悪夢でも絶望でもない話
八月の章 絶望に触れるお嬢様
「それでね、そっと振り向くと……青白〜い顔の女の人が……『ここは寒くて暗い……』って言いながら……」
暗い部屋の中に悲鳴が湧く。それを聞きながら満足げに帆之香は目の前のろうそくを一つ吹き消した。
「どう? 怖かった?」
彼女が言うと、参加者の級友一同がこくこくと首を縦に振る。そう、現在彼女たち聖エクセレント女学院1−Aの一行は、百物語の真っ最中なのである。
「帆之香ちゃん、ノリ過ぎですよ……」
予想通りの怖がりだったらしい文が、座布団を頭に被った妙な格好で言う。他にもせりか、ひな、柚流などは文字通り青い顔で固まっていた。平気そうなのは、彩乃、紫音、そしてしのぶだった。
「えっと、次はボクの番だね。これはボクのお父さんに聞いた話なんだけど、会社の工場で……」
精一杯怖さを煽る口調で語り出す彩乃。それを聞きながら、しのぶは「何で私がこんな事を」と言う不満そうな表情を浮かべていた。何故、彼女が級友たちと百物語などしているかと言うと……話は一月前の終業式直前に遡る。
その奇妙な単語を聞いて、しのぶは首を傾げた。
「七不思議?」
噂の主、帆之香は頷いた。
「うん。良くある話なんだけど……エク女の高等部にも七つ不思議な事件があってね」
と言って、帆之香は七つを指折り数えた。曰く……
一、北校舎の屋上に出る階段は夜中の十二時になると、十三段に増える。
二、音楽室のピアノは、夜中の一時になると、勝手に鳴り出す。
三、体育館のシャワールームは一つ故障しているが、夜中の二時に使うと、血が吹き出る。
四、北校舎一階のトイレは、夜中の三時になると、すすり泣く声が聞こえると言う。
五、図書館奥の倉庫では、明け方四時になると、エク女出身の作家の亡霊が出る。
六、南校舎の二階の廊下の端にある鏡を明け方五時に見ると、背後霊が一緒に映る。
「……なんだって」
帆之香の言葉に、しのぶは妙な脱力感を感じた。彼女は君子ではないが、怪力乱神を語ると言うタイプではなく、その手の話は一切信じていない。まだ紳一だった頃、半分死の世界に足を踏み入れていたことも、その手の話を信じない理由かもしれない。
「アホらしいな……それに、七不思議なのに六つしかないじゃないか。後の一個はどうしたんだ」
しのぶが言うと、帆之香はくすくす笑いながら答えた。
「七つ目が何なのか、わからないのが七つ目の不思議」
「おい」
しのぶの視線が湿気を帯び始めたのに気付いて、帆之香はフォローした。
「まぁ、それは冗談だけど、七つ目を知ると死んじゃうとも言うしね」
「ただ単に、七つ目を考えるのが面倒くさかったんじゃないのか」
しのぶが言うと、帆之香はそうかもね、と笑った。その笑顔を見ながら、しのぶはちょっと意外の感にとらわれていた。
(帆之香……オカルト趣味があったのか?)
いかにも文学少女と言う印象で、事実文藝部の部員でもある帆之香だが、読んでいるのが純文学や少女小説ばかりとは限らない。と言うか、彼女は興味のあるものなら何でも読む乱読家でもあった。オカルトも当然守備範囲であり、むしろ大好きだった。
「ところで勝沼さん、お盆の頃ってヒマ?」
「お盆? そうだな、別に予定は無いが」
帆之香の唐突な質問に答えるしのぶ。世間ではお墓参りをしたり、田舎に帰省したりするのだろうが、しのぶは物心つく前に死んだ親には特に思い入れは無いし、親しい親族もほとんどいない。
「それなら……」
何かを言おうとする帆之香をしのぶは制した。
「ちょっと待て」
「ん?」
きょとんとする帆之香に、しのぶは言った。
「何を言いたいのか大体わかったぞ。まさか、その噂の七不思議を確かめに行こうって言うんじゃないだろうな」
「あ、わかった?」
帆之香は笑った。
「わからいでか」
そんな話をしていると、周りに何時ものメンバーが集まってきた。彩乃、柚流、ひな、せりか、文、そして紫音である。
「ねぇねぇ、何の話?」
好奇心に溢れた顔つきの彩乃に、帆之香がさっきの七不思議の話をする。
「へぇ〜〜、そんな話があるんだ」
格好の話のネタを見つけた、と言わんばかりの彩乃。一方、意外な人物もこの話に食いついていた。
「なかなか面白そうな話ですわね」
紫音だった。
「紫音、その手の話が好きなのか?」
しのぶが聞くと、彼女は首を横に振った。
「興味はありますわね」
ややこしい言い回しをするな、としのぶは思った。要は好きだけど、オカルトなどと言う怪しげなものが好きと言うのもなんとなく憚られるので、興味がある、と言う事にしたらしい。
「そうか。私はどうでも良いな」
しのぶが言うと、紫音の目がキュピーン、と怪しげな輝きを発した。口がお嬢様らしからぬ邪悪な形に歪み、挑発の言葉が発せられる。
