※このお話は、日々可愛くなっていく一人の女の子と、日々人として大切な何かを失っていく彼女の友人たちの物語です(殴)。

To Heart Outside Story

12人目の彼女

第三十七話「クッキングバスターズ」

 ちくちくちく…と、ひろのの白魚のような指が布地の上で規則正しいリズムを刻んでいく。その指には針があり、布にきれいに縫い目をつけていた。そして…
「よし、できたっ!」
 ひろのはあまった糸を切り離し、持っていた布地を両手で広げた。それはエプロンだった。現在彼女を含む2−Aの女子生徒たちは家庭科の実習中である。
「できましたか?長瀬さん」
 家庭科の先生が回ってきて、ひろののエプロンを手に取った。縫い目を確かめたり、肩紐などの取り付け部分を力をこめて引っ張ってみたりして出来具合を見ている。そして、にっこり笑うと作品をひろのに返した。
「とても良く出来ていますよ。来週もこの調子でがんばってください」
「はい!」
 ひろのの返事を聞きながら、先生が教壇に上った。
「はい、皆さん。裁縫の実習は今週で終わりです。来週からはいよいよ調理実習に入る事になります」
 先生の言葉に、はーい、と言う返事が家庭科室に響き渡る。
「課題は、オーソドックスに肉じゃがにしましょう。来週までに良く調べて置いてください。では、今日はこれで終わります」
 智子が号令をかけて礼をし、授業が終わった。一同は裁縫道具を片付けて2−Aの教室に戻る準備をはじめる。
(料理か…そう言えば、全然やった事ないな)
 ひろのは思った。浩之だった頃は出来合いのものを買ってくるか、もしくは神岸家の母娘が手尽くしの料理をしょっちゅう差し入れてくれたから、食事に困った事はないし、ひろのとして来栖川邸に移ってからは、そうした仕事は全て使用人たちの担当だったため、なおさら料理をする機会などなかった。
 一度、夏休みに来栖川家の持ち島に行く船上で包丁を使ったことはあるが、その時はマルチがガス爆発を起こして船を沈没させたため、材料をちょっと切っただけで終わった。いくらなんでもあれを料理経験とは呼べまい。
「うーん…自信がないなぁ」
 思わず内心が声に出たとき、それを聞いたあかりが尋ねてきた。
「どうしたの?ひろのちゃん」
「あかり…そうだ、ちょっとお願いがあるんだけど、良いかな?」
 振り返ったひろのはある事を思い出した。そう、あかりは料理に関してはプロ顔負けの実力者である。ここはぜひ、彼女に教わって技術を鍛えよう、と言うわけだ。真帆でも良いのだが、彼女には屋敷の用事もあるので、ひろのの私的な用事では拘束できない。
「ひろのちゃんのお願いなら、なんでもオーケーだよ」
 もちろん、あかりが断るはずも無く、ひろのは放課後にあかりから料理の手ほどきを受ける事になった。

 学校の帰りに二人でスーパーで肉じゃがの材料を買い込み、駅前のロータリーで来栖川家に帰るバスを待っていると、背後から聞きなれた声が聞こえてきた。
「あ、ひろのさ〜ん、あかりさ〜ん、今お帰りですかぁ?」
 マルチだった。ぱたぱたとひろのたちの方に駆け寄ってくる。
「マルチ、これから帰り?」
 ひろのが聞くと、マルチは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「はいですぅ。ところで、あかりさんはどうしてご一緒なんですか?」
 マルチが尋ねてきた。ひろのとあかりでは帰る方向がまるで違うので、疑問に思ったらしい。
「うん、ちょっとあかりに料理を教わろうと思って」
 ひろのが答えると、マルチは「お料理ですかぁ…」と呟くように言い、やがて、思っても見ない事を聞いてきた。
「あの、わたしもご一緒してよろしいでしょうかぁ?」
「え?マルチちゃんもお料理したいの?」
 あかりが聞くと、マルチは大いに頷いた。
「はいですぅ。一番好きなお仕事はお掃除ですけど、他にもいろんな事ができるようになりたいんですぅ」
 マルチの場合、「お掃除」と言っても相変わらず「社会のゴミ掃除」なので、まともに家事ができるようになったとは言い難いのだが、それでも向上心があるのは良い事だ。そのやる気に満ちた表情に、ひろのは思わず手を伸ばしてマルチの頭を撫でていた。
「よしよし、偉いね、マルチ。一緒に頑張ろうね」
 そう言ってマルチの頭を撫でつづけながら、ひろのはあかりの方を向いた。
「と言うわけで、マルチが一緒になっても良いよね?」
「うん…良いけど…」
 せっかくひろのと二人きりで一緒に料理ができると思ったのに、とあかりは少しがっかりした。だからと言って、ひろのの言う事には「嫌」とは言えない。マルチの幸せそうな「はわ〜」と言う呟きが恨めしいあかりだった。

