※このお話の主人公、長瀬ひろのちゃんは昔浩之ちゃんだったんだっけ?(おい)。


 
前回までのあらすじ

大騒動だらけの夏休みもいよいよ終盤。しかし、その最後の事件で思わぬ運命の変転が彼女を待ち受ける事になった。

To Heart Outside Story

12人目の彼女

第二十六話
想い出の夏休み編FINAL「ひとつ屋根の下で」


 気まずい空気が部屋の中に漂っている。場所は来栖川邸の大食堂。上座には当主の厳彦氏が着席し、座に着いた一同を見渡している。その顔は名前の通りにあくまでも厳しい。
 やがて、厳彦氏は口を開いた。
「綾香、何か言いたい事はないのか」
 指名された綾香はぴくりと震えた。格闘技の世界では無敵の女王と呼ばれ、怖いもの知らずに見える彼女も、この祖父だけは死ぬほど苦手だ。
「綾香、何も無いのか」
 厳彦氏が重ねて問う。綾香は石像のように固まっていたが、やがてふぅ、と一息付き、一言言った。
「何もありません、お祖父さま」
 祖父相手では、下手な言い訳など通用しない。事情はどうあれ、自分が率先して裏庭を焦土化するきっかけを作ったのは事実なのだ。
「ないか。潔いと言えば潔い…しかし、綾香」
 厳彦氏は一息ついて言葉を続ける。
「ワシは、お前のやる事は大目に見てきたつもりだ。身体の弱かったお前には、せめて好きな事をさせてやりたいと」
 話を聞いていたひろのはちょっとびっくりした。綾香が身体が弱かったなんて想像も付かない。
「しかし、此度の事は大目には見れん。客に花火を投げつけた挙げ句、森と庭を焼き払うとは何を考えているのだ」
 厳彦氏の額にいくつも青筋が浮かんでいた。それが一続きに繋がった時、厳彦氏は決定的な一言を口にした。
「綾香、お前は勘当だ。今日より当家の門を潜る事はまかりならん!」
「…!」
 その余りに厳しい決定に場がざわつく。
「か、勘当?」
「まさか…いくら夕べの被害が大きかったと言っても…」
 使用人たちがひそひそと囁き、ロッテンマイヤーに叱られて口をつぐむ。その中で、わなわなと震えていた綾香が口を開いた。
「お、お祖父様…」
「もう、祖父でも孫でもない。早く去れ」
 厳彦氏がぴしゃりと撥ね付け、綾香が再び絶句したとき、進み出た人物が二人いた。
 芹香とひろのである。
「…」
「何?不満なのか、芹香」
 厳彦氏に問い返され、こくこくと頷く芹香。
「…」
「何?綾香の不始末は、姉である自分の監督不行き届きです?だから、綾香を責めないで下さい…じゃと?」
 芹香はまたしてもこくこくと頷いた。続いてひろのが口を開く。
「私からもお願いします。花火大会は私が主催を呼びかけたんです。ですから、あの晩あそこで起きた事の責任は私にあります。どうか、綾香の処分を考え直して下さい」
 普段は物静かで大人しい二人の少女だったが、この時ばかりは別だった。確かに、二人とも綾香には散々迷惑な目に合わされてはいるが、だからと言っていなくなって欲しいわけではない。
 ひろのも、たかがロケット花火と思って放置していたら大事になってしまったと言う後悔がある。
「姉さん…ひろの…」
 二人の弁護に感動し、声を詰まらせる綾香。厳彦氏は少し考え込んでいたが、やがて顔を上げるとひろのと芹香の顔を見て言った。
「二人とも責任を負うというのだな?」
 ひろのと芹香がうなずくと、厳彦氏は思いも寄らない事を言い出した。
「ならば、二人も同罪だ。綾香ともども立ち去るが良い」
 これに、綾香が猛反発した。
「お祖父様!悪いのは私です!姉さんとひろのは…」
「黙れ!勘当した者が要らざる口を挟むでないわ!!」
 厳彦の一喝に、さすがの綾香も言葉を続ける事ができず、呆然と立ち尽くす。この恐るべき、そして尊敬すべき祖父が本気である事を悟ったのだ。そうなった以上、彼女の力ではどうしようもない。おまけに、セバスチャンもロッテンマイヤーも何も言わないのだ。
(…ん?…そうか、そう言う事ね)
 その時、綾香はある事に気がついた。そして、すっと頭を下げた。
「…わかりました。お祖父様もどうかお元気で」
「綾香!」
「…!」
 諦めたように祖父の厳しすぎる裁定を受け入れた綾香に、ひろのと芹香が声をかけたが、綾香は踵を返して食堂を出て行く。芹香は厳彦の方を一瞬振り向き、彼女にしてははっきりとわかる厳しい視線を祖父に向けると、妹の後を追って食堂を出ていった。
「おじいちゃん…」
 ひろのも、綾香を弁護しなかったセバスチャンを一睨みして、来栖川姉妹の後を追った。
 3人の少女がいなくなると、セバスチャンがはじめて口を開いた。
「むぅ…大旦那様の策とは言え…いささか厳しいものがありますな」
 ロッテンマイヤーも頷く。
「そうざますね…芹香様があんなに不満を露わにされたのは初めてかもしれないざます」
 側近二人の懸念に、厳彦氏は心配要らない、と言うように笑って見せる。
「大丈夫だろう。いかに綾香でも、自分のせいで芹香とひろの君が巻き添えになったと思えば反省するはずだ」
 厳彦は自信を持って言い切った。実のところ、厳彦は綾香の「悪行」をかなりのところで把握していたのである。さすがに、東鳩ファンタジアパーク崩壊や、「来栖川のお島」の一件のような人知を超えた大きな事件までは知らなかったが。
 そのため、一度綾香に過酷な罰を与えて反省を促そうと思っていたのである。当たり前だ。二人しかいない可愛い孫を本気で勘当するつもりなど無い。
「だからと言って、芹香様やひろのさんにまで教えないのはいかがなものかと思うざますが…」
「敵を欺くにはまず味方から、と言うでな。確かに可哀想じゃが」
 厳彦はさすがにちょっと気の毒そうな表情になって言った。今回の計画では、綾香に本気で反省してもらうためにも、身近な所にいる芹香やひろのには事情を教えていない。ひろのは割と如才ない性格だから、教えても上手く演技してごまかしてくれるかもしれないが、芹香はわかる人間には非常にわかりやすいだけに、事情を教えると彼女から綾香にわかってまう危険性があった。
「まぁ、2、3日様子を見て、十分反省しているようだったら帰ってくるように言ってやれ」
「は…」
 結局、セバスチャンもロッテンマイヤーも厳彦の指示に従った。彼らだって、いつも手を焼いている綾香が少しは大人しくなってくれれば、それだけ有り難いからである。

