このお話は、すっかりかわいらしくなった一人の女の子と、すっかり骨抜きにされてしまった彼女の友人知人たちの織り成す物語……ですが、今回はシリアスに行きます。 


To Heart Outside Story

12人目の彼女


第四十六話「湯煙の先の闇の声」


 
 深い闇の中で、奇妙な唸り声が響き渡っていた。
(おお……我らが神の器が……)
(相応しき贄がやってくる……)
(あの者を我らが神に捧げよ……)
(今度こそ、世界を暗黒に……)
 だが、その声を聞いた人間はいなかった。
 
 海岸道路を走っていたリムジンが岬の突端を曲がると、入り江に沿って多くのホテルや旅館が立ち並ぶ街並みが見えた。海に流れ込む川は、そのあちこちから白い湯気を立ち上らせており、土産物屋の店先には「温泉饅頭」「温泉卵」の文字が躍る。
 ここは隆山温泉郷……日本海側有数の名湯として知られる街である。
「大した賑わいねー。流石は隆山」
 志保が言う。
「そうね。来るのは初めてだけど、思ったより大きな温泉街ね」
 ひろのが答えると、あかりが苦笑しながら言った。
「だめじゃない、ひろのちゃん。一応ここ出身と言う事になってるんでしょ?」
「あ、そうだった」
 しまったと言うようにひろのが頭を掻くと、車内に笑い声が弾けた。そこへ、運転席の真帆が声をかけて来た。
「間もなく鶴来屋ですよ。降りる準備をしておいてくださいね」
「はーい」
 リムジンの中に少女たちの返事が湧いた。
 
 ここ隆山温泉にひろの、志保、あかりが来たのは、芹香の卒業旅行の付き添いである。
 今から一週間ほど前、芹香は無事東鳩高校を卒業し、間もなく大学生となる予定だ。ひろのたちももちろん三年生に進級する。
 その直前の春休み、思い切り羽根を伸ばそうと言うのが芹香の提案だった。隆山温泉には以前から来栖川家が懇意にしている超高級旅館があり、そこのスイートを貸し切って使おうと言うのである。
「え? 鶴来屋? すごいじゃない! 確かもう二十年くらい連続して、温泉旅館の最高の賞を取ってるところよ」
 その宿の名前を聞いた志保は興奮気味に叫んだ。
「そんなに凄いの?」
 ひろのの質問に、志保は頭の中のデータベースをフル回転して、その宿に関する情報を引き出してきた。
「えーと……確か、普通の部屋でも一泊二万円以上は固いわね。スイートなら五十万円以上するんじゃないの?」
「五十万!?」
 あかりが驚く。一泊にそれだけのお金が必要な部屋がどんな部屋なのか、まるで想像が付かない。
「うーん、さすがは先輩の家……別荘とかじゃなくて旅館って聞いたときは何でだろうと思ったけど、そんな凄い宿なら納得だわ」
 ひろのが言うと、志保がじっと彼女の顔を見つめてきた。
「な、なに?」
 その視線にひろのがたじろぐと、志保はため息をついた。
「なんか、ひろのもすっかりお金持ち社会の空気に染まってるわねー……」
「そ、そんな事ないよ」
 ひろのは頭を振った。彼女は来栖川姉妹の友人ではあっても、やはり基本的には使用人の家族と言う扱いであり、もともとは庶民。自分のお金ではないものを誇る事はできない。
「いやいや。かつてのあんたを知ってる身としては、今のあんたはホントどこかのお嬢様で通用するわよ? 物腰と言い外見と言い」
「そんな事ないってば。なんか今日の志保は妙に絡むわね。 何考えてるの?」
 ひろのは否定しつつ、親友のしつこさの裏に何か狙いがある事を見て取った。
「ん? 流石はひろの。気付いた? と言う事であたしも連れてってぇーん」
 しなを作って迫る志保に、ひろのは苦笑した。
「やっぱりね。大丈夫。先輩からみんなも誘うように言われてるわよ」
 具体的に言うと、あかり、志保、智子、レミィ、それに一年生の葵と琴音。マルチとセリオもそれぞれの主人に同行する。夏の無人島旅行以来の大所帯だ。
「さっすが芹香先輩! 太っ腹ね!!」
 大喜びする志保。その騒ぎに気付いた智子とレミィがやってきた。
「なんやなんや、賑やかやな。何の話しとってん?」
「温泉とか何とか聞こえたネー?」
 やってきた二人に、ひろのは温泉旅行のお誘いの件を話す。もちろん二人に異存はなかった。
「誘ってもらえるノ? それはベリーハッピーね。でも、部屋にそれだけ泊まれるノ?」
 レミィの疑問はもっともだったが、ひろのはあっさり頷いた。
「うん。ロイヤルスイートはベッドルームが四つと和寝室が一つあるから、その気になれば十人くらいは軽いって」
「どういう部屋なんや……」
 やはり庶民の智子はちょっと呆れ顔だったが、やはりロイヤルスイートに泊まれると言うチャンスを逃す気はないらしく、二つ返事で頷いた。もちろんレミィも。
「よし、二年生組は全員揃ったね。あとは葵ちゃんたちにも話聞いておこうっと」
 ひろのは頷いて、手帳に書いた参加予定者の名前のうち、二年生にマルを付けた。
 もちろん、放課後に話を聞きに行ってみると、葵と琴音は大喜びで同行を承知した。こうして、来栖川姉妹+九人の少女たちによる温泉旅行は決定したのである。
 ちなみに理緒も誘ってみたのだが、やはり春休みはバイト三昧という事で無理だった。
 
 という事で、隆山に向かう事になった十一人(正確にはセバスチャン、真帆も同行するので十三人)だったが、日程がちょっと変則的になっていた。
 芹香と綾香は現地で行われる政財界のパーティーに出席するため、一足先に隆山入りし、一日遅れてひろの、あかり、志保が追いかける。そして残り全員はさらに一日遅れで、電車で隆山入りする。
 何でそんな事になったかと言うと、本当は来栖川姉妹以外は一度に移動したかったのだが、レミィと琴音、葵は里帰り、智子は塾の集中講義、という事情があって、二日後でないと合流できない状況だったのだ。
 そんなわけで、バラバラの合流日程になってしまったわけだが、それでも最低五日間は滞在できる。誘われた参加者としても不満はなかった。
 なお、ひろのだけは卒業旅行の付き添い、以外にももう一つの目的があったりした。
 