「さては……怖いんですのね?」
しのぶの眉がきゅっと吊りあがった。
「誰が怖いだって? 私はそういう非科学的なものに興味が無いだけだ」
しのぶはそう言い返したが、紫音の追及の手をより加速させただけだった。
「あら、怖い人ほど、そうやって非科学的だ、とか言って自分をごまかすんですのよ」
「言ってくれる……よかろう。七不思議探検だろうがなんだろうが、付き合おうじゃないか」
しのぶはきっぱりと言った。
(……要するに自業自得だったか)
しのぶは回想を終えてがっくりと首を落とした。どうも、誘拐事件のときに助けられてから、紫音の挑発に弱くなった気がする。借りがあると言うことはこんなにも弱みになるものだったのか、と彼女は思った。
「次は勝沼さんだね」
帆之香がしのぶに話を振ってきた。何時の間にか、彩乃の話は終わっていたらしい。しのぶは目の前で揺れるろうそくの火に眼を向けつつ、おもむろに口を開いた。
「では……私の曽祖父の頃の話をしよう……」
今こうして彼女たちが話している場所は、聖エクセレント女学院の敷地内にある合宿所である。主に部活動や夏期講習に使われる建物だが、申請が通れば、生徒たちが何らかの宿泊イベントを行うことも可能だ。今回はしのぶと紫音が連名で「自主的学習会」の名目で許可を取っている。優等生かつ毛並の良い二人の申請だけに、教師たちも特に疑うことなく許可を出していた。
「こうして城を買い取って、うちの屋敷として日本に移築することになったんだが……その解体作業中に地下牢の跡地が見つかってな。興味を持った曽祖父がそこへ入ってみると、折り重なるような白骨死体の山が……」
「いやあああぁぁぁぁぁぁぁっっ!! もうやめてえええぇぇぇぇぇぇっっ!!」
せりかが悲鳴をあげ、それにつられてひな、文、柚流も悲鳴をあげた。
「わ、わかったわ。もう止めましょうよ、勝沼さんっ!!」
「阿呆、こっちが驚いたわっ!!」
縋るように言ってくるせりかに、心臓をドキドキさせながらしのぶは叫んだ。病弱だった頃なら、今ので心臓が止まるかもしれないと思うほどの驚きだった。
「まったく……む、もうこんな時間か」
しのぶはせりかを払いのけると、時計を見上げた。時間は夜中の十一時四十五分。そろそろ最初の七不思議、「十二時になると十三段に増える階段」の刻限が迫っている。
「本当ね。そろそろ出発しましょうか」
帆之香が腰を上げた。いよいよ、彼女の発案による学園七不思議めぐりがこれから始まるのである。百物語など、ほんのウォーミングアップに過ぎない。
「ほ、本当にやるの……?」
最初は面白そうだと言う理由でついてきた文だったが、すっかり怯えてしまっている。しのぶは力強い口調で答えた。
「もちろん。七不思議などと言うくだらない迷信は打破されるべきだ」
「そ、それはそれでロマンがないなぁ」
彩乃が苦笑し、懐中電灯をもって立ち上がる。いよいよ、少女たちの冒険の始まりだった。
暗い廊下をこつこつ、とかぱたぱた、という足音が混じり合って響いていく。目指す北校舎B階段は、高等部の建物で唯一屋上に通じる階段で、普段は堅く閉ざされており、立ち入る者はいない。
この屋上への階段は、踊り場から十二段なのだが、午前零時になると、十三段に増える……と言うのが帆之香の話である。
(十三段……処刑台への階段がその数だったな。不吉だ。実に嫌な感じだ)
しのぶはそう思い、その自分の考えに思わず首を傾げた。まるで、自分が処刑台に登る運命にあったような……そんな感じがしたのである。
(そんなバカなことがあるはずが無い)
しのぶは慌てて自分の考えを打ち消した。首をふるふると横に振る彼女に、紫音が何か楽しそうな顔をする。
「勝沼さん、やっぱり怖いんじゃありませんの?」
「ば、馬鹿言うな」
しのぶは言下に否定すると、今まで以上に力を入れて歩き出した。そして、ついに階段の前に到着する。時間は、午後十一時五十七分。ちょうどいい時間帯だ。
「登るぞ」
しのぶが宣言すると、それまで楽しそうにしていた彩乃や帆之香も押し黙り、奇妙な沈黙が訪れた。しのぶは階段の手すりを持ち、一歩ずつ足を踏み出した。
踊り場までは十段だった。しかし、問題はここからだ。しのぶは紫音の手前、率先して一段目に足をかけ、同時に宣言した。
「一段」
緊張感が辺りに漂う。少女たちはしのぶに続き、ゆっくりと階段を登っていく。二段、三段と数えるしのぶの声だけが、低く闇の中を流れていく。そして、ついにしのぶは十二段目に足をかけた。時間は十一時五十九分。腕時計の文字盤が零時を指すと同時に、しのぶは力を入れて足を前に踏み出した。
あるはずの無い十三段目を踏みしめる感触が、足の裏に伝わってきた。
「!!」
「ひっ……!?」
