東京都内の一等地、周囲を見下ろす丘の上に、その屋敷はある。バブル期の地価狂奔の時代には、この屋敷の全敷地と日本以外の一国が等価、とまで言われたほどのむやみやたらと広大な土地だ。
 その更に中心部に、これまた巨大な邸宅がある。数代前の主が欧州の城を買い取って、そのまま移築した、と噂される豪華な建物だ。恐ろしいことにその噂は事実であり、当時の額でも小さな国なら丸ごと買えてしまうほどの費用が投じられたらしい。しかし、この屋敷に住む一族は、その程度の散財では小揺るぎもしないほどの強大な財力を保有していた。
 勝沼家……日本はおろか、世界でも有数の巨大コンツェルンを支配する一族である。
 その城の最上階、ひときわ豪華な部屋が当主の私室である。日当たり、風通しともに十分なその部屋は、しかし澱んだ空気に満たされていた。
 室内には陰惨な臭いが立ち込めている。それは死の臭いだ。それを発しているのは、豪奢な天蓋付きのベッドに身を横たえる一人の青年である。この青年、名を勝沼紳一という。その名が示すように、勝沼家の直系の嫡男であり、先代当主である父親の死とともに、その座を相続した。
 しかし、今やその身体は不治の病魔に冒され、死を待つのみの有様になっていた。だが、彼はまだ死んではいなかった。その目は妖しいほどに精気に満ちて輝き、迫りくる死に対して抗う姿勢を捨ててはいなかった。
 そして、彼にその戦いのための希望をもたらしたのが、今ベッドの横に座っている、一人の学者だった。
「その治療法を使えば、俺は助かるのか」
 紳一が言うと、通訳がそれを訳し、博士に伝えた。博士は大仰に頷き、良くわからない言語で何事かを叫ぶ。
「間違いない、と博士はおっしゃっています」
 通訳の言葉に、紳一は熱い息を吐くと、頷いた。
「良いだろう……どうせ死ぬ身だ。それに賭けるのも一興だろう。やってくれと博士に伝えてくれ」
 紳一の言葉を伝えると、博士は頷き、了承したことを伝えてきた。この瞬間、勝沼家の歴史は、定められていた破滅から、大きく舵を切って、斜め上方向に突き進むことになるのである。


悪夢でも絶望でもない話


三月の章 お坊ちゃまはお嬢様


 それから一月後。勝沼邸の当主の部屋からは、あの陰惨な死の臭いは、すっかり払拭されていた。代わりに、何か生気に満ちた、甘い香りが部屋を満たしている。その香りを発しているのは、豪奢な天蓋付きの巨大なベッドの上で眠っている一人の少女だった。
 年の頃は16〜17歳と言うところか。いささか線が細いところもあるが、かなりの美少女と評して良い容姿を持っている。年の割に発達した肢体を、黒のベビードールと言うなかなかセクシーな夜着で装っていた。
 その彼女の眠りを妨げるものが、ドアをノックして出現した。
「お嬢様、朝でございますぞ」
 執事であった。名を古手川と言う。どっちかと言うと悪相で、こうした上流階級の家に仕えるには不似合いな雰囲気を持った人物だが、その物腰は役目に相応しく洗練されていた。手に持っているのは、少女の着替えだろう。
「お嬢様、お起きになられませ」
 古手川は少女を呼びながらベッドに近づく。そして、はしたなくもシーツを蹴散らかして寝ている少女の姿に、年甲斐も無く顔を赤らめた。
 何しろ、少女が着ているのはベビードール一枚。形の良い脚や腕は剥き出しになっており、理性に乏しい人間なら、ここでル○ンダイブを敢行しても責められない、と言うほど、男の煩悩をくすぐる寝姿をしていた。
 そして、古手川は若干理性には乏しい男でもあった。ルパ○ダイブこそ仕掛けないが、その指がそっと伸ばされ、ベビードールの裾をめくりあげる。その瞬間、少女は目を覚ました。硬直する古手川。
「…何をしている? じい」
「……はっ!? あ、いや、その……朝でございますぞ、お嬢様。今日も実に清々しく……」
 長広舌でごまかそうとする古手川に対し、少女は裾をつまんでいる彼の指をピシリと弾き飛ばし、ベッドの上に立ち上がった。背はあまり高くない……160cm台前半というところだろうが、仁王立ちした姿は他者を威圧するだけの迫力を備えていた。女王の威厳、とでも言うべきものかもしれない。
「ああ、清々しい朝だな……それはわかっている。だから、何をしていたかと聞いているんだ」
 凛々しい……というよりはややきつめの顔立ちに、男言葉が妙にマッチしている。古手川はその気迫に、思わずその場に平伏していた。
「は、はぁっ! も、申し訳ございません、お嬢様! つい出来心で……」
 その弁明を聞いた少女は、すっと目を細め、火の出るような視線を古手川に向けた。
「ほぉ……お前は出来心で主の寝巻をめくって、何かしようとしていたのか……」
 表情と裏腹に、口調は感情を表さない平板なものになっていく。と言っても、それは表面だけの事で、わかる人ならば震え上がらずにはいられない、強烈な侮蔑の念が込められている。その表情と声で、少女は決定的な一言を放った。
「この下衆が」
 次の瞬間、古手川は悶絶するように床をゴロゴロと転がった。
「はぁ〜〜〜う〜〜〜」
 その口からは奇声が漏れ、顔には恍惚の表情が浮かんでいる。少女はあっけにとられた顔でその様子を見た。
「じ、じい……どうしたんだ?」
