このお話は、すっかりかわいらしくなった一人の女の子と、すっかり骨抜きにされてしまった彼女の友人知人たちの織り成す物語です。

To Heart Outside Story

12人目の彼女

第四十四話「告白、そして〜」



「ふぅ……」
 入浴した後、志保は髪を拭くのもそこそこに、ベッドに倒れこんだ。天井を見上げ、灯りに手をかざす。
「ひろのが……ヒロねぇ……」
 この十ヵ月近く、共に学校生活を送り、時には死線すら乗り越えてきた親友の少女。
 その彼女と出会う前、十年を超える付き合いがあり、互いに腐れ縁と認め合っていた少年。
 まさか、その二人が同一人物だ、などと誰が思うだろうか?
「まぁ、あたしは良いわよ」
 志保は一人呟く。ひろの――浩之に対して、単なる友人関係をほんの少し踏み越えた、淡い想いを抱いていた事もある。まぁ、それについては、ある理由があって諦めるに至っていたのだが。
「でも、雅史はどうするのかしら?」





「私は……浩之なんだよ」
 一瞬、志保も雅史もその言葉を理解する事が出来なかった。
「……え?」
 呆けたような声をあげる雅史。
「ひろの……あんた、今なんて言ったの?」
 言葉の意味は理解したが、それを事実として飲み込めない志保。そこで、ひろのは今までの事を全て話し始めた。

 芹香の魔法にかかり、女の子になってしまった事。

 元に戻れるまでのかりそめの姿として、「長瀬ひろの」になった事。

 何度か元に戻れるかもしれない機会があったが、結局全部失敗だった事。

 そのうちに、男に戻りたいと言う気持ちがだんだん薄れていった事。

 そして……ついに今の姿で生きていく決意をした事。

 全てを話し終えた時、空は夕暮れの色に染まり、赤い光がひろのたちを包んでいた。
「それで……」
 志保は何度も頭を振りながら切り出した。彼女は勉強は出来ないが、決して馬鹿ではない。むしろ頭の回転は速い方だろう。その彼女をしても、ひろのの話は余りにも突拍子もなさ過ぎて、なかなか事実として受け入れる事が出来なかった。
 しかし、それでも志保は、ひろのの話が事実である事を認めざるを得なかった。その話の中には、志保と幼い頃を共有した思い出のある人間でなければ知りようのない物も混じっていたのである。
 それなら、例えばあかりか雅史が志保を担ぐために、ひろのにその話を教えたのではないか、という解釈も成り立たないわけではない。しかし、あかりにも雅史にも、そんな風に志保をからかう動機などない。
 それに……ひろのの話の中には、志保と浩之の二人以外は知らないはずの物も混じっていたのだ。
 だから、志保はこの信じ難い話を事実として受け入れ……その上でひろのに聞いた。
「それで、あんたはどうしてあたしに話してくれなかったの?」
 それが、志保の一番納得のいかないことだった。あかりには教えて、なぜ自分には話してくれなかったのか。確かに、彼女は良く浩之とけんかをしたし、その原因が志保のホラ話にあったのが多かったのも間違いない。
 だからと言って、何も相談してくれないほど、浩之が志保のことを信用していなかったのか、と思うと悔しさが先に立った。しかし、ひろのは首を横に振った。
「できれば……誰にも話したくなかった。あかりにだって。でも、あかりは隣の家だから。わたしがいなくなったら、すぐにわかるし、それに大騒ぎになると思ったから……」
「だから、あかりにだけは話した?」
 志保が言うと、ひろのは頷いた。
「はぁ……」
 志保はため息をつくと、つかつかとひろのに近寄った。そして

 ぱぁん!

 ひろのの頬を張り飛ばした。
「志保!」
 あかりが頬を押さえるひろのと、志保の間に割って入る。その目は怒りに満ちていた。が、志保の表情を見ると、急にその怒りの色が消えていった。何故なら――
 志保の表情は、今にも泣きそうだったからだ。彼女が一歩進み出ると、あかりは思わず志保に道を譲っていた。そして。
「ばか……女の子になっても本当にばかなんだから! あたしだって、あんたの幼馴染みで、友達なんだから……もう少し信頼してくれたって良いじゃない!!」
 そう言って、志保はまだ頬を赤くしたひろのに抱きついた。
「志保……」
 ひろのは戸惑いの表情で、泣いている志保を見下ろした。
「あんたが病気になって、学校来れなくなって……会う事すらできないって聞いて……心配したんだから。本当に心配したんだから……!」
「志保……ごめん。ごめんね」
 ひろのは志保の頭をそっと抱いた。志保はしばらくひろのの胸で泣いていたが、少し気分が落ち着いてきたのか、顔を上げた。
「これからは、何でもあたしに相談しなさいよ。いいわね? ひろの」
 今度はひろのが目に涙を浮かべる番だった。志保は彼女を「ひろの」と呼んだのだ。昔の「ヒロ」と言う呼び方でも、「浩之」と言う本名でもなく、「ひろの」で。
「うん、ありがとう。志保」
 それでも泣きはしなかったのは、志保が自分を認めてくれた、という嬉しさが先に立ったからだろう。
「礼なんて良いわよ……友達でしょ?」
 志保がそう答えると、ひろのは嬉しそうに笑い、志保もまた笑顔で応えた。
「よかった……」
 事態を見守っていたあかりが、ホッとした表情で呟く。ひろのと志保の友情が壊れずに済み、それどころか一段と深まった事は、彼女にとっても嬉しい事だった。しかし。
「何が『よかった……』よ〜〜〜!? あんたにはいっぱい問い詰めたい事があるわよ、あかりっ!」
 振り向いてあかりを見た志保の表情は、夜叉になっていた。
「ああっ!? 志保、やっぱり怒ってる!?」
「あたりまえでしょうがっ! あたし一人のけ者にするなんて、それでも親友なの!?」
 志保はあかりの襟首を掴むと、その気になれば熊すら手玉に取る彼女をずるずると引きずって、林のほうに消えていった。その光景を見て、ひろのは脳裏に「ドナドナ」のメロディが流れたような気がした。
「で、その……雅史……」
 ひろのはそれを見送ってから、恋人のほうを向いた。しかし。
「……あれ?」
 そして、気がついた。雅史の姿が、どこにも見えない事に。
「え……雅史……?」
 