 一度マルチの分の材料も買いに戻り、それからバスに乗って3人が来栖川邸に辿り付いたのは、それから1時間ほど後の事だった。長瀬邸に帰ってみると、出迎えたのは真帆だった。
「ただいま帰りました」
「お帰りなさい、ひろのちゃん。あら、今日は神岸さんとマルチちゃんも一緒なのね」
 あかりとマルチを見てにっこり笑う真帆に、二人は頭を下げて挨拶した。
「お邪魔します」
「こんにちわですぅ」
 真帆は二人に手を振って固い挨拶は無用、という意思表示をした。
「ゆっくりして行ってね。お茶を入れようか?お菓子もあるわよ」
 機嫌よく言う真帆に、ひろのは首を横に振った。
「あ、その…今日は二人に遊びに来てもらったんじゃないんですよ。実はちょっと料理を習おうと思って…キッチンを使っても良いですか?」
 ひろのが言うと、真帆は頷いた。
「もちろん! ここはひろのちゃんの家なんだから、私に気を使うことはないわよ。どんどん使っちゃいなさい」
 真帆の言う通りで、普段キッチンを使っているのが真帆でも、所有権は家の主であるセバスチャンにある。ひろのは微妙だが、セバスチャンの孫娘と言う事になっている以上、使用人である真帆に遠慮する必要はない。
「すいません。じゃあ、部屋に荷物を置いてからにしよ」
「うん、そうだね」
 ひろのの言葉にあかりも頷き、ひろのの部屋に荷物を置きに行った。マルチは別室に自分用のメイド服を置いてあるので、そっちに着替えに行く。
 さらに、ひろのは私服に着替えた。そして、早速今日までの裁縫の実習で作ったエプロンを身につけ、腰の後ろで紐を結ぶ。しっかり作っただけあって異常はない。
「あかり、お待たせ」
 ひろのが着替えに使っていたウォークイン・クローゼットからでると、待っていたあかりは思わずぽかんと口を開けた。
「ど、どうしたの?」
 その反応にひろのが驚き、あかりの前で何回か手をひらひらさせると、あかりは我に返った。
「はっ!?」
 我に返ったあかりに、ひろのは心配そうに声をかけた。
「あかり、大丈夫?」
「え? う、うん…大丈夫。心配ないよ」
 あかりは手をパタパタと振り、健在振りをアピールした。しかし、心臓はまだ高鳴っている。
(うぅ…ひろのちゃんのエプロン姿も萌え萌えだよ…)
 ただ単に、あかりはひろのに見とれていただけだった。
 部屋の前でメイド服に着替え終わっていたマルチと合流し、3人はキッチンに入った。普段は真帆が使っている…と言っても、朝食、夕食は来栖川家の人々と取ることが多く、また昼食も、ひろのは学校、セバスチャンは仕事先で済ませる事が多いので、あまり使われない。休日の昼食作りが一番多い使用法だった。
「はい、それじゃあ始めるよ」
 講師役のあかりが早速講義を始めようとした。
「あ、ちょっと待って、あかり」
 ひろのはいったんあかりを止めた。怪訝そうな表情をするあかりにすぐ済むから、と言って、ひろのはマルチのほうに向き直った。
「マルチ、大事な事があるんだけど」
「はわ?なんですかぁ?」
 ひろのに話し掛けられ、首を傾げるマルチ。
「えっとね、これは約束して欲しいんだけど…絶対に武器を使っちゃだめだよ。野菜を切るのにビームサーベルやレーザーメスや高速振動剣を使ったり、フライパンをあっためるのに熱線やプラズマバーナーやフォノンメーザーを使わない事。良い?」
「は、はわっ!?」
 ひろのが読み上げた禁止兵器の数々に、思わず動揺するマルチ。
「あ、あの…高周波メスとかパイロクレストボムは…」
「絶っっ対にダメっ!!」
 ひろのは強い調子で言うと、流し台の道具を指さした。
「食材を切るのは包丁、食材を加熱するのはガスコンロ。これが決まりなの。良いね?」
 ひろのの言葉に、マルチはそれらの武器が内蔵された腕を未練がましく見つめていたが、あきらめたのか肩を落として頷いた。
「わかりましたですぅ…」
「よしよし。まぁ、そう落ち込まないの」
 聞き分けたマルチの頭をなで、ひろのはあかりの方を向いた。
「と言うわけで、こっちの用は済んだよ。よろしくね、あかり」
「う、うん…じゃあ、材料の下ごしらえをするよ」
 あかりはひろのとマルチのものすごい会話にちょっと引きながらも、買ってきた材料を手早く並べた。用意したのは牛肉、じゃがいも、たまねぎ、にんじん、糸こんにゃくなどである。
「肉じゃがは、肉のうまみで野菜を食べる料理だから、野菜をあんまり大きく切ると、味が染み込まなくて美味しくなくなっちゃうの」
 あかりはそう言いながら、慣れた手つきでじゃがいもやにんじんの皮を剥いて行く。その鮮やかな包丁捌きに思わず見とれるひろのとマルチ。
「でも、だからって小さく切ると、今度は煮崩れて見た目が汚くなっちゃうから、そのバランスを取るのが難しいんだよ」
 そう言いながら、あかりは手早く野菜を切っていく。じゃがいもはだいたい二口で食べられる大きさに切り、にんじんは乱切り。玉ねぎはくし切りにしてボウルに分けた。
「大体こんな感じかな?じゃあ、ひろのちゃんたちもやってみて」
 あかりの言葉に頷き、ひろのはまず一番難しそうなじゃがいもから取り掛かった。包丁の付け根の角で芽をえぐって捨て、皮を剥いて行く。でこぼこしている上にりんごなどのように滑らかではないので、しょっちゅう包丁が引っかかった。何度も指を切りそうになる。
「む、難しい…」