 少女が聞くと、古手川は口から泡でも吹きそうな様子で答えた。
「……良い、すごく良いですぞお嬢様! その顔と口調で蔑まれると、わしゃ心の底からゾクゾクしてまいります! 嗚呼、お嬢様! この蛆虫めをもっと罵ってくだされ〜〜〜!!」
 少女は心底脱力した表情で古手川を見た。ずりかけたベビードールのストラップが、その内心を良く表していた。
「……いやだ。喜ぶのがわかってて叱責する奴がどこにいる」
 少女はため息をつくと、服を拾い上げた。
「じゃあ、俺は着替える。じいは外へ出ていろ」
 少女が言うと、古手川はそれまでの狂態が嘘のようにすっくと立ち上がり、慇懃に腰を曲げた。
「よければ、お手伝いなどを……」
「いらんわ出て行けこのスケベジジイーっ!!」
 少女の蹴りを喰らい、古手川はその姿勢のまま廊下に吹き飛んでいった。少女はため息をつき、着替えようとしたが、その前に壁に歩み寄ると、そこに飾ってあったものを手に取った。この邸宅が欧州の城だったころからの備品だったという細身の長剣だ。その鞘を払ってドアにつかつかと近寄った彼女は、気合を入れた叫びと共に、その切っ先をドアの鍵穴に突き刺した。
「うわあああぁぁぁぁぁっっ!?」
 扉の向こうで叫び声が聞こえたのは、古手川がまだ覗いていたからだろう。ぶるぶると震える剣を鍵穴に残したまま、少女はベッドの上に投げた服のところへ戻った。
「はぁ……俺の部下はどうしてあんなのばかりなんだ」 
 そう口にしてから、ある事実に気がつく。
「って、人選したの俺じゃないか……」
 心の底からがっくりと落ち込む少女だった。
 
 純白のブラウスとスカイブルーのロングスカートに着替え、少女は部屋の外に出た。そこに一人の青年が立っていた。
 年の頃は、少女より3〜4歳上というところか。古手川とは違い、美形といって良い顔立ちを持つ青年だ。しかし、その身に纏う何とも言えない邪悪な雰囲気が、外見からくる好印象を打ち消してしまっている。
「お嬢様、おはようございます」
「直人か。おはよう」
 少女は微笑んで挨拶する。何気ない仕草なのだが、直人と呼ばれた青年の表情に赤味が差し、纏っている闇色の気配が一瞬霧散した。
 彼……直人は幼いころに主人の遊び相手として宛がわれ、今は運転手も勤めている。細身の外見に似合わず、暴力と狡知に長けた性格でもあった。幼いころから主への忠誠一筋に生きてきただけに、主から好意らしいものを示されることは、彼にとっては無上の喜びなのだ。
「今日は親族会議の日でございますね」
 歩き出した少女の後ろに続きながら直人が言う。
「そうだな。面倒くさいことだ。一応遺言書は用意しておいたが」
 少女がハンドバッグから一通の封筒を出す。「遺言書 勝沼紳一」と書かれたものだ。と言う事は、少女が今いる部屋の主だった青年は、もうこの世にはいないらしい。
「うまくおやりになれます、お嬢様なら」
 直人が追従するように言うと、少女は年齢と性別に似合わぬ笑みを浮かべて、忠臣の言葉に答えた。
「当然だ。姿はこうでも、俺の本質は変わらない。あの無能な連中に負けるものかよ」
 謎めいた言葉だったが、直人は感動した声で頷いた。
「それでこそ、紳一様です」
 直人はこの世にいないはずの人物の名で少女を呼んだ。すると、少女は軽く咳払いをすると、その声にふさわしいたおやかな口調で答えた。
「紳一は兄です。私の名前は勝沼しのぶ。兄から当主の座を継承した身です」
 しのぶと名乗った少女はそこでがらりと口調を変え、元の態度を取り戻して言葉を続けた。
「世間にはそういうことにしてある。忘れるなよ? 直人」
「はい、お嬢様」
 直人はうやうやしく頭を下げた。
 そう……この少女、しのぶこそ、一月前まで死病の床についていた勝沼紳一その人であった。なぜ紳一が少女の姿になり、しかも健康体なのか……時間は3週間前に遡る。
 
 とある景勝地にある勝沼家の別邸。ここには何故か、広い地下室がある。何十人という人間を一度に入れておけそうなほど、不自然に広い部屋だ。
 勝沼家の一族には、優秀な頭脳や強烈なカリスマ性といった長所とは別に、自らを選ばれた者とみなし、それ以外の者に対する過剰なまでの加虐性を持つ人間が少なくない。紳一自身がそうであるし、この地下室を利用してきた歴代の当主たちも、またそうであったという。ここは、勝沼家の生贄として捧げられた犠牲者たちのいた部屋なのだ。
 その、いわば勝沼にとっての暗黒の聖地とでも言うべき場所であるここが、自らの復活と再生の地として相応しい……紳一はそう考えたのである。
 その巨大な空間に、空輸されてきた怪しげな装置が幾つも設置され、妙なタンクも並べられていた。
「これは壮観だな……」
 直人の押す車椅子に乗った紳一がそれらの装置を見上げる。見た目は怪しいマッドサイエンティストの実験室そのものだが、自らの復活を約束する物と思えば、見る目も違ってくる。
「オー、ミスター・カツヌマー」
 マッドな楽園の今の主である、例の怪しい博士が通訳を伴ってやって来た。
「今夜には稼動状態になると、博士は仰っています」
 通訳の言葉に、紳一は満足げに頷いたが、急に咳き込むと、身体を折って吐血した。床に鮮血が飛び散り、直人が狼狽して叫ぶ。