 それが、夕方頃の事だ。それから、ひろのとあかりへの説教を終えて戻ってきた志保たちは雅史の姿を探したが、どこにもその姿は見えなかった。家に電話しても、まだ帰ってきてない、という返事だった。
「あいつ……」
 志保は憮然とした表情で呟き、携帯電話を切って、ひろのの方を向いた。ひろのはまるで捨てられた子犬のような雰囲気を漂わせて、じっと地面を見つめていた。
「ひろの……」
 志保が名前を呼ぶと、ひろのは泣きそうな表情で、親友の顔を見た。
「志保……やっぱり……嫌われちゃったのかな」
 主語のない問いかけ。
「私は、雅史に、嫌われちゃったのかな」
 こう言えないひろのが、その言えなかった言葉が真実になったらどうしようかと怯えているのが、志保には良くわかった。彼女は首を横に振った。
「そんな事ないわよ」
 志保はそう答えた。そう答えるしかなかった。

「そんな事ないわよ……か。そうだとは思うんだけど」
 そして、一行は解散し、志保は自宅へ戻っていた。ひろのにかけた言葉を反芻する。
「雅史が本気だったって事は間違いないんだから」
 そう、雅史は間違いなくひろのの事が本気で好きだった。矢島や橋本などの有象無象たちとは違い、ただ容姿に惹かれての事ではない。志保も同じ人を好きになった事があるから、わかるのだ。
 浩之は一見無気力そうな少年だったが、その実世話焼きで、いざと言う時にはいくらでも情熱的になれる性格だった。そして、一本筋を通す人間でもあった。
 かつて、志保は面白半分に友人の悪い噂を広めてしまった事がある。多くの級友たちが彼女に同調して笑う中で、浩之だけが違う行動をとった。彼は志保の頬を本気で張り倒したのだ。
『今度そんな事をしてみろ。お前との縁もこれきりだ!』
 あの痛みは忘れられない。それ以来、志保は決して面白半分にゴシップを扱う事だけはしなくなった。その一方で、本気で彼女を怒ってくれた浩之に、淡い想いを抱くようにもなった。
(そういえば、ひろのは橋本先輩にも怒ってくれたことがあったわね)
 全校の女子生徒憧れの的だった橋本先輩。でも、その正体は自分の容姿や能力を鼻にかけて他人を見下す、嫌な奴だった。志保もこっぴどくフラれて、大きく傷ついた。それに対して本人以上に真剣になって怒ってくれたのもひろのだ。彼女が衆人環視の中で橋本を張り倒したと聞いて、どれだけ溜飲が下がったか。
 そう言う所は、浩之だった頃と変わりない。一方で、自分よりも女の子らしい所を見せる事もあった。橋本に襲われて、危うい所を志保が救ってやった時は、取りすがられて泣かれたし、文化祭のコスプレの時も、思わずため息をつくほど可愛かったりした。ひろの本人に人気を集めようという意思があったとは思えないが、男子(と一部女子)がひろのに萌え狂った理由は、良くわかる。
 そんなひろのと志保は友情を結び、親友同士といって差し支えない関係を築いてきた。今も志保はひろのをかけがえのない友達だと思っている。ひろのが浩之だった頃の、お互いに顔を合わせては憎まれ口を叩きあう、そんな関係も嫌いではなかった。しかし……

 今のひろのとの友情ほどではない。

 だから、志保は雅史がひろのを悲しませるのなら、絶対にそれを許すわけには行かないと考えていた。
「……よし!」
 そうとなれば、早速行動だ。志保は机の上に置いてあった携帯電話を手にとった。雅史の家の番号を検索して、電話をかける。いくらなんでももう帰っているだろう。呼び出し音が数回続いた後、志保は待っていた相手が電話に出たのを確認した。
『もしもし、佐藤です』
「その声は雅史ね」
 志保が言うと、電話の向こうの雅史は沈黙した。それをチャンスと捉え、志保は強い口調で言った。
「どうして何も言わずにいなくなったわけ? ひろの、探してたわよ」
 雅史はまだ何も言わない。
「嫌われるかもしれない、って覚悟して、本当の事を話したのよ。何か言ってあげなくちゃダメじゃない。無視されるのは一番怖いのよ」
 志保がそこまで言った時、雅史がはじめて口を開いた。
『うん……わかってるよ、志保ちゃん』
 重苦しい声。
『でも、少し待って欲しい……考える時間が欲しいんだ』
 志保はひろのの様子を見ているから、できるだけ早く応えてやらなきゃダメだと言いたくなったが、最後の最後で自制した。雅史だって、そのくらいはわかっているだろう。それでも時間が欲しいと言うのは、ひろのに何と言えばいいのか、何と言うのが最良なのか、正しい答えを探さなければならないと考えているからだろう。
「……わかったわ。どれくらい必要?」
 志保が時間の長さを聞くと、雅史はカレンダーでも見ているのか、がさがさと受話器が服にこすれる音がした。そして。
『明日から母さんの実家に帰省で、その足で部の合宿に行かなくちゃいけないんだ。すると、最短で8日かな』
 ほぼ一週間になる。合宿の後は、もうすぐに学校が始まる日程だ。なかなかのハードスケジュールと言える。
「合宿なんてパスしちゃえば……とは言えないわよね」
 志保は言った。雅史は今二年生のリーダー格で、三年生に上がったら、彼と垣本が部長・副部長でコンビを組むのが確実視されている。それに、今のサッカー部の戦力はかなり充実していて、全国大会を狙えるとも言われているのだ。その中で雅史の占める役割は大きい。立場的に部活をスルーするわけには行かない。
「わかった。ひろのにはそう伝えておくわ。だから……どう応えるにしても、あの娘を傷つけないようにして。良い?」
『……わかった。ありがとう、志保ちゃん』
 ぶつっと音がして、電話が切れた。志保はため息をつき、電話を机の上の充電ステーションへ戻す。
「礼を言われるようなことじゃないわよ……」
 そう呟く。志保自身は、雅史がひろのを嫌っての行動ではないと思っているが、ひょっとしたらとんでもないお節介だったかもしれないのだ。
 ひろのと雅史の関係を、自分とあかりの関係に置き換えてみれば、雅史の戸惑いも理解できる。あかりが男の子になって、自分はそうとは知らず「彼」と出会い、恋に落ちて、その後「彼」の正体があかりだとわかったら、素直にその関係を続けようと思えるかどうか?
 難しいかもしれない、と思う反面で、愛さえあれば大丈夫と言う気がしないでもない。何しろひろのの周りには、愛さえあれば大丈夫派が多すぎる。アレを見ていると、いかに常識というものが脆いか、良くわかる。
「ま、考えても仕方ないか」
 志保はそう考え直した。決断するのはひろのと雅史だ。自分にできるのはちょっとしたお節介とアドバイスくらいしかない。とりあえず、明日ひろのに会おうと志保は思った。

