悪夢でも絶望でもない話


七月の章 海辺に遊ぶお嬢様


 しのぶ誘拐事件から一月。裏で糸をひく相手はまだわかっていないが、木戸が力をいれて護衛をしていることもあり、あれから彼女の身には危害が及ぶような事件は起きていなかった。
 しのぶも二、三日は少し寝つきの悪さを覚えたりしたのだが、外見上はあの事件によって大きな影響を受けた様子もなく、普通に学校に通っていた。その間に暦は七月に入り、期末試験も終わって、そろそろ夏期休暇が近づこうとしていた。
「ねぇねぇ、夏休みはどんな予定を立ててる?」
 そんな話を切り出したのは、お喋り好きの彩乃だった。
「そうね…私は何時も通り塾の夏期講座に通うかな」
 最初に答えたのは帆之香だった。
「ここって大学もエスカレーターだろう? いちいち塾に行くのか?」
 しのぶはそう尋ねた。先の期末試験で、帆之香は一年生の最優等成績者(つまり一位)だった。そんな彼女が塾に行かなければならないようには見えない。ちなみに、しのぶの成績は第三位である。
「うん。私、お医者さんになろうと思ってるから……ここの大学には医学部がないしね」
 帆之香の実家は大きな総合病院だ。家族もほとんど医者かその関係者であり、彼女自身も医者を志望しているらしい。
「そっかぁ……帆之香ちゃん偉いなぁ。ボクなんかそんな事せずに遊びまわるつもりだったし」
 彩乃が嘆息する。社長令嬢とは言っても、しのぶや紫音と違って会社が自分の家の持ち物ではない彼女にとっては、何らかの形で家業を継ぐことも有り得る、と言うことがない。
「わたしは……お弟子さんの指導と、定例の発表会の準備ですね」
 そう言ったのは、茶道家元の娘、桜之森文。彼女も将来家を継いで家元になることが義務になっていて、既に師範の資格を持っている。
「私は新しいドラマの収録であんまり休んでられないなぁ」
 と、こちらは俳優一家の生まれで自らプロの女優でもある一條せりか。冬向けのドラマを取るため、夏なのに冬服で演技をしなくてはならず、非常に大変らしい……が、顔に汗の一滴も浮かんでいないのは、さすがにプロである。
「そっかぁ……みんな忙しいんだね。遊ぶのはボクだけか」
「いや、私もそんなに忙しくないが」
 そこでしのぶは口を開いた。
「久しぶりに、伊豆のプライベートビーチにでも行って、夏をゆっくり楽しもうかと思っていたしな」
 そう言うと、彩乃だけでなく、他の一同も妙に感心した目つきでしのぶを見た。
「プライベートビーチ!?」
「別荘なら私の家もあるけど……さすがにプライベートビーチはないわねぇ」
「やっぱりしのぶちゃんの家って凄いんだね」
 級友たちが口々に誉めるのを聞いて、しのぶはちょっといい気になった。聞かれもしないのに、そこがどんな場所なのか説明していく。
 駿河湾に面した場所で、長さ五百メートルほどの砂浜が付いた数万坪の敷地があること、風呂は温泉であること、などなど……
 気が付くと、一行がしのぶを見る目が変わっていた。表情に何かを訴えかけるかのような雰囲気が浮かんでいる。先手を打って、しのぶは言った。
「言っておくが、連れて行かないぞ」
 すると、心を読まれたにもかかわらず、彩乃が駄々をこねるように言った。
「えー、良いじゃないしのぶちゃん。ボクだってそういうのんびりしたバカンスを楽しんでみたいよ。ボクの家なんて、社長って言ってもちゃんと会社の保養施設を予約しなきゃいけないんだよ?」
「そんな事は知らん!」
 しのぶは甘えるように言ってくる彩乃を跳ねつけた。さらに一同を見渡す。
「お前たちも忙しいんだろう? 伊豆くんだりまで行きたいとか、そういう暇は……」
「何日かだったら……大丈夫かな?」
「あ、発表会と重なっちゃうかも……」
「塾も毎日じゃないから」
 せりか、文、帆之香が続けて言う。しのぶはツッコミを入れる気力も失せ、呆れたように言った。
「お前ら…来る気満々か」
 まぁ無理もない話である。一般庶民とは隔絶した上流階級のお嬢様たちとはいえ、プライベートビーチ付き別荘などと言う浮世離れしまくった存在には、なかなかお目にかかれない。別荘やリゾートマンションがあって海に行ける、と言う家でも、その海は家族連れで芋を洗うように混みまくっている……と言うのも良くある話だ。
 それに、家族、特に両親が忙しくて遊びに行けない、と言うのもある。皆が勝沼家のプライベート・ビーチに憧れるのも無理はない。その気持ちはわからないでもないが、だからと言って連れて行ってやるというほどしのぶは親切ではない。
「絶対にダメだぞ。私はのんびりと夏を……」
 ともかく、しのぶが断固拒否を貫こうとした時、事態をより混乱させる存在が出現した。
「あら、勝沼さんの別荘ですって? それは興味があるわね」
