このお話は、すっかりかわいらしくなった一人の女の子と、すっかり骨抜きにされてしまった彼女の友人知人たちの織り成す物語です。

To Heart Outside Story

12人目の彼女

第四十二話「父母帰る」



 12月30日、年の瀬も押し迫ったこの日、JR東鳩駅に一組の男女が降り立った。その組み合わせを見れば、誰もが一つの単語を思い起こしたことだろう。
 美女と野獣――と。
「この街もずいぶん久々だなぁ、お前」
 野獣…熊のような大男が言った。身の丈は2メートル近く、鋼を削りだして作ったような、恐ろしく屈強な男で、声にも地を震わせるような響きがある。
「そうですね、あなた」
 美女…女性が応じた。どうやら二人は夫婦であるらしい。夫とは対照的な、おっとりとした雰囲気を持っていて、しゃべり方も優しい。
「さぁ、バカ息子の面を拝みに行こうじゃないか。少しは成長していると良いがな」
「まぁ、あなたったら」
 妻がくすくすと笑いながら、夫の後に続く。二人は駅を出ると商店街を抜け、公園を通り、住宅街に入ると、一軒の家の前で立ち止まった。その家の表札には「藤田」と書かれている。
 この二人こそ、長瀬ひろのこと、藤田浩之の両親である。父の名は浩明、母は千尋と言う。家の鍵を出そう とする千尋を、浩明が制した。
「まぁ待て。せっかく予告より前に帰ってきたんだ。驚く顔を見てやろう」
 そう言うと、浩明はインターホンを鳴らした。柔らかな電子音が鳴り響く。
 しかし、返事がない。夫はもう一回インターホンを鳴らした。
 これも、返事がない。
「なんだ、留守か?」
「そうみたいですね。じゃあ、中で帰ってくるのを待ちましょう」
 千尋が鍵を差し込もうとした時、驚いたような声が隣家…神岸家の方から聞こえてきた。
「ひ、浩明さんに千尋ちゃん?」
「あ、ひかりちゃん、ただいま」
 千尋がにっこりと微笑む。
「ひかりちゃんか。うちのバカ息子が迷惑をかけてないかね?」
 浩明もいかつい顔をほころばせた。しかし、相手…あかりの母親であるひかりにとっては、二人の帰還は青天の霹靂だった。なにしろ、帰ってくるのは明日のはずだったのだ。
「そ、そんな事は無いけど…」
 ひかりは首を横に振った。しかし、困った事になったと思う。浩之がひろのになってしまった事を、彼女は この二人に告げていないのだ。それどころか、浩之が形式上病院に入院した事になっていることも、やはり教えていない。
 そして、両親が帰ってくることを知ったひろのは、善後策を協議すべく事の張本人である芹香と相談しているが、まだ有効な手は何も思いついていないそうである。
「そうか、ところで、浩之はどこかに出かけているようなんだが、どこへ行ったか知らないか?」
 動揺しているひかりに追い討ちをかけるように、浩明が言う。
「え? ええ? し、知らないわよ?」
 ひかりがうろたえまくった声で言うと、藤田夫妻は不審げな表情になった。神岸夫妻とはもう数十年に及ぶ付き合いがあるだけに、ひかりのうろたえぶりを見逃しはしなかった。
「どうしたんだ、ひかりちゃん?」
「何か隠してる事があるなら、素直に言ってちょうだい」
 浩明と千尋に詰め寄られ、ひかりは一歩後ろに下がった。その身体を優しく受け止めた人物がいた。
「やあ、浩明に千尋ちゃん。帰ってたのか」
 あかりの父でひかりの夫、灯司(とうじ)だった。浩明とは親友同士だが、身体の方は対照的な細身で、性格ものんびりとしたものだ。血の繋がりはないが、雅史が二十年ほど歳を取ったら、灯司のようになるかもしれない、と思わせる人物である。
「おお、灯司か。久しぶりだな」
 浩明は豪快な笑顔を見せたが、すぐに真面目な表情に戻った。
「灯司、浩之はどうしたんだ? 知らないか?」
 巨体をいからせて迫り来る浩明に、灯司は困ったような表情になった。
「うーん…その、なんと言うか」
 何しろ事情が事情である。親友の息子が娘になってしまったなどとは、とても言えたものではない。灯司が言葉に詰まっていると、突然浩明が顔を赤くして吼えた。
「そこまで言えない事なのか? まさか、あの馬鹿何か悪事を働いたんじゃないだろうな!?」
「「え??」」
 神岸夫妻がほぼ同時に間抜けな声を上げた。それほど浩明の推測は的外れだった。まぁ、正解に辿り付く方がおかしいと思うが…
「あの馬鹿め、世間に迷惑をかけるなとあれほど言ったのに、無様な真似をしでかしおって! 一発…いや、五発でも十発でも殴ってやる!!」
 叫ぶなり、浩明は久々に帰った我が家を放り出して、いずこかへ爆走を開始した。
「あ、おい、浩明! …どこへ行く気なんだ? あいつ」
「思い込みの強さは相変わらずなのね…」
 神岸夫妻がその姿を呆れながら見送ると、その視界を遮るように、すっと千尋が現れた。
「まぁ、お腹が空いたら帰ってくるわよ。それより…」
「私には本当の事、話してくれない?」
 灯司とひかりは顔を見合わせた。そして、アイコンタクトで意思を確認しあう。いずれにせよ、藤田夫妻が帰ってきた以上、全てを隠しおおせるのは無理と言うものだ。それに、ひろのはあの混乱振りから見て、冷静に両親に事情を説明できるとは思えない。
 それなら、冷静で人の話もじっくり聞く千尋に事情を説明して、浩明へは彼女から説明してもらう方が、わかりやすいと言うものだろう。覚悟を決めた神岸夫妻は、ひかりが代表して事情を説明し始めた。
「実は…」