 翌日、志保は起きるとすぐにひろのの家へ向かった。もちろん、来栖川家の離れではなく、元の藤田家の方である。玄関の門を開けようとして、志保は妙なものがあるのに気が付いた。
 二階の窓からだと思うが、ロープでがんじがらめにされた物体が吊るされ、風が吹くたびにゆらゆらと揺れている。その固まりには「エサを与えないでください」「娘不幸者」などと書かれた張り紙が貼ってあった。
「……もしかして、浩明おじさん?」
 志保は言ったが、もしかしなくてもそれは浩明だった。昨日の一件で千尋から折檻を食らっているのであろう。逆さ釣りにされたままここで一晩を明かしたらしい。眼から滴った涙が眉毛や前髪をパリパリに凍らせていた。
 その姿勢で、浩明は微かな寝息を立てていた。まぁ、ひょっとしたら気絶しているのかもしれないが、これ以上は志保にはどうしようもない。構わずにインターフォンを押すことにする。
 ピンポーン、というオーソドックスな音がして、スピーカーから千尋の声が聞こえてきた。
『はい、どちらさま?』
「あ、明けましておめでとうございます。志保です」
 志保が挨拶すると、千尋の嬉しそうな声が聞こえた。
『あら、志保ちゃん? ちょっと待っててね』
 インターフォンの受話器を置くガチャガチャと言う音が聞こえ、続いて目の前のドアキーが同じような音を立てて開かれた。そして、中から千尋が姿を現した。
「いらっしゃい、志保ちゃん。あけましておめでとう」
「おめでとうございます」
 志保は挨拶した。ひろのがあかりの母親、ひかりに憧れを持つように、志保にとっては職業を持つ自立した大人の女性、というスタイルを実践できている千尋が理想の女性像だ。もっとも、夫にああいう激烈な折檻を加える女性だと言うのは知らなかったが……
 そんな心中を察したのか、千尋はのんびりした口調で言った。
「人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られてなんとやら、って言うでしょ? あの人にはいい薬よ」
「はぁ……」
 なんとも答えづらく、志保が言葉に詰まっていると、千尋は二階のほうを見上げた。
「ひろのなら、まだ部屋よ。ちょっと話し相手になってあげてね」
 志保は頷いた。もちろんそのつもりで来たのだ。千尋に礼を言って家に上がると、階段を登って、ひろのの部屋をノックする。
「ひろの、起きてるー?」
 しばらく待って、ひろのの声がした。
「志保?」
「うん、入るわよ」
 そう言って、志保は返事も待たずにドアを開け、ひろのの部屋に入った。
 ひろのはベッドの上で身を起こしていた。見たところ、男だった頃と比べて模様替えはしていないらしい。
「おはよう。少しは眠れた?」
 志保は尋ねた。昨日の調子からすると、ひろのはあまり眠れなかったのではないか、と懸念していたのだ。実際、見れば目は少し赤く腫れていたし、肌も少し荒れ気味のようである。
「……うん、大丈夫」
 しかし、ひろのは正直にその事を言いはしなかった。志保もあえて追及したりはしない事にする。代わりに、志保は本題を切り出した。
「昨日の夜、雅史に電話したよ」
 志保の言葉に、ひろのははっとした表情になった。おずおずと尋ねてくる。
「雅史……何て言ってた……?」
「それがね、あいつ今日から帰省と合宿でしばらく帰ってこないんだって。だから、返事は少し待ってて欲しいって、そう言ってた」
 志保が答えると、ひろのはそういえば、と呟くように言った。年末年始の予定は雅史本人から聞いていたのに、すっかり忘れていた。
「でもまぁ、焦る事はないわよ。雅史がひろのから離れられるわけないんだから」
 志保は笑い飛ばすように言ったが、ひろのの表情は晴れなかった。
「でも……」
 声はあげるが、言葉が続かない。志保は笑いを消して、ひろのの顔を見つめた。
(心配性ねぇ……本当にヒロとは思えないわ)
 浩之はもう少し図太い人間だったような気がする、と志保は思った。しかし、ひろのにしてみれば笑い事ではない。以前雅史とデートをした時も、クリスマスの夜に告白した時も、基本的には彼女が自分から言い出したことである。そのため、ひろのは雅史が自分と付き合ってくれている事を「雅史が優しいから、本当はあまり乗り気ではないのに付き合ってくれているのではないか」という疑いを払拭できずにいた。
 実際には、ひろのが雅史に恋をする以前から、雅史の方こそ彼女にベタ惚れであり、しかも周囲の人間はみんなそれを知っていた。知らないのはひろのだけである。だから、雅史が逃げないと志保に言われても、ひろのはなかなかそれを信じられなかった。
 ともあれ、志保の方も、これ以上「安心だ」と言っても効果はないだろうと気付いていた。となれば、友人として志保がひろのにしてやれる事は一つしかない。
「ねぇ、ひろの。ちょっとあたしに付き合わない?」
「え?」
 志保の思わぬ一言に、ひろのは思わず顔を上げた。そこですかさず、志保はにっこり笑ってひろのの手を取った。
「溜息をつくと幸せが逃げるって言うでしょ。こんな風に一日中部屋に篭もって溜息つきまくってたら、余計気が塞ぐわよ。こんな時は、ぱっと遊んで憂さを晴らすのが一番!」
 そう叫ぶように言って、志保は強引にひろのをベッドから引きずり出すようにして立たせた。乗り気じゃなかったひろのも、こうなると仕方なく頷く。
「うん、わかった……わかったから着替えさせてよ。さすがにこの格好じゃ出られないから」
 確かにひろのはまだパジャマ姿である。志保は頷いて、一度部屋の外に出た。すると、そこには千尋が立っていた。
「ひろの、少しは元気が出た?」
 千尋の問いかけに、志保は首を横に振った。
「まだまだですね。でも、これからもうちょっと元気を注入してきます」
 その答えに、千尋は嬉しそうな笑みを浮かべる。
「よろしくね、志保ちゃん。こういう時は、あかりちゃんだと強引さが足りないから」
 志保は苦笑した。
「あたしが強引さしかないみたいな言い方ですね。でもまぁ、期待にはこたえちゃいますよ」
 そんな会話をしていると、ドアが開いてひろのが出て来た。外に出ても恥ずかしくない格好に着替えている。
「じゃ、行くわよ」
「あ、ま、待ってよ、志保」
 志保に強引に引きずられるひろのの肩を、千尋が叩いた。
「なに? お母さん」
 立ち止まるひろのに、千尋が熨斗袋を渡した。
「お年玉よ。遊びに行くなら軍資金が必要でしょう? 楽しんでらっしゃい」
 千尋は志保にもお年玉を渡した。
「ありがとうございます!」
 志保は元気よく言うと、ひろのを連れて外へ出て行った。二人が見えなくなると、千尋は少し寂しそうな顔をした。
「ごめんね、志保ちゃん……鈍感な息子で」
 志保が浩之の事を想っていた事に、千尋は気付いていたようだった。