 しのぶが苦虫を噛み潰したような表情になる。声の主は紫音だった。
「噂では、とても広いそうじゃないですの。良いじゃありませんか、皆さんと一緒に行けば。それとも、人を招待できないほどの陋屋ですの?」
 しのぶはカチンと来て言い返した。
「阿呆抜かせ。そんな所だったら私だって行かんわ」
 前に行ったのは、病気がそれほど重くなかった子供時代だから、もう十年以上訪れていない。しかし、管理は人を雇ってさせているし、それほど変わってはいないはずだ。海辺の環境が病気には良かったのか、いる間は発作や発熱もほとんど無かったのを覚えている。
「それなら問題なしでしょう。まぁ、嘘だったらわかりませんけど」
「言ったな。良いだろう。我が勝沼家の実力を見せてやる」
 しのぶは思い切り言い切った。
 
 
「……と言うことで、クラスの連中を別荘に連れて行くことになった」
 しのぶが言うと、直人が単刀直入に言った。
「見事なまでに乗せられましたね、お嬢様」
「……言うな」
 しのぶは額に手を当てた。帆之香、彩乃、ひな、せりかと普段親しくしている少女たちはもちろんだが、紫音もついてくる事になったし、そうなると「皆さんが変なことをしないように監督する義務があります!」と言って、クラス委員長の柚流まで一緒に来ることになった。残念ながら、文は体力面と親の反対から参加を見送ったが、総勢七人での旅である。のんびり夏を過ごすという最初の思惑は、完全に消滅していた。
「まぁ、よろしいのではありませぬか。ご学友と親交を深めると言うのも。ところでお嬢様」
 古手川が彼らしからぬ良識的な意見を披露しつつ、何事か聞きたそうな雰囲気を見せていた。
「ん、なんだ? 言ってみろ」
 しのぶが発言を許すと、古手川は頭を下げて、質問したかったことを語った。
「伊豆の別荘と言うことは、水着が御入用でしょう。お持ちになっておられるのですか?」
 何だそんな事か、としのぶは思いつつ頷いた。
「ああ。この前、試験の後で時間が余ってるときに買ってきた」
 試験は一日二科目しかないので、期間中、学校は昼前には終わる。その後で直人に適当なデパートまで連れて行ってもらって、水着を買っておいたのだ。
「さすがお嬢様…手回しがよろしいですな」
 そう誉めながらも、古手川は何故かがっかりしたような顔をしていた。しのぶはさてはこいつ何か企んでいるな、とピンと来た。
「じい、何か他に言いたい事があるんじゃないのか? 聞いてやるから言ってみろ」
 しのぶが言うと、古手川は「ははっ」と頭を下げ、ごそごそと懐から何かを取り出した。
「お嬢様はまだ学生です。やはり、ふさわしいものと言うとこれしかないのではないかと!」
 胸に白いゼッケンを貼って、「勝沼」と書かれた学校指定のスクール水着。体育の授業も終わったので、洗濯してタンスに入れておいたものである。しのぶは無言で直人に手のひらを差し出した。すると、直人も手馴れたもので、どうぞ、と言いつつ忍の求めていたものを握らせる。
「何時の間に持ち出したかこのたわけーっ!!」
 しのぶは直人に渡された得物……特大のハリセンで古手川に往復ビンタを食らわせた。古手川は吹き飛び、水着はふわりと宙に舞って、木戸の手の中に落ちた。
「全く油断も隙も無い」
 しのぶはハリセンを肩に担ぐと、水着を持ったまま困っている木戸のところに行き、それを取り返した。
「まぁ、そう言う事なので、夏休みに入ると同時に出かける。他の連中は八月に入ると忙しくなる事が多いそうなのでな」
 しのぶが言うと、直人と木戸が「承知しました」と頭を下げた。すると、壁際に転がっていた古手川がすっくと立ち上がった。
「それでは、我々も早速準備をせねばなりませんな」
 それを聞いたしのぶはぴたりと足を止めると、古手川の方を向いた。
「じい、お前は来るな」
 主の信じられない言葉に、古手川は一瞬呆け、それから猛然と迫ってきた。
「な、なぜですかお嬢様!? なぜワシはダメなのですか!?」
 その迫力に、さすがのしのぶも一歩引いたが、すぐに理由を言った。
「お前が来ると、みんなが怯える」
 その言葉に、直人と木戸が思わず吹き出した。美形の直人、一般人っぽい木戸と違い、確かに古手川は悪人面である。年頃の女の子たちが間近で見て楽しい面相ではない。特に、夜道で出会ったら、心臓の悪い人なら致命的ダメージは必至だろう。
 本人もそれは自覚していたようだが、ズバリ指摘されるのはやはりイヤだったらしく、思わず蹲って泣いていた。
「あ、あんまりでございます、お嬢様……! 確かにワシは良い顔とはお世辞にも言えませんでしょうが、何もそのような言い方をしなくとも……!!」