硬直したしのぶの異様な雰囲気を悟ったのか、せりかが小さな悲鳴を漏らす。しかし、その時だった。
「なんだ……こういう事か」
しのぶの拍子抜けしたような声が聞こえてきた。彩乃が恐る恐る、しのぶの足元に懐中電灯を向ける。闇の中に、彼女が踏みしめている木の踏み台が浮かび上がった。
「屋上との段差が大きいから、体格の小さい生徒のために用意したんだろうな……」
しのぶは言った。この踏み台はずっとここにあるものだから、昼間に生徒たちが気付いていてもおかしくない。しかし、「階段が増える」と言う思い込みから、自然と視界に映っていても認識していなかったのだろう。
「な、なぁんだ……」
安堵したように言うせりかに、しのぶは振り向いて微笑んでみせる。
「そうさ。噂とか不思議なんてこの程度のものだ。恐れることは無い」
「でも、やっぱりあった方が面白いよねー」
彩乃が相槌を打ち、一行は会談から引き返すことにした。しのぶが階段を降り始めると、誰か一人が付いてこない事に気付いた。
「……紫音、何やってるんだ?」
その一人……立ち尽くしている紫音にしのぶが声をかけると、紫音ははっとしたように振り向いた。
「な、何でもありませんわ」
紫音が階段を降り始める。しかし、その額に浮かんだ微かな冷や汗をしのぶは見逃さなかった。
「ふふーん」
「何ですの、気持ちの悪い」
にんまり笑うしのぶに紫音が悪態をつきつつ、一行はいったん合宿所に戻った。
それから1時間半ほどの時間が経っていた。
しのぶたちは七不思議を確認しては、合宿所に戻って百物語の続きをする、と言うローテーションで、七不思議の制覇を続けていた。
しかし、「午前一時の勝手に鳴るピアノ」は、自動演奏機能付きピアノの誤作動と言うベタなオチだったので、次の「午前二時の血の吹き出るシャワー」には、もう少し歯ごたえを期待したいところである。少女たちは体育館のドアを開けた。
「あ、意外と明るいんですね」
文が言った。体育館はだだっ広いが、窓も大きいので、月明かりや街灯の光が差し込み、薄明るい状態だった。しかし、ここで安堵した分、次のシャワールームや更衣室のある辺りは暗さが引き立っていた。まるで入る者を永遠に閉じ込めてしまいそうなその闇に、しのぶは先頭に立って踏み込んでいった。
「これか」
シャワーブースの最奥にそれはあった。すりガラスの扉には「故障中。使用禁止」の張り紙がしてある。腕時計を見ると、時間は一時五十八分。ちょうど良い頃合だろう。
「じゃあ、確かめるぞ……」
しのぶは扉を開けた。長い間使われていないそのブースは、うっすらと埃に覆われていて、ドアの風圧でそれが舞い上がる。
「うっぷ」
咳き込みそうになって顔を覆いつつも、しのぶはシャワーを取って、蛇口に手をかけた。時計が二時を指すと同時に、思い切ってそれを回す。
「やぁっ……!?」
ひなが引き攣ったような声をあげた。シャワーの先から、赤い液体がぼたぼたと垂れている。かなりインパクトのある嫌な光景だ。しかし……
「なんだ、ただの錆び水だ」
しのぶは言った。確かに、赤い液体と言っても、血にしては薄すぎる。
「まぁ、普段使っていませんものね」
紫音が腕組みをしてうんうんと頷く。しのぶは蛇口を閉め、シャワーをフックに戻した。
「またくだらないオチだった……よし帰るぞ」
しのぶが振り向くと、柚流と文が何故か床に座り込んでいた。
「……お前たち何をしてるんだ?」
まるでこの場所に居座るかのような二人の行動に、しのぶが首を傾げると、柚流が情けない声で答えた。
「こ、腰が抜けちゃって……」
しのぶは脱力感を覚え、額に手を当てた。
「お前らね……どうでも良いが、パンツ見えてるぞ」
「え? きゃあっ!?」
慌てて立ち上がる二人。しのぶはますます渋面になり、彩乃と紫音はくすくす笑っていた。
それから一時間後、次の七不思議「午後三時のトイレの泣き声」は、前の三つよりはずっとマシだった。確かにひょうひょうという音が聞こえていて無気味だったが、音源を確かめてみると、下水パイプだった。何処か遠くの音がここまで響いてきて、共鳴現象を起こしているようだった。
「うーん、やっぱりこういうのは全部説明がつくんだね」
彩乃があくびをしながら言うと、帆之香が頷いた。
「そうね。でもまぁ、神秘的な何かじゃなくても、確かめるのは意義のあることだと思うわ」
オカルト的なものが「あれば面白いな」と思っている二人にとっては、納得する反面、ちょっと寂しさもあった。一方、苦手組のひな、せりか、柚流は結局は説明のつくことばかりとは言え、連続して怪奇現象にさらされ、かなり消耗していた。ひななど、二時半過ぎには疲れたのか寝入ってしまい、以後の探索には同行していない。
「わたし、次はパス……もう寝る」