 商店街は新春初売セールでごった返していた。
「はいはい、今年初競りの寒鰤だよ! 鍋物に最高だよ!!」
 魚屋が威勢良く叫んでいるかと思えば。
「押さないでください、押さないでください! 福袋はまだ十分数がございます!!」
 押し寄せるオバサマ方に押し潰されそうになっているスーパーの店員の、必死の叫びも聞こえる。
「年をとってもああはなりたくはないわねー」
 目を血走らせるオバサマたちを見ながらお気楽に言う志保に、ひろのは相槌を打った。
「そうだね」
 すると、志保はくすりと笑ってひろのの顔を覗き込むようにして見た。
「な、なに?」
 戸惑うひろのに、志保が言う。
「そういう感性とかさ、もう完全に女の子してるよね。むしろあたしより女の子らしいかも」
「……そんなことないよ」
 ひろのは首を横に振った。
「志保の方が女の子らしいと思う。まだ私が変わりたてで、なかなか自分が女だって受け入れられなくて、苦労してる時に、志保がいろいろ気を遣ってくれたから、クラスにも馴染めたと思うし」
 男だった頃は、志保の事をがさつで無神経な女だと思っていたひろのだったが、改めて友人となり、付き合ってみると、実はこまやかな気遣いの出来る少女だと言うことに気付いていた。
「そ、そう? あかりの方が凄そうだと思うけど」
 褒められて満更でもなさそうな様子ながら、一応謙遜する志保。しかし、ひろのは首を横に振った。
「うーん……あかりはねぇ、私はどんな事があっても大丈夫だって、無条件に信用してる所があるから。それが逆に大変で」
「ああ、なんとなくわかるわ、それ」
 苦笑する志保。昔から、あかりが浩之のあとをくっついて回っていたのをはっきりと思い出す。
「でも、ひろのだってすごいとは思うけどね」
 志保はフォローのつもりではなく、本気で言った。彼女が「ひろののように、好きな人のために、今までの人生を全部捨てる覚悟が持てるか」と問われれば、それは無理というしかない。例え相手が浩之だったとしてもだ。だから、それをやってのけたひろのに対しては、素直に尊敬に近い思いを抱いていた。
「そんな……私は……」
 ひろのが俯く。それを見ながら、志保はひろのの何が問題なのか、少しわかったような気がした。
(要するに、自信がないのよね)
 少なくとも、ひろのは「女の子としての自分」には自信を持っていない。自分がどれだけ魅力的な少女なのかを知らない。そう考えてみれば、いろいろと思い当たる節がいっぱいある。
 例えば、ひろのは夏でも薄手とはいえ長袖の服を着たり、タイツをはいたりして、できるだけ素肌の露出しない服装をしている。制服も、少しサイズの大きなゆったり目のものを着ている。あれは身体のラインが浮き出ないための防衛策だろう。
 普段からミニスカートを愛用し、露出度の高い服装の好きな志保から見れば、実にもったいない話だ。せっかくきれいな身体なんだから、もっと見せ付けてやれば良いのにと思う。
「……となると、早速買い物ね」
 あることを決め、志保は呟いた。それを聞いたひろのが首を傾げる。
「どうかしたの? 志保」
 さっそく食いついてきたひろのに、志保はニンマリと笑って見せると、一軒の店に入った。ひろのも続いて入ると、店に漂う独特の芳香がひろのの嗅覚を刺激した。
「化粧品店?」
 問うひろのに、志保は手近な試供品の口紅を取って向き直った。
「ひろのって、普段はあんまりメイクとかして来ないわよね。もう少しその辺に気を使ってみれば、また変わるわよ」
「え、い、良いよそんなの」
 普段はスキンケア程度で、気合の入ったメイクと言えば、来栖川姉妹と一緒にパーティーに行った時くらいしかないひろのとしては、できればそんなのは遠慮したい所である。しかし。
「つべこべ言わないの。ホラ座って座って」
 志保は強引に椅子にひろのを座らせ、メイクを施していった。念のため、眉毛も少し切って形を整える。さすがに手馴れているだけあって、女子高生としてはかなりハイレベルなメイクの腕前だ。何時の間にか、店員や他の客が化粧台の前に集まり、志保の手並みを見ていた。そして。
「よし、できた」
 志保が宣言すると、野次馬からどよめきが上がった。ひろのも鏡を見て、感嘆の声をあげる。
「わ……ロッテンマイヤーさんに習ったのとはずいぶん違うなぁ」
 ひろのはロッテンマイヤーから化粧を習っていたので、ちょっと古風な、どっちかと言うと濃い目のメイクのやり方は知っていたのだが、最近の主流になっているナチュラルメイクについては無知だった。こっちのほうが彼女の好みに合っていて良いと思う。
「やー、やっぱりひろのは素材が良いから、メイクしてて楽しいわね。でも、ちょっとばかし妬ましいかしらね」
 志保はひろののほっぺたをプニプニとつついた。冗談めかした言い方だが、自分よりひろのの方が肌がきれいなので、ちょっと嫉妬したのは本当である。
「んっ……志保、くすぐったいよ」
 ひろのがくすぐったがって身をよじる。その仕草が、志保にはものすごく可愛らしく見えた。
(うぅ〜、反則じゃないの? その可愛さは)
 元より志保はノーマルで、女の子に恋愛感情を抱く事はない。しかし、ちょっとだけひろのに夢中になっている綾香や好恵の気持ちが分かったような気がした。
 そして、その可愛さをもっとパワーアップしてやりたい、という気持ちが湧き上がってくる。志保は自分が「可愛げ」と言う事に関しては、どっちかと言うと無い方だ、と言うのは自覚していたので、自分には無い物を持っているひろのに、自分の願望を投影してみたかったのかもしれない。
「よし、じゃあ、次行こう次」
 結局、ひろの用のメイク道具一式を買った後、そう言って志保はひろのの腕を取った。
「え? 次って?」
 戸惑うひろのに、志保はニヤリと笑って見せた。
「今度は服よ、服。ひろのの服は可愛いけど、なんか重い感じのする服が多いからね。もっと軽やかに行かないと」
「か、軽やか?」
 それってどんなファッション? と言いたげなひろの。
「ま、着てみてのお楽しみよ。資金はまだ十分よね?」
 志保の言葉に、ひろのは頷いた。去年の正月、まだ浩之だったころは、両親や親戚からのお年玉を合計しても三万円ほどにしかならなかったが、今年はセバスチャンや厳彦からもお年玉がもらえた上に、浩明が去年の十倍近い額をくれたため、ひろのの懐はとても潤っていた。化粧品にかなりの額を使ったが、それでもまだ去年の何倍ものお金が残っている。
「じゃあ、問題なしね。レッツゴーよ!」
 志保はひろのを強引に引きずって、近くのファッションビルに入った。