 おいおいと泣く古手川。その様子があまりにも哀れっぽかったせいか、さすがのしのぶも根負けして、呆れたように言った。
「ああもう、わかったわかった。来ても良いから泣くな。その代わり…」
 しのぶは目を細め、水着を持ち上げる。
「こうやって、私やみんなの服を勝手に漁ったりするなよ。やったら簀巻きにして駿河湾に沈めるからな」
「承知しました」
 いきなりぴたりと泣くのを止めて立ち上がる古手川。
「嘘泣きかこの野郎!」
 再びしのぶのハリセンが炸裂した。
 
 しのぶが怒りながらリビングを出て行くと、床に倒れていた古手川は目の幅涙を流しつつ言った。
「うう……最近、ワシの扱い悪くないか?」
「そりゃしょうがないだろう。今のはどう見てもアンタが悪い」
 木戸がツッコんだ。すると、古手川はガバっと立ち上がった。
「男の本能じゃ! あぁ、お嬢様……! お嬢様を見ていると、ワシは、ワシはもーうっ!!」
 魂の叫びだった。これに、古手川とは不仲のはずの直人も同意する。
「ああ。俺もだ。お嬢様を見てしまった今、他の女なんて目に入らない……」
「おお、お前もそうか!」
 手を取り合う古手川と直人。木戸はダメだコイツら、とため息をつきつつ、気になった事を口にした。
「しかし、お嬢様は本当にお優しくなられた……以前はあんな風に人を気遣うことなんて無かったのにな」
 その言葉に、古手川と直人も頷く。
「そうじゃの……女の子になられてから半年。物の考え方にも変化が出てきておるのかも知れんな」
「まぁ、お嬢様がどう変わられようと、お傍に仕えることに変わりは無いけどな」
 この一言で、どちらの忠誠心がより篤いか、という不毛な争いを思い出した古手川と直人は再び睨みあった。その横で、木戸は万が一に備えて別荘を警備するための計画を練り始めていた。
 
 そして、待ちに待った夏休みである。7月最後の週、しのぶたち「聖エクセレント女学院高等部1−Aの仲良し7人組」(彩乃命名。しのぶ、紫音、異議を提出するも却下)一行は、直人の運転する大型ワゴンで伊豆半島の西海岸を南下していた。
「わ、海だよ、海。広いなぁ」
「すごいの」
 彩乃とひなのお子様二人組が窓にかじり付いて大喜びしている。
「全く子供ですわね。海など珍しくもないでしょう」
 ババ抜きに興じていた紫音が呆れたように言う。そこへしのぶが巧妙にシャッフルした手札を差し出し、見事ババを引かせると、紫音はきつい眼差しでしのぶを睨んできた。
「くっ……覚えてらっしゃい」
 悔しがっている紫音を見て、しのぶはニヤニヤと笑いながら言った。
「どっちが子供なんだか」
 それを聞いて、紫音は赤い顔になって黙り込み、どうやってせりかにババを引かせるか、一生懸命手札を並べ始めた。その様子を見ながらしのぶがますます笑みを大きくしていると、帆之香が言った。
「勝沼さん、なんか凄く楽しそうだね」
「ん? そうか?」
 しのぶはとぼけたが、実は確かに楽しんでいた。今の姿になる前は長旅に耐えられるような体力はなかったので、海をこうして見るのも何年ぶりかになる。
「まぁ、つまらなくは無いか。それより、帆之香の番だぞ」
「え? あ、うん」
 いつのまにか、ババ抜きの順番は、せりかも柚流も通り越して、帆之香に移っていた。柚流の手札を慎重に見定めようとする帆之香。その間にも、彩乃とひなははしゃぎまくっていた。
 
 そして、運転席の直人と助手席の古手川は、じっと無言でいた。その沈黙に耐えられなくなったのか、古手川が口を開いた。
「なぁ、直人」
「なんだ、じいさん?」
 直人は運転の邪魔すんな、と言いたげな素っ気無い口調で答えたが、古手川はめげずに言葉を続けた。
「退屈じゃの……せっかく後ろにぴちぴちの娘たちが乗っているのに……」
「そう言う事言ってると、またお嬢様に殴られるぜ」
 直人が呆れたように言った。
「それはそれで嬉し……ではない。バ、バカモン。ワシは純粋に娘たちと楽しく、そのコミュニケーションと言う奴を……だな」
 古手川がしどろもどろになって答える。先代……しのぶの父親の頃から勝沼家に仕え、その暗部を見続けてきたこの老人にとって、女の子の甘い体臭が漂いまくっている車内にいながら、指一本触れることも許されない今の状況は、拷問に等しいものらしい。
「そういうお前はどうなんじゃ。娘たちに囲まれて嬉しいとは思わんのかい」
 古手川が責めるように言う。美形の直人は初めて会う少女たちに、大きな好感を持って迎えられていた。紫音と男嫌いのせりかの二人は興味を示さなかったが、あとの四人は目をキラキラさせて彼を見ていた。
「別に。俺はお嬢様さえいればそれで良い。お嬢様が御学友に触れるな、と仰るなら、それを守るまでだ」
 直人の答えに、古手川は毒気を抜かれたような顔をした。
