※このお話の主人公、長瀬ひろのちゃんは魔法で女の子にされてしまった浩之ちゃんです。
以上の事実は本編を楽しむ上で阻害になる恐れがありますが(爆)、一応お約束ということでご承知おきください。
前回までのあらすじ
波乱の内に始まったひろのの夏休み。台風に襲われた「来栖川のお島」でのサバイバル生活からかろうじて生還した彼女を待つ夏休み第二の事件とは…?
To Heart Outside Story
12人目の彼女
第二十三話
思い出の夏休み編C「湾岸萌ゆ」
ゴムタイヤで走行する、いわゆる「都市新交通」に分類されるその小さな列車から降り立ったひろのを待っていたのは、今までに見たこともない壮大な人の列だった。
「うわ…すっごいなぁ…」
あっけにとられる彼女を、ここに誘ってきた琴音が引っ張った。
「大丈夫ですか?長瀬先輩。まだ8時前ですから、もっと人が増えますよ。今のうちに慣れておいてくださいね」
「ま、まだ増えるのっ!?」
今でさえ十分驚愕に値する光景なのに、これよりも増えるのか…?とひろのは開場時間と聞かされている10時頃には一体どんなことになってしまうのかと頭を抱えたくなった。
この日、お盆の連休直前のひろのが訪れたのは、日本最大の同人誌即売会「こみっくパーティー」。通称「こみパ」と呼ばれる超巨大イベントであった。
なぜ、ひろのと琴音がここにやってきたのか…と言う事を説明するには、時間を数日遡らなければならない。
それは、「来栖川のお島」から生還してきてから数日たったある日のことだった。
「はい、ありがとうございました、先輩」
「あ、もう良いの?」
琴音の声に、ひろのは数時間とり続けていたポーズを解いて、凝った身体をほぐし始めた。その琴音は、持ってきた画材やスケッチブックを仕舞い始めている。
「すいません、長瀬先輩。無理なお願いをしちゃって」
頭を下げる琴音に、ひろのは手を振って「気にしなくて良いよ」と言うと、琴音のほうへ向き直った。
「それにしても、琴音ちゃんもイルカ以外の題材で絵を描く事があるんだね」
ひろのは言った。琴音の急なお願いで、スケッチのモデルを引き受けていたのである。
「ええ、ちょっと前からですけどね。絵画教室で知り合った先輩に影響されて」
琴音は答えた。なんでも、今行っている絵画教室に同じ東鳩高校の2年生がいて、同じ学校ということで気心の知れた仲になったのだと言う。入学した頃の、人付き合いを避けていた琴音が自分や葵、マルチなどのクラスメイト以外の人間とも気軽に付き合えるようになったことを知り、ひろのは嬉しくなった。
「それで、人物画を?」
ひろのの言葉に琴音は頷いた。
「はい。その方が描いた絵も何度か見せていただいて、良ければサークルに参加しないかって誘われたんです。それで先輩をモデルに」
琴音の言葉にひろのは赤くなった。
「そ、そうなの?あはは…なんだか照れるなぁ。良かったらその絵を見せてよ」
「えー?恥ずかしいですよ〜」
琴音も赤くなりながらも、結局はスケッチブックを見せてくれた。ひろのはページを開いて、琴音がさっき描いたばかりのページを開いた。
「…?あれ?これは…」
ひろのは首をひねった。そのページには、彼女の絵は描かれていなかった。もちろん、絵がないわけではない。さっき彼女がとっていたポーズそのままの、だが半裸の男性の絵が描かれていた。無造作に伸ばした前髪を真中で分け、少し斜に構えた雰囲気を漂わせた少年である。
「…はて、どこかで見たような…」
その少年に見覚えがあるような気がして、ひろのは記憶の糸を手繰った。そして…
「あれ?これってひょっとして…私?」
「はい、男の人だった頃の先輩です」
琴音は頷いた。そう、彼女が描いていたのはひろのの「前身」である藤田浩之の絵だったのである。ただし、タッチは少女マンガ風に直され、かつかなり美化されていたのですぐにはわからなかったのだ。
「はぁ…懐かしいなぁ。でも、なんで『俺』の絵を描いたわけ?」
感慨深げにひろのが尋ねた。琴音はひろのと浩之が同一人物だと知っている数少ない人間であるから、浩之の絵が描けること自体はおかしくないが理由がわからない。
「えっと…私の知っている男の人って、お父さんや先生を除けば『藤田さん』だけですから」