 その頃、長瀬邸ではひろのとあかり、それに芹香の3人が、難しい顔つきで向かい合っていた。
「どうしよう」
「どうしようね」
「……」
 そして、三人揃ってため息をつく。朝からもうずっとこの繰り返しで、何ら具体的な対策は生まれていない。
「他の人ならそれほど困らないんだけど…」
「ひろのちゃんのお父さんだもんね」
 ひろのの言葉に相槌を打つあかり。芹香が不思議そうに尋ねる。
「……」
「え? お父さんはどう言う人ですか…? ですか?」
 こくこくと芹香が頷く。ひろのはまた一つため息をついて答えた。
「一言で言うと、男の中の男…って感じかな?」
 良くわからなかったらしく、芹香が小首を傾げる。ひろのもちょっと不親切な説明だったな、とおもって、さらに言葉を続けた。
「熊みたいに大きい人で…力も強いし、喧嘩も強いし、でも男はむやみに力をひけらかすべからず、と言うのが持論なんだ。あと、男は女の子を守らなくちゃいけない、とか、男は弱いもののために戦わなくてはならない、とか、『男は何々でなくてはならない』って言う決まりごとをいっぱい自分の中に持ってて、それを実践してる人なんだよ」
 ひろのがそこまで言うと、あかりが昔の事を思い出して言った。
「浩之ちゃんも、そのルールを叩き込まれてたよね。浩之ちゃんがわたしの事をからかって、それで泣いたりすると、おじさんが容赦なく浩之ちゃんにお仕置きをしてたっけ…」
「う…あかり、思い出させないでよ」
 ひろのが恐怖で身体を震わせた。どうやら、思い出したくない恐怖の記憶がそこにはあるらしい。その話を聞いて、芹香はある可能性に気が付いた。
「……」
「え? それなら、今の私をお父さんが見たら…ですか? それを考えると正直怖いです…」
 ひろのが両親に自分の事を打ち明けられない理由…それは父、浩明の存在にある。息子を男の中の男に鍛え上げようとしてきた父が、娘になってしまった我が子を見た時、一体どんな事になるのか、見当すらつかない。
「まして、今のひろのちゃんは、誰から見てもかわいい女の子だし」
 あかりも頷く。浩明の過激極まりない教育方針を脇で見ていた彼女としては、ひろのが同じ目に合わされる光景は決して見たくない。女の子に手を上げないと言う浩明のポリシーから言えば、心配ない可能性もあるのだが…
「……」
「え? お母さんはどうですか…ですか? 母さんは父さんに比べればずっとおとなしい人だけど」
 ひろのは母親の事を思い出す。豪快と言う字を擬人化したような父親とは違い、大人しくて優しい性格の母だが、ある意味では父親よりも凶悪な一面がある。
「母さんも、結構こうと決めたら絶対に考えを譲らないところがあるし、うまく味方につけられれば、父さんを説得する助けにならないかな…」
 あとは、万が一父親が暴れだした時の対処だ。昔の男の頃ならともかく、今の身体で父親の暴走に巻き込まれたら、間違いなく死んでしまう。
「事情を説明する事になったら、おじいちゃんにも同席してもらった方が良いな。先輩、おじいちゃんは明日いるかな?」
 芹香はこくこくと首を縦に振る。セバスチャンは今日は主君である厳彦氏が病院に定期検診に行く、と言うことで、それに同行している。もし両親が帰ってくるのが今日だったら、安心して父親と向かいあえないところだった。
「ひろのちゃん、やっぱりちゃんと話すの?」
 あかりの言葉に、ひろのは首を縦に振った。
「うん。やっぱり、私は二人の子供だからね。それに、父さんには『男は逃げてはならない』って教えられたし…今の私は女の子だけど、父さんに教えられたことは大事にしたいから」
 ひろのは決心した。雅史とキスまでして、彼の想い、自分の想いを大事にすると決めた以上、両親からも逃げるわけにはいかない。しっかりと話して、そしてわかってもらう。
「そうだね。それが良いよ」
 あかりも頷いた。
「……」
 芹香も、ひろのがこうなってしまった責任は自分にあるのだから、しっかりとひろのの両親に事情を話して、そして許してもらうと言った。
「それで…」
 芹香の言葉に頷いた後で、ひろのが決意を込めた口調で切り出した。
「父さんと母さんに話して、わかってもらおうと思うんだ。女の子として生きていくって事を…」
 あかりはやっぱり、と言う表情だったが、芹香は驚いた顔でひろのを見た。
「うん、先輩には本当に悪いと思ってる。私を元に戻そうとしていろいろやってたのは知ってるから。でも、その…」
 ひろのはそこで一瞬ためらったが、その次の決定的な一言を口にした。
「好きな人が…できたから…」
 最後は顔が真っ赤になっていた。
「……」
「え? 私もそんな人が欲しい…ですか? 先輩ならきっとできるよ」
 芹香の言葉に、ひろのはにっこり笑って答えた。芹香はほんの少しさびしそうに笑うと、部屋を出た。廊下でため息をつく芹香の背後から、あかりが声をかけてきた。
「来栖川先輩…先輩、好きだったんですね。ひろのちゃん…ううん、浩之ちゃんの事」
 芹香は顔を赤くして振り返り、あかりを睨んだ。しかし、あかりの顔にも自分と同じようなさびしそうな表情が浮かんでいるのを見て、図星を突かれた恥ずかしさと怒りがたちまち霧消するのを感じた。
「わかるんですよ…わたしもそうですから。でも、しょうがないですよ。相手が雅史ちゃんなら、わたし我慢できます。雅史ちゃんは…いい人だから。きっとひろのちゃんを大事にしてくれるから」
 言いながら、あかりの目から涙がじわっと溢れる。芹香は自分の抱いていた、好奇心で部室に遊びにきていた少年へのほのかな想いより、十数年もずっと隣でその少年を見続けてきたあかりの想いの方が、ずっと強く、そして懐も深い事に気がついた。
 もしあの時、自分が魔法を間違えていなかったら、あかりは浩之と結ばれていたかもしれない。そう思うと、なんだか申し訳ない気持ちになって、芹香はあかりの事をしっかり抱きしめていた。
「……」
「え? ごめんなさい? 先輩が謝る事なんてないですよ」
 あかりはそう言って芹香を慰めた。その時、電話が鳴り始め、二人は慌てて離れた。見ると、廊下の電話機が鳴っている。近づくより早く、どこかで電話を取ったのか、着信音は止んだ。どうやら外線だったらしい。
 その事はすぐに忘れ、ともかくひろのが両親に話すことを決めたからには、いっしょに立ち会う身として、どんなことを決めておいたら良いか、今のうちにひろのと相談しようと思い、二人は部屋に戻ろうとした。その瞬間、部屋のドアが豪快に開き、血相を変えたひろのが飛び出してきた。
「ど、どうしたの?」
「…?」
 戸惑ったあかりと芹香だったが、ひろのが事情を話すにつれ、非常に危険な事態が訪れた事を悟った。今や、二人もひろのと同じか、それ以上に蒼い顔になっていた。

 時間はやや遡る。息子を探して東鳩市内を暴走中の浩明の携帯電話に着信があった。メロディが専用のため、すぐに妻千尋からのものだとわかる。浩明は携帯電話を開いて通話ボタンを押した。
『もしもし? あなた?』
「おお、千尋、どうした?」
 浩明が聞くと、千尋は神岸夫妻から聞いた話をはじめた。
『あのね、浩之は病気で来栖川先進メディカルセンターに入院してるって言う話なんだけど…』
「何ィ! 病気で入院!? 来栖川先進メディカルセンターだな? わかった!!」
 携帯電話が限界以上の音量を叩きつけられ、煙を上げて機能を停止する。構う事無く携帯をポケットに仕舞いこんだ浩明は、一気に加速して来栖川先進メディカルセンターめがけて爆走を開始した。
「病気で入院だと、あの軟弱者め! 俺はお前をそんな風に育てた覚えはないぞ。 ベッドから引きずり出して鍛え直してくれる!!」

