悪夢でも絶望でもない話


四月の章 入学式のお嬢様


「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 さわやかな朝の挨拶が、澄みきった青空にこだまする。
 マリア様のお庭に集う乙女たちが、今日も天使のような無垢な笑顔で、背の高い門をくぐり抜けていく。
 汚れを知らない心身を包むのは、セーラー服……と言って良いのかどうか微妙な、不思議なデザインの制服。
 スカートのプリーツは乱さないように、白いセーラーカラーは翻らせないように、ゆっくりと歩くのがここでのたしなみ……という以前に、徒歩で通学する生徒が極少数派であったりする。
 もちろん、遅刻ギリギリで走り去るなどといった、はしたない生徒など存在していようはずもない。

 私立聖エクセレント女学院。
 明治二十九年創立のこの学園は、今も富豪・名家のご令嬢のために運営されているという、伝統あるカトリック系お嬢様学校である。
 東京都下。武蔵野の面影を未だに残している緑の多いこの地区で、神に見守られ、幼稚舎から大学までの一貫教育が受けられる乙女の園。
 時代は移り変わり、元号が明治から三回も改まった平成の今日でさえ、十八年通い続ければ温室育ちの純粋培養お嬢様が箱入りで出荷される、という仕組みが未だ残っている貴重な学院である。
 
 
「……じい、何の話をしているんだ?」
 問う主たる少女に、古手川は答えた。
「この学校に関する説明ですな」
 少女……勝沼家ご令嬢である勝沼しのぶ(十六歳)はため息をついた。
「私の知らない世界だ……」
 実は、彼女は聖エクセレント女学院について、それほど無知というわけではない。ある目的で日本のお嬢様学校について調べた事があり、その時にはかなりポイントの高い学校として評価していた。まず、生徒の美少女率が非常に高い事、そして、制服が可愛い事でである。
 まさか、自分がその制服を着た美少女として、エクセレントに通う事になろうとは、思っても見なかったが……
「まぁ良い。成人するまでの辛抱だ。知らない世界だろうがなんだろうが、耐えてやるさ」
「その意気でございます、お嬢様」
 とりあえず気合を入れてみるしのぶを応援する古手川。彼らを乗せたリムジンは、ゆっくりと聖エクセレント女学院の校門を潜ろうとしていた。その門柱には、こう書かれた看板が掲げられていた。
「200X年度 聖エクセレント女学院 入学式」

 
 話は二週間ほど前……勝沼家親族会議の日に遡る。
「……学校に……お……私が?」
 俺、と言いかけて慌てて直すしのぶ。一瞬演技を忘れるほど、叔父の提案は意表を突いたものだった。
「そうだ。見たところ、君は一見礼儀に関しては問題ないように見えるが、実は無理をしているだろう。いや、それが悪いと言っているわけではないよ。ただ、無理なく礼法が身につけば、今後の役にも立つだろう」
 しのぶは正直、名前も知らないこの叔父に舌を巻いた。人材というのはいる所にはいるものだ。
「それはそうですが、しかし……」
 それは別として、しのぶは学校行きにはあまり気乗りがしなかった。普通なら高校にあがる年齢の頃から、次第に病気が悪化していったかつての紳一は、学校には行かなかったが、家庭教師と通信教育を受け、きわめて優秀な成績を取っている。今更学校に行くのは、正直かったるい。
「学校に行くのは、知識だけの問題ではない。そこには君と同じ年代の生徒たちがいる。将来、何らかの形で日本の政財界の中枢に近いところに座る者たちばかりだ。同期のよしみというのは、コネとして大きいぞ。作っておけばいろいろ話が楽だ」
「……そういうものですか」
 昔から周囲には自分と対等の相手がなく、「自分以外は愚物か獲物」としか考えてこなかったしのぶには、理解できない感覚だった。
「そういうものだよ」
 叔父は頷くと、親族たちを見渡した。
「という事で、勝手に提案してみたが……異存はあるかな?」
 親族衆は隣席の相手と顔を見合わせ、ざわざわと話し合ったが、どうやら積極的に異論を唱えようという気合の入った人間はいなかったようだ。
「我々としては、かまわんのだが……彼女を入れる学校については、目星はあるのかね」
 一人の男性が手を上げると、叔父は既に答えを用意していたらしく、指を二本立てた。
「ああ。候補は二つ。一つは聖セリーヌ女学院。ここは私の娘が通っている。もう一つは聖エクセレント女学院だ。理事長とは知り合いなんでね」
 聖セリーヌは聖エクセレントに比べると新興の学校だが、格付け的にはほぼ同等のお嬢様学校である。「良妻賢母の育成」を掲げる聖エクセレントに比べて、実社会に出た時に役立つ知識を教える実用的な教育方針を取っており、人気がでている。
 しのぶ的には聖セリーヌのほうが合うような気もしたが、しばらく考えた末、彼女は聖エクセレントに行くほうを選ぶ事にした。叔父の娘がいる聖セリーヌでは、その娘が体の良い監視役として近づいて来る可能性があったし、聖エクセレントの気風に染まっている、と見せた方が親族衆の油断を誘えそうだ。
