このお話は、すっかりかわいらしくなった一人の女の子と、すっかり骨抜きにされてしまった彼女の友人知人たちの織り成す物語です。
To Heart Outside Story
12人目の彼女
第四十話「白銀の乙女」
それは、この冬最初の強烈な寒波が日本列島を襲っていった直後の週末の事。いつものように来栖川家では夕食後のひと時を楽しむひろのたちの姿があった。
「え? スキー旅行?」
小首をかしげるひろのに、綾香は頷いた。
「そうよ。この間の寒波で、東北の方のスキー場はかなり雪が積もったらしいんだけど、その中にうちの別荘がある所があってね…」
綾香の話では、スキー場自体が来栖川グループの開発したものらしい。例によって関係者特権でリフトは乗り放題。おまけに、そこは温泉地でもあるため、別荘にも源泉から直接お湯がやってくるという。
「どう、良い話でしょ?」
同意を求める綾香だったが、ひろのはちょっと浮かない顔をしていた。気になった綾香が尋ねる。
「…どうしたの? ひろの」
「えっと…実は…私スキーって初めてなんだ」
ひろのは答えた。浩之の時代から、関東に暮らしていた彼女にとって、雪というのは比較的縁遠い存在の一つである。中学の時は学校行事としてスキー合宿もあったのだが、たまたま風邪を引いていて行くことが出来なかった。
「え? ひろのって北陸生まれじゃなかったっけ?」
今度は綾香が首をかしげた。ひろのの戸籍上の本籍地は、北陸の百万石な土地に近い隆山という町になっている。ここは長瀬家発祥の土地なのだ。
そこ生まれでスキー経験無しは、確かに不自然ではある。ひろのは失言を悟って顔色を変えた。しかし、そこでフォローが入った。じっとそばに控えていたセバスチャンである。
「綾香お嬢様、隆山は海沿いの地で、スキー場はいささか遠うございます」
「そう。北陸って言ってもいろいろあるのね」
綾香はあっさり納得した。どうやら、余り深く追及する気でもなかったらしい。ひろのは胸をなでおろし、セバスチャンにウインクして感謝の意を伝えた。
「そうすると…」
そんな孫娘と祖父のほのぼのしたやり取りの間に、綾香はあることを思い描いてにやりと笑っていた。
「よし、ひろのには私がみっちりと手取り足取り…スキーを教えてあげるわ」
手取り足取りに続いて「腰取り」とオヤジな言葉を言おうとして口篭もりつつも綾香がそう言うと、ひろのは目を丸くした。
「綾香、スキーできるの?」
「馬鹿にしちゃいけないわね。この私は何においても万能よ」
綾香は笑った。ひろのがじゃあ、お願いしようかな、と思った時、それまで黙って成り行きを見守っていた芹香がくいくいっとひろのの服の裾を引っ張った。
「どうしたの? 先輩」
ひろのが芹香の方を向くと、彼女はふるふると首を横に振り、あることを伝えた。
「…え? 綾香ちゃんに教わるのはお勧めしない?」
ひろのが言うと、芹香はこくこくと頷いた。当然ながら綾香は反発する。
「なによ姉さん、私の何がお勧めできないのよ」
膨れた表情になる綾香に、芹香は黙って視線を向けた。「自分の胸に問え」とでも言いたげな表情である。その様子を見ながら、ひろのは考えた。芹香は理由もなく人を…まして妹である綾香を謗るような事をする人ではない。とすると、芹香の態度には何かよほどの理由があるに違いない。
「えっと…先輩はスキーはできるの?」
場を和ませるべく、ひろのは芹香に話を振ってみた。すると、芹香はふるふると首を横に振った。やはり、運動は苦手らしい。そして、思わぬ提案をしてきた。
「…」
「え? 一緒にスキー教室に入りませんか? ですか?」
こくこくと芹香が頷いた。綾香はますます面白くなさそうな口調で文句を言う。
「だから姉さん、私の何が不満なのよ?」
すると、セバスチャンが諭すような、宥めるような声で綾香に言った。
「綾香お嬢様、芹香お嬢様にしてもひろのにしても初心者にございます。綾香お嬢様のレベルについていくのはちと難しいかと…なんでしたら私めが付き添いますゆえ」
セバスチャンの言葉に、綾香は露骨に嫌そうな表情になった。
「そ、それは…確かにセバスチャンなら上手いけど…クロスカントリーばかりじゃない」
「はぁ、シベリアで覚えた技ですからな」
セバスチャンの答えに、ひろのは首を傾げた。
(おじいちゃんって一体…?)
