に不信感を持ったしのぶは聞いてみた。
「じい、なんか妙に楽しそうだな?」
 古手川は満面の笑みで頷いた。
「はい、お嬢様がお元気そうで何よりだと思いましてな」
「ふぅん……」
 当り障りのない答えにもしのぶは満足せず、古手川の様子を観察していた。そして、あることに気付いた。
「じい、お前はブルマ派だったんじゃないのか?」
 しのぶの言葉に、古手川は相変わらず満面の笑みを浮かべたまま頷いた。
「もちろんでございます。しかし、スパッツというのも悪くないですな。太ももに黒い布がぴっちり張り付いているというのは、なかなかにそそる……」
 着替えていない以上、しのぶは体操服のままで、そのすらりとした脚線美は、余すところなく古手川の目に収められている。直人をも硬直させずにはいられない魅惑の眺めだ。
「いや、あの……」
 古手川は失言に気付いて弁解しようとしたが、後の祭りだった。向かいに座っているしのぶの目に、溶鉱炉にも似た熱い炎が宿っている。直後に襲ってくるであろう、激痛とそれ以上の快感をもたらす打撃に備え、古手川は身を硬くした。しかし。
「この万年発情エロジジイが……あまり見るな」
 そう言っただけで、大儀そうに息をつくと、しのぶは目を閉じた。そのまま寝息を立て始める。古手川は隣に座っていた木戸と顔を見合わせた。
「やはり……本調子ではないんじゃろうか?」
「そうみたいだな。何時ものお嬢様なら、今ごろ爺さんはお空のお星様だ」
 古手川の疑問に頷いて、木戸は数日前の報告時のしのぶを思い出した。
「どうも最近お疲れ気味のようだったしな……まぁ、無理もない。学業の傍らで、勝沼グループ五十万の重みを背負っておられるんだ。その重みを、俺たちも少しは引き受けねばな」
 木戸はしのぶ(紳一)のボディガードだが、病気で床から起きられない主の名代として経営会議に名を連ねていた身分でもあり、巨大財閥を己の裁量で動かす事の重みを知っている。今はしのぶが自分で経営に参加しているが、きっとそれは彼女にとって想像以上のプレッシャーだろう。
 側近として、主の背負う重荷を少しでも軽くしてやらねばなるまい。そう決意を新たにした木戸だったが、古手川は別のことを考えていたようだった。
「うーむ……体操服でお眠りになるお嬢様……お美しい。まさに芸術品じゃわい。どうじゃ直人よ。見たかろう。お主はスパッツ派じゃからのう。どうじゃ、うりうり」
「くっ……人が運転に専念しなきゃいかんのを良いことに……! じいさん、テメェ後で覚えてろよ」
「人の話聞けよお前ら」


 翌朝の目覚めは、あまり心地のいいものではなかった。窓からは昨日と打って変わって明るい日の光が差し込んでいるが、気分は爽やかとは程遠い。
「……だるい……」
 上半身を起こしてしのぶは呟いた。夕べは夜更かしをせず……そもそもする気力もなく、早々に寝たのだが、昨日保健室での目覚めとは違って、体調は好転していなかった。それどころか、お腹の辺りに鈍い痛みまで感じられる。
「熱は……やっぱり無いな。うぅ、何なんだ……」
 体温計をケースに戻すと、常備薬ケースから痛み止めを取り出し、ミネラルウォーターで流し込んだ。
「そう言えば、薬を使うのも随分久しぶりだな……って、ダメだダメだ。私は健康体だ」
 意のままにならない身体に鞭を打って、しのぶはベッドから起き上がった。今自分が病気である事を認めたら、もう二度と起き上がれないような気がした。
 しかし、そんな無理を回りの人間が気付かないはずが無い。
「お嬢様……今日は学校を休まれた方がいいのではありませんか?」
