※このお話は、日々可愛くなっていく一人の女の子と、日々人として大切な何かを失っていく彼女の友人たちの物語です（殴）。
To Heart Outside Story
12人目の彼女
第三十六話「宴は進む。されど踊らず」
綾香がその言葉を発したのは、秋もそろそろ終わりに近づこうかと言う時期だった。
「あー…またあのうっとうしいあれが来るわねー…」
その言葉に、綾香の隣で魔法書を読んでいた芹香がこくこくと頷いた。ひろのはその言葉の意味が分からず、顔を上げて綾香の顔を見た。
「あれ…って、何？」
そのひろのの素朴な質問に、綾香は彼女には珍しいアンニュイな表情になって答えた。
「舞踏会よ」
ひろのは首を傾げた。
「武闘会？それなら綾香の得意分野のような…」
これには綾香も苦笑して訂正する。
「ひろのもそう言うボケをするようになったのね。そうじゃなくて、ダンスパーティー。あたしたちみたいな…まぁ、自慢がましく聞こえるかもしれないけど、良家の子弟が集まってやるそういうイベントがあるのよ」
「へぇ…」
ひろのの反応は鈍かった。メルヘンに憧れる女の子であれば、ダンスパーティーと言うのはドレスで着飾って一夜のお姫様気分を感じる事のできる夢のイベントの一つだが、あいにくひろのは普通の女の子ではなかった。
「で、何でそんな嫌そうな表情なの？」
それでも、ひろのにも来栖川姉妹が舞踏会を嫌がっている事はすぐに理解できたので、それが何故なのかを尋ねてみた。
「あぁ、それはね、舞踏会とは名ばかりで、一種のお見合いなのよ」
「…お見合い？」
ひろのはきょとんとした表情になった。舞踏会とお見合いの繋がりが良く見えなかったようだ。そこへ、芹香が詳しく説明をする。
「…」
「なになに…舞踏会と言う名目で、良家の子弟が一堂に会する場を設けて、知り合う機会を作るんです…ですか？」
こくこくと芹香が頷く。要するに、上流階級の人々としては、やはり子供を同じくらいのステータスの一族の者と結婚させたい。そのために、こうした会が始まったのだと言う。
「それで、うちみたいにそこそこ格が高くて、しかも姉妹だけ、って言う事になると、そこら中のお坊ちゃんたちが群がってくる、って訳よ。それがうっとうしくて」
綾香の容赦無い切り捨てに、ひろのは思わず苦笑する。
「あぁ…それは確かにそうだよね」
ひろのもしつこく男に付け回された経験がある。その時のうっとうしさ、煩わしさ、気持ち悪さは他に比べるものがない。
「でも、家柄とか関係なしに先輩と綾香のドレス姿なら素敵だと思うけどなぁ…私も見てみたいな」
ひろのが言うと、綾香はニヤリと笑って切り返した。
「そぉ？ま、あたしとしてはひろののドレス姿こそ見たいけどね〜」
その言葉に、ひろのは苦笑すると手を振って否定した。
「無理無理。私なんて一般庶民だもの。ドレスなんて似合わないよ」
今度は芹香が首を横に振った。
「…」
「え、そんな事ないと思います？ありがと、先輩」
芹香の言葉に微笑で応じるひろの。しかし、この直後に事態は一転する。部屋に緊張した表情のセバスチャンが入ってきたのだ。また、ロッテンマイヤーもその後に続いている。大物二人の来訪に三人の間に緊張が走った。
「どうしたのよ、セバスチャン。ずいぶんいかめしい顔しちゃって」
その中で、真っ先に口を開いたのは綾香だった。しかし、セバスチャンはそれには答えずひろのに向かって言った。
「ひろの、ドレスを作るから、六手殿についていきなさい」
「…え？」
思いもよらない言葉に、ひろのは思わず間抜けな声をあげる。さっきまで話題にしていたばかりのドレス、自分が着る事はないだろうと思っていたそれを突然作ると言われ、訳がわからなかったのだ。
「作るって…どうして？」
ひろのの質問に答えたのはロッテンマイヤーだった。
「あなたも舞踏会に出るんざますよ」
「…ええっ！？」
あまりのことにひろのは固まった。
事の発端は、1時間ほど前にさかのぼる。
「そう言えば、この季節になるとあれが来るな」
来栖川家当主、厳彦氏の言葉に、セバスチャンはそうですな、と応じた。彼自身は「あれ」、つまりダンスパーティーを嫌っている。理由は簡単で、大事なお嬢様に虫が寄ってくるからである。
その一方で、厳彦氏は一家の主として舞踏会のようなイベントは歓迎していた。
「あれでなぁ…芹香でも綾香でも良いから、良い男を掴まえてくれれば、わしも安心できるというものだが」
「は、はぁ…」
