悪夢でも絶望でもない話


五月の章 お嬢様は女王様


 しのぶが聖エクセレント女学院に入学してから、およそ一月。暦も桜の季節から若葉の季節へと移り変わり、一年で一番爽やかな時期の到来を迎えていた。
 高校から先は家庭教師と通信教育だったしのぶも、ようやく集団での授業に慣れてきた。そうなれば、高校の授業などは一度やった事だし、彼女自身優秀な頭脳の持ち主なので、成績優秀な生徒として注目され始めていた。
 国語の授業では、シニカルながらも教師を唸らせる論評を語ることができるし、英語も人並み以上に読み書きできる。数学や物理と言った理系科目にも強い。机の上の勉強に関しては、ほとんど死角なしの存在と言えた。唯一駄目なのが倫理だが、これはまぁ仕方が無い。
 しかし、そんなしのぶにも、ちゃんと弱点は存在した。

「むぅ……気が重いぞ」
 しのぶが言うと、帆之香が頷いた。
「そうだよねー……この時間は本当に憂鬱だよね」
 そんな二人の嘆きが聞こえる只今の時間は、体育の授業中である。
 箸より重い物を持った事が無い箱入り娘の集団とはいえ、人並みに体育の授業はする。むしろ、エク女ではスポーツも淑女の嗜みとして奨励するところがあり、ラクロス部などは結構強いらしい。
 しかし、見るからに運動音痴であることが推察される帆之香はもちろん、しのぶも体育の授業は苦手だった。彼女の場合、問題は体力である。健康になったとはいえ、少し前まではベッドから起き上がれなかったほどの重病人。体力があるわけが無い。
 運動神経はそれほど悪くは無いものの、簡単な運動ですぐ息切れがしてしまうしのぶにとって、体育の授業はまさに鬼門だった。
 ちなみに、エク女の体操服は下がスパッツである。しのぶがこの話を部下たちにした時、古手川が「何故ブルマーではないのですか!?」と血涙を流しながら迫ってきたので、とりあえず殴り飛ばしておいた。
「二人とも何ブルーになってんだよー。元気に行かなきゃ、元気に」
 そう言うのは、クラスメイトの河原彩乃である。ある大手企業の社長令嬢らしいが、自分の事を「ボク」と呼ぶボーイッシュな性格の少女だ。スポーツ好きらしく、体育の授業になるとやたらと張り切り、部活ではラクロス部に入って、レギュラーを取るべく走り回っている。その姿はまるで小動物のようでなかなかに微笑ましい。
「お前を基準に物を考えるな。私や帆之香や文(あや)みたいに、体力勝負は苦手な人間もこの世にはいるんだ」
 しのぶは言った。文と言うのは、やはりクラスメイトの桜乃森文。茶道家元の娘で、体力と言う点ではしのぶにも劣る……と言うより、はっきりと「病弱」と言うべきだろう。今日も、少し熱っぽいと言う理由でこの時間は保健室で休んでいる。
「文ちゃんはしょうがないよー。でも、しのぶちゃんや帆之香ちゃんはあんなに体弱く無いじゃん」
「しのぶちゃんはやめろ」
 綾乃の言葉に、しのぶは顔をしかめてみせる。部下たちにそうさせているように様つきで呼べとは言わないが、「しのぶちゃん」と呼ばれるほど馴れ馴れしくされたくは無い。
「えー、良いじゃん。友達なんだから。しのぶちゃんだってボクの事彩乃って呼ぶじゃない」
 綾乃はしのぶの抗議を一蹴した。しのぶの渋面はますます酷くなる。彩乃もそうだが、ひなも彼女を「しのぶおねえちゃん」と呼ぶのをやめない。迷惑な話である。
「だれが友達だ……」
 しのぶはそう言ってそっぽを向いたが、そこへ体育教師の声が聞こえてきた。
「おーし、準備体操するぞ。並べ並べ」
 顔を上げると、まだ若い……少年の面影を残した、かなり美形の青年が立っていた。体育教師の荒井翔平だ。生徒たちが「はーい♪」と黄色い声を上げて整列していく。彼は生徒たちの間では、しのぶの担任である出雲彼方と人気を二分する存在だ。もっとも、校医の橘芽依子にベタ惚れしている翔平は、生徒たちの思いには目もくれないのだが……
 しのぶもだるそうに列に加わると、翔平が声をかけてきた。
「なんだ勝沼、ずいぶん動きが鈍いな。具合でも悪いのか?」
 違う、と言おうとして、しのぶは考えた。ここで「そうだ」と答えれば、合法的にサボれるかもしれない。しかし、彼女のその悪謀はあっさりと阻止された。
「ダメですよ、勝沼さん。仮病なんて使っちゃ」
 クラス委員長の梅宮柚流。父は勝沼財閥とも大口の取引がある大手都市銀行の頭取だと言う、これまた他のクラスメイトに劣らないお嬢様である。クラス委員長を引き受けているだけあって、真面目さでは帆之香を上回り、正義感や責任感では誰にも負けない。
 しのぶはちょっとだけ柚流が苦手である。徹底的に正論を押し通してくる彼女には、力技で相手をやりこめる勝沼流が通用しにくいからだ。しのぶと似たような性格の紫音も、柚流には苦戦しているようである。