せりかもついにギブアップを宣言した。最近まで舞台で忙しかったので、その疲れが残っているらしい。すると、文もギブアップした。身体の弱い彼女がここまで起きていたのが奇跡と言っても良いだろう。
「私、三人が心配だから残るわ」
さらに、柚流が良い口実を見つけた、とばかりに合宿所に残ることを決める。こうして、探検隊は一挙に人数半減となった。
「まったく、みんなビビり過ぎだな」
廊下を歩きながら言うしのぶに、彩乃がまぁまぁと宥める言葉をかける。
「怖い怖くないの前に、眠いのも確かだモンね。ボクもそろそろダメかも」
いつも元気いっぱいの彩乃だが、さすがに間もなく徹夜明けともなれば、眠いのは否めない。帆之香も何か静かだな、と思っていたら、頻繁にあくびをしていた。
「そうね。美容には良くないわね」
紫音が頷いたその時、一行は図書室に到着した。試しに聞き耳を立ててみるが、特に何かの気配は感じられない。
「ともかく、入ってみましょう」
帆之香の言葉に頷き、しのぶは扉のノブに手をかけた。
聖エクセレント女学院の図書館は広い。ただ高等部だけが使っているのではなく、中等部、初等部も兼用しているのだから、当然ではあるが……ちなみに、大学以上はまた別に図書館を持っている。
その広大な図書館も、夜に来ると不気味な事この上なかった。広いために懐中電灯を使っても、闇の向こう全てを見通す事が出来ない。その闇の持つ「圧迫感」に一瞬、少女たちは立ち止まった。
「こ、このくらい何ですの。行きますわよ」
紫音が自らを鼓舞するように言うと、先頭を切って歩き出す。しのぶたちも後に続いた。目的地の準備室は、この更に奥の方にある。静寂に包まれた本棚の谷間を歩く事しばし、突然、何かを落とすような音が響き渡った。
「!?」
帆之香が稲妻に打たれたように身を竦ませて立ち止まる。
「な、何いまの!?」
彩乃も怯えた表情で、ひっきりなしに辺りを見回す。
「どうも、本の山を崩したような音だったな」
しのぶは冷静に言った。彼女も一瞬はかなり驚いたのだが、周囲が動転しているためか、冷静さを取り戻すのも早かった。
「奥の方でしたわね、行ってみましょう」
同じく冷静さを(表面上は)保っている紫音が言い、一行は再び前進する。ほどなくして、彼女たちは図書準備室の入り口に立った。
「あれ……電気がついてるよ?」
彩乃がそれに気付いた。ドアの隙間から光が漏れている。
「すると、やっぱり幽霊じゃないな。幽霊が電気を使うとは思えん」
「同感ですわね」
しのぶに紫音も同調し、四人はお互いの顔を見合わせると、ドアを開けた。
「……ああ、上手くまとまらない〜〜……」
その途端、中から怨念じみた声が聞こえてきた。一瞬驚いた少女たちだったが、すぐにそれが聞き覚えのある声だと言う事に気が付いた。覗いてみると、司書の事務机のところで、一人の女性がなにやら書き物をしていた。
「やっぱり、香織先生だよ」
「何やってんだ、あの人は」
香織先生――壬生香織は、しのぶたちと同じ一年生だ。ただし、教師として。
現国担当で、何でも家庭科教師の澄乃や保健医の芽依子の後輩らしい。しかし、どっちかというと少女っぽい容貌の二人に対し、香織はいかにも成熟した大人、といった感じのする女性で、スタイルも抜群にいい。ただ、何があったのか、せりかに匹敵するほどの極端な男性恐怖症で、職員室ではいつも彼方や翔平に怯えている。そして、彼女にはもう一つの弱点があった。
「香織先生がここにいる、って事は、幽霊はいないって事ですね」
「あの人、そういう話が死ぬほど苦手だからな」
「むしろ、正体なんじゃありませんの?」
少女たちは口々に言った。そう、香織は重度のオカルト恐怖症でもあり、幽霊や怪談話を聞くと恐慌状態になるのだ。
「幽霊の、正体見たり枯れ尾花……とはこの事ですわね。帰りましょう」
紫音がそう言って締めくくろうとした時、香織の方が生徒たちの気配に気がついた。
「そこにいるのは誰?」
「あ、きゃっ!」
驚いた拍子に、彩乃が足を滑らせて、ドアの隙間から図書準備室内に転がりこんだ。吊られて、しのぶ、紫音、帆之香も入ってきてしまう。それを見て、香織がきょとんとした表情になる。
「あら……一年の、えっと……河原さんに、勝沼さんに、二階堂さんに、西九条さんね? こんなところで何をしているの?」
「あぁ、それは……」
しのぶは「合宿です」と咄嗟に言い訳しようとしたが、その前にごまかしの利かない性格の彩乃が、素直に目的を話してしまっていた。
「ボクたちは幽霊を見に来たんですよ」
あ、このバカ、としのぶ、紫音が思った時には、もう手遅れだった。
「ゆ、幽霊!?」
香織はその単語を聞いた瞬間、真っ青な顔になり、冷や汗をダラダラ流しながら硬直した。