 車は温泉街を走り抜け、港に程近い一角に出た。そこに目的地の超高級温泉旅館「鶴来屋」があった。
「みなさん、あれが今日からの宿ですよ」
 真帆が言うと、一応鶴来屋に関する知識がある志保以外の二人は唖然とした表情になる。旅館と聞いて和風建築を想像していたのに、目の前に現れたのは、十数階建ての立派なホテルそのものだったのだ。しかも本館だけでなく、別館も同じくらいの大きさで二棟が並んでいる。
「うわぁ……すごい宿」
 あかりが感に堪えない、と言う口調で言うと、ひろのも頷いた。
「本当だね……びっくりしたよ」
「やぁねぇ。これくらいで驚いてちゃ。中はもっと凄いわよ?」
 志保が驚きをむき出しの二人に向かって呆れたように肩をすくめて見せる。その志保の態度が大袈裟ではない事を、ひろのとあかりは中に入って知る事になった。
「それでは私は車を駐車場に回してきます。皆さんはお先にどうぞ」
 そう言って真帆が去ると、玄関のところには十数人の仲居さんが並んでいて、一糸乱れずお辞儀をした。
「いらっしゃいませ、お客様」
 唱和する挨拶にも乱れがない。どう反応して良いのかわからないひろのたちの前に、正面にいた若い黒髪の女性がゆっくりと進み出てきた。
「お待ちしておりました。当宿の女将、千鶴と申します。来栖川様の御同宿のお客様ですね?」
「あ、は、はい!」
 ひろのは頭を下げた。千鶴はにっこり笑って左手で奥の方を指す。
「来栖川様はお部屋でお待ちです。梓、案内して差し上げて」
「はい」
 名前を呼ばれた仲居が頷く。女将も若いが彼女も若く、たぶんひろのたちと比べてもニ〜三歳年上なだけだろう。それにどちらも美少女ぞろいの東鳩高校一行と比べても遜色無い美女・美少女だった。
「ではこちらへどうぞ」
 梓に先導されて、三人はエレベーターに乗り込み、最上階まで登っていった。ドアが開くと、宿の前面に広がる海と島々が視界いっぱいに広がった。
「うわぁ、凄い眺め」
 三人が驚くと、梓が微笑みながら言った。
「お部屋からならベランダに出て直接見れますよ。あと、この海は東側なので、朝早く起きて朝焼けを見るとものすごく綺麗ですよ」
「そうなんですかー……明日早速見てみようかな」
 そんな会話をしつつ、三人はロイヤルスイートに案内された。梓がインターホンを押す。
「来栖川様、お連れの方々を案内してきました」
 彼女がそう言うと、部屋の中で足音がして、ドアが開けられた。
「いらっしゃーい。待ってたわよ?」
 綾香だった。宿の浴衣を着込んでいる。その背後に芹香がすっと立って、三人に頭を下げた。
「……」
「え? 遠いところお疲れ様? ううん。快適な旅だったよ」
 ひろのが芹香に答える。それを見て、梓は一礼した。
「では、私はこれで」
 すると、綾香が苦笑気味に言った。
「ねぇ梓さん、そんなに堅苦しくしなくて良いって何時も言ってるでしょ? 歳だって似たようなものだし、あたしは梓さんのこと友達だと思ってるんだけど」
 今度は梓が苦笑する。
「今は仕事中だから、そう言う訳にも行かないですよ。プライベートならまた話が違いますけど」
「そう? じゃあまた後でね」
「はい、また後で」
 もう一度頭を下げて梓が立ち去る。ひろのは首を傾げつつ綾香に聞いた。
「あの人、知り合いなの?」
 綾香は頷いた。
「ええ。ただの仲居さんに見えるけど、実は梓さんはここの女将さんの千鶴さんの妹さんよ。うちはもう十年以上この宿に通ってるけど、その頃からの友達同士」
「へえ……」
 ひろのは下で出会った千鶴と梓の顔を思い出しながら比べた。あまり似てないような気もするが……ただ、どこと無く雰囲気に共通する部分はあるかもしれない。
「まぁ、それより入って入って。少し休んだら温泉に行きましょ」
 綾香が促す。それに応えて三人は部屋に入っていった。途端にその豪華さに目をむく。
「うわぁ、これは……テレビでは見たことがあるけど、実際に見るとまたぜんぜん違うわね」
 志保が唸った。メインリビングは二十畳を越える広さがあり、半分洋室、半分和室に区切られ、テーブルとコタツの両方が用意されていた。和室の方の床の間には、見るからに高価そうな壷や掛け軸が飾ってある。
 和室側の壁はそのまま縁側のあるベランダに通じていて、この縁台がまたウッドデッキといっても良いくらいに広く、道具を持ち込めばバーベキューくらいはできそうである。その向こうには先程見た海が広がっていて、青い海面を切り裂くように、沖の島へ向かうフェリーが走っていた。
「ここも四人くらいは余裕で寝られるけど、寝室はこっちよ」
 綾香の案内で、三人は四つある寝室を見て回った。どれもダブルベッドと見紛う大きさのベッドが二つ据えられたもので、あかりが溜息をついた。
「寝室というけど、わたしの部屋より大きいよ……」
「あたしもそうね。全く世の中贅沢できるところはとことん凄いわね」
 志保も頷く。だが、寝室はまだ序の口で、もっと凄いのは風呂場だった。
「ここ、これだけでも五〜六人は同時に入れない?」
 ひろのが言う。浴室……と言うより浴場と言った方が既に相応しいそこは、家庭用プール並みの大きな浴槽と、サウナまで付いた豪華仕様だった。総檜の浴槽に温泉の湯がふんだんに注がれ、いつでも入れる状態になっている。
「そうね。でも、大浴場を使う方が楽しいわよ? 百畳の大露天風呂とかあるし」
 綾香が答えた。実際夕べもここは使ってないそうで、その贅沢さに庶民三人は驚くやら溜息をつくやらである。
 他にも数多くの名画のライブラリーを備えた専用シアタールームなどが備えられ、まさにロイヤルスイートの名に相応しい豪華さだった。訪日した各界のVIPが良く使うと言うのもむべなるかなである。
「まぁ、確かに落ち着かないって言うのはあるかもね。この広い部屋にあたしと姉さんと、お祖父様と、セバスチャンと、それにセリオとマルチだけだもの。十三人も泊まるようにすれば、少しは部屋の使いでも出るわよ」
 そう言う綾香に、そういえばとひろのは尋ねた。
「おじいちゃんと、厳彦さんと、マルチたちはどうしたの? 姿見えないけど」
「お祖父様は昨日のパーティーの続きで、親睦ゴルフにあの沖に見える島に行ってるわ。セバスチャンとメイドロボ組は付き添い。まぁ、夕方までには帰ってくるわ。お祖父様は仕事で東京直帰だけど」
 なるほど、と納得したところで志保が言った。
「さてと。そろそろ市内観光にでも行く?」
 そう言いながら、志保は微妙な表情でひろのにウインクを送ってみせる。
「あら、お風呂は行かないの?」
 綾香が怪訝そうな表情をするが、それにはあかりが答えた。
「うん。それは後にするよ。ここもいろいろ観光名所があるんでしょ?」
 そう言いながらガイドブックを出してみせる。隆山は温泉だけが名物な訳ではなく、地元でも有名な民話「雨月山の鬼伝説」を中心に民俗学的な価値の高い名所が多い。古くから栄えた土地ならではである。
「まぁ良いけど……じゃあ、あたしが案内しようか? これでもここには何度も来てて慣れてるし」
 それに志保が反応する。彼女もガイドブックを出して、綾香の傍に近寄った。
「あ、じゃああたしちょっと行ってみたかった場所があるのよ。ここなんだけど」
「どれどれ?」
 綾香がガイドブックを覗き込むその隙に、ひろのはそっと部屋を抜け出していた。芹香はおや? と言うような表情で彼女を見送ったが、あかりと志保が綾香をブロックしているのを見て、何となく悟ったような表情になり、手を打って納得したが、それ以上は何もしなかった。
 