「お前も変わったな……木戸の奴も妙に真面目だし」
 その木戸は、しのぶたちが乗る大型ワゴンの前後を固める、勝沼セキュリティの装甲バンに乗り込んで指揮をとっている。今回連れてこられたのは、木戸の下の名前から「大門軍団」と渾名される、彼直率の勝沼セキュリティ最強精鋭部隊だ。しのぶたちが別荘に滞在する間、ずっと山中に泊まりこんで警護をするらしい。
 その話を木戸がすると、しのぶは頷いて「大変だな。給料は弾んでやれよ」と言った。これも、昔の彼女……と言うか、紳一なら「俺を守るのは当然だ」の一言で切って捨て、後は思い出しもしなかったに違いない。
 はたして、そういったしのぶの変化をどう捉えるべきなのか。古手川にはわからなかった。やがて、車は主要道を離れ、駿河湾を望む高台にある勝沼家の別荘に滑り込んでいった。
 

「うわぁ〜〜〜……ひろ〜〜〜い!!」
 例によって彩乃が大袈裟な感嘆の声をあげる。今一同がいるのは、別荘の玄関ホールだ。吹き抜けになったホールは、これだけで普通の家が一軒入りそうなほどに広い。そこから左右に廊下が五〇メートル以上も伸びており、食堂や厨房へのドアが連なっている。
「部屋は二階だ。みんな、好きな部屋を使っていいぞ。集合は三十分後に下のビーチでな」
 しのぶの言葉に、少女たちは歓声を上げて、思い思いの部屋に散っていく。そうした中で、しのぶは紫音を呼び止めて聞いた。
「どうだ? これでも陋屋か?」
「……まぁまぁですわね」
 紫音は何でもない事のように言ったが、内心では悔しがっていた。実は、彼女の家……西九条家も伊豆の相模湾側に別荘を持っているのだが、ここまで広くはないからである。
(ふ、広さが絶対的尺度ではありませんわ。問題は趣味……)
 と、気を取り直して内装を見ても、これがまた、なかなか落ち着いた良い趣味である。紫音から見てツッコミを入れる余地はなさそうだった。
 しのぶも紫音が悔しがっていることは気付いており、こっそりニヤリと笑うと、彼女の肩を叩いた。
「じゃあ、また後で」
 とりあえず勝利を収めたしのぶを見送った紫音だったが、すぐに自分にはしのぶに負けないものがある事を思い出し、次に勝利を収める事を決意して、空いている部屋に向かった。勝利をより鮮やかにするための道具も、既に準備してある。
(次は浜辺で勝負よ)
 紫音は荷物を握り締めた。
 

 別荘の付属ビーチは、建物がある高台から専用の斜行エレベーターで五十メートルほど降った所にあった。周囲を急斜面で取り巻かれ、他人の入ってくる心配の無いそこは、長さ五百メートル近い白砂の海岸で、波も比較的穏やかだ。
「こんなところを独占できるなんて、素敵ねぇ……」
 比較的大人しい青のワンピースの水着に着替えたせりかがうっとりした口調で言う。確かに、しのぶの側近三人衆を入れてもたった十人で使うには広すぎる浜辺だ。まさに、至高の贅沢と言えよう。
「本当ですね……日本とは思えません」
 静かに波が打ち寄せるあたりで、こちらはピンクのワンピースに身を包んだ柚流が海水をすくいあげる。この辺りはもう太平洋に近いせいか、水も駿河湾の奥の方に比べればずっと澄んでいて、確かにどこか南国の島を思わせる風情だ。
 その背後では、白とオレンジのストライプ模様のセパレートを着た彩乃と、フリフリの萌黄色のワンピースを着たひなが砂の城を作り始めていた。その様子を微笑ましげに見守りつつ、柚流とせりかは首を傾げた。
「ところで……」
「勝沼さんと西九条さんと二階堂さん、遅いね?」
 ここにいる四人が来てからもう十分も経つのに、未だに三人は来ない。何をしているのだろう、と疑問に思った時、エレベーターのドアが開いた。
「あら、みんな早いですわね」
 紫音だった。その姿を見て、柚流とせりかは口をあんぐり開けた。
 何しろ、紫音が着ていたのは、ワンピースの水着ながら、いたるところが大胆にカットされ、しかもかなりのハイレグなデザインのものだったのである。グラビアアイドル顔負けのスタイルを持つ紫音だけに、それはよく似合っていたが、お嬢様らしい水着とはとてもいえない。
「西九条さん、ちょっと派手なんじゃないかしら?」
 顔を赤らめながら柚流が注意する。
「よろしいじゃありませんの。どうせ他の者達には見せないのですから」
 紫音が答えると、せりかが心配そうな口調で言った。
「で、でも……勝沼さんのお付きの男の人たちもいるんだよ?」
 男嫌いのせりかにとっての心配事がそれである。紫音が何か答えようとすると、それより早く別の声が聞こえてきた。
「安心しろ。コイツらは噛み付いたりしない」
 しのぶが問題の三人うち、直人と古手川を連れて砂浜を歩いてくるところだった。その姿を見て、紫音と柚流とせりかは口をあんぐり開けた。