セバスチャンには頷くことしかできない。時代錯誤と言われようが、こうした階層の人々にとって「後継ぎを作り、家を残す」事は重要なことなのである。
「ところで長瀬よ。おまえのところの娘もそろそろ良い年頃であろう。社交界入りはさせないのか？」
「は…はぁ？」
頷こうとして、セバスチャンは素っ頓狂な声をあげた。主の前で彼がこうした態度を見せることはとても珍しい。
「何を驚いている？」
不思議そうに言う厳彦氏に、セバスチャンは汗を拭きながら答えた。
「そ、そうは申しましても…ひろのはまだ子供ですから」
「子供って…どこがだ？」
厳彦氏のツッコミが入った。まぁ、見た目だけならひろのは十分以上に大人であると主張できるだろう。
「し、しかし…我が家などあの中に入るのもおこがましいと申し上げなければ…」
セバスチャンがさらに言うと、厳彦氏はまた不思議そうな表情になった。
「何を言っている。長瀬家といえば各界に優秀な人材を輩出している家ではないか。そう謙遜することもあるまい」
「…そうなの？」
ひろのが不思議そうな顔になったのは、「長瀬家は実は名門？」と言う事に対してである。
「実はそうらしいわよ」
綾香が答えた。厳彦の言う通り、長瀬家にはあちこちで活躍している人物が多い。教師、刑事と言った公僕の仕事に従事する者もいれば、業界では有名な骨董品鑑定士、名うての芸能プロデューサーなどもいる。人材のカオスだった。
「そ、そうだったんだ…」
ひろのが意外な事実に驚くそばで、セバスチャンは話を先に進めた。
「と、ともかく…ひろのはまだあの世界に出るなど早すぎます。もし粗相などあれば、来栖川家の恥ともなります故」
セバスチャンがあくまでも反対すると、厳彦氏はこらえ切れないように笑い出した。最初はくぐもった笑いだったのが、だんだん大きな笑い声に変わっていく。
「いやはや、長瀬よ、お前でもムキになることがあるのだな。まぁ、自慢の孫娘を大事にしたいという気持ち、わからぬでもないが」
ひとしきり笑った後、厳彦氏はまじめな顔に戻った。
「長瀬よ、ワシの見るところ、ひろの君はどこに出しても恥ずかしくない立派な淑女だぞ。のう、舞子君」
「大旦那様のおっしゃる通りですわ」
ロッテンマイヤーが涼やかな口調で答えた。さすがに目上の人に対してはざます言葉では話さないらしい。
「立ち居振舞いもすっかり板についてきました。もうデビューしても大丈夫でしょう」
ここに来た当時のひろのの姿を思い出し、それから女性らしさについて指導して来たロッテンマイヤーとしては、その「成長」ぶりがうれしいのだろう。常に無い優しい微笑を浮かべている。
「は、はぁ…」
セバスチャンはハンカチで汗をぬぐった。事ここに至っては、ひろのをデビューさせる事は避けられそうも無かった。
「…と言うわけじゃ」
セバスチャンが事情を説明すると、ひろのは困った表情になった。
「で、でも、私ダンスなんて…」
そう、ダンスと名のつくものはせいぜい学校の行事でやるフォークダンス程度の経験しかないひろのは、当然のことながら社交ダンスなど習った事は無い。しかし、それを聞いてロッテンマイヤーの目がきゅぴーん、と怪しげな光を発した。
「それはいけないざます。ドレスの採寸ついでにあたくしがレッスンをしてあげるざます」
「…はい」
ロッテンマイヤーにはいかなる反論も通じない。ひろのはあきらめて素直に従う事にした。沈んだ表情のひろのに対し、ロッテンマイヤーはどこか楽しそうである。こう見えて、彼女はひろのを非常に高く評価しているのだ。噂によると、いずれはひろのを正式に来栖川家に仕えさせ、ゆくゆくはメイド長として自分の後継者にしようと考えている…らしい。出所は不明だが。
ともかく、ひろのはロッテンマイヤーに連れられて部屋を出て行った。
「へぇ…ひろののドレス姿ね…これは見るのが楽しみだわ」
綾香の言葉に芹香がこくこくと頷く。一方、セバスチャンは苦悩の表情を浮かべていた。
上流階級の舞踏会と言っても、先ほど話したように実態はどろどろした打算の渦巻く場である。やってくる面々も場にふさわしい人格の持ち主ばかりではない。中にはろくでもないのも混じっているのだ。
（ひろのを守らねばならん…）
セバスチャンは心中密かに決意するのだった。
さて、ひろのの方はロッテンマイヤーに連れられて街へ来ていた。やって来たのは、一軒の洋品店。
「ここは、あたくしが若い頃から懇意にさせてもらっている店ざます」
