悪夢でも絶望でもない話


六月の章 悪夢を見るお嬢様


 関東地方も梅雨入りし、湿っぽい毎日が続いていた。そうした中で、降る雨が途中から蒸発しそうな勢いで、熱い怒りのオーラを噴き上げている人物がいた。
 西九条紫音その人である。彼女が飽きもせずに立てた怨敵、勝沼しのぶ打倒計画は今回も失敗し、彼女の懐と精神に多大な打撃を与えていた。
「勝沼しのぶ……目ざわりな女……! 見ていなさい、今度こそ!」
 まぁ無理もない話である。幼いころから蝶よ花よとわがまま放題に育てられ、挫折も知らずこの世は私のためにある、と言う信念を抱くに至った紫音にとって、しのぶは最初の、そして強大な壁となっていた。
 何しろしのぶは紫音と同じ十六歳……という事になってはいるが、その実態は二四歳の青年だったのだから、八年間も余計に人生経験を積んでいる。しかも、甘やかされ放題で育った紫音とは違い、会社経営や陰謀と言った難しい分野におけるそれが豊富だ。真っ当にやりあって紫音がかなう相手ではない。
 しかし、そんな事実はもちろん紫音の知るところではない。彼女は一生懸命に子供らしい浅知恵でしのぶを倒そうとしていた。今までのところ、それはことごとく失敗しているが、やはり彼女も愚かではない。急速に陰謀の技量を上げ、今回は今までになく大掛かりな計画を実行に移そうとしていた。
 その計画実施にあたり、事前工作を担当していたボディガードの一人が、報告書を携えて紫音の部屋にやってきた。早速彼を部屋に招き入れた紫音に、ボディガードは報告した。
「勝沼家の使用人を数人買収する事に成功しました。上手くいけば、数日中に作戦を発動できます」
 紫音は頷くと、お嬢様らしい気品に満ちた美貌に邪悪な笑みを浮かべた。
「そう、良くやったわ。ふふふ……これであの女も後数日の運命よ」
 

 その日、しのぶの朝は一つのハプニングで始まった。
「え? 車が動かない?」
 登校の準備を整えたしのぶに申し訳なさそうに報告したのは直人だった。
「はい。エンジンがかからなくて……今整備士が見ていますが、早急に動かすのは無理かと」
「ふむ……それは困ったな」
 しのぶは腕組みをした。購入当時一億円、今も四千万円はすると言う勝沼家自慢のロールスロイス・リムジン。もちろん他にも車はあるが、ほとんどは市販品で、さすがの勝沼家でも、当主の専用車としてふさわしい「格」を持った車は、この一台しか保有していなかった。
「他の車は使えないのか?」
 しのぶが聞くと、直人はそれは大丈夫です、と頷いた。
「いささか格落ちの車ではありますが……致し方ありますまい」
 古手川も頷き、直人は早速車庫に向かった。数分後、もう一台の送迎用車、プレジデントが玄関前の車止めに引き出された。
「それでは行って来る、じい」
「はい、お気をつけて」
 車が狭いため、今日は古手川は同行せず、しのぶに随行するのは直人を除けば木戸一人だった。
「変わったこともあるものですな。あのリムジンは先代様の頃から使われていますが、走れないほど調子を落としたことはありませんでしたよ」
 木戸が言うと、しのぶは苦笑しながら答えた。
「それだと十年以上前の話だな。あれももう購入してから三十年近く経つ。いいかげんおかしくなってくる頃じゃないのか?」
 そうかもしれませんな、と木戸は答え、周囲に油断なく視線を送る。
「俺もあの車は運転しやすいから好きですよ……ところでお嬢様、もし直らなかったらどうするんです?」
 ハンドルを握る直人の質問に、しのぶは考え込んだ。買い換えると言うのは一番楽だが、あまり高価な車を買うようだと、親族会議で文句をつけられる可能性がある。直す方が楽そうだ。それに、しのぶはしのぶで、あのリムジンは気に入っていた。
「金に糸目はつけないから、しっかり修理してくれ。もし、その出費を親族会議で反対されても、説得するための手段はある」
 しのぶがそう答えると、直人と木戸は首を傾げた。
「手段?」
 すると、しのぶは胸の前で手を組み、木戸と直人を上目遣いに見ながら、小さな声で言った。
「あれは、お父様とお兄様の思い出の車です……修理をすることを許可してください」
 可憐な少女を演じるしのぶ。木戸の口がぽかーん、と開かれたが、数秒で気を取り直し、うんうんと頷く。
「その表情は反則ですよ、お嬢様。そんな顔でお願いされたら、私なぞ『よーし、パパ修理代全額持っちゃうぞー』という気分になるでしょう」
「いや、木戸のおっさんの言う通りですよ。さすがお嬢様です」
 直人も運転席から身を乗り出して言った。
「ふふふ……この私の演技力を持ってすればこのくらい……って、直人お前運転はどうしたんだーっ!?」
「……あ」
 しのぶが直人にツッコんだ直後、プレジデントは前を行くトラックに突っ込んだ。
 
「やれやれ、死ぬかと思った」
 しのぶは乱れた髪や服装を直しながら言った。背後では、さっきまで乗っていたプレジデントがめちゃくちゃに壊れている。充実した安全装備のおかげで、誰も怪我をせずに済んだのは不幸中の幸いだっただろう。しかし、気の毒なことに、相手のトラック運転手はむちうちになったらしい。