「紳一様! これを!」
 差し出されたハンカチがたちまち朱に染まる。それを投げ捨て、紳一はニヤリと笑った。
「大丈夫だ。今はな……しかし、時間がない。頼むぞ、博士」
 博士は真面目な表情で頷いた。
 
 その夜、稼動した新型治療装置の中に、紳一は身体を横たえていた。外見は長さ2メートルとちょっとのカプセルで、患者はこの中で麻酔を打って眠りにつく。そこへ特殊な液を流しこみ、患者の身体を保護する。そうして、機械が遺伝子レベルで病巣を消去していく……そういう仕掛けであるらしい。かなり優秀な頭脳を持つ紳一にしても、博士の説明は半分と理解できなかったが。
「お坊ちゃま、ご無事で……」
 ボディガードの木戸が言う。暴力という分野で、長年勝沼家に仕えてきた忠臣と呼べる部下の一人だ。
「案ずるな、お前達。この俺が死ぬわけがない。まだやり残したことはいっぱいあるんだからな」
 見守る部下たちに向けて、紳一は不敵に笑ってみせる。そう、神をも跪かせる勝沼の後継者たる自分が、こんな事で死ぬはずはない。次第に麻酔が利いてきて、目の前が暗くなってくる。だが、その先に栄光溢れる目覚めがあると、紳一は信じていた。


「……のはずだったんだけどな」
 つぶやくしのぶに、直人が不審そうな目を向ける。
「お嬢様、何か?」
「いや、なんでもない……ただの考え事だ」
 しのぶの思いは、今度は目覚めた時に移って行った。
 

 目が覚めたのは、まぶしい光がまぶたを通して目を刺したからだった。
「ん……?」
 目を開けてみると、ぼやけた視界の向こうに、5つの人影が見えた。視界と意識がはっきりしてくるにつれて、それが古手川、直人、木戸、博士、通訳のものだと気づく。
(む……これは)
 意識がはっきりした瞬間、紳一は己の身に起きた変化に気がついた。この治療機に入る前は、身体の奥深く、芯まで食い入っていた重苦しい「何か」が、間違いなく消えている。代わりに全身を満たしているのは、澄み切った清々しさだ。
 紳一は確信した。己を苦しめていた病が、足跡一つ残さず自分の元を立ち去ったのだ、という事を。
「よくぞ……」
 やってくれた、と博士に言おうとしたその時、先に声を上げたのは古手川だった。
「お……」
「ん?」
 古手川の顔が歪んだのを見て、紳一は首を傾げた。忠実な執事の顔に浮かんでいるのが、主を見る時の表情ではなく、獲物を見つけた時のそれに見えたからである。そして、その感じ方は間違いではなかった。
「お、女あああぁぁぁぁぁぁっっ!」
「うわあああぁぁぁぁぁっっ!?」
 奇声をあげて襲い掛かってきた古手川から、紳一は慌てて逃げ出した。自分のあげた悲鳴が、妙に甲高い事に気づく余裕はない。紳一のいなくなったカプセルの口に古手川が突っ込み、紳一は床の上に落ちた。
「直人、逃がすなよ!?」
「おう!」
 すると、紳一の退路を塞ぐようにして、木戸と直人が挟み撃ちに出てきた。古手川はまだカプセルに上半身を突っ込んでいる。抜けなくなったのか、足をじたばたさせていた……が、そのうち窒息したのか、その動きが止まった。ここで、ようやく紳一は怒りが込み上げてきた。
(何のつもりだ、こいつら!)
 飼い犬に手を噛まれる、などという無様な真似は、勝沼家の人間には許されない。紳一は思い切り息を吸い込むと、大声で怒鳴った。
「直人、木戸! 退がれ! お前たち、誰に向かってものを言っているのか、わからない……の……か?」
 一喝が途中から尻すぼみになったのは、紳一が自分の声の異変に気づいたからだった。
「な、何だ? 今の声は」
 そう自問する声も、妙に高い。高いというよりは、綺麗な澄んだ声になっている。そして、自問しながら押さえた喉には、喉ぼとけの感触が無かった。
「あ、あれ?」
 冷静沈着を旨とする紳一にしては、不覚とも言うべき戸惑いの声だった。しかし、部下たちは戸惑いどころの騒ぎではなかった。紳一の尻すぼみの一喝ではあったが、彼らはちゃんと平伏していた。彼らを驚かせたのは、自分がそうした行動を取ってしまった事だった。
「ば、馬鹿な。俺が跪くのは、紳一様お一人……」
 直人が脂汗をだらだらと流して呟くと、反対側で木戸も同じ姿勢のまま固まっていた。
「我等に命令を下せるお方はただ一人。では、まさか……」
 二人は同時に顔を上げ、紳一を……正確には、その身体の一部を見た。そして、紳一も同じところを見ていた。
「こ、これは……」
 紳一は青ざめていた。病気は完治したはずなのに、全身が冷たくなり、血の気が引いて行くのが、自分でも理解できる。それをもたらしたものは、紳一の胸にあった。
 男の身体にはあり得ない、豊かで形の良い膨らみ。どう見ても女性の乳房だった。カプセルに入るときに服は全て脱いであったので、隠すものが何も無い。
「な、なぜこんなものが俺の身体に?」
 勝沼家の当主にあるまじきうろたえた声で、紳一はそれを手のひらに収めてみた。とたんに、全身を電撃のような刺激が走り抜ける。
「くうっ……!?」
 慌てて紳一は手を胸から離した。どうやら、作り物の類ではないらしい。余りにも異常な事態に、頭が空白になりそうなのを必死にこらえて考えをめぐらせる。
(本物の胸らしい……となると、まさか?)