 昨日の車中ではしのぶを愛でる余裕があった古手川も、今朝の青い顔をしたしのぶの様子には、さすがにただならぬものを感じたらしい。そんな事を言ってきた。
「必要ない。私の身体は私が一番知っている。学校には行くぞ」
 病欠を薦める古手川の言葉を、しのぶは一言で切って捨てた。
「しかし、あまり無理をなされては」
「俺もじいさんやおっさんの言う事が正しいと思います」
 木戸と直人も翻意を薦める。しかし、そうされればされるほど、しのぶは頑なになった。ついに怒りを爆発させる。
「うるさい! お前たちは私の命令に従っていれば良いんだ! 私が学校に行くといったら、お前たちは黙って送れば良い。これ以上差し出口を叩くな!!」
 しのぶの怒声に、三人は黙り込んだ。心の中ではしのぶを止めるべきだ、と思っているが、かといって主の命令には逆らえない。困った挙句、古手川が代表して言った。
「わかりました……ただし、何かありましたら、すぐに電話なり何なりで連絡してください。直ちに駆けつけますゆえ……」
 しのぶは頷いた。彼女としても三人が自分を心配して言ってくれているのはわかっていたので、つい怒鳴りつけてしまった事を悪いと思っていた。それを言い出せるほどに彼女は素直ではなかったが。気まずい空気を振り払うように、しのぶは言った。
「わかった。それより、早く行こう」
 鞄を手に取るしのぶに、古手川が疑問の声をあげる。
「朝食はどうなさるので?」
「……そうだな、紅茶だけもらおう。あまり食欲が無い」
 しのぶは気持ちを落ち着けて席についた。しかし、彼女が元気がないのは他の使用人にも伝染していた。シェフも腕によりをかけた朝食が食べられないと知って、無念そうな表情を浮かべている。勝沼邸は沈滞した空気の中にあった。
 
 
 学校に行く車の中でも、しのぶは出来るだけ体力を回復しようと睡眠を取るようにした。しかし、学校に着いたときには、謎の腹痛は少しずつ強さを増しているようだった。刺すような強い痛みでもないので、辛うじて我慢はできているが、手でお腹をさすって温めてもやわらがない。
「それでは放課後に。どうかお気をつけて……」
「ああ」
 古手川に送られ、しのぶは玄関に入った。
「しのぶちゃん、おはよう〜って、なんだか昨日より具合が悪そうだけど、大丈夫なの?」
 出会った彩乃が聞いてくる。しのぶは苛立ちを覚えつつも、勤めて冷静さを保ちつつ答えた。
「大丈夫だ。まったく……人をよってたかって病人扱いしようとするのは止めて欲しいな」
 さすがに能天気な彩乃でも、しのぶの「大丈夫」を額面どおりに受け取る事はしなかった。心配そうな目でじっと様子を見ている。しのぶはその視線を無視し、いつも通りに……実際はのろのろと上履きに履き替え、教室に向けて歩き出した。
 そして、授業が始まった。幸いな事に、今日は体育の授業は無く、せいぜい理科の時に教室を移動するくらいで、しのぶはじっと椅子に座っていられた。しかし、それが体調にいい影響を与えると言う事は無く、逆に悪化の一途を辿っていた。
(お腹……痛い……)
 腹痛は酷くなっていく。かつての紳一時代には無かった症状だった。全く未体験の痛みだけに、我慢するのもそろそろ限界に近い。授業など欠片も耳に入らない。
「それでは、次のところを誰に読んでもらいましょうか……そうですね、勝沼さん」
 香織が教科書の朗読をしのぶに当てた。しかし、彼女はそれに全く気付かなかった。
「勝沼さん? どうしたの?」
 香織が何度も名前を呼ぶ。教室のざわめきが大きくなっていく。この時にはさすがにしのぶも騒ぎの元が自分だと気付いてはいたが、返事をする余裕すらなくなっていた。顔は真っ青になり、脂汗が滲んでいる。香織は一目見てこれはマズいと判断した。