 一方、藤田・神岸邸の前では、千尋が話を続けていた。
「それはうそで、本当のところは、女の子に…あなた? もしもし、あなたー?」
 千尋は電話が切れていることに気が付いた。掛け直しても繋がらない。
「なんか、途中で切れちゃったわ」
 落ち着いて言う千尋に対し、灯司とひかりは蒼い顔で言った。
「いや、それ拙いんじゃないか?」
「浩明さん、絶対誤解してるわよ」
 親友たちの言葉に、千尋はまるで状況が理解できていないかのように、緊迫感のない声で答えた。
「そうね、あの人早とちりな所があるし…探して止めに行った方が良いわね」
 灯司は頷いた。
「よし、うちの車を使おう。ひかりはひろのちゃんに電話してくれ」
 彼がそう提案すると、千尋は楽しそうに頷いた。
「ひろの…それがあの子の今の名前なのね、早く会ってみたいわ」
「それどころじゃないわ、早くしないと!」
 一向にエンジンのかからない千尋を急かしつつ、ひかりは自分の携帯電話を取り出した。
 
 来栖川先進メディカルセンター。それは東鳩市最大の総合病院である。広大な敷地には高度救急救命センターからガン専門病棟まで十数棟の建物が連なっている。メイドロボットの技術を応用したサイバネティックス医療に関しては文字通り世界のトップをひた走る施設でもあり、東鳩市のみならず、世界中から患者がやってくる。
 セバスチャンはその特別待合室でテレビを見ながら主の帰りを待っていた。退屈な番組しかやっていないが、彼にとって、厳彦氏が用事を済ませている間に待つのは仕事の一部であり、もう慣れっこである。
「そろそろ終わりかの」
 腕時計を見てセバスチャンは呟いた。厳彦氏の定期健康診断が始まってから、もう2時間ほど経つ。しかし、普段なら、こうして時間を気にすることなど無い。
(早く終わってくれんものかのう…何か嫌な予感がしよるわ)
 セバスチャンの鍛え上げられた武闘家としての第六感が、この病院に迫り来る何かの気配を感じ取っていた。それが脅威であれば、主に危険が及ぶ前に、ここを離れなければならない。
 しかし、厳彦氏が戻ってくる前に、彼の研ぎ澄まされた五感は、遠くで起こった何かの破砕音を聞き取っていた。同時に響き渡る怒鳴り声と悲鳴。その中に封印しておかねばならないキーワードが混じっている。それを明らかにされては、彼は大事な掌中の至宝を失ってしまう。セバスチャンは立ち上がった。
「大旦那様、私は行かねばなりませぬ。しばしお待ちください」
 主のいる特別診察室に一礼し、セバスチャンは廊下に飛び出すと、迫り来る脅威めがけて走り始めた。

 その頃、病院のロビーでは混乱が起きていた。
「だから、藤田浩之の病室を教えろと言っているんだ!」
 窓ガラスがびりびりと震えるほどの雷声で怒鳴りつける、身長2メートル近い大男…浩明の迫力に、カウンターの事務員の男性は恐怖でガタガタと震えていた。何しろ、いきなりカウンターにやってきたかと思うと、とんでもない大声で「藤田浩之の病室はどこだ!?」である。冷静に応対できるはずが無い。
 それでも、震える指で何度かタイプミスをしつつ、彼は「フジタヒロユキ」の名を端末に打ち込んで、検索を掛けた。画面が切り替わり「検索中」の文字が出る。その間に、警備室に通じる非常ボタンを押した。それと同時に検索が終わる。幸い、「フジタヒロユキ」と言う人物は、この病院には一人しか入院していなかった。しかし、その名前の下には特記条項がいくつか付けられていた。
「お、お探しの方は面会謝絶の状態です。お、お、お引き取りください」
 事務員が勇気を振り絞って言うと、一瞬浩明は呆然とした表情になったが、すぐにより一層顔を赤くし、迫力を増して事務員に迫った。
「面会謝絶だと!? 私は浩之の父親だ!! 今すぐに息子に会わせろ!!」
 父親だったのか、と事務員は意外に思った。てっきり、抗争相手を殺しに来たヤクザか何かかと思ってしまったのだ。彼はさっきの警報を取り消そうとしたが、その前に二人の警備員がロビーに現れた。彼らはすぐに浩明を不審人物と判断したらしく、まっすぐにカウンターに近づいてきた。
「もしもし、あなた」
 警備員に声をかけられ、浩明は「あん?」と不機嫌そうな声を出しつつ振り向いた。
「他の患者さんに迷惑ですよ。ちょっとゆっくり話を聞かせていただけませんか?」
 ここで浩明がもう少し冷静な心理状態だったら、誤解は無かったかもしれない。しかし、あからさまに不審人物を見る視線を向けてくる警備員たちに、浩明は怒りを沸騰させた。
「何だと? 父親が息子に会いに来て、なにが迷惑だ!!」
 怒髪天を突く様子の浩明に、説得の無益を悟った警備員が素早く散開し、対暴漢用スタンロッドに手をかける。数万ボルトの電流を流して相手を失神に追い込む強力な武器だ。しかし、それを彼らが振りかざした時、浩明がその豪腕を振るった。
「ふんっ!」
「うわあっ!?」
 浩明の一撃は大きく宙を薙いだだけだったが、それは突風を生み出し、警備員たちの動きを拘束した。次の瞬間、引き戻された腕が稲妻のように繰り出され、警備員たちを立て続けに吹き飛ばした。
「ぐわっ!?」
「ぎゃあ!!」
 窓ガラスを突き破って飛んでいく二人。事務員は「ひいっ!?」と言う悲鳴を上げて床にへたり込んだ。
「ふん、邪魔をしおって」
 あっさり警備員を蹴散らした浩明が事務員に向き直ると、先ほどよりは穏やかだが、やはり地鳴りのような声で言った。
「で、藤田浩之の病室を教えてもらいたいのだが」
「と、と、と、特別病棟の…さ、三号集中治療室…です」
 事務員はあっさり答えた。特記事項には「絶対面会謝絶」「家族も不許可」などと並んでいたのだが、彼も人の子。命は惜しい。
「そうか、ありがとう」
 浩明はそう言うと、ズカズカと廊下を歩み去っていく。その背後で、緊張の糸が切れた事務員は放心状態になっており、髪の毛は白く燃え尽きていた。