 数時間後、来栖川邸を出たひろの、芹香、綾香の3人は、バスで駅前に来ていた。持ち出せたのは数日分の着替えと最低限の身の回りの品々くらいだ。ひろのと芹香はベンチに腰掛け、銀行に行っている綾香の帰りを待っていた。
 しばらくして、綾香が落胆した表情で戻ってきた。その顔を見て、二人も少し沈んだ顔になる。
「ダメ。やっぱり口座は封鎖されていたわ。この分だとクレジットカードも全滅ね」
 綾香が言った。偽装勘当とは言え、さすが天下の来栖川家。やる事には抜かりが無かった。ちなみに、芹香の口座も封鎖されていたが、ひろのの口座は無事だった。
 ただし、彼女の口座は来栖川姉妹と比べると残高が3桁ぐらい少なかったが。
「すると、今手持ちのお金は…」
「ひろのが2万円、あたしと姉さんが合わせて3万円」
 しめて5万円と言う事になるが、3人の少女が暮らしていくには余りにも少ない額と言わざるを得ない。ホテル代だけとしても、2〜3日も持てば御の字だ。
「何とかして住むところを確保しなくちゃいけないね。でも…」
 ひろのの声が沈む。当てなど全く無いからだ。
「寺女の寮は部外者立ち入り禁止だしなぁ…」
 綾香も言う。全国から入学希望者を集める名門女学園だけあって、寺女には寮が存在する。しかし、勘当された今、今までみたいに大口寄付者の権威を押し通して好きな事をするわけには行かないだろう。
「…」
 その時、それまで無言だった芹香がぼそぼそっと何かを口にした。それを聞いた綾香の顔が、その手があったか、と言うように明るくなる。
「なるほど、友達の家ね。うまく頼めれば泊めてくれるかも」
「でも、頼める人いるかな?」
 ひろのが首をひねる。その瞬間、来栖川姉妹の動きが固まった。美貌と富と才能、いずれにも恵まれた二人であったが、代償として友人は非常に少なかった。
 芹香は性格的な問題もあり、ひろのの友人がイコール芹香の友人、と言うような状況だったし、綾香も「下僕」だの「子猫」だのは多かったが、ちゃんと対等の友人と言うとえらく少ない。
(百歩譲って…好恵くらいかしら?)
 ライバルとしては良いが、友人として考えるとえらく問題のありまくりな知人の顔を思い出し、ちょっとブルーな気分に陥る綾香だった。
「ひろの…誰か心当たりはない?」
「え?う〜ん…」
 逆に綾香に話を振られ、考え込むひろの。頭の中で友人たちの情報を思い浮かべてみる、
 智子…は、父子家庭なのでたぶん家はそんなに広くないだろう。志保…は普通の家。理緒の家はさすがに問題外だ。
「レミィの家なら…広いかな?」
 レミィは実は結構お嬢様だ。父のジョージ・クリストファー氏は貿易会社の社長。家も大きな洋館で、部屋は余ってそうに見える。
 ただ、家族が多いので実際のところはどうかわからない。それでも、頼るならレミィの家が一番有望だ、とひろのは判断し、姉妹に声をかけようとした。
 と、その時、聞きなれた声が背後から聞こえてきた。
「あ、ひろのちゃん!」
「ん?あかりかぁ。おはよう」
 そこにはあかりが立っていた。どうやら買い物の途中だったようだ。
「こんな所で大荷物を抱えてどうしたの?」
 不思議そうに首を傾げるあかりに、ひろのは「訳あって何日かお屋敷を出なくちゃ行けなくなった」と説明したが、当事者だっただけあって、あかりはすぐに「屋敷を出た訳」を察した。
「…ひょっとして…わたしのせい?」
「え?い、いや…そんな事無いよ」
 しゅんとなるあかりに、ひろのは慌てて否定する。もちろん、本当のところはあかりの責任だって決して小さな物ではない。
「でまぁ…泊まれる場所を探してるんだけど…」
 ひろのが言うと、それまで泣きそうだったあかりの顔に笑顔が浮かんだ。
「えっと…それなら、わたしの家はどうかな!」
 嬉しそうに言うあかり。彼女はひろのが浩之から変身した日に、ひろのに自分の家での同居を持ち出しかけた事がある。その時はうまく行かなかった計画が進められるかもしれない、と思ったあかりだったが、続くひろのの言葉がそれを打ち砕いた。
「う〜ん…でも、あかりの家じゃ3人を受け入れるのは辛くないかな」
「…あ」
 これにはあかりも返す言葉が無い。彼女の家は普通の建て売りの一戸建てだが、それほど大きな家と言う訳ではない。両親とあかりの一家3人が住む分には全く問題ないが、そこへひろのたち3人が押しかけるには余裕が無さ過ぎる。
「うぅ〜」
 がっくりと肩を落としたあかりだったが、その時、彼女の脳裏に絶妙かつ起死回生のグッドアイデアが浮かんだ。自分の目の届く範囲にあり、なおかつ誰にも迷惑のかからない場所だ。あかりはひろのにそっとその場所の事を耳打ちした。
「ええええぇぇぇっっっ!!??」
 その案に、さすがのひろのも驚いて妙な声を上げる。
「確かに今は誰もいない場所だし…スペースも十分だけど…ううん、まさかねぇ…」
 ぼそぼそと相談するひろのとあかりを、来栖川姉妹が不思議そうな目で見つめていた。

