※このお話は、日々可愛くなっていく一人の女の子と、日々人として大切な何かを失っていく彼女の友人たちの物語です(殴)。

前回のあらすじ

東鳩祭の最終日、いろいろあってひろのをめぐる戦いの果てに東鳩高校は壊滅的な打撃を受けてしまった。学校再開まで一週間の臨時休校が決定する。

To Heart Outside Story


12人目の彼女


第三十四話 「天使の彷徨」


 東鳩高校の半ばが灰燼に帰してから、今日で3日が経っていた。そろそろ現場検証も終わり、瓦礫の撤去と平行してプレハブの仮設校舎が入れられることになっている。瓦礫が片付き次第、新校舎の建設工事が始まるはずだ。
 とは言え、自宅待機を命じられた生徒達にはそんな先のことまではわからない。突然降って沸いたような休みをどう消化するか、と言うことで頭がいっぱいだった。一応、自宅学習…と言う事になっているのだが、それを素直に守っているのは智子や理緒のような真面目な生徒だけだろう、と言うことは容易に想像がつく。
 そうした中で、来栖川芹香はあまり悩まなかった方の一人だろう。彼女はちゃんとやることが決まっていたのである。
 と言うわけで、その日、芹香は自宅の屋根裏にある専用の部屋に篭もっていた。自室とは別に用意してある魔術研究用のアトリエである。学校にあったオカルト研究会に付属していたそれは、特別教室棟大爆発の際に消滅していたが、自宅の施設があれば十分研究はできる。ここで、芹香は何かの実験をしていた。
 ちなみに、彼女が持ち込んでいた様々な怪しげな薬はあの大爆発の一因だったりするが、それは内緒だ。
 部屋の中央に作られた炉では、壷が火にくべられ、中身の液体が怪しげな芳香を放ちながらふつふつと煮えている。芹香は呪文を唱えながら、そこへさまざまな材料を放り込んでいった。その度に、煙が吹き上がったり、色が変化したり、小さな爆発が起きたりとなかなか賑やかな反応が起きている。
 しばらくして芹香は火を止め、中の液体をひしゃくですくった。そして、それを小さなビンに入れて水で冷やし始めた。
 それからさらに十数分後、ビンに移された液体は透明な上澄みと、どろりとした緑色の沈殿物の二つに分かれていた。芹香は小さなスプーンで上澄みをすくい、水で何倍にも薄めてから小皿に移した。そして、部屋の片隅に置いてあった小さなケージを開けて中に小皿を入れる。そこには、何匹ものネズミが飼われていた。差し入れられた小皿の中身になにやら怪しげな薬が混ぜられているとも知らず、彼らは口をつけて水を飲み始めた。
「…!」
 芹香は大きく頷いた。予測した通りの効果が出たのである。実証は成功した。あとは、相手にこれを飲ませるだけだ。芹香は上澄みを小ビンに移し、早速飲ませる相手のところへ向かった。