 紳一は手を更に下に滑らせ、自分の股間に当てた。そして、最悪の予想が的中した事を悟った。
 そこには、紳一が親しんだあの感覚は存在しなかった。代わりに、女性を相手にしたときに触れた事のある、あの手触りが……
「か、鏡だ! 直人、鏡を持って来いっ!!」
「は、はいっ!」
 直人が叱られた子犬が逃げ出すような勢いで走り出し、地下室を飛び出していった。そして、1分ほどで手鏡を持って駆け戻ってきた。
「ど、どうぞ……あの、紳一様なのですか?」
「うむ……当たり前だ」
 直人の問いに紳一は頷いて、差し出された鏡を見た。
「……」
 そこに映し出されていたのは、一人の少女だった。紳一は試しに笑ってみた。すると、鏡の中の少女は、きつい顔立ちに似合わない、見る者を安堵させるような笑顔を見せた
「……ふふふ……はーっはっはっはっはっは……!……はうっ」
 最悪の予想が物の見事に的中した事を知り、今や少女の姿に変わってしまった紳一は精神のバランスを崩した(もともと崩れているという説もあるが)かのように哄笑し、それからあっさりと気絶したのだった。
「ぼ、坊ちゃま!? いかん、直人! 手伝え!!」
 木戸が紳一を抱き上げようとしたが、直人はその言葉に反応せず、上体をゆらゆらとウミユリか何かのように揺らしていた。
「紳一様が女の子……女の子な紳一様……良い……」
 そう夢見るような表情でブツブツ呟いている。やがて、その鼻からすっと血が一筋流れたかと思うと、たちまち奔流となり、さらには噴火になった。まるで銃撃されたようにシャツを血染めにして、直人の身体が床に轟沈する。
「うわ、何やってんだお前! いまさらそんな純情な真似が似合う奴かお前は!? ええい、くそっ!」
 木戸はあきらめて、紳一の身体をお姫様抱っこすると、呆然と成り行きを見守っていた博士と通訳に手伝ってもらい、彼女を介抱した。
 その間、呼吸困難に陥った古手川と、出血多量の直人が瀕死のまま放って置かれたが、それは本題ではないので割愛する。
 
 そして、数時間後……紳一は別荘の自室で、部下たちと博士たちを前に、ベッドの上で事情を聞いていた。女物の服など用意されていないので、裸身にシーツを巻いただけ、というセクシーな姿をしている。
 乾いた髪の毛はやや褪色して、茶と金の中間くらいの色合いになり、何故かくるくると縦に巻いている。いわゆる縦ロールという髪型だ。身体もそうだが、この髪型もかなりボリュームがあるため、今の紳一はかなりゴージャスな感じのする女の子に見えた。
「要するに……」
 博士の説明を聞き終わった紳一が口を開く。
「俺の病気の原因は、Y染色体の異常だった……と、そう理解して良いのか?」
 通訳の言葉を聞いた博士が頷く。
「はい、それ以外には考えられない、と博士は仰っています」
 人間の細胞にはXとYの二つの染色体があり、組み合わせで性別が決定する。XXなら女性、XYなら男性だ。紳一の場合はこのY染色体に病原があり、機械がそれを破壊して手近な正常な染色体……Xと置き換えたために、身体が女性化してしまったのだと博士は結論付けていた。
「……それって、欠陥品じゃないのか?」
 紳一がジト目でツッコミを入れると、博士はとんでもない、という風に首を横に振った。
「欠陥品などではありませんぞ! 製作者の私にも診断できなかった病気を治癒する事に成功したのだから、立派な大成功です!! と博士は仰っています」
 通訳の言葉を聞いた紳一はため息をついた。
「それはまぁ、確かに病気は治っているが……釈然としないぞ。それで、元の男には戻せるのか?」
 これが一番重要な事だった。紳一は女性は嫌いではない。むしろ好きだ。しかし、自分が女性になってしまう、という事は不許可だ。彼にとっての女性とは、獲物とか供物でしかないのだから。
「……それは不可能です」
 紳一の思いは一言で片付けられた。
「男の身体に戻せば、確実に病気が再発して死ぬでしょう、と博士は仰っています」
「……何てことだ」
 紳一は唸った。まさかこんな事になるとは……
 すると、それまで黙って話を聞いていた3人の部下たちが、紳一の前に跪いた。代表して古手川が口を開く。
「ぼっちゃまがどんな姿になろうと、私めの忠誠は変わりませんぞ」
 古手川に負けじと、直人と木戸も忠誠を誓った。
「俺も、紳一様にどこまでも付いて行きます」
「同じく、これまでと変わらずボディガードを勤めさせていただきます」
 それを聞いた紳一は鼻を鳴らした。
「ふん……当然だ」