 それから二十分ほど後。
 あかりを加えた一行は、彼女が提案した「その場所」の前に来ていた。その家の表札には次の二文字が刻まれていた。
「藤田」
 そう、ひろのがかつて男だった頃の姿、藤田浩之の実家である。
(まさかこんな形でここに来るとはね…)
 変身以来一度も帰っていない家を、感慨深くみつめていると、綾香が懸念の声を発した。
「ここ…他人様の家みたいだけど…本当に大丈夫なの?」
 この質問にあかりが答えた。
「大丈夫。ここは知り合いのお家なんだけど…今は誰も住んでなくて、わたしの家で鍵を預かってるの」
 ね?と問い掛けるように目配せしてくるあかり。ひろのは綾香にわからないようにかすかに首を縦に振った。確かに鍵はあかりに預けてある。
「だから、中のものをいじったりしなければ大丈夫。何も使ってない和室とかもあるし」
 あかりが間取りを解説する。藤田邸は4LDKで、一階には両親の寝室と使っていない和室、LDKが、二階には浩之の部屋と、物置代わりに使っていた5畳の洋室があった。
 布団は客用のが2つあり、リビングのソファはベッドに早変わりする優れものだ。従って寝る場所の心配も要らない。そうした事を聞き、最初は大丈夫なのかと思っていた綾香もようやく納得した。
「今日の晩御飯はわたしが用意してあげるから」
 あかりの言葉を聞き、来栖川姉妹の顔に笑顔が浮かぶ。一流料理人の作る料理を食べ慣れた彼女たちをも唸らせるあかりの料理の腕前は、島でのサバイバル・リゾートで実証済みだ。
「それは楽しみね…」
 微笑む綾香の前で、あかりが藤田邸の玄関を開けた。

「お邪魔します」
「…」
「お邪魔します」
 綾香、芹香に続いて入ったひろのは、こっそりと小声で「ただいま…」と言いつつ、懐かしい「我が家」の玄関を見渡した。時々あかりが入って掃除でもしていたのか、汚れているところはほとんど無い。あの日、出ていった時のままになっていた。
 懐かしさに目を細めつつ、ひろのは奥の使われていない和室に入った。まだ両親とこの家に暮らしていた頃は、来客が泊まる際の寝室に使っていた部屋だから、用途としては間違っていない。
「結構良い部屋だけど…3人が寝るにはちょっと狭いわね」
 綾香が言った。確かに、6畳の部屋は布団を3組敷くには狭すぎる。
「じゃあ、私はリビングのソファベッドにするよ」
 ひろのは言った。彼女としては、ここは元々自分の家なので、「お客さん」である芹香と綾香を客間以外に寝かせる訳にはいかないと判断したのである。
「…」
「まぁ、いいじゃない、姉さん。久しぶりに姉妹一緒の部屋で寝ましょ」
 何か異論を言いかけた芹香を制し、綾香がひろのの提案を受け入れた。芹香も何か引っかかる思いを抱きながらも、それに賛同した。
「じゃあ、部屋割りは決まりだね」
 ひろのはそう言うと、あかりに来栖川姉妹の案内を頼み、気になっていた場所へ行く事にした。階段を上り、廊下に二つ並んだドアのうちの手前側を開ける。
「…はぁ…全然変わってないなぁ」
 そこは、かつての自分の部屋だった。一応、片づけはしてあるものの、部屋の中のものには手が付けられていない。壁にかかったコートや男だった頃に読んでいた少年マンガ。今でも好きなラジオ番組のパーソナリティ、辛島美音子のポスター。みんな、懐かしい品々ばかりだ。
「ひろのちゃん…」
 背後から聞こえてきた声に、ひろのは振り返った。そこには、あかりが心配そうな表情で立っていた。
「あかり…どうしたの?」
 ひろのが微笑むと、あかりは安心したような表情になって言った。
「うん…ひろのちゃんがちょっと寂しそうな顔をしてたから…でも、大丈夫だよね?」
「あぁ…大丈夫だよ。ちょっと懐かしがってただけだから」
 ひろのはそう答えて部屋の中を見渡した。
「最近はね…自分が本当に男だったのかなって思う事まであるんだよ。『藤田浩之』って言う名前の男の子は、私の夢の中の存在じゃないかってね」
「ひろのちゃん…?」
 再び心配そうな顔になるあかりに、ひろのは笑ってみせた。
「でも、大丈夫。私の根っこはいつだってここにある。私自身がどんなに変わってしまっても」
「…そうだね」
 つられてあかりも笑った。彼女自身は、ひろの=浩之である事を知っていて、その両方を含む存在であるところの「長瀬ひろの」が大好きだ。こればっかりは、どんなに手強くても「女の子としての長瀬ひろの」しか知らない綾香には絶対に負けない自身がある。
 ひろのの方は、女の子でいる事になじんでしまった事が不安らしいけど、でも本質は全然変わっていないとあかりは思っている。優しく、面倒見が良くて、そばにいる人を安心させてくれるところは。
(だから…自信を持って欲しいな。浩之ちゃんがひろのちゃんでも、わたしの好きになった人だって事に変わりはないんだもの)
 久しぶりに昔の自分をはっきりと認識させてくれる場所へ来た事で、ひろのが自分自身を受け入れてくれた事がわかり、あかりは藤田家に彼女を連れてきて良かったと思った。