 事故現場には既に警察が到着し、しのぶも事情聴取を受けた。そして、直人は前方不注意と業務上過失傷害など、いくつかの違反を問われてしょっぴかれていった。後で保釈金を払ってやらねばなるまい。
「しかし、車がないとなりますと……どうやって学院まで行かれますか?」
 木戸の質問に、しのぶはタクシーでも拾う、と言いかけたが、彼女たちの車が起こした事故のせいで、現場は大渋滞だった。タクシーは来そうもないし、来てもなかなか動かないだろう。そこで、彼女は近くにある地下鉄の駅に目をつけた。
「しょうがないな。電車で行くか……木戸」
「はい、なんでしょうか?」
 決定を下した主の呼びかけに木戸が返事をすると、しのぶは少し恥ずかしそうな表情で言った。
「実は、電車の乗り方を知らん。教えてくれ」
「……はい?」
 木戸は思わず間抜けな声をあげた。
 
 数分後、しのぶと木戸は自動券売機の前に立っていた。
「学校の最寄駅までは…二百二十円ですな。その額を投入してボタンを押せば、切符が出てきます」
「こうか……? ふむ、意外と簡単なものだな」
 しのぶは木戸の言う通りにして切符を買うと、ニコリと微笑んだ。
「ええ、それで万全でございます。では、自動改札の通り方を…」
 木戸はしのぶに電車の乗り方を教えながら、それまで命令を下してくる一方だった主人が、自分の指示でぎこちなく初めての体験をこなしている事に、何とも言えない感慨を覚えた。
(娘をもつ父親の気持ちと言うのは、こう言うものかも知れんな……)
 そんな事を考える。もう中年の階段を登っている彼なら、世間的には十六歳の娘がいても、それほどおかしくはないだろう。もちろん、十年以上も側に仕えた主に対して自分の娘だなどと思うのは、おこがましいにも程があるが。
(今からでも、身を固めることを考えようかな……俺)
 暗闘と暴力の世界に身を置いて二十数年。初めて父親の気分を疑似体験して、人並みの幸せなどと言うものを追ってみたくなった木戸であった。
 それはともかく、仕事には手を抜かないのがプロと言うものである。木戸の万全の護衛の元、しのぶは無事に聖エクセレント女学院の校門前に辿り着いた。たぶん、しのぶだけだったら、あっさり道に迷っていただろう。
「木戸、もうここまでで良いぞ」
 振り返って言うしのぶに、木戸は丁寧に頭を下げた。
「では、帰りは部下の者に車を回させます」
 そう言うと、しのぶは少し考え、いや、と首を横に振った。
「車は良い。帰りも電車を使ってみる」
「え」
 木戸は戸惑った。しのぶは電車を気に入ったらしいが、ガードする方から見れば、公共交通機関を使われるのはやりづらくて仕方ない。
「構わないだろう? 頼む」
 しかし、そんな木戸の内心の困惑を知らぬげに、しのぶはお願いを繰り返した。これでは木戸も「ダメです」とは言えない。先代がつけた古手川、直人の二人とは違い、木戸はしのぶ(紳一)に取り立てられた経歴があり、ある意味二人以上にしのぶには恩義を感じている身だったからだ。
「仕方ありませんな…護衛の人数を増やしましょう。3人もいれば完璧でしょう。ただし、絶対に寄り道などはせず、護衛の言うことに従ってくださいよ?」
「わかっているさ。子供扱いするなよ」
 心配する木戸を笑い飛ばし、しのぶは校門を潜って行った。
 
 教室に入ると、さっそく帆之香と彩乃が声を掛けてきた。
「おはよう、勝沼さん」
「しのぶちゃんおはようー」
「ああ、おはよう」
 二人に挨拶し、はにかんだように笑いながら見上げてくるひなの頭をなでてやる。いつのまにか定着した、しのぶの朝のパターンである。時々、そんな和みきった自分の姿に自己嫌悪を覚えることもあるが、最近では気にならなくなってきた。
「しのぶちゃん、今日車じゃなかったみたいだけど、どうしたの?」
 彩乃が尋ねてきた。どうやら、校門から歩いてくる最中の彼女を目撃していたらしい。
「車? 壊れたんだ。一台は修理中で、もう一台は廃車だ」
 しのぶは簡潔に説明したが、簡潔すぎて三人には良く伝わらなかったようだ。何があったのかと首をひねっている。しのぶが詳しく事情を説明すると、3人の目が丸くなった。
「事故に遭ったって…良く無事だったわね」
「大丈夫で良かったの」
 帆之香とひなが言うと、彩乃が心配そうに言った。
「あの運転手のお兄さん、捕まっちゃったんだ…大変だなぁ」
 その彩乃の言葉に、ただ心配していると言う以上の何かを感じて、しのぶはクスリと笑った。こういう人の弱みを探すことに掛けては、彼女は最強である。
「ん、何だ……彩乃は直人みたいのが好みか? よかったら今度紹介してやろうか?」
 そう言った途端に、彩乃の顔が真っ赤になった。
「そ、そんなんじゃないよっ! ただ、ボクはお兄さんがいないとしのぶちゃんが困るんじゃないかと思って」
「確かに運転手がいなくなると困るな」
 しのぶは真顔で答えた。
「とは言え…いつかはあいつも私から離れていくだろうしなぁ……知り合いと結婚したりするなら、まだ安心なんだが」