普段祖父として接している人物であるが、彼に関しては未だにわからないことだらけである。前に芹香と綾香のアルバムを見せてもらった時、幼い二人に従っているセバスチャンは、今と全然変わっていなかった。
「もちろん、クロスカントリーばかりでなく、普通のスキーもできますぞ。決して綾香お嬢様に引けは取りません。なんなら、最長のコースで勝負いたしますか?」
さすがに綾香の扱いを心得たセバスチャンらしい一言だった。この挑発に、綾香の眉がピクリと動く。
「面白いじゃない。良いわ、格闘はともかくスキーなら負けないわよ」
「ふふふ、手加減はいたしませぬぞ?」
ほくそ笑むセバスチャンが横目でひろのにアイコンタクトを送ってくる。彼女は感謝の意を伝えるようにセバスチャンにウインクを返した。
こうして、ひろのが初めてのスキー旅行に行くことは決定したのである。
それから数日後、ひろのはスキー場にいた。さすがにオーナー一族の持ち物だけあり、来栖川家の別荘はゲレンデまで一息で行けるほどの所にあり、一番大きなゴンドラの駅にも程近い。
「わ、すごい…」
着いて見て、ひろのは一つの山を全て使っているそのスキー場の大きさに感嘆した。温泉街やホテル群にも近い一番下のゲレンデは、幅が1キロ以上もあると言うスケールで、無数のリフトやゴンドラが設置されている。隣と中腹にも同クラスのゲレンデがあり、それらをいくつかのコースが結んでいた。一番長いコースは山頂まで続いていて、その長さは10キロを越えるという。
「全部を回りきろうと思ったら、二、三日はかかるわよ」
綾香が言う。確かに、一日では全部を滑りきるのは無理だろう。それくらい広いスキー場だった。
「さて、セバスチャン、さっそく山頂へ行くわよ」
「御意」
スキー板を担いでロープウェイの駅に向かおうとする綾香。最新流行のファッショナブルなスキーウェアを着込んだ彼女の後を、こちらは年季の入ったウェア…というより、冬季野戦服のような格好をしたセバスチャンが追う。これで銃を背負っていたら、フィンランド軍兵士と言っても違和感がないだろう。また、スキー道具も一味違っていた。何しろ、板は木製、ストックは竹製だ。
「じゃあ、綾香、また後でね」
「夕方には帰るわ」
ひろのの言葉に手を振って答え、綾香たちは去っていった。残されたひろのと芹香は、スキー場の地図を広げた。
「えっと…最寄りのスキー教室はゴンドラ駅の所だね。いこう、先輩」
こくこくと頷く芹香。二人は慣れない雪の上を歩いて駅に向かった。重いスキー靴のせいで歩き辛いことこの上ない。
(綾香がいなくて良かった…歩くのも苦手なんて誤魔化しようがないもんね)
ひろのは安堵した。いくらなんでも北陸出身ということになっている彼女が雪の上を歩くのに戸惑っていては不審がられるだろう。
普通に歩くのと比べて倍近い時間をかけて、二人はゴンドラの駅に着いた。さっそくスキー教室の看板を見つけてそこへ向かおうとした時、ひろのは思いがけない人物に出会った。
「あれ、もしかして、長瀬さん?」
「えっ!?」
振り返ったひろのは、そこに立っていた人物を見て驚いた。
「ま…雅史…君?」
そう、それは幼なじみにして、なぜか気になる相手である佐藤雅史だった。ひろのの顔を見て、雅史が満面の笑みを浮かべる。
「やっぱり長瀬さんだ。どうしてここに?」
「えっと…芹香先輩の別荘に来てるの。そういう雅史君はどうして?」
ひろのが聞き返すと、雅史は隣に立っていた人物を指した。ゴーグルをかけていたので一瞬誰かわからなかったが、ひろのはそれが雅史のサッカー部仲間で親友の垣本健一郎だということに気が付いた。
「垣本に誘われたんだ。この辺、こいつの田舎なんだよ」
垣本がゴーグルを外して挨拶し、質問してきた。
「実は、俺の婆ちゃんの家が近くなんだ。ところで、長瀬さんたちはスキー教室に行こうとしてたみたいだけど?」
ひろのは頷いた。
「うん、私も芹香先輩も全然初心者だから」
その答えを聞くと、雅史が微笑んだ。
「それなら、垣本に教えてもらうと良いよ。すごく上手なんだ」
雅史にそう言われた垣本は照れたように苦笑した。
「まぁ、よく来るんで慣れてるってだけだけどね。俺でも良いって言うなら、基本くらいは教えるよ?」
垣本の言葉に、ひろのと芹香は顔を見合わせた。スキー教室の受講料くらいは二人にとってさほど高いものではないが、知っている人に教えてもらう方が、安心といえば安心だ。
「でも…私たちに教えるんじゃ、二人が楽しめないんじゃないかな…?」
それでもひろのが雅史たちを気遣うと、二人はとんでもない、という風に手を振った。
「僕は長瀬さんたちと一緒の方が楽しいよ」
「そうそう。俺たちの事は気にしないでいいからさ」
そこまで言われては、断るのも返って失礼に当たる。ひろのたちは雅史たちの申し出をありがたく受ける事にした。
「それじゃあ…よろしくね、雅史君、垣本君」
「よし、それじゃあ初心者向けの方で、少し練習してみようか」
垣本の先導で、一向は初心者用ゲレンデの方へ移動していった。傾斜角が6度と言う非常に緩やかな場所である。客も少なく、ゆったりした動きのペアリフトは待ち時間殆どなしで乗れる状況だった。まず、男二人がリフトに乗り込み、次にひろのと芹香がリフトに乗ろうとした時、最初の事件は起きた。
(あ、けっこう速い…かも?)