 その決断を口にすると、叔父はにやりと笑った。
「そうか。では、理事長にはそう伝えておこう」

 と言うわけで、しのぶは叔父が大枚を寄付してセッティングした補欠入学試験を受けた。学力試験は何の問題もなくクリア、面接も大きな猫を何匹もかぶってごまかし通した。試験の数日後には見事合格通知が届き、その翌日には制服も到着した。
「聖エクセレントの制服か……こうしてまじまじと見ると……」
 部屋で壁にかけた制服を見ながらしのぶが考えていると、後ろに控えていた直人が口を開いた。
「可愛い服……ですか?」
「いや、変なデザインだな、と思っていた」
 しのぶは見も蓋もない言葉を口にした。
 良くマニア向けの雑誌や本では「可愛い制服ランキング」のトップクラスに挙げられるこの制服は、下からブラウス→ベスト→セーラー襟ジャケット→襟つきケープの四重構造と言う、やたらと面倒くさい作りになっている(ちなみに、夏服は上の二つを外すらしい)。
 なんでも、この大きなケープとリボンが体型を隠す事で、エクセレントの生徒たちの清楚さが引き立つのだ、とか何とか評されているらしいが、その割にはリボンと同じ柄(白地に青のチェック)のプリーツスカートは短めになっていた。
「まぁ、とにかく着てみよう……サイズも確かめる必要があるしな」
 そう言うと、しのぶはいきなり着ていたブラウスのボタンを外し始めた。その途端に、背後でがたんと言う大きな音がした。しのぶが振り向くと、直人が腰が抜けたように床に座り込んでいた。
「ん? どうした、直人」
 しのぶが屈み込むと、呆然としていた直人の顔に、血色が戻ってきた……のを通り越して真っ赤になった。
「お、お嬢様……俺が見ている前で着替えるのは、その……」
 そう言いつつも、直人の視線はしのぶの胸に集中している。ボタンがいくつか外されたため、彼女の胸ははだけたブラウスの向こうにしっかり見えていた。ちなみに、今付けているブラは濃い目の紫色と、年齢に似合わないアダルティなものだ。
 色白なせいか、しのぶは濃い目の色の服が似合っており、本人も気に入っていた。それが下着の好みにも反映されているわけだが、見せられる直人はたまったものではない。
「はぁ? お前な、今更女の裸くらいで動じるほど初心じゃないだろ」
 しのぶが呆れたように言う。彼女の言うとおり、直人は主の言う事なら、どんな非道な事にも躊躇無く手を染めて来た。それはしのぶが一番良く知っている事で、直人が自分を見て赤くなるのが、どうしても理解できない。
 しかし、直人にしてみれば、「女の子の裸」ではなく「しのぶお嬢様の裸」だからダメージが大きいのである。守るべき主の見てはいけないものを見てしまう背徳感がなんと言うか、こうたまらないと言うか。
「お、俺は外に出ています」
 そう言うと、よろよろと直人は部屋の外に出て行った。首を傾げつつ、しのぶは着替えを続行する。そして、数分後。
「こんなものか……」
 姿身の前で、しのぶは聖エクセレントの制服に身を包み、おかしなところが無いかチェックしていた。
「大丈夫か……しかし、着辛い制服だな。朝は早起きして着替える必要があるか。まったく面倒くさい……」
 ぶつぶつと文句を言いつつ、しのぶは部下たちに制服姿を披露しようと踵を返した。そんな事を考える辺り、実は満更でもないらしい。しかし、ドアノブに手をかけようとしたところで、彼女はピタリと動きを止めた。
「……!?」
 ドアノブの下の鍵穴から、真っ赤な液体が滴るように流れていた。
「……血か? なぜ鍵穴が血を……」
 物事に動じない方のしのぶだが、さすがにこれは嫌な感じである。しばし考え込んだ末、思い切ってノブに手をかけた。次の瞬間。
「?」
 何も力を入れていないのに、ドアがギ……と音を立てて開いた。一瞬何事かと思ったしのぶは、ドアの隙間から倒れ込んできたモノに気付き、声をあげた。
「直人!?」
 それは、出て行ったはずの直人だった。見ると、彼の顔面と、廊下側のドアノブにべったりと血が付着していた。
「あ……お、お嬢様……」
 出血のせいだけでない青い顔で言う直人に、しのぶは言った。
「……俺の赤いパンツは良く見えたか?」
「いえ、紫色で……はっ!?」
 失言を悟り、口を抑える直人。しのぶは黙って足を上げると、スリッパで直人の顔面を蹂躙し、とどめを刺しにかかった。
「お、お嬢様……」
 しばらく踏んでいると、直人が何か声を上げたので、しのぶはいったん足を止めた。
「なんだ? 言ってみろ」
 しのぶがそう聞くと、直人はろくでもない要求を吐いた。
「も、もっと強く踏んでください……」
「やかましい」
 しのぶは踏みにじりでは無く、全体重をかけたストンピングに切り替えた。直人が完全に殲滅されたのは、それから五十九秒後の事だった。
 
 