琴音は答えた。「藤田さん」と言うのは、女の子のひろのを呼ぶときの「長瀬先輩」に対応して男の浩之を指す時の琴音の呼び方だ。彼女の頭の中ではひろのと浩之の2人が無理なく並立しているらしい。なかなかに器用だとひろのは思う。
セバスチャンみたいに浩之のほうを完全に忘却しきっているのもそれはそれで器用な話だが。
「あ、いや。そうじゃなくて『俺』をモデルに選んだ理由なんだけど…」
ひろのが尋ねなおすと、琴音は恥ずかしそうにうつむいた。
「その…『藤田さん』が私が知っている中で一番かっこいい男の人ですから」
「…そ、そう…」
ひろのはやはり赤くなった。話を変えようと話題を絵自体の感想に振る。
「でも、これ、普段の琴音ちゃんの絵柄とは違うよね。イルカとかは写実的に描くのに、ずいぶんマンガ風と言うか…」
「マンガですよ」
琴音はあっさりと言った。
「その先輩のサークルって、マンガを描いているところですから。私はお話を作ったりコマ割りをしたりはできないですから、イラストのみの参加ですけど」
「そうなんだ…」
ひろのはスケッチブックを琴音に返しながら相槌を打った。同時に興味も沸いてくる。彼女もマンガは嫌いではない。画力がちとアレなのでずいぶん昔に断念はしたが、子供の頃には、他の多くの子供たち同様にマンガ家になりたいと言う夢を持ったこともある。
見たところ、琴音のイラストはかなりハイレベルなものだ。その彼女に影響を与えたと言う「先輩」の描くマンガならやはり面白いかもしれない。ひろのはそのマンガを読みたくなった。
「あのさ、琴音ちゃん。良かったら、その『先輩』を紹介してくれないかな。なんだかそのマンガ読みたくなっちゃったよ」
ひろのがそう言うと、琴音は顔を輝かせた。
「そうですか!?きっと先輩も喜びますよ。じゃあ、今度の土曜に先輩が新刊を出しますから、それを見に行きませんか?」
新刊と聞いてひろのは驚いた。
「し、新刊って…その人プロなの?」
それを聞いた琴音は思わず笑い出した。
「うふふっ、違いますよ。同人誌を作ってるんです。今度の土日に『こみパ』って言う、そういう同人誌を持ち寄って売るイベントがあって、先輩もそこで出展するんですよ」
それを聞いてもひろのには何のことだかさっぱり想像がつかなかったが、とにかく土曜日になればわかるのだな、と言うことだけは理解できた。
「はぁ…なるほどね。ともかく、そのイベントに行けば良いのね?」
琴音は頷いた。それができるほどの筋肉がない細い腕で、力こぶを作るポーズをとって胸を張る。
「はい。私がこみパの隅から隅までずずいっと案内しちゃいます!」
・・・
・・
・
という訳で、この日ひろのは琴音に引っ張られるままにこみパの会場である東京ベイエリア国際展示場、通称湾岸ビッグスクェアに足を運んだのだった。
「それにしてもすごい活気なんだね」
ひろのはあたりを見回しながら言った。お盆の連休直前、世間はUターンラッシュの真っ只中で関東圏の大きな街では街から人影が少なくなる時期だと言うのに、ここだけが別世界のようだ。この暑さにもめげずに…と言うよりも、気温すら超える熱気をまとわりつかせた人々が長大な列を形成して待ちつづけている。そして、「スタッフ」の腕章をつけた白と青を基調にした清潔そうな制服の女性たちが、誘導灯を片手に後から押し寄せる人々を誘導していた。
あたりにはアイスやラムネなどの冷たい飲食物やお弁当を売る屋台も店を出し、まさに気分はお祭り。同人誌と言うと「白樺」などの文学系のそれを連想していたひろのにとっては、予想も想像もはるかに超えた、それは異空間だった。
「期間中にここに来る人は20万とも30万とも言われてますからね。それは賑やかですよ」
「2〜30万…」
自分たちの住んでいる東鳩市の人口に匹敵する人数だ。それが、あのビッグスクェアの敷地内にみっちりと詰め込まれている様を想像し、ひろのはちょっと立ち眩みを起こすのを感じた。
「で、もしはぐれたら東4ホールのタ−22bのスペースで待っててくださいね」
「うん…わかった」
ひろのは琴音にもらった待ち合わせ場所の書かれた場内の地図をしっかりとポケットにしまいこんだ。その時、ウォオオオオオォォォォ、というどよめきが辺りを揺るがし、ひろのはビクッと背筋を震わせた。
「な、何!?何なのっ!?」
辺りを見回すひろのに、琴音が手を握って落ちつかせる。