 綾香がひろのの不在に気付いた頃、彼女は既に真帆と合流して、来た道を駅に向かって引き返していた。
「うまくお嬢様を撒いたみたいね? ひろのちゃん」
「はい。あかりと志保のおかげです。後でお礼言っておかないと」
 ハンドルを握る真帆が笑顔で頷く。
「そうね。そろそろ駅よ。忘れ物は無い?」
「はい、大丈夫です」
「じゃあ、楽しんでらっしゃい」
 真帆に送られて、ひろのは駅前に降り立った。電車で来る後続組が来るのは明日で、それの出迎えに来たわけではない。ひろのは腕時計を見て時間を確認した。
「ん……ちょうどいいくらい、かな?」
 待ち合わせの時間に間に合った事を確認してひろのが顔を上げると、彼女を呼ぶ声がした。
「おーい、ひろのー」
「あ、こっちこっちー」
 ひろのは手を振った。それに答えて駆け寄ってきたのは……雅史だった。
「待たせちゃった?」
 ひろのが聞くと、雅史は首を横に振った。
「いやいや。全然。今着たばかりだよ」
 デートの待ち合わせのお約束な会話を交わし、二人は微笑んだ。
「それじゃ行こうか」
「うん」
 二人は連れ立って目的地へ向かって歩き出した。
 