 制服を着たしのぶが大リビングに入っていくと、せんべいをかじりつつ、だらけた姿勢でテレビ(ケーブルテレビの一八禁専門チャンネル)を見ていた古手川と木戸が、慌てて姿勢を正した。
「あぁ、楽にしろ」
 しのぶが言うと、さっそく制服に気付いた古手川が相好を崩した。
「ほう、学校の制服でございますな。さすがお嬢様、良くお似合いでございます」
「実に愛らしいですぞ、お嬢様」
 追従ではあるが、本音が篭りまくった二人の誉め言葉に、しのぶも微笑み返す。
「そうか。まぁ、俺だから当然だがな」
 鼻高々に答えると、古手川がおそれながら……と前置きして言ってきた。
「お嬢様、その……『俺』と言うのはやめたほうがよろしいかと」
「え?」
 きょとんとするしのぶに、木戸が続ける。
「そうですね。お嬢様のような方が『俺』と言うのは、それはそれでイイ気もしますが、やはり違和感があります」
 部下二人の言葉に、しのぶは不満そうな表情で答えた。
「そうは言われてもな……世間では一応猫をかぶっておくんだから、家でくらい普通にさせてくれ」
 さすがの彼女も、面接で散々「標準的お嬢様」を演じた時はかなりの精神的疲労を覚えたものだ。しかし、そんなしのぶの甘えを、古手川は許さなかった。
「いけませんぞ、お嬢様。ボロが出るようでは親族の皆様を納得させられませぬ」
 木戸が続ける。
「そうですな。お嬢様学校ともなれば、挨拶は『ごきげんよう』がスタンダード。相手は『様』付きで呼ぶのが礼儀。そして、お嬢様もいつ薔薇様に声をかけられるか……」
「いや、それ学校が違うだろ」
 しのぶは木戸にツッコミを入れておいて、古手川のほうを向いた。
「まぁ、一人称くらいは『私』にしておこう」
「それがようございますな」
 古手川は頷いた。木戸も特に文句は無い。お嬢様言葉を使っているしのぶも良いが、やはり傍若無人で高慢な話し方をする彼女のほうがそれらしいと思っていたからである。


 そんな風にして入学準備も終わり、いよいよしのぶは入学式の日を迎えた。中学以降は学校に通っていない彼女にとって、初めての高校生活が始まる。
「着きましたよ、お嬢様」
 直人が車を止めて言った。そこは既に校舎の前にある車止めだった。送迎の高級車が数台止まっているが、さすがにしのぶが乗っているロールスロイス(しのぶは良く知らないが4000万円くらいするらしい)ほどの高級車は無く、生徒や運転手が興味深そうに見ていた。
「どうぞ、お嬢様」
 木戸が先に降りてドアを開ける。しのぶは「うむ」と頷くと、車から降り立った。垂れた前髪をさっと優雅な手つきでかきあげると、何故か周囲からため息が漏れた。
「すごい……どこの娘かしら?」
「はじめてみる顔ね……ひょっとして新入生?」
「大人っぽいわねぇ……」
 ひそひそと噂する声が漏れるが、しのぶは一切無視すると、部下たちに言った。
「では、また後で迎えを頼む」
「承知しました」
 木戸が一礼して車内へ戻っていく。銀色のリムジンが静かに走り去ると、しのぶは辺りを見回した。
「ふむ……」
 さすがに伝統あるお嬢様学校だけのことはあり、内装は落ち着いて趣味が良い。この辺りの審美眼に関しては、しのぶは家にむやみやたらとある美術品を見慣れているせいで、なかなか厳しいのだが、それでも合格と言えるだけのものはあった。
 しのぶがそうやって廊下の壁に飾ってある彫刻を見ていると、声をかけてくる人がいた。
「もしもし、そこの貴女」
「……お……私か?」
 しのぶが振り向くと、そこには彼女より少し年上と思しき生徒が立っていた。どうやら上級生らしい。
「入学式会場ならこっちじゃないわよ。良かったら、案内してあげましょうか?」
「む……よろしく頼む」
 しのぶが頷くと、その言葉遣いに驚いたのか、一瞬上級生の目が点になった。が、すぐに気を取り直したのか、「こちらよ」と手招きをして歩き出した。しのぶもその後に続く。すると、上級生はしのぶに言い聞かせるように言った。
「きっと、貴女も家ではそういう話し方なんだと思うけど、ちゃんと猫は被って置いたほうが良いわよ。特にシスターたちは礼法にはうるさいから、気をつけるようにね」
 聖エクセレント女学院はミッション系だ。普通の授業もあるが、聖書や礼法など、他の学校には無い授業も多数あり、そうしたものはシスターたちが教えている。
「……わかった」
 しのぶは素直に頷いた。彼女としても、寿命が何時尽きてもおかしくない自暴自棄だった少し前ならともかく、今となっては余計なトラブルを増やす気は無い。
「違うわよ。『わかりました』よ」
「……わかりました」
 面倒なことだ、と思いつつ返事を訂正するしのぶだった。

 そして、入学式の会場において……
「はぁ〜〜〜あふぅ」
 思わず大あくびをするしのぶ。彼女は退屈しきっていた。
 何しろ、先ほどから学院長の退屈極まりない挨拶が延々と続いているのだ。大和撫子になれとか、良妻賢母だとか、そんなのはしのぶの辞書にはない単語ばかりである。
(こういう学校で3年間過ごすのか……判断を誤ったか?)