 紳一にとって、部下に忠誠を寄せられる事は当たり前の事だ。だから、感謝などしない。しかし、今の姿……本当に「勝沼紳一」かどうか証明できない状態でも、彼らがいつもと変わらず忠誠を誓ってくれた事は、紳一にとってはほっとする出来事だった。
 本人は気づいていなかったが、安堵した女の子な紳一の目尻には、涙の粒が光っていた。少なからず動揺する三馬鹿たち。
(あのぼっちゃまが……)
(可憐だ……)
(すまん、不覚にも萌えた……)
 ひそひそと会話を交わす三人。一方、紳一は思い切り吹っ切れたように言葉を続けていた。
「そうだな。女になっても俺は俺だ。病気のせいで、人生最後のゲームだとか考えているよりも、生きているだけマシってものだ」
「最後のゲーム?」
「ああ、いやなんでもない」
 木戸の問いをごまかす紳一。まだ男で病気が治る前、紳一はそう称して巨大な犯罪計画を実行に移すつもりだった。だが、生きられる事になったのだから、それはもう必要ない。
「ともかく、今後の事を考えよう。性別が変わったとなると、いろいろ面倒だぞ」
 紳一の言葉に、三馬鹿が顔を上げる。
「と、申しますと?」
 古手川が聞くと、紳一は指折り数えながら、予想される面倒事を挙げ始めた。
「まず、戸籍……これはまぁ、どうとでもなるな。身の回りのものも……良いだろう。問題は、屋敷の連中にどう説明するかと、身分をどうするかだな」
 屋敷には紳一と三馬鹿以外にも、メイドや庭師といった使用人が数多く住んでいる。彼らに事情を説明するのは骨が折れるだろう。
 また、紳一は勝沼財閥の頂点でもあるが、勝沼家は典型的な男尊女卑の価値観を持つ一族だ。紳一が女の子になってしまったと知れば、これ幸いと追い落としにかかるであろう連中は山ほどいる。
「紳一様、提案があるのですが」
 手を上げたのは直人だった。
「ん、何だ。言ってみろ」
 紳一は発言を許した。直人はこれでも頭が切れる。これまでいくつかの陰謀を立案し、成功させてきた実績もあり、紳一にとってはなかなか得がたいブレーンなのだ。それだけに、直人の提案には興味があった。すると、直人は意外な事を言い出した。
「紳一様にはお亡くなりになっていただきます」
「!?」
 さすがの紳一も、これには驚いた。驚くばかりでなく、怒りを発したのは古手川だ。
「直人、貴様何という事を言うのだ!!」
「怒るのは最後まで聞いてからにしてくれ」
 直人は古手川をそう宥めると、発言を続けた。
「もちろん、本当に死んでいただく、という意味ではありません。形式上そう言う事にして、今の紳一様を……そうですね、妹か何かということにして、紳一様の後継者とするのです」
 その提案に紳一は興味を持った。
「なるほど、それは面白いかも知れんな……しかし、俺には妹などいないぞ?」
 もちろん、直人もそのことは知っている。
「はい、ですから先代様の隠し子、という事にすれば良いかと……」
「なるほど、人のことは言えないが、親父もあれで鬼畜だったからな」
 紳一は頷いた。先代……彼の父も、優秀な事業家ではあったが、その代償のように様々な悪事に手を染めていた。手をつけた女性は多いし、子供ができていたとしてもおかしくない。
「そういえば、今のぼっちゃまは亡くなった奥様の若いころに良く似ておいでです。訳あって公表しなかった子、としてもようございましょう」
 古手川が言った。紳一は頷いて、直人の案をとることに決めた。
「ふむ、良いだろう。お前の策を取るぞ、直人」
「はい、ありがとうございます!」
 直人はうれしそうに頷いた。
「そうしますと、新しい名前を考えねばなりませぬな」
 木戸が言った。それも道理だ、と一同は女の子としての紳一の新しい名前を考え始めた。しばらくして、それを思いついたのは古手川だった。
「……しのぶ、と言うのはいかがでしょう」
「しのぶ? どういう由来だ?」
 紳一が尋ねると、古手川は頷いて説明をはじめた。
「まず、始まりの字を同じにしようという事が一つ。それと、隠し子と言う設定でしたら、『忍ぶ』『偲ぶ』といった語が入っているのがよろしいかと思いましてな」
 説明を終えた古手川は、紳一や直人、木戸が不思議そうな目で自分を見ているのに気が付いた。
「ど、どうかなさいましたか?」
 何か変なことを言っただろうか、と思いながら古手川が紳一に尋ねると、紳一は心底感心したような口調で答えた。
「いや……意外に深い考えもできるんだな、じい」
「……それはあんまりでございます」
 主の言葉に、古手川は少し涙した。
「まぁ良い。その名前は気に入ったぞ。今日からは"しのぶ"を名乗るとしよう」