 それから三十分後。
「ひろの、どう?」
 志保は試着室の前で呼びかけていた。カーテンの向こうから、ひろのの消え入りそうな声が聞こえてくる。
「い、一応着替えてみたけど……」
 それを聞いて、志保はカーテンを開けた。その向こう側で、赤い顔をしたひろのが試着した服の裾を抑えるようにして立っていた。
「志保、このスカート短すぎない?」
 ひろのが主張するように、今彼女が試着しているスカートは、膝上30センチはありそうな超ミニだった。ちょっと動いただけでめくれそうなフレアタイプのスカートで、ひろのはこんな服は持っていないし着た事も無い。
「ん、どれどれ?」
 志保はひろのの言葉を聞いて、無造作に裾を掴むと、ばっとめくりあげた。
「志保!? だ、誰かに見られたらどうするのっ!?」
 いきなりスカートめくりをされて真っ赤になるひろのだったが、志保は手を離すと何でもないように答えた。
「ちゃんと、こうでもしない限りめくれないようなデザインになっているから大丈夫よ。それに、ひろのはタイツ履いてるから、めくれても見えないでしょ」
「そういう問題じゃないよ」
 ひろのは怒った口調で言った。確かに、このスカートはめくれ難いデザインになっている。表面は薄手の生地で覆われているが、下は制服に似た厚手の生地になっていると言う二重構造で、結構派手に運動してもふわふわとめくれたりはしない。
 それでも不安な要素があるのは確かだし、それ以前に故意にめくられたりしたら、どんなデザインだろうと関係ない。
「怒らない怒らない。ひろのだって、前に雅史とデートしてた時、一応ミニっぽいスカートはいてたじゃない」
 志保の言葉に、ひろのは今度は羞恥で顔を赤くした。
「そ、それはそうだけど……」
 ミニっぽいとは言っても、今試着しているスカートよりはずっと長い。
「だから、雅史をひろのの魅力でKOするには、これくらい大胆に攻めなきゃ。タイツもやめてニーソックスにすると、もっと威力が上がるかもね。世の中には絶対領域と言う言葉もあるし」
「何、それ?」
 絶対領域とは、ニーソックスをはいたときに、スカートの裾とニーソックスの最上部に挟まれた、素肌の露出しているエリアのことを言うらしい。もちろん、ひろのが知る由も無い言葉である。
「雅史に属性があれば、一発で墜ちる必殺技よ。ものは試し、買った買った」
「うー……」
 悩みつつも、ひろのは結局志保に後押しされる形で、何着かのミニスカートやキャミソールを買った。そればかりではない。次に行ったのはランジェリーショップで、布地が少なかったり、レースが多用されていたりする、いわゆる「勝負下着」まで、いくつか購入する羽目になっている。以前雅史とデートした時も、一応勝負下着に擬して選んだ物を着ていった事はあるが、それはちょっとフリル多目とか言う可愛いデザインのもので、今日買ったガーターベルトなどのセクシー路線ではない。
「いやぁ、いっぱい買ったわねー」
 志保が熱々のカプチーノをすすりながら笑う。買い物を終え、二人は適当な喫茶店に入ってお茶を飲んでいた。
「うん……」
 頷くひろの。久々の散財と、今まで縁のなかった服などをかったせいで、まだ頬が赤い。
「こういうのを上手く着こなせば、雅史が何て思ってようと、ひろのを見たら一発で参っちゃうわよ。今度ファッション雑誌とかいろいろ持ってくるから、研究してみたら?」
 志保の言葉に、何ともいえないあいまいな表情を浮かべるひろの。そこで、志保は気になっていた事を言った。
「あのさ、ひろの」
「ん?」
 志保の口調が真面目になっている事に気が付き、ひろのも真顔になる。
「あんた、結構自分に自信が無いでしょう?」
 志保がそう言うと、ひろのは一瞬虚を突かれたような表情になったが、少し考えて頷いた。
「うん……そうだね。やっぱり、私は他の女の子とは違うから……」
 聞きようによっては傲慢な口ぶりに聞こえなくも無いが、もちろんひろのにそんなつもりは無い。ただ、元は男だった身としては、女の子としての自分がどんなに可愛らしい容姿をしていたとしても、それを自分の物として誇るのは、どうしても難しかった。その答えを聞いて、志保はさらに質問した。
「じゃあさ、ひろのは、あたしが何時も自身満々に見える?」
「志保が? それは……見えるけど?」
 ひろのはそう答えた。志保が何かと言うと口にするのが、自分の美貌への自慢である。「スーパー美少女志保ちゃん」とか、ちょっと冗談めかした言い方なので真剣には聞こえないにしても、自信が無ければ出ない台詞ではあるだろう。しかし、志保は首を横に振った。
「それは、ひろのの買い被りよ。そりゃあ、あたしだって見た目は悪くないかなって、そのくらいは思ってるけど」
 それは十分自画自賛じゃないかな、と思ったひろのだったが、志保は少し声のトーンを落して続けた。
「でもね、あたしは『女の子』としてはどっちかと言うと可愛げのない方だと思うわ。あたしより、あかりとかレミィの方が可愛いと思う。もちろん、ひろのもね」
 それを聞いて、ひろのは驚いた。
「私が、志保より可愛い?」
 ちょっと信じ難いその発言に、ひろのが確認を求めるように聞くと、志保は大きく頷いた。
「そうよ。それは外見とかの問題じゃなくて、性格とかの話ね」
 容姿でもひろのの方が上を行っているだろうな、と志保も内心では思っていたのだが、それはプライドに賭けて口には出さなかった。
「この志保ちゃんの保証付きよ。自信持ちなさい」
 志保はそう言って念を押したが、ひろのはまだ信じかねる思いだった。そこで、志保はさらに重ねて言った。
「ひろの、あんたが昔のあんただったら、今の自分見て気にならないと思う?」
「え?」
 首を傾げたひろのだったが、志保が「男の頃の気持ち」で考えろと言っているのだと気付き、ちょっと考え込んだ。失われて久しいその時の考え方を呼び起こし、今の自分を見つめてみる。答えはすぐに出た。
「それは……放って置かないと思う」
「でしょ?」
 ひろのの答えに、志保は破顔した。ひろのもようやく笑顔を見せる。
「ありがとう、志保。ちょっとだけ元気が出たよ」
 ひろのは言った。昔の自分の気持ちを少し思い出してみたら、なんとなく気分が楽になったような気がした。どうも自分はちょっと臆病になっていたんじゃないか、と思う。
 もちろん、雅史に嫌われるのは怖い。でも、嫌われても当然の事をしていたのも間違いない。
 それなら、嫌われる事は仕方ない……とまでは思い切れないが、覚悟の上で、雅史の気持ちがどうなのか、審判を待つしかないのだろう。
 どっちかと言うと元気が出たと言うよりは、開き直りに近い物があったが、ともかくひろのはくよくよと思い悩んでいても仕方ないと割り切る事が出来た。
「そうね。まぁ、フラれたらフラれたで、その時に泣くなりなんなりすれば良いと思うわ。あたしでよければ付き合うわよ」
 しかし、志保がそう言うと、ひろのはたちまち渋面になった。
「志保ぉ〜……不吉なこと言わないでよ」
 ひろのが手を振り上げて抗議すると、志保はごめんごめん、と手で頭をかばいながら謝った。そこで、ひろのは手を降ろすと、今度は頭を下げた。
「志保、ありがとう」
「何よ、改まって?」
 ひろのの真剣な様子に、志保は思わず自分も姿勢を正しながら聞いた。
「私と、友達でいてくれて。今、志保が友達で、本当に良かったと思ってる」
 ひろのの心からの言葉に、志保は照れ笑いを浮かべた。
「なんだ、そんな事……気にしなくても良いのに」
 そう答えてから、志保はひろのに質問した。
「ねぇひろの、あたしの夢の事は知ってるわよね?」
「え? ああ、確かジャーナリストだっけ?」
 ひろのの答えに、志保は頷いた。
「ただのジャーナリストじゃなくて、世界的、って言葉がつくけどね。でも、その道は険しいのよ。一度本格的に夢を追いかけ始めたら、きっと誰かと恋したり、そういうことは出来なくなると思う」
 そう言って、志保はにこりと笑った。
「だから、ひろのにはあたしの分まで頑張って欲しいのよ。雅史とうまくやんなさいよ、ね?」
 ひろのは頷いた。

