※このお話は、日々可愛くなっていく一人の女の子と、日々人として大切な何かを失っていく彼女の友人たちの物語です(殴)。
前回のあらすじ
東鳩高校の文化祭。ひろのたち2−Aはコスプレ喫茶をすることになり、前夜まで準備をしていた。自分がウェイターとしてひろのと一緒に仕事ができない事を不満に思った矢島は、垣本を昏倒させて自分が代理になろうとするが、ひろのにあっさり拒絶されて灰と化したのであった。
To Heart Outside Story
12人目の彼女
第三十二話 熱闘文化祭編B「全面戦争」
その日は、まさに抜けるような秋晴れ。東鳩高校文化祭「東鳩祭」は絶好の祭り日和で始まった。
「体育館は10時より吹奏楽部、軽音クラブ、バンド有志合同のライブ、14時より演劇部の定期公演を開催しま〜す」
「家庭科室では料理研究会、パティシエ同好会の新メニュー発表会を行っておりま〜す。みなさんどんどん食べに来てくださ〜い」
文科系の各部活、クラブが、日ごろの成果を見せんと盛んに呼び込みを行っている。その一方で、各クラスもそれぞれに工夫と趣向を凝らした展示を発表していた。
あいにく、初日は金曜日のため人出はそれほど好調ではなかったが、それでも生徒に混じって近所の住人も見物に来ており、それなりに盛り上がっている。
「今年もなかなかの盛り上がり振りね。記事の書きがいがあるわ」
志保が浮き立った表情で言った。彼女の所属する新聞部は文化祭当日の発表は何もしない。代わりに、いろいろな発表を取材して後日文化祭特別号を刊行する事になっている。
「そうなんだ」
シフトが午後からなので、とりあえず志保に同行しているひろのは頷いた。彼女は一応転校生と言う建前のため、去年の文化祭に関しては知らない振りをしている。
「今のところ、注目はうちがどれだけ人を集めるか…それと、パティシエ同好会の新作レシピね…あら、あれは何かしら」
記事になりそうな展示をチェックしていた志保が、怪訝な表情で前方を見る。ひろのも志保の見ている方向を見ると、そこには見知った3人組が呼び込みをしていた。
「はわわ…1−Aは恐怖の館ですぅ」
「あなたを身も凍る恐ろしい世界に誘います」
「我こそは勇者なり、と思う方はぜひ挑戦してくださ〜い」
そんなキャッチフレーズを連呼する3人の前に、ひろのは立った。
「おはよう、琴音ちゃん、葵ちゃん、マルチ」
「あっ!ひろの先輩!!」
「おはようございますぅ」
ひろのの挨拶に元気に答える1年生3人娘。彼女たちもなにやら仮装している。
「へぇ…1−Aはお化け屋敷だったのね。それにしてもこれは…」
志保は改造された教室と、呼び込みの3人を交互に見やった。教室は暗幕で閉ざされ、おそらく内部は真っ暗だろう。いりぐちには「恐怖の館」と赤いインクで大書した看板がかけられている。字から血のように垂れている部分があるのが、変にリアルで嫌な感じだ。
また、看板には牛鬼や土蜘蛛、火炎車といった妖怪が、これまたリアルに描かれている。たぶん、琴音の作品だろうな、とひろのは思った。
そのおどろおどろしい雰囲気に対し、3人娘はと言うと…
「みんな、その格好は何?」
ひろのが聞くと、白い無地の着物に身を包んだ琴音が手を上げた。
「はい、私は雪女です。で、葵ちゃんが…」
琴音が促すと、猫耳カチューシャに猫手グローブ、オレンジ色の着物を着た葵が恥ずかしそうに進み出た。
「わたしは猫娘の役なんです…で、マルチちゃんは…」
と、小豆色の着物を着たマルチを前に出す。
「はわわ…わたしは座敷わらしなんですよー」
はっきり言って、3人そろって異様なまでに場違いな愛らしさだった。
「みんな、よく似合ってて可愛いよ」
ひろのが誉めると、3人は嬉しそうに満面の笑顔を浮かべた。
「へぇ…なかなか面白そうじゃない。ひろの、入ってみない?」
志保が興味津々の表情でひろのを誘った。ひろのが頷きかけたその瞬間、部屋の中から絹を引き裂くような女の子の叫び声が聞こえた。
「!?」
思わず出口の方を見たその瞬間、顔を真っ青にした女子生徒が転がるように廊下へと飛び出てきた。そして、「もういやあぁぁぁぁ!!」と絶叫し、涙の尾をひいて廊下の彼方へ走り去っていく。
「…」
ひろのと志保が無言で、額に汗を浮かべながらそれを見送っていると、琴音と葵が言った。
「これで今朝から全滅ね」
「なかなかゴールしてくれる人が出ませんねー」
その会話に、ひろのと志保は1−Aの本気度を悟った。
「こ、これはあたしの記者魂に賭けてもレポートしなきゃ…もちろん行くわよね?ひろの」
「え?わ、私も?」
ひろのが慌てた声を出すと、志保は頷いて、ひろのの腕を強引に取り上げて組んだ。
「当たり前よ!親友でしょ!?」
ひろのが反論するより早く、3人娘が退路を断ち、中に呼びかけた。
「お二人様、ご案内です!!」
どうやら逃げられないらしい。ひろのは覚悟を決めた。
「仕方ないなぁ…行こう、志保」
「え、えぇ…」
二人はしっかり手を握り合い、闇の中へ足を踏み入れた。
数分後、真っ青な顔をしたひろのと志保は、次なる目的地、家庭科室へ向かっていた。
「…アレは反則よね…来栖川の技術なんて」
「まったく…マルチのお父さんったら、ろくなもの作らないんだから…」
志保の言葉にひろのは頷いた。中の妖怪役の生徒が被っていたマスク、それはマルチの父親こと長瀬技師の作品だった。たぶん、娘のために気合入れて作ったのだろう。嫌な感じにリアルで、今は亡き東鳩ファンタジアパークのお化け屋敷など目ではない恐怖だった。