 これはしのぶの本心である。男だった頃は、直人がいつでも自分の側にいて、なんでも命令を遂行しようとするのは当然だ、と思っていた。しかし、自分が女の子になっている今、直人が自分の側にいようとするかどうかはわからない。実際、しのぶは以前とは直人が自分を見る目が違うと感じていた。
 それは今まで直人が忠誠を尽くす理由が「義務感」で出来ていたのが、「萌え」だの「照れ」だのが混じるようになり、成分が変わったからであって、直人がしのぶに対して寄せる想いの量は一向に変わらない…というよりむしろ増大しているのだが、好意を寄せられる事に慣れていないしのぶは、逆に隔意のようなものを感じてしまうのだった。
 一方、しのぶの胸中など知る由もない彩乃は、ますます顔を赤くしていた。
「し、知り合いと結婚って……」
 そこで、しのぶは追い討ちをかけた。
「いや、誰も彩乃の事とは言ってないが」
「だから、何でそうなるのっ!? しのぶちゃんのいぢわる!!」
「あははははは」
 彩乃をからかいまくって楽しむしのぶに、それを楽しそうに見る帆之香とひな。朝の教室の一角は和やかな空気に包まれまくっていた……が、それを乱す存在が出現した。
「ごきげんよう、皆さん」
 しのぶは顔を上げた。すると、そこには紫音が立っていた。
「ああ、ごきげんよう。紫音」
「なれなれしく呼び捨てにしないでくださらない?」
 しのぶの挨拶に柳眉を吊り上げた紫音だったが、挑発に乗りかけたことを悟って、ふうっと肩の力を抜いた。
「まぁ良いですわ。それより、車を壊したんですって?」
 紫音の質問に、しのぶは素直に首を縦に振った。
「ああ。朝からスリル・スピード・サスペンスな展開だった」
 答えを聞いて、紫音は何か勝ち誇ったような笑顔を浮かべた。
「それで電車通学ですの。予備の車がないなんて大変ですわね」
「電車と言うのもなかなか楽しいけどな」
 しのぶは真剣な思いを込めて言った。挑発に失敗した事を悟った紫音は一瞬憮然とした表情になったが、すぐに唇の端を少し吊り上げるようにして笑い、謎めいた事を言った。
「そうですの。いつまでも楽しいと言っていられればよろしいですわね」
 一方的に言うと、紫音は踵を返して自席に戻っていった。しのぶは首を傾げた。紫音が何しに来たのか、さっぱりわからなかったのだ。ただ、また何か悪巧みをしているのだけは想像がついたが……
「西九条さん、何しに来たんだろ?」
「あの人も良くわからないわね」
 彩乃と帆之香も訳がわからないらしい。
「まぁ、あいつが何を考えてても関係ないさ」
 しのぶはそう言って紫音の話題を打ち切った。何を企んでいた所で、いつものように叩き潰して押し通るだけのこと。結果に大差はない。

 しかし、しのぶが話した事故の事は、紫音の進める陰謀にとっては有利な要素として働きつつあった。
「あの女は、明日からしばらく電車通学になるわ。手の者を潜り込ませなさい」
 教室を出ると、紫音は階段の踊り場で電話をかけていた。
『承知しました。場所も既に準備してありますので、お嬢様の命令があり次第、いつでも作戦を開始できます』
 電話の向こうで、謎の声が返事をする。紫音はニヤリと邪悪な笑みを浮かべると、冷酷な口調で言った。
「では、今日、この時間から作戦開始よ。あの生意気な女を徹底的に立ち上がれないようにしてやるのよ」
『かしこまりました』
 電話が切れる。紫音は満足げな笑みを浮かべ、ポケットに携帯電話をしまいこんだ。彼女の中で、しのぶが大恥をかいて泣き叫ぶ様は、もはや既定の事実となっていた。
 
 その日は特に問題もなく終わり、しのぶは護衛を引き連れ、電車を乗り継いで家に帰ってきた。帰った彼女を出迎えた古手川は、鞄を受け取りながら事故の事を言った。
「今日は災難でございましたな、お嬢様」
「ああ、さすがに驚いたぞ。ところで、車の修理状況はどうなっているんだ?」
 しのぶが聞くと、古手川は渋い表情になった。
「よろしくありませんな。どうも、エンジンのかなり重要な部分が壊れたらしく、当家の使用人では手が出かねる、との事です。明日以降メーカーを呼んで修理させますが、まぁ数日はかかるのではないかと」
「そうか」
 しのぶが頷くと、てっきり彼女が怒り出すと思っていた古手川は、拍子抜けしたような表情で言った。
「お怒りになりませんので?」
「別に。修理できるのなら大した事じゃないからな」
 しのぶがそう答えると、古手川は申し訳なさそうな顔になって頭を下げた。
「そのお心の広さに感謝いたしますぞ、お嬢様。我らにとっては、お嬢様に下民の乗る電車などで通わせることを心苦しく思っているのですが……」
 その古手川の大仰な言葉に、しのぶは苦笑すると、古手川に尋ねた。
「じい、最寄の駅からこの家まで、どのくらいの距離があるか知っているか?」
 古手川は首を傾げた。
「さて……二キロくらいでありましたかな。門から玄関までを勘定に入れますと、さらに五百メートルほど延びると思いますが……」
 しのぶは頷いた。
「まぁ、そのくらいだろう。護衛の者たちもそう言っていた。さて、昔の私がその距離を歩けたと思うか?」