 それから夕方近くまで遊んで、二人は解散した。家に帰ったひろのは、ある一つの事を考えていた。
(夢、か……私の夢はなんなんだろう?)
 考えてみれば、ひろのは将来の事はあまり考えた事がなかった。日々いろんな事がありすぎて、それを考える余裕もなかったのだが、気が付くと、もう将来の事を考え始めている志保に比べて、ずいぶん遅れをとったような気がする。
 夢の実現について頑張っていると言えば、雅史もそうだ。当面の目標は全国大会進出だが、その先も、できればサッカーで身を立てていきたいと考えているらしい。
(雅史なら、きっとやれるだろうな)
 そんな事を考えながら、ひろのは何時の間にか夢の世界へ沈んでいった。


 ボールを追いかけていた。
 河川敷のグラウンド。今見ると大して広くないそこも、子供の目にはどんなスタジアムにも負けない、広いフィールドだった。
 そこを、ドリブルしながら駆けて行く。ボールを奪おうと突っ込んでくる相手。すぐにボールを横に蹴る。いちいち目で見て確かめなくてもわかる。そこにはあいつがいると、そう決まっているのだから。
 はたして、ボールはあいつの元に渡った。今度はこっちがフォローに回る番だ。しばらく敵陣に切り込んだところで、囲まれたあいつからパスが回ってくる。それを受けて、隙だらけになった敵陣を駆け抜ける。今度は自分が囲まれる。あいつにパス……
 その繰り返しで、二人はゴールの手前まで。しばらく隙をうかがって、無理だと見ると、あいつにボールを託す。あいつは見事に期待に応えてくれた。放たれたシュートはキーパーの手をすり抜けて、ネットに突き刺さった。

 夕日に照らされた堤防の上を、二人は歩いていた。
「今日もやったな!」
「うん、コンビネーションばっちりだったね」
 帰り道、お小遣いを出しあって買ったジュースを回し飲みしながら、二人はまだ醒めない試合の興奮を語り合った。子供同士の、お遊びの延長のようなサッカー。それでも、二人はお互いが世界最高のパートナーだと信じていた。
「僕たちなら、国立とか行けるよね」
「国立? バカだなぁ、そんなの小さい小さい」
「? じゃあ、何だったら良いの?」
「決まってるさ。ワールドカップだよ、ワールドカップ!」
「そ、それは……」
「やれるよ。俺と……お前なら」

 
 それからしばらくして……
「え? 明日も行かないの?」
「あ、ああ。悪ぃな。ちょっと用事があってさ」
「そっか……最近負けが込んでるから、来て欲しかったんだけど」
「悪い。また今度な」
 そんな言葉で、あいつの誘いを断る。でも、用事があるなんて嘘だ。本当は、ただ単にサッカーに飽きたから。他に夢中になれる事が出来たから。
「ただいまー!」
「おかえり。ゲームはほどほどにしておきなさいよ?」
「わかってるって! よーし、今日こそ魔王をやっつけるぞ!!」


 それから、またしばらくして……
「中学に入ったら、サッカー部に入ろうと思うんだ」
「ああ、お前はそうだろうなぁ」
「一緒に入らない?」
「俺が? いや、遠慮しとくよ」
「そう? 一緒だったら心強いのになぁ……」
「悪ぃな」
 その時は、それで会話は終わった。もうサッカーはやめたつもりだったし、もう一度やる気もなかった。しかし、中学のサッカー部はあまり強くなくて、人数も少なかった。そんな中で、試合前にけが人が出て、人数が足りなくなってしまった事があった。
 その時だけ、乞われて断りきれずに助っ人に行った。結構善戦したと思う。でも、結果は負けだった。悔し涙にくれるあいつ。それにはちょっと胸が痛んだけど、いっしょにやろうとまでは言えなかった……