 部屋割りが決まり、気持ちも落ち着いたところで、あかりは一度家へ帰り、ひろの、芹香、綾香はリビングに集合した。まず、綾香が頭を下げた。
「ごめんね、二人とも…あたしのした事に巻き込んじゃって」
「いや、気にしてないよ」
「…」
 ひろのが答えると、芹香がやはり同様な答えを返す。二人とも、事件の責任は綾香にだけあるとは思っていないから、本気の発言だ。
「ありがとう、二人とも」
 綾香はもう一度頭を下げた。
「だから、気にしなくて良いのに…」
 苦笑するひろの。しかし、今彼女からは見えない綾香の顔を見る事ができたら、そんな人の良い発言はできなかったかもしれない。
 綾香は頭を下げ、二人に表情が見えないようにしてニヤリと笑っていたのだった。そう、彼女は厳彦の目論見を見抜いていたのである。
(2〜3日はセバスチャンの邪魔が入らない絶好のチャンスだわ。この間にひろのを絶対にモノにして見せる)
 綾香は固い決意を顔にみなぎらせて頭を上げた。
「…」
「え?精一杯頑張れば、そのうちお祖父様も許してくれる?…そうね、姉さん」
 何も知らない芹香の励ましの言葉に頷く綾香。その姿は、心を入れ替えて真面目にやろうとしているようにしか見えなかった。

「…ふむ、綾香の奴も今回はだいぶ堪えたようじゃのう」
 耳にイヤホンを押し当ててほくそえむ厳彦翁。ここは来栖川邸地下のミッションルーム。そこで、厳彦氏は密かに綾香の服に仕込んだピンマイクから聞こえてくる音声を聞いているのだった。
「祝着にございますな。さっそくお許しの言葉を…」
 待ちきれないように急かすセバスチャンに、厳彦は苦笑しながら言う。
「いやいや、まだじゃよ、長瀬。今回はひろの君も巻き添えにしてしまったからお前が焦るのもわかるが…もう少し綾香の真情を探らねばな」
 厳彦氏も孫娘たちの器量は見ている。綾香なら、あるいは猫を被っている可能性も無きにしもあらずだ。厳彦は綾香を来栖川家の後継者と見定めているが、それは彼女のしたたかさも大きな要因なのである。本当に反省しているのかどうか即断はできない。
「そうですか…むぅ…」
 落胆するセバスチャン。彼女たちのためとはわかっていても、やはりひろのや姉妹に会えないのは辛いようだ。

 一方その頃、藤田邸では、あかりが再びやってきて夕食の準備を始めていた。
「あかり、手伝うよ」
 キッチンに入ってきたひろのが申し出た。
「え?良いよ。ひろのちゃんたちは出来上がるのを待ってて」
 あかりはそう言って断ったが、ひろのは母親が使っていたエプロンを手早く身に付けると、あかりの横に並んだ。
「あかりこそ遠慮しなくて良いよ。ここに立つのも久しぶりだし…それに、前に料理を習おうとした時は大変な事になったからね」
 ひろのはそう言って笑った。前にあかりとキッチンで並んだ時は、島に向かうクルーザーの中。直後にマルチの大ボケが炸裂してクルーザーは沈没した。だから、落ち着いてあかりと料理をするのは今回が初めてなのだ。
「うん…じゃあ、おいもを剥くのを手伝ってね」
「おっけ!」
 あかりが味付けをしていくそばで、ひろのはジャガイモの皮むきをしていく。その背後から、綾香がひろののエプロン姿を見ていた。
(ひろののエプロン…最高に萌えだわ。これで服が無くて裸の上に直接だったらもう…!)
 相変わらずキケンな綾香の思考と嗜好だった。と言うか、色々な意味で17歳の女の子としては不適切極まる発想である。
 その向こうで、芹香はテレビをじっと見ている。実は、屋敷の彼女の部屋にはテレビが無い。部屋は様々な魔術の文献や道具で一杯になっており、テレビを置くスペースはないのである。また、あまり興味も無かった。
 しかし、今日は退屈を紛わせるものはテレビしかない。そこで仕方なくそれを見ていたのだが、だんだん面白くなってきたようだった。一見彫像のように静止してテレビに見入っているようだが、時々表情が変わり、首をかすかにこくこくと振っていたり、拳をきゅっと握っていたりして、結構ストーリーに感情移入している。
「…姉さん、それ面白いの?」
 その様子に気がついた綾香が尋ねると、芹香ははっきりこくこくと首を振った。綾香は画面を見た。
『あなたはこの村のそばで倒れていたのよ』
『な、なんだ?この仮面は…』
『どうしても外せなかったの』
 何やら普通の人間とは耳の形が違う主人公たちが戦うアニメを見ていた。それなりに燃えそうなストーリーではあるが、芹香が熱心に見るのは意外かもしれない。