「あ、彩乃ちゃん……香織先生はその手の話がダメなんだから、この部屋に幽霊がいるなんて言っちゃダメよ」
そこへ、帆之香がとどめを刺すように言わなくても良い事を言う。香織はたちまち「こ、この部屋……ひっ!?」
と言うと、その場に卒倒した。
「あっ、先生!?」
床の上でぴくぴくと震える香織に、彩乃と帆之香が駆け寄って介抱する。しのぶは溜息をついて、香織が何か作業をしていた机に歩み寄った。
「まったく、厄介な人だな。これは何だ?」
机の上には、何やら無数の本と共に、原稿用紙が積まれている。ちょっと読んでみると、書きかけの小説か何かのようだ。
「先生の趣味かしら? わざわざ学校で書いている理由がわからないけど……」
紫音が言う。しのぶは脇に置かれた本の一冊を手にとった。心理学の本のようだ。さらにもう一冊……今度は時刻表だ。
「資料がいっぱいあるから、ここに来て書いていたのかもしれないな。ジャンルは多分ミステリーだろう」
家でやれば良いのに、と思いつつ、しのぶは香織が倒れた拍子に散らばったものを纏めてやった。そろそろ目を覚ましたか、と思って香織を見るが、未だに目が渦巻き状態である。
「香織先生、目を覚ましそうに無いよ〜」
彩乃が困りきった声で言う。しのぶはため息をつくと、彩乃と帆之香に言った。
「しょうがないな。そこら辺に寝かせて、二人で介抱してやれ」
「うん、わかったよ。でも、しのぶちゃんは?」
彩乃が素直に頷きつつも疑問を抱いて質問してきた。しのぶはにんまり笑うと、時計の方を向いた。時間は今の騒ぎの間に四時四十五分を指していた。
「私は最後の七不思議巡りだ。結構いい時間だからな。紫音も行くか?」
最後の一言は、もちろん紫音に向けてのものだ。
「もちろん行きますわ」
紫音は頷いた。
廊下を歩きながら、しのぶは最後の七不思議……「午前五時になると背後霊の映る鏡」に関する仮説を披露していた。
「でな、あの鏡って、西側にあるだろう? 時間によっては夜明けの光が妙な形に映るんじゃないか、と思うんだよな」
しのぶの説を聞いて、紫音は首を傾げた。
「なかなか面白いですわね。でも、午前五時は夜明けの時間としては、少々早すぎませんこと?」
「それもそうか。まぁ、行ってみればわかるさ」
そう言ったところで、しのぶは懐中電灯の明かりに映し出された異様なものを見て足を止めた。
「……って、創立者の像か」
しのぶは一瞬でも驚いた自分を恥じた。そこにあったのは、学生用玄関の正面にある創立者の銅像である。写真でみる限り、決して怖そうな顔ではないのだが、彫刻家の腕が良くなかったのか、まるで仁王像のように見える代物だ。
ここで、聖エクセレント女学院の校舎について説明すると、建物は上から見た時に「エ」の形をしている。並行に建てられた南北の二つの校舎は、玄関と渡り廊下を兼ねた縦棒部分で連結していて、今しのぶたちがいるのがここだ。他にも、保健室や校長室(二階)などの特別な部屋もこの部分に集中していた。
「いつみても怖いですわよね、これ……」
紫音が言った。像は生徒たちを見守るために置かれているらしいが、ほとんど威圧しているようにしか見えない。
「いつも思うんだが、この人がこの学校を作ったと言うのが不思議でならん。どういう人物なんだ?」
魁偉な銅像の顔を見てしのぶは言った。紋付袴を着ているのを無視すれば、これが「仁王像」と題して寺の門前に飾ってあっても、そう違和感はない。どう考えても日本一のお嬢様学校とは結びつかないのだ。
「私も良く存じませんけど、なんでもこの方の息子だか孫だかに当たる方がやっぱり教育者で、ものすごい教育方針の男子校を設立しているそうですわ」
紫音がトリビアを披露した。
「ほお……ともかく、これが七不思議にならないのがおかしいな。夜中に歩いていても私は驚かんぞ」
しのぶも頷き、先へ進む。そんな会話をしているうちに、南校舎の廊下の終わりが近づいてきた。そこには高さが二メートル近い、大きな鏡が飾ってある。ただ、作られてからもう長いのか、それとも元々出来が良くないのかはわからないが、表面が微妙に凸凹しており、しのぶと紫音の姿が奇妙に歪んで見える。
(これにじいとか木戸を映したら面白いだろうな)
しのぶは自分の考えに思わずクスリと笑った。それこそ、まるで絶望を背負った亡霊のように見えるかもしれない。
「なんですの?」
一人で笑っているしのぶに、紫音が不思議そうな表情を向ける。
「いや、何でもない」
しのぶは笑いを収めた。その時、ちょうど玄関の大柱時計が四時を告げる鐘の音が響いてきた。
「……!!」
その瞬間、しのぶは信じられないものを見た。鏡にぼんやりと奇妙な影が現れたのである。何か棒のようなものを振りかざした、人間の姿をした影――
(って、それは人間だ!)