「ん……?」
 カーテンの隙間から差し込む光で、ひろのは目を覚ました。
「今のは……」
 夢だったのか、と思う。でも、それはただの夢ではなかった。
「思い出した……」
 それは、浩之の時の記憶……それも、子供の頃のものだった。あの頃はサッカーマンガやアニメに後押しされて、男の子たちの遊びと言えばサッカーだった。浩之も夢中になってサッカーをしていた。その時、いつもパートナーとして点を奪ったのは、雅史だった。いつか二人でサッカーの頂点に立とうなどと、無謀な野望を抱いたりもした。
「そうだ……ずっと一緒にサッカーをしようって言ったのに……」
 ひろのは俯いた。子供は物事に熱中するのもすごいが、飽きる早さもすごい。いつしかサッカーブームは過ぎ去り、浩之はTVゲームやミニ四駆と言った別の遊びに夢中になって、サッカーの事など振り返りもしなくなった。
 そんな浩之とは対照的に、雅史はサッカー一筋だった。小学校の頃はリトルチームに入り、中高とずっとサッカー部に所属しつづけてきた。
 そして、高校に入ってからも、雅史は折を見ては浩之をサッカー部に勧誘していたが、浩之は面倒くさがって、部への加入を断りつづけていた。その時は、何故雅史はこんなに熱心に自分を誘うのかと思っていたが……
 雅史はきっと覚えていたのだ。二人で一緒にサッカーをしようと約束した事を。
「会いたいな……」
 ひろのは胸が微かに痛むのを感じた。雅史に会って話がしたい。そう思うと、いても立ってもいられなくなって、ひろのは着替えると朝食も早々に家を後にした。

 東鳩市から電車で二時間。雅史の帰省先だという、彼の母親の実家のある町は、山間の人口五千人ほどの町だった。来年あたり大合併で市になるらしいが、市という単語の似合わない場所である。
 その街の玄関口、駅の前でひろのは途方に暮れていた。
「家の場所が……わからない」
 そう。小さな街とはいえ、人口は五千人。軽く見積もっても千世帯はあるだろう。しかも、広い土地に家々が数十軒の集落に分かれて散らばっているような農業地域だ。そう簡単に尋ねて歩くのは無理である。
「なんていう家かもわからない」
 母親の実家と言う事は、結婚後に姓が変わっているはずだから、佐藤家ではないはずだ。まぁ、仮に佐藤家だったとしても、そんな全国で二番目にポピュラーな姓では、どの佐藤さんちか特定するだけで一苦労だろうが。
「えーと……ど、どうしたら……あ、そうだ、電話電話!」
 ひろのは携帯電話を取り出した。もちろん雅史の番号は登録してある。しかし、フリップを開いてみて、ひろのは固まった。
「うそ……電池切れ? じゃあ、じゃあ、コンビニで電池式充電器を……って、コンビニも無いの!?」
 首都圏から少し離れただけでも、本当にそういう田舎は実在する。鄙びた駅前よりも、幹線道路沿いまで出る方がコンビニやスーパーが見つかる可能性は高いのだが、土地鑑の無いひろのには、それは無理な話だった。それどころか、土地鑑以前の大問題を彼女は抱えていた。
 そう、思い出したのだ。自分がかなりの方向音痴だと言うことを。
「……はあ……バカだ、私」
 ひろのは溜息をついて、駅前のベンチに腰を下ろした。
「帰ろうかな……」
 そんな言葉が口を突いて出る。勢い込んで家を出てきたのは良いけど、思い切り迷走だった。それに、いくら彼女が雅史に会いたいと思っていても、向こうはどう思っているか。まだ会いたくないかもしれない。
「きっと、頭を冷やせっていう天の声なんだな……」
 もうお昼近いが、田舎の、それなりに標高のある土地の気温は低い。その寒さが身に沁みてきたせいか、後先考えない自分の暴走のせいか、思考がマイナス方向を向きがちになる。
「そうだよね……私は結局雅史を騙していたわけだし……昔の約束だって忘れてたんだし……嫌われてもしょうがないよね」
 気持ちがどんどん落ち込んでいく。が、その時、ひろのの耳はチリンチリンと言うベルの音を聞き取っていた。ふと顔を上げると、一台の自転車が駅に向かって走ってくるのが見えた。それに乗っているのは……
「え?」
 信じられない思いでひろのが立ち尽くすその前で、自転車は止まった。
「長瀬……さん」
「雅史……?」
 自転車に乗っていた人の呼びかけに、呆然とした面持ちで答えるひろの。そう、それは雅史だった。
「どうしてここに?」
 ひろのの言葉に、雅史は答えた。
「志保ちゃんから聞いたんだ。長瀬さんが……こっちへ向かったって」
 実際には、千尋がひろのが出かけた後に、娘が直面したような問題の存在に気付いて、志保を通じて雅史に連絡を取ったのである。
「そうなんだ……」
 頷くひろのに、雅史は問い掛けた。
「隣、座って良いかな」
「え? あ、う、うん」
 ひろのは身体をずらし、ベンチに空きを作った。雅史はひろのから微妙な距離を置いて、そこに腰掛けた。
「……」
「……」
 そして、流れる沈黙。お互いに、何と言って声を掛けていいのか判断がつかない。
「「あの」」
 沈黙に耐えかねてあげた、その声が重なった。それがまた一瞬の静けさを呼び、そして二人は同時に顔を赤らめた。
「な、長瀬さんからどうぞ」
「ううん。雅史から」
 そんな譲り合いを数回繰り返した後、思い切って話の口火を切ったのは、ひろのの方だった。
「雅史、子供の頃、よくサッカーをしたのを覚えてる?」
 雅史は頷いた。その表情に少し懐かしさが見える。ひろのは続けた。
「あの頃、二人でずっと一緒にサッカーをしようって、そう言ったよね。でも、私はそんな約束は忘れちゃって……」
 ひろのは昨夜の夢や、それに続いて思い出した子供の頃や、女の子になってしまった後の思い出を少しずつ思い起こしながら、話を続けていった。
「女の子になった後も、私はずっと雅史に嘘をついてた。私は雅史の事を知ってるのに、雅史には本当の自分を見せないで……それなのに、雅史の事を好きになって、それで自分の事も好きでいて欲しいなんて、都合の良い事を考えてた」
 自分を責めるひろのの言葉を、雅史はじっと聞いていた。
「だから、雅史が私のことを嫌いになっても、仕方が無いから……許してくれなくても、しょうがないって思うから……」
 そこまで言った時、不意に雅史が押し殺したような口調で言った。
「違うよ」
「え?」
 ひろのは言葉を止めて、雅史の顔を見た。
「違うんだ。僕は、長瀬さんの事を怒ってなんていないし……許さないなんて事も思ってない。僕が怒っているのは、許せないのは、僕自身なんだ」
 雅史の思わぬ言葉に、ひろのは驚いた表情で彼の顔を見つめつづけていた。そこには厳しい表情が浮かんでいる。
「初めて長瀬さんが転校してきた時から、僕は君のことが好きになったんだ。それからいろんな事件に巻き込まれたりもしたけど、気持ちは変わらなかった。何が起きても長瀬さんのためだと思えば平気だと思ってたし、何があっても君の事が好きだって思ってたよ。でも……」
 雅史はいったん言葉を切った。
「でも、一昨日長瀬さんが浩之だって聞いたときに、僕はすごく動揺したんだ」
 そこで、雅史はふぅ、と溜息をついた。
「それに気付いた時に……僕は自分の気持ちってその程度なのかって、そう思ってしまったんだ。何があろうと君が好きだと、そう思っていたのに、僕はその気持ちを自分で守れなかった。そうしたら、君の顔を見ている自分が許せなくなって、思わず逃げ出してたんだ」
 そこで、雅史は初めてひろのの顔を正面から見た。
「だから、僕の方こそ、君を好きでいる資格は無いって……」
「違うよ!」
 ひろのは叫んだ。
「だって、騙していたのは私なんだよ!? 雅史が自分を責める必要なんて無い!!」
「それこそ違うよ」
 雅史は静かに答えた。
「それを騙していたって言うなら、僕はそのことに感謝したいくらいだよ。あと5日考えてみるつもりだったけど、ここへ来て、長瀬さんを見て、やっぱりわかったよ」
 雅史は微笑んだ。
「僕は……一人の女の子としての長瀬ひろのさん、君が好きなんだ。例え、何者であってもね」
「ま、雅史……」
 ひろのの目に涙が溢れた。聞きたかった言葉。そして、もう聞けないと思ってた言葉。
「でも、二日前の僕は、それを通し切れなかった。こんな僕でも」
「許す」
 ひろのは雅史の言葉を断ち切るように言った。
「許す。許すよ、雅史。そんな事、全然気にしなくていいよ。悪いのは私だもの」
 その言葉に雅史は頷いた。
「じゃあ、僕も許す。君の隠し事も、嘘も全部……いいかな?」
「許すほうが許可を求めるのは変じゃないかな」
 ひろのが言うと、雅史は笑った。
「そうだね。じゃあ」
 そう言うなり、雅史はそれまで開いていた距離を詰めた。そして、ひろのを抱き寄せると……
 キスをした。
「ん……」
 一瞬驚いたひろのだったが、目を閉じて、それを受け入れる。二人はしばらく時が止まったみたいにそのままでいたが、やがてどちらからとも無く唇を離した。
「今のが、僕が君を許した証拠」
 その言葉に、ひろのは顔を赤らめた。
「雅史……なんだか、私の知ってる雅史とキャラが違う」
 そう言うと、雅史は笑った。
「そうだよ。長瀬さんはさっき僕のことを知ってたって言ったけど、まだ見たことが無い、長瀬さんの知らない僕だっているさ」
 それを聞いて、ひろのは微笑んだ。そして言った。
「そうなんだ。じゃあ、私の知らない雅史にも、私が雅史の事許してるって言う証拠をあげないとね」
「え?」
 ちょっと戸惑った表情を浮かべる雅史に、ひろのは言った。
「私の事、『ひろの』って呼んで。『長瀬さん』じゃなくて」
 雅史はそれを聞いて、ひろのをその名前で呼んでいるところを、頭の中でシミュレートしたらしい。顔が赤くすると、おずおずと許されたばかりの呼び方で恋人を呼んだ。
「え、えーと……ひろの」
「うん、雅史」
 ひろのは返事をしてから、くすくすと笑った。
「今のは私の知ってる雅史だったなぁ。変なの。キスまでしてきたくせに」
「え……はは、参ったな」
 雅史は頭を掻いた。そして、ひろののくすくす笑いにあわせて笑い始めた。その声はだんだん大きくなり、やがて二人はお互いを見ながら大声で笑っていた。
 やがてその笑い声が止まると、ひろのは雅史に言った。
「あのね、雅史。私、もう一つ、雅史に許してほしいことがあるの」
「え?」
 怪訝な顔になる雅史に、ひろのは続けた。
「昔の夢を忘れてた事。私はもう、雅史と一緒にサッカーは出来ないけど……その代わりに、雅史がサッカーで夢を叶える所を見ていたい。……ダメ?」
「ダメなもんか」
 雅史は即答した。
「ひろののために、特等席を用意するよ」
「うん、ありがとう」
 ひろのがそう礼を言った時、汽笛の音が聞こえた。見ると、電車がホームに滑り込もうとしている所だった。ひろのは立ちあがった。
「行くのかい?」
 問う雅史に、ひろのは頷いた。
「うん。明日から合宿だよね。頑張ってね」
 そう言うと、今度はひろののほうがかがみこんで、雅史にキスをした。さっきとは違って、ほんの一瞬だけの短いキスだ。
「これは、頑張れるおまじない」
 ひろのが言うと、雅史は照れた表情で頭を掻いた。
「今の、僕の知らないひろのだよ」
「ふふっ、そうだよ。私にも、雅史の知らない私がいるんだよ」
 改札をくぐりながら、ひろのは言った。
「見つけあおうね、お互いの知らない所を」
「ああ……そうだね!」
 雅史は手を振った。閉まりかけるドアに飛び込んで、振り返ったひろのも手を振り返す。電車が動き出し、雅史がそれを追って線路際を走り始める。最初は保たれていた距離が、電車の速度が上がるにしたがって、離れていく。そして、お互いの姿が見えなくなった。
 それでも、全然構わなかった。今日この時、二人の心は本当の意味で繋がれたのだから……