回り込んでくるリフトの意外な速度に、それでもひろのは何とか腰を降ろす事に成功したが、芹香は少し遅れた。タイミングがずれ、ふくらはぎの裏側辺りをリフトに押される形になった芹香は、腰を降ろせずに乗り場前方に滑り落ちていく。
「せ、先輩!?」
ひろのが驚いて腰を浮かせかけた瞬間、事故発生を悟ったリフトの係員が緊急停止ボタンを押した。リフトががくんと止まり、反動でひろのも前の方へ落ちた。
「え!? きゃ、きゃあっ!?」
ずぼっ、という音がして、ひろのはリフト下の新雪の吹き溜まりに突っ込んだ。横では、同じように落ちた芹香が何が起きたのか解らない、という風情でたたずんでいた。
「大丈夫ですか、お客さん!」
係員が駆けつけてきたが、深雪にはまり込んだ二人の少女は、身体を起こすこともできず雪の中でもがいていた。それを見ながら、垣本は雅史に呟いた。
「…意外に手ごわいかもしれないな」
「…そうだね」
雅史は大いに頷いた。
仕切り直して一度停止させたリフトにひろのたちが乗りこみ、改めて運転が再開される。スキー板が雪面から離れ、二人の少女は5メートルほどの高さに持ち上げられた。
「結構見晴らしが良いですね、先輩」
リフト上からの景観にひろのが感嘆の声を上げると、芹香がこくこくと頷いた。所々に残された山林で目的別に区切られたゲレンデには、カラフルなウェアを着込んだスキーヤーやスノーボーダーたちが思い思いの滑りを楽しんでいる。三つほど隣のゲレンデは傾斜角がきついうえに雪のこぶだらけで、二人にはとても人の滑れる場所には見えなかったのだが、そんな所にもたくさんのスキーヤーたちがいた。
その中に、何やらジャンプと空中大回転を続ける二人組がいる。
「す、すごいなぁ…あの人たち…って、綾香とおじいちゃん?」
ひろのは目が点になった。よく見れば、確かにその二人組は見覚えのあるウェアを着て、ほとんど重力を無視したようなものすごい滑りを展開している。唖然としていると、芹香がひろののウェアのすそをくいくいと引っ張った。
「…」
「え? 綾香ちゃんに教わらなくて良かったでしょう、ですか? 確かにそうですね」
あのレベルの中に放り込まれたら、自分は1メートルと滑れない。芹香の言葉に心から賛同するひろのだった。
そんな事を話している間に、リフトは終点に近づいていた。一足先に終点に着いた雅史たちが、慣れた動作で立ち上がり、リフトの左側に滑っていく。
「それじゃ、行こう、先輩」
ひろのも立ち上がり、ストックを突きながらリフトの横に抜けた。が、横に来るはずの芹香の姿が見えない。
「…」
「え? あ、せ、先輩!?」
やはり立ち上がるタイミングを逸したのか、芹香がどこか悲しげな表情で折り返し点を回っていく。しかし、その先には安全装置がついており、バーが芹香の足に触れた瞬間、リフトが停止した。係員が救助のために走っていく。
「…いろいろ基本から教えなきゃダメだな」
垣本がちょっと天を仰いで呟いた。
数分後、垣本はひろのと芹香の前に立って最初のレッスンを始めた。
「まず、最初に教えなきゃいけないのは、転び方だ」
「え?」
首を傾げるひろのに、垣本は正しい転び方を知っていないと、変な風に転んで大怪我をする元だと説明し、転び方を実演して見せた。ひろのたちも真似して転び、そこからの起き上がり方についても教わる。それを十回ほど繰り返し、垣本は頷いた。
「まぁ、そんなもんかな。じゃあ、ちょっと滑ってみようか」
そう言うと、垣本はスキー板をハの字型にして滑る、いわゆるボーゲンで十メートルほど下に滑っていった。スピードがあまり出ない代わり、初心者にも優しい滑り方である。雅史もそれに続く。
「今のようにやってみるんだ。まず、長瀬さん」
「う、うん」
ひろのは頷くと、ボーゲンでそろそろと滑り降りた。何とか転ぶことなく雅史たちの元にたどり着く。
「なかなかいい感じだね。じゃあ、来栖川先輩、どうぞ」
垣本が呼びかける。芹香はこくこくと頷いたが、なかなか動かない。
「先輩? どうしたの?」
ひろのは手をメガホンにして芹香に呼びかけた。ひょっとしたら、滑るのが怖いのかと思ったのだが、そうではなかった。よく見ると、少しずつだが、芹香は前進していた。しかし、遅い。
「…」
3人が見守る中、芹香はまさに地を這うような速度で斜面を滑り降りてきて、ひろのの横までやってきた。
そして、そのまま通過して下にまっすぐ向かっていく。
「先輩、どこへ行くの?」
芹香が2メートルほど先に行ったところで、ひろのは追いついて話しかけた。しかし、芹香はひろのの方を向く余裕もないらしく、前をまっすぐ見据えたまま口を開いた。
「…」
「え? 止まり方がわかりません、ですか?」
芹香はこくこくと頷…こうとして、それでバランスを崩したらしく、思い切り転んだ。
「先輩! きゃあっ!?」
芹香を助けようとして身体の向きを変えた瞬間、ひろのもその場ですっ転んだ。
「先は長いね」
雅史の言葉に、垣本は予想を遥かに超える困難さを感じて、ちょっとだけこめかみを押さえたのだった。
結局、普通に降りれば2分とかからない距離を、その十倍近い時間をかけて降りた一行は、リフト乗り場からちょっと離れた場所にいた。
「うーん、来栖川先輩はもう本当に基礎中の基礎から教えないといけないと思う。という事で、この辺りで少し練習しましょう」
垣本が言うと、芹香は恥ずかしそうに顔を染めて頷いた。
「私は?」
ひろのが聞くと、垣本はよどみなく答えた。
「そうだな、長瀬さんは普通の初心者レベルくらいには滑れるから、普通にリフトを使っても大丈夫だと思う。雅史、教えてやれよ」
「え? 僕は垣本ほど上手くないよ」
話を振られた雅史が戸惑ったように言うが、垣本は笑ってその肩を叩いた。
「大丈夫だって。お前はもう中級者くらいの実力はあるし、かえってその方が教えやすいよ。それに…」
そこで、垣本は雅史の耳元に口を寄せて囁いた。