「…え?今度こそ元に戻れる薬?」
 ひろのの声に、芹香はこくこくと頷いた。懐から例の小ビンに入った透明な液体を取り出す。ひろのはその小ビンを手に取り、光にかざしてみた。外見はまるっきり普通の水だ。
(大丈夫なのかな…)
 ひろのは考えた。前に薬を飲んだときは、彼女自身には記憶が無いが、かなりヤバイ事をしでかしてしまったらしい。芹香の事を信頼しない訳ではないが、もし何かあったら、と思うと飲むのはちょっとためらわれた。
 そして、もう一つ。今、自分は元に戻りたいのだろうか、と考えてみる。この間は戻りたい、とすぐに思えた。でも今は…
 悩むひろのを、芹香はじっと見ていた。ずっとひろのを見守ってきた芹香にとっては、思いは複雑なものがある。自分のミスのせいで今のひろのがあるようなものだが、彼女は一度だって芹香を責めるような事は言わなかった。それを思うと、ひろのには元に戻ってほしいと思うのだが、反面、彼女と…密かに想いを寄せていた男の子が姿を変えた存在であるひろのと、ずっとこうやって暮らしていきたい、という思いもある。
 やがて、ひろのはビンの蓋に手をかけ、ゆっくりとそれを回した。
「…」
「え?元に戻るのですか?って?…うん…ちょっと寂しいけど、やっぱりずっと先輩には甘えていられないからね」
 ひろのはそういって微笑むと、ビンに口をつけようとして…何かを思い出したように芹香の方を向いた。
「ごめん、先輩…ちょっと、部屋から出てくれないかな。男に戻ったときに女の子の服を着ているのはちょっとアレだし」
 ひろのの言葉に、芹香は頷くと部屋を出て行った。それを確認し、ひろのは部屋のカーテンを閉めると、奥のウォークインクローゼットから男物の服を取り出した。いつか、元に戻れる時のために自宅から持ち出してきたものだ。
「これでよし、と…」
 服を着替えると、ひろのはそれまでの服をたたんでベッドに置き、あらためてビンの蓋を開け、そしてその中身を一気に飲み干した。
「…う…なんか不思議な味」
 不味い訳ではないが、その何ともいえない味に思わずひろのが顔をしかめたとき、身体の奥底から熱が湧き起こるのを感じた。
「うっ…き、来た…っ…!!」
 ひろのは思わず身体を折った。湧き起こる熱が身体全体に染み渡り、まるで陽炎のように彼女の全身から噴き出した。汗が流れ、心臓が激しく動悸を打つ。
(す、凄い…これなら元に戻りそうな気が…)
 ひろのは薬の効果に確信を抱いた。抱いたのは良いが、少し苦しすぎる。何かにつかまらないと身体を支えられそうも無い。ひろのはよろめきながらも、手に当たった何かを掴んだ。それは、普段使っていた大きな姿見だった。
(鏡…どうかな…少しは元に戻って…)
 ひろのは不安と期待の入り混じった気持ちで鏡を見つめた。
(元に…戻って…戻って…ない!?)
 ひろのは愕然とした表情で鏡の中の自分を見つめた。相変わらず女の子のままだ。しかし、変化が無いわけではない。ちゃんと変化はあった。ひろのが予想だにしていなかったものであるが。驚きのあまり後ずさろうとして、ひろのは思い切りジーンズの裾を踏みつけて転倒した。
「せ、せんぱ〜い!せりかせんぱいっ!!」
 部屋の中にひろのの悲鳴と助けを求める声が響き渡り、外で待っていた芹香が慌てて室内に突入する。そこで芹香が見たものは、床の上でぶかぶかの服に絡まれて身動きが取れなくなっているひろのの姿だった。
「せ、せんぱい…たすけて…」
 涙目で言うひろの。しかし、さっきまでは芹香よりも10センチ以上も背が高く、16〜7歳の少女だったはずの彼女の面影は何処にも無かった。
 そこで泣いているのは、芹香にも簡単に抱き上げられそうな、どう見ても5〜6歳の幼女だった。
「…」
 思わず呆然と立ち尽くす芹香だった。