「大丈夫ですよ、長瀬先輩。あれは開場したのでみんな喜んでいるんです」
「…そ、そう…」
同人誌もこみパも全く知らないビギナーにありがちな反応だが、ひろのはすっかり場の雰囲気に呑まれていた。やがて列が動き出し、入り口から中に入った頃には、その圧倒される気持ちはますます強くなっていた。
「うぅ…やだなぁ」
通路を埋め尽くす人また人に顔を引き攣らせるひろの。しかし、琴音は構わずひろのの手を握ったまま前進していく。
「さ、どんどん行きますよ、長瀬先輩。立ち止まっちゃったら流されます!」
「あっ…琴音ちゃん待ってよ」
ここではぐれたら自力でここから脱出する自信はひろのにはない。琴音の手を離さないように、必死に追いかけていたひろのは、琴音が急に立ち止まったことで足を止めた。
「ここですよ、長瀬先輩。ここが私がお世話になっている岡田先輩のサークル」
「…岡田?」
聞き覚えのある苗字に、ひろのがサークルの席に座っている少女に目を向ける。果たしてそこにいたのは…
「お、岡田さん?琴音ちゃんの言ってた先輩って岡田さんだったの!?」
「な、長瀬さん?琴音ちゃんの言ってた先輩って長瀬さんだったの!?」
二人の言葉が綺麗にユニゾンする。そう、そこにはクラスメイトでいぢわる3人組のリーダー岡田美奈子が座っていたのだった。
「…そっか、お二人とも同じクラスでしたね」
琴音が思い出したように手を打った。
数分後、夏樹とちとせに売り子を任せた美奈子は人通りの比較的少ない通路でひろのと琴音と話をしていた。
「いやぁ…驚いたわ。そういえば琴音ちゃんは長瀬さんに結構なついてたものね…予想してしかるべきだったわ」
美奈子が頭を掻きながら言った。
「こっちはぜんぜん予想できなかったよ…岡田さんがこんなところに来てたとは…」
ひろのの言葉の一部に反応し、美奈子がぴくりと眉を吊り上げた。
「…こんなところ?」
「あ、別にそんな馬鹿にした意味で言ったわけでは…」
ひろのが慌てて言い訳する。裏に回っての陰湿ないじめはなくなったが、美奈子が隙あらばひろのに対してつっかかる物言いをしてくるのは相変わらずだ。
「長瀬先輩は初めてですからね。まだ慣れていないんですよ」
琴音もフォローに回った。
(…できたら、慣れたくない…)
ひろのは思ったが、さすがの美奈子も心の声を聞くことまではできない。ふん、と鼻を鳴らし、まぁ良いわ、と頭ひとつ近く高いひろのの顔を見上げる。
「それに、一応あたしのマンガを読みたいって言って来てくれたらしいものね…歓迎するわよ。とりあえず、今回の本がこれよ」
美奈子はひろのに一冊の同人誌を手渡した。なかなか綺麗な装丁の本で、表紙には背景に花を散らした二人の人物が美麗なタッチで描かれていた。
「えっと、じゃあ読ませてもらうね」
ひろのはページを開いた。中身のほうはと言うと、かなり…いや、最近少女マンガを愛読してこうした世界観に慣れてきたひろのから見ても激甘のラブラブな恋愛もの。ストーリーはともかくとして絵の完成度はかなりのものだ。琴音のイラストも上手だと思ったが、美奈子の画力はさらにその上を行っていた。
(へぇ…すごいなぁ。岡田さんにこんな特技があったとは…しかし)
ひろのはどうしても気になったことがあったので、美奈子に尋ねてみた。
「あの、岡田さん?このカップル…男同士のように見えるんだけど」
見開きのキスシーンを見せると、美奈子は頷いた。
「そうよ。それが何か?」
「…それが何か?って…けっこう重要で深い問題のような気が」
ひろのがそう言うと、琴音が話に加わってきた。
「岡田先輩たちのサークルはボーイズラブ系なんですよ」
ボーイズラブ。やおいとかJUNEとかいう言い方もあるが、要は美少年(青年だったり場合によっては中年の事もある)同士の恋愛を題材にとるジャンルの事だ。そう言った事を琴音から解説されたひろのは、後頭部に汗を浮かべて頷いた。
「ふ、ふぅん・・・そ、そぉなんだ…」
外見は完璧に女の子しているひろのであるが、根本は男だ。元男としてはボーイズラブを読まされるのは結構辛いものがある。
「…で、どうなの?」
感想を求める美奈子に対し、ひろのは絵の技術的には素晴らしい、と言う感想を述べたが、美奈子は不満そうだった。
「いや…絵の事は良いんだけどね。肝心なのは面白かったかどうかでさ」