 ロビーで警備員の儚い抵抗が敗れ去った事を感じ取ったセバスチャンは、さらに足を速めて廊下を進んで行った。そして、ついに彼らは遭遇した。そこは、受付棟とその他の病棟を結ぶ、長大な渡り廊下の途中、中庭に面した場所だった。セバスチャンと藤田浩明。一騎当千どころか万夫不当の実力を持つ二人の漢が、真っ向から対峙する。
「お主…」
 セバスチャンが言った。
「藤田浩之の…知り合いか?」
「父だ」
 浩明が答える。
「ご老人こそ、なぜうちの馬鹿息子の名を知っているのかね?」
「そのような事はどうでも良い」
 セバスチャンは浩明の質問を流し、構えを取った。
「だが、お主が藤田浩之の関係者とあらば、この先に進ませるわけには行かぬ」
「なに…何故だ?」
 浩明も戦闘態勢を取った。じりじりと間合いを詰めていく。
「ワシの幸せな生活のため…と言っておこう」
 セバスチャンはそうとだけ答えると、やはり間合いを詰めていく。二人の「気」が膨れ上がり、目には見えない障壁を作り出す。中庭から風で飛んできた落ち葉が、それに触れた瞬間空中で四散した。
 それが合図になったように、二人は同時に拳を繰り出した。戦車の正面装甲をも粉砕するパワーを秘めた拳が激突し、強烈な衝撃波を発生させ、渡り廊下の屋根と壁は十メートル四方に渡って消し飛んだ。
「ぬぅ!?」
「やるな!?」
 お互い最初の一撃を防がれると思っていなかっただけに、二人は一時間合いを取り直した。しかし、すぐに再度射程圏内に踏み込んで、猛烈なラッシュを浴びせる。拳、手刀、蹴りが猛速で飛び交い、まるで千手観音同士が殴り合いを演じているかのような光景が展開される。
 二人のパワーは互角だった。いや、若い分浩明の方が上回っていたかもしれない。しかし、経験という点ではセバスチャンの方が上回っていた。彼の巧妙なフェイントに引っかかって浩明がガードを下げた瞬間、セバスチャンは強烈な一撃を浩明の腹部に叩き込んだ。
「ぐわっ!?」
 ダンプカーとトレーラーが正面衝突したような轟音を上げ、浩明の巨体が吹き飛ぶ。渡り廊下の壁に激突した彼は、その身体で雪を押しのけるラッセル車のように壁を削り取りながら飛び、貫通して中庭に出ると、そこの立ち木を数本折ってからようやく止まった。地面に倒れたその体の上に、今折ったばかりの巨木がまとめて倒れかかり、下敷きにして行く。
「むぅ…手強い漢であった」
 セバスチャンが呟いた瞬間、めきめきと言う音を立てて、巨木が持ち上がった。
「なんと!?」
 セバスチャンは驚愕した。下敷きになったはずの浩明が、片腕一本で木を持ち上げていたのである。
「俺を過去形で語るのは、心臓の鼓動が停止したのを確認してからにしてもらおうか、ご老人!」
 浩明はそう吼えると、セバスチャンめがけて巨木を投げつけた。
「ぬぅっ!」
 それをジャンプ一番回避するセバスチャン。しかし、第二の巨木がまるで対空ミサイルのように空中の彼に襲い掛かってくる。空中では回避しようの無い攻撃だ。しかし。
「ぬおおおおおぉぉぉぉぉぉっっ!!」
 セバスチャンの足に強烈な「気」が集中する。その足で何も無い虚空を蹴りつけると、物理法則に反して、彼の身体は空中で静止した。そのまま、虚空を足場に手刀を木に叩きつける。
 まるで、チェーンソーで木を切るような音と共に、巨木は幹に沿って真っ二つに切り裂かれていた。セバスチャンの体の左右を、切り裂かれた木が飛んでいき、病棟の上にある時計台を直撃。それは破裂するようにして消し飛んだ。
「む?」
 木の攻撃をしのいだセバスチャンだったが、地上に浩明の姿がない事に気が付いた。しまった、と思った瞬間、それは頭上から襲ってきた。
「だりゃあああ!!」
 木を隠れ蓑に上空高く飛んでいた浩明が、セバスチャンの顔面にスチーム・ハンマーのような豪快なドロップ・キックをめり込ませた。ものも言わずに吹き飛んだセバスチャンの体が、腰を軸に回転しながら病棟の壁に叩きつけられる。そのまま壁を発泡スチロールか何かのように突き破り、衝撃波で室内を引っ掻き回しつつ、反対側の壁をぶち破っていった。
「よし、今のうちだ」
 浩明は着地すると、ばらばらと降ってくる瓦礫の雨を潜って前進を再開した。セバスチャンがなにを思って戦いを挑んできたのかは、彼も気にならないわけではない。しかし、今は早く浩之を連れて家に帰る、と言うことが最優先になっている。
 ところが、そんな彼の前進を阻んだのが、セバスチャンが激突した病棟から避難して来る医者と患者の大群だった。二百人ほどの人の群れが押し寄せ、さすがの彼も足を止める。その人の波が過ぎ去ったあとに、再びセバスチャンは立っていた。
「頑丈な爺様だ…」
 呆れたように言う浩明に、セバスチャンがこきこきと首を鳴らす。
「ふ、今のはさすがのワシにも効いたわ。こんな良い打撃を貰ったのは、あの時のひろの以来…血は争えぬ、と言うことか」
 数ヶ月前、ひろのが間違って「セイカクハンテンダケ」で出来た薬を飲み、暴走した事件があった。その時の彼女は、セバスチャンを一撃でKOする、と言う離れ業を演じた。セバスチャンが油断して完全ノーガードだった時の事とは言え、信じがたい威力の打撃だった。
 それも、ひろの(浩之)の血統上の父親である浩明を見れば、納得が行くと言うものである。顔は全然似ていないようだが…
「ちっ、しょうがないな。本気を出させてもらうぞ、ご老人」
 しかし、浩明の方にはセバスチャンの言葉の意味はわからない。そう言うと、全身の筋肉に力を込めた。その瞬間、異音と共に上半身の服が引き裂かれ、布屑と化して飛び散った。
「ほう、面白い芸をするな」
 セバスチャンはそう言ってにやりと笑うと、同じく全身の筋肉に力を入れる。パリっとした糊の効いたタキシードがばらばらになって吹き飛ぶ。その強靭な肉体は、とても老人のものとは思えない。
「…爺さん、あんた化け物か?」
 あきれ返る浩明に、セバスチャンは一分の隙も無い構えを持って応じる。
「礼に、ワシも本気を出そうぞ。来るが良い」
「…ふん」
 浩明も体制を整える。そして、気合と共にダッシュを掛けた。第2ラウンドの始まりだった。