 何しろ、しのぶはパーカーこそ羽織っているが、その下は布地面積極小の黒のマイクロビキニだったのである。ボトムのサイドも紐で結わえるだけの過激なデザインで、紫音の水着などまだ大人しく見える。
「か、か、かかか、勝沼さん、そ、そ、それ」
 柚流は何か注意したかったらしいが、ショックのあまり言語中枢がバグっていた。
「よ、良くそんなの着られるね」
 せりかはまだ幾分か、柚流に比べればショックが少ないようだったが、顔は真っ赤になっていた。
「ああ、なかなかカッコいいだろう?」
 しのぶはご満悦、と言った表情で答えた。水着売り場で一番目立っていたものを試してみたのだが、一発で気に入った。エク女のお嬢様がこれを買うのを、店員も不審な目で見ていたが、全く気にしなかった。
「し、信じられないわ。いくらなんでも……」
 そして、インパクトで完敗した紫音は呆然とした表情でブツブツと呟いていた。しのぶは逆にしてやったり、と言う表情で笑うと、辺りを見回した。
「久しぶりだが、相変わらず良い海だ。さて、楽しむか……って、帆之香がまだ来てないな」
 しのぶが言ったその時、背後でエレベーターのドアが開く音がした。もう後は帆之香しかいないので確認する必要もないのだが、一同はそちらを見た。
 はたして、そこに立っていたのは帆之香だった……が、その姿を見て、しのぶと紫音と柚流とせりかは口をあんぐり開けた。
 何しろ、帆之香は自分の水着に着替えているはずだったのに、何故かスクール水着だったからである。
「二階堂さん、どうしたの? その格好」
 柚流が聞くと、帆之香は真っ赤な顔で答えた。
「そ、その……去年の水着は入らなくなっちゃったの。胸がきつくなって……」
 場に沈黙が落ちた。ややあって、せりかが言った。
「か、神様って不公平だわ……」
「せりかちゃんはまだ良いよ。ボクなんて……」
 何時の間にかこっちへ来ていた彩乃がトホホ、といった感じで肩を落とす。
「む〜〜……」
 ひなまでが、水着の上からほとんどまっ平らな自分の胸に手を当てて唸っていた。かように、女の子にとっては胸の大きさと言うのは重要な事であるらしい。
(男にとっての背丈のようなものか……)
 しのぶは彼女たちの様子を見ながらそう考えた。彼女自身は、それほど胸の大きさにこだわりは無い。元々豊かな部類と言うこともある。紫音や柚流があまり帆之香の事に驚いたり羨ましがったりしていないのも、同様の理由からだろう。
「まぁ、あまり落ち込むな。それより海を楽しもうじゃないか」
 しのぶが言うと、一部やや盛り下がった部分はあるものの、歓声が浜辺にこだました。
 
 
 それから三十分ほどして、しのぶは海から上がると、直人が持ってきたパラソルの作り出す日陰に入った。
「お疲れ様でございます、お嬢様」
「ん」
 古手川が、持ってきたアイスボックスからよく冷えたサイダーを取り出し、しのぶに渡してくる。彼女はそれを一口すすると、ビーチマットに腰を下ろした。
「ふう。みんな元気だな……ついて行けん」
 今までは、泳いだり彩乃、帆之香と水の掛け合いをして楽しんだものの、やはり体力面で追いつかない。それに、是非一度やってみたいと思った事があったのである。それをするべく、しのぶは直人に声を掛けた。
「直人、頼みがあるんだが」
「は、なんでしょうか、お嬢様」
 海パンに愛用の仕込み杖と言う、非常に怪しい格好で待機していた直人は主の手招きに応じてそばにしゃがみこんだ。すると、しのぶは彼の手に何かを握らせた。直人が手を開いてみると、それはサンオイルの小瓶だった。
「……え?」
 何をして良いのかわからず戸惑う直人に、しのぶはビーチマットにうつぶせに寝そべって言った。
「ちょっと日に焼いてみようと思ってな。塗ってくれ」
 それこそ、しのぶがやってみようと思っていた事だった。紳一時代は陽光にあたる事すら体力を消耗するため、決して出来なかったことだ。
「は、はぁ!? わ、私がですか!?」
 直人は真っ白でなめらかなしのぶの背中に、激しく動揺しまくった。背中だけではない。マイクロビキニのショーツ部分の布が小さいため、形の良いお尻も三分の二は露出している。そこにも触って……と言うか、塗っていいのか?
「何してるんだ? 早くしてくれ」
 しのぶが苛立ったように催促してくる。すると、まだ金縛り状態の直人の手から、古手川が小瓶を取り上げようとした。
「では、ワシが……がふっ!?」
 その瞬間、直人が目にも止まらぬ早業で、古手川の鳩尾に一発当身を入れた。砂浜に倒れた彼の手から瓶を取り返し、直人は震える手で蓋を開け始めた。そして、手にサンオイルを振り掛ける……が、どう見てもこぼす量が多い。