困ったひろのだったが、誤魔化してもしょうがないことだと思い、正直に感想を言うことにした。
「う〜ん…普通に恋愛ものとして考えればいい出来なんだけど…ボーイズラブ?だっけ?そう考えるとちょっと不自然かな…」
すると、美奈子は少し興味深そうな表情になった。
「ほぉ?具体的には?」
「この、告白されてるほうの反応が、まるっきり男の子に告白された女の子の反応なんだよね。同性同士なんだからもう少し戸惑いとかあってもいいと思うんだけど」
思いつくままにひろのは美奈子の問いに答えていった。同性(心理的には異性だが)から告白されたり迫られたり襲われたりは、悲しいことだが彼女にとってはよくある事だ。それに、男性心理についてももちろん詳しい。その体験を元にして2、3の気になるポイントについて話したのだが、しかし、話し終わる頃には美奈子がひろのを見る眼は変わっていた。
「そっか…参考になったわ。ありがとう、長瀬さん」
途中からメモをとったりして真摯な姿勢で聞いていた美奈子に礼を言われ、ひろのは慌てて手を振った。
「別に、気にしなくて良いよ」
ひろのの方も美奈子を見る眼が変わっていた。もともと彼女は浩之時代から何かに一生懸命な人間には無条件で好意を抱いてしまう性格なのだ。魔術や人外レベルの格闘技を極めんとしている友人がいることを考えれば、やおいマンガだって許容範囲の内だろう。
「さて…そろそろ戻らないとね。長瀬さんはどうするの?」
美奈子が尋ねて来た。
「え?別に何も決めてないけど…」
ひろのが答えると、美奈子は今までひろのには見せたことがない柔らかい微笑を浮かべて言った。
「だったら、会場を見て回ったら?ジャンルはいろいろあるし、いろんな本を見せてもらえば中には気に入ったものが出てくるかもしれないわよ」
「あ、そうするならこのまま私が案内しますよ」
琴音もこのまま会場を見て回ることを薦めてくる。帰っても特に予定はないことだし、ひろのはその提案を受けることにした。
そして、夕方4時。美奈子のサークルに戻ってきたところでこみパの一日目が無事閉幕し、拍手が鳴り響いた。
「どうでしたか?先輩」
一日中一緒にいた琴音が尋ねてくる。ひろのは少し考え、答えた。
「うん、疲れたけど…結構楽しいかな?」
人ごみにもみくちゃにされ、大変な思いもしたが、今では会場を覆う熱気も異様なものとは感じられない。ジャンル、一次二次を問わず真剣に創作に打ち込んでいる参加者の気迫はひろのには十分好意を持って受け止められるものだった。
「だったら、明日も来ない?あたしはサークル出さないけど、知り合いのところ手伝ってるから」
美奈子が言った。
「う〜ん、明日も予定はないし…うん、来てみるよ」
ひろのは軽い気持ちで答えた。しかし、それがとんでもない事態を招くことになるのである。
翌日。昨日よりも早く10時半くらいに琴音と入場し、美奈子に教えられたサークルにやってきたひろのは、そこで顔をつき合わせてなにやら相談している美奈子と見知らぬ男性の姿を見つけた。
「おはよう、岡田さん」
ひろのが挨拶すると、美奈子は顔を上げてひろのを見た。
「あ、おはよう、長瀬さん」
挨拶を返し、またすぐその男性と相談しようとした美奈子だったが、何かを思い出したように顔を上げた。ひろのをじっと見つめ、そして改めて男性と相談する。その内容が少しずつ漏れ聞こえてくる。
「…というわけで彼女に代役を…」
「…それは構わんがあのコスチュームは…」
「…大丈夫…彼女のは天然で…」
「何!?それは凄い。ぜひ頼もう…」
相談がまとまったらしく、美奈子と男性がひろののほうへやってきた。男性のほうは変な髪形とメガネを装備したかなり長身の青年だった。
「長瀬さん、この人が今日お手伝いするサークルの九品仏さん」
「九品仏大志だ。マイシスター岡田から話は聞いている」
大志から伝わる妙な雰囲気に、ひろのはちょっと気圧されたように後ずさった。
「はぁ…はじめまして」
ひろのが挨拶すると、美奈子が進み出た。
「実は、今日売り子をしてくれる人が病気で来れなくって…代わりの人を探してたのよ。長瀬さん頼まれてくれない?」
「売り子?あぁ、店番の事?別に良いけど」
特に何か欲しい本があって来ているわけではないひろのは深く考えずに美奈子の頼みを了承した。