ロッテンマイヤーがそう言って店の入り口をくぐると、既に連絡を受けていたのか、店主と思しき中年女性が満面の笑みを浮かべて待っていた。
「まぁまぁ六手様。お待ちしておりました」
「いえいえ、今日は私ではなくこの娘の事をよろしくお願いするざます」
そう言うと、ロッテンマイヤーは一歩下がってひろのを前に出した。
「あ…よ、よろしくお願いします」
ひろのは頭を下げた。店主は挨拶を返すと、ひろのの全身をまじまじと見つめた。そして、文字通り破顔一笑してロッテンマイヤーに向き直った。
「まぁまぁ…素晴らしいお嬢様ですね。ようございます。腕によりをかけて最高の一着を仕立て上げましょう」
そう言うと、店主はさっそくひろのの身体のサイズをすべて完璧に計測し、参考となるデータを集めた。
「完成までには二週間ほどお時間をいただきます」
最後にそう言った店主に見送られ、ひろのとロッテンマイヤーは店を後にした。
「あの…六手さん」
ひろのは横を歩くロッテンマイヤーに話し掛けた。
「なんざますか？」
「あの…ドレス、ああいうところでオーダーメイドで作ると、ものすごく高いような気がしたんですけど…」
ひろのが言うと、ロッテンマイヤーは少し考えた。
「そうざますね…だいたい50万円くらいだと思うざます」
「ご…50万！？」
ひろのは絶句した。この前の子供服よりも遥かに高い。
「お嬢様方のドレスに比べれば安い物ざます」
ロッテンマイヤーは事も無げに言った。まぁ、先輩も綾香も、あの二人ならどんな凄いドレスだって着こなして見せるだろう。しかし、自分が50万円もするドレスを着たら、「服に着られて」しまうのではないかなぁ、とひろのは心配になった。
「何も心配する事はないざます。もう少し自分に自信を持つざます」
そんなひろのの不安を見抜いたのか、ロッテンマイヤーは気楽な口調で言ったが、ひろのはそんな風に楽観的にはなれなかった。
そして、家に帰れば今度はロッテンマイヤー直々の指導でダンスの特訓である。１日１時間ほどの練習だったが、そこは器用なひろのの事、大会に出るとかは無理でも、少なくとも恥をかかずに済む程度に踊れるようになるまではそう時間はかからなかった。
そして、あっという間に二週間が過ぎた。ドレスが出来た、と言う知らせを受けたひろのは、再びロッテンマイヤーに伴われてあの店に来ていた。
「お待たせしました。今回は我ながら自信作ですよ」
店主がにこやかな笑みを浮かべて言う。しかし、良く見ると目の下に隈が出来ていた。かなり根を詰めて作業をしていたのだろう。
「では、さっそく拝見させてもらえるざますか？」
ロッテンマイヤーの言葉に頷き、店主は二人を採寸をした奥の作業室に案内した。
「これは…」
ひろのは出来上がってきたドレスを見て思わずため息を漏らした。
全体はひろのの好きな淡いスカイブルー。上半身は身体のラインが出るような形だが、肩の部分が膨らんでいるので、下品な印象ではない。露出度が高いのは嫌、というひろのの願いを入れて、その中で女性的魅力を強調するように考えられたデザインだった。
スカート部分は襞のついた、いわゆるプリーツスカートであるが、それを白のレースの飾り布で覆ってふわりとした印象を出している。
「相変わらず見事な物ざますね…」
ロッテンマイヤーが感心する。
「モデルが良いと私も張り合いが出ますから」
店主がそう言って笑うと、まだじっとドレスを見ているひろのの方に振り向いて尋ねた。
「どうです？今着てみますか？」
「え…」
ひろのはドレスを見た。最初は着る事にちょっとためらいがあったのだが、ここまで綺麗なドレスだと確かに着てみたくなる。
「せっかくざますけど、家に帰って髪形なんかも合わせながら着付けたほうが良いと思うざます」
そこへロッテンマイヤーが口を出した。
「なるほど、それもそうですね。では、包んでお渡しします」
ちょっと気勢を削がれてがっかりするひろのをよそに、店主はドレスを丁寧にたたみ、専用のケースに入れた。
「それでは、何かありましたらまたどうぞ」
そう言ってお辞儀をする店主に別れを告げ、ひろのたちは来栖川邸に戻った。
戻ってくると、早速ひろのは自分のウォークインクローゼットで着替えることにした。着付けには、ロッテンマイヤーのほかに真帆も手伝いに来ている。
「そっかぁ…ひろのちゃんもとうとう社交界デビューか。憧れちゃうわね」
微笑みながら言う真帆に、ひろのは苦笑しながら答える。
「そんな実感全然ないですけどね…えっと、ここを留めれば良いんですね？」