「せっかく長瀬さんと二人きりになれるチャンスを作ってやったんだ。遠慮するなよ」
言われた雅史は真っ赤になった。
「ば、バカ! 僕はそんなつもりじゃ…」
「わはは、照れるな照れるな」
垣本は大笑いすると、ひろのの方を向いた。
「という事で、長瀬さんは雅史に教わってくれ」
「う、うん…」
ひろのも芹香同様に、頬を微かに染めて答える。それはけっして寒さのせいばかりではない。
「じゃ、先輩は俺についてきてください。雅史、また後でな」
そう言うと、垣本は芹香をエスコートして、ゲレンデよりもさらに傾斜の緩い方へ行ってしまう。後に残されたひろのと雅史は、じっと立っていたが、やがて、ひろののほうから消え入りそうな声で言った。
「じゃ、じゃあ…よろしくね、雅史君」
「は、はいっ!」
裏返ったような声で返事する雅史。二人は並んでリフトに乗り込み、ゲレンデの上を目指した。当然の事ながら、ペアリフトなので、寄り添って座る事になる。
「…」
「…」
リフトの上で、二人はじっと黙っていた。話題がない…訳ではなく、どう話をしたものか困っていたのだった。やがて、リフトは終点に近づいた。
「あ、降りるよ、長瀬さん」
「え? うん」
立ち上がり、スロープに向かおうとする二人。そこで、ひろのがバランスを崩して転びそうになる。
「きゃっ!?」
「危ない!」
とっさに雅史が腕を伸ばし、ひろのを抱き寄せるようにして転ぶのを阻止した。
「あ、ありがとう、雅史君…」
「ど、どういたしまして」
ひろのがお礼を言い、雅史がそれに応じるが、その時、二人は自分たちの態勢がどういう状態になってるかに気付いて凝固した。まるで、雅史がひろのを抱きかかえてキスを迫っているかのようになっていたのである。
「…」
「…」
思わず見つめあう二人。分厚いウェアを着てるのに、お互いの体温と心臓の高鳴りすら感じられそうな感覚。どちらからともなく、顔が近づいて行き…その時、けたたましいブザーが鳴り響いた。
『お客さん、後続の方たちが降りられません。速やかに退去してください』
二人に向けてアナウンスが飛ぶ。その瞬間、二人は顔を真っ赤にし、慌ててスロープを滑り降りた。
スロープを降りてゲレンデに出た二人は、どことなく気まずそうに並んで立っていた。やがて、雅史が口を開いた。
「え、えっと…ごめんね、長瀬さん」
「ううん。転びそうになった私が悪いんだし…」
雅史君になら、と続けかけて、ひろのは慌てて首を振った。ごまかすように言葉を続ける。
「じゃあ、スキーの事、教えてね?」
「う、うん!」
雅史もさっきの事を追い払うようにわざとらしいまでに快活に答え、ひろのに例を見せるように滑っていく。ひろのもその後を追った。二人で一緒に滑っているうちに、リフトでのちょっと気まずい空気もなくなり、同時にひろののスキーの腕もかなりの上達を見せていた。もともと、彼女は一般人としてはかなりの運動神経の持ち主である。コツさえ掴めば上達は早かった。
「もう初心者用ゲレンデを出ても大丈夫だね。試しにもう少し中級者寄りのところに行ってみる?」
初心者用ではもうボーゲンなしでも滑れるようになったひろのをみて、雅史が感心したように言う。
「うん。でも、そろそろお昼だし、一度先輩たちと合流してご飯を食べに行こうよ」
ひろのの返事に、雅史は腕時計を見た。確かに食事に行くには良い時間だ。雅史は頷き、二人は気持ちよく緩斜面を滑り降りていった。
二人が芹香と垣本の練習していたゲレンデの端に行くと、芹香がまだ恐る恐る、という感じで斜面を降りていた。しかし、最初に比べると腰も引けていないし、スピードも上がっている。普通の初心者、というレベルには到達していた。
「お、来たな、お二人さん」
垣本が笑う。そこへ、芹香も滑り終えてやってきた。
「すごいね、先輩。上手になったよ」
ひろのが誉めると、芹香はほんの少し頬を染め、嬉しそうな表情になった。
「そっちはどうだい?」
「いや、すごいよ、長瀬さんは。飲み込みも早いし、もう僕と大差ないんじゃないかな」
垣本の質問に雅史が答えると、今度はひろのが赤くなる番だった。
「もうっ、誉めすぎだよ、雅史君」
その様子に芹香も垣本も微笑ましそうな表情を向けたが、ふといぶかしげな表情になり、戻ってきた理由を尋ねてきた。そこで、雅史が昼食のことを伝えると、二人は大いに頷いた。
「そういや、そんな時間だったな…よし、メシにするか」
垣本が言い、芹香はこくこくと頷いた。そして、4人はゴンドラ駅の中にあるレストランで昼食を取ることにした。
「スキー場で何が不満って、メシが高くてまずいんだよなぁ」
「同感」
垣本のぼやきに雅史が同意する。二人が食べているのは何の変哲も無いカレーだが、味はいまいちなのに1000円も取られていた。
「海水浴場とかもそうだよね。やっぱり、一年中営業してないところは、そういうことに力を入れないのかな?」
ひろのも話題に参加する。彼女はハンバーグランチだが、ハンバーグなのに妙に筋っぽい肉が使われているのが理解不能だった。
「まぁ、店の数が限られてて、ここでしか食べられないってのもあるから、客は黙ってても来るしね」
雅史が頷く。
「来栖川先輩なんて、やっぱり良いもの食べてるんじゃないんですか? こういうところで大丈夫?」
垣本が聞くと、芹香はふるふると首を横に振る。彼女はミートソーススパゲティにしていたが、見るからに伸びたパスタと水っぽいソースが不味そうだ。それでも文句を言わないのは、彼女がもともと物質的欲求には淡白な性格だからであろう。
一番文句を言ってしかるべき人が黙っているのでは、庶民3人は何も言えない。ひろのは話題を変えた。
「先輩、リフトには乗れるようになった?」
芹香は首を横に振った。ずっとゆるい斜面で、10メートルくらいの距離を行ったり来たりして練習していたらしい。