「わかってる。サボる気は無い」
 しのぶは答えた。柚流にやり込められたから、と言うのではなく、自分を見ながら紫音がニヤニヤと笑っていたからである。彼女は頭の出来ではしのぶに及ばないのがよほど悔しいらしく、しばしば小さな瑕疵を見つけては攻撃してくるのだ。しのぶとしては、別に紫音の子供っぽい対抗心に付き合う必要はないのだが、やはりナメた態度を取られるのは許せない。
「大丈夫か。よし、体操始めるぞ。まずは深呼吸から……」
 翔平が号令をかける中、体操が始まった。これが終わると、授業は4チームに分かれてのミニハンドボール(1チーム6人)の試合となる。
「よーし、今日こそ勝つぞー!」
 彩乃が威勢良く言うのを見ながら、しのぶは思った。
(ウザイな……こんなもので張り切るのは彩乃だけで十分だ)
 しのぶのチームは彼女の他に彩乃、帆之香、柚流、ひな、それに女優の娘である一條せりかの6人だ。しかし、やる気の無いしのぶとどう見ても戦力外の帆之香、ひなというハンディを抱えたチームのため、彩乃が一人で二人分は活躍してくれるとはいえ、成績は良くない。前回の体育の授業でも、紫音チーム以外の二チームと対戦して、見事に惨敗を喫している。
(まぁ、別にどうだって良いがな)
 しのぶがやれやれと思いつつ、第一試合を見守るべく腰をおろそうとすると、つかつかと寄ってくる人影があった。
「勝沼さん、次の試合は私たちの対戦ですわね」
「そうらしいな」
 座るのを中断してしのぶが答えると、紫音は口元に手を当てて笑った。
「まぁ、結果はわかっておりますけど、せいぜい頑張って立ち向かっていらっしゃい」
「そうさせてもらう」
 いかにも勝つのは自分だ、と言わんばかりの紫音の言葉に、しのぶは頷いた。一見態度に何の変化も無いのを見て、紫音がつまらなさそうな表情になるが、さらに挑発してくる。
「あら、余裕ね。どんな手を使ってでも業績拡大に勤しむ勝沼さんの家風なら、もっと勝利に貪欲かと思いましたわ」
 そこでしのぶはすっと目を細め、敢えて感情を抑えた平板な声で、紫音に言い聞かせるようにして答えた。
「その勝利が必要なら、どんな手を尽くしてでも得ようとするのは当然のこと。美学だの意地だのにこだわるのは、馬鹿のすることだ」
 一瞬しのぶの言うことが理解できなかったらしい紫音はぽかんとした表情になったが、すぐに自分が揶揄されていることに気づき、顔を赤くした。
「馬鹿とは私の事ですの?」
「いや、一般論だが」
 怒りに身を震わせつつも、最大限の自制心を保って問い掛けてきた紫音に、しのぶはしれっとした表情で答えた。そこで我慢しきれなくなったのか、紫音は憤然として振り向くと、自チームの方に歩いて行き、何か指示を飛ばし始めた。
 しかし、怒っていたのはしのぶも同様だ。あのガキ痛い目を見せてやる、と紫音を一睨みすると、彩乃に声を掛けた。
「彩乃、ちょっと作戦会議だ。そろそろ勝ってやろう」
 すると、彩乃は嬉しそうな表情でしのぶの所に走ってきた。
「しのぶちゃん、やっとやる気が出たんだね! 頑張ろう!!」
 そう言うと、他のメンバーを集める彩乃。彼女を中心にして作戦会議が始まった。
「まず、ボクたちのうち、積極的に攻めていけるのは、ボクと柚流ちゃんとせりかちゃんの3人だね」
 頷く一同。この3人は運動神経も良いし、体力的にも問題は無い。
「だから、この3人を攻撃にして、帆之香ちゃんとひなちゃんはディフェンスに回ってほしいんだ」
「わ、わかったわ」
「がんばるの」
 ディフェンスに指名された二人が返事をする。そこで、せりかが疑問を口にした。
「勝沼さんはどうするの?」
 せりかはしのぶに対して少し警戒感がある。彼女は芸能界にいるのだが、そこでいろいろと男性からセクハラされることが多かったらしく、男が苦手だ。その本能が、しのぶの中にいる「紳一」の存在を感じ取っているのかもしれない。
「しのぶちゃんはある意味一番重要な役だね。キーパーだよ」
 彩乃が答えると、しのぶは自分を指差した。
「私がキーパーか?」
 彩乃は頷いて、その理由を説明した。
「しのぶちゃんは運動神経は良い方だけど、体力が無いから走り回るのは大変でしょ? でも、キーパーならあまり動かずにすむし、反射神経勝負だから、適任だと思うんだ」
「まぁ、走らなくて済むのは歓迎だな……みんなはそれで良いのか?」
 誰も特に異議は唱えなかった。その時、ホイッスルが鳴り響いて、第一試合の終了が告げられた。いよいよ紫音との対決だ。しのぶは立ち上がり、他のメンバーに続いてコートに入っていった。
 