 三十分ほど後、ひろのは芹香の部屋へ来ていた。
「ふぅ…やっと落ち着いた」
 ひろのが安堵の息をつく。サイズが合わなくなってしまった今の服から、芹香が昔着ていた服を借りて着替えたのである。フリルとリボンのいっぱい付いた子供用の外出着で、なんとかひろのにもサイズが合った。
「で、先輩…これはどうなってるんですか?」
 今は頭一つ以上高いところにある芹香の顔を見上げてひろのが聞く。ちなみに、今の彼女の身長は110センチくらいになっている。ドレスのような今の服装と合わさって、まるで最高級のフランス人形のような愛らしさだ。芹香もそのかわいらしさには思わず問答無用で思い切り抱きしめたい、と言う衝動に駆られたのだが、なんとか思いとどまって質問に答えた。
「…」
「え…?時間の流れを逆行させる薬?」
 こくこくと芹香が頷いた。説明によると、ひろのに飲ませたのは、服用者の時間を前に戻す効果のあるものらしい。つまり、女の子に変身する以前の段階まで時間を戻してしまえば、男の身体に戻るのと事実上同じ効果が得られると言うわけだ。ネズミで実験したときも、薬を飲んだネズミが一瞬で子ネズミに戻ったので、てっきり成功だと思っていたのである。
「…」
「でも、どうやらただの若返りの薬が出来てしまった、と…まぁ、それはそれで凄いけど」
 ひろのはちょっとため息をつき、そして一番肝心な事をたずねた。前に一度したことのある質問だなぁ、と思いながら。
「それで…これって元に戻るの?先輩」
「…」
 芹香はこくこくと首を振って説明した。要するに、逆の効果を持つ薬を作って飲めば、効果が中和されて元に戻ると言うことらしい。
「…3日。それだけ待てば元に戻るのね?うん、わかった。信じるよ、先輩」
 ひろのはにっこりと笑った。まさに花が咲くような、と言う表現が相応しいその笑顔に、さすがの芹香もその表情に顕著な変化を生じさせた。
「…先輩?顔が赤いけど…大丈夫?」
 ひろのの声に我に返る芹香。どうやら、ひろのの笑顔を見てしばらくぼうっとしていたらしい。
「…」
「え?大丈夫です…それより、さっそく薬作りに入りますね…ですか?うん、わかった」
 芹香が立ち上がり、ひろのも座っていた椅子から飛び降りた。アトリエに向かう芹香に連れられて廊下に出たとき、ひろのは強大な脅威と直面した。
「はぁい、姉さん、ただいま〜」
 学校から帰ってきた綾香だった。芹香がおかえりなさい、綾香ちゃん、と挨拶をする。しかし、その時には綾香は芹香のことを見ていなかった。
「姉さん、その子は…?」
 綾香の視線がじっとひろのに注がれる。何故か恥ずかしくなって、ひろのは少し顔を赤らめて芹香の後ろに隠れたが、その雰囲気と言い仕種と言い、たまらない可愛さだった。たちまち綾香の顔もピンクになり、うっとりとした表情になる。
「か…可愛いっ…!!ねぇ、どこから来たのかな?」
 しゃがみこんで目線を同じ高さにして話しかけてくる綾香。ひろのは困って芹香の顔を見上げた。芹香が頷いて、事情を説明するべく口を開く。
「…」
「ふぅん、ひろのちゃんって言うのかぁ…可愛い名前ね…って、はい?」
 芹香の言葉を聴いた綾香が一瞬硬直し、ぽかーんと口をあける。かなりショックだったようだが、まぁ無理も無いことだろう。ぎりぎりぎり、と擬音のしそうなぎこちない動きでひろのに向き直り、じっとひろのの顔を見つめる。
「ほ、本当にひろのなの?」
「…うん…信じられないと思うけど」
 ひろのが頷くと、綾香はじっと芹香の方を見つめた。
「…姉さんの仕業ね?」
「…」
 芹香がこくこくとうなずく。綾香ははぁ、とため息を一つついたが、しかしひろのを見るとやはり満面の笑みを浮かべた。
「それにしても…ひろのってやっぱり小さい頃から可愛かったのねぇ…」
「…そうなの?」
 ひろのは首を傾げた。何しろ、彼女には「ひろのとしての」子供時代は存在しない。ひろのは一度芹香の部屋に入り、もう一度ゆっくりと姿見に映った自分の姿を眺めた。
「…はぅ…」
 かなりショックだった。本当に子供の姿である。背は低くなっているし、胸も無い。
「…あれ?」
 胸が無いことにショックを受けた自分にさらにショックを受けたひろのが鏡の前で愕然としていると、後ろからそっと忍び寄ってきた綾香がかるがるとひろのを抱き上げた。
「きゃっ!?」
「ん〜〜、ぷにぷにしてて可愛い〜」
 抱き上げたひろのにほおずりしながら、その感触に至福を味わう綾香。しかし、芹香がじっと睨んでいることに気が付くと、慌ててひろのを床に降ろした。そして、わざとらしい咳払いを一つしてごまかしに掛かる。
「ふ、ふふふ…思わず理性が飛んでしまったわ。ともかく!せっかくひろのが小さくなったことだし」
「良いことのように聞こえるよ、それ」
 ひろのは当然綾香の言い方に抗議したが、綾香の方では聞いちゃいなかった。
「いろいろ写真とって見たいんだけどどうかしら?」
「ふぇ?」
 綾香の質問の意味を図りかね、ひろのは思わず間抜けな声を上げた。
「写真って…なにするの?」
 ひろのの質問返しに、綾香はにんまりと笑って答えた。
「そりゃあ…アルバム代わりよ。ひろのって、アルバムとか全然持ってないじゃない」
 あぁ、とひろのは頷いた。過去が無いのだから、過去の記録であるアルバムなど持っているはずが無い。女の子になってからの8ヶ月ほどの記録は残っているが。
「だから、ここでひろののその可愛い姿を思い切りシャッターに納めようというわけよ…セリオ!」
 綾香がぱちんと指を鳴らすと、突然それまで何もいなかった空間に、忽然とセリオが出現した。その早業に、あっけに取られるひろのと芹香。
(セリオ…なんか、芸風変わったんじゃない?)
 内心でそう思うひろの。そんな思いに気付くはずも無く、セリオはお呼びでしょうか、と綾香に問いかけた。
「実はかくかくしかじか…と言う訳で、セリオにカメラマンを頼みたいのよ」
 そう言いながら小さくなったひろのをセリオに見せる。一瞬セリオはあっけに取られたような表情になり、それから頬をぽっとピンクに染めた。
「…素晴らしい被写体です。わかりました。最高のカメラマンの技術をダウンロードしましょう」
(せ、セリオまで…)
 ひろのは思わず涙した。救いを求めるように芹香の顔を見上げる。彼女はこくこくと頷き、綾香の側に歩み寄った。
「…」
「え?ひろのが嫌がるような事はするな?…わかってるわよ、そんな事」