 古手川は首を横に振った。
「いえ……それは無理だったでしょうな」
 かつての紳一ならば、二・五キロを歩き通す事など出来ず、玄関から門に行くまでで力尽きていたかもしれない。
「だろう? つまりはそう言う事だ。昔の私には絶対に手に入らなかったものを手に入れたんだ。それを確認できると言うのは嬉しいものだぞ」
 しのぶは微笑んだ。歩くと言うのも面倒くさくて、いずれは飽きるかもしれないが、自分が本当に健康になったのだと言うことを知る機会だと思えば、そう悪いものではない。
「なるほど、そういう事でございましたか」
 古手川も笑った。
「それでも、車の修理は急がせましょう。やはり一般人と同じ空間を移動すると言うのは、危なくて仕方ありませんからな」
「ああ、よろしく頼む。ところで……直人はどうなった?」
 古手川の言葉に頷いてからしのぶが聞くと、古手川は首を横に振った。
「今日はまだ取調べで帰って来れませぬよ。まぁ、お嬢様の身を危険に晒したのですから、あやつには良い薬でしょうな」
 前にも述べたが、古手川は直人に良い感情を持っていない。昔からどちらがより主に忠実であるかを争ってきた相手だからだ。
「そういう考え方もあるか。それでも、車が戻ってくるまでに運転手がいないでは格好がつかないからな、出来るだけ早く保釈されるように手を打ってやれ」
「承知しました」
 しのぶに言われ、不承不承ながら古手川は頷いた。
 

 そして翌日……しのぶはその朝も木戸と、その部下二人に守られて登校した。教室に入ると、また帆之香と彩乃に取り囲まれる。
「しのぶちゃん、今日も電車通学なんだね」
 彩乃に言われ、しのぶは頷いた。
「ああ、ちょっと気に入ってな。彩乃もやってみたらどうだ?」
 彩乃は苦笑して首を横に振った。
「ボクは遠慮しておくよ。ボクの家からだと、学校に行く電車はラッシュアワーの時間だからね」
「私も…」
 帆之香も同調する。彼女たちの家は郊外なので、都心方向にあるエク女に来るには、かなりきついラッシュにもまれなければならない。しのぶの家からだと、逆に郊外方向になるので、座れるくらいには空いているのだ。
 彩乃などはそれでも構わないと思うのだが、エク女の制服は何しろ目立つ。しのぶのように護衛をつけられるならともかく、そうでない生徒では誘拐や痴漢といった犯罪に巻き込まれる危険性もあるだけに、安全保障の面からも自動車通学の方が親としては安心だった。
「そうか……まぁ、確かにあれは私も嫌だな」
 反対方向の電車が人でぎゅうぎゅう詰めになっていたのを思い出し、しのぶは頭を振った。
「わたしはしのぶおねえちゃんと同じ方向なの」
 ひなが言ったが、しのぶも彼女に関しては止めた。
「いや……ひなはやめとけ。小さい子が乗るには危ない」
「むー」
 ふくれっ面になるひな。年長(に見える)三人は思わず吹き出した。そうやって、朝のひと時は和やかに過ぎていった。
 そうやって気楽にいられたのは朝のうちだけで、授業が始まって数分後、しのぶは唸っていた。
「うーむ……まさか私がこんな事をするとは」
 そういう彼女はボリュームのある髪の毛を三角巾に押し込み、制服の上からエプロンを装備していた。そう、この時間は調理実習である。
 ちなみに、しのぶがエプロンを用意させようと古手川に声をかけたら、「裸エプロンとはマニアックですな!?」と意味不明な事を言って一人で興奮していたので、とりあえず殴り飛ばしておいた。
「はい、それでは今日はあんまんの作り方を一緒に勉強していきましょうね〜」
 家庭科教師の出雲澄乃がニコニコと満面の笑みを浮かべながら言った。出雲という苗字で推察されるように、彼女はしのぶたちの担任、出雲彼方の妻である。しかし、その若々しさはしのぶたちと同年代と言っても違和感がなく、とても人妻で一児の母とは思えない。ただ、彼女が若く見えるのは外見のせいだけではなかった。
「あの、先生……教科書ではクッキーの作り方のはずですけど」
 クラス委員長の柚流が手を上げて発言した。
「私もそう思って、クッキーの材料しか用意してきませんでしたけど……」
 続いて礼菜もてを上げた。すると、澄乃は不思議そうな表情になった。
「えぅ〜? お菓子の調理実習だよ? お菓子といえばあんまん、あんまんと言えば命の源だよ〜」
 澄乃の言葉に、家庭科実習室全域に重苦しい疲労感が漂う。澄乃はエク女の教師に採用されるくらいだから、決して無能ではなく、名門温泉旅館の女将を任せても勤まるだけの才覚を持っていたが、外見よりもさらに低い精神年齢には誰もが疲労させられていた。
「……ともかく、先生のわがままでカリキュラムを曲げないで下さい」
 柚流が疲労感に目の間を揉みながら言うと、ようやく澄乃はクッキー作りに戻ることに同意した。ここまでに貴重な時間が15分も過ぎている。
「さて……どうしよう」
 しのぶはあたりを見回した。当然の事ながら、彼女は今まで料理など全くしたことがない。幸い、今日は刃物を使うような仕事は何もないので、怪我をする心配は少ないが、何をしたら良いのかわからない、と言うことに変わりはない。