「ま、まぁ…初完走者と言うことで、良い記事も書けそうだわ…ありがと、ひろの」
「どういたしまして」
そんな会話をしながら、途中でいくつもの教室の前を通過して行く。と、その時、志保はある事に気付いた。
「…おかしいわね」
「何が?」
志保の呟きにひろのが問い掛けると、志保はあごに手を当てて考え込んだ。
「どうも…人が少ないと思わない?」
「そう言えば」
ひろのは頷いた。あらためてよく観察すると、普段の3分の2くらいの人しかいないのではないか、と思えた。いくら金曜日の人出が少ないとは言っても、これは少なすぎる。
事情がわかったのは、家庭科室に着く寸前のことだった。クラスメイトの女子の一人が待っていたのである。
「あ、長瀬さん、長岡さん!ごめん、すぐ教室まで来て!!」
顔を見合わせ、彼女の後に続いて教室へ向かったひろのたちが見たもの…それは、教室に入りきらず、行列を作って待っている男子の群れだった。
「本当にあの長瀬ひろのがコスプレしてるのか?」
「噂ではな。一見の価値はあるだろ?」
並んでいる男子生徒たちがひそひそと話している。彼ら2−A以外の男子生徒にとって、準ミス浴衣などと言う肩書きを持ち出すまでもなく、男子の裏ランキングにおける美少女部門六ヶ月連続トップ3入りと言う輝かしい実績を残すひろのは、なかなか見られない高嶺の花だ。
「押さないでくださぁ〜い。お時間はお一人様20分までとさせていただきます〜」
「ここは列の最後尾ではありませーん。階段方向へお進みください」
夏樹とちとせが慣れた調子で列の整理をしている。その懐かしいフレーズに耳を傾ける余裕もなく、ひろのは夏樹を捕まえて話を聞くことにした。
「吉井さん、これっていったい…」
ひろのが話し掛けると、振り向いた夏樹はほっとしたように微笑み、ついでまじめな顔になって言った。
「長瀬さん!ごめんね、来る人が多すぎて普通のシフトじゃ捌ききれないの!悪いけど、急いで着替えて手伝いに来て!!」
「うん、わかった!」
事情を了解したひろのは、急いで隣の控え室に飛び込んだ。ロッカーを開け、制服を脱いでハンガーにかけると、用意してあった衣装に袖を通した。幸い前回のピーチのコスチュームと違い、今回の衣装は普通の服を着るのとたいして感覚的には変わらない。志保に手伝ってもらって髪型を整えると、既にできている行列からの歓声もかまわずに急いで教室に飛び込んだ。
「お待たせ!」
ひろのがそう言いながら教室へ飛び込むと、中の人間が一斉に彼女の方を見た。おおっ、と言う感嘆の声が客の間から上がる。ざっと見てみると、ほとんどは男子生徒たちだ。その数50人以上。外の列とあわせると200人くらいはいるかもしれない。
(…要するに、全男子生徒の3分の2くらいは今ここにいるのね…)
道理で、他のところで人を少なく感じるはずである。ひろのが納得したとき、奥からひろのに向かってつかつかと歩いてくる少女がいた。現場監督の美奈子だった。
「長瀬さん、こっち」
「え?ちょ、ちょっと待ってよっ!!」
彼女は無表情でひろのの腕をつかむと、問答無用で控え室に連れ込んだ。ひろのがその扱いに抗議しようとするより早く、美奈子はそれまでの冷静さを捨て、目を吊り上げて怒った。
「長瀬さんっ!ちゃんと事前に練習したとおりの演技しなきゃ駄目でしょう!!さっきの場合は『お待たせ…』って静かに言わなきゃ!!」
ひろのの扮しているキャラは、非常に物静かな少女だ。ひろのだとあまり違和感なしに演じられる…と言う事にはなっているが、とっさにキャラになりきれといわれても難しい。
これに対し、美奈子は激情家の彼女とは正反対の冷徹なキャラに扮しているのだが、さっきも人前ではそのキャラになりきっていたのはさすがと言えるだろう。
「うぅ…ごめんなさい」
ひろのは素直に謝った。本当は言いたい事はたくさんあるのだが、ことが今回のようなマニアックな話題となると、一般常識で美奈子に立ち向かっても勝てないのは火を見るより明らかであり、大人しく言うことを聞いておく方が無難である。
「まぁ良いわ。それより、見ての通り忙しいから、今度こそ演技指導どおりにしてね」
ひろのが素直だったせいか、機嫌を直した美奈子が言った。やがて、智子や理緒も合流したが、後から押し寄せる男子生徒とリピーターの前に休むこともできず、どこにも行けないままひろのにとっての東鳩祭1日目は過ぎて行った。
その夕方、疲労困憊した2−A生徒たちが会議を開いていた。議長になるのは、もちろん美奈子だ。ちなみに、灰と化して飛散した矢島はいまだ復活を遂げていない。
「ウェイトレス役を増やすしかないわね。部活とかの掛け持ちをしていない人がいたら、手伝って欲しいんだけど…」
美奈子があたりを見回して言う。結局、この日は店員役9人全員フル出動で対応したが、休憩する暇も取れなかった。おまけに、夏樹とちとせも列整理を断念して店のほうを手伝ったので、行列が混乱して事態の悪化に拍車をかけた。
「列整理に専念してくれる人がいるだけでも、かなり助かると思うんだけど…」
ひろのが言うと、ちらほらと手を上げるものがいた。何人かの男子だ。
「列整理で良いんだったら、俺たちも手伝うよ。特にやることはないしね」
一人が代表して意見を言う。運動部や帰宅部だったりすると部活系の展示に参加せず、暇な人間は結構いるのだ。これにつられたのか、女子の中からもさらに3名ほど手伝いを申し出てきた。