幽霊ではない。しのぶはとっさに振り向いたが、その瞬間、バシッと言う衝撃音と、紫音の小さな悲鳴に、棒の正体を悟った。
(スタンバトンか!)
小型のスタンガンを仕込んだ警棒だ。だが、その正体がわかったからと言って、どうする事が出来るものでもない。しのぶは胸に何かがめり込む感覚と、その直後に全身を貫いた激しい衝撃に、身体が麻痺するのを感じた。
「あ……」
彼女の口から小さな声が漏れる。しのぶの素早い反応に狙いが狂ったのか、スタンバトンは彼女の心臓の上を捉えていた。危険なレベルの電流が、しのぶの心臓を直撃する。
そのまま意識が暗転し、しのぶは紫音の上に折り重なるようにして倒れた。
「……ん?」
しのぶは意識を取り戻した。辺りはまだ暗く、気を失ってからそれほど経っていないらしい。
(あれ? 私は怪しい奴に……)
襲われて倒れたはずだ。にもかかわらず、彼女は立った姿勢のままでいた。
(幻でも見たのか?)
そう思って辺りを見回すと、ちゃんと彼女は床に倒れていて、襲ってきた謎の男に猿轡をかまされて縛り上げられようとしていた。
(なんだ、幻でも何でもない……って、何いいいいいぃぃぃぃぃぃぃぃ!?)
しのぶは驚愕した。床に倒れている自分を見下ろし、続いて自分の手を見る。すると、その手は微かに透き通っていて、向こうに壁や床が見えた。ふと横の鏡を見ると、自分が立っているはずの場所には、何も映っていなかった。
(ま、まさか……私は死んだのか? 幽霊になってしまったのか、私は!?)
さすがのしのぶも、かなり狼狽しながら鏡と自分の身体を交互に見た。その間に男はしっかりとしのぶの身体を縛り上げ、肩に担ぐようにして立ち上がった。どうやら、死んだとは思われていないようだ。
(ぐ、冗談じゃないぞ。私の身体を返せ!!)
しのぶは男に掴みかかったが、実体のない霊体の手は、空しく相手の身体を素通りするだけだった。男は幽霊に襲われているのに気付く様子もなく、そそくさと襲撃の現場を後にしようと走り出す。足音をほとんど立てないところを見ると、どうやらかなりのプロであるらしい。
(くそ、これじゃ逃げられる! どうすれば……)
焦ったしのぶだったが、足元に紫音が倒れているのに気が付いた。ふと、彼女はさっきまでの百物語の中に、幽霊に取り憑かれた話があったのを思い出した。
(やってみるか……でも、どうすれば良いんだ?)
しのぶが戸惑いながらも紫音の身体に触れた時だった。
「!!」
まるで吸い込まれるような感覚とともに、しのぶは床の冷たさや、空気のぬるさと言った感覚が蘇ってきたのを知った。目を開けてみると、廊下の先を逃げていく男の姿。どうやら、気を失った紫音の身体に取り憑くことに成功したらしい。
「よし……身体借りるぞ、紫音!」
しのぶは立ち上がり、男の後を追って走り出した。ばたばたと言う足音に気付いて男が振り返り、追って来る紫音(中身はしのぶ)に気が付いて、驚きの表情を見せる。
「待て、こいつ!」
しのぶが声をあげると、男は弾かれたように全力で走り出した。その先に開いている窓があり、彼はそこから侵入してきたらしい。しかし、軽い女の子の身体とは言え、人一人背負って走るのは容易ではない。まして、しのぶが使っている紫音の身体は、運動面ではそれなりに高性能だった。しのぶは男に追いつくと、後ろから思い切り体当たりをかけた。
「!」
男が声にならない声をあげて転倒し、縛られているしのぶの身体が床に投げ出される。ところが、投げ出されたのはしのぶの意識も同様だった。
「あ、あいたたたた……な、なんですの?」
転んだ紫音が頭をさすっている。どうやら、彼女が意識を取り戻したせいで、中に入っていたしのぶの意識が外に弾き出されたようだ。
(バカ、紫音っ! もう少し寝てろ!!)