 ひろのは悪戦苦闘しながら、何とか一個の皮を剥き終わった。あかりが剥いたものに比べると、ごつごつしていて皮についた身も多く、決して見栄えが良いとは言えない。
「うーん…」
 ひろのは二つを見比べて溜息を漏らしたが、あかりはにこにこと笑いながら言った。
「初めてにしては上手だと思うよ、ひろのちゃん。わたしが最初にじゃがいもの皮むきをした時は、もっと酷かったもの。やっぱり、ひろのちゃんは器用なんだね」
「そうかな…」
 ひろのはちょっと照れた。不満はあったが、誉められれば悪い気はしない。まして、あかりはお世辞など言えない性格だ。
(でも、もっと練習しないと…)
 ひろのがそう思って今度はにんじんに挑戦しようとした時、マルチの声が聞こえてきた。
「ふぅ〜、やっと終わりましたぁ」
「どれどれ…え゛?」
 覗き込んだあかりが思わず絶句し、続いたひろのも口をあんぐりと開けた。マルチが剥いたじゃがいもは、少し大きめのビー玉くらいになっていて、大量の身がついたままの皮…と言うより、皮のついた身が辺りに転がっていた。「剥く」というより「ぶつ切り」にしたという方が正しいような惨状である。
「マルチちゃん、これはちょっと…」
 あかりが困った顔で言った。マルチが一生懸命にやったのは認めるが、これでは料理には使えない。
「だ、だめなんでしょうかぁ?」
 半泣きになるマルチに、あかりは優しく微笑んで
「とりあえず、もう一度やってみようね」
 と言った。ひろのはそれを見て、とりあえずマルチはあかりに任せる事にした。自分ではアドバイスもできない。
 そして、にんじんを切り、これは問題なく片付けると、次は玉ねぎにかかった。あかりのやって見せた切り方が良くわからず、適当に真似をすると、ちょっと切っただけでたちまち目につんと刺激が走り、涙が溢れて前が見えなくなる。
「いたたたた…」
 エプロンの裾で涙を拭うが、後から後から涙が出て止まらない。すると、その様子に気がついたのかあかりが言った。
「ひろのちゃん、玉ねぎは素早く切らないと目が痛くなるよ。ちょっと待ってね」
 包丁を使う音と、ビニールのがさがさと言う音がしたかと思うと、急に目の痛みが薄らいできた。
「ぐす…あかり、何をしたの?」
 もう一度目を拭って、あかりに尋ねると、彼女はきれいに切った玉ねぎを持っていた。ひろのが失敗した部分は、切り落として捨てたらしい。
「切り口がつぶれないように切ってるでしょ?こうすると痛くないんだよ」
 あかりの言う通り、彼女の切った玉ねぎの断面は、つるとして滑らかだった。顔を近づけても微かに刺激臭がするだけで、目は痛くならない。
「な、なるほど…すごいね、あかり」
 ひろのは感心したが、そうしてばかりもいられない。今度は自分が同じ事をしなくてはならないのだ。新しい玉ねぎの皮を剥くと、包丁を当てて、一気に真っ二つに切り裂く。
「あ、今度は痛くない。大丈夫」
 ひろのが言うと、あかりは大きく頷いた。
「そうそう、その調子!」
 その声に押され、ひろのは残りの玉ねぎもどんどん切っていった。そして、気が付くともう残りがない。
「あ、いけない…マルチの分まで…」
 調子に乗ってしまったことをひろのは反省した。そして、マルチに謝ろうとしてふと気付いた。
 じゃがいもが一個もない。
 すると、隣でマルチが泣き声を上げていた。
「はわわ、もうじゃがいもがありません〜!」
 ひろのがマルチの手元を見ると、失敗して見るも無残に破壊され尽くしたじゃがいもの残骸が散乱していた。
「あ、あはは…じゃがいもなくなっちゃった…これじゃ肉じゃがは作れないね」
 あかりが困った口調で言った。そこへ、他のところで仕事をしていた真帆が戻って来た。
「あらら、どうしたの?これ…」
 悲惨なじゃがいもの様子に、真帆は驚いた声をあげた。
「あ、真帆さん。実は…と言うわけで、じゃがいもはありますか?」
 ひろのが事情を説明すると、真帆は首を横に振った。
「この家には今はないわね。本邸だったらあるだろうけど、貰ってくるわけには行かないし…」
 真帆の言う通りで、長瀬邸では滅多に台所を使わないため、食材…特に生鮮食品の買い置きはしていない。来栖川本邸にはそうした食材も豊富に用意してあるが、こちらはシェフがしっかり在庫を管理しているため、そうそう簡単には融通できないのだった。
「そうですか…」
 ひろのががっかりした表情になると、真帆は慰めるように笑った。
「まぁまぁ、明日も練習すれば良いじゃないの。それならじゃがいも一箱注文しとくわよ?」
 すると、あかりが首を横に振った。
「明日だと、私が来れないんです」
「ふむ〜…」
 真帆は少し考え込んだが、すぐに妙案を思いついて、手をポンと打った。
「じゃあ、明日は私が先生役になったげる。どうかな?」
 ひろのもあかりも、思わずつられて手をポンと打った。確かにそれは良い考えだ。真帆も料理の腕に関しては文句無しの実力者だからである。
「それじゃあ、お願いします」
「よろしくですぅ、真帆さん」
 ひろのとマルチは頭を下げた。真帆は微笑んで頷く。
「任せなさい。でも、びしばしと鍛えるわよ?」
 もちろん、ひろのとしても異存はない。翌日の料理教室は真帆を講師にして行われる事で決定した。
 なお、この日失敗したじゃがいもや、ひろのが切った玉ねぎは真帆の手でポテトサラダに流用され、夕食の席を飾った。