(つづく)


次回予告

 本当の意味で、恋人同士になったひろのと雅史。そんなひろのに、恋する乙女の決戦日がやってくる。しかし、ひろのにはあの大きな問題が覆い被さっていた。そんな悩める彼女に訪れた救世主とは……?
次回、十二人目の彼女 第四十五話
「甘い香りは危険な香り」
まったりとしてコクがあり、とにかく濃いお話です。


あとがき代わりの座談会 その44

作者(以下作)「……」
ひろの(以下ひ)「……」
作「とりあえずおめでとう」
ひ「……(赤面)」
作「ちょっと波乱があったけど、ある意味一つのテーマが決着した感じかな」
ひ「雅史との話?」
作「うむ。ここまで来るのに長かったなぁ」
ひ「きっかけが出来たのが、二十八話の時だもんね……」
作「まぁ、落ち着く所に落ち着いたと言うか」
ひ「(照れ)」
作「が、安心するのはまだ早い」
ひ「え?」
作「だってお前、相手は綾香とか琴音だぞ。あの連中の特技と言えば」
ひ「え、えーと……デュエル?」
作「略奪愛」
ひ「……も、もう少し言い方というものが」
作「いや、ここで言葉飾ってもしょうがないし」
ひ「うう〜」
作「まぁ、がんばれ」
ひ「う、うん。負けない」

収録:田舎駅前ロータリー


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