幸い、着物などに比べればドレスを着るのはそれほど手間ではない。コツさえ掴めば十分一人でも着られる。次に、椅子に座って、ロッテンマイヤーに髪形を整えてもらった。ロッテンマイヤーはひろのの髪を留めているリボンをいったん解き、ロールさせて後頭部でまとめるような髪型に変えていく。
「これで出来上がりざます。鏡を見てみるざます」
「あ、はい」
ひろのは立ち上がって、壁にかけられた姿身の前に立った。
「…！こ、これが私？」
ひろのは驚いた。そこに映っているのは、普段の自分とはまったく違う、どこかの良家の令嬢と言っても十分通用する少女だった。
とは言え、ロッテンマイヤーたちがこのコーディネーションをしたのも、ひろのが十分上流階級で通用する立ち居振舞いを身に付けているからである。外面だけ装っても、内面はどこかに滲み出るものだ。
「素敵よ、ひろのちゃん」
「なかなか良く似合っているざます」
真帆とロッテンマイヤーの賛辞に、ひろのは頬を染めて照れた。そして、クローゼットを出て部屋に戻ってみると、ひろののドレスができたと聞いて早速見物に来ていた来栖川姉妹とセバスチャンがほぅ、と言う感嘆のため息をついた。
「すごい…かわいいじゃない、ひろの」
綾香の言葉に芹香がこくこくと頷く。
「あは…ありがとう。照れくさいけど…」
そこで、ひろのはセバスチャンを見た。呆然と見とれていたセバスチャンは、はっと気づいたように咳払いをすると、赤い顔で言った。
「おほん…その…良う似合っとるぞ」
「ありがとう、おじいちゃん」
ひろのはにっこり笑った。それは、まさに大輪の花が咲くような笑みだった。セバスチャンはますますひろのを「悪い虫」から守らねばならぬと誓うのだった。
そして、いよいよ舞踏会当日の夜。場所は、都内某所の超高級ホテルの最上階にある円形ラウンジだった。普段は回転する展望レストランとして使われている場所だが、この日は回転を止め、全てのテーブルを配置換えして広大な空間を作り、ダンスホールにしていた。
ホテルの玄関には参加者を乗せた超高級車が続々と到着していた。ここではベンツなどは雑魚扱いで、ロールスロイスくらいでなければ高級とはみなされない。価値観の違う世界だった。
そんな中、来栖川家のリムジンが到着すると、ホテルのロビーで談笑していた参加者たちが一斉に注目した。
「あれは…来栖川の車だな」
「美人姉妹のいる家か…」
「楽しみだな」
そうした中に、ほかの参加者とはいささか毛色の違う連中が混じっていた。ひろのたちと同世代の少年たちだ。彼らも、ここに呼ばれるくらいだから、群を抜いた良家の出身であることに間違いはない。容姿のほうも優れており、全員がどこかのモデルか俳優だと言っても十分通るだろう。
しかし、彼らの身体からにじみ出る空気は、典雅とか高貴さとは全く違うものであり、むしろ尊大、傲慢といったものだった。彼らは自分の家が持つ権力・財力を己の欲望のために使って恥じない、人格的にはそこらのチンピラと大差ない者たちである。
彼らが下卑た視線を投げかける中、厳彦氏に続いて芹香が車を降りた。彼女のドレスは、純白でフリルやリボンを多用した清楚な印象のデザインだ。そうでありながら、肩の部分を大胆に露出している。これが、芹香が着ると清楚な中にもほのかな色気を醸し出し、実に良く似合っている。
続いて綾香。芹香とは対照的に、身体のラインが浮き出るようなデザインのドレスで、色も黒と対照性を際立たせるものを選んでいる。スカート部分は太ももの途中まで大胆にスリットを入れていた。しかし、これも綾香が着ると下品さは全くなく、彼女の健康美を引き立てる効果があった。
この対照的な姉妹の装いに、参加者たちがどよめく。来栖川家の姉妹の美人ぶりはこの世界ではつとに有名だが、まさにその評判に違わぬ存在であることを、彼女たちは見事にアピールしていた。
「見ろよ…あれがうわさの美人姉妹だぜ。大したもんだな」
「身体のほうも美味しそうじゃねーか」
口々に勝手な台詞を吐いていた少年たちだったが、次に降りてきた４人目…つまりひろのを見た瞬間、目が点になった。セバスチャンに先導された３人の少女がロビーを横切って最上階直通のエレベーターに乗り込むまで、彼らはもちろん、ほかの客たちも言葉を発することなく見守りつづけていた。
そして、エレベーターのドアが閉まった瞬間、話題は一気にひろの一色になった。
「だ、誰だ？あの娘は…」
「来栖川家にあんな娘がいたのか？」