「そ、それでは失礼します」
「うむ」
 自分の腕を枕にして寝そべるしのぶの背中に、直人はサンオイルを塗り始めた。艶やかな肌が、オイルの照りできらきらと輝き始める。直人は極力、主のその無防備にして美しい身体を見ないようにして、サンオイルを塗っていく。と、背中の半分ほどに塗り終えたときだった。
「あ、ちょっと待ってくれ」
 主の声に、直人は作業の手を止めた。
「なんでしょうか、お嬢様?」
 直人はさらに動揺した。まさか、触り方が嫌らしかったとか、そういう理由で叱責されるのかと思ったのだ。が、しのぶはそんな事は言わなかった。代わりに、彼女は直人によりダメージを与える行動に出たのである。
「背中に紐の跡が残るのはかっこ悪いそうだからな。ん……これで良し」
 しのぶはいきなりブラの背中部分の紐を解いたのである。直人が絶句するのも構わず、再びビーチマットに寝そべる。水着の縛めを解かれた彼女の形の良い胸が「ふにょん」と言った感じでつぶれ、身体の脇にはみ出す。
「さ、続けてくれ」
 しのぶが言うと、それに答えるように、彼女の背中に液体が振り掛けられた。
「ん? なんだ、大盤振る舞いだな」
 しのぶは苦笑し、目を閉じて塗りこみ作業の続きを待った……が、何時まで経っても直人が背中に触れてこない。
「……ん?」
 不審に思ったしのぶが顔を上げようとした時、いきなり複数の悲鳴が上がった。その方向を見ると、帆之香が真っ青な顔でくたくたと砂浜に崩れ落ち、柚流がそれに負けない蒼白な顔で、しのぶの方を指差していた。
「か、勝沼さん! ち、血が……背中に……!」
「え?」
 しのぶは背中に手をやった。すると、ぬるりと言う感触があって、指先にべっとりと何かが付着した。それを目の前に戻してみると、真っ赤に染まっている。
「うわっ!?」
 吐血経験豊富で血には慣れているしのぶだったが、久々に見るとさすがに動揺が走る。だが、彼女の背中には痛みなど無く、これほどの出血を伴う怪我をした覚えは無い。となれば、原因は……
「直人、お前か!?」
 しのぶが上半身を起こすと、直人は鼻から今も血をぼたぼたとこぼしつつ、忘我の境地を彷徨っていた。何故か「燃え尽きたぜ……真っ白な灰によ」と言うフレーズがしのぶの脳裏を過ぎった。
「こら、直人! 何度も言うが、そういうのはお前の芸風じゃないだろう! しっかりしろ!!」
 しのぶが直人の肩を掴んでがくがくと揺さぶると、焦点の合っていなかった彼の目に、光が戻ってきた。
「あ、お嬢様……!?」
 一瞬意識を覚醒させ、しのぶの姿を認めた直人だったが、次の瞬間、前にも増して激しい勢いで血を噴出し始めた。しのぶの身体にもそれが飛び散り、凄惨な有様だ。
「うわっ!? 直人! しっかりしろ!!」
 瀕死状態の直人に呼びかけるしのぶに、柚流が重大な事実を指摘した。
「勝沼さん! 上! ブラが落ちちゃってる!!」
「え?」
 しのぶは自分の姿を見た。そして、先ほどブラの紐を外していたことを思い出した。従って、彼女の胸は直人に対して剥き出しの状態にあった。
「ああ、そう言えば……」
 つぶやくように言うしのぶ。
「は、早く隠さないと……」
 柚流が現場の悲惨な有様にもかかわらず、勇気を出して接近すると、しのぶのブラを拾い上げ、着け直してくれた。しかし、失われた直人の血は戻ってこない。
「しょうがない奴だな……」
 しのぶは警備中の木戸に電話した。数分で、彼は担架を持った部下を引き連れて、現場にやって来た。完全に白化した直人を収容し、頭を下げる。
「こいつは適当に治療しておきます」
「ああ、任せた」
 木戸がついでに砂浜に轟沈したままの古手川を拾って帰っていくと、しのぶは直人の鼻血でベタベタになった身体を洗い流しに海へ入った。
 
 しのぶが身体を洗って、さっぱりした気分になって戻ってくると、パラソルの下では彩乃が待っていた。
「どうした、泳がないのか?」
 元気いっぱいで、この日もひたすらハイテンションに遊びまわっていた彩乃が大人しくしているのを見て、しのぶは首を傾げた。すると、彩乃は思いがけないことを聞いてきた。
「あのさ、しのぶちゃん。あの、椎名のお兄さんって、しのぶちゃんにとってはどういう人?」
「え?」
 しのぶは一瞬戸惑ったが、「椎名のお兄さん」が直人の事であるのを思い出して、答えた。
「あいつは、小さい頃に私の遊び相手として、父親が連れてきたんだ。それ以来、ずっと良く私に尽くしてくれている。それがどうかしたか?」
 すると、彩乃は顔を赤くして言った。
「あ、あのさ……しのぶちゃんて、お兄さんのこと、好き?」
「嫌いじゃない」
 微妙に答えになっていない答えをしのぶは返した。
(何が言いたいんだ? こいつ)