「おぉ、それは助かる!マイハニー和希は逃げ、マイシスター瑞希も来れない今、我輩は君のような人材を求めていたのだ!!」
九品仏が大声で笑う。目を白黒させるひろのに、美奈子が耳打ちした。
「あの人はいつもああ言うノリなのよ。初めて会った人はびっくりするけど、悪い人じゃないから」
「そ、そう…」
とりあえず頷いたひろのの腕を美奈子が取った。
「それより、売り子をするにはちょっと準備が必要なの。こっち来てくれる?」
「え?ちょ、ちょっと待ってよ…」
美奈子に引きずられ、ひろのは女子更衣室まで連行された。
「え、ええっ!?これを着て売り子をするのっ!?」
ひろのは渡された衣装を広げて、真っ赤になりながら叫んだ。その衣装には見覚えがあった。人気アニメ「カードマスターピーチ」の主人公が着ている、ピンク色のフリルとリボンをふんだんにあしらった、アイドルの衣装のようなド派手な服だ。最初代わりにこれを着せられそうになったらしい和希という人が逃げたのも無理はないとひろのは思った。
「長瀬さんと同じくらい胸のある人用に作ったコスだから大丈夫だとは思うけど…丈は少し短いかな?」
美奈子の言葉に、ひろのは「いやそうじゃなくて…」とツッコミを入れる。
「ど、どうしても着なくちゃだめ?」
ひろのは衣装を見ながら言った。上半身はともかく、下半身は彼女の苦手なミニスカート。タイツも履くから生脚全開露出、と言うことはないが、背が高く脚も長い彼女にとっては、ちょっと油断すると下着が見えそうな服というのはできれば避けたい。
「気持ちはわからないでもないけど…来てくれる人へのサービスと言うのもあるし、ただ立って愛想を振り撒いてくれるだけでいいの。お願い」
美奈子の執拗な懇願に負け、ひろのはため息をついて頷いた。
「…わかった。今日だけだからね」
押しに弱い性格が災いし、結局ひろのはピーチのコスチュームに袖を通すことになった。
「ご、ごめん、岡田さん。ちょっと手伝って」
今着ている服を脱いで、下着姿になったところで、ひろのはギブアップして美奈子に助けを求めた。特殊な服だけに着方が良くわからないのだ。そもそも二次元の絵としては成立しているコスチュームを三次元化したものだから、普通の服ではありえないような複雑極まりない構造なのである。
「…仕方ないわねぇ」
美奈子はため息をつくとひろのの着替えを手伝い始めた。上着は一応ミニのワンピース状になっているが、やたらとリボンで留める部分が多く、確かに一人で着るには手に余るものがある。
「い、痛っ!岡田さん、あんまり締め付けないで…胸が…キツくて苦しい…」
背中のリボンを留めている時に悲劇は起きた。ひろのの一言に、美奈子の眉がピクリと動く。
「苦しい?苦しいですって?…ふふ、うふふ…瑞希さんは91センチって言ってたかな。それ用でもキツいんだ。ふふふ…あーもう羨ましいったらありゃしないわね…」
「お、岡田さん?眼が怖いんだけど…!」
火の出るような美奈子の視線に思わず怯えるひろの。彼女より20センチバストサイズが少ない美奈子が貧乳コンプレックスなのを失念していたひろのの失言だった。
「この服はここをしっかり止めないと決まらないのよ。我慢してねぇ」
美奈子はニヤリと邪悪な微笑を浮かべ、容赦なくリボンを絞めにかかった。
ぎりぎりぎりぎり…
「痛い!やめて岡田さん私がマジで悪かったから!それ以上絞めるのはやめてぇ〜…!!」
更衣室にひろのの悲痛な叫びがこだました。
「わぁ、凄く似合ってますよ!長瀬先輩!!」
「…うう…恥ずかしいなぁ」
何とか着替えを終えて戻って来たひろののピーチ姿をみて、琴音は喜びの声をあげた。逆にひろのは羞恥に顔を赤く染めてうつむく。すると、大志が雄叫びを上げた。
「こ、これだ!これぞまさしく『萌え』!!心ならずもピーチに変身せざるを得ない運命に置かれたモモの戸惑いと羞じらいが余すところなく表現されている!!我輩の長いこみパ暦の中でもこれほど的確に『萌え』を表現できたコスプレイヤーは…」
「それじゃ売り子手伝ってね。はじめるわよ」
独演会モードに突入した大志を放置し、美奈子に促されたひろのは売り場に立った。
「…う」
どうやらこのサークルはかなり大手だったらしく、すでに長大な行列ができている。捌くのにどれだけ時間がかかるだろうかと思いつつも、ひろのは売り子としてテーブルの前に立った。しかし、コスプレして大勢の前に立つと言う行為に、ひろのの頬は恥ずかしさでピンクに染まり、何ともいえない「萌え」を醸し出していた。当然、列に並んでいる男性参加者の視線は彼女に釘付けになる。