「じゃあ…男子は列整理の方お願い。みんなは…予備のコスがまだあったはずだから、適当なのを選んであげる」
美奈子が言うと、名乗り出た女の子たちは嬉しそうな顔をした。実は着てみたかったのかもしれない。ともかく、これで明日からは交代で休憩を取るくらいの余裕はできそうだった。
2日目もまた、抜けるような青空だった。この日は土曜日と言うことで、生徒の家族もかなりやってくる。校内の賑わいは、人出が2−Aに集中した昨日に比べてかなり増していた。
「…進呈」
ひろのはそう言いながら、客のテーブルにアイスコーヒーを置いた。この挨拶(?)も美奈子の指導によるもので、知っている客は何らかの反応を示した。この客は知っている人だったらしく、ニヤリと笑うとひろのにねぎらいの言葉をかけ、ストローに口をつけていた。
忙しさは、昨日に比べるとちょっと緩和されていた。人手が増えたのもあるが、昨日一回きりで来るのをやめた生徒も相当多かったからである。それでも、何回も来店して顔なじみになりつつある生徒もまたかなりの数に上っていた。
そして、今日になって新たに来る客もいた。そう、彼女たちのように。
「いらっしゃいませ…って、葵ちゃんたちかぁ」
今日は客寄せではないのか、葵、琴音、マルチの3人が2−Aにやってきていた。ひろのの姿を見て、3人は目を輝かせる。
「ひろの先輩、素敵です!…でも、それはどういう格好なんですか?」
葵が尋ねてくる。さすがに、元ネタを知っているわけではなかったらしい。
「えっと…ゲームのキャラらしいよ。私はやったことないけど…」
ひろのはなんとなく詳しそうな琴音の方を見たが、彼女も知らない、と言うように首を横に振った。
「まぁ、良いか。それより、ご注文は?」
ひろのが気を取り直して尋ねると、葵はオレンジジュース、琴音はミルクティーを注文した。もちろん、マルチは何も飲み食いできないので注文はない。
しばらくして、二人に注文の品を届けると、葵がひろのの顔を見上げて心配そうに尋ねた。
「あの、ひろの先輩…お忙しそうですけど、午後は大丈夫ですか?」
その質問に、ひろのはきょとん、とした表情になった。
「午後…?なんだっけ」
ひろのが言うと、葵は苦笑して答えた。
「ほら、エクストリーム部の演武ですよ。先輩も見に来てくれますよね?」
思い出した、とひろのは手を打った。今日は3時から武道館でエクストリーム部の展示である演武を行うのだ。去年までは空手部がやっていたのだが、エクストリーム部が実質的に空手部を吸収してしまったので、今年からはその代わりを務めるのである。
と言っても、エクストリームは打撃だけでなく関節技や投げ技も含む総合格闘技。決まりきった型も存在しないので、選抜された部員による模擬戦等をメインにエクストリームの楽しさを伝える方向で行う方針である。
「ごめんごめん。忘れるところだった。うん、何とか交渉して行けるようにして見るね」
ひろのはそう言うと、美奈子を捕まえて事情を話した。最初は顔をしかめていた美奈子だったが、彼女も漫画部の発表と掛け持ちで、しばしば席を外す身。それを考えるとひろのの頼みを断ることはできなかった。
「ん〜…ま、いいわ。2時半から抜け?それなら何とかなるわ」
承諾した美奈子に礼を言い、ひろのは早速そのことを葵に伝えた。
さて、午後になってくると少しずつ人も減り始め、終了まで後3時間と言う午後2時くらいになって、ようやく客も途切れ始めた。
「もぅ…ホンマかなわんで」
「バイトよりきつかったね…」
出ずっぱりだった智子と理緒が肩をほぐすように動かす。
「いや、びっくりだよな…まぁ、これだけのメンツだ。無理もないさ」
垣本がそう言って女子を見渡す。その言葉に、女子一同は赤くなった。
「そう?オセジが上手ネ、垣本君」
と、唯一平然としているレミィがにっこり笑って言うと、列整理をしていた別の男子が頷いた。
「いやいや、謙遜することはないさ。なぁ佐藤」
そう言いながら、雅史の肩を叩く。その突然の攻撃に、雅史は思わず心に思っていたことを正直に話してしまった。
「うん、長瀬さんは特に素敵で…はっ!?」
自分が何を口走ったか理解した雅史が真っ赤になって黙り込み、言われたひろのも真っ赤になって硬直した。その様子を見ていた夏樹とちとせがはぁ、とため息をつく。美奈子が必死にひろのを超えようとしているのに、肝心の相手があれでは美奈子も浮かばれまい。
ちなみに、その美奈子はお昼が終わってから漫画研究部のほうへ出かけている。同人誌の即売をしているのだが、何しろ彼女のサークルは準大手。この機に本を手に入れようとやってくる校外の愛好者も少なくない。
そこで、智子が硬直しているひろのの肩を叩いて言った。
「長瀬さん、嬉しい気持ちはわかるけど、まだ忙しいさかいあんまりトリップせんといてや」
「…はっ!?あ、ご、ごめんね、いいんちょ」
我に返ったひろのは慌てて忙しそうに働き始め、逆にみんなに苦笑されていた。その舞い上がった気持ちのままだったせいか、ひろのは大事なことを忘れてしまった。
「ひろのちゃん、もう時間40分近いよ?行かなくていいの?」
そう言って、あかりが時計を指差す。その言葉に、ひろのは武道館に行くことを思い出した。
「あ…いけない。忘れるところだったよ…ありがと、あかり」
ひろのはまだ残る級友たちに挨拶し、教室を抜け出した。制服に着替えていこうかとも思ったのだが、10分くらい時間をオーバーしたせいで、その余裕がない。仕方なく、衣装を着たままひろのは武道館に向かって歩いていった。