 あるいは、叔父に上手く乗せられたかもしれない。そう思うしのぶであったが、周囲を見て考えを変えた。
 お嬢様学校であると同時に、美少女揃いである事でも知られている学校だけに、どの生徒も水準以上の美少女だ。
(なるほど……評価は本当か。これは見ているだけでも楽しい……)
 と、そこまで思った時、しのぶは自分の考えに愕然となった。
(ちょっと待て。見ているだけで楽しいだと? わ、私はそんな軟弱な考え方はしなかったはずだぞ!)
 男だった頃なら、これだけの美少女を見ればもっと違う感想を抱いただろう。少なくとも、鑑賞だけで済ませようという甘い考えでは無かったに違いない。
(はぁ……甘い人間になっているのだろうか、俺は……)
 ため息をつくしのぶ。ちなみに、この様子は周囲の人間によって一部始終目撃されていた。しのぶは自分では気まったく気づいていなかったが、ころころと表情を変えまくっていたのだ。ぼうっとしていたり、驚いてみたり、喜んでみたり、悲しんでみたり。
(初めて見る娘だけど……なんだか面白そうな人だな)
 周りの反応はたいていそうだった。入学一日目どころか、数時間目にして、しのぶは「面白い人」として周囲に認知されつつあったのである。
 かつて、勝沼家の後継者として「冷血の貴公子」とまで言われた悪人の印象など、微塵もないしのぶであった。
 式は進み、退屈な学校関係者の挨拶や来賓の祝電読み上げも終わり、舞台には一人の少女が上っていた。かなり大人びた少女で、てっきり上級生なのかとしのぶは思ったのだが、意外にもそれは同級生だった。
『新入生挨拶、一年生総代、西九条紫音』
 司会が言うと、少女は演壇に立って一礼した。自信に満ち溢れた態度で、とても一年生とは思えない、自分こそが世界の主役である、とでも言いたげな雰囲気をまとっていた。しのぶとは少しキャラが同じ方向性かもしれない。
 だからかどうかはわからないが、しのぶはこの紫音という同級生に好意を持たなかった。それに、西九条という名前には聞き覚えがあった。彼女の勝沼財閥とは双璧を為すとも言われる西九条財閥。おそらく紫音はその娘なのだろう。
(西九条か……気に入らんな)
 しのぶが紫音をじっとねめつけるように見ると、その視線を感じ取ったのか、紫音が一瞬しのぶの方を見た。二人の巨大財閥の娘が放つ熱く攻撃的な視線が空中で衝突し、火花を散らす。
 これが、その後の学校生活において宿敵同士となる、勝沼しのぶと西九条紫音の出会いだった。

 新入生の挨拶と、それに対する上級生(生徒会長らしい)の返事があり、ほどなくして式は無事に終了した。しのぶは座りっぱなしで凝った身体を、少し柔軟体操してほぐすと、退場する人の波に乗って歩き始めた。
(さて、今後どうするんだ?)
 しのぶが考えていると、前方……玄関ホールのあたりに人だかりができている。何事かと思って見ると、移動掲示板が引き出され、「クラス編成」と大書された紙が張り出されていた。
「ああ……なるほど。あれを見てクラスに行けば良いのか」
 中学時代を思い出し、しのぶは掲示板の前に立った。聖エクセレントはエスカレーター式の学校だけに、生徒の大半はすでに顔見知りであることが多い。同じクラスになった事を喜び合う少女たちがいるかと思えば、仲の良いグループの中で一人だけ違うクラスになってしまった少女がいるなど、悲喜こもごもの情景が繰り広げられていた。
(つまらん……)
 しのぶは蔑んだようにそれらの光景を見た。彼女は友情など信じていないし、欲してもいない。また、そういうものがある連中にしても、教室がたかだか物理的に十数メートル離れた程度でなくなってしまうものなら、さっさと無くなってしまえとまで思っている。
(所詮は群れなければ何もできない愚民どもだ……さて、私のクラスはと)
 しのぶは掲示板を見回した。すると、存外簡単に彼女のクラスは見つかった。A組である。用事は済んだのでとっととA組に行こうとすると、爪先に何か「ぽふ」とでも形容できそうな軽い衝撃が伝わった。
「ん?」
 足元を見たしのぶは、そこにあったものを見て、軽い当惑を覚えた。それはウサギのぬいぐるみだったのだ。とりあえず拾い上げてみると、今度は彼女の制服の裾を「くいくい」と引っ張る感触があった。
「……んん?」
 しのぶはその引っ張り行為の主を見て、また少し当惑した。そこにいたのは、どう見ても小学生くらいの、幼い少女だったのである。しかも、泣きそうな顔をしていたので、しのぶは少なからず動揺した。
「何だ、どうした?」
 しのぶが聞くと、少女は涙の浮かんだ目でしのぶを見上げて言った。