 芹香の注意に、綾香は素直に頷いてみせる。しかし、綾香の場合はひろのも喜んでくれると確信して、その実迷惑なことをやる恐れがあるので油断できない。再度念押ししようとする芹香だったが、その前に綾香がささやいた。
「でも…姉さんだってひろのの可愛い写真は見たいでしょ?」
 芹香の動きが止まった。
「これからひろのを元に戻す方法を考えるんだとすると…またアトリエに篭って出て来れないんでしょ?それじゃあひろのの可愛い姿は見られないじゃない…代わりに写真やビデオを山ほど撮っておくから、ね?」
 綾香のささやきに、芹香の表情が苦悩のそれに変わる。しばし逡巡した後、芹香は顔を上げるとほどほどにね、と言った。
 さすがの芹香も、今のひろのの魅力には勝てなかった。この瞬間、普段なら絶対に成立しない芹香−綾香同盟が締結されたのである。
「わかってるって。それじゃあ、姉さん、後よろしくね」
 芹香はこくこくと頷き、地下のアトリエに向かった。
「と言うことで、姉さんの許可も得たことだし…撮影会を始めましょうか」
 にんまりと笑った綾香の言葉に、ひろのは素早く逃げようとした。しかし、ただでさえ身体能力では綾香に勝てないのに、今の幼女の姿で逃げ切れるはずがない。あっさりつかまり、抱き上げられてしまう。
「は、離してよ〜!」
 じたばたと暴れるひろのだったが、綾香にはまるで歯が立たない。たちまちのうちに本邸の一画にあるスタジオまで輸送されてしまった。このスタジオは代々来栖川家の人々が自分たちの記念写真を撮ってきた場所で、綾香も芹香もアルバムに載っている写真の多くをここで撮影している。
「じゃあ、セリオお願いね」
「はい、綾香様」
 セリオが撮影の準備に掛かる間、綾香は物置から大きなぬいぐるみなどの小道具を取り出してきた。そして、満面の笑みを浮かべてひろのに聞いた。
「ね、ひろの。象さんとキリンさんとどっちが良いかな〜?」
「それなら象さんで…って、違うっ!怒るよ、綾香」
 完全に子ども扱いしてくる綾香に、ひろのは怒りの表情を向けた。外見が6歳児でも、中身の精神はちゃんと17歳のままなのだから、怒るのは当然である。しかし、その怒った表情もまたかわいかったらしく、綾香はとろけそうな笑顔を浮かべてひろのを抱きしめた。
「いや〜〜〜ん、もうかわいいったらありゃしないわね〜〜〜」
 まじめに話を聞かない綾香に、ひろのは諦めの境地に達した。この身体では何の抵抗も出来ない。幸い、自分を可愛がるだけで他の事はして来ないようだし、綾香を満足させればそのうち離してくれるだろう。
「…綾香、離してくれないと写真撮れないよ?」
 ひろのがそう言うと、綾香はようやくひろのを床に降ろしてくれた。そして、さっそくさっきの大きな象のぬいぐるみを彼女の横に並べた。そこに、ちょうど準備を終えたセリオも戻って来る。その手には本格的なカメラが握られていた。
「いつでもはじめられますよ、綾香様」
「OK。じゃあ、ひろの。その象にじゃれ付く感じで…もっと笑って」
 綾香が仕切り始め、ひろのはその通りに「ぬいぐるみと戯れる女の子」の役を演じた。しかし、このぬいぐるみ、さすがは来栖川家の持ち物だけあって非常に質の良いものらしい。抱きしめていると、その感触の心地よさに思わず笑みがこぼれた。
「あああ、もう我慢できないっ!」
 そのひろのの笑顔に、綾香はついに理性が飛んだ。ひろのにダッシュで駆け寄り、抵抗する暇も与えずおもいきり抱きしめた。無駄毛の一本も無く、つるつるかつぷにぷにとした感触のひろののほっぺたに自分のそれをくっつけてほお擦りする。
「あ、綾香ぁ〜…苦しいよ…」
「あああ、もう何て可愛いのかしら。このままずっと抱いていたいわ…」
 思い切り抱きしめられているひろのの抗議も耳に入らないようだ。しかし、次の瞬間。
「綾香様、お許しを」
「はうっ!?」
 素早く接近してきたセリオが、綾香の首筋に必殺の手刀を打ち込んだ。完全無防備状態だった綾香はこの一撃にたまらず失神する。崩れ落ちる綾香の腕から、セリオはすかさずひろのを抱えあげた。このままだとひろのが抱き潰されると判断し、緊急措置を取ったのである。
「ひろのさん、大丈夫ですか?」
 セリオに抱っこされたひろのはまだ、ちょっと朦朧としていたが、圧迫感が取れたことで意識をはっきりさせた。
「う、うん…大丈夫。ありがと、セリオ」
「…いえ…どういたしまして」
 にっこり笑って礼を言うひろのに、セリオは胸の高鳴り…と人間であれば形容されうるものを感じた。要は、感情回路に発生した予期せぬ思いを静めるために、CPUのクロック数に課せられたリミッターが勝手に解除されたのである。
 これが綾香だと暴走するのだが、さすがにセリオはそうはならなかった。ひろのが落ち着いた所で床に降ろしてやり、今度は綾香を抱き上げる。
「私は綾香様をお部屋に運びます。ひろのさんはとりあえず帰った方が良いでしょう」
「うん…そうする」
 ひろのはセリオの提案に頷き、スタジオを出ると途中の階段まで一緒に歩いていく事にした。来栖川姉妹もそうなのだが、いまやセリオのほうが40センチ以上背が高い。綾香を背負って歩く彼女を見上げ、ひろのは苦笑した。
「こうなってみると、セリオのほうが私よりお姉さんみたいだね」
 ひろのとしては何気ない一言だったのだが、ぴた、とセリオの歩みが止まる。
「お姉さん…ですか?私が?」
 聞いてくるセリオにひろのは頷いた。
「うん。だって、私はこの通りだし。それに、セリオと私ってちょっと似てるしね」
 ひろのは笑った。自分とセリオが似ている、というのは前から考えていたことである。二人ともロングヘアで、茶色から赤色系統の明るい色の髪をしている。性格もちょっと似ているかもしれない。
「私と、ひろのさんが…」
 セリオは呟くように言うと、突然ひろのに向き直って意外なことを言い出した。
「あの…ひろのさん、一つお願いがあるのですが」
「…お願い?うん、私に出来ることなら良いけど…」
 ひろのは頷きつつも心の中で首を傾げた。感情があるように改造されたとは言え、それを抑え目にして「メイドロボであること」を大事にしているセリオが、自分からそんな事を言い出すのは珍しい。珍しいが、きっとそれは良い事だとひろのは思った。だから、「お願い」を聞く気になったのだが、その内容はひろのの想像を遥かに超えていた。
「あの…できれば、私の事を『お姉さん』と呼んでいただけませんか?」
「…ふぇ?」
 思わずひろのは本日二度目の間抜けな声を上げてセリオを見上げた。すると、セリオは慌てたように付け加えた。
「あ、あの…その…常時そう呼んで欲しいというわけではなくて…一回で良いのですが」