 アニメの放送が終わる頃、夕食が出来た。メニューはオーソドックスにカレーとグリーンサラダ。来栖川家の食事に比べると、食材は普通だが、味の方は引けを取らない出来である。
「頂きます!」
 さっそくカレーを口に運ぶ綾香。
「ん〜、美味しい!さすがは神岸さんね。それに、ひろのも手を加えているとなればこれはまさに究極のカレーと言うべきね」
 誉めちぎる綾香に、ひろのが苦笑する。
「そう言われても、私イモの皮剥いて切るぐらいしかしてないんだけど…」
「いやいや、その剥き方切り方一つも愛情ってものよ」
 綾香は指を立ててちっちっちっと音を立てながら振る。その横で、芹香が実に幸せそうにカレーを食べていた。
 食事の後、ひろのはまたあかりを手伝って洗い物をしていた。久しぶりに使われた皿を綺麗に洗って並べて行く。
「そういえばさ、あかり」
 この機会に、ひろのは気になっていた事を尋ねる事にした。
「なぁに?」
「私の親…何か言ってる?」
 ひろのが気にしていた事…それは両親の事だった。親は現在、ここからだと随分と北の方にある大きな学園都市に赴任中だ。共に技術者で、その都市で研究に使われる事になる巨大なシンクロトロン(直線粒子加速器)の開発に参加している。
 仕事のために息子を家に放り出して行ってしまうような超放任主義の親だが、浩之がひろのになってからでももう半年近く経つ。その間一度も連絡していないと言う事はないはずだ。
 だから、今どうなっているのかと思って尋ねてみたのだが、あかりの答えは意外なものだった。
「うんとね…2ヶ月くらい前かな。わたしが代理で出たんだけど…元気ですよ、って答えたら、じゃあ安心だな、浩之の事よろしく…っていわれてそれっきり」
「…そ、そう…」
 ひろのは笑うしかなかった。半年弱で電話が一回しかなかったと言うのも笑えるが、あかりの一言で安心してしまう単純さもそうだ。もっとも、それはあかりが浩之の両親に信頼されていると言う事でもあるが。
「だから、おじさんもおばさんもひろのちゃんの事は知らないと思うよ。うちのお父さんとお母さんにも口止めしてあるし」
「そう…それなら安心…って、今なんて言った?あかり」
 一瞬聞き流しそうになったあかりの言葉が、実は到底聞き過ごしには出来ない内容だと感じ、ひろのはあかりの顔を見つめた。
「だから、おじさんもおばさんもひろのちゃんの事は知らないと思うよ。うちのお父さんとお母さんも言わないでおくって言ってたし…」
 その瞬間、ひろのはあかりの肩を掴み、全力で階段を駆け上がると自分の部屋にあかりを連れ込んだ。
「い、痛いよ、ひろのちゃん…」
 ちょっと涙目になって抗議するあかりに、ひろのは尋ねた。
「マジ?おじさんとひかりさんに私の事教えたの?」
 あかりは首を縦に振った。ちなみに、「ひかりさん」とはあかりの母親の事。母親と言うよりは姉妹に見えるほど若い外見なので、浩之だった頃から「おばさん」とは呼べないでいる。
「うん…浩之ちゃんがいなくなったら、真っ先に気づくのお父さんとお母さんだし…」
「う…それもそうか…」
 ひろのは頷いた。藤田家と神岸家は隣同士と言う事もあり、ほとんど家族同然の付き合い。浩之の親が容赦なく子供を残して行けるのも、神岸家の存在あればこそだ。
「あとで挨拶しに行っておこうかな…」
「それが良いよ。お父さんは今日はまだ帰ってなかったけど」
 ひろのの言葉にあかりも頷き、二人は一階に降りていった。