「いらっしゃいませー!こちらが本日ブラザー2の新刊となっておりまーす!!」
「新刊2冊ずつですね。2200円になります。おつり300円になります。ありがとうございました―!」
ひろのの良く通るソプラノ・ヴォイスが売り場の周囲に響き渡る。特に<ブラザー2>を意識していなかった参加者たちも、その声に惹かれて列に並んでいた。そして…
「おい、ブラザー2ですごくかわいい娘が売り子してたぞ!」
ブラザー2に行って来た参加者が、連れに興奮気味にひろのの印象を語っていた。
「あそこ、もともと作家も売り子もレベルは高いだろ?」
連れの言葉に、参加者はいよいよ興奮して言い募る。
「あぁ。だけど、今度の娘はマジで凄いんだ。彼女だけでも一見の価値ありだ!」
「そんなに凄いのか?よし、俺も見に行ってみるか…」
このようにして、会場のあちこちで「ブラザー2の新しい売り子」の噂が広まっていた。このため、スペースには普段よりも多くの客が集中してくる。用意していた本はたちまちのうちにさばけていった。
2時前、用意していた本が全て売り切れ、テーブルの上には「本日売り切れ。ごめんなさい」と言う看板が立てられた。
「やっと終わった…」
昼食を取りにいく間もなかったひろのは大きなため息をついた。
「お疲れ様」
美奈子が差し出したウェットティッシュで顔を拭い、一息ついたひろのは美奈子に尋ねた。
「岡田さん…もう着替えてきても良い?」
さすがにぎちぎちに締め上げるのだけは勘弁してもらったひろのだったが、もともとバスト91センチの人用に作った服を、93センチのひろのが着ているわけだから、苦しいのは当然である。
「そうね。そろそろ着替えないと更衣室の利用時間も終わるし」
美奈子は頷いた。もう十分ひろのをいぢめたので、彼女的には割と満足だった。ひろのは一刻も早くこのキツさから解放されるべく、更衣室を目指して小走りにサークルのスペースを後にした。
そして、数分後。
「あれ…更衣室どこだったっけ…?」
道に迷ってしまったひろのの姿があった。何しろ会場は広く、まだビギナーの彼女にとってはランドマークの見当のつけ方もわからない。それに、更衣室へは美奈子に引きずられていったので道順を覚えていなかった。
「う〜ん…仕方がない。人に聞くか…」
そう言ってひろのが適当な近くの人に話を聞こうとしたとき、その行く手を阻む者がいた。
「そこのピーチに扮している娘、待つでござる」
前に立ちふさがったのは、背の高い、痩せた神経質そうな眼鏡の男と、対照的に身長よりも横幅の方が長そうな太った男。その背中にはポスターとおぼしき無数の紙筒を挿したリュックを背負っており、暑苦しいことこの上ない。
「…何かご用ですか?」
相手の高圧的な呼び止め方に、ちょっとムッとしながらも立ち止まるひろの。その二人の姿を見て、ふと思った。
(…なんか、どこかで見たことがあるような?)
しかし、ひろのが記憶を探るよりも早く、太った方の男(略称:ヨコ男)が巨大なレンズを取りつけたカメラを手に進み出てきた。
「しゃ、写真を取らせて欲しいんだな」
え?とひろのは一瞬相手の言うことを理解しかねて立ちすくんだ。写真を取る…誰の?
「も、もちろん君の写真をなんだな…」
ヨコ男が暑苦しく迫ってくる。困惑するひろのに、相方のやせた男(略称:タテ男)も言った。
「安心するでござる。彼の写真の腕は天下無双でござる」
「えっ、え、あ、あの。困ります。やめてください」
ひろのは首を横に振った。こんな恥ずかしいコスプレの写真を撮られるなんて冗談ではない。しかし、その二人は世間の常識が通用するような連中ではなかった。
「え、遠慮することはないんだな」
ヨコ男が言うなり、許可も得ずに写真を撮り始める。フラッシュを浴びせられ、余りの事にひろのは硬直した。こいつらは人の話を聞いているのか…
しかも、悪い事にヨコ男の撮影を見て撮影OKと思った他のカメラ所持者たちまで撮影をはじめた。我に返ったひろのは慌てて手を振った。
「あ、あのっ、すいません。撮影は勘弁してください」
必死に訴える。しかし、撮影に夢中になっているカメラ小僧たちはまったく彼女の話を聞いていない。