 試合開始前から、なんとなくコートには……と言うより、しのぶと紫音の間には緊迫した空気が漂っていた。その空気が伝染しているのか、どちらのチームもこれから真剣勝負をしようとしているかのように、緊張の面持ちを浮かべている。
「ではジャンプボールだ。代表は前に出るように」
 翔平がその空気を破るようにボールを持って進み出る。しのぶチーム側からは、背が高い柚流が。一方、紫音チームは彼女が自ら代表を勤めるらしい。コートのセンターサークル内で二人が向かい合った。
「はじめ!」
 翔平が号令と共にボールを投げ上げ、二人の少女のしなやかな身体が、それを追うように跳躍すると、空中で交錯した。勝ったのは紫音だった。しのぶチームのコートにボールが転がり、それを紫音チームの一人がキャッチすると、懸命に……しかし頼りなく走り回る帆之香とひなを難なくかわして、ゴールに迫ってきた。
「えいっ!」
 気合と共にシュートが放たれる。先制点を確信した紫音だったが、次の瞬間目を見開いた。
 しのぶはそのシュートをあっさりと受け止めていた。ボールを一回手の内で回し、すかさず彩乃にパスする。受け取った彩乃は柚流とうまく連携して敵陣に切り込むと、一瞬ノーマークになったせりかにパスした。彼女がシュートを打ち込み、ネットが揺れた。
(これは楽で良いな)
 先制点を示すホイッスルの音と共に、しのぶはニマっと笑う。一方あせったのは紫音だ。
「ちょっと、何やってるの!」
「ご、ごめんなさい、西九条さん」
 必至に謝る級友たち。彼女たちは紫音の友人というよりも、親衛隊員としての性格が強い。何があろうとも、悪いのは紫音ではなく彼女たちだった。
 一方、しのぶは家に帰れば3人の部下がいて、それだけで満足なので、いまさら親衛隊などと言うものを作る気は、さらさら無かった。裏を返せばクラスメイトたちに興味が無いのだが、紫音のわがままにうんざりしている親衛隊以外の生徒の目には、その一見超然としている様が、しのぶの魅力として写るらしい。
 そんなわけで、本人の預かり知らない所で人気と人望を集めつつあるしのぶに、彩乃が近寄ってきた。
「上手くいきそうだね、作戦」
「うむ。良くやった。誉めてやろう」
 しのぶが彩乃の頭をなでてやると、一瞬彩乃は嬉しそうな顔をして、それから手を振り上げて怒り出した。
「しのぶちゃん、同級生を子ども扱いしないでよっ!」
「いや……わかってはいるんだけどな」
 しのぶは彩乃の反応に吹き出しそうになる。ひなほどではないが、彼女も決して大人らしいスタイルとは言えない。しのぶと並ぶと2〜3歳年下の妹のように見える。
「まぁ、勝負はこれからだ。頼むぞ」
「おまかせ!」
 彩乃は力こぶなど出来ない腕でガッツポーズを取って見せた。
 