「あ、ひろの先輩!お待ちしてました!!」
武道館に着くと、既に体操服に着替えて拳サポーターとレッグガードを填めた葵が満面の笑みで出迎えてくれた。
「遅れてごめんね。えっと…私は司会と解説で良いんだっけ?」
ひろのが詫びると共に今日の役目を聞くと、葵はそうです、と頷いた。演武…と言うと古式ゆかしいが、要はエクストリームのデモンストレーション。葵を含めて、上位の部員6名がさまざまな模範演技を見せるのだが、葵クラスともなると一般人にはわからない技も持っている。それをわかりやすく解説するのがひろのの仕事だ。
「よし、エクストリーム部始まって以来の大きなイベントだもんね。がんばろう、葵ちゃん」
「はいっ、先輩!」
「おーっ!!」
そうやってひろのと葵が気合を入れなおし、他の部員たちが唱和した、その瞬間だった。
「ちょっと待ったぁっ!!」
突然、道場の扉が勢い良く押し開かれた。そして、そこから現れたのは…
「よ、好恵さん!?」
葵が叫ぶ。そこには、空手着に身を固めた好恵が火の出るような視線を室内に向けて立っていた。
「あ、坂下さん…お久しぶり」
ひろのが言うと、好恵は一瞬たじろいだような表情になり、それから遠い目をして答えた。
「そうね…ずいぶん久しぶりね」
彼女が遠い目になるのも無理はない。先日、失敗魔法薬を飲んで反転暴走したひろのが町中で猛威を振るった日、止めに入った好恵はひろのの後ろ回し蹴り一発でKOされたのである。それよりも以前、公園で数度にわたってひろのを襲撃したときには、ひろのは逃げ回るばかりでまったく好恵に歯が立たなかったのに、だ。そのため、好恵は再び山ごもりをしに行っていたのである。
「で、今日はどうしたの?」
ひろのが尋ねると、好恵はここへ来た理由を思い出し、気を取り直すように咳払いを一つすると、懐から取り出したものを葵に手渡した。
「…これは…挑戦状!?」
驚いた葵が叫ぶ。好恵は頷いて本題を切り出した。
「そう…これは私たち空手同好会からあなたたちエクストリーム部への挑戦状よ。思えば、かつてこの時間は私たち空手部の持ち時間だったわ…奪われたものを取り返すため、私たちはあえて今日の日に立ち上がる!!」
好恵の後ろに、決意が竜のようなオーラの形になって吹き上がるのを、ひろのと葵の心眼は捉えたような気がした。
「と、言うわけで…勝負よ、葵っ!!」
びしっ!と空気を震わせて葵を指差す好恵に、葵は困惑した顔になった。
「ちょ、ちょっと待ってくださいよ…そんな事急に言われても」
「それに、今から演舞の展示だから、勝負する時間なんて…」
ひろのも露骨にではないが「迷惑だ」という態度を示した。すると、再び別の人物がその場に出現した。
「その勝負、あたしが預かったわ!!」
その唐突な発言に、全員が入り口の方を振り返る。すると、そこにいたのは志保だった。これまた一同に指を突きつけた決めポーズである。
「志保!?今のはどういう意味?」
ひろのが尋ねると、志保はそれまでの決めポーズを崩して頭を掻いた。
「いやぁ…どうもうち…2-Aに人が集中したせいか、展示が盛り上がらなくて良い記事がかけないのよね〜…どうかな、ここは一つ新聞部プレゼンツでエクストリームVS空手のエキシビジョン・マッチをするというのは。きっと盛り上がるわよ」
そんな勝手に…とひろのがツッコもうとしたとき、以外にも好恵がうなずいた。
「私はかまわないわよ」
「好恵さんっ!?」
葵が驚きの声を上げる。好恵はそういう目立つショー的な要素のあるイベントは好きではないと思っていたからだ。
「誰の目にも決着が明らかになるのなら、気にしないわ」
好恵の言葉に志保が頷いた。
「じゃあ、決まりね。会場は校庭に用意してあるわ」
どんどん進んでいく段取りに、ひろのは志保に近づいて話し掛けた。
「志保ぉ〜…ちょっと困るよ〜」
他の人ならともかく、相手はあの好恵である。勝負して、万が一彼女が勝とうものなら、何を要求してくるかわかったものではない。
「あぁ、大丈夫。ひろのの言いたい事はわかってるわ。それに関してはちゃんと考えてあるから心配しないで…ね?」
志保がにっこりと笑う。
「うん…わかった」
志保がどんな対策を取っているのか、ひろのにはわからなかったが、とりあえず彼女のやることだから何かしら考えはあるのだろう。ひろのは志保を信じることにした。
数分後、ひろのが志保、葵と一緒に校庭へ出てみると、信じられないことにそこには巨大なリングと観客席ができていた。
「な、な、何これ!?」
さっきまでは無かった筈のそれらの構造物にひろのが目を丸くすると、葵が頬をピンクに染め、上気した顔で言った。
「す、す、凄いです!これ、エクストリームの公式野外用バトルアリーナですよ!」
バトルアリーナ…要するに試合会場のことである。見ると、校門前に世界エクストリーム協会のロゴを付けたトレーラーが何台も駐車していた。ひろのたちが武道館にいる間に、これらがやってきて会場を設営していったようだ。
「志保…これはいったい?」
ひろのが志保に尋ねると、彼女はニヤリと笑ってひろのと葵の手を引っ張った。
「まぁまぁ、そのからくりは後で説明するとして…まずはこっちよ」
そう言いながら、志保はバトルアリーナの一角にあるプレハブ小屋に二人を引っ張り込んだ。中にはロッカーとベンチが置かれている。どうやら、選手控え室のようだ。
「さて、まずは葵ちゃんはこれに着替えて」
志保はロッカーを開け、葵に着替えを手渡した。それを広げて、葵は目を輝かせた。