 ひろの、あかり、芹香が真帆の車で病院に辿り付いた時、そこは既に大騒ぎになっていた。避難して来た患者や医師、看護師たちが前庭を埋めている。その向こう、中庭の方では猛烈な打撃音が響き渡り、地鳴りまで起きていた。時折閃光も走っている。そこで戦争でもやっているとしか思えない有様だった。
「ああ、もう始まっちゃってるよ〜」
 ひろのは頭を抱えたくなった。あの暴走父と暴走祖父が一つ所に揃ったのだ。何も無いはずが無いとは思っていたが、その予想は最悪の形で的中してしまっていた。
「とにかく、二人を止めなきゃ。あかり、先輩、行くよ」
「う、うん」
「……はい」
 芹香も珍しく大きな声で返事をし、3人の少女は人ごみをかき分けて中庭の方へ向かった。半ば崩れ落ちた病棟の脇を何とか通り抜けて中庭の見える場所まで行くと、そこはうす黄色い土煙が濛々とたちこめ、5メートル先も見えないほどの視界の悪さだった。先ほどまで響いていた打撃音は今は聞こえない。
「父さんとおじいちゃんはどこにいるんだろう…」
 迂闊にその中に踏み込んでいくわけにも行かず、ひろのが煙の向こうをすかし見てみようとしたその時、突然ひろのたちは全身を何かではたかれたような衝撃を受け、地面に突き飛ばされた。
「きゃっ!?」
「あうっ!」
 3人はごろごろと草の上を転がっていき、さっきまで立っていた所から5メートルほどさがった場所で、ようやく止まった。
「いたた…な、何?」
 ひろのがまだくらくらする頭をさすりながら上半身を起こしてみると、そこに見える光景は一変していた。
 あれほど立ち込めていた土煙はきれいに消え去っていた。どうやら、ひろのたちを襲った衝撃波によって、残らず吹き散らされてしまったらしい。おかげで中庭が良く見渡せるが、そこに見える光景はまるで月世界のようだった。
 表面の芝や草が吹き飛ばされ、土が剥き出しになった地面には、クレーターのような穴がいくつも開いている。中庭に面した病棟の壁はひびと穴だらけで窓ガラスも全部割れており、まるで爆撃でも受けたようだ。その荒野の中心部に、二人の男が立っていた。二人とも傷だらけで、荒い息を吐いているが、闘志は衰えていない。
「父さ…」
 ひろのが呼びかけようとしたその瞬間、二人が動いた。セバスチャンの右フックが浩明の頬に炸裂するが、浩明も怯む事無く、強烈な膝蹴りをセバスチャンの脇腹にめり込ませる。最初の一撃を交換した二人は、今度はラッシュ合戦に突入する。綾香やあかりが良くやっているそれを見慣れて、かなりのスピードに目が追いつくようになっていたひろのにも、それは今まで見た事も無い未知の領域の攻防だった。二人の動きが巻き起こす風に土煙が舞い上げられ、黄色いもやが視界を覆っていく。
 あっけに取られるひろのの目の前で、果てしない攻防が続いた。そして、相手の呼吸を読みきったように、二人は同時に大技の構えを取ると、豪拳を繰り出した。それが激突し、生まれた衝撃波が土煙を吹き払う。ひろのはさっき何が起きたかを理解した。この二人、延々とこんな攻防を続けているらしい。
「ふ、不毛な…」
 ひろのは半ば呆れたが、そう言ってばかりもいられない。なんとか二人を止めなくてはならないが、この状態では、二人に近づく事か、声をかけるのすら危ない。今も衝撃波が断続的に襲ってくるのだ。三人は十分離れた木の陰に隠れ、成り行きを見守るしかなくなってしまった。
「ひ、ひろのちゃんのお父さんって、本当にすごかったんだね…」
 セバスチャンと互角に渡り合う浩明に、あかりが目をぱちくりさせる。幼い頃から彼を良く知るあかりも、こう言う姿を見るのは初めてだから無理も無い。
「いや、私もここまでとは知らなかったんだけどね」
 ひろのはそう答えた。建設技術者の父が、現場で巨大な鉄骨を軽々と持ち上げ、「ジャッキいらずの藤田」とか言われているのを見て、只者でない事は知っていたのだが…
 その時、ひときわ激しい衝撃波が来たかと思うと、突如として静寂が訪れた。ひろのは木の陰からそっと二人の様子をうかがってみた。
 すると、浩明とセバスチャンは両手を組んで力比べの真っ最中だった。顔は鬼のように真っ赤になり、鋼の筋肉が限界まで盛り上がった腕には、今にも切れそうなくらい血管が浮き上がっている。その有様はまさに千日戦争(サウザンドウォーズ)だ。
(今なら、割って入れる!)
 そう思ったひろのは、二人を止めるべく、木の陰から飛び出した。
「父さん、おじいちゃん!」
 ひろのは走りながら呼びかけた。しかし、その声が均衡状態に終止符を打つ事になった。
「ひ、ひろの!?」
 思わぬ人物の介入に驚いたセバスチャンが、一瞬腕の力を緩めた。浩明はその隙を見逃さなかった。
「うりゃあ!」
「ぬお、しまった!!」
 気合と共に、浩明がセバスチャンの巨体を持ち上げると、その場で大回転をはじめた。ジャイアント・スイングだ。しかもそのスピードは半端ではない。回転に空気が吸い込まれ、時ならぬつむじ風が巻き起こる。
「きゃっ!?」
「ひろのちゃん、危ない!!」
 後を追ってきたあかりが吸い込まれかけたひろのを掴み、さっきの木の陰に引っ張り込む。その向こうで、浩明はセバスチャンの身体を遂に放り投げた。つむじ風を巻いて飛んだセバスチャンの身体は既に半壊している病棟に再び叩きつけられ、限界を迎えた病棟は轟音と共に完全に倒壊した。セバスチャンの体が降り注ぐ瓦礫の下に消えていく。
「おじいちゃん! おじいちゃーん!!」
 まだ収まらない埃の雲の中に飛び込もうとしたひろのを、後ろから引き止めた人物がいた。浩明だった。
「今は行ってはいかん。コンクリートの埃は身体に良くない」
「そ、そういう問題じゃ…」
 ひろのが思わずツッコミを入れると、ようやく収まった倒壊の現場を見ながら浩明は聞いた。
「今の人は、君のおじいさんかね?」
 頷くひろの。
「そうか…手強い人だった。あの程度で死にはしない。君は助けを呼びに行くんだ」
 そう言うと、浩明は走り始めた。
「あ、ちょっと、どこへ!?」
 ひろのが聞くと、浩明は瓦礫の山を飛び越えながら叫んだ。
「特別病棟へ! そこで息子が待っているのだ!!」
「待ってないって! 人の話を聞いてよ、父さん!」
 ひろのは言い返したが、その時既に浩明は瓦礫の向こうだった。
「あああ、ど、どうしよう…父さんを追いかけ…でも、おじいちゃんも放って置けないし」
 懊悩するひろの。その時、彼女に優しく声をかける人物がいた。
「まぁ、まぁまぁ、あなたが浩之?」
「え?」
 ひろのが顔を上げると、立ち込める埃の向こうから、一人の女性が姿を現した。
「か、母さん…?」
 ひろのは固まった。何ヶ月ぶりかに会う母親―千尋は、優しい微笑を浮かべてひろのを見ていた。
「あ、今はひろの、って言う名前だったわね。確かに私たちの子ね。若い頃の私そっくりだわ」
 平然と言う千尋に、ひろのは違和感を覚えて尋ねた。
「な、なんで母さんが私の事知ってるの?」
 両親にはまだ自分の事は話してないはず、と思ったひろのに、千尋の後ろから出てきた灯司とひかりが申し訳なさそうに言った。
「いや、隠し切れなくてね…千尋ちゃんには全部話してしまったんだよ」
「浩明さんには説明が間に合わなかったけど…」
「そう言う事なの」
 にっこり笑う千尋に、ひろのはがっくりと膝を地面についた。
「おじさん、ひかりさん…ひどいよ。ちゃんと自分で言おうと思ってたのに」
 せっかく決めた覚悟が無駄になってしまった。そんな彼女の頭を、千尋が優しく抱きしめる。
「ひどいのはひろのの方よ。こんな大事な事をちゃんと私たちに言わないなんて。息子が娘になったくらいで、子供を見捨てるような親だとでも思ってたの?」
「…ごめんなさい」
 優しい中にも厳しいものを含んだ千尋の言葉に、ひろのは素直に謝った。
「まぁ、その事はあとで話すとして…まずは父さんを止めないとね」
 ひろのを抱いていた腕を解いて千尋は言った。ひろのも立ち上がって頷く。そこへ、芹香が出てきて言った。
「……」
「え? おじいちゃんの事は任せてください…ですか? わかりました。お願いします、先輩」
 こくこくと芹香は頷き、あかりに話し掛けた。
「え、お手伝い…ですか? わかりました」
 あかりは頷くと、芹香の指示に従って、地面に石を並べ始めた。何かの魔法陣を描いているらしい。集中を乱さないように一行は二人から離れ、特別病棟へのルートを探し始めた。