 それから1時間後。4人はリビングで寛いでいた。テレビでは恋愛ものの映画を放映している。すると、ピピピ、と言う電子音が部屋の中に鳴り響いた。お風呂の準備が出来た合図だ。
「えっと…あたしは後で良いわ」
 綾香が入る順番を譲った。残り3人が顔を見合わせた。
「わたしは自分の家に帰ってから入るから…」
 とあかり。すると、芹香がひろのの方を向いて言った。
「…」
「え?後で良い?う〜ん…じゃあ、入って来ます」
 ひろのは頷いて自分の荷物からパジャマを取り出し、浴室へ向かった。それを見送り、綾香がテレビに向き直ろうとすると、視線を感じた。
「…」
「…」
 無言で自分を見つめる芹香とあかりに、綾香は後頭部に大粒の汗を浮かべる。
「べ、別に覗きに行ったりなんてしないわよ…それとも、あたしそんなに信用ない?」
 綾香は目に涙を浮かべた。すると、芹香が頷き、綾香の肩を抱いて謝った。
「…(ごめんなさい、綾香ちゃん)」
「そうだね…わたしも人の事は言えないもんね」
 あかりも反省して綾香に謝罪する。
「わ、わかってくれれば良いわよ」
 二人の予想以上にデリケートな反応に、当の綾香自身が困惑したほどだった。あの反省の演技はかなり効いていたらしい。
 とは言え、綾香もここでひろのの入浴を覗きに行くつもりはなかった。お楽しみはもっと後にとって置くつもりだし、今見ている映画の続きも気になる。
 こうして、ひろのは久しぶりの自宅での入浴を平穏に終える事になった。来栖川邸の広大な浴場も良いが、やはり庶民育ちには狭い風呂の方が落ち着く。
「お待たせ…次は誰が入るの?」
 風呂を出たてで湯気を立てているひろのが戻ってきて尋ねると、映画がつまらないと見切った綾香が入浴を表明した。彼女が浴室へ行ってしまうと、ひろのは芹香に言った。
「芹香先輩、ちょっと、あかりのお母さんたちに挨拶して来るね」
 こくこくと芹香が頷いて留守番を引き受けると、ひろのはあかりと共に神岸家へ向かった。

「まぁ…まぁまぁ、あなたが本当にあの浩之ちゃん?可愛くなっちゃって…」
 ひろのを見たひかりの第一声がそれだった。
「あは…あはは…ありがとうございます」
 苦笑しながら答えるひろの。久しぶりに見るひかりは、ひかりの容姿は、だいたいあかりの5〜6年後を想像すれば良いと言うくらいに、若々しい美貌を保っていた。浩之にとっては子供の頃からの憧れの女性でもある。
(ひかりさん…変わらないなぁ。私もこういう風にずっと…って、そうじゃなくて)
 一瞬とんでもない事を考えそうになったので、慌ててその思考を頭から追い出し、もう一度頭を下げる。
「うちの親へのごまかしも引き受けてもらってるとか…すいません」
 すると、ひかりはにっこり笑って手を振った。
「良いのよ。まぁ、最初はあかりが浩之ちゃんが女の子になった、って打ち明けてきた時には何の冗談かと思ったけど…この娘が浩之ちゃんの事で嘘を言うはずが無いものねぇ」
 そう言ってから、ひかりは小首を傾げた。
「えっと…確か今はひろの、って名乗ってるんだっけ?浩之ちゃんって呼ぶのと、ひろのちゃんって呼ぶのと、どっちが良いかしら?」
 ひろのは笑いながら答えた。
「どっちでも良いですよ」
「じゃあ、せっかくだからひろのちゃんって呼ぶわね」
 ひかりはそう言うと、ひろのの全身を見渡し、特に胸の辺りをじっと見た後、ついであかりの肩を叩いた。
「あかり、ひろのちゃんに負けちゃ駄目よ。天然の女の子として」
「お、お母さんっ!」
 ふくれるあかりと赤くなるひろのを見て、ひかりはまたクスクスと笑った。
「もう…それじゃ、ひろのちゃん。わたし、今日はこのまま帰るから。また明日ね」
「うん、また明日」
 久々に懐かしい人と旧交を温め、ひろのは藤田邸に戻った。すると、綾香だけでなく芹香も入浴を終えてリビングでのんびりとテレビを見ていた。
「あら、どこに行ってたの?」
 綾香が尋ねてきた。ひろのは「ちょっと、あかりの家」と答え、床に置かれたクッションの上に座りこむと、お茶を入れた。一息ついて時計を見ると、もう針は11時半を指していた。
「あれ?もうこんな時間か…そろそろ寝ようか。明日からの事もあるし…」
「…」
 芹香がこくこくと頷き、綾香も「そうね」と同意する。ひろのは姉妹を立たせ、ソファをベッドに組み替えた。
「それじゃ…おやすみなさい」
「おやすみ、ひろの」
「…(おやすみなさい、ひろのさん)」
 客間に向かう姉妹を見送り、ひろのは電気を消してベッドに潜り込んだ。