 紳一……いや、しのぶが言うと、古手川は深々と頷いた。
「光栄の至りでございます」
「うむ。俺の新しい名付け親になれたんだ。名誉に思えよ」
 しのぶはそう言うと、蚊帳の外に置かれていた博士の方を向いた。
「貴方には礼を言う。予定とは違ったが、約束どおり治療費は払おう」
 このしのぶの言葉に、三馬鹿は驚いた。これまで通りの紳一なら、女の子にされたことを口実にして、金は払わないし、下手すれば博士を半殺しにして叩き出すくらいの事はしただろう。
 博士の方も、金を貰えない事を半ば覚悟していたらしく、驚いた表情をしていたが、やがて「サンキュー」を連呼しながらしのぶと握手をした。それを西から昇る太陽を見るような目で見ていた三馬鹿たちだったが、小切手を貰った博士がホクホク顔で帰っていくと、しのぶに叱られた。
「お前たち、いつまで間抜け面をさらしているんだ」
 3人は慌ててしのぶの方に向き直った。
「とりあえず、じいは戸籍の偽造に関する処理を頼む」
 古手川が恭しく頭を下げる。
「承知しました、お嬢様」
「……お嬢様?」
 しのぶは怪訝な表情をしたが、すぐにそれが自分の事だと気付く。
「あ、そうか……そう呼ぶ事にしたのか」
「はい、お嬢様。他には?」
 古手川に尋ねられ、しのぶは腕組みした後、思いついてポンと手を叩いた。
「そうだな……あとは服を買いにいきたいぞ。いつまでもこんな格好はしていられないからな」
 しのぶがシーツ一枚巻いただけの姿であることを思い出し、赤面した直人だったが、ふとある重大なことに気が付いた。
「は……しかし、普通の服がありませんと、外出も難しいかと……」
「それもそうだな……あぁ、少し待っていろ」
 側近の言葉に頷いたしのぶが、シーツの端を引きずって部屋を出て行く。何をする気なのかわからず、顔を見合わせた直人と木戸だったが、数分後、戻ってきたしのぶを見て、さらに混乱した。どこで手に入れたのか、彼女は黒いワンピースを身に付けていたのである。
「お嬢様……その服は?」
 木戸が聞くと、しのぶはニヤリと笑って、スカートを摘んだ。
「メイドたちの予備の服だよ。エプロンとカチューシャが無いとわからないかもしれんが」
 なるほど、と二人は手を打った。一応別荘なので、連れて来た使用人たちのための備品も用意してあるのだ。
「とりあえず、これなら普通に見えるだろう。行くぞ」
「「ははっ」」
 しのぶの言葉に、直人と木戸は頭を下げた。

 別荘から山を降りていくと、すぐに街がある。別荘地の客を相手にするだけに、商店街は町の規模に似合わない、大規模で高級感のあるものだ。
 直人の運転するリムジンで商店街に乗りつけたしのぶは、適当に目をつけたブティックに入った。もちろんお供二人も同行している。
「いらっしゃいませ、何をお探しですか?」
 早速店員が寄ってきた。しのぶは答えようとして、自分がこうした普通の店で買い物をしたことも無ければ、女物の服についての知識も皆無なことに気が付いた。病気で滅多に屋敷を出ることの無かったこれまでの人生を考えれば、当然だが……
(む……困った。こんな時はどうすればいいのだ?)
 女の子になってしまえば、今時珍しいレベルの箱入り娘なしのぶである。困惑する彼女を救ったのは、直人だった。
「実は別荘の洗濯機が故障して、服が全部着られなくなってね。お嬢様用の服を、一から全部揃えて欲しいんだが」
「一から!? わかりました。では、こちらへどうぞ」
 直人の説明に、上客の匂いを感じ取ったか、店員は張り切ってしのぶたちを奥へ案内すると、試着室に入った。
「まずはサイズを測りますので、今のお召し物を脱いでください」
「ああ」
 しのぶがワンピースを脱ぐと、店員は変な顔をした。それもそのはずで、いきなり素裸だったのである。
「……説明は聞いていただろう?」
 しのぶは店員を睨んだ。変な目で見られるのは彼女の矜持が許さない。
「あ、はい。失礼しました」
 店員は慌ててサイズ計測に戻る。その間、しのぶは改めて自分の今の姿を姿見で確認していた。
(じいは母親似だと言っていたが……)
 しのぶは物心つく前に両親を亡くした。だから、彼女は親の顔を知らない。かと言って、今まで知りたいと思ったことも無かった。家に帰れば一応両親の写真もあるはずなのだが。
(まぁ……今度確かめてみるか)
 それでしのぶは両親に対する想いを打ち切った。それよりも興味あるものが、自分の姿としてそこにあるからだ。
(俺……けっこう美少女じゃないか?)