「まぁ、そんな事なら別に構わないけど…」
 慌てるセリオを可愛いと思いつつ、ひろのは軽く深呼吸して息を整えると、セリオの顔を見上げなおして言った。
「セリオお姉さん」
 言ってみて、ちょっと棒読みだったかな?と思ったひろのだったが、セリオの反応を見て絶句した。
 セリオが目を閉じ、うっとりとした表情になっていた。
「セリオお姉さん…すばらしい響きです…」
 完全に「浸っている」セリオはなにを呼びかけても反応しない。廊下の真ん中で彼女は完全にトリップしていた。
「あ、あの…セリオ?」
 ひろのがおそるおそる呼びかけると、セリオはようやく我に返った。
「…はっ!?あ…そ、その…失礼しました!では私はこれで」
 顔を赤くし、綾香を担いで階段を上っていくセリオを見送り、ひろのは首を傾げた。
「…変なの」
 そう呟き、ひろのは玄関の扉を開けた。これがまた、今のひろのには大きい、重い、動かせないの三重苦である。それでも何とか身体が通るだけの隙間が出来ると、ひろのは外に出た。
「…うわ…」
 ひろのはそこに広がっている光景に唖然とした。もともと広い来栖川家の敷地であるが、普段より60センチ以上も小さくなっている今のひろのには、それがさらに広く見えた。自分の家…離れがやけに遠く感じられる。
「まぁ、いつも通ってる道なんだし」
 いつまでも玄関にたたずんでいても仕方が無い。ひろのは思い切って離れへの道に踏み出した。
「と、遠い…」
 しばらくして、ひろのは歩いても歩いても近づいてくるように見えない自宅に愕然としていた。彼女は気付いていないが、身体が小さくなったので歩幅も小さくなり、普段と同じ感覚で歩いても、いつもの半分の距離も進んでいなかったのである。おまけに、体力も年齢相応になっているらしく、だんだん息があがってきた。
「はぅ…ちょっと一休みしよ…」
 途中でちょうど良い大きさの石があったので、ひろのはそれに腰掛けて休むことにした。
「うぅ…小さいのって不便すぎる…」
 ひろのは嘆いた。これで後3日も過ごすのは大変そうだ。早く帰って、家でじっとしていた方がいいだろう。
 するとその時、ひろのは今来た方向から黒いリムジンがやって来るのに気が付いた。ひろのは急いで立ち上がり、道の真ん中に出ると手を振った。彼女の存在に気付いたリムジンがゆっくりとスピードを落とし、ひろのの10メートルほど手前で停車した。
「…あれ?真帆さん」
 ドライバーはセバスチャンではなく、真帆だった。どうやらひろのの正体には気付いていないらしく、不思議そうな目でひろのを見ている。
「きみ、どこの子?ここは広くても人の家の中だから、入ってきちゃ駄目だよ」
 どうやら迷い込んできたどこかの子供と思ったらしい。ひろのはぶんぶんと腕を振って訴えた。
「あぁ、やっぱりこの身体じゃわかんないか…真帆さん、私です私。長瀬ひろのですってば」
 自分をひろのと言い張る少女に一瞬「?」と言う文字を頭上に浮かべた真帆だったが、やがて頭の中で目前の小さな少女と、ひろのの面影が一致したらしい。表情が驚愕のそれに変わった。
「あああ〜っ!?」
 驚きの声を上げ、口をパクパクさせる真帆に、ひろのは言った。
「えっと…事情は後で話しますから…とりあえず家まで乗せて行ってもらえますか?」
「う、うん。わかった」
 気を取り直した真帆が助手席のドアを開けてくれた。ひろのが乗り込んでドアを閉めると、真帆はリムジンを出発させた。
「いやぁ…驚いたわ。どうしてそんなことになっちゃったの?」
「その…芹香先輩の作った薬で…」
 事情説明を求める真帆にひろのが答えると、真帆は納得した表情になった。
「あぁ…芹香お嬢様の趣味ね。それで、元に戻れそう?」
「3日くらい掛かるそうですけど…」
 そんな話をしているうちに、あっという間にリムジンは長瀬邸の前についた。エンジン音を聞きつけたのか、セバスチャンが玄関から出てくる。手にバケツに入れた洗車グッズを持っている所を見ると、これからリムジンを洗車するつもりらしい。
「おぉ、持ってきてくれたかね、安藤君…むむぅっ!?」
 そこで、セバスチャンは凍りついたように動きを止めた。助手席から降りてきたひろのに目を留めて、である。
「あ、長瀬さん、この子は…」
 真帆が事情を説明しようとしたその瞬間、先にセバスチャンが口を開いた。
「まさか…ひろのか!?」
 これには、ひろの本人はもちろん真帆も驚いてセバスチャンの顔を見つめた。
「お、おじいちゃん…私がわかるの?」
 ひろのが言うと、セバスチャンは大いに頷いた。
「当たり前じゃ。ワシが何で大事な孫娘の姿を見違えたりするものか」
 そう言うと、セバスチャンはひろのの所へ歩み寄ってきた。そして、いきなりひろのを抱き上げた。
「きゃっ!?お、おじいちゃんっ!?」
 驚いたひろのだったが、セバスチャンはこの人でもこんな穏やかな表情を浮かべるときがあるのか、というような笑顔を浮かべてひろのを抱っこしていた。
「おぉ…驚かせて済まんな…何しろ、こんな風に孫娘を抱っこする経験が無かったからのぉ…」
(まぁ、それはそうだろうけど…それにしても、そんなに抱っこしたくなるように見えるのかな、私…)
 ひろのは心の中ではそう思ったが、セバスチャンがあまりに幸せそうな表情をするので、黙って抱っこされていた。しばらくして、ようやく満足したのか、セバスチャンは地面にひろのを降ろして言った。
「うむ、ところで、なんでそうなったんじゃ?」
 普通そっちを聞くのが先でしょう、とひろのも真帆も思ったが、とりあえず事情を説明する。
「そう言う事か。学校が無い時期で幸いじゃったな」
 セバスチャンが頷く。確かに、学校のある日だったら、とてもではないがこの姿で行けるわけが無い。それ以前に出かけること自体が大変だ。
「うん、先輩が薬を作ってくれるまでは家でじっとしてる」
 ひろのがそう答えると、セバスチャンはそれが良かろう、と言って本来の目標だった洗車をすることにした。セバスチャンに手を振って別れると、ひろのは真帆に連れられて家の中に入っていった。
「ふぅ…」
 ようやく自分の部屋に戻り、ひろのはベッドの上に寝転がった。
「まぁ、元に戻れる当てがあるだけ、あの時よりはマシか…」
 ひろのは呟いた。もちろん、あの時と言うのは女の子になってしまった時の事を指している。そう思うと、急に眠気が押し寄せてきた。やはり子供になってしまったことで心身ともに疲れていたのだろう。ひろのはそのままベッドの上で穏やかな寝息を立て始めていた。