 しのぶは、彩乃がどうやら直人に淡い恋心のようなものを抱いていることには気付いていた。だから、彼に興味を持つことはわかる。しかし、しのぶが直人をどう思っているか、と言うことが何の関係があるのか? そこが理解できない。第一、嫌いな人間をしのぶが側に置くはずも無い。
 もし普通の人なら、ここで彩乃が「しのぶと直人には恋愛感情があるのか?」と言うことを問題にしていると理解できるのだろうが、あいにく、しのぶは色恋沙汰には疎い……と言うより興味皆無であり、また彼女にとっては直人は身近すぎて、そう言う事を考える対象にはならなかった。
「そっか……嫌いじゃない、か……うーん」
 訳がわからないしのぶの困惑をよそに、彩乃はしばし何かを考え込んでいたが、やがて顔を上げると、にぱっと笑った。
「負けないよ、しのぶちゃんっ」
「あ、ああ……って、何を?」
 しのぶが聞き返したときには、もう彩乃は元気を取り戻して、ばたばたと波打ち際の方へ走り去っていくところだった。
「わからん……女心は面倒だ」
 面倒なものだから、昔はそれについて考えることなどせず、踏み潰して通っていただろう。しかし、今のしのぶは彩乃が何を言いたかったのかを、考えるようになっていた。
 しかし、考えていた時間は、さほど長いものではなかった。
「か、勝沼さん、あれ!」
 やはりパラソルの下で休んでいた帆之香が、恐怖に凍りついたような表情で海の方を指差した。その先を見たしのぶも、ぎょっとしたように動きを止めた。
 紫音やせりかが戯れている辺りの少し先の海面を切るように、三角形をした異様な物が見え隠れしている。それは不気味にジグザグを繰り返しつつ、皆の方へ近づいていた。
「ま、まさか、サメ……!?」
 今にも卒倒しそうな帆之香の言葉に、しのぶは咄嗟に手に当たったもの……直人の仕込み杖を持って駆け出していた。
 サメは非常に敏感な嗅覚を持つ生き物で、水に落ちた一滴の血の匂いを、数キロ先から感知すると言う。先ほどしのぶは一滴どころではない量の血を海で洗い流した。近海にサメがいれば、それこそ狂喜して寄ってきてもおかしくは無い。
「みんな、陸に上がれ! サメだ!!」
 しのぶの叫びに、波打ち際近くにいた柚流とひな、彩乃がギョッとしたような顔になり、沖合いを見た。そして、背びれに気が付くと、慌てて陸に向かって駆け出す。
 しかし、それよりも沖の、足の届かないほどの深さのあたりを泳いでいた紫音とせりかはそう簡単にはいかなかった。陸に向かって必死に泳ぎだすが、サメは彼女たちよりも速く、見る見る距離が詰まっていく。
 ようやく、紫音とせりかの足が海底に着く。二人が必死の形相で海水を掻き分けて走り出す、その直後に背びれが迫っていた。そこへ、横合いから走りこんできたしのぶが、思い切り抜いた刀を叩きつけた。
 バキッ! という乾いた音がした。
「あれ?」
「え?」
 刀を振るったしのぶも、追われていた紫音たちも、不思議そうな表情で「それ」を見た。サメの背びれだと思っていたのは、ベニヤ板に色を塗って、それらしく見せかけたものだったのである。
「に、偽物?」
 せりかがへたり込みそうな体勢で言った。
「の、ようだな……誰だ? こんなタチの悪い悪戯を……」
 そこまで言って、しのぶは気付いた。これは悪戯と言うより……
 次の瞬間、彼女の足首を誰かが掴んだ。悲鳴をあげる間もなく、しのぶは海中に引きずり込まれた。
(……!)
 咄嗟のことだったので、肺の中に空気が少ない。反射的に叫びたくなるのをこらえ、しのぶは足元を見た。そこには黒いウェットスーツを着込み、アクアラングを着けた怪しげな男が、彼女をどんどん深みに引きずり込もうとしている。
(誰だか知らないが、そうまでして私を亡き者にしたいのか)
 しのぶは思った。前回の襲撃の時は命までは取られなさそうな雰囲気だったが、今回は間違いなく彼女を殺しに来ている。そう考えると、急に怒りが込み上げてきた。
(私は生きるためにこの姿になったのだ! もう、誰にも私が生きていくことを邪魔させるものか!!)
 しのぶはまだ手に持っていた刀を、思い切り振りぬいた。激しい手ごたえと共に手が痺れ、刀を取り落としてしまう。しかし、何か黒い煙のようなものが視界中に広がっていくのが見えた。同時に、足首を握っていた手が離れる。最後の力を振り絞り、しのぶは頭上遥かに見える海面を目指した。が、これまでの運動で、予想以上に彼女は体力を使いきっていた。あと少しのところで身体が動かなくなっていく。
(私は……生きるん……だ……)
 その思いを最後に、しのぶの意識は途絶えた。
 
 
 頬を何かが撫でるような感覚に、しのぶは目を覚ました。目を開けると、視界いっぱいに広がるピンク。
(ここは……どこだ?)