 翌日、ひろのはマルチを連れて家に帰ってきた。出迎えたのはセバスチャンだった。どうやら、今日は出かけなかったらしい。
「おじいちゃん、ただいま」
 ひろのが挨拶をすると、セバスチャンはお帰り、と挨拶を返し、それから尋ねてきた。
「ひろの、料理を習っているそうじゃな」
 ひろのは頷いた。
「うん。来週の家庭科で、肉じゃがを作らなくちゃいけないの。それで、あかりと真帆さんに」
 セバスチャンは相好を崩した。
「そうかそうか、では、上手くできたらひろのの手作りの肉じゃがが楽しめる…と言うわけじゃな」
 ものすごく楽しみにしてそうな笑顔に、ひろのは思わず苦笑した。
「あはは…あんまり期待しないでね。下拵えだけで大苦戦中だし」
 そう言って、ひろのは着替えると台所に向かった。そこでは真帆が既に待機していた。
「おかえりなさい、ひろのちゃん。材料はたくさん準備しておいたから、失敗を恐れずにどんどん行くわよ」
 真帆の指す方向には、材料がダンボール一箱ずつ用意されていた。これなら半月肉じゃがを続けても平気だろう。
「すごいですね…できれば一回で成功したいですけど」
 すると、真帆はひろのの耳元に口を寄せて言った。
「ひろのちゃんはあんまり心配してないわ。問題はマルチちゃんね」
「…あはは」
 ひろのは思わず乾いた笑い声をもらした。そのマルチは、なにやら自信ありげな表情で、やる気も十分にキッチンに立っている。
「それじゃあ、はじめましょうか」
「はいっ!」
 真帆を講師に、二回目の講義が始まった。
「では、昨日に引き続き下拵えの段階からね。二人ともじゃがいもの皮むきから」
「わかりました」
 ひろのはじゃがいもを良く洗って包丁を持ち、皮を剥き始めた。刃の付け根の方で無理に広い面積を剥こうと思わず、慎重に刃を進めていく。昨日何回か皮剥きの練習をして、ひろのなりに掴んだコツだ。
「そうそう、そんな感じで…上手よ」
 真帆はひろのがやや危なっかしいながらも、着実に皮を剥いていくのを見て感心する。ひろのは放って置いても大丈夫だろう…と見て取った彼女は、問題児マルチの調子を見ようと顔の向きを変えた。
「…マルチちゃん、何してるの?」
 真帆はマルチが包丁を持たず、何か怪しげな器具を手にとっているのを見て、不審な表情になった。ひろのも真帆の言葉に芋を剥く手を休め、マルチの方を見る。
「これですか?おとうさんが作ってくださった皮剥き器ですぅ」
 そう言って彼女が見せたのは、アルファベットのYの字の開いた部分に、細い糸状のものが渡されたような奇妙な道具だった。一番似ているのは歯の隙間を掃除する糸ようじだろう。
「それで皮が剥けるの?」
 ひろのが聞くと、マルチは自信たっぷりに頷いた。
「はいですぅ。この糸は単分子ワイヤーで、剃刀みたいに鋭く物が切れるんですよ〜」
 そう言うと、マルチは糸をじゃがいもに当てて、表面をなぞった。それだけで皮が1センチほどの幅でするりと剥けた。思わず感心するひろのと真帆。
 マルチはそれから数回芋の表面をなぞり、あっという間に半分ほどの皮を剥いてしまった。表面は滑らかで、包丁で切った時のようなごつごつした面がない。
「すごい。あの人もたまにはまともなものを作るんだ…」
 ひろのはマルチのおとうさんこと、製作者の長瀬技師の事を思い出した。この人の作品と言えば、マルチ自身を筆頭に、その無数の内臓・外装武器、孤島の人形変形別荘など、ろくな思い出がない。
「へぇ、面白いわね。ちょっと貸してくれる?」
 興味を持った真帆がマルチに頼んだ。マルチが頷いて差し出した皮剥き器を受け取り、手近な芋の一つを取り上げて、糸を表面に当てる。そして、軽く力を入れた瞬間だった。
 すぱん、と何の抵抗もなく芋が真っ二つになった。真帆は真っ青になった。芋だけでなく、糸が軽くかすった彼女の爪の先端もきれいに切り落とされている。
「あ、そのワイヤーは凄く強くて切れ味がいいですから、鉄の棒とかでも切れますよ」
 なんでもないように言うマルチに、真帆は皮剥き器を返した。
「しまいなさい、そんな危ないもの! もうちょっとで指が落ちるところだったわよ!!」
 ちょっと涙目になって言う真帆。よほど怖かったらしい。
「はわわ…」
 慌てたように皮剥き器をしまいこむマルチを見て、ひろのは溜息をついた。
「やっぱりあの人の作品か…」
 どうも手加減とか物の限度がわからない人である。もっとも、この皮剥き器は切れ味を落とした上で製品化され、結構なベストセラーになるのだがそれはさておき。
 結局、ひろのは包丁、使いこなせるマルチは皮剥き器で順調に芋を剥き終わり、さらににんじんや玉ねぎも決められた大きさに切り落として、野菜類の下拵えは終わった。