 しかし、ここから試合はお互い一歩も譲らない白熱の展開となった。最初こそ、彩乃、柚流、せりかの速攻にしてやられた紫音チームだが、帆之香、ひなが弱点だとあっさり見切ると、激しい攻勢をかけてきた。こうなると彩乃もディフェンスに回らざるを得ず、得点力が低下したしのぶチームは守勢一方に晒されてしまった。そして。
「しまっ……!」
 しのぶは相手選手の巧妙なフェイントに引っかかり、得点を入れられてしまった。これで両者タイ。しかし、これで本気になったしのぶは、それからの猛攻を全て受けきって見せた。そして、時間はあと3分。紫音チームがタイムを取って作戦会議を始めたのを見て、しのぶたちも作戦会議に切り替えた。
「勝沼さん、大丈夫?」
 せりかが少し心配そうな表情で尋ねてきた。キーパーの運動量が少ないとは言っても、何分も連続で攻撃を受ければそれなりに動かなければならないし、それはしのぶには辛い運動量となる。
「ん……まだ大丈夫だ。今のところは」
 しのぶは答えたが、実はかなりの疲労を感じていた。深呼吸を繰り返しても、早くなった心臓の鼓動が収まらない。
「時間は少ないんだし、何とか後1ゴール決めましょう。それを守りきれば勝てます」
 柚流が言うと、彩乃が一つ提案を出した。
「こうなったら、全員攻撃だね。しのぶちゃんを除くボクたち5人で突進するの。守ってるだけじゃ勝てないよ」
 妙に熱血な意見が連発される。帆之香やひなまで頷いているところを見ると、しのぶの「紫音にだけは負けられない」と言う思いが、なんとなく他の5人をインスパイアしているらしい。
「うん、それで行こう」
 せりかがそう言って締めくくると、向こうでも紫音たちの作戦会議が終わっていた。コートに戻って配置に付き、翔平が鳴らすホイッスルと同時に飛び出す構えを見せていたしのぶチームの面々だったが、実際に試合が再開された瞬間に驚愕の表情を見せた。
「ええっ!?」
 全員攻撃を考えていた彩乃が驚愕する。まるで彼女の考えを読んでいたかのように、紫音チームが全員攻撃を掛けてきたのだ。意表を突かれた柚流の手からボールが奪い取られる。
「きゃっ!」
 柚流は驚いた拍子に転倒し、この瞬間戦力外となった。いち早く飛び出して敵陣に切り込もうとしていた彩乃も置いてけぼりにされる。あと頼りになりそうなのは、せりかしか残っていない。その彼女もあっという間に相手チームに1on1でマークされてしまう。残りは……
(自分でどうにかするしかないな)
 帆之香とひなしか残っていないのを見て、しのぶは覚悟を決めた。そして、非情な命令を下す。
「ひな、抱きつけ!」
 その言葉を聞いて、咄嗟にひなが横をすり抜けようとした相手に飛びついた。
「あっ!? こ、こら、ひなちゃん、ダメでしょ!?」
 ひなが抱きついたくらいでは相手を転ばせたり押し倒したりなどできないが、動きを阻害するには十分だ。もちろん、あからさまな反則である。しかし、ひなのやる事なので、誰も怒らない。翔平もスルーした。そうしなかったのは紫音だけだ。
「さすが勝沼の家ね! 卑怯な真似を!!」
 その叫び声を聞いて、しのぶはシニカルな笑みを浮かべた。
「卑怯で結構。次、帆之香! 紫音をマークしろ!!」
「え? は、はいっ!」
 紫音の前に帆之香が走り出る。気弱な彼女の性格を知っている紫音は一喝した。
「二階堂さん、おどきなさい!」
 反射的によけようとする帆之香。ところが、後ろからしのぶが督戦する。
「帆之香、どいたら後で酷いぞ!」
 何をされるのかはわからないが、酷いことをされるのは嫌だ。しかし、紫音も怖い。どうしたら良いのかわからず混乱した帆之香は、その場で手をじたばたさせて走り回り始めた。これが実に効果的な妨害となり、紫音の動きが止まる。
「くっ……後は任せたわよ!」
 地団駄を踏みながら叫ぶ紫音の声に答え、紫音チーム最後の一人がゴール前に走りこむ。戦力にならない二人を上手く活用したしのぶだったが、事ここに至っては、自ら戦うのみだ。
「えいっ!」
 相手がシュートを放ってくる。しのぶはそれをがっちりとキャッチした。そして、投擲の構えを取ると、帆之香に向かって叫んだ。
「帆之香、パス!」
 同時に渾身の力でボールを投げる。しのぶの呼ぶ声に混乱から立ち直った帆之香だったが、自分に向かって剛速球が飛んで来るのを見て、反射的に行動を起こした。
 よけたのだ。ボールが帆之香のいた空間を飛び過ぎる。そして、その向こうには……
 紫音がいた。まさか、帆之香が味方のパスを回避する、とは夢にも思わなかった彼女の回避運動は、一瞬遅れた。
 
 ばちこーん!
 
 激しい音を立てて、しのぶの投げたボールは紫音の顔面に直撃していた。まるでスローモーションのように放物線を描き、空に舞い上がるボール。一方、崩れ落ちていく紫音の身体。その光景を、全員があっけに取られた表情で見ていた。
 やがて、落下に転じたボールは地面を転々と跳ね、ぽすん、という乾いた音と共に、紫音チームのゴールに転がり込んだ。紫音が地面に倒れたのは、それとほぼ同時だった。
 次の瞬間、ホイッスルの音が鳴り響いた。
「只今の試合、2対1で勝沼チームの勝ち。おーい、保健委員、西九条を保健室に連れて行ってやれ。
「は、はい」
 保健委員の少女が倒れている紫音に駆け寄ったが、その前に身を起こした彼女は、差し伸べられた保健委員の手をぴしりと跳ね除けて言った。
「自分で行けるわ……近寄らないで」
 よろよろと保健室へ向かう紫音に、それでも一応義務感で後を追っていく保健委員。その時、授業終了5分前の予鈴が鳴り響いた。
「よし、今日の授業はここまで。道具を片付けて解散して良し」
 翔平の言葉に、笑みを浮かべた少女たちが片付けを始める。そうした中で、しのぶの周りには一体となって勝利を得た仲間たちが集まってきた。
「やったね、しのぶちゃん」
「ナイスセービングだったよ、勝沼さん」
 掛けられる声に、しのぶは赤い顔をしてそっぽを向いた。
「ふ……ふん。私の実力なら当然だ」
 それを見て、彩乃が囃したてるように言った。
「あ、しのぶちゃん照れてる? かわいいなぁ」
 子供扱いされたお返しをするようにからかってくる彩乃に、しのぶは軽くげんこつを振り上げてみて追い払った。彼女が照れていたのは確かである。しかし、それは誉められたからではなく、柄にも無く爽やかに熱血してしまった自分が恥ずかしくてしょうがなかったからだ。
(くそ、こんなのは私らしくない)
 しのぶはチームメイトを置き去りに、エク女の乙女らしからぬ大股で歩き始める。今は誰にも顔を見られたくなかった。
 