そうした会話が飛び交う中で、少年たちはさっき決めたばかりの目標変更を決定していた。
「狙いは決まったな」
「ああ」
頷く他の二人。この時、彼らは既に死に至る第一歩を踏み出していたのだが、そんな事を神ならぬ身では知る由もなかった。
「うわぁ…」
会場の様子に、ひろのは思わず声をあげた。そこはまさに別世界。着飾った紳士淑女が楽しげに談笑する中、優雅な音楽が流れている。その曲に合わせて踊る人々。なんと言うか、おとぎ話の世界にでも迷い込んだような気分がした。
しかし、芹香と綾香は臆した様子もなくその中を進んでいく。すると、一人の男性が親しげに二人に声をかけてきた。ひろのはどこかで見覚えのある人だな、と思った。
「来栖川の御前、お久しぶりです」
「おお、久しぶりじゃな」
厳彦氏が笑うと、男性はいやまぁ相変わらずお美しいお嬢様をお持ちでうらやましい、などと言い、それからふとひろのに目を留めた。
「こちらのお嬢さんは初めてお目にかかりますな？」
「えぇ、私たちの友人で長瀬ひろのと言います。安全保障室の長瀬室長とは遠縁になるそうですよ」
綾香が答えた。男性はほぉ、と感心して、ひろのに名刺を差し出してきた。
「申し遅れましたが、僕はこう言う者です」
「あ、はい。長瀬ひろのと言います。よろしくお願いします」
ひろのは慌てて頭を下げながら、受け取った名刺を見た。そこには肩書きの所にこう書かれていた。
「内閣総理大臣」
（ええーっ！？）
あまりのことに固まるひろの。総理は選挙権が取れたらぜひ僕に一票、などと言って去って行った。
「あ、あ、綾香、あの人」
ひろのが名刺を指差しながら言うと、綾香はその反応に吹き出した。
「やぁねぇ。そんな事で驚いてたら、身体が持たないわよ。ほら」
綾香が笑いながら、会場の人々を解説していく。
「あそこにいるのは豊田自工の会長だし、話し相手はサニー電産の社長。向こうでお酒を飲んでるのは野党の幹事長だったかしら？とにかく、みんな政財界の大物よ」
「はぁ…」
ひろのは感心した様子で広間を見渡した。元々、彼女は権力だの身分だのにはこだわらない性格だが、それでもここにいる人々の持つ「我こそは天下を動かす者」と言う強烈な自負には圧倒される想いだった。
「さて、わしは知り合いと話して来るから、お前たちもしっかりやるのだぞ」
厳彦氏は言った。この場合、「しっかりやれ」とはいい男を捕まえて来い、の意味である。
「はい、お祖父様」
綾香が優雅に一礼し、芹香もそれに倣う。しかし、厳彦氏がいなくなってしまうと、綾香はめんどくさそうに頭を掻いてため息をついた。
「あーあ、お祖父様さえいなければこんなイベント速攻でキックして、どこかに遊びに行くんだけどなぁ…」
こくこくと芹香が頷く。
「もっとも、お祖父様のことだから、どこかで何らかの手段であたしたちの行動をチェックしている可能性は大だけど…ま、適当にやってごまかすわ」
「私はどうしようか？」
ひろのは聞いた。ダンスや作法は一応ロッテンマイヤーに習ったが、ダンスなんて覚えても実際にやるかどうかはわからないし、こうした場所での時間のつぶし方など知らない。
「まぁ、料理もあるし、適当に飲み食いして会場の隅っこででもおとなしくしてるのが無難ね。ひろのが下手に目立っちゃうと、絶対にダンスの申し込みとかされるだろうし」
「…う…それはやだな」
綾香の言葉を聞いてひろのは言った。そもそも「目立ちたくない」は彼女のモットーでもある。大人しくしているのがいちばんだろうと言う綾香の意見には賛成だった。
「じゃあ、隅っこでじっとしてる」
ひろのの言葉に綾香は頷き、時計を見た。
「おっけ。それじゃあ、だいたい１時間後くらいに、あの時計の下に再集合ね。じゃ、またあとで」
「うん、わかった」
ひろのといったん別れ、来栖川家の姉妹は歩き出した。
「…」
芹香が何事かを言うと、綾香は頷いた。
「そうね…姉さんの言う通り、ひろのが目立たないようにしようと言っても、無理な話だわ」
ひろのは黙っていても、どうしても人の視線を惹きつけずにはおられない少女だ。本人に自覚がないと言うのがまた困った話である。
「それじゃあ、しっかりフォローしてやらないとね」
「…」
綾香の言葉に芹香がこくこくと頷く。かくして、綾香も芹香もひろのから付かず離れずの位置を保ち、適当にダンスを申し込んでくる相手を捌きながら、ひろのの様子を見守ることにした。
一方、ひろのは適当なテーブルの一つで料理をつまんでいた。しかし…