「第三集中治療室…第三集中治療室…と、あった。これか」
 特別病棟への侵入を果たした浩明は、目的の病室を探し当てていた。ドアには「面会謝絶」の札が掛けられ、しっかり施錠もされていたが、浩明はそんなものは目にも入らないし、気にも止めないと言うように、ドアを力任せに引き開けた。
「浩之! 起きろ!!」
 怒鳴りながら踏み込んだ浩明だったが、様子がおかしい事に気が付き、室内を見回した。
 そこは空室としか思えない状態だった。ベッドには誰も寝ておらず、数々の医療器具も、使われている形跡は無い。
「む…部屋間違えたか?」
 浩明は廊下に出ると、もう一度部屋番号を確認した。「第三集中治療室」と書いてある。
「…良いんだよな。 むむむ…?」
 浩明は首を傾げ、試しに他の部屋も見てみた。隣の第二と第五(病院だから第四は無い)集中治療室を開けたが、そこにも人はいなかった。使われていた形跡はあるのだが、既に患者は前庭に避難させられた後だった。
「ぬぬぬ…これはどう言うこったーいっ!!」
 苛立ちのあまり浩明が吼える。そこへ、のんびりした声がかかった。
「あらあら、あなた、ここには浩之はいませんよ」
 ようやく追いついてきた千尋が立っていた。浩明は怪訝そうな表情で言った。
「いませんって、お前…電話でここにいると言ったじゃないか?」
「最後まで話を聞かないからよ。あの電話にはまだ続きがあったんだから。本当にあなたは早とちりねぇ」
 千尋の言葉に、浩明は思わず赤面した。そうやってしょっちゅう窘められているらしい。
「そ、そうか…でも、俺がここに来るのを妨害しようとした連中がいたぞ。あれは何だ?」
 警備員やセバスチャンの事を思い出して浩明が言うと、千尋はそこでようやくひろのを前面に押し出した。
「それについては、この娘が事情を説明してくれるわよ」
「おや、君はさっきの…」
 浩明はひろのを見て不思議そうな顔をした。
「何故君が事情を?」
 尋ねる浩明。女性には優しくあれ、と言う彼の哲学から、ひろのに対しては威圧的な態度は取らない。しかし、その実態を知っているひろのはやはり気後れするものを感じた。
「えっと、その…」
 なかなか言い出すきっかけを掴めないひろの。そんな彼女の肩を、千尋が優しく叩く。そこで、ようやくひろのは勇気を出して、その一言を口にした。
「えっと、実は…私が浩之なんだよ、お父さん」
「…は?」
 浩明が間抜けな声を上げたかと思うと、唐突に大声で笑い始めた。
「わははははは、何を言っているのかね、お嬢さん。俺の子供は後にも先にも浩之一人しかおらん。君のようなかわいい娘を持った覚えは無いっ!!」
「そうじゃなくて! その浩之が私だって言ってるのっ!」
 良く人の話を聞いていないらしい父親に、強い口調でひろのは自分が浩之である事を訴えた。そして、その話に信憑性を持たせるために、昔の思い出を次から次へと口に出す。
「信じられないなら、家族でキャンプに行ったときに、お父さんがバーベキュー用の炭を粉々にしちゃってお母さんに怒られた話とか、父親参観の日に、私とあかりと雅史と志保以外の子がお父さんの事怖がって泣いたとか、いろいろと思い出を語って…」
「うわ、待て! ちょっと待て!!」
 浩明が自分の恥ずかしい記憶を晒されて焦った。ひろのの言葉を中断させ、まじまじとその顔を見つめる。
「ほ、本当に…浩之なのか…?」
「…うん」
 父の質問にひろのはこくんと首を縦に振った。浩明はひろのと千尋を数回見比べ、目の前の少女に、若かりし頃の妻の面影を確かに見出した。
「…」
 黙り込む浩明。ひろのは父の次の言葉をじっと待っていたが、ふとあることに気が付いて、父の顔の前で手をひらひらと何回か振ってみた。そして、振り返って母に報告した。
「どうしよう…お父さん気絶しちゃってるよ」