 身体が少し揺れている。そんな感覚と共にひろのは目を覚ました。
「ん…?」
 目を開ける。まだ少し意識がぼんやりとしているが、どうやら自分がベッドの上ではない所にいるのだけは理解できた。だんだん焦点が合ってくると、真帆が自分の顔を覗き込んでいるのがわかった。
「…真帆さん?」
「あ、起こしちゃった?」
 ちょっと困ったような表情で真帆が言った。ひろのはようやく自分の現状が理解できた。真帆に抱っこされていたのだ。
「ま、真帆さんまで…」
 ひろのが言うと、真帆は慌ててひろのを床に降ろし、それからばつの悪そうな表情で言い訳した。
「う…ごめんね。あんまり寝顔が可愛いからつい…」
 あんまり真帆が申し訳なさそうな声を出すので、ひろのは安心させるように微笑んで言った。
「ううん。怒ってるわけじゃないよ。ただ、見た目がこれでも中身はいつもの私だから、あんまり子供扱いはしないで欲しいなって思って」
「うん、ごめんね」
 もう一度真帆は謝り、それからここに来た本当の用事を思い出した。
「そうそう、もう晩御飯が出来たから、食事にしましょ」
「はい」
 ひろのは頷き、真帆の後について部屋を出た。
「普段だったら、大旦那様やお嬢様たちと一緒に夕食にするんでしょうけど…さすがにその格好では出られないから、気分が悪いことにして欠席にしてあるわ。だから、晩御飯は私と一緒ね」
「あ、はい。気を遣ってもらってすいません」
 真帆の言葉に、ひろのは感謝を込めて頭を下げた。この格好で夕食に出れば、厳彦氏やロッテンマイヤーの追及があることは確実で、そうなれば原因を作った芹香が怒られるのは間違いない。それはさすがに避けたかった。
 食堂に入ると、料理の良い匂いが鼻をくすぐった。どんなメニューかな、と思ってテーブルを見たひろのは、そこにあったものを見て思わず唖然とした。
 普段自分が使っている椅子の代わりに、レストランなどで使われている子供用の椅子が置かれていた。櫓のような形をしたアレである。
「真帆さん…あんなのどこからもって来たの?」
 ひろのが聞くと、真帆も首をひねった。
「さぁ…セバスチャンさんが持ってきたものだし、お嬢様たちの小さい頃のものじゃないかなぁ」
 はぁ、とひろのはため息をついた。まさか、この歳になってあんな椅子に座るとは思っても見なかった。ためしに普通の椅子に座ってみたが、テーブルの面の高さがひろのの鼻の高さに来たため、あっさりアウト。
 仕方なく子供用の椅子に座ると、真帆がご飯をよそってくれながら微笑んだ。
「高さはちょうど良いみたいね」
「ええ…なんだか懐かしい感じもします」
 ひろのは苦笑した。そう言えば、子供の頃は逆にこの椅子に座るのが嬉しかったものだ。一人だけ特別な気がして。そう言ったことを思い出し、ひろのはあまり気にしないことにした。どうせ3日だけの辛抱だ。