(ど、どうしよう…こ、こう言うときは…)
恥ずかしさと焦りで完全に頭に血が昇ったひろのが咄嗟に取った行動。それは、逃げることだった。踵を返し、一目散にその場から走り去る。しかし、その瞬間「おおっ!!??」と言うやたらと嬉しそうな男たちの歓声が上がった。
「え?…あっ!きゃあああぁぁぁぁぁぁっっ!!」
ひろのは歓声の理由に気がつき、慌ててお尻を抑えて立ち止まった。慣れないミニスカートで走ったので、思い切りスカートがめくれあがり、ショーツが見えてしまっていたのだ。
顔を真っ赤に染め、スカートを抑えて動けなくなったひろのの周囲を、瞬時にしてカメラ小僧たちが包囲し、容赦なくシャッターを切りまくる。中にはヨコ男のように調子に乗り、わざとスカートの中身を覗けそうな低いアングルから撮影をはじめる不届き者まで出始めた。
「…や、やめてください…うっ…えっく…」
常識の通用しない異常な集団に取り囲まれ、ひろのは哀願するように撮影をやめるように言うが、理性の飛んだカメラ小僧には全く聞こえていなかった。鼻の奥がつんとなり、じわっと涙があふれる。
(やだ…どうしよう…逃げられないよ…)
羞恥と恐怖に体の力が抜け、その場にへたり込みそうになった瞬間、空気が揺らいだ。
「ぐえっ!?」
「うわぁ!!」
空気が逆巻き、続けざまに悲鳴が上がる。カメラ小僧たちの手からカメラがもぎ取られ、空中で次々と弾け飛ぶように砕け散った。それだけの異常現象にもかかわらず、ひろのの身体には髪の毛一本揺らすほどの力も伝わっては来ない。
「お、俺のカメラが!!」
「なんだこりゃぁ!?」
ひろのは呆然と目の前で起きた異様な事態を見ていたが、口々に叫ぶカメラ小僧の向こうから聞こえて来たその声を聞き逃すことはなかった。
「長瀬先輩をいじめるひどい人たち…滅殺です!!」
カメラ小僧の向こうから真紅のオーラをまとった琴音が歩いてくる。一瞬何が起きているのかわからず呆然としたカメラ小僧たちだが、琴音の殊更ゆっくりとした歩みと、彼女の全身から発散される凄まじいまでの圧力を伴う殺意に、恐怖に駆られて逃走を図ろうとした。しかし、それよりも早く琴音必殺の超能力が彼らを捉えていた。
「殺意の波動、究の位<大海嘯>っ!!」
琴音の身体から津波のような圧倒的なパワーが迸る。それはひろのはもちろん、周囲で様子を見ていた無関係の一般参加者たちには全く影響を与えること無く、カメラ小僧たちだけを巻き込み、ホールの出口に向かって走り抜けていく。
「いったい何なんだなぁ…」
「説明を、説明を求めるでござるぅぅぅぅぅ…」
事の発端になったオタクズの叫びもむなしく、出口から叩き出されたカメラ小僧軍団は敷地の塀に激突し、勢いで天高く投げ出された。そのまま数秒間の弾道飛行を行い、やがてビッグスクェアから数百メートル先の海面に次々と水柱が発生した。
「…すごいぞ、お嬢ちゃん!」
「良くやった!えらいぞ!!」
固唾を飲んで見守っていた周囲の人々だったが、徹夜組と並んでマナーの悪さで鼻つまみものだった悪質カメラ小僧集団が滅殺されたことを知り、それを成し遂げた琴音に惜しみない拍手と賛辞が浴びせられた。
「長瀬先輩、大丈夫ですかっ!?」
歓呼の声の中、安心したあまりに今度こそ床にへたり込んでしまったひろのの所へ琴音が駆け寄った。
「琴音ちゃん…ありがとう。本当に助かったよ…」
ひろのが礼を言うと、琴音ははにかんで答えた。
「良いんです。私の力は先輩に捧げると決めたんですから」
その時になって、誰かが通報したのか、スタッフが駆けつけてきた。
「すいません、こちらでマナーの悪い人に絡まれて困っている方がいると聞いてきたのですが…」
先頭にいた眼鏡をかけた優しそうな容姿の女性スタッフが尋ねて来た。胸に「牧村」と言うネームプレートが輝いている。
「あの…たぶん私です」
ひろのが手を上げると、牧村さんは辺りを見回した。
「まぁ…そうだったんですか。大変でしたね。それで、あなたに絡んでいた人たちは?」
おっとりとした声で言う彼女に、ひろのは海のほうを指差した。遠くの海面にごみくずのように何かが浮いているのが望見された。牧村さんはひろのと海をしばらく交互に見ていたが、やがてにっこりと微笑んで言った。
「はい、問題ありません」
(本当に…?)