悪態をついても、霊の声は彼女には聞こえない。それよりも重大だったのは、追いつかれた男が、まずは目撃者を始末しようとしたのか、懐からナイフを取り出したことだった。
「こいつ……!」
男がくぐもった声でナイフを構える。それに気付いた紫音が悲鳴をあげた。
「きゃあああぁぁぁぁぁぁぁぁっっ!!」
思わぬ大声だった。男が一瞬怯む。そして、更に事態を複雑化させる出来事が起きた。
「な、何!?」
「どうしたの!?」
近くの保健室のドアが開き、彩乃と帆之香が出てきた。そこで対峙している紫音と男に気が付く。帆之香は紫音に代わって悲鳴をあげ、彩乃は咄嗟に近くにあったモップを手に取った。
「こいつ、紫音ちゃんに何するんだよっ!?」
そう叫ぶや、果敢に男に殴りかかる。モップのリーチの長さに、男は苦戦に陥った。しかし、やはり暴力のプロであり、いかに彩乃が活発な少女とは言え、倒せる相手ではない。逆に彩乃の攻撃を見切った男がナイフを振るって斬りかかった。
「きゃあっ!」
逆に防戦に追い込まれる彩乃。しのぶはそれを見て焦った。
(くそ、なんとかしないと……どうやら意識のない身体で無いと取り憑けないようだが……)
自分の身体は縛られていて役に立たないし、合宿所まで行けば寝ている級友がいるが、距離がありすぎるし、ひな、せりか、文では活劇の用には立たない。他に何か手段は……
(あった!)
しのぶはある可能性に気付いて、彩乃たちが出てきた保健室に飛び込んだ。すると、狙い通り、そこには気絶した香織の身体があった。彩乃たちが図書室から運び込んでいたのだ。
(よし、しばらく借りるぞ)
しのぶは香織の身体に入り込んだ。すかさず身体を起こし、使えそうなものを探す。そして、それを手にとって、部屋の外に飛び出した。そこでは、ついに彩乃のモップが男のナイフに半分に断ち切られていた。
「小娘! 梃子摺らせやがって!!」
いきり立った男がナイフを振り上げる。そこへ、しのぶは思い切り手にしたものを投げつけた。
「ぐはっ!?」
顔面にそれ……10kgはあろうかと言う消火器の直撃を食らった男は、ひとたまりもなく昏倒した。仁王立ちしているしのぶ=香織に、彩乃と帆之香、紫音が駆け寄ってくる。
「先生、すごい!」
「かっこよかったです、先生!」
「ありがとうございます、助かりました……」
口々に言う三人を押しのけて、しのぶは自分の身体に近寄った。どうやって元に戻ったらいいのかはわからないが、とりあえず縄を解いて、自由にしてやらねばなるまい。
ところが、自分の身体に障った瞬間、しのぶはそこに意識が戻っている事に気が付いた。再び意識を失った香織の身体がのしかかってきたからである。しのぶは目を開けると、紫音たちにアイ・コンタクトで呼びかけた。
(解いてくれ)
頷いて、駆け寄ってきた帆之香が猿轡を取ってくれた。しのぶは例を言って、さらに別の事を頼んだ。
「悪いな、帆之香。ロープの方も解いてくれ」
数分後、しのぶは自由の身を取り戻し、男は意識を取り戻す事の無いまま、床に転がされていた。ちなみに、香織はまたベッドに戻されている。
「じゃあ、警察呼ぼうか?」
彩乃がポケットから携帯電話を取り出す。しのぶは手を伸ばしてそれを制した。
「警察には電話しないでくれ」
そう言うしのぶに、彩乃が不審そうな目を向ける。
「なんで? しのぶちゃん、誘拐されかかったんだよ? ボクと紫音ちゃんなんて殺されかけたんだよ!?」
しのぶは頷いて、短く理由を話した。
「恥ずかしい話だが、こいつは多分、私を面白く思わない親戚の手の者だ」
恐らくは磯部家の者だろう。それは口にしなかったが、彩乃はますます怒り出した。
「何それ! しのぶちゃんの親戚の人!? 身内だからって、こんな酷い事をしても庇うの!?」
良くわかっていないらしく、ピント外れな事を言う彩乃に、しのぶはちょっとだけ和むものを感じつつ、かぶりを振った。
「違う。身内の不始末だから、私の手で決着を付ける、と言う事だ。こいつを送り込んだ愚か者には、確実に報いをくれてやる」
しのぶの言葉に、思わず場が凍りついた。
「か、勝沼さん……怖い」
帆之香が怯えたように言う。しのぶは笑って、彼女の肩に手を置いた。
「すまん。怖がらせる気はなかったんだが、いずれにせよ、もうみんなには迷惑はかけない。それは約束しよう」
しのぶは言った。身内で処理するには、もう一つ理由がある。失敗とわかれば、すぐに黒幕は証拠隠滅にかかるだろう。そうなれば警察は当てにならない。彼らは証拠が無いと動かないからだ。そうなれば、また同じような襲撃事件が起きて、級友たちを巻き添えにするかもしれない。
しかし、しのぶの手の者……木戸や直人なら、証拠が無くても動ける。少々違法な手段や手荒な方法を駆使してでも、黒幕の正体を炙り出してくれるだろう。
「どういう事なのかわかりませんけど、そう願いたいですわね」