 何故ここに雅史がいるのか……と言うと、実はサッカー部の合宿兼遠征があり、彼もレギュラーとしてここから南に三十キロほどの街に泊まっていたのだった。しかし、今日は合宿の中の休日で、一日自由時間がある。
 そこで、隆山に来る事になったひろのが、この日に合わせてデートをする事を計画したのだ。綾香を振り切る必要があったのはこのためだ。発覚したら絶対に邪魔されるに決まっているからである。
 と言うわけで、二人は一週間ぶりに再会して、休みの一日を一緒に過ごすことになったのである。
「それにしても、こんな遠くにまで来て、ひろのと一緒に遊ぶなんて思わなかったな」
「そうだね。春休み中はずっと離れて過ごすのかと思ってたけど。ところで、試合はどうだった?」
「ん? もちろんばっちり勝ったさ」
 地元強豪校との練習試合の事を聞かれ、雅史は親指を立ててみせる。彼も一得点一アシストの活躍で勝利に貢献していた。
「さすが。もう少し早く来れたら、応援に行けたんだけどなぁ」
「あはは。遠くからでもひろのが見守ってくれるなら、僕は絶対に勝つさ」
 そんな会話をしつつ、二人が到着した場所……そこは最近完成した、温泉を使った全天候型プール施設だった。
「……そういえば、ひろのの水着姿って見たこと無いんだよね」
「うん……そうだね」
 ひろのは赤くなった。実は下着姿なら見せた事があるのだが、それは黒歴史であり触れてはいけない。雅史も忘れているし。
「ちょっと……楽しみにしてても良いよ?」
「そ、そう?」
 雅史も赤くなる。そのまま二人は施設の中に入っていった。あらかじめ東京で買っておいた前売り券を係の人に渡す。
「それじゃあ、更衣室こっちだから、また後でね?」
「うん、わかった」
 雅史と別れたひろのは、更衣室に入ると空きロッカーを適当に探して、ショルダーバッグの中から水着を取り出した。去年の夏「来栖川のお島」でサバイバルリゾートをした時に買った、ピンクのワンピースではない。
「んー……やっぱりちょっと大胆過ぎたかな……」
 ひろのは呟いたが、それでも思い切って買ってしまったもの。いまさら他の水着に変える事はできないし、やはり雅史には見て欲しい、と言う気持ちもあった。よし、と気合を入れて水着に着替え、ひろのはプールサイドに出た。途端に「おお」という感嘆の声が周囲の男たちから湧き、視線が彼女に集中する。
 それを無視して、ひろのは雅史を探した。すると、プールの傍に植えてある椰子の木のすぐ傍に雅史が立っているのが見えた。ひろのはそこへ駆け寄っていった。
「ごめん、雅史。待たせちゃった?」
「いや、だいじょ……」
 答えかけて口をあんぐり開ける雅史。その反応を見て、ひろのはちょっと沈んだ表情になった。
「や……やっぱり変かな?」
 雅史はあわてて首を横に振った。
「い、いやとんでもない! その……何と言うか……すごく似合ってるよ」
「そ、そう? 良かった」
 雅史のフォローにほっと胸をなでおろすひろの。そんな彼女の新しい水着は、ビキニだった。それも黒い、かなりアダルティな雰囲気の。
 ブラは紐を首の後ろで結ぶ、いわゆるホルターネックタイプ。ボトムはサイドを紐で結ぶように見えるが、この結び目は飾りで実際にそこで結んでいるわけではない。しかし、かなりセクシーなデザインであることに変わりは無い。
 とはいえ、清純派お嬢様系のひろのが着ると決していやらしくは見えなかった。むしろ彼女の雰囲気をより清楚な感じに強調している。それでいてモデル並みの体形なのだから、そりゃあ、周囲の男たちが注目するのも無理は無い。
 しかし、雅史がいることで、彼らはがっかりしたような表情になって包囲を解いて去っていった。流石に彼氏持ちに声をかけるほどの度胸はない。
「さて、まずは何しようか?」
 気を取り直してひろのが言うと、雅史はそうだねぇ、と考え込み、それから頭上を指差した。
「まずはやっぱりこれかな?」
 そこにはウォータースライダーの出発台があった。そこから四方に八本のスライダーが伸びている。屋内用としては日本最大規模というのが売りの、通称「オクトパス・スライダー」だった。
「やっぱりそうだよね。じゃあ行こうか」
 ひろのは頷き、二人で出発台に上るエレベーターの待機列に並ぶ。その間にどのスライダーに乗るか相談した。
「どうせなら一番長いのがいいよね?」
「一番急なやつ、って言う手もあるけど」
 雅史が指差したのは、斜度六十度のスライダーだった。もうほとんど絶叫マシンである。たまに滑り降りる人の悲鳴とも歓声とも付かない声が聞こえ、下の水平な減速部分で物凄い水しぶきが上がっていた。
「あ……えーっと、あれはどうしようかなぁ」
 ひろのは絶叫マシンが苦手ではないが、流石に生身で斜度六十度に突撃するのは度胸がいる。
「まぁ、まずはソフトなのから行こうよ」
「そうだね」
 雅史も提案しただけで積極的にそこを滑る気は無かったらしい。数分して、二人は出発台の上に到着していた。一応出発口に「初心者向け」とか「上級者向け」という種別と長さの案内書きがあり、どれを滑れば良いかの目安になっていた。二人は顔を見合わせた。
「じゃあ、一番長いのは最後に取っておいて」
「適当に滑るか」
 という事で、なんとなく二番目に長いスライダーを滑る事になった二人だった。ひろのが先頭になり、彼女の身体を雅史が足で挟み込むような格好になる。
「それではお気をつけて」
 係員がそう言って送り出す中、二人は斜面に滑り出した。
「あ、これは……」
「意外と楽しい!」
 このスライダーは当たりだったらしく、斜度も程よく、カーブが連続するテクニカルなデザインだった。右に左に身体が振り回されるたびに、ひろのは楽しく叫び声をあげた。
 やがて、スライダーは一気にストレートになり、二人はゴールのプールに飛び込んだ。身体がいったん深く潜ったので、水をかいて水面に顔を出す。
「ふぅ……結構迫力があったね」
「思ったよりスピードが出るね。他のスライダーも楽しめそうだ」
 ひろのの言葉に頷く雅史。そこへ係員が声をかけてきた。
「お客様、次の方が滑って来られると危険ですから、早く上がってください」
「あ、はい。すみません。今上がりますね」
 ひろのは係員に頭を下げて、プールサイドの梯子を掴むと、身体を引き上げた。その後に雅史が続こうとして……口をあんぐり開けたまま固まる。
「……雅史? どうしたの? 早く上がらないと次の人来ちゃうよ?」
 ひろのは雅史の様子がおかしいことに気づいて振り向いた。すると、今度は係員が真っ赤になって立ち尽くすが、彼女はそれに気づかない。気づかせたのは雅史の一言であった。
「ひ、ひろの……おしり……めくれてる」
「へ? あ、きゃあっ!?」
 今度はひろのが真っ赤になる番だった。あわてて自分のお尻を抑えると、そこから伝わってくる手触りは、布地のそれではなく、素肌のすべすべした感触だ。
 そう、スライダーを滑っている際に水着のボトムがめくれ上がって、Tバック状態になっていたのである。それで雅史だけに見られるならともかく、係員にも見られたのだから、これは恥ずかしい。
「……み、見た?」
 言わずもがなの事を聞きつつ、ボトムを直すひろの。雅史はこくこくと首を縦に振るだけだ。流石に注意した後で「見てない」とは誤魔化せない。
「うう……」
 涙目で水着を直し終え、俯くひろのに、気を取り直してプールから上がってきた雅史が慰めるように声をかける。
「ま、まぁ、大勢には見られなかったし……次は気をつけよう」
 すると、係員が近くの売店を指差した。
「あの、お客様。今みたいにならないように、下に敷いて滑るスライダー用のマットなどもありますが」
「そう言うのは先に教えてください……」
 そう言いつつも、マットをレンタルするひろのだった。
 
 さすがにマットの効力は絶大で、その後は最初のような悲劇に見舞われることもなく、二人は四回スライダーを滑ったところで、気分転換に流れるプールに入った。
「意外と疲れるね、スライダー滑るのって」
 流れに任せて漂いながら雅史が言うと、ひろのも同じような姿勢で頷いた。
「そうだね。ちょっと気を抜くとバランス崩してすごいポーズになっちゃいそうだし」
 実は一度ひっくり返って、今度はブラがめくれ返りそうになったのだ。スライダーを中心に楽しむときは、水着はワンピースにしたほうがいいかもしれない、とひろのは思った。
「じゃあ、後の四本は滑るの止めておくかい?」
 しかし、その雅史の提案にはひろのは首を横に振った。
「ううん。せっかくだから滑ることは滑ろうよ。まぁ、一番急なのはちょっと嫌かもしれないけど」
 今も男でさえ悲鳴を上げて滑り降りている。予想以上に怖いらしい。
「それじゃあ、滑る前にご飯にしようか」
 雅史が言った。時計もちょうど正午近い。二人はプールサイドに出ている屋台や付属のレストランが並んでいるほうに向かって泳いで行った。
 