「おねえちゃん……ミント返して……」
「ミント?」
 何だそれは、と思ったしのぶだったが、少女が指差しているものがミントだということに気がついた。さっき拾ったウサギのぬいぐるみだ。よく見ると、少女はもう一個、同じようなウサギのぬいぐるみを脇に抱えていた。
「あぁ、これを返せば良いのか」
 しのぶは少女にウサギを渡した。すると、それまで泣きべそをかいていた少女は、一転して大輪の花のような笑顔を見せた。
「ありがとう、おねえちゃん」
「……気にするな。それより、私はもう行くからな」
 部下たちが向けてくる敬意とはまたぜんぜん違う、純粋な好意という物を向けられたしのぶは、どうして良いのかわからなくなり、そっけない口調で答えた。それが「照れくさい」という感情であることには、彼女はまったく気づいていない。しかし、歩き出そうとした彼女は、服の裾に重みを感じて立ち止まった。見ると、まださっきの少女が握った手を離さないでいた。表情がまた不安げなものに戻っている。
「何だ。ウサギは返しただろう。まだ用事があるのか?」
 しのぶが苛立たしい気持ちで尋ねると、少女はこくんと頷いて答えた。
「教室の場所がわからないの……」
 しのぶはため息をついた。
「全く……迷子か。そんな事を言われても、私もこの学校には慣れていない。初等部の教室なぞ知らんぞ。というか、何で高等部に初等部の生徒がいるんだ」
 しのぶが言うと、少女は違う違う、というように首を横に振った。そのしぐさの意味を考える前に、第三の人物がその場に現れた。
「あ、ひなちゃん!」
 その声を聞いた少女が、また笑顔を取り戻して、声のした方向を見た。しのぶもつられてそっちを見ると、しのぶと同年代と思われる少女が立っていた。眼鏡をかけたおとなしげな少女だが、体付きのほうは制服の上からでもはっきりわかるほど豊かな胸を持っている。ほう、と声を漏らすしのぶ。
「ひなちゃん、探したよ」
 最初の少女はひなと言う名前らしい。第二の少女に笑顔で駆け寄っていく。しのぶは第二の少女に話し掛けた。
「そいつは妹か? だったらちゃんと離れないように見張っていてくれ」
 しのぶは忠告というよりは、自分が迷惑だ、というつもりで言ったのだが、第二の少女はそれを善意にとったようで、申し訳なさそうな表情で頭を下げた。
「すみません。でも、ひなちゃんは妹じゃないですよ。クラスメイトなんです」
「……なに?」
 しのぶはひなと少女を交互に見た。どう見ても、同じ歳には見えそうもない。
「そういう冗談でからかわれるのは、私は嫌いだ」
 しのぶの口調がよほど怖かったのか、第二の少女は慌てて首を横に振った。
「ほ、本当ですよ! ひなちゃん、生徒手帳」
「う、うん」
 二人が制服のポケットから生徒手帳を取り出す。しのぶはそこに書かれた文字を読み取った。
「二階堂帆之香……高等部一年。如月ひな……高等部一年」
 しのぶは顔を上げ、もう一度二人をじっくりと見比べた。もう大人の女性といって良いほど発育している帆之香と、小学生としか思えないひな。あまりにギャップがありすぎる。
「本当だったのか……信じられん」
 信じられないが、間違いなく目の前の二人は同じ年齢であり、しのぶとは同級生になる。
「ちょっと驚いた……が、まぁわかった」
 しのぶが言うと、帆之香はほっとした表情を見せたが、すぐにそれどころではない事を思い出した。
「いけない、早く教室に行かないと! ひなちゃん、行くよ!」
「うんっ!」
 二人はきびすを返した。そこへしのぶは声をかけた。
「あ、待て」
 帆之香が足を止めた。
「えっ……ま、まだ何か御用ですか?」
 おどおどと問い掛けてくる帆之香。しのぶは堂々と情けない事情について明かした。
「実は私も教室の場所がわからん。連れて行ってくれ」
「……え? あの……そういえばあなたは?」
 目を点にする帆之香に、今度はしのぶが生徒手帳を見せて、身分を明かす番だった。
「同級生だったんですか……てっきり先輩かと思いました」
「おい」


 幸いに……と言うべきか、帆之香とひなは、しのぶと同じA組だった。教室の空いている席を適当に確保すると、帆之香、ひなも何故か近くに座ってきた。周囲ではおそらくエスカレーターで上がってきたのであろう生徒たちが盛んに「また一緒だねー」とか「えー、また同じクラスなの?」などと会話しているが、三人の周りだけは妙に静かだった。
「……お前たちも、私と同じ補欠組か?」
 なんとなくしのぶは帆之香に聞いてみた。普段ならそんな事は気にも留めないところだが、この女子高生だらけの異空間では、さすがの彼女もどこか居心地が悪かった。