 そして、もう一人、誰にも顔を見られたくない少女がいた。
「うっ……くぅっ……私としたことが、なんと言う屈辱……!」
 紫音だった。彼女の顔面には、先刻しのぶにぶつけられた必殺の一球の跡がくっきりと残されていた。顔の半分を覆う丸く赤い跡に、周囲の取り巻きの少女たちが顔を俯かせる。
「紫音さま……なんておいたわしい」
 肩を震わせる少女たち。しかし、泣いているのではない。
 必死に笑いをこらえているのだ。何しろ今の紫音の顔は面白い。しかし、ここで笑ってしまうことは、彼女の怒りの矛先に立候補すると言うことであり、そうなってしまえば、今後の学園生活は潤いの無いものになることは必至だった。
「ともかく、あの下賎な成り上がり者に目に物見せなければ、気持ちが治まりません。見てらっしゃい、満座で恥をかかせてやるわ……!」
 怒りのオーラをバチバチとまき散らす紫音に、一人の少女がおずおずと声を掛ける。
「あの、具体的にはどのような策を?」
「そうね。まずは……」

 そして時間は流れて、お昼休みである。
 しのぶは学食に来ていた。舌の肥えた上流階級の娘たちを相手にしているだけに、さぞかし豪華な……と思うところだが、メニューは至って慎ましい。野菜の煮物や各種フライ、カレーなどで構成されている。「良妻賢母の育成」を目指す学校だけに、妙なご馳走を食べさせて、家計を預かる感覚をおかしくさせないようにしたい、という事だろう。
 もっとも、素材は国産無農薬を中心に、かなり奢った物が使われている。しのぶは列に並ぶと、おくら天うどんを注文した。値段は八百円。学食の値段ではないが、これでもかなり安くしてある方だ。素材の値段、料理人の腕などを考慮すれば、千二百円以上してもおかしくない、至高のうどんである。
「あ、しのぶちゃん。一緒に食べようよ」
 列を離れると、彩乃が立っていた。見ると、彼女が持っているのは、ミックスフライ定食(ご飯大盛り)に小鉢二品を追加したボリュームのあるメニューだ。
「……お前、よく食べるな」
 しのぶは感心した。彼女には食に対する欲求と言うものはあまり無い。子供のころから食餌治療を続けて、粗食しか食べていないので、美味しい物をたくさん食べると言う発想自体が無いのである。
「えへへ、何と言っても育ち盛りだモンね。しのぶちゃんこそ、もっと食べないとダメだよ〜」
「彩乃が言っても、説得力が無いな」
 しのぶは苦笑し、席についた。向かいに彩乃が膨れた顔で座る。
「ひどいや、しのぶちゃん。ボクだって、そのうちしのぶちゃんや帆之香ちゃんみたいに大きくてばいんばいんになってやるんだからね」
「期待していよう」
 しのぶは彩乃の未来予想図にそう答え、箸を手にとった。彩乃も箸を手に取ると、いただきます、と周囲の生徒たちが振り返るほどの大声で言って、白身魚のフライにかじりついた。上流階級の娘にしては豪快な……ちょっと品が無いと言っても良い食べっぷりだが、見ていて不快感を感じさせるようなものではない。
「ちょっと思ったんだが、彩乃はずっとこの学校なのか?」
 しのぶの質問に、彩乃はつけ合わせのスパゲティナポリタンを箸に絡める作業を中断して答えた。
「え? うん。幼稚舎の時からずっとエク女だよ。なんで?」
「ああ、いや……他の生徒に比べると元気と言うか、お嬢様お嬢様してないところがあるからな。私も人のことは言えないが」
 しのぶが言うと、彩乃は苦笑した。
「んー、まぁ、うちのお父さんは社長って言っても、サラリーマン社長だもん。しのぶちゃんちや西九条さんちみたいに歴史や格式があるわけじゃないし、家に帰ったらぜんぜん一般庶民だよ」
 そう言って屈託無く笑う彩乃。エク女の規格からは少し外れた少女だが、それでも上手くやっているのは、この人懐っこさと物怖じの無さの賜物だろう。
「だから、時々ちょっと他の娘には付いて行けない時があってさ。でも、しのぶちゃんは話しやすいかな。偉そうだけどお高く止まった感じじゃないし」
「それは誉めてるのか?」
 しのぶは言った。同時に、ふと周囲で割合に親しく話しているクラスメイトのことを考えてみる。帆之香、ひな、彩乃、せりか、柚流……どの少女も、どっちかと言うと庶民派といって差し支えないキャラクターの持ち主である。逆にあまり良好な仲とは言えないのは、やはり紫音だろうか。彼女の傲慢ぶりは、しのぶに勝るとも劣らない。
(……私は庶民とは気が合うと言うことなのか? そんな訳は無いと思うが……)
 しのぶにとっては、自分以外はみな愚民である。それは相手が紫音だろうと彩乃だろうと関係なく、十把一絡げにそう認識している。気の合う相手など……自分と対等の相手など存在しない。だから、彩乃と話が合うはずも無く、相手がそう思い込んでいるだけなのだ。
 しのぶはそう思ったが、彩乃は気付くはずも無く、いろいろと話し掛けてくる。いまさら無視するのも変なので、しのぶは相槌を打ちながら彼女の話を聞いていた。