 しのぶが身を起こそうとすると、横から聞き覚えのある、古手川の嗄れ声が聞こえてきた。
「おお、お嬢様! 目を覚まされましたか!! じいは心配いたしましたぞ!!」
 横を向くと、古手川が醜い顔をさらに歪めて、しかし目からはボロボロと涙を流していた。
「じいがここにいる……と言うことは、ここは天国ではないな」
 しのぶが言うと、古手川は泣き顔をさらに歪めた。
「お嬢様〜〜〜! それはあんまりな言い方でございますぞ〜〜〜!!」
「いや、悪かった。済まん。ともかく、私は助かったのだな?」
 しのぶは古手川に謝りながら、自分の身に起きた事を思い出していた。謎のダイビング男に襲撃され、辛うじてそいつを撃退したものの、自分も溺れかけたということを。
「はい、御学友の皆様が、お嬢様を助けようと」
 古手川が最後まで言うよりも早く、ドアが開いて、わっと他の六人がベッドに駆け寄ってきた。
「しのぶおねえちゃん、だいじょうぶ?」
「勝沼さん、良かった……!!」
「大丈夫ですか? 私の顔がわかります?」
「しのぶちゃん、心配したよー」
「一時はどうなることかと……」
「相変わらず、悪運だけは強いようですわね」
 口々にしのぶの無事を祝う言葉をかけてくる少女たち。紫音だけはちょっと悪態混じりだったが、その態度は暖かみのあるものだった。
「ああ、心配かけて悪かった。助けてくれたのはみんなだったのか?」
 しのぶは素直に礼を言った。級友たちが語るには、しのぶがあの謎の敵に引き擦り込まれた後、必死に助けを呼びに別荘へ走ったのが彩乃で、紫音とせりかは、気を失った状態で浮かんできたしのぶを岸まで引っ張り上げたそうである。
「ふぅ……借りが増えたな、紫音」
「いずれまとめて払っていただくわ」
 二人が顔を合わせてニヤリと笑う。そこへ、失血で倒れていた直人と、部下を数名連れた木戸が入ってきた。真っ先にしのぶの元にやってきて、ひざを付いたのは直人である。
「も、申し訳ありませんでした、お嬢様……お嬢様の大事にお側を離れていたは、この俺の一生の不覚……いかようにも御処断ください」
 青い顔で言う直人に、周囲の少女たちが息をのむ。しのぶがどう裁定するのか、とハラハラした面持ちだ。しかし、しのぶは穏やかな口調で言った。
「お前が倒れたのは、私のせいでもある。そう気に病むな。それに、私が助かったのは、お前の刀のおかげだ」
 そう答えてから、しのぶは直人の刀を海中に落として来た事に気が付いた。
「あれは無くしてしまったが……今度新しいのを買ってやるから、まぁ許せ」
「あ、ありがとうございます……!」
 以前の主の性格からして、絶対に厳罰を食らうものと覚悟していた直人は、安堵と感激のあまり、さらに深々と頭を下げた。続いて、木戸が進み出る。
「私も、襲撃があるなら山側と思っていました。不覚です。申し訳ありません、お嬢様」
「良い。お前も謝るな。それに、お前の事だ。ただで相手を逃してはいないだろう?」
 しのぶが手を上げて木戸の謝罪を遮ると、彼は頭を上げて頷いた。
「はい。部下が怪しげな上陸跡を見つけて、追跡に入っています。そう遠くないうちに、襲撃者の足取りも掴めるでしょう」
 しのぶは報告を受け、満足げに微笑んだ。その時、彼女の頬をまた何かが撫でた。窓からの風に煽られたカーテンだった。窓の外に目をやると、駿河湾に今まさに沈もうとする美しい夕焼けの光景があった。部屋をピンク色にしていたのは、その光だったのだ。
 もうこんな時間か……と思った瞬間、きゅう……と言う可愛い音がした。彼女の腹の虫だった。
「あー……なんだか、安心したら腹が減ったな。じい、今日の夕食は何だ?」
 しのぶが照れ隠しのように言うと、古手川は満面の笑みを浮かべて答えた。
「はい、今夜は滋養がつくようにと、最高級のフカヒレを用意させました。存分にご賞味ください……って、いかがなさいました? お嬢様」
 メニューを聞いて何故かしのぶの顔が曇ったのを見て、古手川は不思議そうな顔をした。すると、しのぶは湿度の高い視線を彼に向けた。
「じい……あんな事があった後でフカヒレか? 勘弁してくれ、それは」
 その初めて見るしのぶの情けない顔に、一瞬の後、寝室で笑いが弾けた。
 
 
 それから数日後……残る別荘滞在期間を何事も無く過ごし、しのぶたちは東京へ戻った。屋敷に帰ったしのぶを待っていたのは、木戸の報告だった。
「襲撃の黒幕が?」
 首を傾げるしのぶに、木戸は頷いて報告書を読み始めた。
「はい、追跡した者たちで、不審な車を発見し、後を尾行したチームがあったのですが……これが途中で撒かれたものの、かなりの距離追跡に成功しまして、その行き先が、どうやらN県方面らしいとの事です」
 N県と聞いて、しのぶの脳裏に閃くものがあった。
「ひょっとして……磯部の手の者か?」
「は、可能性は高いかと」
 しのぶの言葉に頷く木戸。磯部は勝沼一族の傍流で、勝沼性を名乗ってはおらず、親族会議への出席権も無いが、かなり有力な家系だ。一つの村を事実上支配し、N県の行政面に強い影響力をもつという。そしてまた、宗家とそれに近い親族衆ですら鼻白むほどの、苛烈な暴力性向と横暴ぶりでも知られていた。
「バカな連中ですな。お嬢様を亡き者にしたところで、奴らが上に行くことなど無いものを」
 古手川が吐き捨てるように言うが、しのぶの感想は違っていた。
「いや、今私がいなくなれば、間違いなくもっと大きな御家騒動が始まるだろうからな。奴らが上に行くチャンスも出来ると踏んだんだろう」
 しのぶが言うと、直人が与えられたばかりの新しい仕込み杖を手にして言った。
「して、いかがします? 斬りますか?」
 側近の言葉に、しのぶは首を横に振った。
「今はダメだ。証拠が無いからな。だが、監視は強めておけ。もし今度私に牙を剥く気なら……」
 しのぶは愛らしい顔に凄みのある笑みを浮かべた。
「格の違い、と言うものを奴らに教えてやる」
「御意!」
 部下たちが力強く首肯した。紫音とは違い、「倒すべき」敵を見つけたしのぶの目には、燃えるような光が宿っていた。


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