 浩明が復活したのは、話し合いの舞台を来栖川邸に移した後の事だった。セバスチャンも復活している。芹香が瓦礫を魔法で除去して救出したのだ。あかりは関係は深いとはいえ、この場においては第三者であるために両親と共に帰宅し、いるのはひろの、藤田夫妻、芹香、セバスチャンの5名である。
「つまり、そちらのお嬢さんの魔法で、浩之が女になった…と」
 ひろのと芹香の長い事情説明を聞いた後、浩明は要約するように言った。
「うん…そういう事になるね」
 ひろのが答えると、浩明は身体をぶるぶると震わせた。そして、どかんとテーブルを拳で叩き、真っ二つにへし折った。
「ふ、ふ、ふざけるなっ!! 大事な一人息子に何て事をしてくれるっ!!」
 屋敷の分厚い防弾ガラスをもビリビリと震わせる浩明の大声一喝に、さすがの芹香もびくっと震える。同時にセバスチャンが芹香を庇うように立ち上がり、浩明を睨みつけた。
「お嬢様を脅すがごとき言動は許さんぞ!」
「やるか? ご老体。次は無いぞ」
 頭に血が上った浩明も挑発的な発言で応じ、場に一触即発の空気が漂った。その時、ひろのがさらに浩明と芹香・セバスチャンとの間に割り込み、父親を見つめて言った。
「お父さん、やめて」
「な…」
 浩明はひろのを睨んだ。女の子にされてしまい、当然怒っているはずの元息子がその犯人を庇うような態度を取ったのだ。その事に対して抑えきれない激情が溜まっているのは明らかだったが、元息子が今やどこから見ても非の打ち所の無い女の子だけに、怒るに怒れないようだ。
「ひ、浩之…お前、悔しくは無いのか? 怒っていないのか!?」
 地鳴りのような声で言う浩明に対し、ひろのは首を横に振った。
「まぁ、こうなって大変だったのは確かだけど…でも、先輩の事を恨んだりはしてないよ。女の子になっちゃった私が何とか生活できたのも、先輩のおかげだし」
 ひろのの答えに、浩明は頭をかきむしった。
「そんなのは当然の事だ! それより、その女の子女の子した言葉遣いと仕草はどうにかならんのか!」
 ひろのの態度に苛立つ浩明。その時、千尋が立ち上がると、浩明の顔を睨みつけた。
「あなた」
「な、なんだ?」
 千尋の静かな、しかし迫力を秘めた声に、浩明は気勢を削がれたように言葉を濁した。そこへ、千尋が追い討ちを掛けるように言葉を続けていく。
「あなたは、浩之が男の子だから愛していたんですか? どんな姿であれ、浩之は私たちの子供でしょう」
「…」
 黙り込む浩明。
「私は女の子に変えられても、その事を恨むでもなく、一生懸命生きているこの子を、良い子に育ってくれたと思って、誇りにしていますよ。それに、一人でも大丈夫だと思って、浩之を放任していた私たちにも、責任の一端はあります」
 母親の暖かい言葉に、ひろのは目に熱いものが溢れるのを感じた。何でもっと早く親に相談しなかったんだろう、と後悔の念が湧き上がる。
「お母さん…ありがとう。ごめんなさい」
 ぽろぽろと涙を流すひろのを、千尋は優しく抱きしめた。その間、バツが悪そうに頭を掻いていた浩明は、ため息をつくとソファに座り直した。
「…わかったよ。俺が大人気なかった。女の子だろうと宇宙人だろうと、浩之が俺の子である事に変わりは無い。もちろん、今も大事な子供だ」
 照れくさいのか、「愛している」とは言わない浩明。そんな夫の言葉を、千尋が微笑みながら訂正する。
「俺の、じゃありません。私たちの、でしょう」
「あ、あぁ。そうだな」
 浩明は頷いた。あくまでも妻には弱い男だった。
「その、なんだ…怒鳴りつけたりして済まなかったな、浩之。少し頭に血が上っていたようだ」
「ううん、私は別に良いよ。お父さんに怒られるのには慣れてるしね。それより先輩に」
 ひろのがそう答えると、浩明は芹香の方を向いた。
「浩之にした事を許すわけではないが、その後のフォローをしっかりしていただいた事には礼を言う。ありがとう」
 その言葉に芹香はこくこくと頷き、セバスチャンがその言葉を通訳して伝えた。
「いえ、こちらこそ本当に申し訳ありませんでした、とお嬢様は仰っておられる」
 その時、ガチャリと扉が開いて、来栖川財閥総帥、厳彦氏が入って来た。さっきまで大損害を受けた来栖川先進メディカルセンターで現場処理の指揮をとっていたのだが、それを駆けつけた担当重役に引き継いで帰ってきたのである。
「お帰りなさいませ、大旦那様」
 駆け寄ったセバスチャンが上着などを脱がせてハンガーに掛け、その間に厳彦は上座にどっかと腰を据えた。巨体を誇る浩明も、世界の何分の一かを動かす力を持つこの老人には圧倒されていた。
「さて、帰ってくる途中で、今回の顛末についての事情は聞いた」
 咳払いをして話し始めた厳彦は、まず浩明と千尋に向けて深々と頭を下げた。
「まず、あなた方にお詫びせねばなるまい。不肖の孫娘が大事な娘…いや、息子さんにとんでもない不始末をおかけした事、心より申し訳なく思っております」
 続いて、厳彦は芹香とセバスチャンを睨んだ。
「まったく、なんと言う不心得者だ、お前たちは。何故ごまかすような真似をせず、正直にわしに話さなかった」
 芹香はびくっと震え、セバスチャンが慌ててフォローに入った。
「いえ、大旦那様、ひろのの戸籍偽造の一件、この長瀬が動いた事にございますれば、何とぞお嬢様には…」
「黙れ! それも芹香の指示あっての事であろうが」
 厳彦の一喝がセバスチャンを黙らせた。さらに怒声を発しようとする厳彦を止めたのはひろのだった。
「待ってください、おじいさん」
「む?」
 厳彦がひろのに視線を向けた。
「確かに、私の今の戸籍や設定を作ったのは、先輩とおじいちゃんです。でも、それを受け入れたのは、私の決めた事です。だから、二人をあまり責めないでください」
「しかし、それではけじめというものがな…」
 厳彦は渋い顔になったが、とりあえずあらかじめ決めてあったらしい処分について、芹香とセバスチャンに伝えた。
「長瀬に関しては、当面減俸処分とする。期間は追って沙汰する。芹香は、一刻も早く、ひろの君を元に戻すよう努力せい」
 セバスチャンは素直に頭を下げたが、芹香はひろのの決意を知っているだけに、思わず声を上げそうになった。すると、ひろのは芹香を制して言った。
「あ、ダメだよ先輩。それは、ちゃんと自分の言葉で伝えるから」
 芹香は頷き、他の4人はひろのが何を言い出すのかと、彼女に注目した。そこで、ひろのは胸を押さえて深呼吸し、気持ちを落ち着けると、決意について話し始めた。
「先輩とあかりにはもう言ってあるんだけど、私は、もう男の子に戻れなくても良い。このままずっと女の子として生きていこうと思います」
 それを聞いて浩明は呆け、セバスチャンは目をまん丸にし、厳彦は息を呑んだ。「あらまぁ」と楽しげな声を発したのは千尋一人だけだ。しばらくそのまま時間が流れ、最初に茫然自失から立ち直ったのは厳彦氏だった。
「本気なのかね、ひろの君」
「はい。今となっては、例え男に戻れたとしても、もう元の自分には戻れないと思います…それなら、今の女の子の自分をしっかりと認識して生きていく方が、うまく行くと思います」
 ひろのはそう答えた。しかし、人の本音を見抜く目では百戦錬磨の厳彦は、その言葉の裏に、まだひろのが隠している何かがあると気付いていた。
「ひろの君、まだ君は全てを語ってはいないね。芹香をかばうつもりか? もしそうなら、余計な事だが」
 厳彦の穏やかながらも、ごまかしは許さないという強い意思のこもった言葉に、ひろのは全てを語ることにした。が、その前に浩明が復活した。
「何故だ、何故だ浩之! どうして戻りたくないなんて言うんだ!!」
 絶叫する父親に、ひろのは顔を赤くして答えた。
「その…実は、好きな人がいるから…」
 この返事に、浩明は再び呆け、千尋は「あらあら」と心底楽しそうな声を上げると、ひろのに尋ねた。
「好きな人って、男の子?」
「…うん」
 ひろのが頷くと、次の瞬間絶叫が上がった。
「「な、何ぃ!? どこの誰だそれは!!」」
 異口同音に叫んだのは、浩明とセバスチャンである。二人は叫んだ後睨みあった。
「なぜアンタが叫ぶ?」
 敵意剥き出しの浩明の言葉に、セバスチャンも対抗心を剥き出しにして答えた。
「ひろのはワシの孫娘じゃ。心配して何が悪い」
「誰がアンタの孫娘だ!? こいつは俺の娘だ! 誰にも渡さんぞ!!」
 叫ぶなり、浩明はひろのをぎゅっと抱きしめた。初めて「娘」と呼んでもらえたひろのは「お父さん…」と目を潤ませていたが、それでは済まない者もいた。
「ぬおおっ!? わ、ワシもそんな事はした事がないぞ!? き、貴様…」
 セバスチャンがわなわなと震える。浩明を殴り飛ばしたいのはやまやまだが、ひろのを抱きしめているので殴れないのだ。
「お、お父さん…苦しい…」
 そして、抱きしめられているひろのは、浩明の剛力に身体を締め付けられ、今度は苦しさで目を潤ませていた。彼女の意識が飛ぶ寸前に、千尋が助けに入る。
「いい加減になさい、あなた」
 そう言いながら、千尋は浩明の背中をどすっと指で突いた。
「おあっ!?」
 何気ない軽い一撃に見えた千尋の攻撃だが、的確にツボを捉えていたらしく、浩明はひろのの身体を離して苦痛にうめいた。ようやく解放されて、涙目でけほけほと咳きこむひろのを、千尋が優しく抱きしめ、質問する。
「それで、ひろのが好きになったのは誰なの?」
「えっと…」
 ひろのが答えるより早く、千尋はそれを知っていたように言った。
「まぁ、大体わかる気がするけど…雅史君でしょう?」
「な、何でわかったの?」
 顔を真っ赤にして言うひろのに、千尋が笑いかける。
「わかるわよ〜。我が子の事ですもの」
「はう…」
 恥ずかしさで縮こまるひろの。その横で、浩明とセバスチャンが暴走しようとしていた。
「おのれ、あの小僧かっ!」
「うう〜、渡さんぞ。ひろのは誰にも渡さんぞ!!」
 その馬鹿父と馬鹿祖父の暴走コンビを、千尋の攻撃と厳彦の言葉が食い止めた。
「落ち着いて、あなた」
 再び急所を突かれて苦悶する浩明の横で、セバスチャンに厳彦が説教をしていた。
「落ち着かんか、お前は。芹香たちの事もそうだが、お前は娘を甘やかしすぎだぞ」
「むぐ…申し訳ありません」
 場が落ち着いたところで、厳彦氏が宣言した。
「ともかく、娘さんの現在や今後に関しては、わがグループが面倒を見ることをお約束しましょう。どうかそれで許していただけませぬか」
 頭を下げる厳彦氏に、未だに声の出ない夫に代わって千尋が頷いた。
「いえ、当人がそれで良いと言っているんですから、償う必要はありませんわ。それに、夫が病院では多大なご迷惑をおかけしましたし…」
 しかし、厳彦氏も譲らない。
「いや、非がこちらにある以上は、そうでもせねば気が済みませぬ」
 そうやってしばらく千尋と厳彦氏の間で話し合いが続いたが、やがて厳彦はにんまりと笑って言った。
「ならば、こちらで勝手にバックアップさせていただくことにしましょう」
 千尋も何も言い返さない。どうやら、何時の間にかひろのの将来は完全に安泰なものになったようであった。
 