「さて、次はお肉ね」
 真帆は冷蔵庫から二種類の肉を取り出した。普通の牛ロース肉のほかに、スジ肉が用意されている。
「だしを使っても良いけど、今回は肉のうまみだけで勝負するようにするわね」
 真帆は言った。スジ肉は固いしクセがあるが、うまみは良く出る。良くテレビのグルメ番組などで高級な肉を使って肉じゃがを作る場面が紹介されているが、真帆に言わせるとあれは邪道の極みらしい。
「肉じゃがは肉のうまみで芋や野菜を食べる料理よ。ああいうグルメ番組は肉しか見えてない素人のやる事ね」
 熱心に言う真帆に、ひろのは笑い出した。
「あかりも同じような事を言ってましたよ」
 すると、真帆は嬉しそうな表情になった。
「そう?さすがにあの娘はわかってるわね…」
 料理にはこだわりのある者同士、真帆とあかりの間には強い共感があるらしい。ニコニコしながら真帆は言った。
「じゃあ、まずはお肉をさっと炒めて、それから味付けに入るわよ」
 真帆はまずお手本を見せるため、鍋に肉を入れ、軽く炒めた。軽く火が通ったところで水と酒を入れ、醤油や砂糖で味を調節しながら煮込んでいく。その手際のよさは、ひろのから見れば魔法のようだ。マルチに至っては、何がなんだかわからないらしく、「はわ〜」と溜息をつきながら見ている。
 味見をして、その結果に満足した真帆は、2人の方を振り向いた。
「こっちはしばらくしたら出来るとして…みんなもやってみる?」
「「はーい」」
 それぞれに返事をして、ひろのとマルチは鍋を用意した。コンロの火をつけ、さいばしで鍋の表面に牛脂を塗りつける。それが終わると、4〜5センチほどの大きさに切った肉を放り込んだ。油がはじける小気味良い音と共に、食欲をそそる香ばしさが立ち込める。
「えっと、次はお水を…」
 ひろのが計量カップに手を伸ばそうとしたその瞬間、ものすごい熱気が彼女の斜め前方から吹き付けてきた。
「あつっ!?」
 慌てて飛びのくひろの。もう少しで前髪を焦がされる、と思うほどの熱さだった。そして…
「はわわ〜っ!? か、火事ですぅ!!」
 マルチが慌てふためいていた。彼女の鍋から火柱が立ち上っている。
「マルチちゃん、落ち着いて! すぐ消えるわ!」
 真帆が叫んだ。マルチの前には、「料理酒」と書かれた紙パックが置いてある。どうやら、順番を間違えて水の前に酒を入れたため、フランペ(酒のアルコールを燃やして香り付けをする技法)と同じような状態になったらしい。しかし、フランペの炎ならば一瞬に消えるはずが、酒の量が多かったのかなかなか火は消えなかった。
「はわわ、緊急消火ですぅ!」
 混乱したマルチが、どこからともなくバズーカ砲を取り出した。ひろのはマルチが何をしようとしているかを悟り、慌てて止めようとした。
「ま、マルチ!それはだめぇっ!!」
 その制止も一足遅く、マルチのバズーカが火を噴く。それが流し台に着弾したと思いきや、「ぼふんっ!」と言う音と共に、周囲が刺激的な白い粉で覆われた。その白煙はキッチンからダイニングにまで広がり、視界の全てを白く塗りつぶした。消火弾だ。
「けほっ、こほん、こほんっ!! ま、真帆さん…大丈夫ですか?」
「わ、私は大丈夫…けほ、けほんっ!!」
 ひろのと真帆は白い闇の中、声を頼りにお互いの位置を確かめた。やがて、粉が拡散して視界が晴れてくると、キッチン全体の惨状がわかった。鍋は白い粉に覆われ、アルコールの火は完全に消えている。ついでにガスコンロの火も消えていた。ひろのは元栓を締めてガス漏れを防いだ。
「ふぅ〜…良かった、延焼せずに消えたですぅ…」
 そこへ、のんびりした声が聞こえてきた。マルチだ。バズーカを小脇に抱え、何事かをやり遂げたように額を拭っている。
「「ぜんぜん良くない!!」」
 ひろのと真帆は一斉にマルチに激しくツッコミを入れた。
「は、はわ〜!!」
 怒られたマルチが頭を抱えてしゃがみこむ。その後キッチンの現状を調べ、結局、真帆の半完成品も含め、全ての肉じゃがの鍋がだめになり、せっかく切った食材も全滅と言う痛ましい惨状が明らかになったのだった。
「これは、今日はもうとても続けられませんね」
 ひろのが言った。真帆も頷く。
「そ、そうね…また明日にしましょう」
 二人が話すたびに、口の周りについた白い粉がぽふ、と輪のように飛び散る。
「じゃあ、今日はここで解散、と。その前に…」
 ひろのと真帆はマルチを見た。
「「ちゃんと片付けようね?」」
「は、はいですぅ…」
 マルチはうなだれて答えた。この後、彼女はほとんど一晩中ダイニングキッチンの復旧作業に追われることになる。