「そろそろ、リフトに乗る練習もしますか。なに、タイミングさえわかれば大丈夫ですよ」
垣本の教え方が良かったのか、彼がそう言うと、芹香は素直に頷いた。ちゃんと信用しているようだ。そこで、ひろのと雅史は午後は中級者用ゲレンデに行き、芹香は垣本と初心者用ゲレンデで練習を重ねることになった。
初心者用ゲレンデは平均斜度が6〜7度、所によって10度くらいだったが、ひろのが雅史に連れられてきたのは、平均斜度が12度、最高15度と、午前に比べればずっと歯ごたえのあるコースだった。
「大丈夫かな…」
上に立ってみて表情を曇らせるひろのに、雅史が安心させるように笑いかける。
「大丈夫。滑ってしまえば何とかなるよ。転ばないようにだけ気をつければ良いんだから」
そう言うと、例を見せるようにゲレンデの3分の1くらいまで雅史は滑り降りていった。一応、比較的緩やかな滑りやすいコースを選んでいる。その気遣いがひろのには嬉しかった。
(やっぱり雅史だったらずっと付いて行っても…って、そうじゃなくって! なんだか、今日は考えが先走りすぎちゃってるな)
ひろのは湧き上がってくる気持ちを無理やり振り払った。雅史との関係をどうするのかは、自分の将来を決めてからでなければ決められないと思っているが、こうやって二人きりになると、どうしても意識してしまう。
(か、考えるとドツボにはまりそう…今のところはスキーの練習に集中しよう)
ひろのはそう思い直し、雅史の後を追って滑り始めた。幸か不幸か、さっきよりもレベルの高い斜面になっているので、転ばないようにしていると自然にスキーに専念でき、余計なことを考えないで済んだ。
しかし、リフトに乗るときは別である。
「あの一番上のほうにあるゲレンデ、国際大会にも使われるくらいで、すごく難しいらしいよ。僕も早くあそこが滑れるくらいに上達したいんだ」
雅史が盛んに話し掛けてくる度に、ひろのは顔が火照るのを感じた。実は、雅史がやたら饒舌なのは,ひろのと一緒にいるためにやはり照れているからなのだが、今の彼女にはそこまで思いをめぐらす余裕は無い。
そんな感じで、精神的にはかなり消耗した状態で夕方がやってきた。雪の山々が夕日で赤く染められる中、ひろのは綾香たちと待ち合わせをした場所までやってきた。既に芹香と垣本は到着済みで、ひろのたちが来るのに気がついて手を振ってくる。
「芹香先輩、どうだった?」
ようやく照れなしに話せる相手が見つかり、ひろのがほっとした気分で聞くと、芹香は嬉しそうに答えた。
「…」
「え? 一人でも乗れるようになったの? やったね、先輩」
女の子二人が喜んでいるそばで、垣本は雅史に話し掛けていた。
「で、どうだった? 長瀬さんとの一日は」
「え? そりゃまぁ…夢のようだったよ」
赤くなって答える雅史。いつぞやのデートとは違い、変な干渉も入らず、協力的な友人がいろいろと気を使ってくれたおかげで、非常に楽しい時間を過ごすことができた。明日もまたひろのとスキーが出来ると思うと、思わず踊りだしたくなるほどの嬉しさがこみ上げてくる。
しかし、彼は忘れていた。ひろのと芹香がいる以上、あの少女もまたここにいるという事を。
「…あれ、なんだろう?」
それまで芹香と話をしていたひろのが、異変に気づいて顔を上げた。全員がそちらを向くと、ゲレンデの上の方を、何か雪煙のようなものが移動しているのが見えた。上の方で突風でも吹いたのかと思ったが、それが斜面を駆け降りて来るに従い、二人のスキーヤーが巻き起こしているものだという事がわかった。
「って、綾香とおじいちゃん!」
ひろのが叫ぶと同時に、とても初心者用ゲレンデを滑っているとは思えない猛スピードで降りてきた二人が、急ブレーキをかけて停止した。雪片交じりの風が4人の方に吹き付け、一瞬あたりが見えなくなる。
「今のは私のほうが速かったわよ、セバスチャン」
「それはどうでございましょうな、お嬢様」
雪煙の向こうから、綾香とセバスチャンの言い合う声が聞こえてくる。どっちが先にゴールしたかで揉めているらしい。綾香がひろの達のほうを向いて言った。
「私のほうが速かったわよね?」
『わかんないよ』
ひろの、雅史、垣本が口を揃えて答えた。一人だけ大声を出さなかった芹香も含め、4人全員が吹き寄せた雪のために、雪像のような有様になっていた。
「あら…」
綾香が苦笑する中で、ひろのが身体に付いた雪を払い落とし、ついでに芹香のも払ってやる。
「お帰り、綾香。楽しかった?」
ひろのが聞くと、綾香はまだ不完全燃焼気味だというように首を横に振った。
「ううん。セバスチャンとの勝負が、結局3対3のドローよ。この勝負はナイターで付けるわ」
「望むところです」
まだ戦い足りない二人を前に、ひろのが首をかしげる。
「ナイター?」
ひろのにとって、ナイターとはスポーツの夜間試合という認識しかなかった。すると、綾香が説明するより早く、雪を払った雅史が言った。
「照明を点けて、夜でもスキーができるんだ。きれいだよ」
「…なんで佐藤君がここにいるわけ?」
その声の主に気がついた綾香が、いきなり不機嫌そうな表情になった。言うまでも無く、彼女にとって雅史は敵…それも好恵のようなライバルではなく、抹殺すべき不倶戴天の敵である。
場が険悪になりかけた瞬間、垣本ののんきそうな声がその緊張感を破った。
「おおっ、来栖川綾香さんですよね?」
突然声をかけてきた垣本に、綾香が訝しげな表情を向けながら頷くと、垣本は手を打ち鳴らした。
「いやぁ、こんな所で会えるとは運が良い。俺、あなたの大ファンなんですよ。エクストリームの中継は毎回欠かさず見てます」
「…あら、それは嬉しいわ」
まんざらでもなさそうに綾香が微笑む。格闘家でもあり、パフォーマーでもある綾香にとって、ファンの存在は嬉しいものだ。
一方、ナイターの言葉が出たところで、雅史は大胆にもひろのを誘っていた。
「長瀬さんもナイターに行かない?」