紫音が言う。彼女は以前の誘拐事件の存在も知っているから、しのぶの周りに勝沼家の御家騒動があることは知っていた。だが、ここで以前との関係を問う事で、他の二人にもそれを知られるような事はしないつもりらしい。しのぶは紫音に感謝した。
「さて、木戸を呼ぶか……」
しのぶは自分の携帯を取り出して、腹心の電話番号をコールすると、二、三指示を出して電話を切った。
「これで良し。二、三十分もすれば助けが……」
そう言った瞬間だった。突然、轟音が鳴り響いて、しのぶの横の窓ガラスが砕け散った。
「!」
凍りつくしのぶと、級友たち。恐る恐る見ると、例の侵入者が何時の間にか意識を取り戻していて、拳銃を構え、しのぶたちに銃口を向けていた。
「しまった……縛り上げておくのを忘れてた……!」
後悔するしのぶに、男は唸るような声で言った。
「くそ、小娘が……連れて帰れ、って言うのが指示だったが、もうそんなのは知った事じゃない……ぶち殺してやる!」
男は銃口をしのぶの胸に向ける。彼女の全身に冷たい汗が流れた。海で襲われた時の比ではない、逃れようも無い死が、すぐそこに迫っている。
(く……油断した。せめて直人を連れてくるんだった)
まさか、こんなに早く二度目の襲撃が……それも、セキュリティのしっかりしている学院内で起きるとは思っても見なかった。
引き金にかけられた男の指が、恐怖を煽るようにゆっくりと動く。しのぶは目を閉じた。
「……?」
すぐにでも襲ってくる、と予想された銃声が、何時まで待っても聞こえてこない。しのぶは目を開け……
「……え?」
しのぶは目を瞠った。男が、何時の間にか横に出現した何者かに、肩を掴まれていたのだ。
「うおっ……な、何だてめぇ!」
男が銃をその何者かの頭に向けて、引き金を引く。ガン、と言う銃声が迸り、銃撃は確実にその誰かを捉えていた……が、火花が散っただけで、その人物は小揺るぎもせず、男の顔にスチーム・ハンマーのような鉄拳を叩き込んだ。
「ふげっ!?」
男が夜目にも白い歯のかけらを撒き散らして吹っ飛ぶ。その時、夜明けの光が玄関のガラス戸を通して差し込んできた。その光に照らされた人物の顔を、少女たち全員が目撃し……
「ええええええぇぇぇぇぇぇぇぇぇっっ!?」
絶叫が夜明けの爽やかな空気を引き裂いて響き渡った。
「……さま、お嬢様! ご無事ですか!?」
身体を揺すぶられる感覚に、しのぶは意識を取り戻した。目を開けると、木戸と古手川、直人が彼女を取り囲んでいた。
「お前たち……ここはどこだ? 私はどうしたんだ? みんなは無事か?」
しのぶが立て続けに質問を発すると、それに答えるより早く、古手川が彼女に抱きついてきた。
「お、お嬢様ーっ!! 良くぞご無事で!! ワシャ心配しましたぞーっ!!」
「うあひっ!? さ、盛るな馬鹿者ーっ!!」
どさくさに紛れてしのぶの胸に顔を埋めてすりすりする古手川に、彼女は猛烈な悪寒に襲われ、強烈に蹴り飛ばした。カエルが踏み潰されたような声をあげて吹っ飛ぶ古手川。それを見ながら、木戸が苦笑したように言う。
「どうやら、お身体のほうもご無事なようですな。大丈夫です。御学友の皆様もみな怪我などはありません」
「そうか」
しのぶは安堵の声を漏らし、もう一つ思い出した事を聞いた。
「私を襲った奴はどうしたんだ?」
「ああ、アレならとりあえず病院に運んでおきました。上下の顎が粉砕されておりましたので、しばらくは流動食ですな」
木戸が答えると、直人が後を続けた。
「お嬢様を襲った罪を思い知らせてやろうと思ってましたが、あまりに悲惨な様子だったので、殴る気が失せてしまいましたよ。どんな反撃をしたらああなるんですか?」
その言葉に、しのぶは首を傾げた。
「いや、私はそこまではやってない。顔面に消火器をぶつけはしたが……あれ?」
思い出せない。何か、一撃で犯人を倒し、少女たち全員を失神に追い込むような恐ろしい事が起きたはずなのだが……
「何があったんだろう……とても助かるような状況じゃなかったのに」
いくら考えても、飛んだ記憶は戻ってこなかった。
それから二週間後……八月が過ぎ去り、九月がやってきた。始業式の日、登校したしのぶは、玄関ホールに置いてある創業者の銅像を見て、あることに気が付いた。その顔に、真新しい傷がついていたのだ。
「おはようー、しのぶちゃん。あれ? どうしたの?」
彩乃が尋ねて来た。彼女も、それに紫音と帆之香も、あの時何が起きたのかを覚えていなかった。
「ああ、彩乃か。ちょっと、あの像を見てくれ」
「え?」
しのぶの言葉に、彩乃は像を見上げた。そこへ、帆之香と紫音もやってきて、やっぱりしのぶに言われて銅像を見上げた。その容貌魁偉な顔に刻まれた傷をしばらく見ていた四人だったが、やがて、誰からとも無く顔を見合わせ、声を揃えて言った。
「まさか……ね?」
戻る メニューに戻る 続く