 そして、草木も眠る丑三つ時。藤田家のリビングでは、ひろのが安らかな寝息を立てていた。そこへ、足音も立てずそっと近づく影一つ。
(…さすがに良く寝てるわね)
 綾香だった。ベッドの横に立ち、眠るひろのを見下ろす。ちょうど、窓から差し込む月明かりがベッドのところに当たる形になっていた。青白い月明かりに照らされたひろのは、まるで真珠で作った精巧な人形のように見えた。
(…ごくり)
 綾香は唾を飲みこんだ。思えば初めてひろのと出会ってからもう4ヶ月近くにもなる。その間、綾香は幾度にも渡ってひろのに対する夜這いを決行した…が、セバスチャンの築いた水も漏らさぬ迎撃網にことごとく敗北を喫し、黒星の山を積み上げてきた。
 その屈辱の歴史も、今日で終わる。この家には他には芹香しかおらず、その芹香も今はぐっすりと眠っている最中だ。
(今夜こそ…あたしから離れられないようにしてあげる)
 綾香はそっとベッドの横にかがみこみ、ひろのが被っているタオルケットを剥ぎ取った。ミントグリーンの涼しそうなパジャマに身を包んだ彼女の身体が露わになる。
「…」
 半分理性が飛びかけつつも、綾香はひろののパジャマのボタンに手をかけた。ぷち…と音を立ててボタンを外していく。上着の半分ほどのボタンが外され、ひろのの深い胸の谷間がパジャマの向こうに覗ける。
「う…ここに顔埋めたら気持ち良いだろうなぁ」
 もちろん綾香はそれを実践した。最高級の枕でもメじゃないふわふわした、それでいて弾力のある感触が頬に当たる。まさに至福の時。
 と、その時、ひろのが目を覚ました。当然だろう。ここまでされて起きない人間はめったにいない。
「!・・・き…んんっ!?」
 悲鳴を上げそうになったひろのの口を、綾香はとっさに塞いだ。
 自分の口で。
 要するに、思い切りキスを敢行した訳である。ひろのの目が驚きに見開かれ、身体が硬直した。彼女が動かなくなったのを良い事に、綾香は調子に乗ってひろのを抱きしめ、キスを続ける。
「…はぁ…」
 やがて、十分に堪能した綾香は唇を離した。
「ふふっ…ご馳走様でした」
 綾香は悪戯っぽく微笑み、ひろのを見つめる。ショックの余り呆然としていたひろのの目に、じわ…と涙が溢れた。
「ひ…ひどいよ、綾香…わ、私、初めてだったのに…!」
 震える声で抗議するひろの。
「うん、そうだろうと思った。反応が初々しかったもの」
 幸せそうに笑いながら綾香は答えた。ひろのはまだ真っ赤な顔をしてふるふると全身を震わせている。まだ恥ずかしいのかな?と思ったのが綾香のミスであった。
「あ…」
 ひろのが何か言い出したのを聞いて、綾香は彼女の顔を見つめた。
「あ?」
「綾香の…綾香の馬鹿ぁーっ!!」
 次の瞬間、綾香の全身を何かで殴り付けられたような衝撃が走った。いや、それはまさに殴られた衝撃だった。ひろのの怒りのパンチが綾香に直撃したのである。
(う、うそ…!?このあたしが…ひろのの一撃を見切り損ねた!?)
 世界最強女子高生の名を欲しいままにしてきた綾香だったが、これほどのクリティカルヒットを食らったのは初めての経験だった。身体が綺麗に弧を描いて宙に舞うのを感じながら、綾香の意識が暗くなっていく。彼女の最後の記憶は、ベッドの上でえぐえぐと泣いているひろのの姿だった。

「…あれ?」
 綾香が目を覚ました時、視界は真っ暗だった。意識がはっきりとしてくるにつれ、綾香は自分の身体が手錠やら鎖で拘束されている事に気がついた。
「な、な、何よこれはっ!?…えっと…確か、ひろのにキスして…それで怒ったひろのにパンチをもらって…」
 何が起きたのかわからず、必死に記憶を辿る綾香。その時、視界に光が出現した。ろうそくの淡い灯り。それに照らされ、4つの異様な人影が浮かびあがる。白いとんがり頭巾を被った少女たちだ。
「な、何よあんたたちはっ!ここはどこ!?早くほどきなさいよ!!」
 さすがの綾香も、事態の余りの異常さに恐怖を感じて叫ぶ。その瞬間、頭巾に黄色いリボンを結んだ少女が机をどんっ!と叩いた。
「静かに!一つずつ質問に答えてあげるよ。わたしたちはNHK…長瀬ひろの保安協会のメンバー。ここはその総本部。そして、あなたが自由になれるかどうかはこれからの心がけ次第だよ」
 頭巾のせいでくぐもってはいるが、強い妥協の無い意志力を秘めた声で彼女は言い、黒いマントを羽織ったメンバーに話し掛けた。
「良いですか?<ウィッチ>先輩」
 話を振られた<ウィッチ>がこくこくと首を振り、最初に綾香に話し掛けてきたリボンの彼女が頷くと、ここに彼女たちが集まった事の意味を宣言した。
「では、第ニ回NHK秘密裁判を始めます。裁判長はNHK会長である<ウィッチ>先輩。司会進行は私、<リボン>です。なお、被告である綾香さんには黙秘、弁護人を呼ぶ、控訴、上告などの権利は一切認められていません」
「問答無用じゃないのっ!!」
 綾香は抗議したが、<リボン>は聞く耳持たずで、手にした書類を朗読し始めた。
「まず…被告の罪状ですが、被告は今朝の未明、ひろのちゃんに夜這いを行い…」
 怒りのためか、<リボン>の手ががたがたと震え始める。
「胸をはだけてそこに顔をすりすりしたほか…」
 手だけでなく、全身に震えが来始めた。
「驚いて起きたひろのちゃんに…き…き、キスを…!!」
 あまりの振動で、書類が弾け飛ぶようにして破れた。そして、今まで一言もしゃべってなかった二人のうちアッシュ・ブロンドの髪をしたメンバーが立ち上がって叫んだ。
「滅殺!滅殺!滅殺しかありません!!」
 彼女も相当興奮してるのか、身体から赤いオーラを立ち上らせ、そのオーラに<リボン>が破いた書類の紙片が触れると、灰のように崩れ去っていく。
「まぁ、落ち着いて、<ドルフィン>ちゃん…それを決めるのは<ウィッチ>先輩だから」
 そう言いつつ、<リボン>も<ドルフィン>と同意見のようだ。それを受け、<ウィッチ>が裁定を下す。
「…」
「えっと、本来は滅殺が至当ですが、被告人はひろのちゃんの友人なので、罪一等を減じてお仕置きで済ませます、だそうです」
 ちょっと不満そうな声で<リボン>が<ウィッチ>の裁定を伝えた時、綾香が言った。
「…姉さん?」
 ぴた…とNHKメンバーズの動きが静止した。
「姉さん、姉さんなんでしょ!?わ、悪かったわよ!ひろのに夜這いをかけたのは本当に悪かったと思ってるわ!だ、だから悪い冗談はよしてよ…ね?」
 必死に訴える綾香。しかし、<ウィッチ>はふるふると首を振り、<リボン>になにか囁いた。
「…『私に妹なんていないわ』だって。諦めてね」
 綾香の顔が真っ青になった。
「そ、それキャラが違うわよ!ひぃっ!?いやあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっっっ!!」