 それだけに、迫り来る危機に彼女が気づいた時には、全てが手遅れになっていた。
「あぶない!」
 それまでにこやかに話していた彩乃が顔色を変え、その視線の先に何かがあるのを悟って振り向いたしのぶは、無数の食器やら何やらが自分めがけて降り注いでくるのを目撃した。
「!? ひあああううううぅぅぅぅっっ!?」
 大音響に続いてしのぶの悲鳴が食堂に響き渡った。誰かがつまずいた拍子に、しのぶの身体に持っていた料理、食器をばらまいたのである。メインはクリームシチューであり、幸い火傷するほどの温度は無かったものの、しのぶは頭から足まで、熱い白濁した液体を全身にぶちまけられた。
「しのぶちゃん、大丈夫!?」
 彩乃が慌ててテーブルを回り込んで駆け寄ってきた。しのぶは悲鳴を上げた自分を恥じるように顔を赤らめ、顔の表面を流れ落ちるシチューを手で拭い落とした。
「ああ……怪我は無い。大丈夫だ」
 足元では、まだ皿がカランカランと言う音を立てて回っている。プラスチックでよかったが、これが陶器だったら大怪我は確実なところだ。
「ひどい! 誰がやったの!?」
 しのぶに代わって彩乃が周囲に鋭い視線を送る。彼女も犯人までは見ていなかったのだ。その視線に当てられた二年生が、困惑した表情で口を開いた。
「私たちもはっきりとは見なかったけど……一年生の娘だったみたいよ。入り口の方へ走って逃げていったわ」
「そうか……」
 しのぶは首を傾げた。育ちの良い娘の集まっている学校でも、そういう不心得者はたまにいるのだろう。しのぶは詮索は後にして、彩乃に声をかけた。
「彩乃、教室から私の体操服を取ってきてくれ。私はシャワールームでこれを流してくる」
「うん、わかった」
 彩乃が頷くのを確認して、しのぶはシャワールームに向かって歩き出した。途中、廊下ですれ違う他の生徒が妙な表情で彼女の惨状を見るので、さすがのしのぶも恥ずかしくなった。
(くそ……とりあえず、こんな恥ずかしい目に合わせてくれたのが何者かわからんが、必ず報復はするぞ)
 決意を胸に秘めつつ、しのぶはシャワールームにたどり着いた。シチューがこびりついてベトベトになった制服を脱ぎ、ブースに入って蛇口をひねる。程なくして、適温のお湯が流れ落ち始めると、しのぶはそれを浴びて髪の毛を洗い始めた。
「む……なかなか落ちないな」
 縦ロールした髪には、思ったより多くのシチューが絡み付いていて、なかなか落ちてくれない。苦戦していると、更衣室の方から声が聞こえてきた。
「しのぶちゃん、体操服持って来たよ」
「ああ、その辺に置いておいてくれ」
「じゃあ、籠に入れておくねー」
 適当に返事をして、しのぶは髪の毛を洗う。ようやくこびりついた塊を洗い落とし、改めてシャンプーを使って油分もすり落とすと、ようやく髪の毛は普段の艶を取り戻した。
「こんなものか……」
 軽く頭を振って水分を払い落とし、しのぶはシャワーブースを出た。そして、周囲を見渡す。そこで彼女は異変に気づいた。
「……ん?」
 備え付けてあるはずのバスタオルが全て無くなっていた。それだけではない。籠に入っていた彼女の体操服や、シチューで汚れたままの制服も、全て消え去っていた。財布は残っていたが、携帯電話は無い。身に纏う物一つ無い部屋に、しのぶは取り残されたのだ。
「……これはどういう事だ?」
 しのぶは困惑した。一瞬彩乃がやった事かとも思ったが、彼女がこんなくだらない悪戯……というには悪質な嫌がらせを自分に仕掛けてくる理由は、どこにも見出せない。従って、誰か他の人間がやった事だろう。
 まず、下着・制服の類を盗む変質者と言う線が思いついたが、しのぶは即座にこの考えを捨てた。エク女は預かっている生徒たちの身分が身分だけに、敷地における警備は非常に厳重で、そうした変質者の入り込む余地は無い。それに、ここを狙うなら、部活後などの使用者の多い時間帯を狙うだろう。
(……ああ、じいならやるかもしれないか)
 しのぶは側近の顔を思い出した。彼女が乗って通ってくる車は通行許可証を持っているから、古手川がここへ入ってこれないことは無いだろう。しかし、それなら何もここまで来なくても、自宅のしのぶの部屋を狙えば良い。だからこの線も無い。
 となると、残るは学校内の人物の犯行、と言うことになる。そう思ったとき、しのぶはある事に思い当たった。
「うーむ、まさかな……くしゅんっ!」
 そこまで考えて、しのぶはかわいらしくくしゃみをした。5月の室内とは言え、濡れたまま裸でいることが出来るほど暖かくは無い。
(いかんな、このままでは風邪を引く……それは嫌だ)
 せっかく健康になった身体だ。軽い風邪でも病気などしたくない。しのぶは時計を見た。一時十五分。既に五時間目の授業は始まっている。
(今なら人目につくこともあるまい。よし!)
 しのぶは決意すると、カーテンをレールから引き剥がし始めた。それをトーガのように身体に巻きつけ、そっとシャワールームを後にする。目指すは保健室だ。
 