 たかが肉じゃが、されど肉じゃが。家庭料理の基本だからこそ、美味しく作るのは難しい…とは言え、料理以前の問題で2日にわたって講義が中断されてしまえば、ひろのも慎重になる。
 と言う事で、ひろのは今日はあかりも連れて家に帰ってきた。玄関で真帆が出迎える。
「こんにちは、神岸さん。今日はよろしくね」
「はい、お願いします」
 鉄人同士が微笑みあう。二人でマルチをしっかり指導し、料理の最中に破壊活動を行えないように見張るのが彼女たちの任務だ。
 最初の本題だったはずのひろのへの料理指導だが、これはひろのなら自習でも何とかなるだろう、と言う事で、どうしてもわからない時だけ二人に聞く事にしている。
「さて、今日も始めましょうか」
 真帆の言葉にひろのは頷いた。マルチはあかりから直接指導を受けて皮剥きをしている。ひろのも昨日消火弾の粉をかぶらずに済んだじゃがいもを手に取って、包丁の刃を滑らせた。さすがに3日目ともなると、ひろのの皮剥きの腕も上達し、最初よりもすっとスムーズに剥けるようになっていた。
 真帆の見守る前で、順調にじゃがいもを剥き終わり、4つ切りにしたひろのは、続けてにんじん、玉ねぎ、肉とよどみなく下拵えを続けていく。あかりと真帆はその手並みに満足げな表情を浮かべた。教え子の成長を見守る教師のような気分だ。その教え子が出来がいいのだからなおさらである。
 ひろのは下拵えを終わらせ、鍋の準備に取り掛かった。昨日と同じく熱した鍋の底に牛脂を塗り、切ったロース肉とスジ肉を炒める。火が通ったところで、計量カップで500ccの水を入れた。ここまでが、昨日の手順だ。
「次はお酒…どれくらい入れればいいのかな」
 ひろのが料理酒のパックを引き寄せて言うと、真帆がアドバイスをした。
「そうね、だいたい大さじ2杯くらいかな?」
「お酒のパックの横なら、目安が書いてあると思うよ」
 あかりもそれに続く。ひろのは礼を言って、その通りの量を鍋に入れた。ほのかなアルコールの匂いが辺りに漂った。
「それから、醤油と砂糖で味付け、っと…」
 ひろのは調味料を加えて味付けをして行った。鍋からは次第に食欲をそそる良い香りがし始めた。
「順調ね、ひろのちゃん」
 真帆が声をかけると、ひろのは楽しそうに頷いた。
「はい。料理って結構楽しいんですね。なんであんなに面倒くさがったのかな…」
 ひろのは昔の自分を思い出した。周りに料理をしなくても良い環境がそろっていたとは言え、これまで全く料理をしてこなかったのが、なんだか損をしていたように思えた。
「そうでしょう? でも、楽しさに気付いたなら、これからも時々は料理を作ってみる?」
 真帆の言葉に、ひろのは満面の笑みを浮かべて頷いた。
「はい。出来たら、もっといろんなメニューを教えてくださいね」
「もちろん」
 ひろのの願いに真帆は二つ返事で応じた。
「ひろのちゃん、わたしもいろんなメニューを教えてあげるよ」
 あかりが対抗して申し出る。
「うん、よろしくね、あかり」
 ひろのは頷くと、鍋の様子を見に戻った。ふたを取ると、良い香りの湯気が立ち上る。
「るるる〜ららら〜♪」
 順調に進んでいる事が嬉しいのか、思わず鼻歌を歌うひろの。その後姿を見ながら、あかりは思わず妄想の世界に遊んでいた。