「…か」
「…やか」
「綾香、起きてってば」
「…はっ!?」
 身体を揺さぶられる感覚に、綾香は目を覚ました。視界に心配そうな表情を浮かべたひろのの顔があった。
「なんか凄くうなされてたけど…大丈夫?」
 綾香はその言葉にあたりを見回した。一瞬どこかわからなかったが、そこが昨日泊まった藤田家の客間だと言う事を思い出す。
「ゆ、夢…?」
 綾香は暑さばかりでない汗で濡れたパジャマを肌から引き剥がした。確かに、昨日ひろの襲った事でNHKと名乗る謎の集団に拉致され、お仕置きを受けた覚えがあるのだが…
「何か嫌な夢でも見たの?」
 安心させるように微笑むひろの。綾香はその笑顔に心が落ち着くのを感じた。そうだ。昨夜の事が本当なら、ひろのは怒っているはずだ。こんな風に起こしに来てくれるはずがない。
「う、ううん。大丈夫」
 綾香が答えると、ひろのは頷いて立ち上がり、客間の出口の方へ向かった。
「朝ご飯用意してあるから、早く来てね」
 そう言い残し、去っていくひろの。綾香はふぅ、と溜息をついて着替えを出した。パジャマが汗で濡れていて気持ち悪い。そして、着替えの最中に綾香はあるものに気がついて蒼白になった。
 胸に大きなあざが出来ている。そう、ひろのの見えないパンチを受けたところだ。
「…ま、まさか!?」
 がたがたと震える綾香の肩を、誰かが叩いた。飛びあがりそうになりながら振り向くと、そこには芹香の顔があった。
「ね、姉さん…」
 綾香はたじろぎながら姉を見つめる。すると、芹香は綾香の肩に手を置いて言った。
「…」
「…え?今回は家に戻るためにも全部誤魔化しておきました…ですって?」
 芹香の一言に、さらに青くなる綾香。
「…」
「でも、今度悪さをしたらもっと厳しいお仕置きをしますよ…!?ね、姉さん…それって…!」
 芹香はもうそれ以上は何も言わずにひろのの後を追って立ち去った。後に残された綾香は、昨日の出来事が夢でもなんでもなく、ひろの襲ったのも、その後お仕置きされたのも事実だと悟ったのだ。
 それでいて、芹香はどうやったのか、ひろのには夕べ何もなかったと思わせているらしい。嫌われるところを助けてもらったのだ。
「か、完敗だわ…」
 さすがの綾香もがっくりとうなだれ、のろのろと朝食の席に向かうのだった。

 3日後、3人は来栖川邸への帰宅を許された。
「まぁ、綾香も少しは懲りたじゃろう。今後はあまり無茶をせぬように」
「…はい、お祖父様」
 綾香は素直に頭を下げた。ひろのと芹香も微笑みながらそれを見つめている。実際、最初の晩以外は綾香は何もしなかったのだから、ちゃんと反省していると見たのだ。
 もちろん、綾香は反省していた。
(やっぱり…もっと慎重に攻めるべきだったわ。ひろののいざと言うときの力も甘く見てたし…それに、NHK…姉さんに対抗できる組織作りも必要ね…)
 そう、彼女は反省していた。それをもとに、もっと周到にひろのを手に入れるための手を打とうと考えていたのである。
 かくして、ひろの争奪戦は更なる激化の兆候を静かにはらんでいく事になるのであった…

(つづく)

次回予告


 長かった夏休みも終わり、いよいよひろのにとっては3つ目の季節…秋がやってきた。このイベントの季節を飾る最初の企画、遠足で森林公園に出かけたひろのたちを襲うピンチとは?
 次回、12人目の彼女第二十七話
「山の天気と乙女心」
 お楽しみに〜

後書き代わりの座談会 その26


作者(以下作)「またしても間隔が開いてしまった。しかし、26話かぁ。TV番組なら2クールだなぁ」
ひろの(以下ひ)「この話も長くなってきたね」
作「あぁ。しかし、いよいよ秋編で話を作るのも楽になるな」
ひ「遠足、体育祭、文化祭…一杯イベントがあるもんね」
作「まぁ、夏休み編も全部で7回と結構な量なんだが」
ひ「でも、今回の話は夏休みとは特に関係ないよね」
作「…まぁな。宿題に追われる話とかも考えたんだけど」
ひ「何でやらなかったの?」
作「自分の事思い出すと切なくなりそうでな…(苦笑)」
ひ「作者もたまった宿題に追われるクチだったんだ…」
作「そうじゃない奴がいたら見てみたいぞ(笑)」
ひ「そうだよね。そんなに計画的に生きている人なんて…」
作「いいんちょくらいだな」
ひ「あぁ、わかるわかる」
作「と、二人して墓穴を掘ったところで次回をお楽しみに〜」

収録場所:藤田邸リビング


前の話へ   戻る    次の話へ