「勝沼さん、どうしたの?」
 そこへ、澄乃を堂々と注意した柚流がやってきた。三角巾とエプロンが妙に似合っているのを見て、しのぶは柚流なら料理に詳しいのではないか、と判断した。
「柚流、私はクッキーなんて作ったことがないんだが……どうしたら良いんだ?」
 柚流はそれを聞いて一瞬驚いたような顔になったが、すぐにクスクスと笑い始めた。
「…何がおかしいんだ?」
 しのぶがムッとした顔で柚流を見ると、彼女は慌ててごめんなさい、と謝ったが、また笑顔に戻って笑った理由を説明した。
「だって、勝沼さんっていつも自信に溢れた感じなのに、そんなクッキー作りくらいで困るなんて、可愛い所もあるんだなぁ、と思って」
 しのぶはそれを聞いて憮然とした表情になった。
「同級生をからかうな」
 可愛いと言われたのは、彩乃からに続いて二人目だ。外見が可愛いことは自分でも認める……むしろ堂々と誇りにしているくらいだが、内面までそう思われるのは不本意である。
「誉めてるんだけどなぁ……でもまぁ、手順がわからないって言うなら、一緒にやりましょうか」
 柚流の申し出は、しのぶにとっては願ったりかなったりだった。しかし、「可愛い」と言ってきた相手に頼り切るのは、なんとなく悔しい。
「いや……とりあえず最初だけ教えてくれ。後は自分でやってみる」
 しのぶが言うと、柚流はにっこりと笑って頷いた。
「そうね。ちゃんと自分でやらないと覚えないものね。じゃあ、わからないところがあったら、今のうちに聞いて」
 しのぶはその言葉に従い、最初の方の手順について柚流に確認した。それが終わると、いよいよ初めてのクッキー作りに取り掛かる。
「最初は……バターを練るのか」
 手順を口に出して確認しつつ、しのぶはバターをボウルに入れて、泡立て器で練り始めた。しかし……
「う、腕が痛い……くそ、ちっとも柔らかくならないじゃないか、このバター」
 しのぶは堅いままのバターに悪態をついた。柔らかくならないのは当然で、しのぶは冷蔵庫から出したものをそのまま使っていたのである。他の生徒たちはいったん湯せんにかけるなどして、バターを柔らかくしてから練っていたが、しのぶがそんな技法を知るはずもない。
 しばらく堅いバターと格闘しているうちに、ビキビキ……と音を立てて、泡立て器が変形してしまった。唖然とした表情でひん曲がった泡立て器を見ていたしのぶだが、誰も見ていないことを確かめると、それをゴミ箱に投げ捨て、別の泡立て器を手にとった。
 その繰り返しで、しのぶが3個の泡立て器を再起不能とし、ようやくバターがそれなりに柔らかくなった時には、既に他の生徒の中には生地作りを終わらせかけている者もいた。
(むぅ……私だけ遅れているぞ。急がねば)
 しのぶは次の工程として、卵を割ると、ろくにかき混ぜもせず、白身と黄身を分離もせずにボウルの中に放り込み、強引にヘラで混ぜ始めた。そこへ砂糖を入れ、バニラエッセンスを振りかけて、さらに混ぜていく。
「……教科書に比べると、なんだか水っぽいな」
 しのぶは首を傾げた。白身を分離していないので、水っぽいのは当然である。しかし、今は急ぐのが先決だ。しのぶは理由をさして考えず、アーモンドパウダーと小麦粉を「ぶちこむ」と言う形容詞がふさわしい勢いでボウルに入れ、さらに混ぜていく…が、今度は。
「……今度はなんだか粉っぽいな」
 ちゃんと粉の量を量らずに入れているので、これまた当然である。しのぶは少し考えて、水を少し生地に混ぜ、なんとなく見た目だけは教科書通りにした。本当は、ここから三十分ほど生地を寝かせて馴染ませ、その間にクッキーを入れるラッピングを作ったりするのだが、手間取ったしのぶには、もうあまり時間が残されていなかった。
「まぁ、三十分くらい別に構わないだろう。このまま焼いてしまえ」
 しのぶはあっさり寝かせる時間を放棄し、生地を二十枚ほどに分けると、適当に並べてオーブンに放り込んだ。これで、ようやく他の生徒たちに追いつく。
「ふぅ……これで焼き上がりを待つだけか」
 額に浮いた汗を拭った時、柚流が声をかけてきた。
「あ、勝沼さん。結局質問に来なかったけど…大丈夫?」
 しのぶはにやりと笑って頷いた。
「ああ。完璧だ」
「そう、それなら良かったけど…あら、ラッピングは?」
 しのぶが何も作っていないのを見て、柚流は首を傾げた。
「う……ちょっと生地作りに手間取ってな。まぁ、何とかなるだろう」
 しのぶが額に汗を浮かせて言うと、柚流はくすっと笑って、ラッピングの材料に手を伸ばした。
「急いで作っちゃいましょう。何個作る?」
 柚流に問われて、しのぶはあごに手を当てた。
「そうだな……四つかな。三つはあいつらにやろうと思う」
 この時彼女の脳裏に浮かんでいたのは、古手川、直人、木戸の三人だった。たまには日頃の忠誠に対して何かのご褒美をやっても良い頃だ。しのぶお手製、至高のクッキーなら、彼らにやるには十分だろう。残る一つは自分用だ。
「四つね。ちょっと時間が辛いかな?」
「何とかなるだろ」