「保健室に行った方が良いわね。二階堂さん、付き添いをお願いできるかしら?」
「は、はいっ」
 指名された帆之香が立ち上がると、しのぶの腕を取った。
「勝沼さん、立てる?」
 しのぶは辛うじて頷き、帆之香の肩を借りて立ち上がった。重い身体を引きずるように、まだざわざわとしている教室を後にする。さすがにもう強がりを言っている場合ではなかった。
「あとちょっとだから、頑張ってね」
 帆之香に励まされ、亀のように遅い歩みながら、しのぶは保健室に向かっていく。その途中で、下腹部に痛みだけでない違和感を覚え、しのぶは立ち止まった。
「どうしたの? 歩けないなら、芽依子先生を呼んで来ようか?」
 しのぶはふるふると首を横に振ると、行きたい所を指差した。
「トイレに行きたいのね? わかった、頑張って」
 察しの良い友のおかげで、なんとかしのぶはトイレに辿り付いた。個室に入り、へたり込むように座る。そして、彼女は「それ」を見た。
「う、うわあああぁぁぁぁぁぁぁっっ!?」
 しのぶは思わず叫んでいた。それが聞こえたのか、帆之香が飛び込んでくる。
「どうしたの、勝沼さんっ! 何があったの!?」
 しのぶの入っている個室のドアをノックしながら帆之香が叫ぶ。しのぶは弱々しい声で答えた。
「ほ、帆之香ぁ……私は……私は……もうダメかもしれない……」
 鮮血で真っ赤になった便器を見下ろしながら、しのぶは意識が遠くなるのを感じていた。
 
 
 ベッドで小さくなっているしのぶを見ながら、芽依子はふぅ、とため息をつくと、声をかけた。
「少しは落ち着いたか?」
「……はい、もう大丈夫です」
 しのぶは真っ赤な顔で答えた。芽依子は再び呆れたようにため息をつくと、ベッドの横の丸椅子に腰掛ける。
「まったく、昨日からの大騒ぎが何てオチだ。呆れるわ」
 そう言いつつ、芽依子は棚から取り出してきたものをしのぶの前に並べる。手のひらに乗るくらいの、ふわっとしたビニールの包みだ。
「使い方はわかるな? 一応ここに図解も載っているが……」
「……はい、大丈夫です」
 しのぶは答えた。既に同じものが彼女の今穿いているショーツの中に仕込まれている。俗に言うナプキンと言うものだった。
 しのぶを襲っていた謎の体調不良。それは、女の子なら決して避けては通れないもの、生理だったのである。しかしながら、彼女にとって、それは言葉としては知っていただけのもの。生まれながらの女性でも、初めての生理の時にはショックを受けると言うのに、元男のしのぶがパニックを起こすのも無理は無い。混乱した挙句失神した彼女は、急を聞いて駆けつけた芽依子によって保健室に担ぎこまれたのだった。
「私も長い事保険医などやっているが、十六歳にもなってやっと初潮が来た、なんてのは初耳だぞ。しかもそんな良い身体をしておいて」
 芽依子は決して貧弱な体つきと言うわけではないが、スタイルはしのぶには負ける。
「はぁ……つい最近こんな風になったもので」
 しのぶは答えた。まぁ、半年前までは生理などなりたくてもなれない男の身体だったので、間違った答えではない。
「む、そうか……まぁ良い。一応痛み止めやむかつきを抑える薬を処方しておいたから、必要に応じて飲め」
 芽依子は生理用品の入ったビニールの横に薬の包みを置いた。それを見て、しのぶは重苦しいため息をついた。
「はぁ……これから毎月こんな目に会うのか……女の身体って面倒くさいものだな」
「そうぼやくな。いずれ慣れる。私も最初は辛かったもんだ」
 芽依子はしのぶのぼやきに答え、目の前に湯呑みを差し出してきた。立ちのぼる香りからすると、梅昆布茶らしい。