（…これはあんまり食べられないかも）
ひろのは思った。料理がまずいとか口に合わないということではない。そもそも、こうした場所に着てくるドレスは、身体を細く見せるために、ウェストの部分を締め付ける構造をしていることが多い。ひろのの着ているドレスの場合は、上半身全体が締まるようになっていたから、お腹も締め付けられて食欲どころの騒ぎではないのだ。
そこへ、一人の少年が近づいて行った。さっき、下でひろのを見ていた素行不良のボンボンその１である。
「もしもし」
少年に声をかけられ、ひろのは顔を上げた。
「私ですか？」
少年は頷くと手を差し出した。
「ええ。僕と一曲踊ってもらえませんか？」
少年は上流階級らしい上品な物腰で問い掛けた。育ちが育ちだけに、これくらいの猫かぶりは朝飯前と言うところだ。
「え…その、連れを待っているので遠慮します」
ひろのは断った。来栖川姉妹との合流時間まではまだ50分以上あったが、その間に誰かと踊ろうと言う気はさらさらない。
「まぁ、良いじゃないですか。一曲５分もかかりませんし、連れの人もそれくらいは待ってくれますよ」
少年は強引にひろのの手を取った。そして、ホールの真中のほうへ引っ張っていく。
「え、そ、その、困ります」
ひろのは訴えたが、そこはやはり男のほうが力強い。あっという間にホールの中に連れ出されてしまう。すると、周囲から溜息のような声が漏れた。ひろのは言うまでもなく、少年のほうもなかなかの美形。知らない人間からはお似合いの二人と見えなくもない。
「まぁ、一曲だけですよ」
少年が言うと同時に曲が変わった。曲名はわからないが、ワルツ調のゆったりした曲である。
（仕方ないか）
ひろのは覚悟を決めた。それに、せっかくダンスを覚えたのだから、その成果を試してみたい、と言う気持ちは否定できない。
「お手柔らかに」
ひろのはそう言うと、ステップを踏み始めた。
（おお？）
驚いたのは少年のほうだ。リズム感が良いのか、ひろのの動きは流れるような美しさで、リードしてやるつもりだった彼の方が逆にリードされていた。
おまけに、間近で見ると、長身の彼とも釣りあいの取れる身長に、はちきれんばかりのナイスバディ。遠目で見てもわかるひろのの魅力を間近で見た少年は唸りっ放しだった。
（ちくしょう、一回きりで捨てるのはもったいないぜ。本気になりそうだ…）
少年はそう思った。やがて、曲が終わると周りから拍手が鳴り響いた。ひろのと少年のペアは、いつのまにかそれだけの注目を集めていたのである。
ひろのは教わったとおりにスカートの一部をつまんで一礼し、「ありがとうございました」と言うと、少年を置いて元の場所へ戻り始めた。
「ちょ、ちょっと待って。せめて名前を…」
後を追おうとした少年だったが、突然身体が動かなくなった。
（！？）
その異常に気づいた瞬間、彼のわき腹に凄まじい衝撃が走った。
「…がっ…」
少年は、肺の中の空気を全て押し出されるような苦痛と共に、意識を失った。そのわき腹には、綾香の拳がほとんど手首の部分まで埋め込まれている。しかし、その光景は周囲のどこからも死角になっていて見えなかった。
「しつこいと嫌われるわよ」
綾香は白目をむいてもはやピクリとも動かない少年にそう言うと、床に彼の身体を転がした。そして、視線をさっと周囲には知らせると、芹香と目を合わせた。綾香が追いついてとどめを指すまで、少年の動きを止めたのは、芹香の呪いだったのだ。親指を立てた拳を芹香に見せて成功を報せると、綾香は猫をかぶった状態で周囲に呼びかけた。
「まぁ、いけませんわ。どなたか救急車を…」
少年がいきなり昏倒し、担架で運ばれていくシーンは、他の二人も見ていた。
「どうしたんだ、あいつ？」
「さぁ…ま、アイツが脱落したんなら好都合だ。彼女を落としに行こうぜ」
そう言って二人が歩き出そうとすると、目の前に突然大岩壁のような男が立ちはだかった。
「なんだぁ？邪魔だ、どけよオッサン」
少年の一人が言うと、男…セバスチャンはニヤリ、と笑って言った。
「そうか、それがお主達の本性か…ならば遠慮はせぬぞ」
「はぁ？」
少年たちが聞き返した直後、彼らの姿は会場からかき消すようにしていなくなった。
翌朝、ごみ捨て場にボロキレのようにされた少年二人が転がされているのをホテルの従業員が発見することになるが、それは全くの余談である。
こうしてひろのを狙う３人は瞬く間に消滅したが、思い切り目立ってしまったひろのに対して、ひっきりなしに一曲お相手を、と求める男たちが群がるようになって来た。