 
 その頃、出し抜かれた事に気づいた綾香は、あかりと志保を撒くと、ひろのを探して隆山の街中を歩いていた。
「まったく……いくら邪魔されたくないからってそこまでする? そりゃ信頼されてないのはわかるけど」
 ぶつぶつと愚痴をこぼす綾香を、すれ違う人々が妙な目で見ているが、本人は気づいた様子も無く、ひろのの気配を辿っていた。まぁ、気づいたとしてもあまり気にしないだろうが。
「ともかく、追いついたら……どう邪魔しようかしら?」
 ひろのが抜け出した理由が雅史とのデートであることは、あかりたちから聞き出してある。場所までは流石に聞き出せなかったが、逃がしはしない。
 そんな風にデートを邪魔するプランをいろいろ頭の中で組み立てていた綾香だったが、突然目の前に出てきた人影に足を止めた。
「…………」
「う、ね、姉さん?」
 綾香の顔が引きつる。そう、出てきたのは芹香だった。あかりたちが綾香を止めるときも、綾香が出てくるときも干渉してこなかっただけに、すっかり存在を忘れていた。
 ここに来て自分を止めるつもりか、と思った綾香はファイティングポーズを取った。
「邪魔をしないでよ、姉さん。この際手加減なしで……え?」
 しかし、闘争心むき出しの綾香に対して、芹香はふるふると首を横に振ると、何事かを口にした。
「…………」
「え? そんな事をしに来たんじゃない? それよりも……この気配を感じないのかって?」
 一体何の事だと思いつつ、綾香は周囲の気配を探った。そして気がついた。
 何やら不穏な空気が漂っている。ごく微かなものではあるが、確かにそれは存在していた。無差別な、全てに向けられた敵意。人間が抱くことが出来るとは思えない、邪悪な意思だ。
 ひろのの事だけ考えていた時には全く気付かなかったが、気付いてしまうと、歴戦の綾香でさえ背筋に冷たいものを感じるほどだった。
「姉さん、これって……!?」
 驚愕の表情で振り返る妹に、芹香は答えた。
「…………」
「何かはわからない……でも嫌な予感がする? そうね。まずはひろのを探しましょう」
 綾香は頷き、芹香と共に歩き出す。その間にも不気味な気配は次第に強まって行き、やがて深夜に至るまで人通りの絶えないはずの街から、次第に人の気配が消えていった。
 
 
 一方、プールではまだ何事も無いようにひろのと雅史のデートは続いていた。
 二人でお昼ご飯を食べた後、スライダー巡りの第二章に突入し、まず一本滑った後で、少し傾斜のきつめな一本に挑戦しようとしていた。螺旋状のコーナーもあったりして、身体が左右に思い切り振り回されそうな形状をしている。
「コレは結構歯ごたえがありそうだね」
 前に滑って行ったカップルの女の子の方がきゃあきゃあと悲鳴を上げているのを見て、雅史が言った。
「うん……何かあったら助けてね? 雅史」
「任せとけ」
 ひろのの言葉に、雅史は脚ほどは筋肉がついてないとは言え、十分力瘤が出来る腕を見せて、彼女を安心させる。そして、二人の滑る順番が来た。水の吹き出る滑り口にひろのはシートを敷いてその上に座り、後ろに雅史が控えた。
「それではどうぞ」
 係員が前の人が滑ってからの時間を計ってタイミングを告げる。その声を合図に、雅史はひろのを斜面に押し出して、自分も後に続いた。
「きゃー♪」
 最初は適度な傾斜、それが緩やかになったと思いきや、スパイラルループに入る。二人は最初の傾斜で稼いだスピードを維持したまま、左回りの螺旋を駆け下っていく。
「これ、今までで一番楽しいかもーっ!」
「そうだね!」
 ひろのの言葉に、雅史は叫び返し、特にアクシデントが無いまま、二人は最後のストレートに突入して……そこで異変に気がついた。
 ゴールのプール、それもスライダーから飛び出して着水する辺りに、前に滑ったと思われる人が浮いている。このままでは間違いなく激突する。
「あ、あぶない……きゃっ!?」
「くっ!」
 驚いたひろのがバランスを崩したのを見て、雅史は後ろからひろのを抱きかかえるようにして安定させたが、もう着水まで何秒も無い。前の人はおぼれて意識でも失ったのか、動く気配を見せなかった。
「こうなったら……ひろの、しっかり掴まってて!」
「え? きゃあっ!?」
 雅史はひろのの返事も聞かず、彼女をしっかり抱きかかえたまま思い切りジャンプした。着水プールを飛び越し、その向こうに見える流れるプールへ飛び込もうと言うのだ。幸いそこには他の人が見えない。
(よし、これなら……)
 雅史が成功を確信した時、それは起きた。
 急に視界が暗くなる。一瞬、雅史は電気が切れたのかと思った。だが、見えなくなったのは周囲の風景だけで、ひろのの姿ははっきり見えている。
「何だ、これ!?」
 立て続けの異常な事態に思わず叫ぶ雅史。しかし、それよりも異常な事態が二人を襲った。
 突然、腕の中のひろのの重さが軽くなった……それだけではない。感触すらなくなった。驚いてひろのを見たた雅史は、彼女の姿がまるで立体映像か何かのように実体が無くなり、透けて見えるのに気がついた。
「ひ、ひろの!?」
「……」
 ひろのの口がぱくぱくと動く。「雅史」と言っているのは口の動きでわかったが、声は聞こえなかった。
 そして、彼女の姿は急激に薄くなり、やがて腕の中から消え去った。同時に彼らを包んでいた闇が霧散し、雅史は流れるプールの水面に叩きつけられた。勢いがつきすぎてか、水面で石が水を切るように弾かれた彼の身体はプールサイドのコンクリに落ち、二・三度バウンドして飛び込みプールに落ちた。
「うぐっ! げほっ!?」
 思い切り水を飲み込んでむせた雅史だったが、それでも水面に浮かび上がり、激痛と息苦しさに耐えながら、何とかプールサイドに這い登った。吸い込んだ水を吐き出し、立ち上がって辺りを見回す。
「ひろの……ひろの! どこだ!?」
 返事は無かった。ひろのの姿はプール内のどこからも消え去っていた。
「そんな馬鹿な……一体今のは」
 疲労感に襲われてひざを突いた雅史の視界に、さっき着水プールに浮いていた人の姿が眼に入った。
「おい、あんた……うっ!?」 
 文句を言おうとして近づいた雅史は、その異様さに息を呑んだ。その人は身動き一つしていない。まるで死んでいるようだ。
 だが、死んでいるのではない、と言うことは直感的にわかった。その人は、飛び込んだ瞬間のポーズを維持したままで、顔には楽しそうな表情が張り付いている。まるでその瞬間で時が止まったように。
「なんだ、これは……」
 雅史が見る前で、後から滑ってきた人がプールに落ちる。その人は滑っている最中のポーズのままで、やはりそのまま時が止まってしまったように身動き一つしなかった。
 雅史はもしや、と思って辺りを見回し、そして想像が当たっていることを確認した。
 プールの中の人々は、彼以外全員時が静止したように止まっていた。ビーチボールを追いかけている最中の子供、流れるプールで漂っている人たち、飛び込もうとしている青年と、それを注意しようとしている監視員、屋台の店員……
 みんな、そのまま固まっていた。
「……何が起きたかはわからないけど……ひろのを助けなきゃ」
 この異常な事態を起こした者に、ひろのは捕らえられたに違いない。雅史はそう確信した。着水のダメージはまだ消えていなかったが、雅史はよろよろと歩き出した。ひろのを助けるそのために。