「すごい、凄いです!エクストリーマーのリングスーツじゃないですか!!」
はしゃぐ葵に、志保が頷く。
「うん。まぁ、せっかくの舞台だし、ちゃんとした奴を着ないとね。スポンサーのご意向もあるし」
「…スポンサー?」
ひろのがその妙な単語を聞きとがめると、志保は頭を掻きながら笑って答えた。
「そりゃあ…新聞部の予算じゃこんな大仕掛けはできないもの。まぁ、新聞部はそのスポンサーに名義だけ貸してるってところね」
あぁ、それで、とひろのは納得した。道理で話が大きくなっているわけである。それに、スポンサーの正体も大体わかったような気がした。
「あと、ひろのにもやって欲しいことがあるんだ」
「え?」
志保の申し出に怪訝な顔をしたひろのだったが、その「やって欲しいこと」に思わず赤面した。
「…本当にやるの?」
「うん、マジ」
聞き返しても無情な言葉が返ってくる。仕方なく、ひろのはその役割を引き受けた。
数分後、観客席はいつのまにか黒山の人だかりになっていた。リングに立った志保が、愛用の金のマイクを片手に大声を張り上げる。
「…れっでぃーすえーんどじぇんとるめーん!お待たせしました!これより新聞部杯エクストリームエキシビジョンマッチを開催します!」
うおおおおおお、と言う怒涛のような歓声が辺りを揺るがした。
「早速ですが選手入場です!まずは赤コーナー、空手同好会会長!鬼神も道を譲る東鳩高の最終兵器、『拳の女帝』坂下ぁ〜好ぃ恵ぇ〜!!」
志保の紹介と同時に勇壮なマーチが四方八方から鳴り響き、花道にスモークが噴き出す。その中から、空手着に身を固めた好恵が威風堂々と進み出た。拍手と歓声が浴びせられると、好恵はちょっと顔をしかめた。やはり、こういうショーアップには抵抗感があるらしい。
「続きまして、青コーナー、1年生にしてエクストリーム部部長!小柄な身体に無限のパワー、『蒼い流星』松原ぁ〜葵ぃ〜!!」
再びテーマミュージックと共にスモークが噴き出し、好恵の逆方向から葵が進み出た。彼女の方は体操着に代えてさっき渡されたリングスーツを着ていた。レオタードとスパッツを組み合わせたような、動きやすいデザインのものだ。色は彼女のイメージに合わせて青系を主体とする。憧れのスーツに身を包んだせいか、普段の自信のなさは葵には見えなかった。
「葵ちゃん、がんばれーっ!!」
「ファイトですぅ、葵さ〜ん」
いつのまにか観客になっていた琴音とマルチが応援の声を張り上げ、葵は笑顔で応えながら、既に好恵が登って待っているリングに足を踏み入れた。その瞬間、さすがに真剣な表情になる葵。選手入場が済んだところで、志保が先を続ける。
「ルールですが、1ラウンド3分の3ラウンド制。相手をノックアウト、テンカウント、レフェリーストップ、ギブアップに追い込むか、総獲得ポイントの多い方を勝ちとします。急所攻撃は基本的に禁止です」
よどみなく司会進行していく志保に、坂下が怪訝な表情を向けて質問した。
「それってエクストリームのルール?」
彼女としては当然の質問だ。
「えー…まぁ、そうですね。審判はちゃんとどっちにも詳しいので問題ないとは思いますが」
志保は好恵の質問をあっさりと流し、次に移った。
「では、ここで大会スポンサーのご紹介を。かの来栖川家のご令嬢にして、エクストリームファンなら知ってなきゃモグリなあのお方、エクストリーム女子無差別級チャンピオン、来栖川綾香さんです!!」
会場から大地を揺るがすようなどよめきが上がり、ひろのは「あぁ、やっぱりね」と呟いた。エクストリーム絡みでこれほどの大仕掛けを簡単に用意できるような人間は彼女しかいない。そう考えているひろのの目の前で、綾香がリングに登ると、志保からマイクを受け取った。客席のどよめきが大きくなり、「すげぇ、本物だ!!」と言う声が飛び交う。
「会場にお集まりの皆さん、こんにちは!」
綾香が挨拶をすると、再び観客席から歓声が上がり、中には「こんにちは〜!!」と唱和するグループもいる。その強さと美貌、気さくさで綾香はエクストリームファンにもまさにアイドルとして崇められる存在なのだ。
「本日は、この試合をコーディネートすることができ、個人的にもとても嬉しいです。坂下選手…好恵と、松原選手…葵は、私が格闘技の基礎を学んだ空手道場の姉妹弟子であり、共に切磋琢磨しあった仲でもあります。彼女たちが勝負をすると聞き、お節介ながらこのような場を設けてみました」
拍手が巻き起こる。
「彼女たちの実力は私が折り紙つきで証明します。存分にご覧ください」
再び拍手と大歓声。なにしろ「秒殺の女王」綾香が認める二人なのだから、本物のエクストリームに匹敵する好勝負になるのは間違いない。
「綾香さんには解説もお願いすることになっています。続いて、審判は綾香さんお付きのメイドロボ、ダウンロードで何でもこなすHMX-13セリオに勤めて頂きます!」
志保の紹介に、リングに登ったセリオが頬を赤らめてもじもじと挨拶をする。
「あ、あの…よろしくお願いします。公正な審判を心がけます」
照れるセリオに観客の暖かい声援が送られ、セリオはますます恐縮して頭を下げた。本人は「心がけます」などと言っているが、人間以上の動態観察力を持つセリオなら見落としはないはずだ。
「さて、関係者の紹介も終わりました…そろそろ試合開始と参りましょう!用意は良いですかっ!?」
「は、はいっ!」
「構わないわよ」
志保の問いかけに葵と好恵がそれぞれに応じ、コーナーポストに分かれる。