「え? うーん…行こうかな」
せっかくの機会だし、ナイタースキーも体験してみたい。ひろのが頷くと、垣本の相手をしていた綾香が振り向いて叫ぶように言った。
「私も行くわよっ!」
ナイタースキーがしたいと言うより、雅史とひろのを二人きりにしてなるものか、と言う断固たる意思を込めた宣言だった。
「あ、それなら俺も行く」
垣本も名乗りをあげる。憧れのアイドル(綾香)と一緒にスキーを楽しむ機会を見逃すわけには行かない。
一方、芹香は慣れない運動を一日中したことで、相当疲れていたらしく、別荘で休む事にした。こうなると、セバスチャンも行かないことになる。気にしなくても良いと言う芹香に、セバスチャンが謹厳な態度で答える。
「お嬢様がお疲れになって休まれているのに、執事のワシが遊んでいるわけには参りませんからな」
別荘には家事担当で付いてきた真帆もいるので、芹香の世話役がいないわけではないが、執事としての職業倫理の問題だった。ともかく、ナイターに行くのはひろの、綾香、雅史、垣本の4名と決定したわけである。7時にゴンドラ駅で集合することを約束し、一行は一時解散することになった。
別荘で真帆の心づくしの料理――当然ながら昼食とは段違いに美味しかった――を食べた後、ひろのと綾香はゲレンデに向かった。すると、スキー場からバスで30分はかかるところに宿があるはずの雅史たちは既に待機済みだった。二人とも張り切りすぎである。
「待たせちゃった?」
「今来たばかりだよ」
ひろのが聞くと、雅史はお約束の挨拶で応じた。横で綾香が舌打ちをしているのには、気づかない二人だった。
「で、どこに行きます?」
垣本が綾香に話し掛ける。すると、彼女はスキー場の一角をびしっと指差した。
「あそこなんてどう?」
そこは平均斜度が20度と、ひろののレベルでは少し歯ごたえのあるところだった。ひろのは不安そうな表情をした。
「うーん、あれはちょっと…」
すると、綾香はひろのの背中をぽんぽんと叩いた。
「何言ってるの。少しはきついところに挑戦しないと、上達しないわよ」
「こぶも少ないし、長瀬さんでも大丈夫じゃないかな」
と、こちらは垣本。ひろのは雅史に視線を向けた。
「ためしに一回行って見ようか? だめだったら、すぐ下は緩やかなゲレンデだから、そっちへ移れば良いよ」
雅史はそう答えた。彼自身自覚はなかったが、一日中ひろのと緩やかな場所に付き合っていたので、少しは難しいところに行ってみたかったのである。
「うん…雅史君がそう言うなら」
ひろのが頷くと、綾香は内心舌打ちした。雅史に対して「目障りだ」との感情が強くなる。
(やっぱり、佐藤君は排除しておかないと)
もちろん、そんな殺意はおくびにも出さず、にこやかに振舞う事は忘れない。綾香は一同を先導し、目標のゲレンデに通じるクワッド(四人乗り)リフトの乗り場に向かった。そこから数分で目的のゲレンデに到着し、リフトの列に並ぶ。ここで問題が起きた。ペアリフトだったのだ。
「…」
「…」
雅史と綾香が無言で睨み合う、先に動いたのは、意外にも雅史だった。ひろのの横に並ぼうとするのを、綾香が牽制する。
「なかなか大胆になってきたわね、佐藤君」
「そりゃ僕だって…」
他の客の迷惑顧みず、ひろのの隣を巡って一進一退の攻防を繰り広げる二人。それを横目に、ひろのは「どーすんだあれ」と言いたげな表情の垣本に声をかけた。
「垣本君、行こうか?」
「え? でも、あれほっといて良いのかい?」
垣本の問いに、ひろのは首を縦に振った。
「少しは、あの二人も仲良くしてくれれば良いと思うの」
「…無理じゃないかな、それ」
そんな会話をしつつも、垣本はひろのと一緒のリフトに乗った。それを見て、慌てて雅史と綾香も続くが、顔を見合わせてふん、と鼻を鳴らし、一人ずつ別のリフトに乗った。そしてリフトが上に進んでいくと、ひろのはそこで信じられないものを見た。
「え、あれもゲレンデなの?」
今乗っているリフトの先にもう一つ別のリフトがあり、それが壁のような急斜面を登っていくのに気がついて、ひろのは目を丸くした。それまで、その斜面はただの木の生えていない場所だと思っていたのだ。
「あぁ、ここの一番の難所だよ。普段は『鬼の壁』とか呼んでるけど…最大斜度41度だったかな」
「よんじゅういち…」
垣本の解説に、ひろのは絶句した。今横にある20度のゲレンデでも彼女にはずいぶんきついのに、その倍とは、想像を絶する。リフトを降りて見上げてみると、まさに壁…垂直にしか見えない。さすがに夜間営業はしておらず、ライトアップはされていないが、そのために上方は闇に溶け込んで、まるで異界に続く階段のようだった。ひろのが圧倒されたように「鬼の壁」を見上げていると、雅史と綾香もやってきた。
「ここはさすがに私にもきつかったわね。でも、眺めは良かったわよ。上に喫茶店もあるから休めるしね」
「え、綾香ここを滑ったんだ…すごいなぁ」
ひろのが素直に感心すると、綾香は得意げな表情を浮かべ、雅史をちらりと見た。今度は雅史が悔しがる番だった。ひろのよりは上手いとはいえ、まだ中級者レベルの彼に「鬼の壁」は降りられない。
調子に乗った綾香はひろのの隣に立つと、その肩に手をかけた。
「さ、早く行くわよ、ひろの。私の滑りをたっぷり見せてあげるわ」
「え? え? ちょ、ちょっと待ってよ綾香ぁ〜!!」
引きずられたひろのが、心の準備もできないまま綾香に続いて滑っていく。雅史と垣本も顔を見合わせると、二人を追って斜面に滑り出していった。ところが、下のリフト乗り場に着いてみても、ひろのと綾香の姿は見えない。
「おや、追い抜いたかな」
垣本がのんびりした口調で言う。確かに、足手まといのひろのが一緒にいるのなら、綾香とてそう猛スピードは出せないはずだ。
「…まさか?」
一方、雅史は嫌な予感がしていた。綾香がひろのと二人きりになってしまった今、ひろのの身に危険が迫っているのは疑いない。