 しのぶは柚流に答え、鋏で紙袋用の包装紙を切り始めた。作業開始から数分後、向かいで紙袋の口を紐で閉じようとしていた柚流が、ふと顔を上げた。
「……勝沼さん、なんだか変な匂いがしない?」
「ん? ……そう言えば」
 しのぶは鼻をひくひくさせた。クッキーが焼ける甘い良い香りに混じって、明らかに異質の何かが…と思ったその時。
「し、紫音様! クッキーが焦げてます! って言うか、燃えてます!!」
 誰かのけたたましい声に、教室にいた一同は一斉にその方向を見た。すると、紫音のいたテーブルのあたりで、なにやら白と灰色の煙が沸き起こり、のぞき窓の向こうに黄色の火がちらちらと見えていた。
「な、なんてこと、私のクッキーが! 急いで消火するのよ!!」
 紫音が慌てふためいたように叫んでいた。しかし、実際には彼女は何もアクションを起こしていない。そうしている間に、火が大きくなっていく。
「きっとバターを混ぜすぎたのね……」
 柚流が炎上の理由を冷静に分析する。
「え、えぅ〜っ!? か、火事だよ〜〜!?」
 一方、恐ろしいことに、こんな時一番冷静であるべき澄乃が最も混乱していた。ダメだこりゃ。とりあえず火を消すか…としのぶがボウルに水を汲んだ時、実習室の扉が開いて、何か大きな人影が飛び込んで来た。
「火事だと! 火事はどこだ!!」
 その聞き覚えのある声は、何故か担任の彼方だった。
「あっ、彼方ちゃん! 火事はあそこだよ!!」
「よし、任せろ」
 彼方は担いできた消火器を炎上するオーブンに向けて、ハンドルを握った。ブシュウ、と音を立てて噴出した消化剤が、一瞬で炎を消し止める。
「えぅ〜っ、さすが彼方ちゃん!」
「はっはっは、無事か? 澄乃」
 彼方と澄乃は「お前ら授業はどうしたんだ」という一同の心の中でのツッコミを受けつつ、誰憚ることなくばかっぷる振りを発揮していた。一方……
「わ、私のクッキーが……」
 紫音のクッキーは程よく炭化したところに消化剤をまぶされ、完全に産業廃棄物と化していた。
「紫音も料理ダメだったんだな……」
 しのぶが言うと、ひなが横から口をはさんできた。
「紫音ちゃんは前も肉じゃがを焦がしてたの。火加減が苦手だと思うの」
 どうやら、中学時代は同じクラスだったらしい。しのぶは苦笑し、自分のクッキーを見た。幸い、それはもう程よく焼けているようだった。まだ少し早いが、焦げる前に出しておこうと、しのぶはオーブンのスイッチを切って、焼きたてクッキーを取り出した。
「あ、結構良い焼き色になったわね。とりあえず、冷ましておきましょう」
「ああ」
 ケーキクーラーに金網を敷き、その上にクッキーを並べていく。さぞかし良い匂いが出ているだろうと思われたのだが……
「こう焦げ臭いと、これの匂いがわからないな……」
「そうね」
 しのぶと柚流は顔を見合わせた。
「まぁ、大丈夫だろう……たぶん」
 しのぶは「一部手間を省いた」とは言え、ちゃんと指定の材料を入れて混ぜて焼いたのだから、それほど問題になっているとは思えなかった。冷ました所で予鈴が鳴ったため、試食はせず、完成したクッキーは五個ずつ分けてラッピングし、鞄の中にしまいこんでおいた。
(ふふふ……あいつらにこのクッキーをやったら、どんな顔をするだろうなぁ)
 きっと感謝感激して、自分に対する忠誠の念を新たにするに違いない。そう思うと、顔が幸せそうに緩むしのぶだった。
 
 調理実習も済んで、放課後である。
「勝沼さん、じゃあね」
「しのぶちゃん、また明日」
「ばいばいなの」
「ああ、またな」
 部活に出る帆之香、彩乃、車で帰るひなと別れ、しのぶは校門までの道を歩き始めた。道の両脇はイチョウの並木で、秋になるとそれは美しいらしい。
(秋のイチョウか…また見られるとは思わなかったが)
 例の遺伝子治療を受ける前は、夏まで生きられるかどうかもわからなかった。性別が変わり、年齢は下がり、以前と比べて権力に制約が付くようにもなったが、普通に生活できると言うのは良いものだ。
 そんな事を思いながら歩いていると、校門の前で三人の男が待っていた。二人は見覚えがある。木戸の部下のガードマンだ。
「お嬢様、お迎えに上がりました」
「ああ、ご苦労。……そっちは誰だ? 見ない顔だが」
 しのぶに聞かれ、その見知らぬ一人が頭を下げた。
「今度お屋敷のガードに回された新人の佐藤です。先輩が腹痛で来られないと言うので、急遽代理になりました。よろしくお願いします、お嬢様」
「そうか、よろしく」
 特に深く考えもせず、しのぶは佐藤と言う男の言葉に頷き、駅までの道を歩き始めた。三人がすっと彼女の周りを取り巻く。もし襲撃があっても、決して護衛対象には傷をつけさせない鉄壁の布陣だ。
 本来なら。
 それが崩れたのは、駅に行く途中で、道端に何処かの運送会社のワゴンが止まっている場所だった。突然、しのぶの右を歩いていたガードマンが呻き声を上げて倒れたのである。
「!? どうした、おいっ!」
 リーダー格の男が振り返ったその時、「バチッ」と言う音を立てて、彼も白目を剥いて倒れた。同時に、ワゴン車から二人の男が飛び出してきた。
(まさか、襲撃!?)