 その頃、雅史以外にも、異変に直面している人々がいた。
「姉さん、やっぱりおかしいよ。ロビーやお風呂場のお客さんがみんな眠ったようになっちゃってる」
「そう……どうやら、ただ事ではないようね」
 こちらも気づいたのは姉妹だった。鶴来屋の女将、千鶴と妹の梓の二人だった。
「梓、学校に行って楓と初音を連れて帰ってきて。あの二人の力も必要になるかもしれない」
 千鶴の言葉に、梓は任せとけ、とばかりに頷いた。
「わかった。三十分以内に戻ってくるよ。姉さんも気をつけて」
「梓もね」
 そう言って妹を送り出した千鶴は、こんな時に頼りになりそうな人物に連絡を取ろうと、電話の受話器を手に取った。しかし。
「……切れてる? そう。ここまで影響が出たようね」
 落ち着いた口調ながらも、危機感が口調に滲み出るのはやむをえない。しばし考え、千鶴はもう一度館内の様子を見て回ろうと腰を上げた。火の気などが使われていたら危ないからだ。
 社長室を出てロビーに入ると、客だけでなく、社員や仲居たちもその場に硬直していた。眠っているのではないことは、目を開けっ放しにしていることで知れる。
「エルクゥの力ではないわね。何か他に尋常でない相手が出てきたと言うこと……?」
 そういいながら辺りを見回した千鶴は、ふと視界の端に動くものを感知してそちらを向いた。腕を顔の前で構え、臨戦態勢を取る。
「誰?」
 冷たい声で言う。もし敵対的な相手なら……
 しかし、出てきたのは到底敵には見えない二人だった。
「あ、あの……女将さん……ですよね? これどうしちゃったんでしょうか?」
「みんな、石になったみたいで……」
 異常事態におびえた様な声を上げているのは、あかりと志保だった。
「あなた達は……今日来栖川さんのところに来た」
 原因はわからないとは言え、異常な情勢に自分たちが動けるのは普通の人間ではないからだ、と考えていた千鶴だったが、普通の人である二人が何ともなさそうなのを見て、事態の不可解さに改めて首を捻った。一体何が起こったのか?


 街の中で、それまで感じられていた邪悪な気配が一気に膨れ上がったのは、綾香と芹香にも感じられていた。
「……!」
 そうした気配に敏感な芹香は、まるで壁に突き当たったように歩みを止めてしまうが、その手を綾香が取った。
「姉さん、急ぐわよ!」
 そのまま綾香は芹香の身体を抱きかかえると、ダッシュで走り始めた。その間に異変のわかりやすい影響が現れてくる。街を行く人々が、そのままの姿勢で動きを止めたのだ。それだけではない。車や自転車なども、その場で停止してしまう。しかも、自転車やバイクは止まったのに転びもしない。
「これは……とにかくひろのを保護しないと!」
 異様な光景を目にして綾香は言い、走りやすいように姉を背中に背負いなおす。すると芹香も頷いて、綾香に道を指し示した。その指示に従って走る綾香の目の前に、温水プールの巨大なガラスドームが現れる。
「ここね?」
 綾香が姉に確認する。その時、芹香が玄関の方を指差した。綾香がそっちを見ると、見覚えのある少年が出てくるのが見えた。
「佐藤君!」
 その声に、雅史が顔を上げる。
「来栖川さん……?」
 普段は敵対しているとはいえ、一応は知人である相手の顔を見て力が抜けたのか、雅史はその場にひざをついてしまう。綾香は駆け寄ると芹香を降ろし、自分もしゃがんで雅史を見た。
「ひろのは? ひろのはどうしたのよ!?」
 雅史は首を横に振った。
「わからない……いきなり消えてしまったんだ。どこに行ったのか……でも探さなきゃ」
「消えた? わからない? 佐藤君、貴方がついていながら不甲斐な……い」
 その答えに激昂しそうになった綾香だったが、ひっぱたく前に雅史の身体が崩れ落ちた。
「ちょっと? 佐藤君……なによこれ、酷い怪我じゃないの!」
 人体が水切りを起こすような速度でプールサイドに激突した雅史の手足は、あちこち酷くすりむいて、血が地面に垂れ落ちていた。頭も強く打ったのか、髪の毛に血がにじんでいる。芹香が急いでバッグから薬草などを取り出して手当てを始めるが、そう簡単に意識が戻るかどうかはわからなかった。