「お嬢さん、ぜひ私と…」
「いや、僕と…」
そう言いながら迫り来る男たちに、ひろのは冷や汗を浮かべながらも言を左右にして応じない。一方で、彼女の正体を探る活動も始まっていた。携帯電話の付属カメラなどでひろのの画像を撮り、どこの誰かを調べている。
「送った画像は届いたか？…よし、すぐにどこの家の令嬢か調査するんだ。ヒント？来栖川の関係者なのは確かなようだが…」
こんな情景が展開され、舞踏会は例年にない活況を見せていた。しかし、逆に暇になってしまった人たちもいる。他家のご令嬢の方々である。普段は言い寄る男たちをどうにかするのに忙しい来栖川姉妹も例外ではない。
「あちゃ〜…困ったわね。あれだけ人数が増えると、問答無用で全員ぶっ飛ばす、と言うわけにも行かないし…」
綾香の言葉に芹香がこくこくと頷く。その近くでは、綾香たちとは違って男の人に声をかけられ、ちやほやされるのが好きなお嬢様方が集まって、悔しそうな視線をひろのに向けていた。
「まぁ…何かしらあれ。新参者のくせに、あたくしたちを差し置いて目立つなんて…」
「ドレスだって安物のくせに…」
恨み妬みのこもった会話が聞こえてくる。「ひろののドレス姿が見たい」と言う理由から、彼女が舞踏会に来ること自体は反対ではなかった綾香たちだが、どうやらここはひろのに向いた世界とは言い難いようだ。第一、ドレス姿など家で見ても大差ないはずである。
「まぁ、とりあえず時間も来てるし…合流するわよ」
綾香は芹香にひろの救出を呼びかけた。姉がこくこくと頷くのを確認し、彼女は芹香の肩を抱くようにして守りながら、ひろのに群がる男たちを掻き分けて進みはじめた。
「ひろの、迎えに来たわよ」
「綾香！先輩！」
今も2〜3人の青年に同時にパートナーを申し込まれて困り果てていたひろのが、ぱっと笑顔を浮かべる。
「すみません、連れが来たので失礼します」
そう言って言い寄る男たちを振り切り、ひろのは芹香と綾香の差し出した手を握った。ようやく包囲網を脱出できたひろのは、長々と安堵の溜息をつく。
「大変だったわね」
綾香が言うと、ひろのはふるふると首を横に振った。
「ん…でも、綾香も先輩も、普段こういう苦労をしてるわけだから、そりゃあ、来るのも嫌になるよね」
「いや…あたしたちのときはあそこまで凄くはないわよ」
綾香が答えると、ひろのは不思議そうな表情になった。
「そうなの？」
ひろのにとっては意外なことだったが、実はこのパーティーでは「来栖川家の姉妹は問題あり」というのが定説になっている。芹香はほとんど喋っているのが聞き取れないからコミュニケーションに難がありすぎだし、綾香の方はそもそも男嫌いのため、愛想も何もあったものではないからである。
しかし、容姿と家柄はここに来る中ではトップクラスであるから、リスクを承知で近づく者も少なくはない。そこへ、姉妹に匹敵する容姿を持つ上に、いかにも大人しそうなひろのが来たわけだから、人気が爆発するのもある意味必然ではあった。
そんな会話をしながら3人はいったん会場を出て、一階下の休憩所になっているフロアに降りた。すると、厳彦とセバスチャンが続いてやって来た。
「あ、お祖父様」
綾香が座っていたソファから立ち上がろうとすると、厳彦は「まぁまぁ、座ったままで良いぞ」と彼女を制止し、セバスチャンがすかさず隣に並べた別のソファに腰掛けた。
「どうじゃ、少しは楽しんでおるか」
厳彦の言葉に、芹香がふるふると首を横に振る。理由を聞く厳彦に、芹香はぼそぼそと何事かを告げた。
「ふむ、ひろの君のことが心配か…そうじゃな。今日はわしもひろの君の事ばかり聞かれて参ったぞ」
厳彦はからからと笑い、言葉を続けた。
「しかし、お前たちも友達想いじゃの。ひろの君がモテれば、自分たちも対抗してもう少し男の気を引こうとするかと思ったがの」
厳彦のこの言葉に、姉妹とセバスチャンが色めきたった。
「お待ちください、お祖父様。すると、お祖父様はあたしたちを煽るつもりでひろのをここに来させたんですか！？」
「いくらなんでも聞き捨てならぬ事ですぞ、大旦那様！！」
綾香とセバスチャンの非難の台詞に、厳彦は降参、と言うように手を上げた。
「うむ。しかし、わしが間違っておったようじゃな。もう二度とこんな真似はせんから、まぁ許せ。良いかな、ひろの君？」
「え？あ、はい。私は気にしてませんから」