「さ、ひろの、お願いね」
「う…恥ずかしいよ」
志保に促され、ここでひろのがリングに登った。コスプレした謎の少女の出現に、何事かと注目した観客だったが、次の瞬間ひろのが高く掲げたボードを見て納得した。それには「ROUND 1」と書かれていたのである。要するに、ひろのが引き受けたのはラウンド・ガールの役だったのだ。
ちなみに、本職が着るようなハイレグの水着やぱっつんぱっつんの超ミニのワンピースなども用意してあったのだが、さすがにそれは着なかった。
しかし、ひろのが着ている衣装は、一見清楚なデザインながら、実は上半身のラインが結構綺麗に浮き出るタイプ。おまけに腰をリボンで締めるため、お尻のラインもかなりはっきりしていた。しかも、ボードを高く掲げて必然的に胸を張る姿勢になっているから、豊かな胸のふくらみが余計に強調される形になっていた。
そんなひろのが顔を羞恥で染めながらリングを一周するわけだから、男性の観客は一撃で彼女の無自覚の誘惑に当てられ、ますますボルテージを上げていった。もちろん、この人たちも例外ではない。
(くっ…これは凄まじい破壊力ね。さすがだわ…)
綾香が眩しいものを見るような目で思っていた頃、目の前でひろのを見ていた好恵はさらに熱くなっていた。
(か、勝つ。絶対に勝つわ。そして長瀬さんをお持ち帰り…)
そんなダメダメな二人をよそに、葵の前を通り過ぎたひろのは、顔を葵に向けて励ますようににっこり笑った。
「がんばってね、葵ちゃん」
「は、はいっ!!」
葵が気を取り直す背後で、笑顔の射線上に当たった観客が撃破されまくったがそれはさておき。
一周し終えたひろのがリングから降り、いよいよ戦いの場には葵と好恵、そして審判セリオの三人だけが残った。観客席のざわめきも収まり、みなが固唾を飲んで見守っている。二人の様子を見ているセリオが真剣な表情でチェックを終え、放送席についた志保と綾香にサインを送る。それに頷き、志保はマイクに向かってシャウトした。
「第一ラウンド…ゲットレディ、ファイト!!」
同時に綾香がゴングを鳴らす。いよいよ、エクストリーム対空手の全面戦争がはじまった。
先に動いたのは好恵だった。一気に間合いを詰め、連続した突きを繰り出す。葵はたまらず後退するかに見えた。そこへ、好恵が蹴りを放った。葵の軽い身体が吹き飛ばされる。
「他愛もない…えっ!?」
好恵が葵の意外な手ごたえのなさに拍子抜けすら感じたその瞬間、後ろに飛んだ葵が凄まじい勢いで戻って来た。そのまま繰り出された掌底がとっさにガードした好恵の右腕に当たり、「気」を込めた打撃を好恵の胴体にまで届かせる。
「くっ!!」
吸収しきれないダメージに顔を歪めた好恵だったが、その目は葵の使った魔法のような早い踏み込みの正体を見切っていた。
「いやー、先制攻撃を仕掛けた坂下選手が押し切ったと思った瞬間、形勢が逆転しましたねー。どうなんでしょうか、解説の綾香さん」
「そうね。好恵は空手だから、今の葵みたいにとっさにロープの反動を使うと言う判断ができないものね。でも、好恵もこのままでは終わらないわね」
実況の志保と解説の綾香がアナウンスをしている。リング上では先にクリーンヒットを出した葵が優勢に試合を進めていた。好恵は右腕が痺れて思うような攻撃が出せない。しかし…
(…もう…大丈夫か?)
葵の猛攻をなんとか捌きながら、好恵は右腕の調子を確かめていた。まだ軽く痺れてはいるが、感覚は戻っている。
「せいっ!!」
「うあっ!?」
好恵は積極的に使っていなかった右腕で、力任せに葵の攻撃を打ち払った。体制を崩した葵に、今度は逆に好恵が攻勢に出る。一進一退の攻防に場内が沸き返った。葵と好恵、二人の戦いはエクストリームファンを十分に満足させうるものだった。
その時、綾香がゴングを連打した。同時にセリオが二人の間に割って入る。第一ラウンドが終了したのだ。
「ここで第一ラウンド終了です!ここまでの経過を見ていかがですか?」
「そうね、今のところは互角ね。まだ二人とも様子見、って感じかしら。次のラウンド以降に注目よ」
志保と綾香の実況が続く中、ひろのは葵に椅子を差し出し、水とタオルを手渡した。
「大丈夫?葵ちゃん」
「大丈夫です…やっぱり好恵さんは強いです…でも、前みたいに怖くはありません」
葵は水で口をゆすいで答えた。向こうのコーナーでは、セリオがセコンド代わりになって好恵に水とタオルを手渡している。
「もちろん、勝てるかどうかはわからないけど…精一杯やります」
「うん、そうだね」
ひろのは簡単にそれだけを言った。非公式とは言え、憧れのバトルアリーナに立てたと言うことが、葵の力を引き出しているようだ。余計なことを言って動揺させるわけには行かない。
「そろそろですね…」
やがて、準備を整えた葵が言うと、ほぼ同時にゴングが鳴った。「第二ラウンド、ゲットレディ、ファイト!」と言う志保の声に押されるようにダッシュする葵。今度は、彼女の方が積極的に攻めに行った。休んで体力が回復し、同時に身体も程よく暖まったのだろう。第一ラウンドでは見られなかった派手なコンビネーション技や大技が繰り出された。葵が二段連続空中回し蹴りを放ち、好恵は身体を旋回させながら裏拳、上段蹴りなどを織り交ぜた連続技を繰り出して迎え撃つ。その技のやり取りに観客席は沸きに沸いた。
「まっつばらっ!まっつばらっ!!」
「さーかーしたっ!さーかーしたっ!!」
何時の間にか、観客たちは、自然と二人を称えてその名をコールし始めていた。