「いえ。私もひなちゃんもずっとエク女ですけど……友達が少ないんです」
 帆之香が寂しそうに笑った。なるほど、としのぶは思う。この物静かな……と言えば聞こえは良いが、実態は暗そうな眼鏡っ娘と、身体だけでなく頭の方も軽そうなひなでは、友人が少ないのも無理はない。
 友達いない、と言うことではしのぶだって人の事は言えないのだが、心に無限に棚を持っている彼女は、そんな瑣末なことは気にしない。
「まぁ、別にどうでも良いことだけどな……」
 しのぶがそう答え、帆之香がリアクションに困ったその瞬間、それまでざわめいていた教室がしん……と静まり返った。さては教師が来たか、と思って振り返ったしのぶだったが、そこにいたのはあの西九条のお嬢様、紫音だった。
「ごきげんよう、みなさん」
 優雅な動作で一礼する。そんな彼女の周りに人垣ができる。取り巻きたちだ。
「やっぱり凄いなぁ……西九条さん」
 帆之香が憧れと自分はああはなれない、と言う諦観の入り混じった声で呟く。
「西九条の娘か……同じクラスだったのか」
 しのぶも呟いた。彼女は紫音に自分と同質の匂いを感じ取っていた。天上天下唯我独尊、傲岸不遜絶対無敵、強引にマイウェイ……と言った部分である。お互い我儘放題に生きてきた、似た者同士なのであろう。
 しかし、しのぶと紫音では、決定的に違うところがある。しのぶは紳一だった時から長い間病気がちだったせいもあって、表舞台には立つ事はなかった。日陰にひっそりと咲く花のような存在だ。しかし、紫音は表舞台の一番光り輝く所を常に独占してきた、大輪の向日葵のような少女である。
 同じような気質を持ちながら、光と影に分かれた二人……本能的に相手を嫌悪するところがあったのは、宿命としか言いようがなかった。
 そして、紫音もしのぶの姿を認め、つかつかと近づいてきた。
「あなた、見かけない方ですわね」
 椅子に座ったままのしのぶを威圧するように、紫音が言った。
「高校入学枠から来たから、当然だろうな」
 しのぶは愛想のない口調で答えると、すっと立ち上がった。彼女と紫音の身長はほとんど差がない。睨み合うような体勢で二人の少女は対峙した。
「と言うわけで、今年からこの学校に入学した、勝沼しのぶ。よろしく」
 愛想のない態度ながら、しのぶは握手するように手を差し出した。紫音は一瞬逡巡したが、にこりと表現するには凄みのある笑みを浮かべ、手を握ってきた。
「まぁ、勝沼の……お噂は聞いているわ。私は西九条紫音よ。よろしく」
「名前はさっき聞いた。まぁ、あまり良い噂ではないだろうとは思うが」
 しのぶはこれまた子供の泣きそうな雰囲気を漂わせた笑みで応じた。実際、近くにいるひなが二人の気に当てられて泣きそうになっている。
「そんな事はなくてよ」
 紫音が言った。もちろん嘘である。祖先を辿れば平安時代の公卿に通じる西九条家は、明治維新後に頭角をあらわした勝沼家を、新参の成り上がり者と蔑んでいるからだ。現実にはその勝沼が西九条と肩を並べる……実際にはやや上回っている勢力を有していることは、彼らには面白くないことこの上ない事実であろう。
「それなら良いが……」
 しのぶはしれっとした表情で答えた。彼女から……勝沼サイドから見れば、西九条など血筋が良いだけの骨董品に過ぎない。だが、そんな風に考えること自体、意識していることの裏返しでもある。
(おのれ、生意気な女だ。男のままだったら、どこかに拉致監禁でもして、存分に悲鳴をあげさせてやるものを)
 危ないことを考えつつ、しのぶは手を離した。これ以上握手していたら、余計な力を入れてしまいそうだ。それはそれで楽しいかもしれないが、彼女の目的は紫音を叩きのめす事ではない。3年間我慢して、名実ともに当主の地位を手に入れることだ。
 しのぶが手を離すと、紫音も自分の席に戻って行き、教室に安堵の空気が漂った。同時に、一年生ながら学院の女王的存在だった紫音と互角にやりあったしのぶに対する好奇の視線も飛び交っていた。
 それも、担任の教師が入ってくるまでだった。先ほどまでの緊迫した空気など知らぬげなその教師は、青年と中年の境界線付近をうろうろしてそうな年代の男で、かなり屈強そうな鍛えられた体つきをしていた。見た感じ女性にはもてそうで、女子高にいて大丈夫なのか、と思わせる人物だったが、しのぶが後で聞いた話では、担任は結婚して5年目になる妻とその間に生まれた子供を溺愛しており、ほかの女性には目もくれない、と言う話だった。
「……と言うわけで、今年一年君たちを担当することになった、出雲彼方だ。現代社会の学年主任もしているのでよろしくな」