一瞬心の中でそうツッコミを入れたひろのだったが、どのみち彼女としてもあんな連中にかける情けは持ち合わせてはいないので、気にしないことにした。
「それでは気をつけてくださいね。何かあったら私たちにどんどん言ってください」
牧村さんは一礼し、一緒にやってきたスタッフたちを引き連れて去って行った。
「それにしても…ありがとう、琴音ちゃん。やっぱりテレパシーで?」
以前も札幌でヤクザに絡まれて乱暴されそうになった時に、超能力で琴音が助けに来てくれたことを思い出してひろのは尋ねた。
「はい。先輩更衣室の場所わからないだろうなって思ったので」
「そっか…とにかく、ありがとう」
ひろのは琴音の頭をなでて感謝の言葉を掛けた。琴音は実に心地よさそうに頭をなでるひろのの手の感触を楽しんでいた。
どうにか元の服に着替えて戻ってくると、スペースでは大志がひろのを待っていた。
「待っていたぞマイシスターひろの!」
「え?」
大志のとんでもない呼び方にひろのが戸惑うと、美奈子がそっと近寄ってきて耳打ちした。
「あのね、マイシスターとかマイブラザーとか言う呼び方があの人の親愛の表し方なのよ」
「はぁ…」
疲れる人だな、と思いつつひろのは大志と向かい合った。
「今日は素晴らしい活躍だった…我輩としては、ぜひとも君を同志に迎えたいのだが…どうかね?我輩たちとともに同人界を、さらには世界をもその手中に収めてみないか?」
「…」
ひろのは困った。後半部分のなんだかヤバそうな一節はさておき、同志になれということは今後もサークルの手伝いをして欲しいと言うことなのだろうか?
「そういう事になるな。君の持つその萌えのパワーを是非貸して欲しい」
ひろのの疑問に答えるように大志が言った。ひろのはしばし考えた。確かに、ここで創作に打ち込んでいる人たちには好意は持てるし、このお祭りみたいな雰囲気も嫌いではないが…
「…すいません。やっぱり遠慮しておきます」
ひろのは結局断ることにした。嫌ではないのだが、今日みたいにコスプレをさせられたり、写真をとられたりするのはやっぱりちょっと恥ずかし過ぎる。
「むぅ…そうか。残念だな。しかし、気が変わったらいつでも声をかけてくれ。その時を待っているぞマイシスター!!」
大志はそういって高笑いし、その笑い声をBGMとしてこみパの閉幕を告げるアナウンスと、拍手の渦が会場を包んでいった
それから数日後…
「ねぇねぇ、長瀬さん。これなんてどーかな?垣本君×矢島君の話なんだけど…」
「もう許してよ…岡田さん…」
美奈子に見せられたとんでもないマンガを手に、ひろのは目の幅涙をるるる〜っと流して許しを請うていた。それは、岡田が趣味で書いている18禁もののハードコアなボーイズラブ本。おまけに、モデルはひろのも良く知っている東鳩高校内の男子たちだった。
「やっぱりあの二人じゃだめ?じゃあこっちはどうかな。今はお休みしてるけど藤田君と佐藤君の…」
「いやあああぁぁぁぁぁ!!」
美奈子としてはアドバイスやサークルの手伝いに対するお礼のつもりだったのだが、ノートへの落書きや温泉での襲撃以上にダメージを受けるひろのだった。
(つづく)
次回予告
イベントたっぷりの街の夏祭りに出かけたひろの。夜店に花火と久々に夏らしい風情を楽しむ彼女に突然降りかかる大イベント!人目の苦手なひろのにとってある意味最大の試練とも言える企画が今始まる。
次回、第二十四話 思い出の夏休み編D「輝け!ミス浴衣コンテスト」
お楽しみに。
後書き代わりの座談会・その23
作者(以下作)「今回は比較的時事ネタと言えなくも無いテーマだな」
ひろの(以下ひ)「もうイベント自体はとっくに終わってるけどね」
作「まぁ、私はこの手のイベントにもう10年くらい行っていて、本を出したこともあったりするのだが」
ひ「あんまり売れなかったと」
作「…まぁな。今はこうやってネットで作品を発表できて、イベントで本を出すよりもはるかに苦労せずに済むのだが、それでも機会があればイベントで本を出してみたいと言う気はやっぱりあるな」
ひ「ところで、今回名前だけ出てきた『和希』さんと言う人はやっぱり…?」
作「あぁ、『りばハ』に出てくる千堂和希さんだ。おまえさんとはある意味同じ境遇の仲間だな」
ひ「ちょっと会って見たかったなぁ。なんで本人を出さなかったの?」
作「主人公同志バッティングするのは避けたかったんだ。まぁ、今後もこういうお遊びはあるかもしれないな」
ひ「あぁ、たとえばオリンピックを見てると麻咲先輩が走ってたりとか?」
作「オリンピックの年までこの作品が続いてたらだけど」
ひ「…」
作「…」
ひ「え〜…(汗)、話が止まっちゃったところでまた次回をお楽しみにっ」
作「無理やりまとめたな…」
収録場所:ビッグスクェア西館ガレリア
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