そして、後半になると、葵は好恵に勝るスピードとフットワークを生かし、積極的に懐に踏み込んで行きはじめた。そして、好恵がパンチを放った瞬間、それをかわして全体重を乗せたタックルを好恵に叩きつける。
「!!」
観客席、実況、そしてひろのも息を呑んだ。葵は好恵をマットに押し倒し、すかさずその腕を取って腕ひしぎ十字固めを仕掛けたのである。
「こ、これは、意外な松原選手の寝技だぁっ!!どうなんでしょうか、綾香さん!!」
興奮して聞く志保に、綾香も上気した顔で何度も頷きながら答えた。
「た、確かにエクストリームに寝技や関節技を禁じる規定はないわ。でも、元空手の葵がこんな技を使えるようになってたなんて…」
綾香の声にも感歎が混じる。葵の着実な成長を喜んでいるようだ。
「ぎ…ギブアップしてください、好恵さんっ!」
腕を締め上げながら葵は言った。確かにグラウンドの技は練習はしていたが、やはりまだ自分のものとはしていない分ホールドが甘い。自分よりこの分野に関しては初心者の好恵だからこそ通じているようなものだ。
「だ、誰がギブアップなんか…!!」
好恵は顔をしかめ、震える声で強がる。甘いとはいえ、葵が全力で仕掛けている腕ひしぎ十字固めは確実に好恵の腕にダメージを与えつづけていた。
「まっつばらっ!まっつばらっ!!」
「さーかーしたっ!さーかーしたっ!!」
エールも最高潮、試合は一気にクライマックスの雰囲気を見せていた。セリオが好恵のそばに屈みこみ、ギブアップの意思の有無を何度も確かめる。好恵はそれを全て拒否していたが、このままでは腕の調子も、そして取られるポイントも自分にとって圧倒的不利となりかねない。
(…こうなったらっ!)
好恵は覚悟を決め、全身に力をこめた。そして…
「うおおおおおおおおおおおっっっっ!!?」
観客席が津波のようにどよめいた。そして、信じられない光景に志保が立ち上がってテーブルを叩きながら絶叫する。
「こ、これは…!!信じられません!!坂下選手、立ちました!!腕を極められたその体勢でです!!まさにアンビリーバボー!!!」
「む、無茶するわね」
さすがの綾香も呆れたくらいだったから、葵はもっと驚いていた。
「そ、そんなっ!?」
技が思わず緩む。そして、好恵はその隙を見逃しはしなかった。
「てりゃああああ!!」
「きゃあああああ!!」
好恵の絶叫と葵の悲鳴がオーバーラップした。なんと、好恵は葵をロープめがけて投げつけたのである。そして、その反動で戻って来た葵めがけて必殺の蹴りを叩き込んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!」
会場が凍りついたようにその動きを止め、沈黙がバトルアリーナを埋め尽くした。カウンターで蹴り飛ばされた葵が放物線を描いてリングの縁を飛び越え、マットに落ちた。
「葵ちゃん!!葵ちゃんっ!!」
慌てて駆け寄るひろのの前に、リング上からセリオが飛び降りると、しゃがみこんで葵の様子を見た。そして、立ち上がって腕を頭上で交差させるように振る。それを見た綾香はゴングをがんがんと打ち鳴らした。
「松原選手、戦闘不能と認定!!勝者、坂下好恵―っ!!」
志保が絶叫する。次の瞬間、歓声が爆発するように会場を覆い尽くした。同時に、志保と綾香、そして勝った好恵も葵の元へ駆けつけた。客席からは琴音にマルチ、エクストリーム部の部員たちも飛び降りて現場へ向かう。
「セリオ、葵ちゃんは大丈夫なのっ!?」
葵の周りにできた人垣の中心で、ひろのは泣きそうな顔でセリオに尋ねていた。医療プログラムをダウンロードしたセリオが葵の様子を見ていたが、やがて顔を上げると微笑んで頷いた。
「はい、松原様は大丈夫です。打ち所が良かったのでしょう」
その答えに、一同は大いに安堵して葵の顔を見た。やがて、彼女はかすかに痙攣して、うっすらと目を開けた。
「う…ひ…ひろの先輩…」
最初に自分の頭を膝枕しているひろのの顔に気付いたのだろう。葵が震える声で言った。
「なぁに?」
ひろのが優しい声で聞くと、葵の目に涙が浮かんだ。
「先輩…わたし…私、負けちゃいました…!!」
そう叫ぶと、葵は号泣しはじめた。泣きじゃくる葵を優しく抱きしめ、ひろのはささやくように言った。
「…大丈夫、気にしないで。葵ちゃんは良くやったよ」
「そうですよ、部長!」
周りのエクストリーム部員たちも声をあげた。
「部長は誰にも恥じることのない立派な試合をしたじゃないですか。また練習しなおして、次は勝ちましょう!!」
「そうだよ、葵ちゃんはかっこよかったよ」
琴音やマルチもねぎらいの言葉をかけた。葵は何か返事をしようとするのだが、感極まったのかどうしても言葉にならなかった。
「とにかく、今は休みなさい、葵。ほら、担架も来たわ」
綾香が言うと、保健室に行って担架を取ってきたエクストリーム部員が到着した。ひろのは慎重に葵を担架に寝かせ、付き添ってバトルアリーナを出て行く。他の部員や琴音、マルチも後に続き、花道を出口へ向けて歩いていく。すると、誰が合図したわけでもないのに観客は一斉に起立し、盛大な拍手を持って葵を見送った。それは、彼女の健闘に対する最大級の賛辞だった。
「さて…見事な勝利を収めた坂下さん、おめでとうございます」
葵たちが去ると、控えていた志保が好恵にマイクを突き出した。
「え?あ、あぁ…ありがとう」