問題は二人が上と下、どっちに行ったかだが、綾香の事だ。そう簡単に追いつける方へ行ったとは考えられない。辺りを見回した雅史は、あることに気がついてひろのたちの行き先がどこかを確信した。
「鬼の壁」行きのリフトが動いていた。
「僕はちょっと上へ行って、降りながら探してみるよ。垣本はここで二人が来ないか、見ててくれないか?」
雅史がそう言うと、垣本は快く了承した。この得がたい理解ある友人に感謝しつつ、雅史はリフトに乗り込んだ。彼の脚力なら、板を外してゲレンデを走るほうがずっと速いが、これから行く場所のことを考えたら、体力を温存しておくに越した事はない。
(頼む…間に合ってくれ)
リフトののろさにいらいらしながら雅史は祈った。
その頃、下に降りたはずのひろのと綾香は、雪国の夜景をじっと見つめていた。
「ね、いい所でしょ、ひろの」
「うん…すごいね」
綾香の言葉に頷くひろの。彼女たちがいるのは、言わずと知れた「鬼の壁」の上だ。本来リフトは止まっているが、スキー場のオーナー一族である綾香の威光を持ってすれば、時間外にちょっとだけリフトを動かしてもらうくらいは造作もない。
その特権でやってきたこの場所からは、今いるスキー場だけでなく、近隣の山々に開かれたいくつものスキー場や、その近くのホテル街、温泉街の景色が一望できた。ナイタースキーの照明がもたらす膨大な光量が雪の高原全体をうっすらと照らしている様は、街の夜景とはまた違った幻想的な光景だった。
「こういう景色も結構良いね」
綾香に無理やりつれてこられた形のひろのだったが、この景色には素直に感動していた。いいムードだと判断した綾香が、ひろのの腕をそっと抱き寄せる。
「ここには普通は夜には来られないけど、きっといい景色だと思って、登って来た事があるのよ。その時から、今度来るときは、一番大事に思う人をつれてこようって、そう決めてたわ」
綾香は言った。それはつまり、綾香にとって一番大事な人はひろのだと言うことであり、事実上の告白である。ついに言っちゃった、と思い、珍しく心臓を高鳴らせてひろのの顔を見上げる綾香。
「そうだね…こういう景色なら、確かに私だって一番大事な人と見に来たいって、そう思うかな」
ひろのの言葉に綾香はがっくりした。ちょっと遠回し過ぎて気づいてもらえなかったらしい。しかし、そういうちょっと鈍感なところが、ひろのの萌えポイントではある。
だが、ここは萌えている場合ではなく、なんとしてもこちらの気持ちに気づいてもらう所だ。綾香は言葉を続けた。
「あのね、ひろの…私が、その、ひろのの一番大事な人になることは…」
できないの? と聞こうとした瞬間、綾香はその気配に気づいた。
(まさか、この壁を!?)
綾香が下界を見下ろした瞬間、雪のこぶの上を、さながら義経の八艘飛びを思わせる身のこなしで飛び渡ってきた影が、最後の跳躍で彼女たちの上を飛び越え、背後の雪の上に着地した。
「…ま、間に合った…」
「ま、雅史…君?」
突然現れた彼の姿に、ひろのが驚く。そう、それは雅史だった。リフトは既に止まっていたため、高低差70メートルはあろうかと言う雪の急斜面を駆け上がってきたのだ。サッカー部で鍛えた脚力と、ひろのへの想いという燃料があれば、この男に不可能はない。
「くっ…ここまで来るとは…予想外だったわ」
唇を噛む綾香に、雅史は息を整えて向かい合った。
「綾香さん、君に抜け駆けはさせない」
静かながら強い決意を秘めた口調で、雅史は言い放った。彼と綾香の間に、急速に強い「戦気」が満ちていく。
「そう、やはりこの手でライバルを倒すのが、私に一番合ったやり方と言うことなのね。貴方を倒せばひろのが悲しむ。それを見るのはしのびないけど…」
「僕も、長瀬さんの友人である君を倒すのは本意じゃない」
言いながら、急速に戦闘体制を整える雅史と綾香。雅史の手の中に、サッカーボールが魔法のように出現し、綾香の全身を揺らめかせて「気」がたちのぼる。
「ふ、二人とも…やめてっ」
突然目の前で始まった戦いに、呆然としていたひろのが制止の声をかける。が、それが開戦の号砲となった。
「海猫バスター!!」
雅史が先制の一撃を放った。電光をまとわりつかせたボールが、衝撃波を伴って綾香を目指す。
「笑止!」
綾香はその一撃を回避した。当たればダメージは大きいが、直線的弾道を描く攻撃など、読むのは簡単だ。
(彼の攻撃は、この遠距離からの一撃…懐に潜れば私が有利!)
そう計算し、余裕さえあった綾香だったが、それが油断となった。突然、目の前に雅史が出現する。
「!」
驚愕に目を見開いた綾香を、雅史の肩からの体当たりが吹き飛ばした。ショルダー・チャージ。サッカーで乱戦時に使われるテクニックで、別段反則ではない。しかし、サッカーに詳しくない綾香に対しては、まさに不意打ちの一撃だった。
「もらった!!」
空中で無防備な姿をさらす綾香に、雅史が連続してシュートを放つ。不規則な軌道を描くいくつものボールが彼女に殺到した。しかし。
「舐めないでよっ!」
いったいどうやったのか、超人的な体術を駆使し、空中で姿勢を変えた綾香が、ボールを次々に迎撃していく。手刀と蹴りが高速回転するボールを破裂させ、引き裂いた。
「…なんだって!?」
雅史が愕然とする中、最後の一球を撃破し、その破片と共に地上に降り立った綾香が、怒りに燃えた、しかし楽しそうな視線を雅史に向ける。
「手数を重視するあまり、一発の威力は落ちたようね。必殺の一撃って言うのは…こうするのよっ!」
言うなり、綾香は気合を込めた一撃を雅史にではなく、足元の雪面に打ち込んだ。雅史が訝るより早く、そこから生じた亀裂が瞬時に雅史の足元まで走る。
「!? う、うわあぁぁぁっっ!!」
雅史は絶望の叫びを上げた。足元が崩れ、彼の身体は41度の急斜面に投げ出された。綾香の一撃は小さな雪崩を引き起こしたのだ。