 しのぶは事態の急転に驚き、まだ無事なはずの新人佐藤の方を見た。ところが、彼の手に握られているものを見て、しのぶは事情を悟った。佐藤の手には電気銃──射程の長いスタンガンのようなもの――が握られていたのである。
「佐藤……お前」
 しのぶが言うと、佐藤はニヤリと笑った。その表情は何処かで見覚えがある、としのぶは思った。
「察しが良いな、勝沼のお嬢様。付き合ってもらうぜ?」
 その声と同時に、ワゴンから出てきた男たちがしのぶの腕を取って拘束しようとした。咄嗟にそれを振り払った彼女は、逃げようと一歩を踏み出す。しかし、電気銃の射程から逃げることが出来ず、わき腹に突き刺さるような痛みを感じると共に、意識がすっと遠のいていった。完全に気絶する直前、ワゴンの荷台に放り込まれたしのぶの耳に、エンジンのセルモーターが回る甲高い音が聞こえてきた。
 それは、しのぶを地獄に連れ去る悪魔の高笑いに聞こえた。
 
 
「……ん?」
 頬に感じる冷たさに、しのぶは目を覚ました。しかし、まだ意識がはっきりせず、自分の置かれた状況が理解できずにいた。ぼんやりと辺りを見ようとして、身体が上手く動かせない事に気付く。どうやら腕が後ろ手に縛られているらしい。
(ここは…私は一体?)
 そう考えた時、男の嘲笑うような声が聞こえてきた。
「目が覚めたかい、お嬢様」
「!」
 その声を聞いた瞬間、しのぶは全てを思い出した。下校中に声の主――新人佐藤に電気銃で撃たれ、そのまま拉致されてきたのだということを。
「佐藤、貴様……!」
 しのぶは唸るように言いながら佐藤を睨みつけた。
「おお、怖い怖い」
 佐藤がおどけるように言うと、仲間たちの笑い声が響いた。しのぶが今いる部屋はどこかの地下室らしく、非常に暗くて、空気も澱んでいる。灯りも裸電球一つだけで、顔が見えるのは佐藤一人だ。
「強がるのも良いが、少しは自分の立場を理解したらどうだい、お嬢様」
「……くっ」
 しのぶは屈辱に身を震わせた。拘束された上に、相手は男三人。どうあがいても絶対に倒すのは無理な相手だ。しかし、言いなりになるのは彼女の誇りが許さない。
「……何が狙いなんだ。金か?」
 しのぶが激情をこらえて言うと、佐藤は首を横に振った。
「いやいや、金にはあまり困ってないんだ。俺達の目的は、お嬢様、あんたさ」
「私?」
 思いがけない言葉に、思わずきょとんとするしのぶ。すると、佐藤はニヤリと笑い、椅子から立ち上がった。同時に仲間の二人の男も。
「雇い主の命令でね……あんたをめちゃくちゃにして、二度と表舞台に立てないようにしてやれ、と言われたのさ」
 同時に、男たちの目に好色そうな光が浮かぶ。しのぶは自分が何をされようとしているのか、正確に悟った。
「いっ……」
 嫌だ、と言おうとしても、恐怖で舌が動かない。その脳裏に、自分の過去の記憶が蘇ってくる。
 ……そう、しのぶ――紳一もかつてはこの男たちと同じような事をしていた。欲望に任せて他人を蹂躙するなど日常茶飯事だった。
 その事に対する因果応報だ、と思うほど彼女は殊勝な性格はしていない。それでも、かつて自分が犠牲にした人間がどういう気持ちだったのか、少しは理解できた。それは、男たちが飛び掛ってきた瞬間にピークを迎えた。
「やだ…嫌だ! やめろ! やめろーっ!!」
 身体を荒々しくまさぐる男たちの手に、必至に抗うしのぶ。しかし、非力極まりない彼女の力では、激流に揉まれる木の葉よりもはかない存在でしかなかった。
「大人しくしろよ、お嬢様! 最後の想い出に天国に連れて行ってやるからよ!!」
 制服がびりびりと音を立てて引き裂かれ、しのぶの白いシミ一つない素肌が露わにされていく。今日の彼女の下着は濃い赤色だが、それがまた男たちの興奮を煽った。
「なんだ、お嬢様の割にはエロい下着だなぁ……そそるじゃねぇか」
 その嘲笑うような声に、しのぶは顔が真っ赤になっていくのを感じた。それが羞恥なのか怒りなのか、それもわからない。
(くそっ、そんな事で恥ずかしがるような俺じゃ……あぁ、やだぁ……さわるなぁ……)
 とうとう服は残らず引き裂かれた布の切れ端になり、しのぶはほとんど全裸にされてしまった。男たちも服を脱ぎ、最初の一人――佐藤が彼女の上にのしかかろうとしてきたその時だった。
 突然、部屋のドアが激しい音を立てて開かれた。驚くしのぶと男たちの前に、特殊警棒を持った屈強な男が数人現れる。
「な、なんだ、てめぇら……ぐわっ!?」
 しのぶを襲っていた男たちが容赦なく警棒で殴られて、壁まで吹っ飛ばされる。
「え? ちょ、ちょっと待て、どういう事だよこれは…ぐぎゃっ!」
 そして、佐藤も二、三人に容赦なく袋叩きにされ、たちまち沈黙した。新手の男たちはどうやらしのぶに手を出す気はないらしく、それどころか、リーダー格らしい男は「大丈夫ですか?」と声をかけながら、彼女の身体に上着を着せ掛けてくれた。
「あ、ありがとう……」
 思わず素直な気持ちで礼を言うしのぶ。一体この人たちは誰なんだろう、と思ったとき、新たな登場人物がそこに現れた。
「酷い目にあったようね」
 しのぶは信じられないものを見て絶句したが、どうにか搾り出すようにしてその名前を呼んだ。
「し……紫音?」
「気安く呼ばないで下さる?」