 結局、綾香たちは意識を失った雅史を回収して、鶴来屋に引き上げるしかなかった。そこでわかったのは、鶴来屋でも綾香たち一行と、女将の千鶴とその妹たち、合わせて十人だけが今動ける人数だと言うことである。
「電話も全く通じない。テレビやラジオも電波が入ってない。一体何が起きたのかしらね」
 志保が言う。情報通の彼女としては、情報を全く入手できない状況というのは不安な要素だった。
「それより、ひろのちゃんが心配だよ……いきなり消えちゃったんでしょ?」
 暗い顔で応じるのはあかり。今すぐにでも探しに飛び出したいのはやまやまだが、何の手がかりもなしではどうしたらいいのかわからない。
「それは今、姉さんに手がかりを探ってもらってるわ。こう超自然的な現象に関してはエキスパートだしね……あとは佐藤君が意識を回復してくれれば、少しは手がかりになるんだけど」
 綾香が言う。その雅史は空いてる部屋に担ぎこまれ、今は真帆と千鶴の妹たちが手当てをしているところだった。
 そして、姉の千鶴は対策を話し合うために同じ部屋に来ていた。実際にはかなり不器用な女性という事で、梓に追い出されたらしいのだが。
「それは梓たちに任せておけば大丈夫です。出血はひどかったですけど、頭だから実際にはたいした傷ではないそうですから」
 そう千鶴は答え、年下の少女たちを安心させるように微笑んだ。実際あかりや志保は安心した表情になる。
「それは良かったです。雅史が大怪我したら、ひろのが心配するから」
 志保が言うと、千鶴は首を傾げた。
「ひろの……というのは、一緒に来てていなくなった娘ね? あの背が高い」
 一行が頷くと、千鶴はますます不思議そうな表情になった。
「なぜ、その娘だけいなくなったのかしら……何か理由が?」
 その言葉に、一行ははっとした表情になる。意識を失う前の雅史の証言からすると、ひろのは雅史の目の前でいきなり消えたらしい。この事態が何者かに引き起こされたとすれば、その何者かがひろのを拉致したのではないか?
 そして、ひろのには一般人とは違う特別な事情がある。それが拉致される理由足りうるかはわからないが、思い当たる節はそれしかない。
「……何か心当たりでも?」
 一行の様子の変化に気づいた千鶴が問い、それに綾香が答えようと顔を上げたとき、部屋の入り口から芹香が入ってくるのが見えた。
「お疲れ様、姉さん。何か手がかりは見つかった?」
 芹香はふるふると首を横に振った。
「そう……」
 落胆の表情を見せる綾香に、芹香が何事かを告げる。
「え……今の会話にヒントがあった?」
 芹香が今度はこくこくと首を縦に振る。どうやら、千鶴との会話を聞いていたらしい。芹香はその場で説明を始めた。
「…………」
 それを綾香が聞き取り、要約する。
「……つまり、ひろのは魔術的に物凄く特別な存在……って事?」
 芹香が頷く。魔術学や民俗学では、神は男女両性なのだという。ひろのは今ではほぼ完全に女性だが、元は男性だったことには代わりが無く……つまり、彼女は「この世で一番神に近い身体の持主」なのである。
「…………」
「だから、もし何か魔術的な事に関わりのある集団がいたとすれば、ひろのに目をつけてもおかしくない? 神様とか、ひょっとしたら悪魔を呼ぶための拠り代にするために……ですって!?」
 流石に綾香の顔色が変わった。あかりと志保も身を乗り出す。
「も、もしそんな事にされたら、ひろのちゃんはどうなっちゃうの!?」
 あかりの切羽詰った表情の質問に、芹香もやや焦りの滲んだ表情で答える。
「……」
「姿はそのままでも、精神は召還された相手に飲み込まれて、二度と元に戻らない? そんな……!」
「急いで助け出さなきゃね。でも、手がかりが無いと……」
 絶句するあかりの横で、志保が考え込む。そんな会話を呆然とした様子で聞いていた千鶴が手を挙げた。
「ん? どうしました? 千鶴さん」
 綾香がそれを見て尋ねると、千鶴は思いがけない言葉を口にした。
「心当たり、無くもないですよ」
 え、と言う表情で一行が千鶴を見る。その微かな期待に満ちた表情に答えるように、千鶴は一つの名詞を口にした。
「ラルヴァ」
 それにてきめんに反応したのが芹香だった。
「知っているの? 先輩」
 志保の問いかけに頷く芹香。マントの下から黒い魔術書を取り出し、ページをめくると、ある箇所を指して皆に示した。
「なになに……ラルヴァ。古の邪神ガディムに仕える悪魔。人々に取り付き、操る能力を持つものや、時間と空間を歪めるものが存在する……?」
 綾香が読み上げ、そしてはっと気がついた。
「そういえば、もう夜になっているのに、空が明るいわ!」
「本当だ。もう七時過ぎなのに……!」
 あかりが言う。窓から見える光景は、ほぼ曇りの日の昼間と同じ程度の明るさだ。ただ空が雲ではない何かで一様に白く塗りつぶされたようになっている辺り、この土地自体が尋常でない状態にあることを示している。
「この悪魔の仕業だとすれば納得がいくけど……千鶴さんが何故そんな事を知ってるの?」
 綾香が聞いた。千鶴が答えるより早く、別の声が答える。
「あたしたちは、そいつらと戦った事があるんだよ。なぁ千鶴姉」
 梓だった。真帆と一緒に肩で頭に包帯を巻いた雅史を支えるようにしており、後ろに年下の少女二人を連れている。たぶん妹たちだろう。
「雅史ちゃん! 気がついた!?」
 あかりが声をかけると、雅史はまだ青白い顔を上げ、彼女を見た。
「心配かけてごめん、あかりちゃん……でも、休んでなんていられない。ひろのを探さないと」
 あかりがそれに答える前に、綾香が雅史の前に立った。
「本当なら、ひろのを守れなかったことは万死に値するわ。でも今は忘れてあげる。まずは、当時の状況を全部話してもらえる?」
 雅史は頷くと、ベッドに腰掛けて気分を落ち着かせ、それからプールでの出来事を語り始めた。ひろのが突然消えた時の事に話が及ぶと、綾香は芹香の方に振り返った。
「姉さん、どう思う?」
 芹香はこくこくと首を縦に振る。間違いなくラルヴァの仕業だと言いたいらしい。今度は千鶴の方を見る。問われるまでも無く綾香の言いたい事を理解した千鶴は頷いた。
「私たちが戦った時のラルヴァは、人を操るタイプだったわね。でも、時間と空間を操るタイプの物もいるなら、今度はそれが出てきたんでしょう」
「こりねー連中だなぁ」
 梓が腕組みして呆れたように言う。そこで志保が聞いた。
「その……前も戦った事がある、って言いましたけど、皆さんは一体?」
 志保が言う。彼女自身はともかくとして、あかり、来栖川姉妹は尋常ではない能力の持ち主だが、この姉妹もそうなのだろうか? と興味深そうな表情だ。
「ええ。この隆山と言う街は不思議な事が起こりやすい、特異点の様な土地なんです。私たち柏木家の人間は、そうした不思議な現象と昔から向かい合ってきた一族なんですよ」
 千鶴が答える。後を引き取って梓が続ける。
「ラルヴァの発生も昔……十年以上前にあった事件で、その時もあたしと千鶴姉、それにもう一人で何とか連中を倒して解決したんだけどね。あれが一番今まで重い事件だったんだけど、今回はそれ以上になりそうな感じだね」
「なるほど……」
 志保は納得して質問を打ち切った。
「それで、その時は敵の本拠とかはあったんですか?」
 綾香が聞くと、千鶴は頷いた。
「ええ。あの山……雨月山と言うんですけど、その山中の洞窟に。でも、そこは事件の後で完全に崩して埋めてしまったはずです」
 宿の裏手にある、この辺で一番高い山を千鶴が指差す。芹香は山の方を見てしばし念を凝らしていたが、ふるふると首を横に振った。
「姉さんも、あそこは違うだろうって」
「でしょうね。すると……怪しげな場所を虱潰しにするしかないでしょうけど、この街も歴史は古いですし、怪しい伝説の伝わる旧跡の類だけでもどれくらいあるか」
 千鶴がため息をつく。真帆がエプロンのポケットから街のパンフレットを取り出し、広げて見せた。
「鬼の伝説に関係する遺跡だけでも、十箇所近くありますね」
 すると梓が言った。
「あー……鬼関係は除外してもいいよ」
「何故ですか? 一番手がかりがありそうですけど……」
 聞き返す真帆に、梓が困った表情になるが、そこで千鶴が助け舟を出した。
「鬼関係の遺跡は、十年前の事件で全部調べてますから。ラルヴァとは無関係ですよ」
「あ、そう言うことでしたか……」
 真帆が納得したところで、そのパンフレットを受け取った綾香がそれでもうんざりしたような表情になる。
「それでも全部見て回るのに一日は掛かるわよ……」
「手分けして探せばいい。今からでもはじめよう」
 雅史が立ち上がって、よろける。慌ててあかりがそれを支えた。
「無理しちゃ駄目だよ、雅史ちゃん!」
「いや、でも……」
 あかりの心配する言葉に雅史が反駁しようとした時、その場にすっと現れた人物がいた。
「そうだ。無理しないほうがいいぞ」
「え?」
 あかり、志保、雅史、それに芹香がその人物を見て、驚きの表情を浮かべて固まる。その様子を見て、その人物は苦笑した。
「あ、やっぱりそう反応するよなぁ……よ、久しぶり」
 ひょいと手を挙げて挨拶するその前に、綾香と千鶴が立ちはだかる。
「気配を感じさせないとは……何者!?」
「どこの誰よ、あんた。この状況で動けているところを見ると、只者じゃないわね?」
 戦意を込めて言う二人だったが、次の瞬間あかりに跳ね飛ばされた。
「きゃっ!?」
「はいっ!?」
 尻餅をつく綾香と千鶴に目もくれず、あかりは「彼」に抱きついた。
「触れる……幽霊じゃない!? 本当に、本当に……」
 あかりは顔を上げた。目の前で懐かしい顔が笑っていた。
「浩之ちゃんなの!?」
 彼――浩之は微笑むと、あかりの頭を撫でた。
「ああ、俺だ……懐かしいな、あかり」
 その会話を聞いて、綾香が呆然とした表情で言う。
「浩之……って、ひろのの昔の姿の!? 元に戻ったの!?」
 浩之は首を横に振った。
「そう言うわけじゃないんだが……あまり時間が無いな。手を貸してくれ。もう一人の俺を助けるために」
 そう答えて、返ってきた男……浩之は事情を語り始めた。それは、ひろのだけでなく、この世界全体を救うための壮絶な戦いの幕開けでもあった。
 