「勝ったわ…って、ひろのっ!?」
いち早く安全地帯に逃れた綾香だったが次の瞬間、信じられない光景を見て絶句した。
ひろのが雪崩と共に落下していた。
「雅史ーっ!」
ひろのは叫ぶ。叫びながら、落ちていく雅史を追う。彼女は雪崩に巻き込まれたわけではなかった。雅史を助けるために、敢えてその中に飛び込んだのである。
本来なら、彼女のスキーの腕前では、この斜面を、しかも雪崩をかいくぐって降りるなどと言うことは不可能だっただろう。しかし、雅史を助けたい一心で、それ以外のことが見えていない今のひろのにはそれが可能だった。雪煙を突っ切り、軽自動車ほどもある雪の塊をかわして、彼女は急斜面を降りていく。
「いた!」
ひときわ大きい雪の流れの中に雅史の姿を見出し、ひろのはラストスパートをかけた。そして、今にも白い奔流に沈みそうな彼の手を掴み、雪崩の外へ逃げ出す。そこは、リフトの下にある、新雪の深い吹き溜まりだった。柔らかな雪が二人をクッションのように受け止める。
「う…長瀬さん…?」
雅史が助けられたこと、次いで自分がひろのにしっかり抱きしめられていることに気づき、顔を真っ赤にした。
「良かった、無事だったんだ」
雅史の声が聞こえたことに安堵し、ひろのは彼を抱く腕に力をこめる。雅史はますます頭に血が上った。彼はひろのよりやや背が低い。しかも、今は斜面の少し下にいる。よって、今ひろのに抱きつかれると、自動的に彼女の胸が顔に当たる形になる。女の子の甘い香りと柔らかな感触に、意識がどんどん酔ったように霞んでいく。
(も、もうだめだ…)
そう思ったとたん、雅史の意識が飛んだ。同時に、鼻から豪快に鮮血が噴出する。周囲に血が飛び散るのを見て、ひろのは悲鳴をあげた。
「い、いやあぁぁぁっっ!? 雅史、死んじゃだめーっ!!」
ぐったりとなった雅史を必死に抱きしめるが、それが逆効果だということに、彼女は気づいていない。そこへ、ひろのたちを探して降りてきた綾香がやってきた。
「!?」
さすがの綾香もひろのたちの尋常でない様子には驚愕したらしく、一瞬絶句した。その気配に気づいたのか、ひろのが綾香のほうを振り向く。
「綾香、急いで雅史を下まで運んで!」
「わ、わかったわ」
気を失った雅史を綾香が担ぎ、急斜面を滑り降りていく。ひろのもその後に続き、やがて、雪上救急車の鳴らすサイレンの音がゲレンデに響き渡った。
明かりの消えた病院で、ひろのと綾香はロビーのベンチに並んで腰掛けていた。先ほどまで一緒にいた垣本やセバスチャンは先に帰っている。
検査の結果、当然のことながら雅史の命に別状はなく、今は輸血を受けて眠っている。そして、二人は耳に痛いほどの沈黙の中にいた。
(う、うぅ…ひろの、怒ってるだろうな)
じっと黙りこくったままのひろのの様子に、綾香は懊悩していた。どう話を切り出していいものか見当がつかない。
すると、ひろののほうが先に口を開いた。
「綾香…」
「な、なに?」
綾香が裏返りそうな声で答えると、ひろのは思いがけない言葉を口にした。
「ごめん」
「…なんでひろのが謝るの?」
綾香が聞き返すと、ひろのは沈んだ口調のまま答えた。
「私は…本当はわかってるんだ。綾香の気持ち。綾香だけじゃなく、あかりや琴音ちゃんの気持ちも」
綾香は無言で頷く。
「でも、私はそれに何と言って答えて良いかわからない」
ひろのの言葉に、綾香は質問を返した。
「好きなの? 彼の事」
彼とはもちろん雅史の事だ。ひろのは小さく頷いた。
「たぶん…でも、それも良くわからない」
(たぶん、ね…まだ望みは捨てなくても良いって事かしら?)
綾香は心の中でつぶやいた。しかし、たぶんと言いつつ、実はひろのの気持ちはかなり雅史に傾きつつあるようだという事も、綾香は理解していた。
「良いよ、別に。私はあせらない。ひろのの本当の気持ちが固まるまでは待つわよ」
綾香は明るい口調で言った。ひろのは一瞬綾香に感謝するような視線を向けたが、すぐにまた沈んだ顔になって、ごねんね、と呟いた。
(ま、今日は私も伏兵の出現に焦りすぎたわ。ひろのみたいな娘は、やっぱりじっくりと攻めていかないとね)
例えひろのの気持ちが雅史に向いていても、あきらめはしない。エクストリーマーは最後の一瞬まで勝負は捨てないものなのだから。そう固く心に誓う綾香であった。
(つづく)
次回予告
聖なる夜…クリスマス。来栖川家でも、親しい人々を招いてパーティーを催すことになった。目玉となったプレゼント交換ゲームにおいて、ひろののプレゼントを巡る熱い戦い。そして…
次回、12人目の彼女第四十一話
「聖夜の決意」
お楽しみに〜
あとがき代わりの座談会 その40
作者(以下作)「おっ、今日はひろのではなく綾香が来てたのか」
綾香(以下綾)「ひろのなら、佐藤君の病室に行ってるわよ」
作「はっはっは、ラブラブだなぁ」
綾「悔しいことにね…なんなのよ、私がいない間のあの展開。むずがゆいったらありゃしないわ」
作「微笑ましいじゃないか」
綾「私が佐藤君なら、速攻でどこかにひろのをお持ち帰りしてるのに」
作「そういう反応かよ」
綾「それにしても、せっかく他の娘たちを置いてけぼりにしてスキー場に来たのに、佐藤君に会うなんて、ひどい偶然もあったもんだわ」
作「良くあることさ」
綾「知っていれば、ひろのと一緒にいたのに…あ、でもそうすると姉さんとセバスチャンがついてくるんだったわ」
作「二人きりになるのはなかなか難しそうだな」
綾「仕方ない、今回はツキがなかったということを認めざるを得ないようね」
作「潔い態度だな」
綾「ふっ、こうなったら、次回のクリスマスパーティーでリベンジをはかるわよっ! 当然佐藤君には招待状を贈らない方向で」
作「…やっぱり潔くないな」
収録場所 来栖川スキーリゾート内喫茶店
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