 幸い、保健室の主で校医と保体の主任教諭を兼任する橘芽依子は在室していた。常識ではありえない格好で入室してきたしのぶの姿を見て目を丸くする。
「えっと……勝沼だったな、確か。何の仮装大賞だ?」
「実は、シャワールームで制服を盗まれてしまって……電話を借りて良いですか?」
 芽依子に猫被った口調で事情を説明し、電話を借りたしのぶは、自宅に電話するとすぐに予備の制服と下着を持ってくるように古手川に命じた。これで、三十分もあればちゃんとした服が着られるだろう。なお、下着に関しては、訳あってちゃんと特定の品を持ってくるよう命じておいた。
 芽依子が出してくれた梅昆布茶で身体を温めることしばし、ようやく古手川が注文の品を持ってやって来た。
「お嬢様、何と悩ましい姿……!」
 いきなりわけのわからない賛美の言葉を発する古手川。
「うるさい。早く制服をよこせ!」
 しのぶは古手川を叱責しながら、紙袋に入っていた制服を受け取ると、衝立の陰でごそごそと着替えた。それが終わると、彼女は古手川に命じた。
「じい、ちょっと携帯電話を貸せ」
「ワシのをですか? どうぞ、お嬢様」
 しのぶは古手川から携帯を受け取ると、自分の番号を呼び出して通話ボタンを押した。しばらくリレー音がカチカチと響き渡り、繋がったことを示す発信音が鳴り始めた。
「ふふん、さすがお嬢様学校の生徒。詰めが甘いな」
 電話を切らずに放っておくと、20回ほどして電話が切られた。もう一回掛けてみると、メッセージが流れ出した。
『こなたは英雄お留守番サービスじゃ。そちのかけた番号は、相手が電波の届かぬ場所に布陣しているか、電源を切っておるため、かからぬ。是非に及ばず』
 これで、しのぶは相手が慌てて電源を切ったことを確信した。微笑みながら携帯を古手川に返す。
「いったい何をなさっているので、お嬢様」
 古手川が訳がわからん、という表情で聞いて来たが、しのぶは構わず、彼に車に戻るよう命じた。それから、芽依子に礼を言って保健室を後にしようとすると、芽依子がのんびりとした口調で言った。
「誰か知らんが、勝沼に喧嘩を売った相手は可哀想だな。しかし、怪我人は出すなよ? 仕事が面倒くさいんでな」
「それが医者の台詞ですか」
 しのぶは苦笑すると、教室へ向かった。
 
 教室に戻ると、帆之香と彩乃が心配そうな表情でしのぶを出迎えた。
「勝沼さん、どうしたの?」
「戻ってこないから心配したんだよ」
 口々に言う二人に、しのぶは服を盗まれたことは告げず、逆に質問した。
「大した事じゃない。それより、さっきの授業中に、電話の電源を切っている奴はいなかったか?」
 帆之香と彩乃は顔を見合わせた。
「うーん……ボクは気づかなかったなぁ」
「私も」
 恐縮したように言う二人。しのぶはひなと柚流、せりかにも聞いてみたが、反応なしだった。よそのクラスか、と思った時、しのぶに声を掛けてくる人物がいた。
「それなら、西九条さんだと思うわよ」
 振り返ったしのぶの視界に入ってきたのは、クラスメイトで現役アイドルの松澤礼菜だった。そのゴージャスな美貌と肢体はしのぶや紫音にも劣らず、しのぶの入学前は、紫音のライバルと言えば彼女のことだったと言う。
「確かか?」
 しのぶが聞くと、礼菜ははっきり頷いた。
「ええ。五時間目の終わりくらいだったかしら。彼女の鞄の中で携帯が振動モードで動いてたのよ。それで、結構長い間かかりっぱなしだから教えたら、慌てて電源を切ってたわ」
 証言内容は、しのぶが古手川の電話で掛けた時間帯と一致する。試しにしのぶは携帯の機種と外見を礼菜に教えた。
「ええ、その機種で間違いないと思うけど……どうして勝沼さんが西九条さんの電話のことに詳しいの?」
「ん? まぁ、それは秘密だ」
 しのぶは笑ってごまかし、礼菜に礼を言った。これで、シチューぶっ掛け+制服盗難事件は今朝の体育の授業での一件に対する、紫音の報復行為である可能性が確実になった。
「さて…礼はあいつにもしっかりしておかないとな」
 しのぶは肉食獣の笑みを浮かべ、教室を後にした。
 