 がちゃり、と玄関の扉を開けると、良い匂いが鼻をくすぐった。
「ただいまー」
 家の奥に向かって声をかけると、キッチンの入り口からエプロンに身を包んだひろのが出てきた。手にはおたまを持ったままだ。
「おかえり、あかり」
 嬉しそうに言うひろの。あかりは鼻をひくつかせて、今夜のメニューを推測する。
「この匂いだと…肉じゃがに焼き魚、それとわかめの酢の物…かな?」
「さすがあかり。全部当たりだよ」
 ひろのは頷くと、あかりを食堂まで連れて行った。テーブルの上には出来たての料理が並んでいる。愛情たっぷりの手作りだ。あかりは椅子に座り、ひろのが向かいに座る。
「「いただきます」」
 手を合わせ、箸を手に取り、料理を口に運ぶ。噛みしめれば、口一杯に広がる幸せの味。
「おいしい?」
 ちょっと不安そうな表情で尋ねてくるひろのに、あかりは親指を立てた拳を突き出した。
「美味しいよ、ひろのちゃん」
「本当? 良かった…」
 安心したように微笑むひろの。幸せな二人だけの時間…

「そういうのも良いなぁ…」
 あかりは呟いた。しかし、ひろのがまだ浩之だった頃、この妄想は配役が逆だった。わずか数ヶ月の間に、徹底的に間違った方向に進んでいる気がしないでもない。
 すると、そこへなにやら焦げ臭い匂いが漂ってきた。あかりはひろのに呼びかけた。
「ひろのちゃん、何か焦げ臭くない?」
 ひろのが慌てた表情で答えた。
「いっけない、火を止めるのを忘れてた!!」
 立ち上がり、コンロの方へ駆けて行くひろの。あかりは思わず笑いながらその後姿を見送る。
「もぉ、ひろのちゃんったらドジなんだから〜」
 そのあかりの肩を、コンロの火を止めに行っているはずのひろのが揺さぶった。
「誰がドジだって?あかり、しっかりして!!」
「…え?」
 その瞬間、あかりの意識ははっきりと覚醒した。同時に、鼻が猛烈に焦げ臭い匂いを感じ取る。
「もう〜…あかりがついているのにマルチに鍋を焦がさせるなんて…」
 ひろのの言葉に、あかりは慌てて後ろを振り向いた。そこでは、マルチの鍋から灰色の煙が吹き上げて、天井のあたりを漂っていた。そのマルチはしゅんとして真帆の言葉を聞いている。
「マルチちゃん、煮物をする時は、強火にしちゃダメよ。じっくりと煮込まないと、味は染みないし、焦げる事も多いの」
「はわわ…すいませぇん」
 マルチが頭を下げた。あかりが妄想にふけって見張りを忘れている間に、彼女は思い切り強火を使って、見事に肉じゃがを炭化させてしまったのだ。
「う…」
 自らの監督不行き届きを知り、思わず冷や汗を流すあかり。これは怒られると思った彼女だったが、ひろのの言葉は優しかった。
「あかり、体調悪いの?」
 あかりは首を横に振った。
「え?そ、そんなことはないけど…それより、ひろのちゃんのはどう?」
 あかりが話題を変えると、ひろのは安心したように微笑み、自分の鍋を指さした。
「うん、たぶんうまくできたよ」
 あかりは頷いて、鍋に近づいてふたを取った。途端に、濃密な芳香が湧き上がり、あかりの食欲を猛烈に刺激した。覗き込めば、そこには煮崩れも起こさず、実に良くできた肉じゃがが鎮座していた。
「わ…す、すごい…」
 あかりは驚嘆した。自分がこんなに上手く肉じゃがを作れるようになるまでは、無数の失敗があったからだ。
「やっぱり、ひろのちゃんは天才だよ」
 そのあかりの誉め言葉に、ひろのは真っ赤になって照れた。
「そんな事ないよ…やっぱり、先生が良かったから…ありがとう、あかり、真帆さん」
 ひろのはあかりに礼を言い、ついで真帆にも頭を下げた。
「私はそんな大した事は教えてないもの。神岸さんの言う通り、才能かもね」
 真帆は嬉しそうに答えた。すると、そこへセバスチャンがやって来た。
「何やら焦げ臭いの。大丈夫か?」
 心配そうに言うセバスチャン。ひろのは自分の鍋を見せた。
「大丈夫、上手くできたよ、おじいちゃん」
「ほぉ、これはなかなか…さすがはひろの、我が孫娘じゃ」
 愛孫娘の成果に、セバスチャンは目を細めた。
(最初、遠縁の娘って言う設定じゃなかったっけ…?)
 その会話を聞きながらあかりは首を傾げたが、まぁ、それだけひろのが愛されていると言う事かもしれない。
「さて、ご飯も炊けていますし、夕食にしましょうか」
 マルチの焦がした鍋を処理し終わった真帆が言うと、全員が一も二もなく賛成する。時計は既に7時近く、食事にはちょうどいい時間帯だった。

 テーブルの上にひろのの肉じゃが、その他真帆が用意していたおかず類、さらに、ついでだからとあかりが作ったみそ汁を並べ、ご飯をよそうと、長瀬家の夕食の準備は整った。
「それでは…いただこうとするかの」
 家長であるセバスチャンが宣言し、3人の少女たちも「いただきます」と挨拶をする。ちなみに、マルチは彼女なりの夕食…充電をしていた。
 まず、ひろのは何にも手をつけずに、真剣な表情で他の3人の様子を見守った。みんな迷わず肉じゃがに手を伸ばし、芋や肉をつまむと、それを口に運んだ。
「おいしい?」
 ひろのが不安そうに聞くと、あかりも、真帆も、セバスチャンも破顔して答えた。
「うん、すごく美味しい!」
「美味しいわよ」
「うむ、美味い」
 その誉め言葉に、ひろのは安心したように微笑んだ。
「良かった。じゃあ、私も…」
 ひろのが自分の作品を食べようと箸を伸ばしたその瞬間だった。
「…ん?」
「あれ?」
「む?」
 3人の様子が変わった。ひろのの手が止まる。
「ど、どうしたの?」
 ひろのが尋ねたその瞬間、異変ははっきりとその姿をあらわした。まず、あかりが意識を失い、ふらっと床に崩れ落ちる。ついで、真帆が「うっ…」と小さくうめき、椅子に身体を持たれかけさせるようにして気絶した。彼女の手から落ちた箸が床に転がると同時に、セバスチャンが白目を剥いてテーブルに突っ伏す。
「み…みんな…ど、どうしたの? ねえ、ねえってば!!」
 ひろのは慌てて立ち上がり、3人に駆け寄った。みんな、完全に意識を失い、ピクリとも動かない。
「ど、どうしよう…まさか、この肉じゃが…」
 何かとんでもない失敗をして、肉じゃがに猛毒でも入れてしまったのか。ひろのは箸の先を肉じゃがの汁につけ、ちょっとだけ舐めてみた。
「…うっ!」
 最初は何ともなかったが、数秒でひろのの身体にも異変が訪れた。身体が強張り、冷たい汗が全身ににじみ出る。この肉じゃがは、明らかにおかしい。
「う…大変…医者…」
 しびれる身体を無理やり引きずって、ひろのはマルチのところまで行き、端末の起動ボタンを押した。
「…はわ?ひろのさん、どうしました?」
 目を覚まし、不思議そうな表情で尋ねるマルチに、ひろのは切れ切れの声で言った。
「お医者さん…呼んで…料理に…毒…」
 それだけ言うと、ひろのも床に突っ伏した。マルチが慌てたように叫ぶ声が聞こえる。
「早く、電話…」
 ひろのが言うと、マルチはようやく立ち上がり、端末を引きずったまま電話のところに走っていった。その間、ひろのは床にずっと倒れていたが、やがて身体の痺れが収まり、激しく脈打っていた心臓の動きも落ち着いてきた。汗がひき、身体が自由を取り戻す。わずかな量だったので、毒?の効果が低かったのだろう。
 それでも重い身体をむりやり起こすと、マルチが戻って来た。
「はわわ…だ、大丈夫ですか?ひろのさん」
 「私は大丈夫。それより、あかりたちを…」
 そう答えた時、扉が開き、医者と担架を担いだメイドたちが入ってきた。本邸内に常駐している来栖川家の主治医の先生である。ひろのも、以前風邪をひいた時に世話になった事がある。
「食中毒かね?」
 そう言いながら、医師は気絶している3人の様子を見て回った。目を開けて光を当て、瞳孔の様子を観察したり、脈を取ったりしている。
「わ、わかりません。みんな、その肉じゃがを食べたと途端に…」
 ひろのが自分の作品を指さすと、医師は匂いをかいだりして肉じゃがを観察した。
「ふむ…食中毒にしては変だな。毒物だとしても、こんなに即効性で威力の強いものは少ないし…まぁ、後は私に任せなさい」
 そう言うと、医師はメイドたちに3人を本邸の医務室に移すように命じた。自分はひろのに肩を貸して立ち上がらせる。
「君もちょっと診察した方が良い。来なさい」
 ひろのは頷き、一緒に本邸の医務室に向かった。3人はベッドに移され、ひろのは診察の後、同じ部屋で夜を明かす事になった。そして、翌日、一睡もせずに朝を迎えたひろのに、医師は意外な結論を告げた。