 出雲教諭はそう言って爽やかに笑うと、出席簿を開いた。
「さて、早速最初のホームルームをはじめたいと思うわけだが……とりあえず自己紹介から行ってみようか。君ら同士は顔見知りかもしれないが、俺は君らのことを知らないからな」
 そう言って、出雲教諭は出席簿に載せられた生徒たちの名前をあいうえお順に呼び始めた。しのぶはカ行なので、当てられるのは早かった。
「次、勝沼しのぶ……は、今年からの入学枠か。みんなに知ってもらうためにも、俺の方でなく、みんなの方を向いて話すように」
 能天気な事を言う出雲教諭。しのぶの方は既に紫音との対決で思い切りクラス中に知られているのだが、仕方なく立ち上がると、できるだけ多くのクラスメイトたちを見るように姿勢を変えた。
「今年から入学した勝沼しのぶです。よろしく」
 面倒くさいのでシンプルに名前を言うだけにしたのだが、出雲教諭には不満だったらしい。
「勝沼、もうちょっと何か言ったほうが良いぞ。趣味とか、今興味のあることとか」
 しのぶは余計なことを言う、とばかりに担任を睨んだが、部下たちなら震え上がるであろうその視線を、出雲教諭はあっさりと霧散させた。ため息をつき、あきらめたしのぶは何か適当なことを言おうとした。
「では、趣味は……そうだな……読書と言うことで」
 本当に適当だが、一日中ベッドの上に寝ている生活で、テレビ番組などにも興味がなかった病人時代には、それくらいしか暇を潰す手段がなかったのも事実である。直人が意外にも詩集や文芸作品を好む趣味があったため、しのぶもいわゆる名作文学の類にはかなり目を通していた。
 とはいえ、この主従の事だから、些細な矛盾や偽善性をあげつらって楽しむと言う、なかなかに歪んだ読み方だったのはご愛嬌である。
「うん、まぁ良いだろう。次」
 出雲教諭が次の生徒を呼ぶ。安心して席に座ったしのぶに、帆之香が声をかけてきた。
「勝沼さん、本が好きなんだ」
「いや、好きというか、それくらいしかする事がなかっただけなんだが……」
 しのぶはそっけなく答えたが、見た目どおりの本の虫である帆之香は、結構しつこくしのぶに好きな作家や作品の傾向を聞きまくってきた。
「ああぁ、もう後で話に付き合ってやるから、今は静かにしてくれ」
 目をきらきらさせて迫ってくる帆之香を突き放すようにして、しのぶは話を打ち切った。もちろん、本当にあとで帆之香と文学論を語らうつもりなどない。黙らせるための方便である。
(それにしても……意外といろんな奴がいるんだな)
 しのぶは自己紹介していくクラスメイトたちを見ながら思った。例えば、松澤礼奈は今をときめくトップアイドルの一人だ。しのぶ自身はアイドルなどには興味はないし、それに騒ぐ愚民の気持ちなど理解したくもないが、礼奈が華のある少女だと言うのは確かだった。
 また、ひなだけかと思っていたどう見てもお子様、と言う生徒があと二人もいた。ファン層は違うが、礼奈同様現役アイドルだと言う神崎鈴と、小学生通り越して幼稚園児かと思った水無瀬流花の二人である。
(……何なんだ、このクラス)
 紫音や帆之香、礼奈と言った大人びた少女たちがいる反面で、小学生以下にしか見えない少女もいる。アウターゾーンに踏み込んだような気持ちになったしのぶだった。
「よし、まぁこんな所か。それでは、ホームルームはここまで。今日は解散だ」
 出雲教諭が宣言し、彼に適当に指名された生徒が「起立、礼」と号令をかけて、しのぶの高校生活第一日が終わりを告げた……かに見えた。
「勝沼さん、さっきの話なんだけど……」
 さっさと帰ろうとしたしのぶだったが、やはり席が近くては逃げられない。あっさりと帆之香に捕獲されていた。
「勝沼さんはどんな作品が好き? 私は……」
 最初に会った時のおどおどした態度が嘘のように嬉しそうに話し続ける帆之香を見て、しのぶはため息をついた。
(こいつ、好きな事語らせたら止まらないタイプだな)
 ともかく、満足するまで話させてやらないと離してくれそうもない。しのぶは適当に相槌を打ちながら帆之香の話を聞いてやった。そのうち、しのぶも何かと話を始めていた。
「ふぅん、勝沼さんは『白鯨』が好きなの?」
「うむ。あれは良いな。エイハブ船長の身勝手ぶりが最高だ。男はああでなくては……ん?」
 突然口篭もったしのぶに、帆之香が心配そうな目を向けた。
「どうしたの? 勝沼さん」
「いや……なんでもない」
 ごまかしながらも、しのぶはさっきまでの自分の姿を回想して、大きなショックを受けていた。
(な、何なんだ……何を和んでいるんだ、私は!)