「飲め。少しは落ち着くぞ」
「ありがとうございます」
 しのぶは梅昆布茶をすすった。確かに、気分は少し落ち着いた。体調も良くなっている。ただ、しのぶにはこれから片付けなければならない大きな問題があった。それをこなすには梅昆布茶だけでは精神安定剤が足りない。
 事情を部下やクラスメイトたちに説明するのに、どうしたら良いか、と言う事である。
 
 
 いい思案が思い浮かばないまま、しのぶは教室に帰って来た。それを見つけたのは、目ざとさNo.1の彩乃だった。
「あっ、しのぶちゃん!」
 彼女の声と共に、クラスメイトたちが駆け寄ってくる。さっきまでのしのぶの様子がただ事で無かっただけに、みんな心配していたようだ。
「しのぶおねえちゃん、もう大丈夫なの?」
 ひなが聞いてくる。しのぶは帆之香を見た。すると、彼女は首を横にふるふると振った。どうやら、帆之香はしのぶの事について何も説明しなかったようだ。
 まぁ、ひどい生理痛だったなどと言われるのは恥ずかしいので、その処置には感謝すべきだろう。しのぶは帆之香に目で礼を言うと、殊更明るく言った。
「何でもないんだ。ちょっと最近疲労気味で、それが出ただけだ」
 さすがにこの言い訳は白々しかった。
「本当に? ただ疲れていただけには見えなかったけど……」
「本当だ本当。信じろ」
 柚流の問いにしのぶはそう言うと、手を振り上げて群集を追い払おうとした。その瞬間、ぽすぽすっという間抜けな軽い音と共に、彼女の足元に何かが転がった。
「ん?」
 紫音がそれを素早く拾い上げ、正体を確かめて、何ともいえない気まずい表情になる。柚流や文、その他の生徒たちも同様だ。
「まぁ……アレの時の重さには個人差がありますものね」
 紫音はそう言うと、拾ったもの……しのぶの落としたナプキンを彼女の手に握らせた。しのぶは真っ赤な顔で口をパクパクさせているが、言葉が出てこない。そして、他の少女たちはしのぶを温かい目で見守っていた。
 
 
「くそー……大恥かいた……」
 放課後になり、しのぶはぶつぶつと愚痴りながら玄関前の車止めに出た。すると、専用車の前で古手川がニコニコと笑いながら待っていた。
「お疲れ様でした、お嬢様」
「うむ」
 彼に鞄を渡しながらしのぶは頷いたが、その間もずっと古手川がニコニコしているのを見て、首を傾げた。正直言って、彼の笑顔はひたすら怖いので、できれば止めて欲しいのだが……
「じい、今日もなんか妙に楽しそうだな。何か良い事でもあったのか?」
 しのぶが聞くと、古手川はやはり笑顔のまま頷いた。
「はい、全くもってめでたい事がありまして」
「めでたいこと?」
 しのぶはますます首を傾げた。今日は彼女は体操服姿ではない。
「左様でございます。今日は赤飯でお祝いをせねばなりませんな。何しろ、お嬢様がまた一歩大人に近づかれた記念すべき日で……」
 古手川は最後まで言い終える事が出来なかった。怒りと羞恥で顔を赤くしたしのぶが、彼の胸倉を掴んでがっくんがっくん揺さぶったからである。
「おのれは何で私のアレの事を知っとるかーっっ!?」
「お、お嬢様! 超高速で脳がシェイクされてます! それではいくら古手川のじいさんでも……!!」
 慌てた直人が止めに入るまで、しのぶの攻撃は続いた。解放された古手川はダメージでフラフラしながらも、理由を説明する。
「ふ……お嬢様が心配でしたゆえ、こっそりと影から見ておりました」
 それを聞いて、しのぶはがっくりとひざを突いた。
「き……気付かなかった……って言うか、場を弁えろよじい……」
 良く見つからなかったものである。