 食事が終わってひろのが部屋に戻っていると、内線電話が鳴った。ひろのはベッドから飛び降りると、電話機に向かって…すぐに気が付いた。
 電話機は壁掛け式なのだが、本来の身長に合わせてあるので、手が届かないのだ。
「あ…えっと…そ、そうだ」
 一瞬困ったひろのだったが、すぐに勉強机の椅子を持って来る事に気が付いた。しかし、今の彼女にとってはこれもまた一苦労である。何しろ、彼女の勉強机は古いアンティーク家具で、最近の物のように椅子にキャスターがついていないのである。おまけに、床は抵抗の大きいじゅうたん敷きだ。
「よいしょ…っと」
 両手で椅子をつかみ、ずるずると引きずって電話機に向かう。幸い、準備が整うまで電話は待っていてくれた。椅子を電話機の横に置き、それによじ登ってようやく電話機に手が届いた。
「はい、もしもし。お待たせしました」
『あ、ひろのちゃん?芹香お嬢様が来られたから、そっちに通すわね』
 ひろのが電話を取ると、真帆の声が聞こえてきた。
「先輩が?それなら私から行きますけど…」
 ひろのが言うと、受話器の向こうで真帆が笑った。
『良いのよ。お嬢様が自分で行くって仰ってるし…それに、ひろのちゃん今階段降りるの大変でしょ?』
「あ」
 ひろのは納得した。確かに、小さい子にとって階段は脅威の存在である。来栖川家の建物のように、昔の建物で階段の段差が大きいところではなおさらだ。ひろのはおとなしく待つ事にした。
しばらくして扉が開き、芹香が入ってきた。手に何か紙袋を提げている
「いらっしゃい、芹香先輩」
 ひろのはにっこり笑って芹香を出迎え、それから気になったことをたずねた。
「先輩、薬の方はどうなったの?」
 芹香はうなずくと説明を始めた。調合の方はほとんど済んだが、これから混ぜた材料を一日ほど寝かせておく必要があるらしい。それよりも、と芹香は紙袋の中身をひろのに手渡した。
「えっと…パジャマ?それに着替えも…」
 ひろのは目を丸くした。少し古びている所を見ると、全部芹香の子供時代の服だろう。芹香は頷いて、使ってください、と言った。
「うん、ありがとう。先輩」
 ひろのは頭を下げた。考えてみれば、これからお風呂に入ったり寝たりするのに、着替え無しでは非常に困る。ほっとしていると、芹香がまた口を開いた。
「…」
「え?明日はちゃんとした服を買いに行く…?でも先輩、この姿なのは3日だけなんだからもったいないよ」
 芹香の提案にひろのは首を横に振って遠慮の意思を示したが、芹香は主張を変えなかった。
「…」
「え?微妙にサイズが違うし、万が一薬が失敗した時の事も考えておく…?うーん…」
 できれば失敗して欲しくない、とひろのは思ったが、なんと言っても女の子になったまま元に戻らない日々が続いているわけなので、杞憂とは言えないだろう。
「うん、わかった。それじゃあ、明日はよろしくね、先輩」
 ひろのは頷いた。さすがに最近は服くらい自分で選ぶようになっていたが、子供服となるとまた勝手が違うし、そもそもこの姿では保護者がいないと警察にすぐ保護されてしまうだろう。
「…」
 芹香も頷き返し、楽しみですね、と言うと帰って行った。手を振って見送ったひろのだったが、また一人になってしまうと思わずため息が出た。
「はぁ…どうなっちゃうんだろう、私」
 こうして、二度目の大変身の日は過ぎていったのだった…