 放課後…校舎の裏手には、どこの学校にも置かれている焼却炉があった。特に、エク女のそれはダイオキシンが出ないように高温で焼き、煤煙もフィルターで濾過するという本格仕様。ちょっとした証拠隠滅には便利な存在だ。
 西九条紫音とその取り巻き数名は、焼却炉で持ってきたものを燃やそうとしていた。それは、シチューでべたべたに汚れたエク女の制服と黒いセクシーなランジェリー、それに携帯電話だった。明らかにしのぶから盗んだものである。
「本当に燃やすんですか? 紫音様」
 取り巻きの一人がおずおずと言う。しのぶへの嫌がらせには賛同・参加したものの、これはやりすぎではないかと思っている表情だった。
「ええ。シャワールームからはいなくなっていたでしょう? あの女、どうやったかはわからないけど、あそこから抜け出したのよ。なら、証拠は隠滅するに限るわ」
 紫音の最初の目論見では、しのぶが裸のままでシャワールームから出られずにいるのを放課後まで放置し、彼女が困りきったところで、制服を返す代わりに屈服を迫るつもりだった。
 ところが、しのぶはどうやったのか、シャワールームからいなくなっていた。と言うことは、今ごろはこちらの動きの証拠を必死になって掴もうとしているだろう。特に、五時間目の電話、あれは危なかった。しのぶが出ないのでは、彼女の使用人が学院まで探しに来る可能性もある。
 はっきりした証拠を掴まれる前に、さっさとそれらを消し去ってしまうのが、いまや紫音の安全を守る唯一の方法だった。
「さ、早くなさい。ぐずぐずしてられないわよ」
「わかりました」
 取り巻きの少女が、不承不承ながら焼却炉への投入口の扉を開ける。一人がまず制服を放りみ、続いて紫音が携帯を放り込む。最後に別の少女が下着を投げ込もうとしたその時だった。
「おい、人のものを勝手に燃やすんじゃない」
 響き渡った声に、最後の少女は下着を取り落とし、紫音は固まった。
「か、勝沼しのぶ……!」
「いかにもそのとおり」
 涼しげな顔をしたしのぶがすっと壁の影から出てくる。彼女がしっかり制服を着込んでいるのを見て、紫音は奥歯を噛み鳴らした。
「くっ……そんなものをどこで」
「予備を部下に持ってこさせた。まぁ、なかなか手の込んだ嫌がらせだったな。それは誉めてやろう。しかし、私には通用しなかったようだな」
 しのぶは勝ち誇るように紫音の疑問に答えた。顔をこわばらせていた紫音だが、ふとにやりと笑うと、焼却炉の扉を閉め、間髪いれず横のボタンを押し込んだ。空気が流れ込む音がして、投入口内にあったしのぶの制服と携帯が焼却室内に投入される。中は1000度を超える高温だ。一瞬でそれらは灰と化しただろう。
「これで証拠はもうないわ。貴女が学校に訴えても、物的証拠がない以上どうしようもないわよ。残念だったわね」
 今度は紫音が勝ち誇ったが、しのぶは黙って地面に落ちている自分のランジェリーを指差した。
「まだそれが残っているようだが」
 それでも紫音は余裕を崩さなかった。
「あら……これは落ちていたのよ、ここに。第一、こんな淫乱な下着はエク女の乙女は着ないわ。まさか、こんなのが貴女の物だとでも言うつもり?」
 別に校則で黒い下着が禁止されていると言うことはないが、まぁ一般的でないのは確かである。教師やシスターたちも良い顔はしないだろう。しかし、しのぶはやれやれと言うように肩をすくめて見せた。
「その程度が淫乱ね……生憎、今の私はもっと強烈なのを着ているんだがな」
 言うなり、しのぶは制服を脱ぎ捨てた。その下から現れたものを見て、紫音は液体ヘリウムを浴びたように凍結した。
 しのぶが着ていたのは、光沢を放つ黒い革素材で、やたらと紐やジッパーで装飾された露出度激高のビスチェとショーツ……と言うより、ボンテージルック。しかもどこから出したのか、鞭まで持っている。唖然とする一同に、しのぶは楽しそうに告げた。
「勘違いするなよ? 私はお前たちを教師陣に訴えようなんて気は、さらさらないんだ。ただ、躾のなってない子猫ちゃんたちに、ちょっとばかし礼儀を叩き込みたいだけで」
 しのぶがそう言いながら一歩踏み出し、鞭の先端を持っていた左手を離すと、それは獲物を狙う蛇のようにとぐろを巻いて、彼女の足元にわだかまった。さらに一歩踏み込みながら右手を動かすと、生き物のように宙を踊り、風切り音を発生させる。
「さて……お仕置きタイムと行こうか?」
 心底楽しそうなしのぶの笑顔を見た瞬間……紫音たちの金縛りは解け、恐怖が心を塗りつぶした。
 校舎裏に少女たちの悲鳴が上がった。
 
 
 その夜…勝沼邸では、しのぶが楽しそうに本を読んでいた。彼女に対して嫌がらせがあったことを知っている部下たちは怪訝そうな表情をしていたが、代表して木戸が尋ねた。
「お嬢様、ずいぶんとご機嫌がよろしいようですが……何があったのですか?」
 しのぶは顔を上げると、思わず三人がドキッとするほど邪気のない、しかし艶のある笑みを浮かべて答えた。
「ん? いや、大した事じゃない。ただ、人間たまにはちゃんとストレスを発散しなければいけないということだな」
 何があったのかわからない三人は、その答えにきょとんとするばかりだった。
 
 一方、都内にあるもう一つの巨大邸宅…西九条邸の一室では、部屋の主が天井に向けてお尻を突き出すような滑稽な姿勢で唸っていた。
「うう…お、おのれ勝沼しのぶ…! この借りはきっと返してあげてよ…!!」
 焼却炉前で「お仕置き」として散々お尻をスパンキングされた紫音は、激痛にうなされつつも、しのぶへの復讐を固く誓うのだった……


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