 ひろのに関する事情説明もようやく終わり、藤田夫妻は来栖川邸を辞去する事になった。そして、ひろのも里帰りをする事になった。
「それじゃ、正月明けには戻ってくるね」
 寂しそうに見送る芹香にひろのは微笑みかけた。両親は4日までは家にいる、と言うことなので、その間は家族いっしょにいる事にしたのだ。両親の希望もあるが、ひろの自身、これまでずっと黙っていた負い目もあるし、たまには親孝行をしようと思ったのである。
「……」
「え? 初詣くらいはいっしょに? うん、約束ね」
 ひろのと芹香が指切りをしていると、千尋が笑いながら言った。
「あら、初詣に行くなら、ちゃんと準備しなきゃいけないわね」
「準備…何の?」
 ひろのが母親の謎の発言に首を傾げると、千尋はますます笑みを大きくして「ヒ・ミ・ツ」とだけ答えた。何故かこう言う仕草が何時までも似合う人である。
「おーい、そろそろ行かないとバスが出るぞ」
 門に続く道の途中で、浩明が叫んでいた。ひろのは「今行くよー」と叫び返すと、もう一度芹香と挨拶を交わし、千尋と一緒に歩き始めた。もう1年以上も別居していて、戸籍上は他人になってしまった両親だが、やはり血の繋がりは争えない。一緒にいる事に、どこか胸の奥が暖まるような感覚を覚えるひろのだった。

(つづく)

 次回予告
 お正月が来た。友人たちと一緒に初詣に出かけるひろの。少し離れて見守る両親。しかし、浩明にも千尋にも、それぞれに思惑があったのだった。
 次回、12人目の彼女第四十三話
「危険な初詣」
 お楽しみに〜

あとがき代わりの座談会 その42
ひろの(以下ひ)「……」
作者(以下作)「…とうとう言っちゃったねぇ」
ひ「…(赤面)」
作「思い切ってくれて作者としては嬉しいよ」
ひ「ちょっとお父さんの反応が心配だけど」
作「何時の間にか娘だとは認めているようだけどね」
ひ「そうじゃなくて、雅史の事」
作「あぁ、典型的な反応だな」
ひ「典型的?」
作「娘は誰にもやらーん! って言う親馬鹿な父親の」
ひ「うん、だから雅史の事襲ったりしないかなって」
作「それは確かに危ないな」
ひ「だから心配で」
作「まぁ、セバスチャンでも噛み合わせとけば大丈夫だろ」
ひ「その方が余計に心配だよ。爆弾を火にくべるようなものじゃない」
作「こうなると、お前がどう父親をなだめられるかが鍵だな」
ひ「それが一番難しいのに…」

収録:来栖川先進メディカルセンター第二病棟跡地


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