(つづく)


次回予告

 ひろのを攫った悪魔ラルヴァの結界に封じ込められた隆山温泉郷。彼女を奪還しなければ、世界は滅亡の危機に瀕すると言う。しかし、ラルヴァ全てを倒すには戦力が足りない。結界を一部崩し、仲間を呼ぶために一行は決死の戦いに挑む!
 次回、十二人目の彼女 第四十七話
「凍りついた時の中で」
お楽しみに。


あとがき代わりの座談会・第四十六回

作者(以下作)「今回のゲストは第一回以来の浩之君です」
浩之(以下浩)「あー、何かすごい久しぶりな気が」
作「実際もう連載も七年目に突入したからなぁ」
浩「まぁ、そのうち一年半くらいは止まってたけどな」
作「それはでっかい秘密です」
浩「しかし、ここに来て俺復活とは……まさか呼ばれるとは思わなかった」
作「もう何年も書いてなかったから、キャラ思い出すのに苦労したけど」
浩「でも、出番が出来たのは良いけど、いきなり命がけなのな」
作「いや……この話はギャグだけどいつも命がけだぞ?」
浩「それもそうか。で、この後はラルヴァとの戦いが始まったりするわけだ」
作「そう言うこと」
浩「何とか無事に生き残りたいところだね」
作「そのためのキーパーソンは君なので、頑張るように」
浩「その前にお前が書くのを頑張れよ」
作「それは耳が痛いな……まぁ、出来るだけ早く続き書きます」
浩「では次回をお楽しみに」
(収録:鶴来屋VIPルーム)


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