厳彦の方に先に謝られ、ひろのがそれを受け入れてしまっては、綾香もセバスチャンも怒りの矛を収めるしかない。それを確認して、厳彦はひろのに向かって言った。
「それにしても、ひろの君は人徳があるな。もし男だったら、芹香か綾香のどちらかと結婚させて、将来は我が家を継いでほしいぐらいだよ」
「え…」
ひろのが顔を赤らめて俯くと、厳彦は大笑いした。
「はっはっは、まぁ、半分くらいは冗談じゃ。しかし、これからも芹香と綾香のそばにいて、二人を支えてほしいとは思っておる。今後もよろしく頼むぞ」
「は、はい。私も二人の事は好きですから…」
ひろのはそう返事したが、厳彦の言葉は実は大変な意味を含んでいる。ひろのがそう望めば、彼女の将来については来栖川家が全面的に面倒を見てくれると言っているのと同義だからだ。ロッテンマイヤーが自分の後継者にひろのを望んでいる、と言う噂に実質的な裏づけが取れたようなものである。
その可能性に気づき、顔を合わせて喜色を露わにする二人の孫娘を見ながら、厳彦は宣言した。
「さて、もう帰るかの。最近はここに来る者も俗物が増えていかぬわい」
『はいっ！』
こうして、ひろのにとっての社交界デビューは終わった。そして、その数日後…
「ひろのちゃん、ひろのちゃん！」
ひろのが学校から帰ってきたのを見つけて、真帆は彼女を呼び止めた。
「あ、真帆さん。呼びました？」
ひろのが真帆のほうを振り向くと、真帆は玄関に置いてあるダンボール箱を指差した。
「これ、全部ひろのちゃん宛てなんだけど…」
「私に？
ひろのは箱を開けた。中には立派な装丁の冊子が一杯に詰まっている。
「なんでしょう、これ…」
ひろのが首をかしげながら試しに一冊開いてみると、そこには爽やかに笑う男性の写真が貼ってあった。もう一冊開いてみる。違う男性の写真だが、どれも似たような感じだ。
「…なんだろう」
ますますわからなくなったひろのに、真帆が言った。
「ひょっとして…お見合い写真じゃないの？」
「…ええっ！？」
ひろのは驚いた。実は、真帆の言ったとおりである。あの日、会場でひろのの正体を探っていた人々の調査結果が実り、一気に息子の写真を送りつけてきたのだ。
「モテモテねぇ、ひろのちゃん。で、どうするの？」
真帆の質問に、ひろのは困った表情になった。断じて不要なものだが、捨てると呪われそうな気がする。
「ど、どうしましょうねぇ…」
ひろのにはどうして良いのかわからなかった。結局、セバスチャンの命令でこれらは全て迷わず焼却炉行きを指示されたのだが、写真を燃やす煙はその後二月以上も途絶える事はなかったのであった。
（つづく）
次回予告
家庭科のテストで料理を作る事になったひろの。自信のない彼女は、あかりと真帆と言う鉄人二人に教えを乞うことで腕前の上達を図る。そこに「お掃除」以外もできるようになりたいマルチも絡み、とんでもない大騒動が巻き起こる。果たして、ひろのは料理を作れるようになるのか？
次回、12人目の彼女 第三十七話
「クッキングバスターズ」
お楽しみに〜
あとがき代わりの座談会 その36
作者（以下作）「ひろのもドレスを着て喜ぶようになったか…うんうん、時間の流れは速いなぁ」
ひろの（以下ひ）「べ、別に喜んでるわけじゃ…」
作「そう照れるな」
ひ「違うのに…」
作「それはさておき、おまえさんの将来像と言うのもおぼろげに見え始めたな」
ひ「私が来栖川家のメイド長に、っていうあれ？冗談だと思うけど…」
作「いやいや、首脳陣３人は明らかに本気だぞ。良いじゃないか、将来が安泰で」
ひ「でも、私家事とかできないよ」
作「別にメイド長が率先して家事を行うとは思わんが…管理職だしな」
ひ「その…いきなり管理職って事はないでしょ。その前に研修とかあって、普通のメイドさんの仕事をする時があって、それからだと思うんだけど」
作「まぁ、そうだとしても研修とかで教えてもらえるだろう」
ひ「それが…研修でもどうにもならないような気がする」
作「ほぉ、何か悩みでもあるのか。よし、お兄さんに話してみ」
ひ「実は…」
……
…
ひ「…という訳なの。信じられる？」
作「ふむ…信じられるかどうかは別として、面白いネタではあるな。早速その辺を次回に…」
ひ「ええっ！？（赤面）そ、それだけは…」
作「駄目。そんな面白いネタは逃すわけには行かないね」
ひ「い、意地悪ぅ〜！！（泣）」
収録場所：某ホテル展望ラウンジ
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