今度は、彼女に向けて拍手が降り注ぐ。好恵はようやく勝利を実感した。苦しい戦いだった。しかし、これで空手の名誉は回復され、空手部が復興し、ひろのがマネージャーになるのだと考えると感無量の思いだった。
「勝者の坂下さんには、素敵な豪華賞品が贈られる事になっています。では、綾香さんお願いします」
志保がそう言って綾香にマイクを手渡した。あれ?と好恵が怪訝な表情になるより早く、綾香が「賞品」の内容を発表した。
「えー、坂下選手には、私より世界エクストリーム委員会に今年最も有望な選手として、来期のエクストリーム世界大会における出場枠を推薦することを約束いたします」
一瞬沈黙が訪れ、それから今日何度目になるのかわからない歓声が爆発した。なにしろ世界大会の出場選手といえば、狭き門にして超一流格闘家のステータス。何も知らない人々が熱狂するのも無理はなかった。しかし。
「ちょ、ちょっと待ってよ綾香!私はそんなの欲しくないわよ!」
好恵は猛烈に抗議した。彼女が欲しいのは空手部の復興とひろのの身柄であって、エクストリームの世界なんかに興味はない。
「そうは言っても私が用意できる賞品はこれだけだけど?まさか金品と言うわけには行かないし」
綾香がそっけなく言った。確かに非公式のアマチュアの大会で高額な金品をやり取りするわけには行かないが、問題はそんなところにはない。
「長岡さん、あなたも何か言ってよ。私は道場の使用権を賭けて葵と…」
綾香では話にならないと見た好恵は志保に矛先を向けたが、志保はそ知らぬ顔で答えた。
「ん?私は、坂下さんと葵ちゃんが勝負する、って言うからせっかくなんでイベントにしようと思っただけなんだけど」
好恵は絶句した。そして、ふと思い出す。道場の使用権にしても、ひろののマネージャー移籍にしても、何も形に残る文書なり何なりにしてはいないと言うことに。
(つ、つまりは私の単なる思い込み…?そ、そんな馬鹿な…)
身体ががくがくと震え、好恵は己の失敗を思い知らざるを得なかった。
「さて、さっそく大会委員長にナシつけなきゃ♪」
楽しそうにわざとらしいほどゆっくりと携帯電話の番号をプッシュする綾香に、好恵は震える声で言った。
「せ…せっかくの機会だけど…遠慮しておくわ。私は空手を極める事にしてるから…」
事情を知らない観客たちは、この好恵の発言を謙虚な態度と受け取り、ますます彼女に賞賛の拍手と声を浴びせるのだった。
「…と言うわけで、坂下さんのことは心配しなくて良いから」
保健室で志保はひろのに事の次第を報告していた。
「うん、ありがと、志保」
眠っている葵の横で、ひろのは安堵の表情で頷き、志保に礼を言った。志保は手をぶんぶん振って綾香のほうを見た。
「礼なら綾香さんに言った方が良いよ。武道館の外で事情を聞いて、すかさず今度の作戦考えてくれたのは綾香さんだから」
ひろのは志保の後ろで柱にもたれている綾香に向き直った。
「ありがとう、綾香」
「気にしない気にしない」
ひろのの礼に、綾香はニンマリ笑って答えた。彼女としては、面白い勝負を見て、かつ好恵のたくらみを粉砕できたのだから十分にご満悦なのだった。
「ところで、今日はどうして綾香がここにいるの?」
ひろのが尋ねると、綾香は呆れたような表情になった。
「どうしてって…文化祭見に来たに決まっているでしょうに」
あ、とひろのは自分の間抜けな質問に笑ってしまった。危機が解決してちょっと呆けていたのかもしれない。
「ほんとうはひろのがどんな格好でいるのか気になって来たんだけど、もう教室にいなかったからね。ま、今じっくり見てるけど」
綾香が言うと、ひろのは赤くなった。
「あ、あはは…へ、変じゃないかな?」
この期に及んでもまだその質問をするひろのに、綾香は苦笑して答えた。
「いや、似合ってるわよ。明日も来るから、その時はちゃんとそれでお茶いれて欲しいな」
「うん、喜んで」
微笑んで承諾するひろのを見ながら、綾香は明日こそ楽しみね、とほくそ笑んだ。
こうして、激動の二日目は終わった。明日はいよいよ最終日。
決戦の三日目である。
(つづく)
次回予告
東鳩祭最終日。忙しい2−Aに遂に現れる綾香たち。警戒の色を強める某組織と、それと対立する某組織の影が見え隠れする不穏な空気の中、はたして祭りは無事に閉幕しうるのか?
次回、12人目の彼女第三十三話 熱闘文化祭編C「最終決戦」
お楽しみに〜
今回予告と全然話が違ったことを心からお詫びします(平伏)
あとがき代わりの座談会 その32
ひろの(以下ひ)「こんにちは、長瀬ひろのです」
志保(以下志)「長岡志保です。…って、いつもの作者は?」
ひ「前回予告と話が違ってしまったので、責任追及を恐れて逃亡したみたいだよ」
志「しょうがない奴ね。まあ、そのうち見つかって成敗されると思うけど…」
ひ「まだ芹香先輩の様子も書いてないし、3回で文化祭編を終わらせるのは勿体無いとかなんとか言い訳してたけど」
志「まぁ、文章書いているうちに膨らんじゃうのはあたしも経験あるわ」
ひ「そうなの?」
志「うん。新聞記事なんて長さが限られているからね。どこを削るかはいつも思案のしどころよ」
ひ「なるほど…で、今回は良い記事が書けそう?」
志「おかげさまでバッチリよ。1年生とこのお化け屋敷にうちのコスプレ喫茶、今日の試合、後は明日の3年生の企画のレビューね」
ひ「私も暇があったら行ってみようっと」
志「…それは辛いと思うけどね」
収録場所:特設バトルアリーナ実況席
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