 社会的にはともかく、実際の年齢としては年下の少女を相手にこんな風に親しく会話をするなど、それまでの彼女の人生には有り得ないことだった。そして、今後もないはずだった。
 彼女は勝沼の後継者であり、その地位に座るには、愛情や友情と言ったものは邪魔以外の何物でもないのだから
「部下を待たせているのを忘れていた。私はそろそろ帰る」
 しのぶがようやく話を打ち切る口実を見つけると、帆之香はいけない、と言う表情になった。
「そう言えば、私も運転手さんを待たせちゃったかも。いっしょに行くね」
「あ、ああ……」
 しのぶは頷くと、帆之香と教室を出た。話の内容がわかっているのかいないのか、ずっとそばで話を聞いていたひなも一緒だ。階段を降り、玄関ホールに出ると、温厚そうな中年男性が立っていた。
「おお、ひなお嬢様。お待ちしておりました」
 どうやら、ひなの運転手だったらしい。彼女は一歩駆け出して、立ち止まると振り向いてにっこり笑った。
「ばいばい、帆之香おねえちゃん、しのぶおねえちゃん」
「うん。ばいばい、ひなちゃん」
 帆之香は動じずににっこり笑い返してひなを見送った。
「おねえちゃんって、お前……同い年だろう? 一応」
 一方のしのぶは呆れ顔でそう言ったが、帆之香がそれをフォローした。
「おねえちゃんって呼ぶのは、ひなちゃんなりの親しみの表し方なの。人見知りの激しい子なのに、勝沼さんには懐いてくれてるみたいね」
「冗談だろう」
 しのぶは仏頂面になった。ひなみたいな少女に好感を抱かれるほど、自分は善人ではない。むしろ怖がられて然るべきだ。しかし、ひなはふるふると首を振って言った。
「しのぶおねえちゃんは好き。ミントの事助けてくれたから」
 例のウサギのぬいぐるみを見せられ、しのぶは反論する気も失せた。
「ふんっ、好きにしろ」
 そのやり取りを見て、帆之香がくすりと笑う。それを聞きとがめてしのぶが帆之香を睨んだ。
「何がおかしいんだ、帆之香」
「え? ふふっ、別になんでもないよ」
 その答えを聞いて、ますます不機嫌そうに黙り込むしのぶを、帆之香は穏やかな笑顔で見つめていた。
 
 玄関先に止まっていた車の前で帆之香と別れ、しのぶは駐車場の端に止まっていた自分のリムジンのところへ歩いてきた。車体にもたれてタバコを吸っていた木戸が、彼女の姿に気づき、慌てて吸殻を投げ捨てようとする。病気だったころ、紳一はわずかな煙を吸っただけでも発作を起こしていたことを思い出したのだ。しかし、しのぶは木戸の行動を止めさせた。
「かまわん。ゆっくり吸え。もうそのくらいで参るようなやわな身体じゃない」
「は、ではお言葉に甘えまして……」
 木戸はそう言ったが、それでも二口吸っただけで吸殻を踏み潰した。その間に、車内から古手川も姿をあらわしていた。
「学校はいかがでしたか、お嬢様」
「退屈だな。どいつもこいつも俗物ばかりだ。三年間耐えられるかどうか、自分でも不安になる」
 しのぶがそう答えると、古手川はヒョッヒョッヒョッと奇怪な笑い声を立てた。
「何がおかしい、じい」
 その笑い声が妙に癇に障り、苛立たしい声をあげたしのぶに、古手川がいやいやこれはご無礼を、と謝罪しつつも、楽しそうな笑顔で主を見た。
「ご不満そうな割には、なにやら楽しそうな御様子に見えました故……」
「楽しそうだと? 私が?」
 しのぶは意表を突かれたように立ち尽くしたが、猛烈に不機嫌な表情になると、古手川を睨みつけた。
「じい……主の気持ちも忖度できなくなったのか? そろそろ隠居するか?」
 噴火直前の火山の鳴動を思わせる不穏さを秘めた声で言うしのぶ。すわ失言かと顔を青くする古手川。そこへ割って入ったのは木戸だった。
「いや、私にもお嬢様が楽しそうに見えましたが……」
 しのぶは今度は木戸を睨む。
「お前までそういうことを言うか? 全くどいつもこいつも節穴か、その目は」
 しのぶは疲れた、と言う顔になり、さっさとリムジンに乗り込んだ。直人がお疲れ様でした、というのに頷き、ふと思い出したように顔を上げる。
「直人。お前、この前モーパッサンの作品集を買ったとか言ってたよな?」
「はい、あの後半生の狂気っぷりが良いですね。で、それが何か……?」
 頷いておいて質問し返してくる直人に、しのぶは片手を上げた。
「今度貸してくれ」
「良いですよ。読み終わってますから、帰ったらお渡ししましょう。しかし、何故また急に?」
 直人の問いに、しのぶは目を伏せ、ためらいがちに答えた。
「まぁ……その、なんだ。人に薦められてな」
 そのしのぶの照れたような仕草に、直人は赤い顔で首を縦に振りまくった。
「良いでしょう。なんでもお貸ししますよ! モーパッサンでもワーズワースでも!」
「いや、一冊で良いんだが……」
 側近の張り切りぶりに戸惑うしのぶ。古手川はニヤリと笑うと、しのぶに聞いた。
「して、今後の学校生活はいかがな見通しでしょうかな」
 油断していたこともあるが、唐突な質問に、しのぶは反射的に答えた。
「まぁ、悪くない」
 つまり、彼女にとっては最上級の評価と言うことだ。顔を見合わせて笑う古手川と木戸。素直じゃないお嬢様を乗せたロールスロイスは、暮れなずみ始めた街を、勝沼邸に向けて進んでいった。
 
 (つづく)


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