「え、毒じゃない?」
 ひろのの言葉に、医師は頷いた。
「あんなに即効性で、しかも人を殺さず気絶させるだけ、なんて毒はないよ。あの肉じゃがも、いくら調べても何も出てこなかったし」
「じゃあ、どうして?」
 ひろのが訊くと、医師は立ち上がって扉を開けた。そこには、芹香が立っていた。
「先輩!どうしてここに?」
 ひろのが訊くと、芹香の代わりに医師が答えた。
「毒じゃないとわかった時点で、お嬢様の専門ではないかと思ってね…お嬢様、後はよろしく」
 芹香はこくこくと頷くと、ひろのに彼女の調べたことを告げた。
「…え?あの肉じゃがには呪いがかかってる?」
 ひろのはあっけに取られた表情になった。
「誰がそんなことを…」
 ひろのがそう言うと、芹香は黙ってひろのの顔を見た。最初何がなんだかわからなかった彼女だったが、芹香の行為の意味に気がつき、愕然となった。
「ま、まさか先輩は…私が肉じゃがを呪った、とでも言うんですか…?」
 震える声で言うひろのに芹香はこくこくと頷き、真相を口にした。
 言うまでもなく、ひろのは魔法によって生まれた存在である。そのため、普通の人に比べて体の中に魔力が溜まりやすい体質になっているらしい。そして、料理を作ると言う事は、一種のいけにえの儀式ともみなせるため、食材に自然に魔力が漏れて呪いのような澱みになったのだという。
「そんな…じゃあ、私は料理が作れないんですか?」
 芹香の説明に、ひろのはがっくりと肩を落とした。すると、芹香はふるふると首を横に振り、何事かを口にした。
「…」
「え?私がお祓いをして呪いを消せば、食べられるようになる? 本当ですか!?」
 芹香の言葉に、ひろのは顔を上げた。しかし、すぐに首を横に振る。
「いや…良いです。私が何か作るたびに先輩にお願いするのも大変ですし…あ、でも、一回だけお願いして良いですか?」
 ひろのは数日後に迫った家庭科の実習を思い出し、芹香にそのサポートをお願いした。もちろん、芹香としても異存はない。そして、彼女のお祓いにより、無事にあかり、真帆、セバスチャンは目を覚ましたのだった。
 そして、実習を終えたひろのは、もう二度と料理を作る事はなかった。

(つづく)

次回予告

秋の夜長の友…ラジオ。その公開録音へのご招待にひろのが当選した事から騒動は始まる。同じ日に当たった常連投稿者は、みんなひろのが会った事のある人ばかり。はたして、録音は無事に終わるのか?
次回、12人目の彼女第三十八話
「長瀬ひろののハートフルラジオ」
お楽しみに〜。


あとがき代わりの座談会 その37

作者(以下作)「今回はギャグでありがちな殺人シェフは実は笑えないと言う話でした」
ひろの(以下ひ)「だからこの話はしたくなかったのに…」
作「いや、某鬼の長女とかの普通の殺人シェフは人に食べさせるのに喜びを覚えるのに、自制して料理すら作らない分、ひろのは立派だと思うぞ」
ひ「そんな誉められ方嬉しくないよ」
作「でも、見た目はまとも、味もまとも、でも殺人料理と言うのは最強のパターンだな」
ひ「殺人殺人って連呼するのはやめてよ!」
作「すまない。しかし、惜しいな…呪いさえなければ食べたいところだが」
ひ「一応、芹香先輩に事前に食材をお祓いしてもらう、という手はあるけど…」
作「儀式に3時間かかるんだっけ?」
ひ「うん…だから、そんなに気軽には頼めないでしょ?」
作「その手間をかけても、ひろのの手料理を食べたい!って言う人はいそうだけど」
ひ「うん、一回芹香先輩に頼まれた事はあるよ。断ったけど…」
作「なんでだ?お祓いをする本人の頼みなんだから迷惑はかからないだろ?」
ひ「だって、肉じゃがの作り方しか知らないもの。他の料理を作る練習のために、いちいちそれに使う食材をお祓いしてもらうのはさすがに…」
作「あ、なるほど…」

収録場所:長瀬邸ダイニングキッチン


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