(つづく)

次回予告

 小さな女の子の姿になってしまったひろの。芹香と服を買いに出かけたひろのだったが、バーゲンの狂騒に巻き込まれて芹香とはぐれてしまう。困り果てた彼女を救ったのは思わぬ人物だった。はたして、ひろのは芹香と再会できるのか?
 次回、12人目の彼女第三十五話
「迷子の天使」
 お楽しみに〜。

あとがき代わりの座談会 その35

作者(以下作)「…」
ひろの(以下ひ)「…」
作「なぁ…」
ひ「抱っこさせてって言ったら、怒るよ」
作「…うむ」
ひ「あのさ…そんなに私をいじめて楽しい?」
作「いじめてなんていないぞ」
ひ「…嘘(涙)」
作「ま、待て。頼むから泣くな。このシチュエーションでは私が悪人に見える(汗)」
ひ「…その通りじゃない、この極悪人…ひっく、えぐ…」
作「(焦)た、頼む!機嫌を直してくれ。大丈夫だ、じ…」
?「そこまでよ!」
作「(ぎくぅっ!)」
?「ひろのちゃんを泣かす悪の作者…許さないよ」
?「天に代わって、滅殺です!」
作「ま、待て、話せばわかる!!うっぎゃああぁぁぁぁぁ…」

収録場所:来栖川邸某所


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