 紫音はそう釘を刺してから、しのぶに言った。
「何で私がここにいるのか、という顔ね」
 しのぶは素直にこくこくと頷いた。紫音はそれを見て満足そうに微笑むと、種明かしを始めた。
「実は、私の家の者が、貴女が連れ去られるところを見たのよ。それで急いで後を尾けて、監禁されてるのがわかってから、こうして警備部門の人間を呼んだというわけ」
「そうだったのか…」
 しのぶは頷いたが、ふと疑問にかられて尋ねた。
「それにしても、良くそんな都合良く部下が目撃してたな」
「そ、それは……まぁ、良いじゃありませんの、助かったんだから」
 紫音は笑ってごまかしたが、実は最初にしのぶを襲撃するはずだったのは、実は彼女の部下たちである。と言っても、誘拐して監禁して……という手荒なものではなく、パイをぶつけてクリームまみれにする、というある意味平和な襲撃の予定だったが。
「それもそうか。ともかく、助かったよ。ありがとう、紫音」
 しのぶも深く追求せずに頭を下げた。すると、紫音は勝ち誇った表情で「紫音様」と言った。
「……え?」
 しのぶが怪訝そうな表情になると、紫音は胸を張って、しのぶを睥睨するようにして、言葉を繰り返した。
「紫音様、よ。命と貞操の恩人を呼び捨てになんてしないわよね?」
 ここぞとばかりに優位に立つ事を目指す紫音に、しのぶは頭を掻くと、紫音の顔を見た。
「本当にそう呼んでいいのか?」
 その言葉に、紫音は変な顔をした。
「何よそれ? そこは『本当にそう呼ばなきゃいけないのか?』って聞くところじゃないの?」
「それは…まぁ、論より証拠かな」
 しのぶは謎めいた事を言うと、手を胸の前で組み、紫音をまっすぐ見つめ、微かに目じりに涙を浮かべさせて言った。
「ありがとうございます……紫音様」
 最初は何事も起きないように見えたが、三十秒ほどして、紫音がぷいっとしのぶから視線をそらした。肌には鳥肌が立っている。
「ぞ、ぞっとするわ…」
「だよな。私も、お前に今みたいな台詞を面と向かって言われたら、同じ反応になると思う」
 しのぶと紫音はしばらく向かい合っていたが、やがてどちらからともなく笑い始めた。
「ぷっ……くくっ……」
「うふふふふふふ……」
「あはははははっ!!」
 ひとしきり笑った後、しのぶは紫音にもう一度礼を言った。
「ありがとうな、紫音」
「良くってよ。貸し一つにしておきます。いずれ返してくださいね。あ、それと…」
 紫音は部下の持っていた紙袋をしのぶに押し付けるようにして渡した。
「万が一最悪の時を考えて持ってきた着替えですわ。お使いなさい。返さなくても良いですから」
 しのぶは感心した。単なるわがままなお嬢様(人のことは言えないが)だと思っていたのに、なかなか気が利くじゃないか、と思いながら紙袋を受け取る。
(でも、ただ受け取るのは癪に障るな)
 そう思ったしのぶは、部屋の隅にあった自分の鞄に歩み寄ると、中からクッキーの包みを一つ取り出した。それを紫音に差し出す。
「礼にしてはしょぼいけど、今日紫音作るのに失敗してただろ? 代わりにやるよ」
 紫音はしのぶの顔と包みを交互に見ていたが、くすっと笑うと包みを受け取った。
「そこまで言うなら、貰っておいてあげますわ」
 そう言って包みを鞄にしまいこみ、紫音は部下たちを連れて出て行った。しのぶを襲った3人は動けないように雁字搦めにされて床に転がされている。彼女は電話で木戸と古手川を呼ぶと、紫音に渡された服に着替え始めた。
 
 その頃、帰りの車中で、紫音はしのぶに貰ったクッキーの包みを開けていた。甘いバターの香りが広がる……が、それだけでない不思議な匂いもした。
「なんだか普通のクッキーとは違うわね……とりあえず戴こうかしら」
 一枚を口に運び、半分かじり取った紫音だが、数秒後、はしたない事に思い切り吹き出していた。
「な、何なのこれは! 嫌がらせ!?」
 実は、しのぶのクッキーは砂糖と塩、バニラエッセンスとオイスターソースを間違えていた。地獄の味を知った紫音は、やはりしのぶとは不倶戴天の敵であると認識を新たにしたのだった。
 一方、例の倉庫でも……
「あ、あのアマ……」
 しのぶが紫音に渡された服……幼稚園児のコスプレに身を包み、怒りに身を震わせていた。もちろん、紫音がパイ投げ作戦に成功していた場合、しのぶがこれを来て帰る、という選択肢しかなくなることを見越して用意した逸品である。
 こうして、和解の機会は消滅した。
 
 数日後……
「結局、あいつらからは収穫なしか……」
 しのぶが言うと、木戸が答えた。彼はここ数日、例の三人を取り調べるのに忙しかったのだ。
「は。いろいろ尋問しましたが、結局親族衆の誰かが放った刺客と言う事しか……面目ありません」
 うなだれる木戸に、しのぶは気にするな、と言って顔を上げさせると、凄みのある笑顔を浮かべた。
「良いじゃないか。上等上等。それでこそ勝沼家の人間。こっちも倒し甲斐がある……そうだろう?」
 紫音よりも誰よりも、まずあの日の屈辱を必ず晴らす。そう誓い、しのぶは窓の外に広がる空を見る。
 見る事が出来ないはずの夏が、もうすぐそこに迫っていた。


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