 目覚めて最初に見たときは、そこまで確認する余裕は無かったが、改めて見ると、しのぶは釣り目気味でややキツイ顔立ちではあるものの、決して可愛げがないわけではなく、むしろ愛らしさを十分に持った容貌を持っていた。
 スタイルの方もかなり良い。出る所は出ていて、引っ込む所は引っ込んでいる。少女っぽくはあるが、十分に成熟した大人の色香を漂わせていた。
(ちっ、これが俺のものではないとは……いや、俺のものには違いないんだが、自由にはできんからなぁ……)
 さすがに、自分の体では抱くこともできない。そんな事を考えているうちに、店員がサイズを測り終えていた。
「身長が163cm、スリーサイズが84、57、85ですね。まずは下着からご用立てますが、よろしいでしょうか?」
「ああ、かまわない」
 店員の質問にぶっきらぼうに答えるしのぶ。すると、店員はいかにも高価そうなシルク製品やレースの使われたデザインの良い物を持って戻ってきた。
「まずはこの辺りから試着していきましょう」
 そう言うと、店員は手早くしのぶに持ってきたランジェリーを試着させていった。
「いかがですか?」
 何着目かを着けたときに、店員がしのぶに尋ねてきた。今着けているのは、白に近い淡いピンクの清楚なデザインのペアだが、しのぶにはどうもピンと来なかった。
(いかがですか、と言われてもな……)
 たぶん魅力的なのだろうとは思うが、自分の事なので答えにくい。そこで、しのぶは声をあげた。
「おーい、直人」
「はい、なんでしょうか、お嬢様」
 主に呼ばれた直人が近寄ってくるのを見計らって、しのぶはカーテンを開けた。あられもない下着姿の主を見て、直人だけでなく、木戸の目も点になる。
「自分ではいまいちピンと来なくてな。お前から見てどうだ?」
 しのぶが言うと、直人は手にしていた仕込み杖をガシャンと取り落とした。続いて、鼻から鮮血を噴出すると、そのまま前のめりに床に轟沈した。
「な、直人?」
 側近の反応にしのぶが目を見開くと、木戸が赤い顔をして咳払いをしながら近寄ってきた。
「お嬢様……あまりそういう格好は見せないほうが。直人でなくてもそうなりそうです」
 床とキスしたまま、顔の周りに赤い池を広げていく直人の惨状を見ながら木戸が言うと、しのぶはきょとんとした表情になった。
「……なんでだ?」
「なんでって……」
 木戸は答えに詰まったが、もう一度咳払いをすると、はっきりと答えた。
「それはまぁ、お嬢様が非常に魅力的でございますゆえ……」
「魅力的?」
 しのぶが鸚鵡返しに言うのに、木戸は頷いてみせる。すると、彼女は何か上機嫌な表情になった。
「そうか、魅力的か。ふふふん」
 小悪魔な笑みを浮かべると、しのぶはカーテンを閉める。そして、すぐに再び開けた。そこにいた彼女は、黒のレースのブラとショーツにガーターベルト、ストッキングというアダルチックな下着を身に着けていた。
「これはどうだ、木戸?」
 恥じらいも何もないしのぶの行為に、木戸は目を覆って叫んだ。
「わ、わかりました! お嬢様は何を着ても良くお似合いでございます! ですからお戯れはよしてください!」
「うむ、わかった」
 しのぶは満面の笑みで答えると、その場で今試着していた品全部の一括購入を決断した。
 その後は服の選択に移り、しのぶはやたらと機嫌良く様々な服を試着していった。途中、超薄手のキャミソールを着たときには、直人に今日三度目の大量出血を起こさせ、結局店の在庫をほとんど買い占めるのに近いほどの服を買い込んだのであった。
 買い物袋で埋まったリムジンの後部座席ににこにこと笑顔を浮かべて座るしのぶとは対照的に、ハンドルを握る直人の顔は貧血で真っ青になっていた。
「おい、直人……無理するなよ。運転代わっても良いぞ?」
 普通なら「思いやり」という言葉からは縁遠いにも程がある木戸が、本当に心配そうな表情と口調で問い掛けた。
「い、いや……大丈夫……」
 直人は首を横に振った。お嬢様の前で職務放棄をするわけには行かない。危なっかしい運転ではあったが、車は何とか無事別荘に到着した。
「おーい、じい。帰ったぞ」
 玄関でしのぶが言うと、古手川が奥から迎えに出てきた。
「お帰りなさいませ、お嬢様……おお」
 古手川はしのぶの姿を見て、驚きに目を見張った。若草色のブラウスとお揃いのスカートに、淡い空色のボレロを組み合わせたしのぶの服装は、まさに絵に描いたような「お嬢様」の出で立ちだった。
「見違えたか? じい」
 微笑むしのぶに、古手川は何度も頷いた。
「完璧でございますな。これなら元が紳一様とは誰も思いますまい」
「そうだろう。で、お前のほうの首尾はどうだ?」
 しのぶが尋ねると、古手川はニヤリと笑った。
「上々にございます。数日のうちにはお嬢様の戸籍と出生届が出来上がりましょうぞ」
「うむ、良くやった」
 しのぶは満足げに頷いた。
 それから五日後、勝沼家は当主紳一の死去を発表した。ここに紳一という人間は完全に消され、勝沼しのぶという少女が誕生したのである。

 その更に二日後、勝沼邸では紳一の葬儀が盛大に営まれていた。
 各界の名士から送られた花輪が祭壇を彩り、中央には比較的邪気のない笑みを浮かべた紳一の「遺影」が飾られている。僧侶たちの読経の声が流れていく。
 本来なら厳粛な雰囲気が漂うはずの葬儀の場だったが、集まった勝沼の親族衆たちは、悲しみとは無縁の俗気にまみれた会話を続けていた。
「あの小僧もようやくくたばったか……」
「ああ。思えば宗家の連中にはずいぶん好き勝手されたものだ」
「今思い出しても、はらわたが煮え繰り返るな。が、それももう終わった」