「ふふ……このじいに不可能はございません。それよりも、祝賀の準備は整えさせておりますぞ。帰りましょう、お嬢様」
「……好きにしろ」
 ツッコミを入れる気力も失せたしのぶは、古手川に促されるままに車に乗った。
 

 その夜、勝沼邸は明るさに包まれていた。ここ数日体調が優れなかったお嬢様が元気を取り戻してきたのもさることながら、なんだか良くわからないが、古手川の発案でパーティーが行われていたためである。なお、会場に吊るされる予定だった「しのぶお嬢様初潮祝賀パーティー」の看板は、主賓の手で徹底的に破壊された後燃やされたので、屋敷の他の使用人たちは、これが何のパーティーなのか知らなかった。しかし。
「さぁ、皆の衆、飲め! 食え! 今日はお嬢様のめでたき日じゃ!!」
 などと古手川が騒いでいるので、しのぶ関連の何かである事はわかっていた。そこで、メイドや庭師、ボディーガードにクーリエといった使用人たちは、次から次へとしのぶのところへ来て、お祝いの言葉を述べていた。
「おめでとうございます、お嬢様」
「ああ、ありがとう」
 淡いピンクのドレスに身を包み、しのぶはそれに応えていた。
「ところで、何のお祝いなのでしょうか?」
 ごもっともな質問をする使用人A。
「あー……それは聞かないで」
 しのぶは質問には答えなかった。やがて一通り全員からお祝いの言葉を受けてしまうと、彼女の周りにはいつもの三人だけが残った。彼らはもう既に事情を知っており、しのぶも心を許して話せる相手だけに、やっとホッとする。
「とりあえず、おめでとうございます、お嬢様」
 木戸がしのぶの持つシャンメリーを満たしたグラスに、自分のシャンパンのグラスをかちんと合わせる。
「別にめでたくない。痛いし苦しいし、大変なんだぞ」
 しのぶがぼやくように答え、シャンメリーを飲み干す。
「そんなに辛いのですか?」
 疑問の声をあげたのは直人だ。しのぶは古手川に新しくシャンメリーを注がせながら、「そうだな……」と考え込み、やがて良い例えを思いついたらしく、顔を上げた。
「股間を強く打って、最初の激痛が治まった後の、何とも言えない気持ち悪い痛みと言うか疼きと言うか、あれがずっと続く感じ……と言うとわかるか?」
 物凄く良くわかったらしく、直人は顔をしかめた。
「それは……確かに辛いですね。今はどうなのですか?」
 その質問に、しのぶはそっと小さな紙包みを出して振って見せた。
「学校の保険医に薬をもらってきた。これがなかなか良い効き目でな。今は大丈夫だ」
「それはようございました」
 安心したように笑う直人。しかし、しのぶは暗い顔になって薬をしまいこんだ。
「とは言えなぁ……これから毎月、こういう苦しみが続くと言うのは嫌だよな。やっぱりショックだよ。血が垂れた時は、病気が再発したんじゃないかと思って、もうダメかと思ったぞ」
 そこへ豪快な笑い声を上げたのは古手川だ。
「フォッフォッフォ、お嬢様は慌てんぼうでございますな。良くお考え下され。病気の頃にお嬢様が血を吐いていたのは、下の口ではなく、上の口ではありませぬか。だから病気では……」
「お前は黙ってろこのセクハラジジィー!!」
 本日何度目かに顔を真っ赤に染めたしのぶが、背景効果を宇宙に変えつつ必殺の一撃を放った。美しい弧を描いて吹き飛ぶ古手川を見ながら、木戸は頷いた。
「うむうむ。いつものお嬢様らしさが戻ってきたなぁ」
「全くです」
 直人もニコニコ笑いながら、追撃のラッシュを放つしのぶを見守る。こうして、勝沼家の鬱な季節は過ぎ去り、平和な日常が戻ってきたのだった。


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