「おお。これからは、われわれの時代よ」
 死者に対する敬意など微塵もない態度でくぐもった笑いを響かせたのは、親族衆の中でも、比較的大きな企業を任された者たちである。世間から見れば十分すぎるほどに富も名声も得ている彼らだったが、それだけに、逆により大きな利潤を求めていた。その近道が、紳一亡き後の当主の座を得ることだ。
 とは言え、今はお互いの力が拮抗しており、誰かが当主として突出した力を持つことはできない。当分は集団指導体制を敷くとして、その後の大きな勝利に向けて、腹の探り合いをしているところだった。
 そんな彼らにも、不安の種はあった。
「しかし……葬儀はこうして行われているが……」
「喪主は誰なんだ?」
 それが不安の種である。古くは本能寺で討たれた織田信長の法要を、豊臣秀吉が執り行うことで自らを信長の後継者と宣言したように、喪主になるということは、大きな政治的アピールを持つ行為である。だが、親族衆にしても、いきなり紳一の死と葬儀の日程を聞かされただけで、喪主のことは誰も知らなかった。
 それが誰にもわからないまま葬儀は進み、いよいよ参列者の献花と焼香の場になった時の事である。最年長者ということで先に進もうとした、紳一からは叔父にあたる人間を制する声があがった。
「お待ちくだされ」
 声の主を求めて、いっせいに視線が葬儀場の入り口に向く。そこには古手川が立っていた。
「なんだ、使用人風情が何の用だ?」
 侮蔑しきった口調で言う叔父に、古手川が嫌味なくらい恭しく頭を下げる。
「お腹立ちはごもっとも。ですが、喪主が先に勤めるのが、礼儀というものでありましょう」
「何?」
 場がざわめく。正体不明だった喪主が何者なのか、ついにわかるのか。その空気を読み取り、絶妙のタイミングで古手川が声をかける。
「お嬢様、どうぞ」
 その声に応え、入り口に三人の人影が立った。もちろん、しのぶである。左右に直人と木戸を従えた彼女の姿に、親族衆がぽかんとした表情になる。無理もない。誰も、彼女の事など知らないのだから。
 喪服に身を包んだしのぶは左右に一礼すると、ゆっくりと通路を進み、祭壇の前に立って作法通り焼香を済ませた。振り返って再度一礼すると、彼女は声をあげた。
「勝沼紳一の妹、しのぶです。訳あって表には出ておりませんでしたが、この度兄の遺言により、喪主を務めさせていただく事になりました」
 葬儀の場は騒然となった。

 今まさに親族会議に臨むしのぶにとって、それが一週間前の話である。直人に送られて会議室に入った彼女を、数十の非好意的な視線が貫く。普通の少女なら怯えるところだが、しのぶはそれを真っ向から弾き返し、自分の席に座った。
「では、会議をはじめる」
 叔父が苦虫を噛み潰したような表情で言った。早速、一人の男が噛み付きそうな勢いで立ち上がると、しのぶの出自の怪しさに関する糾弾をとうとうとまくし立てる。
「出生届はちゃんと提出してあるはずですが」
 しのぶはうんざりした表情で答えた。実際、既に必要な書類はコピーして関係者に配布してある。もちろん全て偽造だが、古手川が手を回して関係する役所に作らせた「本物」である。見た目では絶対にバレる気遣いは無い。
 それだけでなく、あらゆるところに手を回して、「勝沼しのぶ」が一月前まではこの世にいなかった事を示す証拠を消した。あの博士と通訳にも、たっぷりと金を渡して口を噤むように言ってある。
 そのおかげで、それから2時間以上親族たちの集中砲火を浴びせられたしのぶだったが、ボロを出すどころか、彼らをことごとく返り討ちにしていた。
「なるほど……君が勝沼の血筋である事を疑う理由は無いな」
 他の親族たちがぐうの音も出ないほどやり込められた後で、叔父が口を開いた。しのぶを見る目が、明らかに好意的なものに変わっている。
「私としては、君が当主の座を継ぐ事に異存は無い」
 叔父の言葉に、しのぶは勝利を確信し、他の親族たちは非難の言葉を発しようと席を立ちかけた。しかし、叔父はそれを手を挙げて抑えた。
「ただし、君はまだ若い。そこで、こちらとしても条件をつけたい」
「……条件?」
 しのぶが相手の意図を測りかねて聞くと、叔父は頷いて先を続けた。
「ああ。まず、重要な決定に関しては、親族会議にかけて、君の独断では行わない事」
 しのぶは怒りの声を発しそうになった。それでは当主の特権など無いも同然だ。
 しかし……と思うところもあった。何と言っても、今の彼女は世間的には十六歳の少女なのだ。いくら当主だと言っても、能力があったとしても、それだけで軽んじられるのは目に見えている。それはこの会議の出席者たちの反応を見ても明らかだ。
 そう考えれば、素直に案を受け入れた上で、親族たちの間に自分のシンパを作っていく方が楽かもしれない。たとえば、この叔父などは良い候補だろう。もっとも、素直にこっちの言う事を聞いてくれる相手でも無さそうだが……
「はい、それで、他には?」
 そうした考えを巡らせた上で、とりあえず素直に頷いたしのぶに、叔父は二つ目の条件を出した。
「なに、あと一つだよ。勝沼家の当主であるからには、それらしい淑女になってもらわねばならん」
 叔父は楽しそうに言った。
「そこでだ……君にはそういう教育をする学校へ行ってもらう」
「……え?」
 一応中学までは出ているが、それ以降は病気の悪化もあって家庭教師に教わる事が続いていたしのぶは、思いも寄らない条件に、思わず間抜けな声を上げていた。


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